浜田知明

『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『一期一会』

……1970年代、美大の学生の頃は川崎の溝の口に在った学生寮に住んでいたが、卒業した後は横浜の各所を転々とした。本牧、山手町、中華街と海岸通りに挟まれた山下町……10回ばかり転居したが、ずっと変わらず横浜に住んでいる。一方がざっくりと海であるという開放感と、無国籍風な如何わしさ、犯罪の臭いが漂う不穏な怪しさが性に合っているのであろう。昨今は横浜も小綺麗な街へと変貌してしまったが、私が転々としていた頃の横浜は、ノスタルジアの気配が色濃く充ちていて面白かった。その記憶の一隅に今は無い古色然とした桜木町駅が在り、そのすぐそばに横浜市民ギャラリ―が在った。……『今日の作家展』をはじめとして度々優れた企画展を発信し、東京や遠方からもたくさんの人が訪れていて活気に充ちていたのを今も懐かしく思い出す。しかし、いつしかその市民ギャラリ―も無くなり、記憶の中に幻のように今も在る。

 

 

桜木町駅

 

 

昔の横浜市民ギャラリー

 

 

1964年に開設された横浜市民ギャラリ―は、その後2度の移転を経て、2014年から新しく運営が始まった。場所も桜木町駅側から近くの丘の上へと移り、明治の頃は横浜港が眼下に映えて風光明媚を極めた伊勢山皇大神宮の側に今は在る。……その横浜市民ギャラリ―で、今月13日迄、『モノクロ―ム/版画と写真を中心に』と題した、ギャラリ―コレクション展が開催されている。……私の版画もコレクションされていて、80年代に作った版画『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』と『死と騎士と悪魔』の二点が展示されている。他の出品作家は、一原有徳斎藤義重高松次郎宮脇愛子長谷川潔、……写真では浜口タカシ土田ヒロミ……など26人の作品が展示されている。私は個人的には、斎藤義重さん、一原有徳さん、高松次郎さんとは一期一会のご縁があったが、今日は一原さんと、写真の土田ヒロミさんについて書こうと思う。

 

 

 

『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』

 

 

 

先ずは版画家として既に活動を始めていた26才の頃であったか、札幌でNDA画廊というのを開設している長谷川洋行という人から「個展をぜひ開催したいので、とにかく会いたい」という電話が入り、横浜、桜木町駅近くの喫茶店でお会いした。非常に熱く語られる方でその熱意に共鳴して、半年後の冬に開催が決まり、私は初めて札幌の画廊を訪れた。

 

時計台近くに在るその画廊は、大正時代に建てられた「道特会館」という石造のビルの中に在った。……薄雪が舞う中、画廊に入るとたくさんの来客で会場は埋まり、みな熱心に作品を観ているところであった。その人達は以前から私の版画のファンの方で、私を囲んで語らいが始まった。……すると突然ドアが開き、吹雪く外の雪と共に、ご年輩の男性の方が入って来た。その方は皆から尊敬を集めているらしく、その熱気が私にも伝わって来た。その人を長谷川さんから紹介され、「一原有徳」というお名前の人である事を知った。もちろん初対面ながら、その人は私が作者である事を知ると近寄って来られて開口一番、何とも言えない笑顔で「北川さん、私はあなたの作品が大好きなのです」と言われた。個展の初日に私に会う為に、はるばる小樽から札幌まで列車で駆けつけて来られたのだと言う。話を伺うと、郵便局に勤めながら、ひたすら制作に没頭する人で、版画の市場性から離れて独自な人生を悠々と歩まれている方と見た。この自在な生き方は、後年にご縁が出来た浜田知明さんとその高潔さにおいて重なるものがある。……長谷川さん、一原さん共に逝かれたが、その一原さんの大作を今回ギャラリ―で拝見しながら、こうやって共に作品が並んで展示されているのも、なんだか不思議な廻り合わせを視るようで、考えるところがあった。まさに一期一会であったが、一原さんと過ごした僅かな時間ながら、無性に懐かしく、その時の時間を幻のように思い出す事がある。……一原さんの信念をそのまま映したような、美しい黒が刻印された強度なモノタイプの作品群は、これからますます評価が高くなっていくと、ある種の断言を持って、私は強く思った。

 

