川端康成

『2023年夏―ホルマリンが少し揺れた話・後編』

①……前回のブログで、谷崎潤一郎が高橋お伝の陰部の標本と、横長の額に入ったお伝の全身に彫られた刺青の標本を観て、あの近代文学の金字塔『刺青』の構想が瞬時に閃いた!と断定して書いたが、それは私の直感が言わしめたものであり、どの研究書にもそのような大胆にして密な言及は書かれていない。しかし、オブセッション(妄想、強迫観念)とフェティシズム(物神崇拝)を資質の奥に持っていない人物は表現者たりえないと考えている私には、谷崎潤一郎のその時の昂りがリアルに見えてくるようなのである。

 

谷崎潤一郎は、高橋お伝という伝説の姉御肌の美女と遭遇した事で、泉鏡花が『高野聖』の中で登場させた、あの妖艶で煙るように薄い存在感の美女とは明らかに別種で存在感のある、想像力の原点に棲まう、残忍にして破滅的な女人の原形を獲得したように私には思われる。

 

……例えば周知のように、川端康成が永遠の処女性への不気味なまでの執着と、ネクロフィリア(死体性愛)的な本物の資質をもって日本の抒情を綴ったのに対し、谷崎潤一郎のマゾヒズム(被虐性愛)はその対極と考えられがちであるが、実は谷崎のそれは醒めた演技が根本にあった事に注意すべきであろう。

 

慧眼な洞察力を持った三島由紀夫は「……谷崎は大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変えてしまうのであり、俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかったと語り、……… (今、三島の原文が見つからないので、この先は私の記憶だけで書くが、)……… 被虐的なマゾヒズム行為の深みに入れば入るほど、その対象者たるサディスティックな女性に対しての、冷徹なまでに醒めた蔑視の眼が氷のように注がれている事を見落としてはならない。……… 確かその意味の事を三島は書いているのである。

 

 

 

②……あれは何の雑誌であったか?…博物学者の荒俣宏が、「東京で一番怖い場所」と書いていた東京大学医学部解剖学標本室で、……あれはまた何年前であったか?…季節は確か初夏であったが、外の暑さに対して、その標本室の奥の部屋は、確か3階であったが、まるで地下室のようにひんやりとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オランウ―タンの死体標本を抱えながらT教授は私にこう語った。

「君はパリのあの学校で、本当に非公開のオノ―レ・フラゴナ―ルのエコルシェ(剥皮標本)を観れたのか!?」と。(ええ、観ましたよ、)と私。「たぶん君より数年前だったと思うが私は大学からの紹介状を持って学校に見学の許可を願い出たが、駄目だった。一体どういうやり方で君は入れたのかね」

 

…… (別に、秘策なんて無いですよ。従兄の画家のフラゴナ―ルとの共通点の、手技の早さの異常さへの私の関心、フランシス・ベ―コンの皮膚への破壊的な情動とオブセッションとの類似点への簡単な考察。その他を、便箋5枚ばかり書いて、私のオブジェ作品の写真画像数点を添えて、友人のパイプオルガニスト奏者に仏語に訳してもらい提出したら、暫くして許可されましたよ。

 

友人5人を連れて指定された日時に学校に行くと、校長は上機嫌で歓迎してくれて、エコルシェ全ての撮影も構わないと言って、貴重な図録と、畳くらいの大きさの『フラゴナ―ルの花嫁』のポスタ―もくれましたよ。私の人柄が通じたんでしょうかね)。

 

……するとT教授は真顔で「今、私はこのオランウ―タンの剥皮標本を作っているのだが、ここまでで3ヶ月もかかっている。それをあのフラゴナ―ルは、僅か3日で作り上げてしまうんだよ」……(ええ知っていますよ)と私。するとT教授は鋭い眼をしてこう言った。「…………奴(フラゴナ―ル)は、怪物だよ」。  ……. それからT教授が急死されたのは間もなくであった。私は思い出しながらふと思う。パリの学校も非公開だったが、この解剖学標本室も非公開。……そこにいる自分が可笑しかった。私はよほど非公開の場所に入るのが好きなのだなぁと。

