サグラダファミリア

『どうしても見たい私―欧州編』

2日前に降った豪雨は凄かった。激しく雨が降る様をバケツをひっくり返したような……と言うが、これからはそんな生易しいものでは喩えが通用しなくなってくるであろう。いや兎に角凄まじかった。……それを報道するNHKはテレビの字幕で「10年に1度の、今までに体験した事のない豪雨……」と報じていた。…ん?……その言葉、変だろう!…壊れているのは気象だけではない。日本語もそうとう荒れている。気象変動、収束が見えないコロナ、……そこに来て、グリ―ンランドでは異常な熱波により氷が溶けて来て、毎日60~125億トンの氷が流れ出している。(その溶け方は、90年代の実に7倍の早さであるという)。……こうなってくると、現実から逃げるように、例えば、かつての面白かった旅の思い出がどうしても頭をよぎって来てしまう。

 

 

先日、テレビで世界遺産の番組をやっていて、スペイン、バルセロナのサグラダファミリア贖罪聖堂が映っていた。私が行った時には、まだガゥディが建てたファサ―ドがその霊性を放っていて荘厳にして重厚なアニマさえあったが、今はかなり上部が作られ(はしたが)、何か一番大事なものが消えていった感があって無念である。やはり設計図を紛失したという事が致命的なのであろう。……私はその画面から、30年前にこの地に滞在していた時の事を思い出し懐かしかった。

 

 

……その頃、私はバルセロナに来て、ガゥディにかなりのめり込んでいた。最初にサグラダファミリア聖堂に行った時、一番見たかったのは地下聖堂とガゥディの墓であった。しかし、その地下は非公開である為に、観る事が出来なかった。……3回目に聖堂に来た時、様子が変であった。見ると、観光客が遠巻きで華やかな結婚式の行列を眺めているのであった。……どうやらカタロニアの田舎の人らしい、痩せた新郎と凄まじく太った花嫁、それに両家の親族が長い列を作って、これから聖堂の中に入っていくらしい。みんな笑顔である。……私はこれこそ、またとない好機と閃き、観光客をかき分けて、その列の中に入って行き「Hola!」を連発しながら親族のふりをして列に並んだ。半年ばかりスペイン語を幼時レベルではあるが習っていたのが良かった。「結婚おめでとう!」は、たしか……確か「Felicidades!」だったかな?と思いながら、私への視線を感じた時は、嬉しくてたまらんという表情で、それを連発した。聖堂の中に入り、地下へと下りて行く時に私は高揚した。読みは当たった。はたして、結婚式はこれから一般には非公開の地下聖堂で荘厳に行われるのであった。

 

まるで宇宙の深い神秘の森のような幾つもの反った支柱で作られた地下聖堂の天井(バロックの荘厳、モデルニスモとは違うガゥディ独自の美の結晶、サグラダファミリア聖堂は先ずここからガゥディが作り始めたのであった!)そして私の真横には、大理石のガゥディの墓。……葬式と違って結婚式にやぼは無用である。こいつちょっと変だな?……うちらにアジア人の親戚がいたっけ?……そう連中が思っても、今日は目出度い結婚式!……ヒスパニックもラテンも細かい人はそういない。……式が終わって新郎新婦は、これから車で出発するのである。花吹雪が舞う中、束の間の親戚達と別れの握手をして、私は実に清々しい気分であった。…………以前にもブログで書いたが、ゲイで空手五段の福井さんという謎の人物に連れられて深夜にチ―ノ地区(中国人街で殺人の多い危険地区)にある売春窟(ピカソが通い、「アビニョンの娘たち」の構想を得た場所)に見学に行き、直後、警察の一斉摘発に巻き込まれて脱出するのは、その数日後の事であった。

 

 

