与謝蕪村

『2024年…いよいよの波瀾の幕開けか!?』

新年明けましておめでとうございます。今年も命ある限りはブログの連載執筆を続けていきますので、引き続きのご愛読を何卒よろしくお願いいたします。

 

………さて、さて正月と云えば先ず浮かぶのは年賀状の事か?……思い立って明治期の年賀状を調べたら、例えば樋口一葉などは僅かに5通ばかり。他の人もまぁそんなものであった。私なども上京したての頃は知人など一人もいないところから始まったのであるが、生来の明るい社交性が逆に災いとなったのか、年月と共に人とのご縁が雪だるまのように膨み、昨年までは年賀状を数百通も出したり、受け取ったりする始末。……現世で本当にご縁があれば、また何処かで必ずお会い出来る筈!と考えて、今年は濃い血縁者以外の人への年賀状はやめにして、代わりに書き初めの「辰」を書いて、ブログ上からの言寿のご挨拶とする事にした。……それがこれ。書家の井上有一ばりに気合いだけは入れたつもり。

 

 

 

1月1日。さすがにこの日だけは読書だけにしようと思ってアトリエに入ったが、やはり制作へのスイッチが入り、新たな作品作りへと向かってしまった。閃きが洪水のように押し寄せて来て、集中すると時間の感覚さえも無くなってしまっている。ふと気がつくと、14点の具体的な作品構想が出来上がっていた。

 

……4時を少しまわった頃であろうか、突然アトリエが揺れ始めた。……このアトリエの在る建物は地下室もあるので、地盤も含めて造りはかなり頑丈である。なのに揺れるという事は、何処かでかなり大きな地震が発生しているに違いない。……すぐにテレビをつけると、能登半島で震度7、日本海側全域に津浪注意報が出ており、各局いずれも「津浪注意!すぐに避難を!」の声を鋭く連呼している最中であった。……輪島には暗黒舞踏の創始者の土方巽の弟子であった友人がいるので、すぐに電話をしたが、何故か繋がらない。……今度は福井の知人に電話すると「かつて体験した事のない激しい揺れで、次の余震を怖れて、玄関を開けたままの状態でいる」との事。賢明である。

 

……3日経った現在、輪島市、珠洲市だけでも死者は57人に。国土地理院の報告によると、今回の地震で、輪島市が西に1.3m動き、最大4mの隆起による大きな地殻変動があった由。……人知の想像を超えたもの凄いエネルギ―の噴出である。……輪島の友人に再度、電話をしたが今も安否が不明。……大惨事を前にすると、人はかくも無力である事を痛感した。

 

……天災の極みの地震に続いて、翌日の2日、今度は人災の極みとも云える事故が羽田空港で発生した。JAL機が海上保安庁の航空機と衝突し大炎上したのである。乗客乗員379人全員は脱出。保安庁の乗組員5人が死亡。滑走路上でJALの機体は炎上爆発したので379人全員が無事であったのは奇跡といっていいだろう。

 

1日、2日…と立て続けに起きている、この異常な事変。何やらこの一年を、いやこれから先の世界と人心の崩れを暗示したような幕開けと視た人は、私だけではないだろう。…… 想えば、昔日の正月はのどかであった。

 

俳人の与謝蕪村は.正月の言寿を「日の光/今朝や鰯の/かしらより」と詠んだ。……私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)の中で、この蕪村の俳句を読み解き「……ふと思うのであるが、実際は雨や雪の時もあったはずなのに、どうして子供の頃の正月の記憶は、いつも決まったように快晴の日として思い出されるのであろうか。年が改まったことの華やいだ気分が印象として強く残り、澱んだ空までも蒼天の青へと変えてしまうのであろうか。……(中略)……新春のことほぐ心を詠んだこの俳句は、そのような記憶の変容までも想い立たせてしまう言葉の力といったものを持っている。………… と書いた。

 

しかしいつ頃からか、新春の朝に覚えた清浄な初日の光や浮き立つような気分は消え失せ、正月は唯の寒いだけの唯の一日となってしまった。……そして、何か先の方からじわじわと押し寄せて来る不気味な崩壊の予感の内に、私達はいつしか身構えるようになってしまった。…あたかも先方が見えない霧の中、関ヶ原の陣に立って、彼方の丘の方から押し寄せて来る家康率いる東軍に対する、元来が胃弱であった石田三成率いる西の陣地にでもいるような。……便利さに快楽や意味を覚えてしまう私達の迂闊な脳が産んでしまったAIも、小早川秀秋よろしく早々と寝返って絶妙な位置に立ち、総崩れ、人間の総家畜化のタイミングを狙って私達へその槍の鋭い穂先を研いで、あからさまな裏切りの時を計っているのであろうや。……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『「人形の家」奇潭』

その①……

春三月・早いもので、いよいよ桜が満開を迎える頃になった。昼の制作時の集中のせいなのか、夜は床に就くのがかなり早い。寝床ではいつも読書三昧であり、これが実に愉しい。最近読んだ本は坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)。……夏目漱石正岡子規に、著者の坪内氏が加わりながら、初期の漱石が作った俳句百句について各々が自由に意見を述べるという、夢の机上対談である。

