鈴木泰郎

『まるでチェスゲームのように』

先日、書店で美術評論家のF氏が書いたルネサンス関連の本があったので、開いてつらつらと読んでいたら、気になる記述が目に止まった。そこには「ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが重なるという説があるが、当時は美の規範として目や鼻や眉の位置が決まっていたので重なるのは当然である。」と記されていた。

 

実は、私が先日刊行した『絵画の迷宮』は、口絵にパソコンによる画像処理により、ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザが不気味なまでに重なっていくプロセスを四段階に分けて載せており、その偶然ですませられない完全な合致から推論を立ち上げ、遂にはダ・ヴィンチの内なる不気味な女性性(云わゆるトランスジェンダー)と、更には母親とも重なる母子合体のイメージ(これはデューラーにもある)のある事に言及し、そこから人々が抱く哲学者然としたダ・ヴィンチ像からかけ離れた、生々しいダ・ヴィンチの実像に迫っていった。故にこのF氏の説は、結果としての私の説に反論するものとして興味が湧いてきたのである。

 

F氏の説でいくと、ダ・ヴィンチの描いた女性像は、モナ・リザ以外にも全てダ・ヴィンチの自画像とピタリと重なる事になる。美の規範とは響きは良いが、そのような杓子定規な美の入口を越えた遥か高みと闇の深みにダ・ヴィンチは到達しており、聖母像を主に描いたラファエロたちとは大きく異なるのである。この美術評論家は果たしてどれくらいダ・ヴィンチの個に迫り、自説を裏付けるべく、私のように徹底したのであろうか???

 

私は自説を今一度検証すべく、音楽家の鈴木泰郎氏に御協力を頂き、パソコンの前に座った。鈴木氏の完璧な技術力を得て私たちは、自画像にモナ・リザ以外の作品を次々と重ね、ミリ単位よりも細かで密な検証を行った。結果から語れば、この美術評論家F氏の説はあっけなく崩れ去り、ジネヴラ・ベンチ他の「四分の三正面像」はことごとくズレを呈したのであった。それは、予想したとおり、当然な結果ではあるが・・・。そして私は「モナ・リザ」のみが、ダ・ヴィンチの自画像と、その向きの角度までも含めて完璧に(かつ不気味に)重なっていくのを改めて確信したのであった。ダ・ヴィンチの自画像とモナ・リザの向きは真反対の対面として在る。そこにダ・ヴィンチがこだわった「鏡」面性の論理が加わってくる。私たち研究家は、ダ・ヴィンチという知と闇の巨大な山の頂上(真実の相)を目指して、各々の角度から山頂を目差す。たとえば、F氏は教科書のような知識を拠り所に。そして私は、自身も画家である事の直観と多面的な推測の幅を持って。ダ・ヴィンチとは、最高度に謎めいて、かつ知的であり、あたかも鋭いチェスゲームのような尽きない魅力に満ちている。それに立ち向かうには、こちらの直観を研ぎ澄まし、かつ複眼の思考であまねく立ち合わねば、たちまち、迷路にはまり込んでしまうのである。残念ながら、日本における美術評論書には「これは!!」と思わせる書物が無く、私が共振するのは翻訳による外国の書き手の方が多い。そしてその多くが、日本のように学界めいた色褪せたものではなく、知性とミステリー性が深く混在した、読む事のアニマに充ちた書物なのである。

 

ともあれ、ご興味のある方は私と同じく、ダ・ヴィンチの自画像と他とを実際にパソコンで重ね見て頂ければと思う。そして、自画像と「モナ・リザ」のみが、完璧に重なる事を直接体験され、御自分の説(推理)を立ち上げて頂ければと思う。その検証の先にあなたを待ち受けている言葉は間違いなく「事実は小説よりも奇なり」という、あの言葉なのである。ダ・ヴィンチはやはり最高に面白いミステリーの「描き手」なのである。

 

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