『滞欧日誌—ヴィチェンツァ ・フィレンツェ』

旅の続きである。ジェノバからミラノへと戻り、次の列車でヴェローナへと向かう。ここはフィレンツェへの直行列車が発つ場所であるが、ヴェローナのホテルに荷物を預けてすぐに、ヴィチェンツァへと私は向かった。

 

ヴィチェンツァは、ルネサンス後期の建築家パラディヨ(1508~1580)の建築物が多く遺り、「陸のヴェネツイァ」と称される“世界遺産”の街である。ここに来た目的は二つあった。一つは20年前に訪れて以来、何故か私のイメージの原点とも云うべき存在にこの街はなってしまったのである。とにかくヴィチェンツァの街の事を想い浮かべると、イメージが次々と生まれてくるのであるが、その理由が何なのか・・・自分でも解らない。その理由を突き止めに来た事が一つ。今一つは、キリコの形而上絵画の着想が、ここに遺るパラディヨ作の「オリンピコ劇場」という異形な建築物(誇張された遠近法を持っており、それはキリコの絵の舞台そのものを思わせる。)と深く関わっていると推測し、その裏付けを取りに来たのである。キリコ開眼の秘密に気付いているのは、私と画家のダリだけであるが、その詳細については、6月下旬に求龍堂から刊行される私の本に詳しく記しているので、それを御覧いただきたい。まるで完全犯罪の犯人(キリコ)を追いつめていくような内容になっている。乞うご期待!!

 

ヴィチェンツァの滞在は5時間ばかりであったが、この白く美しい街は20年前と変わらず私を優しく受け入れてくれた。そして再びの、そして、また新たなるイメージの充電になった。この先の街にはヴェネツィアがある。しかし私はヴェローナへと戻り、翌日フィレンツェへと旅立ったのであった。フィレンツェへ着いた時、この街には珍しい霧雨が降っていた。タクシーでホテルへと向かう。着いたホテルは16世紀後半に建てられたホテル。つまりミケランジェロの晩年時に建ったホテルで、街の中心に在るシニョーラ広場に面した路地を入った所に在る。夜、ホテルの窓からそのシニョーラ広場を眼下に見る。ボッティチェリの内面をも狂わした怪僧サボナローラが焼かれた場所が、その眼下に見える。その広場を透かし見れば、ダ・ヴィンチやミケランジェロの姿が今も現れそうなスリリングな気持ちにさせる光景である。

 

その広場を右に曲がればすぐにウフィツィ美術館が在り、その先にはアルノ河の流れがあり、ポンティ・ヴェッキオの橋が昔日のままに在る。私は自著の『「モナリザ」ミステリー』(後に文庫化されてタイトルは「絵画の迷宮」)の中で、「・・・窓外にアルノ河の夜が見える。先程見たヴェッキオ橋の美しい姿は、今は水面の黒と溶け合って、闇の沈黙の中にその姿を沈めている。対岸に明滅する人家の灯りが朧にゆれて、僅かに私の郷愁を突いてくる。・・・」と書いたが、「モナリザ」を迷宮の絵画の極に見立て、ひたすらにダ・ヴィンチの足跡を、まるで永遠に解けない完全犯罪の真相を追うように執筆に取り組んでいた、その当時が懐かしい。フィレンツェもまた好きな街であるが、滞在は僅かに二日間しかなかった。そして、旅の最終地であるローマへ旅立った。ローマは過去二回訪れているが、二回とも思わぬアクシデントに出会っており、私にとってローマは鬼門の場所であるが、それゆえに魅かれる所でもある。私はその二回のアクシデントから想を立て、銅版画集『ローマにおける僅か七ミリの受難』を制作し刊行した。その版画集は、刊行直後から人気があり、二ヶ月くらいで早々と完売となってしまった。完売の記録としては最も早いのではないだろうか。ヴィチェンツァ・ローマ・・・、そしてかつて訪れたパリやロンドンでの日々。そこで実際に起きた事件や体験を基に、それを虚構に立ち上げているのであるが、私を支持されるコレクターの方々は、自らの直感を基に、私が作品に暗示した〈謎〉のごときものの秘めた物語性を鮮やかに汲み取っているのかもしれないと思う。私という作者は謎の発信者であり、それを見て、更にはコレクションされる方々は謎の受信者である。そしてそこにはイメージにおける共犯関係というものが成り立ってくる。「コレクションするという行為もまた創造行為である」と強く語る私の根拠がここに在るのである。

 

 

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