 

周知のように、漱石(1867~1916)は森鴎外と共に日本近代文学の頂点に立つ文豪であるが、小説家としてのスタ―トは実は遅く、そのデビュ―作『吾輩は猫である』を書いたのは1905年、実に漱石38歳の時であった。……では、その前は何をしていたかと云うと、親友の正岡子規に作った俳句の添削を仰ぐ熱心な俳人であった。その詠んだ句数はおよそ2000句。しかし子規と比べてみると、漱石の俳句は詰めと捻りに今一つの冴えが無い。

 

子規は一生懸命に添削をして鍛えるが、子規の死後に俳誌「ホトトギス」を継承した高浜虚子などに言わせると、「俳句においては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いてなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった」と書いている。

 

 

〈余談であるが、この高浜虚子という名前。以前から実にいい名前であり、構えに隙が無い城郭のようなものとして私には映っていた。しかしこの度の坪内氏の本を読んで、高浜虚子の本名を知って驚いた。驚きのあまり寝床で読んでいる本が顔に当たりそうになった。その本名とは…………高浜清(きよし)。……禅の悟りの境地のような響きを帯びた虚子(きょし)でなく、身近にもよくいそうな、やさしい響きのきよしなのである。それを知って、文藝の山脈の高みから一気に下りて来て、前川清(ク―ルファイブ)、西川きよし……の列に近づいて来た時は何故か嬉しくなってしまった。(察するに少年時の呼び名はキー坊ででもあったのか?)……この人も頑張って来たんだなぁ、そんな感じである。ちなみに虚子と命名したのは正岡子規。〉

 
しかしこの高浜虚子の存在が、俳人から文豪夏目漱石へと変貌する切っ掛けを作ったのだから、その功績は大きい。……虚子は自らが主宰する俳誌「ホトトギス」に何か書くように漱石に薦めた。そして書いたのが国民的小説『吾輩は猫である』であった。……漱石は以後、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『明暗』へ……と一気に文豪への階段を駆け上がっていった事は周知の通り。……そこで私は考えてみた。漱石はなぜ完成度の高い小説を次々と、まるで堰を切ったように書きえたのか?と。…………そしてその才能の開花の伏線に、23歳の時に正岡子規との交友が始まり、以後、子規の死まで2000句にも及ぶ句作の訓練をした事が膨大なイメ―ジの充電に繋がったに違いないと私は思い至ったのである。

 
漱石の最高傑作は『草枕』であるが、それは俳人・与謝蕪村が俳諧で描いて見せた理想郷を小説化したものである。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を書くにあたり蕪村の俳句2000句を詰めて分析し、そのイメ―ジの多彩さ、絢爛さ、その人工美の引き出しの多さに目眩すら覚えた。……漱石がその初期から最も心酔し、影響を受けたのがこの蕪村であった。……俳句とは五七五の17文字の中にイメ―ジを凝縮し、爆発的に放射させる力業の分野である。……漱石は、小説家としての出発以前から既にして、〈夏目漱石〉が準備されていたのであり、その才能の開花に大きく寄与したのが、もう一人の天才正岡子規の存在であった事は言うまでもない。

 

 

 

その② ……

昔、銀座七丁目に『銀巴里』という名の日本初のシャンソン喫茶があった(今はそれが在った事を示す小さな石碑のみが建っている)。……私も美大の学生時に知人に誘われて何度か訪れた事があった。三島由紀夫川端康成等も度々訪れた伝説のシャンソン喫茶である。若き日の美輪明宏金子由香利戸川昌子岸洋子……達が専属歌手として歌っていた。……そのシャンソン喫茶にピアフグレコアズナブ―ル……等のシャンソンの訳詞を書いて現れては、なにがしかの翻訳代を受け取って生活している若者がいた。後年、私も2回ばかり銀座で間近で見かけた事があるが、その若者は、獲物を確実に仕留めるような切れ長の、獣のような鋭い眼をしていた。……後の作詞家、なかにし礼である。……以前から私はこの人が書く詩が放つ〈艶〉に興味があった。そして、その詩法なるものに興味があった。……例えば、この人の初期にあたる作詞に『人形の家』という、弘田三枝子が唄ったヒット曲がある。……

 

 

顔もみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない

愛が消えたいまも/ほこりにまみれた人形みたい

愛されて捨てられて/忘れられた部屋のかたすみ

私はあなたに命をあずけた

 

 

……詩は一見、哀しくも耐える女のそれと映るが、異例の大ヒットのこの曲に、何か直感的に引っ掛かるものがあった。もっとこの詩には底に秘めた何かがあるに違いない、そうずっと思っていた或る日、なかにし礼本人がその底にあるもう一つの意味を、たまたま観ていたテレビで語った時には驚いた。……この詩に登場するのは、天皇と、召集令状が来て南方へと行き戦死した日本兵士だと、氏は告白したのであった。中国の牡丹江から命からがらに逃げて来た僅か10才の少年、なかにし礼の視た人間が獣と化す地獄絵図。………はたして直感は当たっていた。……なかにし礼における作詞のメソッドには、強かな二元論が入っていたのである。

