古書店

『若気のあやまち -「容器」』

「人は弱いから群れるのではなく、群れるから弱くなるのである」という言葉がある。その意味でいくと、私は美術団体にも入らず、本当の表現者であるならば本来そうであるごとく、束縛もなければ甘くもない、まぁ自由な生き方をしている一人である。そんな私ではあるが過去に一度だけあやまちを犯してしまった事があった。若気のあやまち・・・・といえばそうなのであろうが、何と同人誌のメンバーになってしまったのである。二人の詩人(T・JとT・M)と木版画家K・Hと私とで、詩と版画の同人誌「容器」なるものを作る事になってしまったのであった。

 

木版画家のKから「ぜひ君に参加して頂きたいのだが・・・・」という手紙をもらったのは、あれは私が30才を少し過ぎた頃であったろうか。当時の私は銅版画だけの表現からオブジェへと移行していく、その端境期にあった。しばらく考えた後に参加する事にしたのは、いろいろ理由はあげられるが、一言でいえば・・・・暇だったのである。今日では伝説的な存在となった故・湯川成一氏の湯川書房が版元となり、『容器』はⅢ号まで続いた。Ⅲ号とはずいぶん短い寿命であったが、もう辞めようと言い出したのは私からであった。Ⅰ号が出た時は単純に嬉しかったが、すぐに覚めてしまった。ここには批評が無いと思ったのである。二人の詩人はレトリックに長け、木版画家の彫る「肖像」の細かさは微に入ったものであったが、この「容器」の姿には、未知ではなく既知をなぞるものがあり、自己満足的であり、予定調和的であり、何より大事な「本」という形における構造的な火花がまるで無い事に苛立を覚えてしまったのである。更に云えば、このまま続けていれば、表現者としての危ういところに陥ってしまうという危機感を痛感したのである。『容器』は限定100部で、四人のメンバー各人に10冊づつが手渡された。定価は確か一冊が1万円であったかと思う。しかし、私はこの詩画集に執着は無かったので、我がアトリエに来る友人達にプレゼントをした。皆がけっこう喜んでくれるので私も嬉しくなって更にプレゼントしてしまい、とうとう手持ちは一冊もなくなってしまった。後日、神田の神保町の古書店のガラスケースの中に三冊が展示してあり、価格を見ると三冊で28万円の評価がついていたが、まるで対岸の風景を見るような感慨しか立たなかった。私の主張はメンバー達にも理解され、Ⅲ号で終わったが、やはり、終了したのは正解であったと思う。こういう場合「継続は力である」ではなく、表現者として成長していくための大切なものをことごとく奪い去っていったであろう。私たちは〈同人雑誌〉を唯々好むマニアックな好事家を喜ばす為に作っているのではない、という自明の事を通しただけなのである。そして四人はその後、各々全く違う方向を生きる事となった。・・・・四人の誰もが皆、若かった頃の話である。

 

しかし三十代のこの経験は、振り返ってみると反面教師のように後日の私にとって、方向性を知る教材となった事だけは確かなようである。既知ではなく、常に未知の方向に進む事こそ〈作る〉事の意味があり、又、手応えもある事を私は三十代の初めに知ったからである。『容器』の他のメンバー達の頭の中にはおそらくかつての萩原朔太郎たちが作った『月映』のようなイメージがあったのかもしれない。しかし表現は時代を映すという意味からみても、80年代において「同人誌」という構造からは、もはや何も生まれえぬ事を、私の内なる批評家は直感してしまったのである。詩と版画が蜜月の時代はとうに終わり、今やそこに意味を見るならば、それは拮抗の形においてこそ望ましい。表現者は自分の過去の作品に対して守りの意識を持った途端に感性は朽ちて行く。現在、『容器』を愛蔵されている方の中でも眼識のある方には私の云わんとするところが伝わる事を信じたい。

 

私と詩人の野村喜和夫氏との共作- 競作で今年の5月に思潮社から刊行予定の本は、その意味でおよそ既知ではない不穏な気配を帯びた「奇書」というべきものになるであろう。野村氏のランボーを巡る詩と、私のオブジェと撮り下ろしの写真から成るこの本は、編集者と装幀家のこだわりが加乗して難産を今も重ねながら進行中である。なかなか生まれてはくれない。詩画集の現在形における可能性を追求したこの本の根底には、視覚が触覚へと転じるような不気味な危うさが充ちているかと思う。刊行を期待して頂ければ嬉しい。