 

 

 

③……そもそも、東京大学医学部内に、「解剖学標本室」なる物が存在する事を知ったきっかけは、推理小説家・高木彬光(1920~1995)のデビュ―作『刺青殺人事件』であった。

 

江戸川乱歩が絶賛したこの小説は実に面白く、夢中で読んでいると、件のその標本室の事が突然出て来て、一気に私を引き込んだ。

 

……その標本室には夏目漱石斎藤茂吉横山大観浜口雄幸円地文子…等の脳みそが傑出脳…として、ガラス陳列室の中に保管されている事を知ったのである。……以前にも書いたが、私は動くと光速よりも早い。……『刺青殺人事件』を置いて、私は読んでいたその場で東大に電話した。

 

 

「はい、東大五月祭本部です」。私は電話した主旨を述べ見学を申し入れた。……すると大学祭で浮かれている学生達がざわつき(何か変な人から、変な電話~)という声が聞こえて来たので、私は別な角度から後日電話する事にして切った。…………それから1か月後、見学を許された私は本郷の校舎内を歩いていたのであった。

 

高木彬光の小説の『刺青殺人事件』に、谷崎の『刺青』も登場し、導かれるように高橋お伝、また阿部定が切断した件の吉蔵のホルマリン漬けの局部標本までも偶然目撃する事になり、再び谷崎潤一郎の『刺青』のインスピレ―ションも、この薄暗い標本室から立ち上がった事も知った。……そして、この標本室での体験は、その後で作品にも生かされ、「イメ―ジを皮膚化する試み」として、数多くの作品が銅版画とオブジェの両面から産まれていったのであった。

 

 

④さて、実は4日前に不覚にもコロナに感染してしまい、今回のブログは初めて病床の中で書いている次第とあい成った。……シャ―ロック・ホ―ムズとワトスン両人に登場してもらい、阿部定が吉蔵を絞殺し、局部を切断して持って逃げた心理を、愛情の形と単に納める事なく、阿部定自身も気づかなかった潜在意識、無意識の領域へと掘り下げて彼らに推理してもらう予定でしたが、いかんせん書き手の私自身がもはや青息吐息。この辺りで筆を置きたいと思います。

 

 

 

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『京七条・油小路に雪が降る』

……あれは今から何年前であったか、パリで知り合った、国際芸術祭BIWAKOビエンナ―レの主催者の中田洋子さんという人から招待作家として出品を依頼された事があったので「いいですよ」と快諾し、その打ち合わせで会場予定の近江八幡に行く事になった。東京の作家4人が新宿で合流し1台の車で向かうわけであるが、その日の夜は、西から数年に1度という大型の台風が直に襲ってくるという最悪の日であった。かなり強い台風なので気にはなったが、「面白いではないか」という事で夜の9時過ぎに出発した。……浜松に近づいた辺りから車が揺れるくらいに嵐が激しく吹き荒れて来た。高速道路の脇から海水の飛沫が飛び散り、なおも行くと、何台かの車が横転したまま打ち捨ててあり、不思議な事に前も後にも先ほどまで見えていた車の姿が全く消え去り、ただ私達を乗せた車だけが、暗闇の中を不気味なくらい静かに走り続けている。あれほど吹き荒れていた風もいつしか止み、外に視る闇は全く静か、車内の4人もみな息を詰めたように無言である。……口火を切ったのは私であった。「ひょっとすると、我々はもう死んでいるのかも知れないね。……さっきの何処かで車が衝突し、今、冥土に向かって我々を乗せた車が静かに走っているのかも知れないねぇ」……その言葉にホッと安堵したのか、皆が一斉に笑った。

 

 

……先日の25、26日は名古屋~京都に行く事で予定が入っていた。25日のお昼に馬場駿吉さん(元名古屋ボストン美術館館長・俳人)と名古屋画廊で待ち合わせをして、画廊の中山真一さんと三人でお話しをしてから夕方に京都に行く予定であった。しかし、24日の夜半に中山さんから連絡があり、10年に1度という豪雪と寒波が明日来るので2月13日に延期しましょうというご提案があった。了解し、私は25日午前に直行で京都に入った。途中の米原辺りから新幹線の外はホワイトアウトで何も見えない。まるで映画「八甲田山」のようであり、京都もさぞやと思ったが、駅に着くと吹雪が去った後で雪は止んでいた。

