浄智寺

『十月・神無し月の五つの夜話―澁澤龍彦から勅使川原三郎まで』

①……今や四面楚歌に窮したプ―チンが新たに発令した100万人規模の兵士追加動員令。しかし死んでたまるかと、この愚かな兵役命令を嫌って国外に脱出するロシア人達の車列の長さ。……ロシア各地方の役場が慌てて発行したずさんな召集令状には、年寄りや病人も入っていたというが、あろうことか既に亡くなって久しい死者にまで発行されたという杜撰さ。……それを知った私は想像した。旧式の銃を担いで村役場前に集合した、蒼白くうっすら透けてさえ視えるその死者達の不気味な群れを。そして私は昔読んだ或る実話を思い出した。

 

……それは、今から118年前の日露戦争時の話である。日露併せて22万人以上の死者が出たこの戦争が終った後に、日本軍の戦史記録者が記した記録書にはロシア兵の捕虜が語った興味深い言葉が残っている。

 

「日本軍が突撃して来る時の凄さは本当に怖かった。屍を踏みつけて来るその様は怒濤のようであった。中でも一番怖かったのは白い軍服を着た一団であった。撃っても撃っても倒れないので、遂に我々は恐怖で狂ったようにその前線から逃げ出した。……」という記述。これは一人の証言でなく、何人もの捕虜達が語っている記録である。……もうおわかりであろう。日露戦争時の日本の軍服は茶褐色(カ―キ色)で統一されており、白い軍服を着た一団などは存在しない。……そう、彼らは戦死した死者達が一団となって突っ込んでくる幻影を視たのである。しかし、一人でなく沢山の捕虜達が同時にその白い軍服の兵士達を視たという事は、……幻でありながら、実在もしていた……という事である。

 

 

②先日、10月2日から鎌倉文学館で開催される『澁澤龍彦展』のご案内状が奥様の龍子さんから届いたので、初日の2日に観に行った。しかし先ずは久しぶりに澁澤龍彦さんの墓参をと思い、菩提寺の浄智寺が在る北鎌倉駅で下車した。

 

……駅前の広場に出た瞬間に、30年以上前の或る日の光景が甦って来た。それは澁澤さんの三周忌の法要の日で、その広場には沢山の人が集まっていた。俗な組織や団体とは無縁の、つまりは群れない個性的な一匹狼の面々ばかりなので愉しくなって来る。私はその時、確か最年少であったかと思う。……顔ぶれを思い出すままに書くと、種村季弘出口裕弘巌谷國士高槁睦郎吉岡実四谷シモン金子国義池田満寿夫野中ユリ……それに舞踏、写真、文芸編集の各関係者etc.……その中に中西夏之さんの姿が見えたので「中西さん、一緒に行きましょうか」と声をかけ、浄智寺を目指して歩き出した。折しも小雨だったので、この先達の美術家との相合傘であった。

 

中西さんに声をかけたのには訳があった。……最近刊行された中西さんの銅版画集の作品について思うところがあったので、いい機会なので訊いてみようと思ったのである。その時に語った言葉は今も覚えている。「この前、銅版画の作品集を拝見して思ったのですが、銅版画家が発想しがちな積算的な制作法でなく、真逆の引き算的な描法で現した事は試みとして画期的だったと思いましたが、版を腐蝕する時にどうして強い硝酸でなく、正確だが表情が大人しい塩化第二鉄液を選んで制作してしまったのですか?……中西さん、もしあれを薄めた硝酸液で時間をかけて腐蝕していたら、あのような乾いた無表情なマチエ―ルでなく、計算以上の余情と存在感が強く出て、間違いなく版画史に残る名品になっていましたよ。」と。

 