 

それを知ってから、更にその詩法が知りたくなった。指紋のように付いてくるその艶の正体が知りたくなった。……私が出版編集者であったら、その詩法を書いて本にすれば面白い本になる筈、そう思っていた。……先日、制作の合間を縫って横浜の図書館に川本三郎氏の著書『白秋望景』(新書館刊行)を借りに行った。係の人から文芸・詩・俳句のコ―ナにある筈です、と言われ探したがなかなか見つからない。……すると2冊、目に入る本があった。一冊は先述した拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』。この図書館の美術書のコ―ナ―には拙著『モナリザミステリ―』(新潮社刊行)があるが、この本が文芸の俳句の欄に在る事は作者の執筆意図が反映されていて嬉しいものがある。

 

……そして、その本の近くに、願っていた本が川本三郎氏のすぐ横の詩の欄に『作詩の技法』(河出書房新社刊行)―なかにし礼というタイトルで見つかった。氏が亡くなる直前、2020年に刊行した遺作本である。作詞でなく、作詩と書いてあるのが氏の矜持と視た。

早速借りて来て読むと、一作が出来る迄の膨大な迷い、閃き、更なる言葉の変換が書いてあり、美術家としてでなく、私も詩を書く表現者として実に興味があった。……そして、なかにし礼氏の艶なるものが次第に見えて来た。……それはプロの作詞家になる以前の膨大な、およそ2000曲は翻訳して書いたというシャンソンの翻訳作業時代に培われて来た感性の構築が大きく関わっていると私は視た。……シャンソンの詞が孕んでいる愛憎、哀愁、そして洗練された優雅なるエスプリ。氏はそこから多彩な艶を吸収し、掌中に収めていったと私は視たのであった。

 

 

…………最初に書いた夏目漱石の俳句の修行時代に作った俳句、およそ2000句。そしてなかにし礼氏が食べて生きていく為に書いたシャンソンの訳詞数、およそ2000曲。……不思議な数字の符合である。

 

 

……以前に、ダンスの勅使川原三郎氏と公演の後だったか忘れたが、楽屋で雑談をしていた時、氏はこう語った事がある。「我々は10代から20代の半ば頃迄に何を吸収し、自分の糧としたかで、その後の人生は決まって来る。ひたすら吸収した後は、その放射だけである」と。全く同感である事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

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『十月・神無し月の五つの夜話―澁澤龍彦から勅使川原三郎まで』

①……今や四面楚歌に窮したプ―チンが新たに発令した100万人規模の兵士追加動員令。しかし死んでたまるかと、この愚かな兵役命令を嫌って国外に脱出するロシア人達の車列の長さ。……ロシア各地方の役場が慌てて発行したずさんな召集令状には、年寄りや病人も入っていたというが、あろうことか既に亡くなって久しい死者にまで発行されたという杜撰さ。……それを知った私は想像した。旧式の銃を担いで村役場前に集合した、蒼白くうっすら透けてさえ視えるその死者達の不気味な群れを。そして私は昔読んだ或る実話を思い出した。

 

……それは、今から118年前の日露戦争時の話である。日露併せて22万人以上の死者が出たこの戦争が終った後に、日本軍の戦史記録者が記した記録書にはロシア兵の捕虜が語った興味深い言葉が残っている。

 

「日本軍が突撃して来る時の凄さは本当に怖かった。屍を踏みつけて来るその様は怒濤のようであった。中でも一番怖かったのは白い軍服を着た一団であった。撃っても撃っても倒れないので、遂に我々は恐怖で狂ったようにその前線から逃げ出した。……」という記述。これは一人の証言でなく、何人もの捕虜達が語っている記録である。……もうおわかりであろう。日露戦争時の日本の軍服は茶褐色(カ―キ色)で統一されており、白い軍服を着た一団などは存在しない。……そう、彼らは戦死した死者達が一団となって突っ込んでくる幻影を視たのである。しかし、一人でなく沢山の捕虜達が同時にその白い軍服の兵士達を視たという事は、……幻でありながら、実在もしていた……という事である。

 

 

②先日、10月2日から鎌倉文学館で開催される『澁澤龍彦展』のご案内状が奥様の龍子さんから届いたので、初日の2日に観に行った。しかし先ずは久しぶりに澁澤龍彦さんの墓参をと思い、菩提寺の浄智寺が在る北鎌倉駅で下車した。

 

……駅前の広場に出た瞬間に、30年以上前の或る日の光景が甦って来た。それは澁澤さんの三周忌の法要の日で、その広場には沢山の人が集まっていた。俗な組織や団体とは無縁の、つまりは群れない個性的な一匹狼の面々ばかりなので愉しくなって来る。私はその時、確か最年少であったかと思う。……顔ぶれを思い出すままに書くと、種村季弘出口裕弘巌谷國士高槁睦郎吉岡実四谷シモン金子国義池田満寿夫野中ユリ……それに舞踏、写真、文芸編集の各関係者etc.……その中に中西夏之さんの姿が見えたので「中西さん、一緒に行きましょうか」と声をかけ、浄智寺を目指して歩き出した。折しも小雨だったので、この先達の美術家との相合傘であった。