……ガゥディと共にスペイン滞在中にのめり込んでいた相手は、怪物にして天才的な画家、フランシスコ・デ・ゴヤであった。プラド美術館に通い、『黒い絵』の名作に共振し

ながらマチエ―ルの妙にひたすら感心する日々が続いた。……そして、ある日、いよいよマドリ―ドの郊外にあるサン・アントニオ・デラ・フロリダ教会にあるゴヤの墓と、以前から観たかった天井画(聖アントニオの奇跡)をまるで聖地巡礼のような高揚した気分で訪れたのであった。しかし、郊外にあるその教会に近づくと、やはりゴヤの聖地を訪れた大勢のファンらしき人達が、なにやらガッカリしたような表情を浮かべながら戻ってくるのが見えた。……その中の一人に訊いてみると、どうやら工事中で今は誰も観れないとの事。……遙々来たのに嘘だろ!!!?……と思ったが、旅立ちの前にスペイン語の先生が言った或る話を思い出した。先生いわく「スペインは滅茶苦茶よ。撮影の依頼で金さえ払えば、プラド美術館の館長は、非公開の絵やデッサンに強烈な照明ライトを当てても見て見ないふり。つまり私腹を肥やしているわけよ」と、詩人のガルシア・ロルカに心酔するあまり、グラナダに一年の半分は住んでいるその先生は言った。

 

 

……………………〈よし、ならば行くか!!〉と意を決して教会の作業員に近づき、伝家の宝刀である、またしてもの明るい「Hola!!」を発し、ソイ.ウン.ピント―ル.デ.ハポン(日本から遙々来た画家だよ)と言って、男の肩を気安く叩きながら、手に握っていた当時のスペイン貨幣である数ペセタ(だいたい500円くらいであったか―微妙な金額!)を、越後屋よろしく握らせた。……はっきり言って、やり方はあざといが私は真剣であった。……しかし、これが通じたのであるからスペインは面白い。……作業員の男はにっこりと軽く頷き、「いいよ中に入っても」と言ってくれたのであった。私は礼を言って中に入り、長い間ずっと牽恋の地であったゴヤの墓を観る事が出来た。

 

しかし工事中の為か中はかなり暗い。……そう思っていると急に照明のライトが強く灯り、ゴヤの墓と、天井のゴヤが描いたフレスコ画の2ヶ所に鮮やかに当てられた。見ると、先ほどの男が天井近くの手摺から私に「どうだい!?」というゼスチャ―をするので、私も親指を高々と突きだして頷いた。……私は観たいのである。どうしても観たかったのである。だから簡単に私は引き返さないのである。

……最後の話イタリア版へと、話は続きます。

 

 

 

仏文学者の故澁澤龍彦氏はその名著『滞欧日記』の中で、フィレンツェにあるメディチ家の別荘、〈プラトニ―ノ荘〉の事についてふれ、休日であった為に中に入れず、観たかったアぺニンの巨人像(16mの高さで、ミケランジェロに大きな影響を与えた像)が遂に観れなかった事を実に無念そうに書いている。……ウフィツィ美術館の2倍の経費を要して建てたこの別荘はフィレンツェ郊外に12荘在るという中で、敷地面積の広大さでも群を抜いている)。かつて、最初にこの別荘を訪れた日本人は、……あの天正遣欧少年使節の四人の少年達である。

 

 

 

 

 

 

 

……私はフィレンツェ市内からバスで行き、40分ほどしてそこに着いた。門は開かれていて、中にはたくさんの観光客がいた。……別荘の中は往時の豪奢をそのままに遺して優雅であったが、やはり一番の目当てはアベニンの巨人像である。……しかし、池の上に立つその像は確かに巨大で人々を圧しているが、柵があってその近くにさえ近づく事が出来ないのは、いかにも残念である。私は来る前に、勝手にイメ―ジを紡ぎ、巨人が見下ろす真下から眺める事を夢想していた。……しかし、現実は管理が厳しく、遠くから遠望するしか叶わないのであった。大勢の観光客も無念そうに眺めているだけである。……しかも、別荘中を警備して回っているパトカ―が今まさに、私達観光客の前を通過している最中で、威圧的なぴりぴりした緊張感が漂っていた。

 