…………中西さんは暫く考えた後で「あなたの言わんとする事はよくわかります。実は作り終えた後に直ぐにその事に気がついていました」と語った。……やはり気づいていたのか、……私は自分の表現の為にも、その是非を確かめたかったのである。……私達が話している内容は中西夏之研究家や評論家には全くわからない話であろう。……私達は今、結果としての表象についてではなく、そのプロセスの技術批評、つまりは表現の舞台裏、云わば現場の楽屋内の表現に関わる事を確認していたのである。……その後、私達は作る際に立ち上がって来る、計算外の美の恩寵のような物が確かに存在する事などについて話し合いながら鬱蒼とした木々に囲まれた寺の中へと入って行った。

 

しかし奥に入っても、誰もいないので、不思議な気分になった。神隠しのように皆は消えたのか?蝉時雨だけが鳴いている。…………そう思っていると、中西さんがゆっくりした静かな声で「……どうやら私達は寺を間違えてしまったようですね」と言った。話に没頭するあまり、澁澤さんの法要が行われる浄智寺でなく、その手前にある女駆け込み寺で知られる東慶寺の中にずんずん入って行ってしまったのである。浄智寺に入って行くと既に法要が始まっていて、座の中から私達を見つけた野中ユリさんが甲高い声で「あなた達、何処に行ってたの!?」が読経に交じって響いた。…………想えば、あの日から三十年以上の時が経ち、中西さんをはじめ、この日に集っていた多くの人も鬼籍に入ってしまい、既に久しい。

 

……澁澤さんの墓参を終えた後に、三島由紀夫さん達が作っていた『鉢の木会』の集まりの場所であった懐石料理の『鉢の木』で軽い昼食を済ませて、由比ヶ浜の鎌倉文学館に行った。

三島の『春の雪』にも登場する、旧前田侯爵家別邸である。

 

澁澤龍彦展は絶筆『高丘親王航海記』の原稿の展示が主で、作者の脳内の文章の軌跡が伺えて面白かった。先日観た芥川龍之介の文章がふと重なった。

 

……この日の鎌倉は、海からの反射を受けて実に暑かった。永く記憶に残っていきそうな1日であった。

 

 

 

 

③……話は少し遡って、先月の半ば頃に、線状降水帯が関東に停滞した為に夕方から土砂降りの時があった。……このままでは先が読めないし危険だと思い、アトリエを出て家路を急いでいた。雨は更に傘が役にたたない程の物凄い土砂降りになって来た。……帰途の途中にある細い路地裏を急いでいると、先の道が雨で霞んだその手前に、何やら奇妙な物が激しく動いているのが見えた。……まるで跳ねるゴムの管のように見えた1m以上のそれは、激しい雨脚に叩かれて激昂して跳ねている一匹の蛇であった。雨を避ける為に移動するその途中で蛇もまた私に出逢ったのである。

 

……細い道なので、蛇が道を挟んでいて通れない。尻尾の後ろ側を通過しようとすれば、蛇の鎌首がV字形になって跳ぶように襲って来る事は知っている。私の存在に気づいた蛇が、次は私の方に向きを変えて寄って来はじめた。……私は開いた傘の先で蛇の鎌首を攻めながら、まるで蛇と私とのデュオを踊っているようである。……やがて、蛇は前方に向きを変えて動きだし、一軒の無人の廃屋の中へと滑るようにして入っていった。暗い廃屋の中にチョロチョロと消えて行く蛇の尻尾が最後に見え、やがて蛇の姿が消え、無人の廃屋の隙間から不気味な暗い闇が洞のように見えた。

 

 

 

 

 

④…3の続き。

蛇に遭遇した日から数日が経ったある日、自宅の門扉を開けてアトリエ(画像掲載)に行こうとすると、隣家からIさんが丁度出て来て、これから散歩に行くと言うので、並んで途中まで歩く事にした。

 

 

 

 

 

