時里二郎

『2023年夏/カタストロフの予感の中で』

暑い!というよりは、もはや熱い!……そう言った方がピタリと来る、この夏の異常な照り返しである。息をすると熱を帯びた空気が口中に入って来るという、今までに無かったような夏の到来である。私が子供の頃は、夏休みは心が弾む待望の時間であったが、今の子供達にとって、それはどうなのであろうか。

 

……昔の夏は確か32度くらいで(おぉ今日は凄い!32度もある!危ないから日射病には気をつけないと)と言ったものである。……はたして当時の誰が、数十年先の夏の気温が6度以上も上がる事など予測し得たであろうか。だから、その頃に生きていた人間が、タイムスリップして2023年の今に突然現れたら、この暑さの異常さにおののき、過去の時間へと忽ち逃げ去っていくに違いない。今はこの異常な中で皆が耐え忍んで生きている。……みんなが頑張っているから、この異常さは若干散っていられるのかもしれない。自然は容赦がないので、来年はもっと残酷な事になる事は必至であろう。…………

 

思い出せば、私は7、8才の盛夏の頃は、自転車に愛用の枕(心が安心するために)を乗せて、近くの緑蔭の濃い森に行き、その奥の風が涼しく舞っている神社の裏の小陰で長い昼寝を貪っていたものである。高校の野球部の練習中の掛け声や、白球を打つバットの乾いた音が遠くから気持ちよく響いて来て眠りと溶け込み、それが更なる昼寝を促していた。……何も私だけではない。子供達はその時点において皆がみな抒情詩人であったと思う。……しかし今、真昼の熱い時に外で昼寝などしたら自殺行為である。(オ~イ、大変だぁ!……子供が神社の裏で熱中症で乾いて死んでるぞ!!)になりかねない、それほどに夏の姿が変わったのであろう。

 

……数日来、かつて無かった激しい豪雨が九州を襲っている。九州には福岡、熊本、鹿児島に親しい友人がいるので心配である。しかし、前線の移動次第では関東も襲われる可能性があるので、明日は我が身の、容赦ない豪雨、猛暑の日々である。……この異常気象、日本以外に世界に目を移せば、北極の氷は溶け、凍土の地域も温度が上がって濁流となり、世界の各地で大洪水が起きているのは周知の通り。……「人類は間違いなく水で滅びる」と500年前に早々と予告したダ・ヴィンチの言葉が、ここに至って不気味に響いてくる。

 

 

このように世界が加速的に明らかな狂いを呈して来たのは、やはりあの時がその始まり、いや世界のバランスを辛うじて括っていた紐が切れた瞬間ではなかっただろうか。

 

………………2019年4月15日午後6時半。

 

……パリのノ―トルダム大聖堂が炎に包まれたあの日を境にして、世界は一気に雪崩れるようにしてカタストロフ(大きな破滅)の観を露にしはじめたと私は思っている。

 

 

……30年前にパリに一年ばかり住んでいた時、私は幾度も大聖堂の鐘楼に昇り、眼下のパリの拡がりを堪能したものであった。……その懐かしい大聖堂が真っ赤に燃える様を観て、ある意味、何れの聖画よりも、この惨状の様は美しく映ると共に、私は「これは、何か極めて美しく荘厳であったものの終焉であり、これから世界中に惨事が波状的に起こるに相違ない!」……そう直観したのであった。

神や仏といった概念を遥かに越えた、もっと壮大な宇宙の秩序を成している大いなる「智」から、奢れる人類に発せられた醒めた最期通達として映ったのであった。

 

 

 

 

 

……其れかあらぬか、大聖堂の炎上から半年後の2019年12月初旬、先ずはコロナが武漢から発生して世界中に蔓延、そしてロシアのウクライナへの一方的な道理なき侵攻、環境破壊が産んだ加速的な破壊情況、AIの出現による人類の存在理由の消去と感性の不毛へと向かう変質化の強制、……つまりはもはや形無しの情況は、かつての名作映画『2001年・宇宙の旅』に登場した、人工知能を備えたコンピュ―タ―「HAL9000」の不気味な存在が示した予告通り、アナログからデジタル、そしてその先の人心の不毛な荒廃から、一切の破滅へと、今や崩れ落ちの一途を進んでいる状況である。

 

 

 

……その惨状を美しい言の葉の調べに乗せて三十一文字の短歌へと昇華した人物がいる。今年の1月にこのブログで最新刊の歌集『快樂』を紹介した、この国を代表する歌人・水原紫苑さんである。………「ノ―トルダム再建の木々のいつぽんとなるべきわれか夢に切られて」。……この短歌が収められた歌集『快樂』(短歌研究社刊行)が、先月、歌壇の最高賞である迢空賞を授賞した。快挙というよりは、この人の天賦の才能と歩みの努力を思えば当然な一つの帰結にして達成かと思われる。

 

 

……フランスでの現地詠など753首他を含む圧巻のこの歌集には……「シャルトルの薔薇窓母と見まほしを共に狂女となりてかへらむ」・「眞冬さへ舞ふ蝶あればうつし世の黄色かなしもカノンのごとく」・「寒月はスピノザなりしか硝子磨き果てたるのちの虚しき日本」・「扇ひらくすなはち宇宙膨張のしるし星星は菫のアヌス」………と、私が好きな作品をここに挙げれば切りがない。

 

とまれこの歌集には、芸術すなわち虚構の美こそが現実を凌駕して、私達を感性の豊かな愉樂へと運び去って行くという当然の理を、短歌でしか現しえない手段で、この稀なる幻視家は立ち上げているのである。……人々はやはり真の美に飢えているのであろうか、この歌集は刊行後、多くの人達に読まれて早々と増刷になっている疑いのない名著であるので、このブログで今再びお薦めする次第である。

