安西冬衛

『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

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『潜在光景―私の中に誰かがいる』

……午前早くにアトリエに向かう道で、死にかけているアゲハ蝶を見た。車の往来があるので不憫に思い、手に取って近くの涼しげな木立の緑陰に行き、静かに放した。……指先に蝶の羽の感触が微かに残っていて、幼年時代の夏を思い出した。

 

……私は蝶が好きで、時々オブジェの中にもそのイメ―ジを取り込んでいる。……蝶と云えば、安西冬衛の詩に『春』という題で「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」という美しい一行詩がある。……韃靼(だったん)海峡が効いている。これが津軽海峡やマゼラン……では、渡っていく蝶が見えて来ない。韃靼海峡を見た事が無くても見えて来る風景が在るから、人の想像力とは不思議なものである。色彩と同じく、言葉の様々な響きにも様々な物語が潜んでいるのである。安西冬衛のその一行詩を思い出したので、そうだ、一行の詩を自分も作ろうと思い、歩きながら考えた。詩はたちまち出来た。……「1991年4月12日、パリの空が落ちて、バルザックの像が欠けた夜に……」。…さて題をどうするかと考えて、三つの題が続けざまに浮かんだ。『オダリスク』.『クレオの不信』.『近代劇場』……。題を何れにするかで、この一行詩の中のイメ―ジが全く違って来るから、言葉とは実に面白い。まるでイメ―ジを紡ぐ装置である。……だからこそ、私は作品に付けるタイトルにはこだわりを持っている。

 

……そんな事を思いながら歩いていると、やがてアトリエが見えて来た。郵便受けを開けると、大きな封筒が届いていた。差出人は、世田谷美術館の学芸員の矢野進さんからである。先日お会いした時に、1986年に美術館が開館した当初に開催されたロバ―ト・ラウシェンバ―グ展を私は観ていなかったので、その図録をいつか拝見したいとお願いしていたところ、その図版とテクストのコピ―を送って来られたのである。矢野さんは「ラウシェンバ―グは何故か日本ではあまり語られていない」と言う。私も同感である。

 

 

……テクストは、ロバ―ト・ヒュ―ズの長文の論考と、美術評論家の東野芳明とラウシェンバ―グの対談で構成されていて実に面白かった。そして懐かしかった。……私は大学では奥野健男の文学ゼミでバシュラ―ルをやり、東野のゼミでは20世紀のアメリカ美術を代表する、ラウシェンバ―グと双璧的な存在であったジャスパ―・ジョーンズをやった。ゼミを掛け持ちでやっていたのだから私もいい加減なものである。……ジャスパ―・ジョーンズについて、その思うところを書くという課題で、私は「ジョーンズの作品の前に立つと、いつも何故か決まって、犯人の遺留品があまりに多く残された殺人現場に立ち会っているような戸惑いにも似た印象を覚える。そこには解釈を迷宮の方へと誘ってやまない、作者の意図的な仕掛けが息づいている。……」という、ミステリアスな書き出しから始まる40枚ばかりの論考を書いた事があった。……他の学生は生真面目な硬い文章で始まっていたが、東野は私の論点を面白がり、君と同じような視点でジョーンズについて書いた、アメリカの美術評論家がいたよ、と教えてくれた。へぇ~そうなのか、と私は思ったものである。

 

 

……このゼミは最初は、ジョン・レノンの詞の翻訳から始まって面白かったが、東野と学生、更に詩人の瀧口修造氏が組んで、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称ー大ガラス』の日本版を作るという段になって、私はゼミをやめた。……あの『大ガラス』という作品は、後日のアクシデントで偶然入った時に出来た美しい亀裂があってこそで、亀裂が無い以上、作っても無意味である。それが何故わからないのか!という醒めた分析が私にはあった。簡単に云えば、韃靼海峡と書くべきところを、解釈の歪み、或いはセンスの無さで「てふてふが一匹マゼラン海峡を渡っていった」になってしまうのである。

 

…………その二年後、竹橋の近代美術館で開催された『東京国際版画ビエンナ―レ展』で私は招待作家として出品し、パ―ティの席で東野芳明と再会したが、それが最期の別れであった。しかし時が経ち、東野もラウシェンバ―グも亡くなった今、対談を読むと、あの70年代が甦って来て先ずは何より懐かしいものがあった。今の時代には無いラウシェンバ―グの真摯で熱い語りがそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回のブログ、これ迄は伏線で、これからが本題である。……ある日、神田神保町の古書店街を歩いていた時に『ナショナルジオグラフィック』の本が、山積みで店頭に出ていた。その内の何冊めかにアメリカ先住民の『インディアン』を特集したのがあったので開いて見た。すると!?という感覚に私はなった。……見ている本がロバ―ト・ラウシェンバ―グの作品特集かと思うようなオブジェの幾つかが、インディアンのテントの脇に、日常と同化して転がっていたのである。廃物―古いブリキ缶から自転車の車輪、石……それらの組み合わせのセンス、土の匂いの漂う色彩感覚、ノスタルジアetc……何だか似ているなぁ……、普通はそう思って流してしまうかもしれないが、!?から!!へと閃きが移るように、或る仮説を立ててしまうのが私の良いところなのである。仮説とはすなわち「ひょっとして、ラウシェンバ―グにはインディアンの血が入っているのではないか!!」…… そう閃いたのである。