Iさんは私と違い、近所の事について実に詳しい。……そう思って「Iさん、先日の土砂降りの日に蛇に出会いましたよ。暫く雨の中でのたうち回っていましたが、やがて、ほら、あの廃屋の中に消えて行きましたよ」と私。すると事情通のIさんから意外な返事が返って来た。「いや、あすこは廃屋じゃなくて人が住んでいますよ」。私は「でも暗くなった夕方も電気は点いていないですよ」と言うと、「電気が止められた家の中に女性が一人で住んでいて、時々、狂ったような大声で絶叫したり、また別な日にそばを歩くと、ブツブツと何かに怒ったような呪文のような独り言をずっと喋っていて、年齢はわかりませんが、まぁ狂ってますね。」と話してくれた。

 

私は、あの土砂降りの雨の中、その廃屋の中に入っていった一匹の蛇と、昼なお真っ暗な中に住んでいる一人の狂女の姿を想像した。……あの蛇が、その女の化身であったら、アニメ『千と千尋の神隠し』のようにファンタジックであるが、事は現実であり、その関係はいっそうの不気味を孕んでなお暗い。芥川龍之介の母親の顔を写真で見た事があるが、母親は既に狂っていて、その眼は刺すように鋭くヒステリックであった。……与謝蕪村に『岩倉の/狂女恋せよ/ほととぎす』という俳句がある。蕪村の母親は芥川龍之介の母親と同じく、蕪村が幼い時に既に狂っていて、最後は入水自殺であった。

 

……ともあれ、その廃屋の中に一匹の蛇と一人の狂女が住んでいるのは確かのようである。……昔、子供の頃に、アセチレンガスが扇情的に匂う縁日で『蛇を食べる女』の芸を観た記憶がある。芸といっても手品のように隠しネタがあるのでなく、女は実際に細い蛇を食べるのである。だからその天幕の中には生臭い蛇の匂いが充ちていた。……周知のように、蛇の交尾は長く、お互いが絡み合って24時間以上、ほとんど動かないままであるという。……ならば、もしあの蛇が雄ならば、狂女もずっと動かないままなのか?……。文芸的な方向に想像は傾きながらも、その後日譚は綴られないままに、私は今日も、その暗い家の前を通っているのである。

 

 

 

⑤先日放送された『日曜美術館』の勅使川原三郎さんの特集は、この稀人の多面的に突出した才能を映してなかなかに面白かった。番組は今年のヴェネツィアビエンナ―レ2022の金獅子賞受賞の記念公演『ペトル―シュカ』(会場はヴェネツィア・マリブラン劇場)の様子や、勅使川原さんの振り付けや照明の深度を探る、普段は視れない映像、また彼がダンス活動と共に近年その重要度を増している線描の表現世界などを構成よくまとめた作りになっていて観ていて尽きない興味があった。

 

……その線描の作品は、荻窪のダンスカンパニ―『アパラタス』で開催される毎回の公演の度に新作が展示されているのであるが、1階の奥のコ―ナ―に秘かに展示されている為に意外と気付く観客が少ないが、私は早々とその妙に気付き、毎回の展示を、或る戦慄を覚えながら拝見している一人である。……踊るように〈滑りやすい〉トレペ紙上に鉛筆やコンテで描かれたそれは、一見「蜘蛛の糸のデッサン」と瀧口修造が評したハンス・ベルメ―ルを連想させるが、内実は全く違っている。ベルメ―ルが最後に到達したのは、幾何学的な直線が綴る倒錯したエロティシズムの犯意的な世界であったが、勅使川原さんのそれは、ダンス表現の追求で体内に培養された彼独自の臓物が生んだような曲線性が、描かれる時は線状の吐露となって溢れ出し、御し難いまでの強度な狂いを帯びて、一応は「素描」という形での収まりを見せているが、この表現への衝動は、何か不穏な物の更なる噴出を辛うじて抑えている感があり、私には限りなく危ういものとして映っているのである。(もっとも美や芸術やポエジ―が立ち上がるのも、そのような危うさを帯びた危険水域からなのであるが)。……想うに、今や世界最高水準域に達した観のある彼のダンス表現、……そして突き上げる線描の表現世界を持ってしてもなお収まらない極めて強度な「何か原初のアニマ的な物」が彼の内には棲んでいるようにも思われて私には仕方がないのである。

