あんばるわりあ

『VICENZA – 私を変えた街』

旅の記憶というのは不思議なもので、僅かに一泊しただけであるのに、時を経るにつれて源泉の感情を突いてくるように忘れられなくなってしまう〈街〉というものがある。例えば私にとってのそれは、イタリア北部に在るビチェンツァ(Vicenza)がそうである。

 

別名「陸のヴェネツィア」と呼ばれ、16世紀の綺想の建築家パラディオによる建造物が数多く残るこの街は世界遺産にも登録され、中世の面影を色濃く停めている。私がビチェンツァを訪れたのは20年前の夏であった。パラディオ作の郊外のヴィラや、バジリカ、そして画家のキリコに啓示を与えたオリンピコ劇場などを巡り歩いた午後の一刻、歩き疲れた私は宿に戻り束の間の仮眠をとっていた。すると窓外に俄に人々のざわめきが立ち始め、嗅覚に湿った臭いが入り込んで来た。- それは突然の驟雨であった。私はバルコンの高みに出てビチェンツァの街を見た。

 

西脇順三郎の詩集「Ambarvalia」の中に、「・・・静かに寺院と風呂場と劇場を濡らした、/この静かな柔い女神の行列が/私の舌を濡らした。」という描写があるが、私はこの古い硬質な乾いた石の街を銀糸のようにキラキラと光る雨の隊列が濡らしていくまさにその様を見て、〈官能〉が二元論的構造の中からありありと立ち上がるのを体感し、私の中に確かに〈何ものか〉がその時に入ったという感覚を覚えたのであった。・・・・・・夜半に見るビチェンツァの街は私以外に人影は無く、私はオペラの舞台のような不思議な書き割りの中を彷徨うようにして、この人工の極みのような街を、唯ひたすらに歩いた。・・・そして私の中で、今までの私とはあきらかに違う〈何ものか〉が生まれ出て来るのを私は直感した。それは銅版画のみに専念していた私から、オブジェその他と表現の幅を広めていく私へと脱皮していく、まさにその契機となるような刻であったのだと、私は今にして思うのである。

 

今月の11日(月)から23日(土)まで茅場町の森岡書店で、私の新作展が開催される。タイトルは、そのビチェンツァの街に想を得た『VICENZA – 薔薇の方位/幾何学の庭へ』である。今回の個展は、今後の私にとっての何か重要な節になるという予感が漠然とではあるが、私にはある。タイトルにビチェンツァが入ってはいるが、それは私の創造の中心にそれを置く事であり、イメージは多方へと放射している。パリ、ブリュッセル、そしてイギリスのポートメリヨン等々、様々なイメージが〈ビチェンツァ〉を核にする事で立ち上がっているのである。まさに現在進行形の私の今の作品を見て頂ければと願っている。

 

〈追記〉

写真の撮影や取材などでヴェネツィアへはその後も幾度か訪れているというのに、私はその僅か手前にあるビチェンツァの街を再び訪れてはいない。イメージの深部にいつからか棲みついてしまったこの不思議な街のくぐもりに光を入れるのを恐れるかのように、私はこの街に対してまるで禁忌にも似たような距離をとっている。今年は本が二冊刊行される予定であるが、いずれは私は〈詩集〉という形でもこのビチェンツァの街の不思議を立ち上げてみたいと思っている。ビチェンツァは、様々な角度から攻めるに足る,捕え難い妖かしの街なのである。

 

北川健次新作展『VICENZA – 薔薇の方位/幾何学の庭へ』

2013年3月11日(月)〜23日(土)

時間:13:00〜20:00(会期中無休)

場所:森岡書店 tel.03-3249-3456

東京都中央区日本橋茅場町2−17−13第二井上ビル305

*地下鉄東西線・日比谷線「茅場町」下車。3番出口より徒歩2分。

永代通りを霊岸橋方向へ向かい橋の手前を右へ。古い戦前のビル。

(会期中は作家が在廊しております。)

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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