歌川広重、東海道五十三次、寺田寅彦、夏目漱石

『物語りの発生する瞬間、……そして〈孔雀〉』

……先日、歌人の笹原玉子さんから、塚本邦雄創刊歌誌『玲瓏』を頂いた。その中に笹原さんの短歌が載っていて、そのイメ―ジの強い喚起力に惹かれた。それは、「氷売りが/扇売りとすれちがふ橋/たったそれだけの/推理小説」という作品である。

 

短歌は、僅か三十一音の定型の器の中に、イメ―ジを喚起する為の言葉が強い暗示性を持って仕掛けられているのであるが、私はこの作品の妙味を感じながら、…なぜ惹かれたのかを分析し、この短歌の構造に重なる別な作品が在る事に行き着いた。……それは、歌川広重の『東海道五十三次』中の、雪の日の場景を描いた『蒲原』と、激しい雨降りの中の場景を描いた『庄野白雨』という作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……『蒲原』と『庄野白雨』の二点は、『東海道五十三次』の作品中でも出色の完成度を持つ作品で、広重の全作品の中でも名作の評価が群を抜いて高い。そこに異論は無い。……ではなぜ、そうなのかを分析すると、他の作品と違い、この二点には共通した或る構造が見えてくる。それは、画中で、人物がすれ違い交差している点である。このすれ違いの〈一瞬〉に、観る人は何か不穏な気配さえも読み取り、イメ―ジが喚起されるのである。……はたして、事件の前なのか!?……それとも事件は既に起きてしまっているのか!?……とまれそこに、湿潤な日本固有の抒情が雪や雨となって奏でられ、作品が想像力を喚起する見事な装置となっているのである。つまり、〈交差する事〉からミステリアスな物語りが発生するのである。この構造に於いて、笹原さんの短歌も広重の浮世絵も、共通した想像力の煽りを私たちに呈してくるのである。先月に刊行した私の詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』所収の最後の作品『フロ―レンスの遠い記憶』の中に、〈直線を引くことから物語が始まる〉というフレ―ズがある。次はその直線を二本、斜めに交差させる事から一切の物語りは求心的に動き始めるのである。

 

……私がこの世で唯一人、先生と心中で呼んでいる寺田寅彦先生は、優れた地球物理学者であるが、また夏目漱石が愛した門下生でもある。ある日、寺田先生が師の漱石に「先生、俳句とは一体どんなものですか?」と問うと漱石は「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」と断じて言った。名言である。……レトリック、すなわち巧みな表現をする技法―修辞学。私は自分の作品(版画、オブジェ他)に対し、このレトリックの意識を第一に注いで来ただけに、この漱石の言葉は気に入っている。

 

さて、十七音の俳句、三十一音の短歌、次なる膨らみを見せる詩、……そして小説へと言葉の量は拡がりを見せはするが、各々がイメ―ジを捕らえ封印する為の異なる構造を持った器―容器と考えればいい。さて、俳句から小説までのその暗示性の違いをわかりやすくする為に、今回は〈孔雀〉という言葉を共通の主題にして、各々のジャンルで、如何に孔雀が変容するか、それを具体的に挙げてみたいと思う。その列挙で今回のブログは終わるが、後はその感想を読者各々の方々の感性に委ねたいと思うのである。

 

 

 

 

 

 

①俳句

「春風に/尾をひろげたる/孔雀哉」 正岡子規

 

「天暑し/孔雀が啼いて/オペラめく」 西東三鬼

 

 

②短歌

「死ぬまへに/孔雀を食はむと/言ひ出でし/大雪の夜の/父を恐るる」  小池光

 

「形見なる/扇ひらけば/いつしかに/孔雀なりけり/愛を求むる」   水原紫苑

 

 

③詩

「忘れてはいつか捉へん、胸の上を過ぐる孔雀の群。/午睡の夢のまにしろき月 音なくのぼり、また沈みゆきぬ。……」

西条八十

 

「イゾラ・ベッラの白い孔雀は、その羽を真夜中に広げる。/マジョ―レの湖面に 幻の満月を映すように。」

 

北川健次

 

④小説

「『それは一体どういう存在形態だろう。生きることにもまして、殺されることが豪奢であり、そのように生と死に一貫した論理を持つふしぎな生物とは?昼の光輝と、夜の光輝とが同一であるような鳥とは?』富岡はさまざまに考えたが、そうして得た結論は、孔雀は殺されることによってしか完成されぬということだった。その豪奢はその殺戮の一点にむかって、弓のように引きしぼられて、孔雀の生涯を支えている。………………」

 

三島由紀夫



 

 

 

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