………………私はふと考えた。というよりも閃いた。「待てよ、今、目の前にパトカ―がいるという事は、しかもそのゆっくりした速度では、次にここに廻って来るにはそうとう経ってからに違いない。」……「よし、今が絶好のタイミングである!」……そう読んだ私は突然、群集の中から歩き出し、巨人像を目指して進んで行った。背後から大勢の観光客のオ~!!という感嘆の声が響いて来る。しかし、私の後に続くような人はいなかった。巨人像に近づくと、遠くの観光客の声は聞こえなくなり、見ると、彼らは私の行動を見守っているだけである。……私はミケランジェロもここを訪れたに違いないという確信のもと、下から、遥か上の高みから私を見下ろしている巨人像に見入り、ルネサンス前の表現の強度を浴びるように体感した。更に池に入って行く暗い洞窟を抜けて、かつてこの池で舟遊びに興じた貴婦人達の声を幻聴のように体感した。

 

 



 

 

 

…………やがて私は巨人像から離れて別荘内を散策した。……すると芝生の上で鮮やかな朱色で印刷されたA1の文字の紙を拾った。「何故ここにこれが!?」……私は作品の構想がその時卒然と閃き、帰国後に、この時の体験した事をオブジェで作ろうと思った。それが今、福井県立美術館が収蔵している作品『プラトニ―ノの計測される幼年』である。幼年とは、この別荘を訪れた四人の少年使節達をも意味し、また作品には、その時に拾ったA1の紙も貼ってある。……私は観たかったのである。強く見たいというこの気持ちは、時として作品への不思議な導きをもしてくれる事がある。……私の作り出すオブジェは、このようにして旅の経験や体感が原点となって立ち上がっている事が実に多い。


 

プラトニ―ノの計測される幼年

 

 

……10月19日から開催される予定の日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの大きな個展を前にして、毎日、アトリエにこもって制作の日々が続いている。3月から開始した作品制作は順調に進み、現在60点近くが完成した。……世界は今まさに混迷の中に在る。しかしアトリエに入ると一切の現実は遠退き、ひたすら虚構の中に美を咲かせる営みのみが在るだけである。

 

 

 

 

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『128年の時空を超えて』

私は今まで、このメッセージを通して私に起きた不思議な出来事を度々書いて来た事があった。……その不思議な出来事とは、私がこうあって欲しい、或いは、ふと頭の中に唐突に閃いた事が、すぐに、あるいは、暫くの時を経て目の前で現実化してしまうという、一種の予知現象の事である。1回なら、それは偶然で終わってしまうものが、私の場合、10代の後半から、それこそ何十回と起きているので、やはり、私の頭の中の回路の一部は、〈時間〉の捻れと何処かで直結しているように思われて仕方がないのである。

 

その例を少し挙げると、①80年代の終わりに〈都市論〉なるものが流行っていた頃、「東京人」という雑誌が目立って注目を浴びていた時があった。ある日の午前中に、私は何故かふと「東京人」に書いてみるのも面白いなぁ!と想ったのであるが、……その日の午後に、何と、「東京人」の編集部からとつぜん電話が入り、私はその求めに応じて〈岸田劉生の代表作『切通之写生』の現場の今昔の違い〉について書いた事があった。②個展で熊本に行った帰り、私はANAに乗って羽田への帰途についていた。羽田に着くや横浜美術館に直行して、新潮社から刊行したばかりの拙著『モナリザミステリ―』についての講演が待っていたのである。その羽田へと向かう機内の中で、私は機内誌『翼の王国』を読んでいた。イタリアの街について誰かが書いた記事を読んで、生意気にも「私ならもっと艶のある紀行文が上手く書けるのになぁ……」と想いながら地上に着き、2.3日が過ぎた頃、『翼の王国』編集部から電話が入り、代官山で会って面会したいという。……その初めての面会の時に知ったのであるが、私の新刊を読んだ編集者が私に興味を持ち、〈次の紀行文の取材は北川で〉という案が編集会議にかけられたのであるが、正にその時、私は空の高みの機上にいて機内誌を読んでいた、その時なのであった。……そして私は念じた通りとなって、写真家とスタッフの3人でパリへと飛んだのであった。