 

 

 

京都では4人の人に会う予定で約束済みであった。その中のお一人が京都精華大学で教授をしている生駒泰充さん(画家)。生駒さんは旧知の友で、以前に私が『モナリザミステリ―』(新潮社)を刊行した際に、精華大で講演を企画してくれて喋った事がある。ドイツ在住の造形作家.塩田千春など沢山の人材を育てているが、生駒さんの感性と直感力は私と何故か重なるので話題が尽きないのが嬉しい。……10年ぶりに到来した寒波で大学が休校になった為に生駒さんの授業がなくなり、京都駅で私達は早く待ち合わせが叶い、先ずは三十三間堂に一緒に行く事になった。

 

……生駒さんが面白い話を切り出した。アンディ・ウォ―ホルの代表作のマリリン・モンロ―のあの作品の着想は、彼が1956年に来日した際に京都に来て三十三間堂の1001体の千手観音仏像を視たときに閃いたのでは!?という興味深い仮説を語ってくれた時に、私の直感が激しく揺れた

そして頭の中で1001体の(顔の表情が各々微妙に異なる)仏像と、マリリンの顔(しかし意図的な刷りの変化で顔の表情は各々に異なる)が、例えるならば完璧だったアリバイが一気に崩れるようにそれらはピタリと重なった。

 

 

……以前に私が拙著『美の侵犯―蕪村x西洋美術』(求龍堂)の中で見破ったキリコが隠している、あのキリコ絵画の特徴である異なった多焦点が、実は後期ルネサンスの建築家パラディオの作品『オリンピコ劇場』の多焦点の効果と遠近法の崩しから着想している!という着眼法と正に重なったのである。……机上で考えている評論家にはおよそ閃かない、私たち実作者だけに視えて来る舞台裏、現場主義の視線があるのである。私が前回のブログの最後に書いた「過去は常に今よりも新しい」という言葉の真意が正にそこにあるのである。

 

……私達の様々な話題は尽きなく、次に四条木屋町の老舗喫茶「フランソワ」でも熱く語り合い、次にお会いする約束の京都高島屋美術画廊の福田朋秋さん(福田さんは、このブログでも度々登場されている)に生駒さんをご紹介した後、3人で一緒に先斗町のおばんざい老舗『うしのほね』本店に席を移し、福田さんも交えて更に尽きない話の井戸の底へと私達は落ちていった。……先斗町のその店の窓外に見える夜の鴨川がいかにも情緒的であった。……恋人同士ならば柔らかな話の間もあるのだろうが、私達は、今話しておかねば後悔するという感じで様々な話に耽ったのであった。……なので、お二人と別れた後で、祗園一力の隣に予約していた宿に帰った時は、喉が乾いて水ばかり呑んでいた。

 

 

翌26日は3つの目的があった。……先ずは、美術.写真集などを数々出版している青幻舎の編集長、田中壮介さんに久しぶりにお会いする約束が午前10時からあるので、祗園から河原町を歩いて会社のある三条烏丸御池へと向かった。……途中で老舗旅館の俵屋、柊家が目に入ったので、柊家の方の古風な造りを眺めていた。文政元年(1818年)からの老舗であり、文豪川端康成の常宿としても知られている。……ここは文人墨客の店。……逆光で映った私の姿風情にオ―ラでも感じ取ったのか、中から「もしよろしかったら、中へお入りになりませんか?」という柔らかい声が。……では、と言って中へ入り、宿の人と暫く川端康成の逸話などをお聞きしながら時が過ぎていった。…………おっ、こうしてはいけない、田中さんとの約束の時間が……と思い、青幻舎の場所を訊くと、ご丁寧に詳しく書いた地図を渡してくれたのには更に感謝であった。「次回、京都に来た時はお世話になります」と言って旅館を出、目的地へと向かった。