 

……三島由紀夫は「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と評したが、あえて例えれば、彼の内面には、ニジンスキ―とジャンジュネのそれを併せたものと、私が彼のダンス表現を評して「アルカイック」と読んでいる中空的な聖性が拮抗しあったまま、宙吊りの相を呈しているように私には映る時がある。……以前に松永伍一さん(詩人・評論家)とミケランジェロについて話していた時に、松永さんは「完璧ということは、それ自体異端の臭いを放つ」と語った事があるが、けだし名言であると私は思ったものである。そして私は、松永さんのその言葉がそのまま彼には当てはまると思うのである。……異端は、稀人、貴種流謫のイメ―ジにも連なり、その先に浮かぶのは、プラトン主義を異端的に継承したミケランジェロではなく、むしろ世阿弥の存在に近いものをそこに視るのである。

 

……さて、その勅使川原さんであるが、東京・両国のシアタ―Xで、今月の7日.8日.9日の3日間、『ドロ―イングダンス「失われた線を求めて」』の公演を開催する。私は9日に拝見する事になっていて今からそれを愉しみにしているのである。また荻窪の彼の拠点であるダンスカンパニ―『アパラタス』では、勅使川原さんとのデュオや独演で、繊細さと鋭い刃の切っ先のような見事な表現を見せる佐東利穂子さんによる新作公演『告白の森』が、今月の21日から30日まで開催される予定である。そして11月から12月は1ヶ月以上、イタリア6都市を上演する欧州公演が始まる由。……私は最近はヴェネツィアやパリなどになかなか撮影に行く機会が無いが、一度もし機会が合えば、彼の地での公演を、正に水を得た観のある彼の地での公演を、ぜひ観たいと思っているのである。

 

 

 

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『加納光於展・開催さる』

先日の14日、鎌倉近代美術館で開催中の加納光於展のオープニングに出掛けた。加納さん、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美術家の中西夏之さん、深夜叢書の齋藤愼爾さん、美学の谷川渥さん、そして詩人の阿部日奈子さん他、久しぶりにお会いする方々が数多く訪れていた。

 

中でも中西夏之さんとお会いするのは澁澤龍彦氏の何周期目かの法事の時以来であるから、何年ぶりであろうか。その時は、北鎌倉は雨であった。皆がそぞろに寺へと向かう中、私と中西さんは相合い傘でその列を歩いていた。途中、話が中西さんの銅版画の近作に及び、私はこの20才年上の天才に苦言を申し上げた。「・・・あの作品に使ったアクアチント(松脂の粒)の粒子をもっと細かくして、薄い硝酸液で時間をかけてゆっくりと腐食して,インクにもう少し青系を加えれば、側面から濡れた叙情性が入り、主題と絡まって、版画史に残る名作になる筈でしたが、何故乾いた作品にしてしまったのでしょうか!?」という問いである。すると中西さんは「・・・その事は刷った後で気付きました」と語った。あぁ、中西さんもやはり気付いていたのか。・・・そう思いながら、私たちは次の話題に移っていった。

 