写真家の土田ヒロミさんとは、ちょっと奇妙なご縁がある。(共に福井の出身)……土田さんとお会いしたのは、2011年の秋、福井県立美術館で開催中の私の個展の時であった。当時館長をされていた芹川貞夫さんに紹介されたと記憶する。……私は迂闊にも土田ヒロミさんは女性の写真家だとずっと思っていたので、全くイメ―ジと異なる年輩の男性であった事に先ず驚いた。話をしているとちょっと面白い符合が見えて来た。

 

……私は小学6年生の頃まで、福井大学工学部の塀の横に広がる森の気配に引かれ、足繁くそこに通う日々であった。森の横には小川も流れ、そこで感性を養ったと言ってもいいくらい、隠れ家のようにして遊んでいた。……今の作品に繋がるイメ―ジ舞台の原型がそこに在る。……マックス・エルンストも幼児期に近所に広がる黒い森が画家としての魂が羽化する場所であったと告白しているが、その感覚はよくわかる。……森の中には一軒の洋館があった。噂では大学教授の持ち物という事だが、それを鵜呑みにする私ではなく、何か不穏な気配をいつもそこに感じとっていた。………………土田さんと話をしたら、その森の事はよく覚えていて、あすこの森は何か異質な雰囲気があったと言う。私は嬉しくなった。更に話をして、面白い事がわかって来た。私が件のその森に入り、高い木の上に登ると、そこから大学工学部の実験棟の広がりが遥かに見えた。子供というのは何でも怪しいものと視てしまうので、その実験棟も暗く見え、大学とは仮の姿、夜な夜な何かの機械が不気味に唸る音を立てており、白衣姿の怪しい大人達の暗い影が動いているに違いない……と空想する日々であった。……しかし、私がその不穏な気配を感じとっていた7才の頃、土田さんは何と、福井大学工学部の学生として、その実験棟の中で研究する日々を過ごしていた事が話していてわかった。あの時、土田さんは塀を隔てたすぐ間近にいたのか!!……同じ森の記憶を持っている人に出逢ったのは初めてだけに、土田さんを前にして、何か遠い記憶が活性化して少し揺れた。……その土田さんの写真のタイトルは『砂を数える』という連作が出品されている。

 

 

……横浜市民ギャラリ―を出て、すぐ近くに在る『伊勢山皇大神宮』の石段を昇り、大きな鳥井の在る前に出た。かつて明治の頃は、この高台からは横浜港の絶景が見えたが、今は高層ビルの群立で海は全く見えないのはいかにも残念である。……一期一会は人との出逢いだけに在らず、風景も、そして時間もまたそうなのだと思った。

 

 

 

伊勢山皇大神宮

 

 

100年前の伊勢山皇大神宮

 

 

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『洗濯女のいる池―ブルタ―ニュ篇・Part②』

「パサ―ジュVERO-DODATで作品を展示してみないか?」。……友人の作家I氏からの突然の吉報に私は驚いた。もちろん異論がある筈などないが、話を聴くと次のような流れをI氏が話し始めた。……30年近くパリに滞在し帰国していたI氏に、パサ―ジュを舞台にした私の夢想はそれとなく話していた。それがI氏を通じてパサ―ジュ『VERO―DODAT』で美術と文学の古書を商うベルナ―ル・ゴ―ギャンという人物の耳に伝わり、興味を示してくれた事で、夢想に過ぎなかった、作品を展示したいという仮想が実現する道が開けたのである。しかも「ゴ―ギャン氏は君の事をちゃんと覚えていたよ」と言う。「!?」と思い聴くと、15年前に私がパリに半年ばかり滞在していた時に、パリのア―トフェア―にI氏と一緒に行った際、会場でたまたま出会ったゴ―ギャン氏に紹介して歓談しているという。…………私はようやく思い出した。確かゴ―ギャン氏と云えば、ハンス・ベルメ―ル作品の世界的に知られるコレクタ―で面識が広く、画家のホックニ―やレオノ―ル・フィニたちとも親交がある一流のディレッタント(好事家)であったと記憶する。そのゴ―ギャン氏にI氏から、私のパサ―ジュへの想い、版画集にそれを籠めて『反対称/鏡/蝶番―夢の通路VERO―DODATを通り抜ける試み』というタイトルを付けた事などを話すと、ゴ―ギャン氏は「実に面白い。それこそがパサ―ジュというものが持っているエスプリだよ」と言って、作品の展示を私の店でやろう!と快諾し、かなり乗り気なのだと言う。……あの時、あの午前の薄暗い無人のパサ―ジュの長い通路の中に、ゴ―ギャン氏の店があったのか!……時空間を隔てながらも、何か不思議な引き寄せの力に導かれていくのを感じ、I氏からの電話が終わった後も、未だ半信半疑、夢見のような気分であった。……しかし、パリに行くとなったら、いつ、何日間、具体的な手筈は?旅の資金は?…………あまりに突然、急に降って湧いた話から現実への移行へと頭が移っていった。…………そして、今一つの不思議な導きの話がそのすぐ後にやって来る事を、私はまだこの時知らなかった。……パサ―ジュでの作品展示の可能性が出て来たのと、ほぼ時期を同じくして、パリに行って取材記事を書いてほしいという、実にタイムリ―な仕事が舞い込んで来たのである。