 

 

青幻舎の中で田中さんとお話しをした後で席を移し、近くにある趣のあるカフェで続きのお話しを交わした。田中さんとの会話はいつも話が弾んで面白い。……しかし、私は予定を詰め過ぎていた。……次に会う約束をしている平尾和洋さん(立命館大学教授・建築家)と12時に近くの烏丸御池のカフェで待ち合わせなのである。田中さんとお別れした後で、カフェで平尾さんと10年ぶりくらいの再会。以前は立命館大学の工学部で私がダ・ヴィンチの建築家としての視点から講演をして以来かと思うが、気の合う同士なので、すぐに話は本題に。……しかし、私の京都行の目的がもう1つ残っていた。……京都七条.油小路にある、新撰組伊東甲子太郎ほか数名が暗殺された現場を訪ねる事が残っていたのである。……平尾さんにその話をすると好奇心の強い平尾さん、では一緒に行きますよ!との事。二人でタクシ―に乗り、現場である本光寺へと向かった。

 

現場に着いてみると既に先客の幕末史ファンがいた。若い男性、外人の二人組。……以前は赤穂浪士の忠臣蔵は海外で知られていたが、新撰組もそこそこ知られ始めているのであろうか。とまれ皆さん熱心である。……男性が持っているタブレットを見せてもらうと、伊東暗殺直後に駆けつけた伊東の門下生(かつては新撰組)達が惨殺された詳しい現場跡がわかって、私の興奮はしきりである。

 

伊東甲子太郎は容姿端麗、人望が高く、既にして名士。……元治元年(1864年)に新撰組に加盟する。参謀としていきなり要職に就くが、佐幕派の新撰組と伊東の倒幕の異なる方針をめぐって次第に対立、やがて脱隊して、薩摩藩の支援で東山高台寺の月真院に「御陵衛士」として本拠を置く。この時に新撰組発足以来の藤堂平助ほか多くの隊士が伊東を慕って新撰組から去った。

 

慶応3年(1867年12月13日―旧暦で坂本龍馬が暗殺された3日後。ちなみに伊東は近江屋に潜伏していた龍馬と、同席していた中岡慎太郎に、暗殺の動きがあることを告げて警告をしている)の夜に、伊東は新撰組局長の近藤勇から呼ばれ、近藤の妾宅で接待を受ける。酔った伊東はその帰途は上機嫌であったらしい。伊東は思ったであろう(…そういえば、先ほどの席に近藤はいたが、副長の土方(歳三)はいなかった。…おそらくあの男は私に臆したのであろう。新撰組の屋台も私によってほぼ分裂し瓦解した。…土方、…新撰組を作り上げたあの策士も、もう終わりだな……)

 

……その時、はたして土方は何処にいたか。……伊東甲子太郎が歩いて来る先の暗闇、七条油小路の民家の暗闇にいて、その切れ長の鋭い目を光らせていた。……そして数十名の新撰組もまた民家の陰で息を潜めながら、その時を待っていたのである。……一瞬、闇に光が走り、鋭い槍の切っ先が伊東の首を貫いた瞬間、北辰一刀流の剣客であった伊東の体はくるりと一閃し、自分を突き刺した男を切り下げて、絶命した。「奸賊ばら!」……闇に響いたこれが、伊東の最期の言葉であったという。

 

土方の作戦はこれに止まらず、伊東一派の粛清にあった。寒さで忽ち凍てついた伊東の遺体を路上に放置し、番所の役人を月真院に走らせて、これから遺体を収容しに来る伊東一派を誘い出す囮としたのであった。そして土方の読みどうりの乱闘となって三名が戦死。他は逃げ去り明治まで生き残る。……その乱戦の現場を、その場にいた幕末史ファンの男性のタブレットで知り、私と平尾さんは移動してその場所に立った。……その乱闘の様子を民家の中で秘かに目撃していた老婆の証言が資料として残っていて、私はそれを想いながら、京都行最後の目的を果たしたのであった。……ふと平尾さんを見ると、先ほどから寺の庭に出来ている大きな蜜柑に関心が移っているようである。……冷たい風が吹いて来た。小雪がその風に乗って京都がまた白くなって来た。京七条・油小路に今し雪が舞っている。…………平尾さんと再会を約しながら京都駅前で別れ、私は帰途についたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『……去年(こぞ)今年……』