 

中西さんに声をかけたのには訳があった。……最近刊行された中西さんの銅版画集の作品について思うところがあったので、いい機会なので訊いてみようと思ったのである。その時に語った言葉は今も覚えている。「この前、銅版画の作品集を拝見して思ったのですが、銅版画家が発想しがちな積算的な制作法でなく、真逆の引き算的な描法で現した事は試みとして画期的だったと思いましたが、版を腐蝕する時にどうして強い硝酸でなく、正確だが表情が大人しい塩化第二鉄液を選んで制作してしまったのですか?……中西さん、もしあれを薄めた硝酸液で時間をかけて腐蝕していたら、あのような乾いた無表情なマチエ―ルでなく、計算以上の余情と存在感が強く出て、間違いなく版画史に残る名品になっていましたよ。」と。

 

…………中西さんは暫く考えた後で「あなたの言わんとする事はよくわかります。実は作り終えた後に直ぐにその事に気がついていました」と語った。……やはり気づいていたのか、……私は自分の表現の為にも、その是非を確かめたかったのである。……私達が話している内容は中西夏之研究家や評論家には全くわからない話であろう。……私達は今、結果としての表象についてではなく、そのプロセスの技術批評、つまりは表現の舞台裏、云わば現場の楽屋内の表現に関わる事を確認していたのである。……その後、私達は作る際に立ち上がって来る、計算外の美の恩寵のような物が確かに存在する事などについて話し合いながら鬱蒼とした木々に囲まれた寺の中へと入って行った。

 

しかし奥に入っても、誰もいないので、不思議な気分になった。神隠しのように皆は消えたのか?蝉時雨だけが鳴いている。…………そう思っていると、中西さんがゆっくりした静かな声で「……どうやら私達は寺を間違えてしまったようですね」と言った。話に没頭するあまり、澁澤さんの法要が行われる浄智寺でなく、その手前にある女駆け込み寺で知られる東慶寺の中にずんずん入って行ってしまったのである。浄智寺に入って行くと既に法要が始まっていて、座の中から私達を見つけた野中ユリさんが甲高い声で「あなた達、何処に行ってたの!?」が読経に交じって響いた。…………想えば、あの日から三十年以上の時が経ち、中西さんをはじめ、この日に集っていた多くの人も鬼籍に入ってしまい、既に久しい。

 

……澁澤さんの墓参を終えた後に、三島由紀夫さん達が作っていた『鉢の木会』の集まりの場所であった懐石料理の『鉢の木』で軽い昼食を済ませて、由比ヶ浜の鎌倉文学館に行った。

三島の『春の雪』にも登場する、旧前田侯爵家別邸である。

 

澁澤龍彦展は絶筆『高丘親王航海記』の原稿の展示が主で、作者の脳内の文章の軌跡が伺えて面白かった。先日観た芥川龍之介の文章がふと重なった。

 

……この日の鎌倉は、海からの反射を受けて実に暑かった。永く記憶に残っていきそうな1日であった。

 

 

 

 

③……話は少し遡って、先月の半ば頃に、線状降水帯が関東に停滞した為に夕方から土砂降りの時があった。……このままでは先が読めないし危険だと思い、アトリエを出て家路を急いでいた。雨は更に傘が役にたたない程の物凄い土砂降りになって来た。……帰途の途中にある細い路地裏を急いでいると、先の道が雨で霞んだその手前に、何やら奇妙な物が激しく動いているのが見えた。……まるで跳ねるゴムの管のように見えた1m以上のそれは、激しい雨脚に叩かれて激昂して跳ねている一匹の蛇であった。雨を避ける為に移動するその途中で蛇もまた私に出逢ったのである。

 

……細い道なので、蛇が道を挟んでいて通れない。尻尾の後ろ側を通過しようとすれば、蛇の鎌首がV字形になって跳ぶように襲って来る事は知っている。私の存在に気づいた蛇が、次は私の方に向きを変えて寄って来はじめた。……私は開いた傘の先で蛇の鎌首を攻めながら、まるで蛇と私とのデュオを踊っているようである。……やがて、蛇は前方に向きを変えて動きだし、一軒の無人の廃屋の中へと滑るようにして入っていった。暗い廃屋の中にチョロチョロと消えて行く蛇の尻尾が最後に見え、やがて蛇の姿が消え、無人の廃屋の隙間から不気味な暗い闇が洞のように見えた。

 

 

 

 

 

④…3の続き。

蛇に遭遇した日から数日が経ったある日、自宅の門扉を開けてアトリエ(画像掲載)に行こうとすると、隣家からIさんが丁度出て来て、これから散歩に行くと言うので、並んで途中まで歩く事にした。

 

 

 

 

 

