『振り向けば‥京都』

織田信長と坂本龍馬は日本史が生んだ奇跡だと思っているが、その信長をイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』の視点から特集した『時空旅人』の新刊を読んでいたら、京都の本能寺で『大信長展』を開催中である事を知った。これは、…と思って本を閉じ再び目を開けたら、私はもう本能寺の門前に立っていた。信長、秀吉、家康の直筆の書や甲冑や刀剣‥等々、その他なかなか貴重な物が数多く展示されており、大いに私の気を引いた。 極めて現実主義者の信長がフロイスに初めて会った時に交わした内容が、四大元素(地水火風)についての西欧人の考えを聞いたというから、秀吉、家康とは思考力の格が顕に違っていて面白い。…さてと、せっかくの京都である。寺町の本能寺から次に向かったのは、七条にある方広寺であった。関ヶ原の戦の引き金になった「国家安康」(銘の中に家康への呪詛があるとして、豊臣家に難癖を突きつけた)の銘の刻まれた巨大な鐘と、秀吉が造らせた、奈良の大仏より巨大な大仏(翌年に地震で崩壊)の遺構跡と、無数に今も残る4メ-トル以上もある巨大な石垣、…そして、この大仏跡の南口門近くに在った家で、龍馬はおりょうと出会い、志士達と密かに連絡を取り合い潜んでいた場所であった云々…、このエリアは桃山〜幕末迄の時間の澱が濃密に残っている場所なのである。

 


次に、七条から三条大橋に向かう途中で、せっかくなので六波羅密寺に立ち寄り、この寺にある空也像(念仏僧の空也の口から、南無阿弥陀仏の6文字が人の形をして出ている、あまりにも有名な像)と平清盛像を、実に30年ぶりに見た。この六波羅一帯は周知のように、平家の舘があった栄華の場所。寺の住職に伺ってみると、六波羅を中心に平家の舘と寺が4キロ四方に渡って並び建っていたというから、時の権勢の凄さが具体的に見えてくる。…三条大橋では、この橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)に刻まれているという、池田屋事変の時の乱闘の際に付いた刀傷跡があるというのが以前から気になっていたので、それを見に行った。…そして、それは橋の左右の擬宝珠に、150年以上の時を経てなおも生々しく(つごう三筋)残っていた。…今回の画像の、黒く擦れた部分に斜めに二筋の刀傷跡があるのがおわかりであろうか!?(今一筋は、もう一枚の画像に映る、真向かいの欄干の擬宝珠に!)… 新撰組・長州や土佐の志士・会津・桑名藩らの誰かはわからないが、必死の乱闘の一瞬に、この擬宝珠に刀が当たった際に付いた事は間違いがない。乱闘の際に池田屋周囲は新撰組の独壇場であったが、その周囲を約三千人の幕府方の各藩が囲んで、志士達25名ほどを惨殺あるいは捕縛したという往時の光景が、この刀傷跡から透かし見えてくるというものである。この現場から真っ先に唯一人逃げおおせたのは、「逃げの小五郎」の異名を持つ桂小五郎だけであった。

 

四条大橋沿い、南座の真向かいにあるレトロなレストラン菊水(大正3年築)で食事をと思って、祇園北側を歩いていたら、何必館で写真家のサラム-ンの写真展が開催中という好機に遭遇したので入って観た。…サラム-ンの写真が持つ独自性ある視覚のマジックに人々は惑乱されているが、分析を常とする私は、既にそのマジックの文体と文法を分析済みである。しかし、それが何であるかは、この場では語らない事にしよう。とまれ久しぶりに60点近い数の作品を観て、私は大いに得るものがあった。………さて、今日私が見たのは、「権力」というものの凄さと、その幻のような栄華の虚しい移ろいであった。清盛・信長・秀吉・家康…etc。権力とは、完全なる圧政力と其れを可能足らしめる者のみに付帯する或る「形」の事であるが、それを思えば、「権力」とはこの時代に於いては、スケールの卑小さにおいてもはや死語であり、話しはかなり落ちるが、舛添、猪瀬らの如き小者に到っては、もはや権力の凄さとは程遠い、小さな小さなオナニズムの虚しい妄想を生きているに等しいものがある。…この小者達から再び、平安、安土、桃山、江戸…に視点を移すが、古人いわくの『権力は内から腐る』の名言のリアルな普遍には、またしても教わる事があまりにも多い。…「あの男はやがて七転びに堕ちて行くであろう」と、信長の横死と、秀吉の次なる台頭を予言した安国寺恵瓊の言葉がふと思い出される、京都リターンの旅であった。

 

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