グリム童話集

『洗濯女のいる池 ― ブルタ―ニュ最終篇』

…… ナントのパサ―ジュ『ポムレ―小路』からパリに戻ったのは初日の夕刻であった。パリ在住の通訳で、コ―ディネ―タ―のK女史が予約してくれていたホテルは、マドレ―ヌ寺院の真後ろである(画像掲載―寺院後部の白い建物)。ショパンの葬式のあった寺院。…最上階の私の部屋から眼下に見るその姿は、灰白色の堅い遺跡、更には巨大な鳥籠を想わせた。

 

翌日は、カメラマンと編集者は、撮影用の重いカメラや機材を携えて早朝から街中の撮影に行き、私は一人セ―ヌを渡って、かつて拠点として住んでいたサルジェルマン・デ・プレ地区を抜けてリュクサンブ―ル公園に行き、木陰にあるテ―ブルにノ―トとペンを置いて椅子に座り、これから一仕事をしなければならない。…… 明日の夕刻から始まるベルナ―ル・ゴ―ギャン氏へのインタビュ―の内容(主にパサ―ジュに関して、ボ―ドレ―ルベンヤミンの事、そして、ゴ―ギャン氏のパサ―ジュに寄せる想いや視点の在処は何なのか……)などを書いていくのである。15年前にお会いした微かな記憶では、実に機知に富んだ、しかし一筋縄ではいかない精神の襞を持った人物であったと記憶する。故に質問もまた練りに練った言葉を必要とする。それ故に、樹間を抜けてくる微風を受けながら、木陰で過ごすこの時間は、実に愉しいものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………… 約束の3日目の夕刻になり、いよいよゴ―ギャン氏との対面(正確には再会)の時が来た。パサ―ジュ『VERO―DODAT』の中に入ると「13」番のプレ―トがある古書店が見えた。店内に目をやると、15年前の鋭さは消えて、穏やかな顔立ちの中に少年の好奇とイノセントな深みを持ったゴ―ギャン氏が笑顔を浮かべながら現れた。K女史の流暢な通訳のお陰ですぐに私達は打ち解け、私は、持参した版画集『反対称/鏡/蝶番―夢の通路VERO―DODATを通り抜ける試み』をタトウから開いて全作品を氏に見せた。すると氏は忽ち強い興味を示し、機知と深みに富んだ見事な感想を直ぐに返して来た。「君の作品からは、ジャン・コクト―の軽みを装った鋭い毒や、写真家のアウグスト・ザンダ―の、時間が停止したような不思議なオブジェ性が伝わってくるよ」「君が二年前にこのパサ―ジュで作品の構想を立ち上げたという話は、既に私達の共通の友人のI氏から聞いているよ。実に面白い。正に、その視点こそが、このパサ―ジュのエスプリそのものだよ」「君の版画集のタイトルに鏡という言葉が入っているが、どうしてその言葉が閃いたのかすごく興味がある。なぜなら、このパサ―ジュの空間はまるで鏡の行列のようであり、ヴェネツィアの夜へと漕ぎ出してゆく詩想を運ぶ黒い舟(ゴンドラ)を想わせるのだから」「正に君も直感したように、このパサ―ジュの主役は、実はこの両側に並べられた巨大な鏡なんだよ。水銀の毒から放たれた妖しい人物達が鏡面から出入りして、この空間の中で謎めいた舞踏を演じているのだよ」…… 二年前の早い午前に、私がこの無人の薄暗いパサ―ジュで一人夢想したその先からまるで語ってくるかのように、ゴ―ギャン氏は次々と詩的なイメ―ジを繰り出してくる。ひと先ずの話が終わり、次に記念写真を撮る事になり、私とゴ―ギャン氏は並んでカメラの前に立った。私は、「写真を現像したら、きっと、見た事がない全く知らない少年が二人写っていますよ!」と言うと、ゴ―ギャン氏は私の発想が気にいり、私の肩を強く叩いて満面の笑みを浮かべた。氏はこのような諧謔がどうやら好きらしい。(…… とまれこの瞬間から以後私達は友人となり、その後、交流を深めていく事になる。)

 

……さて、いよいよ二年前に夢想した、「この空間に私の作品を展示してみたい」―その夢のような願望が不思議な時間の回路を巡って、また不思議な人と人との縁を経て、夢から現実へと結晶化することになる、その時がやって来た。…… そして、不思議な事がそこで起こった。…… 店内に並べてあるたくさんの古書を片付けて、空いたその棚のスペ―スを見ると、まるで始めからそれは用意されていたかのように、ピタリと作品全てが、見事に収まったのであった。これにはゴ―ギャン氏も驚き、そのまま、ゴ―ギャン氏は、それがこのパサ―ジュの日常であるかのようにポ―ズして、カメラにその光景は収まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンス・ベルメ―ル作品の世界的なコレクタ―として知られるゴ―ギャン氏はディレッタントにして慧眼の人である。私の作品が展示されるや、正面の写真ギャラリーの店主をはじめ、沢山の通行人が集まって来た。……ゴ―ギャン氏は特にランボ―の肖像を作品化した版画が気にいり、私にこの版画集とオブジェを全て購入したいと切り出して来た。……私は「この版画集は既に日本で完売して絶版の為にお売りする事は出来ないが、……しかし貴方にプレゼントする事なら出来ますよ、もちろん喜んで!オブジェも!」と言うと、ゴ―ギャン氏は店内に入り、返礼として、貴重なパサ―ジュの歩みを記した写真集をプレゼントしてくれた。(後日譚であるが、この時に氏が特に気に入ってくれたランボ―の作品は、5年後にフランスのシャルルヴィルのランボ―ミュ―ジアムで、そしてその二年後に、パリ市立歴史図書館で開催された展覧会に招待出品され、ピカソ、ジャコメッティ、エルンスト、クレ―達のランボ―を描いた作品と共に展示される事になり、夢の奇跡は暫く続く事になる。)