Iさんは私と違い、近所の事について実に詳しい。……そう思って「Iさん、先日の土砂降りの日に蛇に出会いましたよ。暫く雨の中でのたうち回っていましたが、やがて、ほら、あの廃屋の中に消えて行きましたよ」と私。すると事情通のIさんから意外な返事が返って来た。「いや、あすこは廃屋じゃなくて人が住んでいますよ」。私は「でも暗くなった夕方も電気は点いていないですよ」と言うと、「電気が止められた家の中に女性が一人で住んでいて、時々、狂ったような大声で絶叫したり、また別な日にそばを歩くと、ブツブツと何かに怒ったような呪文のような独り言をずっと喋っていて、年齢はわかりませんが、まぁ狂ってますね。」と話してくれた。

 

私は、あの土砂降りの雨の中、その廃屋の中に入っていった一匹の蛇と、昼なお真っ暗な中に住んでいる一人の狂女の姿を想像した。……あの蛇が、その女の化身であったら、アニメ『千と千尋の神隠し』のようにファンタジックであるが、事は現実であり、その関係はいっそうの不気味を孕んでなお暗い。芥川龍之介の母親の顔を写真で見た事があるが、母親は既に狂っていて、その眼は刺すように鋭くヒステリックであった。……与謝蕪村に『岩倉の/狂女恋せよ/ほととぎす』という俳句がある。蕪村の母親は芥川龍之介の母親と同じく、蕪村が幼い時に既に狂っていて、最後は入水自殺であった。

 

……ともあれ、その廃屋の中に一匹の蛇と一人の狂女が住んでいるのは確かのようである。……昔、子供の頃に、アセチレンガスが扇情的に匂う縁日で『蛇を食べる女』の芸を観た記憶がある。芸といっても手品のように隠しネタがあるのでなく、女は実際に細い蛇を食べるのである。だからその天幕の中には生臭い蛇の匂いが充ちていた。……周知のように、蛇の交尾は長く、お互いが絡み合って24時間以上、ほとんど動かないままであるという。……ならば、もしあの蛇が雄ならば、狂女もずっと動かないままなのか?……。文芸的な方向に想像は傾きながらも、その後日譚は綴られないままに、私は今日も、その暗い家の前を通っているのである。

 

 

 

⑤先日放送された『日曜美術館』の勅使川原三郎さんの特集は、この稀人の多面的に突出した才能を映してなかなかに面白かった。番組は今年のヴェネツィアビエンナ―レ2022の金獅子賞受賞の記念公演『ペトル―シュカ』(会場はヴェネツィア・マリブラン劇場)の様子や、勅使川原さんの振り付けや照明の深度を探る、普段は視れない映像、また彼がダンス活動と共に近年その重要度を増している線描の表現世界などを構成よくまとめた作りになっていて観ていて尽きない興味があった。

 

……その線描の作品は、荻窪のダンスカンパニ―『アパラタス』で開催される毎回の公演の度に新作が展示されているのであるが、1階の奥のコ―ナ―に秘かに展示されている為に意外と気付く観客が少ないが、私は早々とその妙に気付き、毎回の展示を、或る戦慄を覚えながら拝見している一人である。……踊るように〈滑りやすい〉トレペ紙上に鉛筆やコンテで描かれたそれは、一見「蜘蛛の糸のデッサン」と瀧口修造が評したハンス・ベルメ―ルを連想させるが、内実は全く違っている。ベルメ―ルが最後に到達したのは、幾何学的な直線が綴る倒錯したエロティシズムの犯意的な世界であったが、勅使川原さんのそれは、ダンス表現の追求で体内に培養された彼独自の臓物が生んだような曲線性が、描かれる時は線状の吐露となって溢れ出し、御し難いまでの強度な狂いを帯びて、一応は「素描」という形での収まりを見せているが、この表現への衝動は、何か不穏な物の更なる噴出を辛うじて抑えている感があり、私には限りなく危ういものとして映っているのである。(もっとも美や芸術やポエジ―が立ち上がるのも、そのような危うさを帯びた危険水域からなのであるが)。……想うに、今や世界最高水準域に達した観のある彼のダンス表現、……そして突き上げる線描の表現世界を持ってしてもなお収まらない極めて強度な「何か原初のアニマ的な物」が彼の内には棲んでいるようにも思われて私には仕方がないのである。

 

……三島由紀夫は「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と評したが、あえて例えれば、彼の内面には、ニジンスキ―とジャンジュネのそれを併せたものと、私が彼のダンス表現を評して「アルカイック」と読んでいる中空的な聖性が拮抗しあったまま、宙吊りの相を呈しているように私には映る時がある。……以前に松永伍一さん(詩人・評論家)とミケランジェロについて話していた時に、松永さんは「完璧ということは、それ自体異端の臭いを放つ」と語った事があるが、けだし名言であると私は思ったものである。そして私は、松永さんのその言葉がそのまま彼には当てはまると思うのである。……異端は、稀人、貴種流謫のイメ―ジにも連なり、その先に浮かぶのは、プラトン主義を異端的に継承したミケランジェロではなく、むしろ世阿弥の存在に近いものをそこに視るのである。

 