 

③……「ガウディの建てた、あの異形な建築物〈サグラダ・ファミリア教会〉は、何故バルセロナの〈あの場所〉に建てられたのであろうか!?」……どの研究書にも書かれていない、その詳しい背景について、私は電車(東横線)に乗りながら自らに設問し、かつその答をまさぐっていた。……しかし、建築の専門家でない私にわかろう筈がない。……電車は、まもなく終点の渋谷へと近づいていた。私はふと、網棚の上に新聞が打ち捨ててあるのに気がついた。普段は他人が読み捨てていった新聞になど興味がないのであるが、その時だけ何故かふとその新聞が気になり、背を伸ばして手に取り開いて見た。それは確か産経新聞であったかと思う。パラパラと読み流していく内に文化欄の紙面になり、その紙面を見た私は、我が目を疑った。……そこには正に私がいま自問しながら終にわからないでいた、〈サグラダファミリアが、何故バルセロナのその場所に建てられたのか〉という具体的かつ興味深い理由について、日本人建築家の人が詳しく書いた記事が載っていたのであった。…………「そんなに知りたいのなら、ではそっとお前だけに教えてやろうか!!」……悪戯好きな悪魔が、間違いなく私の傍にいる!!記事を読みながら、私はそう思ったのである。

 

④ 昨年の春5月のある日の夜半、私は民放の「報道ステーション」なる番組をぼんやりと見ていた。北朝鮮についての相変わらずの報道を見ていた時、私は全く唐突に、昔、訪れた事のある太宰治の生家「斜陽館」の事がふと脳裡に浮かび、そこでかつて見たビデオの美しい映像 ― 桜吹雪が舞うなか、ゆらゆらと揺れるように、太宰治の生家近くの金木駅の線路上を走る津軽鉄道の古色を帯びた電車の光景を見た時の記憶がよみがえって来た。私は何故か無性にその映像の事が恋しくなり、「あぁ、今一度あの電車を見てみたい」という突き上げる感情を覚えたのであった。…………すると数分後に司会者の(……それでは、ここで気分を変えて、この映像をご覧下さい)という声が流れるや、画面は一転して深夜の暗い駅舎が映り、そこに今し入ってくる最終電車の、ロ―カルで抒情溢れる映像が画面に中継で映し出された。……〈まさか!!〉と思い驚いて見ると、それは正にその少し前に、突然私の脳裡に立ち上がって激しく見たいと希求した、正にその津軽鉄道・金木駅と電車の光景なのであった。………………………………

 

私に度々起こるこの現象……いわゆる人体に潜む超常能力と超感覚の具体的な現れについては、コリン・ウィルソンの著書『サイキック』(荒俣宏監修)に詳しく記されているが、その現象がまた先日にも起きた。これから記すのは、先日書いたメッセージ『夢見るように眠りたい』の後日譚のようなものである。

 

先日、十日以上前に私は、隅田川・吾妻橋の河岸に建つアサヒビ―ル本社22階のカフェから、関東大震災で崩れ去った異形な高塔―浅草十二階(通称・凌雲閣)の建っていた場所を遠望しながら、その塔への強い拘り、一目見たかったという、その思っても詮無い想いをたぎらせていた。江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の一節は次のようにある。「……あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。……」。私はこの文に接する度に、遅く生まれてしまった事を悔やみ、もし、明治期に遡って生まれ変われるものであれば、今の生に全くの執着は無い、……それほどに強い想いのままに、カフェの高みから、その蜃気楼、その幻影の塔を透かし見ていたのであった。…………しかし、私が見ていた正にその時、かつて十二階が在ったとおぼしき場所では、信じがたい事が起きようとしていたのであった。

 

