高浜虚子

『「人形の家」奇潭』

その①……

春三月・早いもので、いよいよ桜が満開を迎える頃になった。昼の制作時の集中のせいなのか、夜は床に就くのがかなり早い。寝床ではいつも読書三昧であり、これが実に愉しい。最近読んだ本は坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)。……夏目漱石正岡子規に、著者の坪内氏が加わりながら、初期の漱石が作った俳句百句について各々が自由に意見を述べるという、夢の机上対談である。

 

周知のように、漱石(1867~1916)は森鴎外と共に日本近代文学の頂点に立つ文豪であるが、小説家としてのスタ―トは実は遅く、そのデビュ―作『吾輩は猫である』を書いたのは1905年、実に漱石38歳の時であった。……では、その前は何をしていたかと云うと、親友の正岡子規に作った俳句の添削を仰ぐ熱心な俳人であった。その詠んだ句数はおよそ2000句。しかし子規と比べてみると、漱石の俳句は詰めと捻りに今一つの冴えが無い。

 

子規は一生懸命に添削をして鍛えるが、子規の死後に俳誌「ホトトギス」を継承した高浜虚子などに言わせると、「俳句においては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いてなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった」と書いている。

 

 

〈余談であるが、この高浜虚子という名前。以前から実にいい名前であり、構えに隙が無い城郭のようなものとして私には映っていた。しかしこの度の坪内氏の本を読んで、高浜虚子の本名を知って驚いた。驚きのあまり寝床で読んでいる本が顔に当たりそうになった。その本名とは…………高浜清(きよし)。……禅の悟りの境地のような響きを帯びた虚子(きょし)でなく、身近にもよくいそうな、やさしい響きのきよしなのである。それを知って、文藝の山脈の高みから一気に下りて来て、前川清(ク―ルファイブ)、西川きよし……の列に近づいて来た時は何故か嬉しくなってしまった。(察するに少年時の呼び名はキー坊ででもあったのか?)……この人も頑張って来たんだなぁ、そんな感じである。ちなみに虚子と命名したのは正岡子規。〉

 
しかしこの高浜虚子の存在が、俳人から文豪夏目漱石へと変貌する切っ掛けを作ったのだから、その功績は大きい。……虚子は自らが主宰する俳誌「ホトトギス」に何か書くように漱石に薦めた。そして書いたのが国民的小説『吾輩は猫である』であった。……漱石は以後、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『明暗』へ……と一気に文豪への階段を駆け上がっていった事は周知の通り。……そこで私は考えてみた。漱石はなぜ完成度の高い小説を次々と、まるで堰を切ったように書きえたのか?と。…………そしてその才能の開花の伏線に、23歳の時に正岡子規との交友が始まり、以後、子規の死まで2000句にも及ぶ句作の訓練をした事が膨大なイメ―ジの充電に繋がったに違いないと私は思い至ったのである。

 
漱石の最高傑作は『草枕』であるが、それは俳人・与謝蕪村が俳諧で描いて見せた理想郷を小説化したものである。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を書くにあたり蕪村の俳句2000句を詰めて分析し、そのイメ―ジの多彩さ、絢爛さ、その人工美の引き出しの多さに目眩すら覚えた。……漱石がその初期から最も心酔し、影響を受けたのがこの蕪村であった。……俳句とは五七五の17文字の中にイメ―ジを凝縮し、爆発的に放射させる力業の分野である。……漱石は、小説家としての出発以前から既にして、〈夏目漱石〉が準備されていたのであり、その才能の開花に大きく寄与したのが、もう一人の天才正岡子規の存在であった事は言うまでもない。

 

 

 