……さて、その勅使川原さんであるが、東京・両国のシアタ―Xで、今月の7日.8日.9日の3日間、『ドロ―イングダンス「失われた線を求めて」』の公演を開催する。私は9日に拝見する事になっていて今からそれを愉しみにしているのである。また荻窪の彼の拠点であるダンスカンパニ―『アパラタス』では、勅使川原さんとのデュオや独演で、繊細さと鋭い刃の切っ先のような見事な表現を見せる佐東利穂子さんによる新作公演『告白の森』が、今月の21日から30日まで開催される予定である。そして11月から12月は1ヶ月以上、イタリア6都市を上演する欧州公演が始まる由。……私は最近はヴェネツィアやパリなどになかなか撮影に行く機会が無いが、一度もし機会が合えば、彼の地での公演を、正に水を得た観のある彼の地での公演を、ぜひ観たいと思っているのである。

 

 

 

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『オ―ラは存在しない!…の巻』

……俳聖の松尾芭蕉と、俳人にして優れた画家でもあった与謝蕪村。この両者の違いをわかりやすく喩えると、蕪村は宝くじ(当時は富くじ)を買うが、芭蕉はおよそ買いそうにない、……そんなイメ―ジの別け方もざっくりだが出来るかと思う。

蕪村の弟子の記録によると、実際、蕪村は富くじを度々買っていたようである。別に蕪村のひそみに倣うわけではないが、私も時々宝くじを買っている。昔のブログに書いたが、ある時は10万円が当たって喜んだが、その後は晩秋に吹く木枯しの如し。まぁ遊び半分であったが、ある時、どうにも切羽詰まって買わざるをえない時があった。……美術作品の制作を止めて、10ケ月近くをモナリザに関する原稿執筆に専念した為に、収入がゼロ。背水の陣で書いていた時に、「JR浅草橋駅」高架下の宝くじ売り場(実際の画像掲載)、あすこの老人夫婦が販売している売り場が何故かよく当たる!と友人に勧められ、半信半疑ながら何かを託すような気持ちでわざわざ買いに行った事があった。

 

 

その宝くじ売り場の前に立って、私は自分の目を疑った。中にいる福々しい笑顔をした老人夫婦から、いわゆるオ―ラのような放射する光が出ており、あたかも恵比寿天と弁財天の化身のようにも見え、私は「どうしてもっと早くこの売り場に来なかったのか」と悔いたのであった。そして宝くじを買った。

 

……この段で、読者諸兄が予想された通り、宝くじはしばらくして只の紙屑と消えた。……数ヵ月が経ったある日、たまたま浅草橋に用事があり、件の宝くじ売り場の前を通った。すると、見覚えのある、あの時の老夫婦が夕暮れの中を帰っていくところに出くわしたのであった。……見て驚いた。かつて覚えた七福神の如き華やいだ面影はまるでなく、喩えると、サ―カスの老いた道化師、いや、酒場を渡りいく売れない流しの老夫婦のような哀愁を帯びてさえ見えたのであった。

 

 

……その瞬間、私は気がついた。……あの時に見たオ―ラは、彼等が現象として放っていたのではなく、私の願望や欲、強い想いが彼等をして、眩しいばかりの光となって見えたにすぎないのだと。もし彼等がオ―ラなる艶々しい光を現象的に、蛍火のように放っていたならば、あの浅草橋の高架下にいた人々全員にそう見えた筈である。しかし、あの時に覚えた七福神の如きオ―ラは、私以外誰にも見えなかったに違いない、完全なる私の主観の一人称的な映り、私の期待が放って反って来た、脳内にしか映らない光(要するに高揚感)だったのだと。………………

 

 

およそ1年を要して書いたモナリザに関する原稿は、以前に文芸誌の『新潮』に掲載された2編と共に1冊の本になり、新潮社から刊行された。美術書としては異例の増刷となり、私は墜落を免れて再び離陸する想いで美術の制作に戻っていった。……このような事は、そう云えば以前にもあった事を私は今、このブログを書いていて思い出した。……あれはまだ私が美大の学生の頃であった。東京・自由が丘の中華飯店で食事をしている時、背後から聴いた事のあるかん高い声が聞こえて来た。「ひょっとして……長嶋か!?」そう思って振り向くと、果たして長嶋、王、張本……といった巨人軍の主力メンバ―が会食の最中であった。……かつて野球少年であった私の募った想いが蘇りのように映されて、長嶋、王の二人がありありと光って見えたのを今、思い出した。

 

 

……かくして私は思う。私達が見ている三次元のこの空間に映る万象も、誰にとっても絶対的に同じ映りではなく、私達の主観、資質、その時の心情……といった内面の相違によって、実は様々に違って見えているのだと。それがある人には高揚して映り、関心のない人には褪せた凡庸な物として映る。……観劇もしかり、映画鑑賞、絵画鑑賞もまたしかり。ゴッホの絵を例に引けば、ゴッホの作品と人生に関心のある人には『向日葵』に様々な深い見立てさえ映り、ゴッホに関心のない人には、強すぎる主張の強い絵として辟易として映り、また絵画を投資の対象、マネ―ゲ―ムにしか見えない連中には、変動する株価のように金の代替物にしか見えないのと同じ理窟である。