個展が始まった10月半ば頃から急に減り始めた感染者数が、12月の半ば辺りから次第に反転増大を見せはじめ、新顔のオミクロン株なる招かれざる客が欧米を席巻し、今や日本も面的に、その拡がりを見せている。しかし、内実、ジワジワと迫っている眼前の危機は、むしろ地震の方であろう。

 

 

 

 

 

……実は、今年最後のブログは、都市型犯罪として昨今問題になっている自殺願望の犯人からの「巻き添え被害」から身を護る方法について書こうと思っていたのであるが、何故かふと気が変わり、そうだ、地震について書こうと考え直して書き始めたら、正にその数分後の11時33分頃関東地方に震度3の地震が起きた。……私が度々書いている、いつもの予知体験ともまた違う、この直感力。……私は鯰なのであろうか!?

 

……実は昨日、アトリエの奥で、天井の高みまで夥しく積み重なっている作品を入れる硝子の函(約80個くらい)を見て、さすがに地震が来ると崩れて危ないと思い、低く平積みにする作業を終えたばかりであったが、やっておいて良かったと思う、この予感力。……私はやはり、正体は鯰なのであろうか!?

 

……閑話休題、地震についてあれこれ考えていたら、ふと、文芸では地震という主題をどう扱って来たのかが気にかかり、俳句で地震を詠んだのがないかと調べたら、それが続々とある事を知り驚いた。実に数千以上もの俳句があるのである。中でも目立ったのは正岡子規

 

 

・年の夜や/地震ゆり出す/あすの春

 

・只一人/花見の留守の/地震かな

 

・地震て/大地のさける/暑さかな

 

・地震して/恋猫屋根を/ころげけり

 

 

……と.まだ視線は客観的で優しい。他には、幸田露伴の「天鳴れど/地震ふれど/牛のあゆみ哉」。北原白秋の「日は閑に/震後の芙蓉/なほ紅し」……内田百閒の「蝙蝠や途次の地震を云ふ女」……寺田寅彦の「穂芒や地震に裂けたる山の腹」……。例外は、高澤良一という人の句「冷奴/地震のおこる/メカニズム」、……固いマントル、それを深部から激しく揺らす熔けた岩漿(1000度近いマグマ)の関係から地震は起きるので、この冷奴の喩えは、風狂の気取りを装って、一読面白いがいささか俳句の本領からは遠いかと思う。

 

……私の関心を引いたのは京極杞陽の「わが知れる/阿鼻叫喚や/震災忌」・「電線の/からみし足や/震災忌」。……そして圧巻は、1995年兵庫県南部地震で被災した、禅的思想と幻視を併せ詠んだ俳人・永田耕衣の「白梅や/天没地没/虚空没」。……一輪の白梅と、絶体の阿鼻叫喚との対峙、この白梅の非情なる美の壮絶さ。……また詠み人はわからないが、大地震後に襲ってくる、あの背高い津波の是非も無しの魔を詠んだ俳句「大津波/死ぬも生くるも/朧かな」を最後に挙げておこう。

 

 

……思うのであるが、来年の1月中旬から3月末の間にかけて、何やら不穏であったものの極まりが、何らかの爆発の形を呈して露になりそうな、そんな予感がしてならないのは、何も私だけではないだろう。……北川健次、遂に陰陽師として動くのか!?……それとも只の鯰の過剰な妄想だけで、事は収まるのか。…………とまれ、ここは静かに高浜虚子の、去年今年(こぞことし)から始まる名句を挙げて、今年最後のブログを閉じようと思う。

 