 

 

……あれは確か、熊本の画廊で版画集の個展を開催し、会場に来られた版画家の浜田知明さんにも久しぶりにお会いして、東京に戻る時の飛行機の中であった。私はANAの機内誌『翼の王国』の海外の旅を取材した記事を読んでいた。あまり面白い文章ではなかった。文書に起伏がなく艶が無いその記事を読んでいて、生意気にも私は「この程度なら、自分の方がもっと上手く書ける」……そう思った。旅の取材の記事は、以前に『SINRA』という雑誌や『東京人』『太陽』などに書いた事があった。それを思い出したのである。……しかし、数日後に知ったのであるが、飛行機に乗っていた正にその時、地上の東京では、私に旅の取材記事を書かせるべく編集会議が開かれていたのであった。……その編集会議が『翼の王国』なのであった。

 

数日して電話が入り、私は編集長達と代官山のカフェで会った。……実はパサ―ジュとの出会いから帰国してすぐに版画集の制作に入ったのであったが、同時進行で『「モナ・リザ」ミステリ―』という題名の200枚ばかりの中編原稿を執筆し、以前に文藝誌の『新潮』に発表した二篇と併せた単行本を新潮社から刊行したのを編集長達は読んでいて、執筆を……という経緯になった事を知った。……「ANAが飛んでいる就航空港地ならどの国でもいいですよ」と言うので、即決で取材先をパリに決め、「時間隧道・パサ―ジュを巡る」というテ―マで、急きょ旅立つ事になった。同行は写真家のH氏、編集部のY氏。そしてパリでは通訳のK女史が合流しての7日間の旅へと急ぎ旅立った。(勿論、展示する為の版画集『反対称/鏡/蝶番―夢の通路VERO―DODATを通り抜ける試み』と一点のオブジェを携行して)

 

しかし、パリの空港に着くと、迎えに来てくれた通訳のK女史が落ち着かない様子。「今日、ゴ―ギャン氏から連絡が入り、取材予定日を急きょ変更して3日後に変えてほしい」との事であった。……着いた翌日からパサ―ジュVERO―DODATのゴ―ギャン氏に会って先ずはインタビュ―と作品展示の予定であったが、出足で躓いた感があった。……「急きょ予定を変更する訳は、何か不測の事態でも起きたのですか?」と私がK女史に問うと、「急にブルタ―ニュに行く事になってしまった」と言って、ゴ―ギャン氏からの連絡が途絶えてしまったとの事。もはやゴ―ギャン氏の言葉を信じて3日後を待つしかない。私達は急きょ予定を前後して、翌日の朝、モンパルナス駅からナントへと向かった。ナントにある階段状のパサ―ジュ『ポムレ―小路』の取材から始めたのであるが、このナント行きを経て、そこでもイメ―ジの閃きが立ち上がり、それが次の版画集『NANTESに降る七月の雨』に繋がっていくのであるが、それはまた別な話。……それにしても、予定していたスケジュ―ルを変更してまで慌ただしく、はるばるブルタ―ニュへと向かったゴ―ギャン氏の身に何が起きたのであろうか?……ブルタ―ニュ、果たして、そこに何があるのであろうか?