 

 

……私達が共有感覚として持っていると思っている世界とは、つまりは各々が紡いだ異なる映しであり、結論を急げば、私達は遂には、内なる感性から一歩も皮膚の外に出る事は出来ないのである。……万象は幻の如しと書いて、次回は、浅草凌雲閣へと舞台が移ります。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』

6月に入ると梅雨があるのでアトリエに籠りがちになるせいか、制作の速度が一気に加速するようだ。『サディの薔薇』、『NANCYの小さな矢印のある二つの門』……といったふうにタイトルが次々に浮かび、イメ―ジが日々新たに浮かんでくるのに、その実作の物理的な速度がそれに追いつかない…といった感じで、ともかく新しいオブジェが次々に誕生している。……しかしそんな中、では出歩かないかというと、けっこう出掛けてもいる。最近は毎週、多摩美大に行って喋っている。

 

喋りといえば、美術大学や美術館でけっこう連続的に喋っていた時期があった。……思い出すままに書くと、多摩美大・武蔵野美大・女子美大・名古屋芸大・立命館大学・京都精華大・國學院大・玉川大・北海道教育大・福島大……、美術館では横浜市美術館・福井県立美術館・宮城県立美術館・福山美術館・高崎市美術館……etc。また与謝蕪村の研究セミナ―から喚ばれて宇都宮で研究者達を相手に講演をした事もあった。……作品から作者もまた寡黙に思われがちらしいが、本人は真逆で、常々考えている事を確認する意味もあってか、よく喋る方だと思う。

 

今、喋っているのは多摩美大の演劇舞踊デザイン学科。……数年前に話が来た時は遠くの八王子校舎だと思い断っていたが、よく訊いてみると世田谷の上野毛校舎だという。上野毛ならアトリエから近いので引き受けた次第。……特別講義の題が必要だというので『二次元における身体論』という題にした。二次元における身体論、……いささか捻っているみたいだが、要は文芸に力点を置いた、イメ―ジの装置としての「言葉」の効用の事である。……学生相手に喋る面白さもあるが、「当世書生気質」ならぬ「当世若年者気質」、つまりネット社会の落とし子達の実態が肌でわかるので、近未来の姿がうっすらと、いや、ありありと見えて来て、その縮図がリアルに視えてくる。……喋る前日に講義の事前準備は一切しない。また参考書や資料なども持っていかず、いつも手ぶらの軽装で行く。講義時間は約三時間半。

 

私の話は学生に「未だ足らざる」を実感で伝える事。だから、例えば先日やった内容は、短歌の春日井建、寺山修司、石川啄木、そして源実朝の和歌から実作を選び出し、その文中の一番要の言葉を○○○にして隠し、学生達に作者になったつもりで言葉を捻り出させるという内容である。かくして、その日の講義のタイトルは題して『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』。美大の助手の方から、その時の問題用紙をサイトに送って頂いたので、参考までに以下に掲載しよう。

 

 

 

令和4年5月19日 北川健次先生 特別講義

『第一回『なぜツルゲーネフでなければならないのか』

 

●春日井建 歌集『未青年』より

・大空の斬首ののちの静もりか没ちし〇〇がのこすむらさき

・われよりも熱き血の子は許しがたく〇〇〇を妬みて見おり

・両の眼に針刺して◯を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

 

 

●寺山修司 歌集『田園に死す』より

・新しき〇〇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

・売りにゆく〇〇〇がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

・たった一つの嫁入道具の仏壇を〇〇のうつるまで磨くなり

 

 

●石川啄木の歌集より

・そのむかし秀才の名の高かりし友◯にあり秋風の吹く

・死にたくはないかと言へばこれ見よと〇〇の◯を見せし女かな

・〇〇の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

 

 

●源実朝の和歌より

・大海の磯もとどろに寄する波わけてくだけて〇〇〇〇〇〇〇

 

 

読者諸氏は、空白の○○○にどういう言葉を入れられたであろうか。
とりあえず正解は…………………………↓

 

 

春日井建

1.大空の/斬首ののちの/静もりか/没ちし日輪が/のこすむらさき

2.われよりも/熱き血の子は/許しがたく/少年院を/妬みて見おり

3.両の眼に/針刺して/魚を放ちやる/きみを受刑に/送るかたみに

 

寺山修司

1. 新しき/仏壇買ひに/行きしまま/行方不明の/おとうとと鳥

2.売りにゆく/柱時計が/ふいに鳴る/横抱きにして/枯野ゆくとき

3. たった一つの/嫁入道具の/仏壇を/義眼のうつるまで/磨くなり

 

石川啄木

1.そのむかし/秀才の名の/高かりし/友牢にあり/秋風の吹く

2.死にたくは/ないかと言へば/これ見よと/喉の疵を/見せし女かな

3.浅草の/夜のにぎはひに/まぎれ入り/まぎれ出で来し/さびしき心

 

源実朝

1.大海の/磯もとどろに/寄する波/わけてくだけて/さけて散るかも

 