その② ……

昔、銀座七丁目に『銀巴里』という名の日本初のシャンソン喫茶があった(今はそれが在った事を示す小さな石碑のみが建っている)。……私も美大の学生時に知人に誘われて何度か訪れた事があった。三島由紀夫川端康成等も度々訪れた伝説のシャンソン喫茶である。若き日の美輪明宏金子由香利戸川昌子岸洋子……達が専属歌手として歌っていた。……そのシャンソン喫茶にピアフグレコアズナブ―ル……等のシャンソンの訳詞を書いて現れては、なにがしかの翻訳代を受け取って生活している若者がいた。後年、私も2回ばかり銀座で間近で見かけた事があるが、その若者は、獲物を確実に仕留めるような切れ長の、獣のような鋭い眼をしていた。……後の作詞家、なかにし礼である。……以前から私はこの人が書く詩が放つ〈艶〉に興味があった。そして、その詩法なるものに興味があった。……例えば、この人の初期にあたる作詞に『人形の家』という、弘田三枝子が唄ったヒット曲がある。……

 

 

顔もみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない

愛が消えたいまも/ほこりにまみれた人形みたい

愛されて捨てられて/忘れられた部屋のかたすみ

私はあなたに命をあずけた

 

 

……詩は一見、哀しくも耐える女のそれと映るが、異例の大ヒットのこの曲に、何か直感的に引っ掛かるものがあった。もっとこの詩には底に秘めた何かがあるに違いない、そうずっと思っていた或る日、なかにし礼本人がその底にあるもう一つの意味を、たまたま観ていたテレビで語った時には驚いた。……この詩に登場するのは、天皇と、召集令状が来て南方へと行き戦死した日本兵士だと、氏は告白したのであった。中国の牡丹江から命からがらに逃げて来た僅か10才の少年、なかにし礼の視た人間が獣と化す地獄絵図。………はたして直感は当たっていた。……なかにし礼における作詞のメソッドには、強かな二元論が入っていたのである。

 

それを知ってから、更にその詩法が知りたくなった。指紋のように付いてくるその艶の正体が知りたくなった。……私が出版編集者であったら、その詩法を書いて本にすれば面白い本になる筈、そう思っていた。……先日、制作の合間を縫って横浜の図書館に川本三郎氏の著書『白秋望景』(新書館刊行)を借りに行った。係の人から文芸・詩・俳句のコ―ナにある筈です、と言われ探したがなかなか見つからない。……すると2冊、目に入る本があった。一冊は先述した拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』。この図書館の美術書のコ―ナ―には拙著『モナリザミステリ―』(新潮社刊行)があるが、この本が文芸の俳句の欄に在る事は作者の執筆意図が反映されていて嬉しいものがある。

 

……そして、その本の近くに、願っていた本が川本三郎氏のすぐ横の詩の欄に『作詩の技法』(河出書房新社刊行)―なかにし礼というタイトルで見つかった。氏が亡くなる直前、2020年に刊行した遺作本である。作詞でなく、作詩と書いてあるのが氏の矜持と視た。

早速借りて来て読むと、一作が出来る迄の膨大な迷い、閃き、更なる言葉の変換が書いてあり、美術家としてでなく、私も詩を書く表現者として実に興味があった。……そして、なかにし礼氏の艶なるものが次第に見えて来た。……それはプロの作詞家になる以前の膨大な、およそ2000曲は翻訳して書いたというシャンソンの翻訳作業時代に培われて来た感性の構築が大きく関わっていると私は視た。……シャンソンの詞が孕んでいる愛憎、哀愁、そして洗練された優雅なるエスプリ。氏はそこから多彩な艶を吸収し、掌中に収めていったと私は視たのであった。

 

 

…………最初に書いた夏目漱石の俳句の修行時代に作った俳句、およそ2000句。そしてなかにし礼氏が食べて生きていく為に書いたシャンソンの訳詞数、およそ2000曲。……不思議な数字の符合である。

 

 

……以前に、ダンスの勅使川原三郎氏と公演の後だったか忘れたが、楽屋で雑談をしていた時、氏はこう語った事がある。「我々は10代から20代の半ば頃迄に何を吸収し、自分の糧としたかで、その後の人生は決まって来る。ひたすら吸収した後は、その放射だけである」と。全く同感である事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