……ちなみにこの俳句は、地震ではなく新年が開けた時の虚子の心境を詠んだ句であるが、虚子が住んでいた鎌倉の駅前にこの俳句が貼られた時、それをたまたま通りかかった鎌倉長谷在住の川端康成が一読して、その言葉の凝縮のアニマに打たれ、背筋を電流が走ったという。……昭和25年正月時の逸話である。

 

 

 

「去年今年/貫く棒の/如きもの」

 

 

 

陰陽師・安倍晴明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『ある程度、覚悟した方がいい!!と、…彼は言った』

……個展が終わり、ホッとしたのも束の間、次はオミクロン株なる新参者が急に登場し、世界が混乱を呈している。自称かどうか知らないが、ウィルス感染症の専門家という人達が様々な自説を語っているが、昨今の日本における感染者数激減の原因についてすら、誰一人理詰めで得心しうる意見を語れないのだから、まぁいずれも、話半分に聴いておいた方が心身のバランスの為にいいように思われる。

 

……周知のように、梅毒をヨ―ロッパに持ち込んだのは、1493年にコロンブスの探険隊の隊員と、西インド諸島の原住民との性交渉による感染が発端であったが、その時の感染拡大の速さは「辻馬車」のそれであったという。しかし今はその比でなく遥かに速く、故にオミクロン株なるものは当然、既に日本に入り込んでいると考えた方がよいだろう。

 

しかし今、コロナよりもっと具体的に間近の問題なのは、2ヶ月前から日本各地で頻繁に発生している地震の方であろう。かつて無い程のかなり活発な活動を見せているが、これも地震の専門家と称する人達がまだ穏やかな発言に留まっている中、今朝のテレビで京都大学の教授で地震の専門家なる人(名前失念)がズバリ一言「今回は、もはやある程度、覚悟した方がいい!!」と、重くヒンヤリと語ったのが、こちらの想いと重なってリアルであった。この覚悟という響きの中には、大被害から、私達の死までもが現実的に含まれている。かつて関東大震災の折りに、芥川龍之介川端康成(後に二人とも自殺)が連れだって、視覚のフェティシズム故に被災地を視て回った事があった。その際に彼らが目撃したのと同じ光景、本所の陸軍被服厰跡の四万人という人達の死体の山と化した写真八枚を、偶然に骨董市で見つけて持っているが、それは作家の吉村昭氏が著書『関東大震災』の中で「私が知る限り最も恐ろしい写真」と書いた写真である。さすがにそれはお見せ出来ないが、参考までに、彼ら四万人の都民が火災を逃れて、一斉にここ被服厰跡の広い空き地に逃れて来て、やっと生き延びたと安堵している群集の画像(これはネットでも見れる画像である)を掲載しておこう。悲劇はこの後直ぐに起きて、この写真に写っている人全員が、空から降って来た凄まじい猛火の中に消え、関東大震災の最大の惨事(死者総数八万人の内の半数がここで亡くなった)と化したのであった。………私達の脳は実に怠惰かつ楽天的に出来ているらしく、「自分が生きている間は、関東大震災のような凄いのは来ない!」或いは「よしんば他人は地震で死んだとしても、自分だけは死ぬ筈はない!」と根拠なく思ってしまうのであるが、さぁどうであろう。

 

 

……しかし、いずれにしてもかつて無い不穏な年の暮れではある。……先日、写真家の遠藤桂さんと神田明神近くでお会いする約束があり、何処か落ち着いて話せる喫茶店はないかと先に来て店を探していたら、老舗の甘酒店で知られる天野屋のショーウィンドゥの中に巨大な機関車の模型を見つけた。私の作品のコレクタ―であるTさんが鉄道マニアなのを思いだし、携帯電話のカメラで撮影して送ったら、その夜にTさんから、「画面右側に妙なのが映っているので視て下さい!!」という返信が来た。「!?」と思ってあらためて視たら、確かに、突きだした断末魔の手らしきものが映っていた。視た瞬間、背筋を走るものがあったが、……たぶん、偶然に映った何かの反射かとも思われる。……そう云えば正面の神田明神はかの首塚伝説で知られる平将門を祭った神社……と、まぁ関連して狭く意味付けしては凡庸すぎて面白くない。……むしろ、感染症パンデミック、地震……と不穏な気配が蔓延している今は、世界はパンドラの箱開き、この世とかの世が道続きである様を呈していて、世界の全てが逢魔が時、……この時期だからこそ、このような写真も頻繁に写ってしまうのであろう、……そう考えた方が面白い。

