高橋お

『降り積もる雪に想う』

大正五年の12月9日に死亡した夏目漱石は、翌10日に東京帝国大学病理学教室で長与又郎の執刀によって解剖された。長与はその後の講演で、漱石の脳を持参しながら「脳を今日持って参りましたが、夏目先生の脳はその重量に於いてはさほど著しく平均数を超過しておりませぬが廻転(しわ)はどうも非常に著しく発達している、特に左右の前頭葉と顧頂部が発達している・・・・云々」と語っている。

 

現在の東京大学医学部本館三階の南翼には、窓内が全て白布で覆われた部屋がある。医学部標本室である。私が初めてこの部屋を訪れたのは秋であった。構内の銀杏並木の黄が白布を通して透かし入り、室内がまばゆい金色に映えていた。ここの標本室には日本の近代史の暗部というべき標本がズラリと並んでいる。毒婦・高橋お伝の刺青の入った皮膚と◯◯部、阿部定が切り取った◯◯、日本において初めてマゾヒズムが裁判内で問われた某M女の皮膚(それには千枚通しで刺された無数の刺し傷がある)、・・・・等々。その部屋の一角に先述した漱石の脳の標本が「傑出頭脳」と称される参考例として、斎藤茂吉横山大観等々と共に(およそ50以上が)展示されている。私はホルマリンに白々と浮かぶそれらの脳を見ながら、「これが「それから」や「門」、これが「赤光」の創造の巣であったのかと・・・・奇妙な感慨にしばし耽ったのであった。

 

一般人と差別化された「傑出頭脳」は、なるほど学者たちにとって研究の対象としては興味深いものがあり、その研究は体系づけるようにして今日まで受け継がれているようである。しかしポジがあればネガの研究もあってしかるべきである。つまり犯罪者たちが、なぜ糸が切れたようにそれへと暴走してしまうのかという、その因子も又、脳に何らかの共通した証しが見てとれるのではないかと思うのである。しかし、私が聞く範囲に於いては、そういった暗い研究は行われておらず、又、その脳もポジの文化人のようには入手しにくいのであろう。とはいえ、昨今の閉塞した社会の映しがかつて無かったような犯罪を生み出している今日に在っては、この方面の研究にも本腰を入れてみる意味があるのではないだろうか?

 

先日、関東地方が雪で白く染まった日、私はアトリエで、3月初旬から森岡書店(東京・茅場町)で始まる新作個展のための作品を作りながら、窓外に降る雪を眺めて、数日前に私に殺人予告の手紙を送りつけてきた犯人の版画家Kの事を、ふと考えていた。そしてPCの遠隔操作で、やはり同じく殺人予告をして遂に逮捕された男、又、グアムの無差別殺人犯や、かつての秋葉原の無差別殺人犯・・・の事を思い、彼らの内に棲まう「魔」の正体について考えていた。共通して云えるのは感情をコントロール出来ず、衝動に走ってしまう、その制御力の無さと脳との関係について・・・つらつらと想いを巡らしていた。自分はこれ以上の筈と思いながら、それが現実には充たされないと、その責任を自分ではなく社会、あるいは他の個人に向けて牙をむく。ちなみに昨今、増加している「鬱病」は、不安な感情を司る偏桃体が血行不良により暴走するのが主たる原因である事は分ってきているが、犯罪へと至る人間の脳は、おそらく共通したもっと根深い部分にその因が共通してあるのではないだろうか・・・。

 

昨日、130年の歴史を誇る神田の「やぶそば」が火事になり、建物が焼け尽くした。この店は明治からの風情が残っており、私もしばしば、その度に違う面々と訪れた事があった。その中に先述した犯人もいた。その時は確か二人の詩人達もいたかと思う。明るく夢を語り、笑い声が時折、店内にも広く響いた。つまりは、・・・若かったのである。そして、その若さの内に巣食っている魔が、ゆっくりとその脳の中に瞳孔を開き始めている事など・・・おそらく本人も知る由もなく。

 

論旨が矛盾するようであるが、私達、表現者の内にもまた、別相ではあるが、魔が棲んでいる。しかし、そのデモニッシュなるものは飼いならさなくてはいけない。故に文体や方法論がその檻として必要になってくるのである。表現者たらんとするならば、いっそう〈意識的〉でならなければいけないのである。脳の負の部分も表現と絡めて対峙していけば、冒頭の漱石のように名作も又、生まれるのである。漱石の脳は病跡学でいうと、分裂症・パラノイア・同一性危機による精神障害・・・など10以上が診断されている。こうしてみると漱石や茂吉に限らず、「傑出頭脳」は対極のそれと同義にもなりうる。犯罪者は日常に牙を向けるが、私どもはそのエネルギーをアーティフィシャルなものへと向けて感性の切っ先を突きつける。その鏡面の向こうに映っているのは、あくまでも自分自身の姿なのである。こうしてつらつら考えてみると、〈芸術心理学〉の最も近い所に位置するのは或は〈犯罪心理学〉であるかもしれないという想いが立ってくるのであった。

 

アトリエの庭が白くなり、雪はその降りがいっそう激しくなってきた。少し積もるかもしれない。薄雪・・・ふと、その言葉から何故か〈プレパラート〉が浮かんできて、漱石の横に並んでいた茂吉の脳の一部が、薄くスライスされていた事を私は思い出した。それは茂吉が『赤光』の短歌の中で詠んだイメージと同じものであった。顕微鏡に脳の切片を入れて、その赤い照射を茂吉は美麗なまでに詠んでいるのである。— 美しい入れ子状の皮肉か。・・・・私は久しぶりに『赤光』が読みたくなってきた。

 

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