 

 

…………………………以上である。
時代を越えて、名作とは、単に言葉が美しいだけでなく、実にイマジネ―ションに毒があり、危うさがあり、一言で言えば美とは形而上的犯罪と言っていいものがある事に、あらためて気づかされる。想像が紡いだ犯罪遺文、そう言ってもいいかもしれない。……俳句は、禅的な視点で世界を、宇宙を凝縮してつかみとって詠む為に、もっと大きいものがあるが、短歌や和歌の31文字は凝縮と拡散の相反するベクトルがミステリアスなまでに重なってあるので、そのままに二次元の身体学という話に使いやすいのである。

 

……しかし、最近つくづく思う事は、スマホなどの出現で、年々、若い世代の人達の語彙が少なくなって来ている事である。言葉を知らない事を恥じるでもなく、スマホがそこにあれば、彼、彼女達の脳もまた頭を離れてそこ➡スマホの中に在るので心配はご無用、そういった傾向(もはや症状)が加速的に蔓延している感がある。……言葉を知らない、故に思いを伝えられない。喋れない、……だから黙る、だから未熟なままに年を経る。

 

 

……言葉を知らない人間が増えている原因は幾つかあるが、辞書や教科書からルビ(振り仮名)が消えた事は大きい。……芥川龍之介三島由紀夫には一つの面白い共通点があった。それは幼い時の愛読書が辞書であった事である。しかもルビ付きの善き時代。もともと知能が研ぎ澄ましたように高いところに、辞書で毎日のように語彙が増えていき、悪魔的なまでに彼らは言葉の魔術師となっていった。……言葉だけに限らず、昨今の世の便利さはますます退化を促し、情緒は言霊から離れてカサカサの空無と化し、そのとどまるところを知らない。…………アトリエを出て時々外で喋っていると、その事を強く感じる事が本当に多くなった。

 

 

 

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『ジャクソン・ポロック』

先日、東京国立近代美術館で開催中のジャクソン・ポロック展を観た。44歳で自死したポロックの表現世界。会場に展示されている、実際に彼が使った筆先の切り取られた部分を見ながら、あのアクションペインティングをする際に要した一瞬、一瞬の絶え間ない神経の集中の過酷さを想像した。表現は、実体のポロックを遊離して、一つの「極」へと知らぬ間に達してしまった!!その極北への到達は、表現者としての恩寵でもあり、ゆえに悲劇でもある。

 

会場内の壁面にはポロックの言葉と共に、一時代のアメリカ現代美術を引っ張った美術評論家クレメント・グリーンバーグの言葉が貼られていた。グリーンバーグ曰く、「優れた表現が登場する際には、決まってそこに何らかの醜悪なものがある」と。たいていの人はその言葉とポロックの初期の作品を見て、なるほどと合点する。しかし、グリーンバーグの言葉に批評としての普遍性は無く、在るのは、同時代のみの賞味期限付きのレトリックでしかない。彼の頭にあるのはデクーニングを範とする表現主義への礼讃だけで、視野は狭い。ケネス・クラークやグローマンに比べれば数段劣る。事実、グリーンバーグはコーネルの作品には無関心であった。しかし時代がコーネルに追いつくと、彼もまた脱帽してコーネルを認めたのである。つまり、批評が作品の実質に屈服したのである。私は先に、「批評家の言葉には反応しない」と書いたが、その根拠がここに在る。生意気なようだが、「名人は名人を知る」の言葉どおり、次代の才能を見ぬく眼を持っているのは常に表現者であり、評論家でその役割を果たした者はほとんど皆無に近い。

 

先日、詩人の野村喜和夫氏と本の打ち合わせをした折、野村氏は「時代の中で一番色褪せるのが早いのは〈思想〉である」と語った。この場合の〈思想〉とは、それがあまりに同時代のみを向いたもの、という限定付きであるが、同感である。そして私はそこに「評論もまた然り」を付け加えた。グリーンバーグは極論的言説ゆえに、それでも40年代から60年代の美術界を引っぱり、今は引き算を要するがなおも読める。さぁ、その眼差しを日本の美術における評論に向けてみよう。果たして、過去の誰が浮かび上がるのか? −−− 誰もいない。今もって、それを読み、熱くなれる文を書いた評論家は誰もいない。それに比べて、例えば三島由紀夫が著した美術評論 —– 宗達ヴァトー、ギリシャ彫刻・・・に注いだ眼差しは、今なお光彩を放って底光りをしている。そして、そこから得る物も深い。そう、三島は近代における評論の分野でも、最高の書き手であったのである。私は言い直そう。色褪せるのが早いのは評論ではなく、評論家による評論であり、実作者が書いた評論は、時として、時代を経てなおも生きる。ここまで書いた私は、自分にその刃の切っ先を向けた事になる。—- では、お前はどうなのかと。私は自分の書いた物に確たる自信がある。今刊行中の『絵画の迷宮』、そして与謝蕪村と西洋美術の諸作を絡めた論考、そして次に書く執筆に対して。この自分に強いた緊張こそ、次作が立ち上る母胎なのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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