「工事中の作業現場から浅草十二階の遺構らしき礎石の一部と赤い煉瓦が発見される!!」という報道が、新聞やネットで流れた日、私は全くその報道を知らずに、前回のメッセージ『夢見るように眠りたい』の文で、正にリアルタイムで、浅草十二階への強い想いを書いている最中であった。そして、その情報を後に知ったのは、シス書店の佐々木聖さんからであった。さっそくネットで見てみると、出てきた浅草十二階の赤煉瓦は、ショベルカーで砕かれ、その破片を、報道を見て駆けつけた人達に配っているという。その群集の中にはアルフィ―の坂崎幸之助さんの姿も混じって映っていたのには驚いた。……そしてネットの最後に、出てきた十二階の赤煉瓦の配布は既に終了し、作業は続行して新しいビルが建つ事、また赤煉瓦の形の良いのだけが数個選ばれて文化遺産として保存される由が記されていた。……その記事を見て万事休す、あぁ、私は何故そこに駆けつけなかったのか!という悔いに包まれた。……しかし、赤煉瓦の配布を終了してから既に十日以上が経っている。私は目の前に現れた蜃気楼が一瞬、現実と交差してふたたび幻となって過去の時の中へ消え去っていくのを覚えた。……しかし、せめて、今回の工事でその建っていた場所が確認された、その場所を見てみたいという思いが立ち上がって来た。東京に出る用事は数日後であったが、それを待たずに明日、行ってみよう、そう思って、その日は寝た。翌朝は雨であった。浅草の雷門に着くと、雨は急に雪へと変わった。薄雪の降りが流れるように美しい。白く霞んで、ふと彼方の昔日の雪をそこに透かし見た。「こぞの雪今いづこ」……そう呟いた中原中也の詩の事がふと浮かぶ。…………白雪の中を、伝法院通り、六区、ひさご通りへと歩いて、ようやくその現場へと私は来た。……しかし、何故か地面を深く掘り下げた作業現場に作業員は全くおらず、ネットで見た、10日前にたくさん駆けつけた人達も当然おらず、現場は不思議な程に全くの無人であった。……私はかつて浅草十二階が建っていたまさにその現場に立ち、ふと何かに誘われるような「気」を覚えて、導かれるままに現場の目立たない一画に目をやった。……そこに私は、信じ難い物が在るのを見てとった。既に配り終えて在る筈の無い赤煉瓦(しかも完全な形のままに)が二つ、ひっそりと薄雪に埋もれるようにして在るのを見たのである。……乱歩の小説の中で「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………」と呟いた魔的な呟きが、ふと頭をよぎる。その魔的な何者かが、この浅草の一角を暫し「不思議な時空」へと変えて、あの電車の中で起きた時のように、私に見せてくれた妖かしのこの時、まさに一時のこの時に、128年の時空が捻れて交差した!!……私はそのように思ったのであった。……かくして今、過去の遠い見果てぬ夢、幻の蜃気楼は、具体的な〈時の欠片〉となって、私のアトリエの医療戸棚の中に、ひっそりと息づくようにして在るのである。浅草十二階―通称・凌雲閣。……その確かな現物が、実物を見てみたかったと永年夢見て来た私のアトリエに、かくして息づいて在るのである。

 

〈追記/ 持ち帰った浅草十二階の赤煉瓦(ほぼ完璧な形状のまま)を、現代のJIS規格で決められているレンガのサイズと比較してみると、現代のレンガは三辺が210×100×60であるのに対し、128年前のその赤煉瓦は三辺が175×100×55と、やや小ぶりであるが、今日のそれと比べると遥かに密度があり、ズシリと重い。設計者のウィリアム・K・バルトンの確かな想いがそこから見えてくる。……アトリエに在るその赤煉瓦は、128年間の時間の澱を孕んで深い古色を帯び、それは終わりの無い夢想を運ぶ、もはや完璧なオブジェとして、いま私の眼の前に在る。……とまれ、浅草・吾妻橋沿いのアサヒビ―ル社の22階のカフェから、十二階の在った場所を遠望しながら紡いでいた或る日の見果てぬ夢が、僅か10日の後に、不思議な経路を経て現れ出て、いまアトリエの医療戸棚の中にひっそりと在る事の不思議よ。……私は今日もまた夢見のような気持ちで、浅草十二階のその断片を眺めているのである。〉

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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