赤穂事件

『十二月の薔薇』

久しぶりに訪れた昼下がりの薔薇園は私以外に人がおらず、あくまでも静かであった。冬は乾燥しているせいか、薔薇の原色が映えてたいそう美しい。……私はその薔薇の花弁を詩法に見立て様々に撮してみた。

 

 

 

 

①主客の客は全く言及せず主のみに迫り、〈適度〉という距離の節度を犯してなおも迫ると、対象は朧になり、時に危うさを帯びた官能へと変容する。

 

②書く対象はあくまでも主体の方であるが、あえて主体には一切言及せず、客体の描写のみに濃密に専心する事で、そこから、朧と化した主体を立ち上がらせる事。

 

③樹間から漏れ落ちる光が、強い反射で時に本の文字をランダムに消す事がある。その空いた各々の空間に、全く別な文献の異なる文脈を持った文字をパズルのように嵌め込み、そこからせつないまでの抒情を立ち上げる事は可能か?

 

④ある一点の新作のオブジェに寄せる詩について想う。論考的な文体から始まり、それが次第に詩の空間へと変わる事は可能か?……と思い、とりあえず即興的に短詩を書いてみる。

 

観念が美を獲得するためには、/先ずは網膜における視覚の美が/前提として在らねばならない。/そのための/感情という視えないものを封印する試み。/ミシェルに視えない気配を立ち上げる試み。/結晶の雫    /サンマルタンの運河が見える静かなる窓辺で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月12日・晴れ。午後より両国に行く。ダンスの勅使川原三郎氏と佐東利穂子さんによるシアタ―Xでの公演『ガドルフの百合』(宮沢賢治作)の最終日である。4時からの開演であるが、早く両国に着いたので、斎藤緑雨(樋口一葉を世に送り、その死後一葉の全集を監修した、明治文壇の鬼才)の終焉の場所を本所横網町に捜すが、杳として見つからない。

 

 

諦めて、次はシアタ―X近くにある吉良邸跡に行き、その屋敷があった場所周辺をくまなく歩く。今から320年前にあった赤穂事件の正に現場。裏門があった場所を示すプレ―トがあり、表門も場所がわかっているので、その間の、つまり現場跡を歩く。屋敷の広さは東西134m、南北63m。約1対2の比率である。……これから討ち入りに参加される方の為に、赤穂浪士達が欲しがっていた吉良邸の図面を参考までに掲載しておこう。

 

 

 

 

 

 

そろそろ開演時間が近づいたのでシアタ―Xに行く。勅使川原氏は稲垣足穗、中原中也、泉鏡花等の原作から立ち上げた作品もかなりあるが、宮沢賢治が特に多いように記憶にはある。賢治の光学、鉱物学等までも種々孕んだ多様な引き出しの多さ、麻痺的なまでのポエジ―空間の孕みの壮大さと、その褪せない普遍へと至るモダニズム感は、正に勅使川原氏自身のそれである。

 

…………樋口一葉の住んだ本郷菊坂の家近くに、後に宮沢賢治が住んだ事を示す小さなプレ―トがある。ちなみに一葉が亡くなったのは1896年(明治29年)11月23日。賢治が生まれたのはその3ヶ月前の8月27日。この二人の天才詩人は、正に入れ替わるように生き死にのドラマを演じている。

 

その宮沢賢治は一晩で原稿用紙300枚を一気に書いたというから、もはや憑依、その速度は神憑り的な自動記述の域である。考えて書くのではなく、それは稲妻捕りのように下りてくる速度であり、その速度にして全く駄作のない完成度の高さ、深い抒情感までも確かに産み出す能力はもはや狂気に近い。正に美は、そのポエジ―は、壮絶な狂気と隣接するようにして近似値的なのである。

 

 

……最近の私は、万象全てが美しい夢、……つまり幻と映るようになっている。その私をして、その夕べに観た勅使川原氏、佐東さんの公演は、最も美しい幻―現世で観れた可視化した詩の顕現として映った。そして、円熟とはまた違う勅使川原氏の現在の境地を、さてどういう形容があるかと探したが、なかなかに見つからない。対としてのデュオの妙、照明、構成、音楽の妙……。その完璧の冴えを表す言葉を探したが、それは語り得ぬ領域に在るために、もはや感覚で享受するしかないのである。現実の世は不穏な気配に充ちて、ますます醜悪、その底無しの雪崩現象を呈してますますグロテスクと化している。この夕べに観た公演は、それに対峙する精神の美、芸術の権能の力を映してやまなかったのである。

