松尾芭蕉

『オ―ラは存在しない!…の巻』

……俳聖の松尾芭蕉と、俳人にして優れた画家でもあった与謝蕪村。この両者の違いをわかりやすく喩えると、蕪村は宝くじ(当時は富くじ)を買うが、芭蕉はおよそ買いそうにない、……そんなイメ―ジの別け方もざっくりだが出来るかと思う。

蕪村の弟子の記録によると、実際、蕪村は富くじを度々買っていたようである。別に蕪村のひそみに倣うわけではないが、私も時々宝くじを買っている。昔のブログに書いたが、ある時は10万円が当たって喜んだが、その後は晩秋に吹く木枯しの如し。まぁ遊び半分であったが、ある時、どうにも切羽詰まって買わざるをえない時があった。……美術作品の制作を止めて、10ケ月近くをモナリザに関する原稿執筆に専念した為に、収入がゼロ。背水の陣で書いていた時に、「JR浅草橋駅」高架下の宝くじ売り場(実際の画像掲載)、あすこの老人夫婦が販売している売り場が何故かよく当たる!と友人に勧められ、半信半疑ながら何かを託すような気持ちでわざわざ買いに行った事があった。

 

 

その宝くじ売り場の前に立って、私は自分の目を疑った。中にいる福々しい笑顔をした老人夫婦から、いわゆるオ―ラのような放射する光が出ており、あたかも恵比寿天と弁財天の化身のようにも見え、私は「どうしてもっと早くこの売り場に来なかったのか」と悔いたのであった。そして宝くじを買った。

 

……この段で、読者諸兄が予想された通り、宝くじはしばらくして只の紙屑と消えた。……数ヵ月が経ったある日、たまたま浅草橋に用事があり、件の宝くじ売り場の前を通った。すると、見覚えのある、あの時の老夫婦が夕暮れの中を帰っていくところに出くわしたのであった。……見て驚いた。かつて覚えた七福神の如き華やいだ面影はまるでなく、喩えると、サ―カスの老いた道化師、いや、酒場を渡りいく売れない流しの老夫婦のような哀愁を帯びてさえ見えたのであった。

 

 

……その瞬間、私は気がついた。……あの時に見たオ―ラは、彼等が現象として放っていたのではなく、私の願望や欲、強い想いが彼等をして、眩しいばかりの光となって見えたにすぎないのだと。もし彼等がオ―ラなる艶々しい光を現象的に、蛍火のように放っていたならば、あの浅草橋の高架下にいた人々全員にそう見えた筈である。しかし、あの時に覚えた七福神の如きオ―ラは、私以外誰にも見えなかったに違いない、完全なる私の主観の一人称的な映り、私の期待が放って反って来た、脳内にしか映らない光(要するに高揚感)だったのだと。………………

 

 

およそ1年を要して書いたモナリザに関する原稿は、以前に文芸誌の『新潮』に掲載された2編と共に1冊の本になり、新潮社から刊行された。美術書としては異例の増刷となり、私は墜落を免れて再び離陸する想いで美術の制作に戻っていった。……このような事は、そう云えば以前にもあった事を私は今、このブログを書いていて思い出した。……あれはまだ私が美大の学生の頃であった。東京・自由が丘の中華飯店で食事をしている時、背後から聴いた事のあるかん高い声が聞こえて来た。「ひょっとして……長嶋か!?」そう思って振り向くと、果たして長嶋、王、張本……といった巨人軍の主力メンバ―が会食の最中であった。……かつて野球少年であった私の募った想いが蘇りのように映されて、長嶋、王の二人がありありと光って見えたのを今、思い出した。

 

 

……かくして私は思う。私達が見ている三次元のこの空間に映る万象も、誰にとっても絶対的に同じ映りではなく、私達の主観、資質、その時の心情……といった内面の相違によって、実は様々に違って見えているのだと。それがある人には高揚して映り、関心のない人には褪せた凡庸な物として映る。……観劇もしかり、映画鑑賞、絵画鑑賞もまたしかり。ゴッホの絵を例に引けば、ゴッホの作品と人生に関心のある人には『向日葵』に様々な深い見立てさえ映り、ゴッホに関心のない人には、強すぎる主張の強い絵として辟易として映り、また絵画を投資の対象、マネ―ゲ―ムにしか見えない連中には、変動する株価のように金の代替物にしか見えないのと同じ理窟である。

 

 

……私達が共有感覚として持っていると思っている世界とは、つまりは各々が紡いだ異なる映しであり、結論を急げば、私達は遂には、内なる感性から一歩も皮膚の外に出る事は出来ないのである。……万象は幻の如しと書いて、次回は、浅草凌雲閣へと舞台が移ります。……乞うご期待。

 

 

 

 

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