ブリヂストン美術館

『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男①』

正月に数年ぶりに引いた御神籤は大吉であった。……その勢いもあってか、オブジェの制作の速度が凄まじく早い。まるで何かに取り憑かれたように一心に集中して制作が進んでいる。暗い室内から数多の鳥が飛び立つように、イメ―ジが次々に浮かんで止まらないのである。しかし、その間にも時折の外出があり、気分転換と充電になっている。今回のブログの入り口は、先ずはそこから。

 

 

1月17日

長年改装中だったブリヂストン美術館が名称を変更して「ア―ティゾン美術館」になり新装オ―プンしたという招待状が届いたので、その内覧会に行く。私の好きな青木繁や佐伯祐三、松本俊介……そして、海外ではピカソやルオ―など多数の秀作をコレクションしているこの美術館は、未だ美大の学生だった時に懐かしい思い出がある。……第11回現代日本美術展に応募した私の版画三点(「午後」「Friday」「Man.Walking」)が全てブリヂストン美術館賞を受賞し、この館のコレクションに入ったのである。審査委員長の土方定一氏が即決で私の作品を美術館賞に決め、「では、うちの美術館に!」と、その場に審査員でいた当時のブリヂストン美術館館長だった嘉門安雄氏が名乗り出て収蔵に決まったという審査の経緯を、後に、この美術館の館長室で嘉門さん自身から伺った。(想えば、その場に美術評論家の河北倫明氏が同席していて静かに私達の話を聴いていたのをふと思い出す。この時の私の服装はと云えば、確かボロボロのアロハシャツにモジャモジャの長髪、そして高下駄であった。学生だったから致し方がないが、絶望的に貧乏だったのである。)……そして、その時の展覧会を観た美術評論家の中原祐介氏が私の作品を気に入り、氏が作家選定のコミッショナ―をしていた第10回東京国際版画ビエンナ―レ展(会場・東京国立近代美術館)の日本側の招待作家に選出され、海外からの審査員も交えた審査会で国際大賞の賞候補へとなっていく、その契機となったのが、この美術館なのである。ちなみに、館長の嘉門安雄氏とはその後に、文化庁の在外研修員として留学試験に応募した際に、その最終選考の席に審査委員長として再び顔を会わせる事になる。(その横に同じく審査員として、詩人の岡田隆彦氏が同席していたのを、ふと思い出す。)

 

 

新装なった館内の展示作品をざっと観て、美術館が用意した軽食を食べていると、突然「北川さん……でしょうか?」と声をかけて来た人がいた。NHKの番組制作会社のT氏であった。話をしていると、T氏が早稲田大学の学生時に坂崎乙郎氏のゼミにいて影響を受けた事を話し出したので、私も話に熱が入った。坂崎氏は私も縁あって学生時にお会いした事があり、私の初期の版画を高く評価して頂いた懐かしくも貴重な思い出がある。……「坂崎さん、あの人は実にいいですね!私は大学や講演で話す時は必ず坂崎さんの名前を出し、美術評論を読むなら、先ずは三島由紀夫、それから澁澤龍彦坂崎乙郎、更には種村季弘瀧口修造……などを必ず読むように!と言っています。坂崎さんの評論では特に『エゴン・シ―レ(二重の自画像)』が良いですね。あの著書は翻訳して海外でも読まれるべきかなり質の高い本ですよ!」と。………………しかし、今日の内覧会はさすがに株主招待者が多いらしく、美術の関係者(特に作家)が実に少ない。友人の美学の谷川渥氏や美術評論家の中村隆夫氏がいないかと見るが、どうやら今日はお休みのようである。帰りに、美術評論家の高階秀爾氏と蕪村の話を少しして館を出る。

 

 

 

 

1月18日

荻窪のカラス・アパラタスでの勅使川原三郎氏・佐東利穂子さんによるバッハへの『音楽の捧げもの』と題する公演を観る。常に新境地を開いて歩む、その果敢な実験の精神が、この天才をしてまた深く、かつ純度の高い表現世界を開示した。公演が終わるや、満席で埋まった会場内に感動の拍手が鳴り止まない。……この人に於いては、メソッドの芯の中さえも官能性に充ちた危ういバイブレ―ションが揺れ続いている。……帰り際に私は勅使川原氏に、ジャン・ジュネの名前を出し、併せて短い感想を少し話した。またいずれ、じっくりと話をする事にして帰途につく。……次回の公演は早くも2月3日から11日まで、新作の『オフィ―リア』が始まる。常に実験、そして完成度の高い表現世界の切り開きが、このカラス・アパラタスの地下の舞台で繰り広げられているのであるが、それは実に驚異的な事なのである。