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『……去年(こぞ)今年……』

個展が始まった10月半ば頃から急に減り始めた感染者数が、12月の半ば辺りから次第に反転増大を見せはじめ、新顔のオミクロン株なる招かれざる客が欧米を席巻し、今や日本も面的に、その拡がりを見せている。しかし、内実、ジワジワと迫っている眼前の危機は、むしろ地震の方であろう。

 

 

 

 

 

……実は、今年最後のブログは、都市型犯罪として昨今問題になっている自殺願望の犯人からの「巻き添え被害」から身を護る方法について書こうと思っていたのであるが、何故かふと気が変わり、そうだ、地震について書こうと考え直して書き始めたら、正にその数分後の11時33分頃関東地方に震度3の地震が起きた。……私が度々書いている、いつもの予知体験ともまた違う、この直感力。……私は鯰なのであろうか!?

 

……実は昨日、アトリエの奥で、天井の高みまで夥しく積み重なっている作品を入れる硝子の函(約80個くらい)を見て、さすがに地震が来ると崩れて危ないと思い、低く平積みにする作業を終えたばかりであったが、やっておいて良かったと思う、この予感力。……私はやはり、正体は鯰なのであろうか!?

 

……閑話休題、地震についてあれこれ考えていたら、ふと、文芸では地震という主題をどう扱って来たのかが気にかかり、俳句で地震を詠んだのがないかと調べたら、それが続々とある事を知り驚いた。実に数千以上もの俳句があるのである。中でも目立ったのは正岡子規

 

 

・年の夜や/地震ゆり出す/あすの春

 

・只一人/花見の留守の/地震かな

 

・地震て/大地のさける/暑さかな

 

・地震して/恋猫屋根を/ころげけり

 

 

……と.まだ視線は客観的で優しい。他には、幸田露伴の「天鳴れど/地震ふれど/牛のあゆみ哉」。北原白秋の「日は閑に/震後の芙蓉/なほ紅し」……内田百閒の「蝙蝠や途次の地震を云ふ女」……寺田寅彦の「穂芒や地震に裂けたる山の腹」……。例外は、高澤良一という人の句「冷奴/地震のおこる/メカニズム」、……固いマントル、それを深部から激しく揺らす熔けた岩漿(1000度近いマグマ)の関係から地震は起きるので、この冷奴の喩えは、風狂の気取りを装って、一読面白いがいささか俳句の本領からは遠いかと思う。

 

……私の関心を引いたのは京極杞陽の「わが知れる/阿鼻叫喚や/震災忌」・「電線の/からみし足や/震災忌」。……そして圧巻は、1995年兵庫県南部地震で被災した、禅的思想と幻視を併せ詠んだ俳人・永田耕衣の「白梅や/天没地没/虚空没」。……一輪の白梅と、絶体の阿鼻叫喚との対峙、この白梅の非情なる美の壮絶さ。……また詠み人はわからないが、大地震後に襲ってくる、あの背高い津波の是非も無しの魔を詠んだ俳句「大津波/死ぬも生くるも/朧かな」を最後に挙げておこう。

 

 

……思うのであるが、来年の1月中旬から3月末の間にかけて、何やら不穏であったものの極まりが、何らかの爆発の形を呈して露になりそうな、そんな予感がしてならないのは、何も私だけではないだろう。……北川健次、遂に陰陽師として動くのか!?……それとも只の鯰の過剰な妄想だけで、事は収まるのか。…………とまれ、ここは静かに高浜虚子の、去年今年(こぞことし)から始まる名句を挙げて、今年最後のブログを閉じようと思う。

 

……ちなみにこの俳句は、地震ではなく新年が開けた時の虚子の心境を詠んだ句であるが、虚子が住んでいた鎌倉の駅前にこの俳句が貼られた時、それをたまたま通りかかった鎌倉長谷在住の川端康成が一読して、その言葉の凝縮のアニマに打たれ、背筋を電流が走ったという。……昭和25年正月時の逸話である。

 

 

 

「去年今年/貫く棒の/如きもの」

 

 

 

陰陽師・安倍晴明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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