 

……すぐに私は家に帰って、仮説の裏付けを取るべく、ラウシェンバ―グの英語版の画集を出して来て、真面目に訳を進めていった。……私の閃きは当たっていた。彼のル―ツにはインディアンもいればオランダの血も流れていた。……世界で起きたあらゆる事柄を、彼は時代や国を越えて一つの画面に共存して現すコンバイン(結合)という主題で現していったが、何の事はない、彼自身がコンバインそのものであり、彼の内なる先祖 をして、彼を突き上げ作らしている感が、彼の作品からは濃密に伝わって来るのである。彼のモダニズムは、遠いノスタルジアと直結している、そうも云えるのである。……矢野さんから送って頂いたテクストにも、「……父ア―ネスト・ラウシェンバ―グは、ベルリンから移住して来た医者の息子だったが、この祖父に当る人物はテキサス南部まで流れて来て、チェロキ―・インディアンの娘と結婚したのだった」とある。

 

……東野芳明との対談で、「そういう世界というものの表層の曖昧な多様性を、君の画面は反映していると思うんだ。そのとき君は、画面にコンバインするイメ―ジやオブジェをどうやって選ぶのか、ということ。視覚的な面白さか、言語的な基準か、或いは本能的になのか」と質問する東野に、ラウシェンバ―グは「それは本能的にだな。しかし同時に、選択はまた、事実や物から逆襲されもする。曖昧さというのはいい言葉だ。……」と語っている。ラウシェンバ―グが即答で答えた「それは本能的にだな」……この本能的に、という言葉が孕む意味は、或いは「遠くからの呼び声」「波動して来る遠い記憶」と何処かで繋がっているとも読めるのである。

 

 

でも、それはたまたまだよ!……そうおっしゃる方の為に次の例はどうであろう。登場するのは20世紀前半の絵画史をキュビズムという視覚実験的な試みで席巻したパブロ・ピカソである。ある日、私は思うところがあってピカソの顔写真をじっくりと眺めていて、こう想った。「この男の異様な顔相、邪視的な鋭い眼……、彼の生地のスペイン・マラガの先、ジブラルタル海峡を渡ればすぐにアフリカ大陸……、……ひょっとして彼(ピカソ)のル―ツには、アフリカの黒人の血が入っているのではないか!?」……そういう仮説を立てた事があった。……しかし、先のラウシェンバ―グと違い、ピカソの遥かに遠い先祖を次々に遡って辿る事は、そこまで詳しい研究書が無い日本では不可能な事。……しかし、それから何年かを経て、私は新聞(確か読売新聞の文化欄だったか)の或る記事を見て驚いた。……アメリカの美術館の学芸員の女性が、私と同じ着想を立てて、彼の生地のマラガに行き、親戚も尋ね歩いて調査した結果、遂にピカソの遠い先祖にアフリカ人がいた事を突き止めたのである。

 

つまり、こうである。……20世紀の美術史の革新的な幕開けは、1907年の『アヴィニョンの娘たち』から始まる。……それはキュビスム絵画の代表作である。キュビスムとは、一つの対象一方向の視点だけでなく、上下左右裏表斜めと様々な視点を同時的に描く手法
である。……しかし、アフリカの子供たちが、例えばみんなで1頭の馬の絵を描く時に、ある子供は真横の姿を描くが、他の子は自分が好きな頭部を正面から描き、また他の子は真上から、或いは真後ろから描くという。つまりキュビスムと同じく「多焦点」で描くのが、ごく普通なのである。キュビスム以前からアフリカではキュビスム的な絵が普通に描かれていたのである。

 

 

 

 

 

 

……ピカソと共にキュビスム絵画を追求したのはブラック(フランスの画家)であり、この二人のキュビスム絵画は見分けがつかないという。しかし私はその判別法を掴んでいる。画面が洗練されていて構図にエスプリが在るのがブラックで、画面が御し難く不調和で、例えて云えば、摘み草や土の匂いがするのがピカソである。これは間違いのない判別法である。……ひょっとするとピカソ自身、アフリカの子供達の描き方がキュビスムと繋がっている事に気がついてなかったかも知れないが、本当の史実は作者の胸の中に封印されたままである。

 

このラウシェンバ―グ、ピカソの例に見るように、近代の産物であるモダニズムというものも、作者自身が無自覚のままに、遠い先祖の記憶からそれは産まれ、それこそ、ラウシェンバ―グが即答したように「それは本能的にだな」という言葉の中に、創造の秘密が潜んでいるようにも想われる。私達の体内には遠い先祖からの遺伝子が脈々と流れており、それは本人が死んで肉体が滅んでも、船を乗り換えるようにその子孫へと繋がっていて、遺伝子が滅びる事はけっして無い。そこには様々な物語りの記憶も濃密に入っていると想われる。……私達の過去を辿れば、共通したノスタルジアの源郷、記憶の原器があると私は思っている。そして、…………それは私の作品を作る際に通奏低音として在る主題でもあるのである。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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