 

(次回、最終篇に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『回想・浜田知明さん』

……先月の16日、午後から私の作品集の色校正に向かう前に少し時間があったので、引き出しを開けてオブジェの断片に使うコンパスを探していた。その引き出しは工具以外は入っていない筈なのに、何故か1枚の葉書がそこに紛れこんでいた。……妙だなと思って手に取ると、それは以前に版画家の浜田知明さんから頂いた年賀状であった。自筆の青いインクで「これからも良い作品を作り続けていって下さい。浜田知明」と書かれた、私への励ましの文が記されていた。……一瞬ヒヤリとする予感が背筋を走った。以前に、佐谷和彦さん(画廊の立場から日本の現代の美術界を強力に牽引された)が亡くなられる数日前に、夢の中で、背中に眩しい光を放ちながら、私に満面の笑みを送ってくる佐谷さんの夢をみた、その2日後に佐谷さんは急死されたのであるが、それに似た感覚がその時に卒然と立ったのであった。……果たしてその翌日の17日に浜田さんは逝去された。享年100才。その報は、いま私の個展を開催中のCCGA現代グラフィックア―トセンタ―館長の神山俊一さんから頂いた。

 

私が独学で銅版画を始めたのは19才の時であった。当時は版画が活況で、『季刊版画』という密度の濃い季刊誌を読みながら、その中に登場する、駒井哲郎、棟方志功、池田満寿夫……といった人達の記事を読みながら、自分も版画史の中に入っていくような作品を作りたいという熱い想いに没頭するような日々を送っていた。その後、幸運にも駒井哲郎、棟方志功、池田満寿夫といった先達に評価されて、版画家としてスタ―トしたのであるが、若年の私には、いま一人の意識する先達がいた。それが浜田知明さんである。浜田さんと同じ壁面に作品が飾られるという体験をしたのは、私が30才の時、東京都美術館が企画した『日本銅版画史展』であった。そして、実際に浜田知明さんに出会えたのは翌年に開催された『東京セントラル美術館版画大賞展』の受賞式の時であった。この展覧会で私は大賞を受賞したのであるが、その選考委員の一人に浜田さんがおられたのであった。式の時に、やはり選考委員であった池田満寿夫さん達と話をしていると、会場の奥から浜田さんが、私を鋭くじっと見ながら近づいて来られた。版画の分野を越えて、戦後の日本美術史にその名を刻む人を前に、まだ若僧の私はいささか緊張した。しかし、浜田さんは開口一番、笑みを浮かべて「あなたの今回の受賞作『アンデスマ氏の午後』を大分の美術館に入れたいのですが、まだ在庫はありますか?」と云われたのであった。その作品は、この展覧会の直前に番町画廊で開催した個展で完売してしまっていたのであるが、私は自分用に取ってあるAP版ならありますと答えたのであった。……それから浜田さんはご自分で開発された秘伝の技法というべき貴重な隠しテクニックをその時に詳しく教えてくれたのであった。……私にとって必要な、しかし前に進むには未だ知らない技術を、浜田さんは拙作を観て鋭く感じとられていたのである。……しかし、その後、浜田さんは熊本に住まわれていてなかなかお会い出来ず、年賀状のやり取りが続いたのであるが、後に版画集の個展を熊本の画廊で開催した時に、浜田さんは二日続けて画廊に来られ、長い時間、じっくりと私は浜田さんとお話しをする幸運な機会を持てたのは、今思い返しても貴重な体験であり、表現者としての財産となっている。「私はあなたの作品が大好きなんですよ」と何度も云われた浜田さんに、私の作品のどういった面が好きなのですか!?」という大事な、当然聞いておくべき事を聞いておかなかったのは不覚であるが、それが何であるかは、実は私は想像がついている。後日、私が熊本の個展を開催した画廊の人が運転する車で空港へと向かって行く時に、浜田さんと偶然、道で再会したのであるが、その時に私に向かって強く手を振っておられた光景は、何故か駒井哲郎さんのありし日の姿と重なって今もありありと眼に浮かぶ。駒井哲郎、浜田知明。このお二人は精神が無垢なままに通じ合う、戦後のある時代を共有するパイオニアであった。……そして版画の黎明期を支えるべく、真摯に版画と向かい合った先駆者であった。私は彼らから銅版画のみに潜むエッセンスを吸収したが、それは通史としての版画史の核に通じるものでもある。……浜田知明。この澄んだ魂と、反骨にして深く人間の不条理を凝視し続けた人の事は、私は年賀状に青いインクで書かれた励ましの言葉と共に決して忘れないであろう。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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