 

 

1月20日

骨董市でふと見つけた『芸術新潮』(1994年の11月号)の「州之内徹・絵のある一生」の特集号が目にとまったので購入した。開いて見ると、州之内氏が愛し、私も好きな隅田川の写真が何枚か載っていた。……小林秀雄が「当代一の評論」と称賛した、型破りな美術評論家・州之内徹。また先述した土方定一氏や白州正子さんもその眼識を高く評価した州之内徹。その彼が記した、長年にわたって書いた名著『気まぐれ美術館』の最後に、彼が追っていたのが、この国の美術界最大のミステリ―と云われる、版画家・藤牧義夫の突然の失踪の謎と、その鍵を握るもう一人の版画家・小野忠重の事であったのを知った時、私の中に新たなる推理の熱い火が俄然灯ったのであった。そして、直ぐにその事件の事を詳細に記したノンフィクション小説『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(駒村吉重著・講談社刊行)を読み、私なりの推理と分析が始まった。そして、その本の中には低奏音のように逆巻いて流れる隅田川の濁流が在るのであった。本の中に登場する実際の人物(事件の鍵を握る小野までも含めて)の多くと私は実際に面識があるだけに、この本はいっそうのリアルな不気味さがあった。そして、私はかつて話しを交わした、ドイツ文学者にして鋭い慧眼の人、種村季弘氏との会話を思い出したのであった。

 

……1990年の7月のある日、私は半年間暮らしていたパリを出てイギリスへと向かった。夏というには余りにも暗いド―バ―海峡を渡り、揺れの激しい三等列車でロンドンに入った時は激しい雨であった。そして、テムズ河の陸橋を渡る時に、私は眼下を、豪雨で激しく逆巻く眼下を見た。テムズ河の濁流を見た時に、私は1888年の晩秋にジョン・ドルイットという名の青年が、このテムズ河で自殺を遂げ、その水死体が濁流の中で見つかった、という話を思い出していた。……ジョン・ドルイット、……澁澤龍彦がその著書の中で、彼こそが切り裂きジャックの真犯人であると断定した、その男なのであった。本を読んだ時に、澁澤氏はなぜ犯人を断定しえたのか、その根拠を知りたくなり、直ぐに私は鎌倉に住む澁澤龍彦夫人の龍子さんに電話をした。……龍子さんの答えは「自分が結婚する前の著書なので、澁澤のその根拠まではさすがにわからない」という話であった。……とまれ、眼下に見るテムズ河は、正にミステリ―の舞台に相応しく、その時の私の脳裏に隅田川と重なるものが、何故かふと浮かんだのであった。

 

「…………と、いうわけなのですよ。私には、そのテムズ河と隅田川が何故か重なって仕方がないのです。この点、如何でしょうか?」と目の前の人物に語った。……目の前にいる人物、種村季弘氏は、先ほどから腕を組み、じっと私の話を聞いている。そして、その眼をゆっくり開けると、次のように語った。「……確かに言われてみると、テムズ河と隅田川は妙に似ているなぁ。……つまりあれだな、犯人が片方の街で深夜に殺人を犯した後で河畔に立ち、飛び込んで何とか泳ぎ渡れる、川幅が似た妙に暗い不穏さが、確かにこの二つの川は孕んでいるなぁ。」……種村氏は、そう語り、私達の話題は永井荷風と隅田川の関係の方へと移っていったのであった。種村氏もまた浅草を愛し、深夜まで浅草の六区で酒を飲み、暗い隅田川に想いを重ねる人であったので、こういう話を聞いてもらう相手として、これ以上に手応えのある人は、もういない。……さて、次回は『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男』の②を連載で記す予定。話は不気味さの渦中へと展開。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , | コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
Web 展覧会
作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律