 

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『個展 – ノスタルジアの光降る回廊』始まる。

 

爆弾低気圧が関東地方に16年ぶりという大雪を降らせた。そして翌日の一転した快晴は庭に積もった白雪の上に木々の青い影を映して、私はふと、モネの『かささぎ』という雪景の絵を思い出してしまった。

しかしそれにしても雪は良い。雪国で育った私などは、雪を踏みしめて歩くその感触だけで、幼い日の自分が我が身の内から立ち上がってきて元気が出る。先日、神田神保町の古書店で,私は30年ぶりくらいで古い友人のH氏と偶然に再会した。「久しぶりに話をしようではないか!!」という事でタンゴの店『ミロンガ』に入り、様々な話をした。彼は不出世の舞踏家の土方巽の弟子であったこともあり、話は身体論的な事にどうしても傾く。話し合った結論は,私たちは幼年期の自分から、その感性の本質が1ミリも動いてはいないという事であった。そして私たちは夢と記憶について更に話し合った。

 

ーーー或る夜、私は奇妙な夢を見た。ーーー長い渡り廊下、花壇に咲いたカンナの花、広い校庭、その先に延々と続く田畑ー。どうやら私は,自分が学んでいた頃の夏休みの小学校にいるらしい。しかし、それにしても全くの無人である。何かに導かれるようにして薄暗い校舎を歩いて行くと、無人の筈の、或る教室の中に、一人の生徒が椅子に座って正面の黒板をぼんやりと見ている姿が目に映った。見ると、その生徒は小学校時の隣の教室に確かにいた少年であった。ーーーしかし、友人としての仲間の中に彼はおらず、名前すらも覚えてはいない。たいした会話をした事もない遠い記憶の果てにもいなかったその少年が、何年も経て、何ゆえ或る夜の夢の中に、まるで亡霊のように彼は登場してきたのであろうか。そして、突然そういう不可解な現象を見せてしまう、私たちの記憶、記憶の構造、ーーーつまりは、夢の回廊とは、一体何なのであろうか。

 

そういう事は常につらつらと考えている事であるが、今年の第一弾として、明日(16日・水曜)から22日(火曜)まで横浜の高島屋7階の美術画廊で開催される私の個展のタイトルは、それを主題にして『ノスタルジアの光降る回廊』にした。個展はもう何十回と開催して来たが、意外にも、長年その地を愛し続けてきたわりには、横浜での個展は初めてである。今回の個展は50点近い展示であるが、普段はあまり展示しない旧作の中からもとりわけの自信作を出品しているので、ご興味のある方は御来場頂ければ嬉しい。

 

 

 

 

 

さて、正月のメッセージに掲載した一枚の古写真であるが、先日それを何ゆえにかくも惹かれるのであろうかと思い、しげしげと眺めていた。そしてようやく気付いた事があった。この堀川に橋が架けられたのは1880年(明治13年)。最初は木橋であったが、それが鉄橋化されたのは1887年(明治20年)。この写真は1887年以後の写真であることがわかる。それはさておくとして、この少女が輪廻しをしながら走って行く先は、日本大通りという広い道であるが、その道の一角に,100年後に自分が15年近く住んでいた事に、ふと気付いたのであった。何の事はない、私はこの写真の中に時を隔てた自分の「気配」を無意識裡に読みとっていたのであった。人は何かに惹かれる時、そこに決まって変容した自分の何らかの投影を透かし見ているものである。ー この写真もそうである事に私はようやく気付いたのであった。橋を渡った左側には、日本で初の和英辞典、ローマ字を広め、医師としても知られたヘボン先生(1815~1911)が住んでいた。患者の一人には岸田吟香(画家の岸田劉生の父)がいたというが、ヘボン先生の子孫にハリウッド女優のキャサリン・ヘップバーンが生まれているのは面白い。横浜からは掲載した写真のような趣は無くなってしまっているが、それでも横浜の街を歩いていると、ふと昔日の気配が立ち上がって、物語の断片が透かし見えてくる事がある。やはり、横浜は今でもノスタルジアが立ち上がる街なのである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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