 

 

…… さて、いよいよ依頼された取材のインタビュ―が始まった。パサ―ジュの入口に近いレストランで、私、通訳のK女史、そしてゴ―ギャン氏による長い夜の始まりである。開口一番、私は「さてゴ―ギャンさん、私達は2日間、貴方にお会いするのを待ちましたが、その間に貴方はブルタ―ニュに突然行かれてしまった。私の直感ですが、どうもその事が気になって仕方がない。… ゴ―ギャンさんは好奇心の強い人とお見受けします。もし宜しければ、このインタビュ―のはじめに、ブルタ―ニュでの事をお話し頂けると嬉しいのですが……」と語った。するとゴ―ギャンさんは、わが意を得たかのように身を乗り出し、ひそひそ声になって、実に興味深い事を話し始めた。その話とはこうである。…… ブルタ―ニュに行ったのはゴ―ギャン氏と、もう一人の旧くからの友人であった。その友人から突然連絡が入ったのであるが、話に拠ると、二人の友人で、最近フランスの文学賞を受賞した気鋭の才能ある女流小説家がいて、「ブルタ―ニュにある伝説の池―通称〈洗濯女のいる池〉に取材に行くと言って出掛け、その後、忽然と消息を絶ってしまったので、二人して、そのブルタ―ニュの〈洗濯女のいる池〉に行って来たが、結局、その友人の小説家の足取りは、その池の前でプツリと途切れてしまった」のだと言う。

 

話は続く。その池は実在する妖しい池で、昔から何人もの旅人がその池の前で姿を消し、今ではブルタ―ニュの暗い名所になっているのだと言う。池の前に立ち、向かいの池の岸に二人の洗濯女が見えたら、もう逃げられないのだと言う。その洗濯女達はこう呟くのだと言う。「…… ほら見て、また旅人が来たわよ。でもあの人、可愛そうだわ。だってまもなく、私達が今洗っているこのシ―ツにくるまれるのよ。…… 」

 

 

……………………………… 洗濯女と言えば、私が想い浮かべる一枚の絵がある。明治の画家、浅井忠がフランスのグレ―の池を描いた『グレ―の洗濯場』(画像掲載)である。しかし、ゴ―ギャン氏が見て来たブルタ―ニュの池の姿は、浅井忠の絵と違いもっとひんやりとしていて、水もまた一年中冷たいに違いない。……好奇心の強い私は、そう言えば、グリム童話集の中に確か『池にすむ水の精』と題した、実に不気味な話があったのを思いだし、その話をゴ―ギャンさんに話した。「…… 狩人は、自分が例の危ない池の近くにいたことに気がつかず、鹿の臓腑をぬいてから、池へ、血だらけの手を洗いに行ったのです。ところが、水の中へ手を突っ込むが早いか、水の精が、すうっと、まっすぐに出てきて、あはははと笑いながら、ぐしょ濡れの両腕で狩人を抱きかかえ、水の中へ引き入れましたが、そのはやいこと、わかれた波は、あっというまに、狩人の頭の上で合わさってしまいました。………… 」話はこの後で更に不気味さを増していく。…… とまれ、ブルタ―ニュの池に消えた友人の行方を捜す為にゴ―ギャンさんは今一度、その洗濯女のいる池に行くのだと言う。…… かくして、話はブルタ―ニュ、パサ―ジュを絡めて延々と続いた。依頼された『翼の王国』の原稿は10枚書いたが、そのラストは次の文で終わっている。「豪奢な黒の余韻―時間迷宮。夕刻から始まった私たちの会話は果てしなく続き、遂に深夜にまで及んでしまった。夢の通路のように、ヴェロ・ドダの長い夜がそこにゆっくりと流れていた。」

 

 

 

 

 

翌朝、通訳のK女史がたくさんの資料を抱えて、私の部屋に入って来た。見ると、何とたくさんのブルタ―ニュ関連の資料であり、その中に『洗濯女のいる池』の写真も載っていた。インタビュ―が終わり、帰りのタクシ―の中で私がやたらと『洗濯女のいる池に行ってみたい!』と話していたので、K女史は短時間でその資料を集めてきてくれたのである。「この男、本気だな!!」…… たぶん、そう思ったに違いない。帰国して更に調べたら、『ブルタ―ニュ幻想民話集』という、ブルタ―ニュに伝わる「怪奇民話97話」がある事を知った。何故かブルタ―ニュ地方には幽霊の話や、死者の蘇り(黄泉がえり)といった話が集中的に多い。この地の寒くて荒涼とした土地が持つ特異な地霊の成せる業なのであろうか。……この点、柳田国男の『遠野物語』(岩手県遠野地方に集中的に伝わる不思議な話を集めた説話集)と通じるものがある。しかし、『遠野物語』に登場する現場は今は平穏だが、ブルタ―ニュ地方では今も不思議な話や、不気味な事件が継続的に続いている点が、やはり違う。……このコロナが収束したら、先ず行きたいのは、すなわちヴェネツィアと、このブルタ―ニュの『洗濯女のいる池』である。妖しい娘たちの笑い声が響く中、まっさらなシ―ツにくるまれながら水の底へと消えていくのも、また一興か。

 

 

 

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