 

 

 

 

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『勘三郎と内蔵助』

中村勘三郎さんのこの度の逝去に際し、あらためて人生の意味とは、その長さではなく密度と生き様である事を痛感した。舞台は度々拝見したが、今年の新橋演舞場での勘九郎襲名披露公演での口上が最後となってしまった。間近でお見かけしたのは久世光彦さんの葬儀の時であった。遺影の前に座っていて焼香のために並ぶと、数人前に勘三郎さんがいた。舞台では大きく華やいで見えるが、実際はかなり小柄であるのに驚いた。そういえばすぐ近くに森光子さんもいたが、舞台で共演したお二人がほぼ同じ時期に逝くのも何かの縁であろうか。政治家で、その死が惜しまれる人は昨今皆無であるが、役者は惜しまれてこそ命である。勘三郎としての円熟は果たせなかったが、この人が放つ「粋」と「艶」は、それを出し切っての生涯であったかと思う。生き急ぐように駆け抜けた見事な生涯であった。

 

人生を駆け抜けた・・・といえば、この時期はやはり1702年に起きた「赤穂事件」が思い浮かぶ。昨日、慶応義塾大学で開催中の瀧口修造展に行くために三田へと向かったが、途中で「泉岳寺」に眠る浪士たちの墓が見たくなり立ち寄った。私は四十七士の中では、最も奮闘した不破数右門と、上野介に太刀(槍ともいう)を浴びせ絶命させた武林唯七が好きであるが、やはり大石内蔵助(1659-1703)の墓前では立ち止まってしまう。その大石の辞世の歌「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」は、主君の浅野内匠頭の辞世の歌「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせん」の現世への未練がましさと比べると晴れ晴れとした心情が見事に刻まれていて心地良い。本来、辞世の歌とはあまり芸術的なレトリックを凝らさず、明快単純こそが好ましい。歌の31文字は俳句の17文字と比べると、その字数が多い分、つい本音が出てしまう。しかし本音を封印して後世に虚構や意地を放つのが辞世の歌の、云はば要領なのであろう。その意味でも、この大石の辞世の歌は目的を達成した自分や浪士たちの心境を映した名歌として、あまりにも有名である。しかし、しかし・・である。歴史好きな私としては、この大石の歌が、かつて何処かで聞いたものと重なって響くのが気になっていた。それで、個展も終わった束の間の閑を利用して調べてみた。すると、ある戦国武将の辞世の歌に辿り着いた。それは、信長と共に私の最も好きな武将である上杉謙信(1503-1578)である。謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかかる雲なき」である。如何であろうか・・・。たまたまだよと言う方もおられるかもしれないが、しかし両者を結ぶ人物が一人だけいる。それは江戸前期の儒学者、山鹿素行(1622-1685)である。彼は官学である朱子学を批判したため、一時、赤穂藩にお預けとなっていた折、若き日の大石たちに兵学を講じ、その際に行動学の美しい範として上杉謙信について熱く語った事は想像に難くない。その証しの一つが、大石が討ち入りの際に使った山鹿流の陣太鼓である。

 

討入りを果たした後に浪士達は四つの藩にお預けとなったが、その浪士たちが残した手紙の中に「虚しい・・・」という一文がある。ここに赤穂事件の真実が透かし見えるが、既に大石の意識は後世の評価にその目があった。「・・・・・浮世の月にかかる雲なし」を大石が切腹前のいつ頃に詠んだかは不明であるが、名プロデューサー大石内蔵助の本領がここに在る。上杉謙信からのパクリとは決して言えない見事な「引用の詩学」であると、私は思うのである。

 

 

泉岳寺の中門。空襲から免れて当時の遺構を今に留めている。

 

 

今も線香の煙が絶えない大石内蔵助良雄の墓

 

 

討入りの本懐を果たした後で、泉岳寺のこの井戸で吉良上野介の首を洗ったと云われている。碑は明治時代の俳優ー川上音二郎の建立。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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