・・・ふと見ると、前を歩いていた人達が見えない。中西さんは論客である。私もよくしゃべる。話にお互いがのめり込んでいて、私たちは迷ってしまい、東慶寺が見えたので、その門に入り、奥へと入って行った。・・・いつしか雨が止んで、蝉しぐれがかまびすしい。しかし、・・・人影はまるで無い。中西さんが静かに一言、「私たちはどうやら、行くべき寺を間違えてしまったようですね。」・・・私たちは来た道を戻り、あてもなく歩いていると浄智寺の門が見えた。おぉ、そうだった!!・・・澁澤さんの墓はここに在るのであった。既に法事が始まっていて、皆、厳粛な顔をしている。遅れた私たちにコラージュ作家の野中ユリさんが、「遅いわねぇ、何処に行っていたのよ!!」と、真顔で叱られてしまった。話は戻るが、個人的な意見を更に述べさせて頂ければ、私はもっと中西さんに、独自の版画思考(手袋の表裏を返したような反転の思考)で、もっと版画(特に銅板画)を作って欲しかったと、つねづね思っている。この国の版画家たちにあきらかに欠けているのは、知性、ポエジー、エスプリ、独自性、・・・つまり表現に必要なその一切の欠如であるが、先を行く先達として、荒川修作、加納光於、若林奮・・・といった各々の独自性の中に、中西さんの版画の独自性が特異な位置としてあれば、よほど興があり、又、中西さんの表現世界も、より厚みが増したであろう。

 

まだ美大の学生の時に、当時の館長であった土方定一氏に呼ばれてこの鎌倉近代美術館を訪れたのが初めてであったが、その頃のこの美術館は、土方さんの力もあって、海外の秀れた作品が見れる企画が続いて活況を呈していたものであるが、今は老朽化が激しい。驚いた事に、鎌倉に長く住んでおられる加納さんの個展は初めてとの由。十年前に見た愛知県立美術館での加納さんの個展は充実していたが、今回は展示に今一つの工夫とセンスの冴えが欲しかった。展示はそれ自体がひとつの加納光於論であり、解釈であらねばならない。特に加納さんのオブジェは私とは異なり、素材へのフェティッシュなまでの想いの強さは無く、無機的。一緒に作品を見ていて美学の谷川渥さんとも話したのであるが、加納さんの作品には、そこに実質としての主体が無く、ありていに言えば、『アララットの船あるいは空の蜜』に代表されるように、それは観念の具であり、何ものかが投影された、それは影でしかない。その影としてのありように、加納さん独自の知性とポエジーの冴えがあり、作品は云はば主語捜しの謎掛けである。しかし、展示の仕方が、あまりにも無機的な、博物館のようで今一つの工夫が見られなかったために、無機的なものが相乗して、「見る事とは何か!?」というアニマが立っておらず、又、「間」を入れたスリリングな興が立たず、それに会場は寸切れのように狭く、ともかくも残念に思った次第である。美術館は葉山の方に一本化されて移るらしいが、色彩にこだわっておられる加納さんの展示は、むしろ明るい葉山でこそ開催されるべきではなかっただろうか!!

 

加納さんと私の資質の違いを示す話を書こう。・・・・・・以前に横須賀線の電車で、加納さんと私は同じ横浜方面へと向かう為に席に座って話をしていた。すると突然、加納さんは私に「あなたは、作品に秘めた本当の想いが他者に知られては、たまるかという想いはありませんか・・・?」と問うてきた。私は閃きのままに、次なる構想が立ち上がると、それをガンガンと人にも伝える。果たして、後にそれを本当に作るかどうかは不明であるが、とにかく言葉が、未だ見えないイメージを代弁するかのように突き上げて出るのである。その私を以前から見ていて、加納さんは遂に問われたのであろう。そして私は返答した。「全開にして語っても、なお残る謎が私の作品にはあります。それが私の作品の真の主題です」と。加納さんは寡黙の人。私は◯◯である。

 

この御二人の先達に、私は各々の時期において少なからぬ影響を受けて来たものである。そして御二人の作品も私はコレクションしている。中西さんのオリジナル作品『顔を吊す双曲線』を私が所有している事を中西さんに告げると、とても嬉しそうな表情を浮かべられ、私もまた嬉しかった。この作品は今もなお、私に対して挑戦的であり、私がこの作品の前に立つ時は、手に刀を持っているような感覚を今も覚えてしまうのである。・・・・とまれ、加納光於展は始まったばかり。源平池を眺めながら、古都鎌倉の秋にしばし浸るには、ちょうど良い時期ではないだろうか。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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