 

 

……先年は友人の時里二郎さんが詩集『名井島』で高見順賞および読売文学賞を受賞。また昨年は、ダンスの勅使川原三郎さんがヴェネツィアビエンナ―レ金獅子賞を受賞。……そしてこの度の水原紫苑さんが歌壇の最高賞である迢空賞を受賞と、一回しかない人生の中で、不思議なご縁があって知己を得ている表現者の人達が、各々の分野で頂点とも云える賞を受賞している事は、実に嬉しい善き事である。またこのブログでも引き続き紹介していきたいと思っている。

 

 

………………さて次回は、以前から予告している真打ちとも云うべき毒婦・高橋お伝が登場し、文豪谷崎潤一郎、そして私が絡んで、近代文学史の名作『刺青』の知られざる誕生秘話へと展開する予定。題して『2023年夏・ホルマリンが少し揺れた話』を掲載します。乞うご期待。

 

 

(お詫び)前回の予告では高橋お伝について書く予定でしたが、歌人の水原紫苑さんが受賞されたというニュ―スが飛び込んで来たので、急きょ予定を変更した次第です。

 

 

 

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『20日から始まる個展のお知らせ―東京日本橋高島屋・美術画廊X』

前回のブログは反響が特に大きかった。文豪達によるスペイン風邪の感染実態の被害状況を具体的に書いた事で、今のコロナ禍がそれに比べるとまだまだ軽いという事が読者諸氏に具体的に伝わり、安心された方が多くおられた事は良かったと思う。そして、明るい兆しが見えて来たと書いたが、あれから実際、コロナ感染者が激減して来て今日にいたっている。……それを受けて、20日から始まる個展に、昨年はコロナ禍で来られなかった遠方の人達からも、今回は安心して個展に行きますよ!という嬉しいメールが届いている。……ほぼ9ケ月の間、新作のオブジェ制作に専心して来ただけに、コレクタ―の方達からのメールに確かな手応えを今、覚えているのである。

 

 

……さて、では本文に入ろう。

……前回のブログで、芥川龍之介もスペイン風邪に2回感染していた事を書いた。龍之介は第1波、第2波とも感染し、なんとか潜り抜けたが、それから7年後に自殺した。「ぼんやりとした不安」が動機だというが、最初、彼はファンの女性(人妻)と日比谷の帝国ホテルで心中するつもりで直前までいった。しかし、女性の友人であった歌人の柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん―画像掲載)が芥川を一喝してこう言った。「そんなに死にたいのなら、あなた一人で死になさい!」と。この言葉が効いたのか、芥川は田端の自宅で一人で亡くなった。……大正の三大美人と言われ、繊細な顔立ちの白蓮の、しかし内面の腹は肝が座っていて、なかなかに面白い。

 

……問題は、前回のブログに登場した島村抱月松井須磨子の悲恋の場合である。どちらも名前が実にいい。良すぎる。……だからどう考えてもハッピ―エンドに終わる名前ではない。この名前の中にしっかりと来るべき悲劇が内包されているようにさえ思われる。いわゆる負の言霊である。……島村抱月、……月は遠くから静かに眺めるものであって、けっして近寄って抱くものではない。抱けば、ルナティックス(月狂い)という言葉が、少しずつ騒ぎ出す。……

 

 

さて、先日、作品を作っていたら急に別件が頭を過って手が止まった。……それは「松井須磨子」という、美しい響きを持った芸名の由来が、はて何に起因するのかという突然にわいた疑問である。私は分裂型なので、頭の中を同時に様々なものが行き交っている。そして突然、疑問がわいて来てその虜になってしまうのである。…………本名、小林正子から芸名・松井須磨子へ。……タブレットでその芸名の由来を調べてみたが、本人がどういう経緯で「松井須磨子」という芸名にしたのかは不明であるという。……これは面白い。暫し考えて、私なりの答えがすぐに閃いた。

 

……月と云えば先ず浮かぶのは「有明」という言葉であるが、松井須磨子の「須磨」からは、月の名所で知られる須磨の地名がすぐに浮かんで来た。……この須磨(兵庫県神戸市須磨離宮公園)の地は、30代の頃に詩人の時里二郎君(2019年に第70回読売文学賞受賞)と歩いた思い出の場所である。確か不思議な作りの古い洋館があったと記憶する。……そして、この須磨の浜には美しい松林があった。……その須磨の浜の松に自分を重ね、抱月に抱かれるように、ずっとその月の光で私を照らし続けていて欲しい。……そんな切ない熱い恋情から、この名前は来たのではあるまいか!?……そういう結論に想い至った次第なのである。…………そんな事を考えて何になるの?……そういう、意味や効率ばかりを問う今時の声が聞こえて来そうな気もするが、しかし、ふと疑問が湧いて来たのだから仕方がない。以前に刊行して話題になった『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊行)や『「モナリザ」ミステリ―』(新潮社刊行)、また他の執筆も、最初はこういうちょっとした疑問、着想、仮説から実証への強い興味、様々な閃き、そして確信……から立ち上がって来たのである。……オブジェを作っている時のアトリエの中は実に静かであるが、頭の中では、あまねく様々な物語りの断片が次々と幻のように浮かんで来て、たいそう騒がしい。……さて、そのオブジェが今回は70点以上、画廊としては最大の空間である、高島屋の美術画廊Xに一堂に揃うのである。私にとって美術画廊Xの空間は、幻が飛び交う劇場である。20日から始まる個展が、自分でも今から待ち遠しいのである。

 

 

 

 

 

 

『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』

会期:10/20~11/8  時間:10:30~19:30

会場:高島屋本館6階/美術画廊X

〒103-8265 東京都中央区日本橋2丁目4−1

お問い合わせ ㈹:03-3211-4111

 

 

 

 

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