 

 

 

 

 

12月某日。……空気は冷たいが、たいそう陽射しが眩しいので珍しく庭に出て、道沿いの先にある薔薇園に行った。……次回は、そこで考えた、次の詩集の為の詩法について書く予定。……但し、その前に何かが起こらなければ良い……のであるが。とりあえず、乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『異界への入口』

 

梅雨もいよいよ後半に入った。うっとうしい気分の毎日であるが、しかし少し視点を変えてみると、ふとした瞬間に、なにげない風景もハッとするように見える時がある。

 

三十年ばかり前であろうか、映画の『ツィゴイネルワイゼン』を見た。内田百閒の『サラサーテの盤』を映画化した幻想譚である。その中にサナトリウムの場面が出てきて、その雰囲気が妖しく、たいそう私の気に入った。その撮影に使った建物(実際のサナトリウム)が逗子と鎌倉の間の山中に在り、老朽化のために壊されるという記事を新聞で読み、さっそく私は現地へと赴いた。広大な敷地に、まるで木造の古い小学校の校舎のような雰囲気で、その建物はあった。受付で「大学で建築を専攻している者です」と、許可されそうな来意を言うと、あっさりと中の見学が許された。受付には二人いたが、建物の中に入っていくと、全くの無人。かつて結核が死の病であった事を想いながら進んでいくと、ひんやりとした気配が次第に濃くなってくる。しんとした無数の病室、入り組んだ長い廊下・・・。その或る角を曲がった瞬間、私はハッと息をのんだ。眼前の廊下に一直線に十数羽ほどの蝶の死骸が整然と並べられていたのである。人為的に誰かがしなければ在り得ないような眼前の光景・・・。しかし、二万坪以上の敷地の中で、私以外には受付の二人の病院関係者のみ・・・。しかも、その二人は三十分以上前に見かけただけで、他にこの病棟にいるのは、唯、私だけ。私は座り込んで、その一列に綺麗に並べられた蝶の死骸の一つを手にとってみた。すると羽はパラパラと崩れて、その粉が床へと落ちていく。・・・・つまり、死後かなりの時間が経っていたのであった。しかし見た印象は、今しがたそこにふと現れたような感がある。私はこの光景の「在り得ない事」を何かとの交感と受け止め、記憶に焼き付ける事にした。そして、それは今も鮮やかに目に浮かぶように私の記憶の内に残っている。

 

余談ながら、この建物の近くには心霊スポットで最も有名な「小坪トンネル」がある。異界への入口として噂され、何人かの人が、忽然と姿を消したまま消息を断ち、又、霊が出現する場としても知られている。ちなみに、あの川端康成が、このトンネルに興味を抱き、タクシーの運転手と二人で長時間その場にい続け、遂に早朝に二人とも女性の在り得ぬ姿を見てしまったという話は有名である。そして、数年後に川端は逗子マリーナで命を断ったが、その死体はここ小坪トンネルの上で焼かれた。そう、この「小坪トンネル」の山頂には、小さな火葬場があるのである。川端は生前よく「仏界易入  魔界難入」という一休の言葉を書にしていた。日本の哀しい抒情が主題であった川端にとっては、心霊スポットもまた、イメージの拠って立つ場所として映っていたのであろうか。彼においては死者こそは懐かしき隣人。3・11で私たちがありありと垣間見た〈この世とかの世は地続きである〉という醒めた眼差しを、生涯抱き続けたのであった。

 

さて私はといえば、いろいろと不思議な交感体験をしているが、それは時を経て変容し、作品へと転化している。三十年前の先述した体験はコラージュ作品『蝶を夢む』というタイトルを供なって先日、連作で完成した。この体感経験が作品へと化わっていく話は、次回も書きたいと思っている。次回の話の舞台は「浅草」である。

 

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