『今、アトリエにて想う事』 

写真の個展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』(ギャラリ―サンカイビ)が、先日の30日に盛況のうちに終了した。遠方からもたくさんの方々が画廊に来られ、交わし合う話しの中からも私は自分の新たな試みに確かな手応えを覚える事の出来た収穫の多い個展であった。……オブジェ、コラ―ジュ、詩、執筆、そして写真、更には、どのように化けていくのか未知数の中のサムシングの絶え間ない発芽への注視……。この六輪を各々に廻しながら、私の表現活動はなおも続いて行くのである。…………私が今回の写真展で強くその「眼」を意識したのは、写真家の川田喜久治さんであった。今日の写真家の多くが、迷走、失速、衰弱、そしてとって付けたような浅薄な観念の意味付けに傾く中で、唯一人、光が孕む魔的な闇の正体を追って悠然たる独歩の道に分け入っている、写真術師たる川田さんの眼は、私はやはり意識する。しかし、この緊張には心地よいものがあり、会場で川田さんが拙作の写真をご覧になっている間、私は無性に嬉しくて仕方がなかったのであった。前回のブログで登場した駒井哲郎さん、棟方志功さん、そして私をプロの道へと引き上げてくれた池田満寿夫さん達に、20才を過ぎたばかりの頃に拙作を観てもらっている時に覚えた手応えに通ずるものを、私は川田喜久治さんにも覚えるのである。つまり私は、本物の稀人たる表現者にしか興味がないのであろう。川田さんが以前に私の写真について書かれたテクスト「ひかりの謎」(私の写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』所収)は、読み返す度に発見があり、私を確かな方向へと導いてくれる本質的な示唆に充ちている。その確かな眼差しは、私が最初に版画家として出発する24才時に、池田満寿夫さんが書かれたテクストと通じるものがある。川田さん、池田さん等の実作者が見抜いた視点の核を突く鋭さに比べると、つくづく評論家なるものの書いた文章が、「眼力」ではなく、机上の頭で書かれた、つまりは現場知らずが書いた概念の印象、唯の感想の羅列でしかない事が、ありありと見えてくる。…………先日、会場で話された川田さんの言葉は、私の思考と直感の隙間を突いてくる刺激ある示唆に充ちていた。私には写真による自分にしか出来ない表現が放射状にある事が、ますます確信をもって見えてきたのである。

 

個展が終わり、いよいよ制作に集中を切り換える直前という正に好機に、私は実に刺激的な舞台を観た。勅使川原三郎氏と佐東利穂子さんによるダンス公演『ABSOLUTE ZERO―絶対零度』(世田谷パブリックシアタ―)である。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の中のマックス・エルンストの章で、勅使川原氏について言及し、彼を「天才」、そして「美の稀人」と断じたが、この断言の確信は今もって揺るがない。20年前の初演の時も私は観たが、時を経て、この作品は変容し、更なる思索と試みの先鋭な衣裳を帯びて、身体表現のとてつもない可能性を放射する作品となり、私たちに突然の「問い」さえも突きつけてくる深さに充ちていた。……唐突であるが、この勅使川原三郎という人物に一番近似的な人物は、もしかすると、先述したマックス・エルンストかもしれないと想う時がある。……作品が実験性と完成度の高さを併せ持つ事はなかなかに至難であるが、それを両者は、自らの掌中で賽子の目を鮮やかに転がすようにやってのけ、しかもそこに謎めいたポエジ―をも顕在化して見せるのである。やはり氏は本質的に優れた詩人なのだと私は想う。……今回のダンス公演での圧巻は、勅使川原氏が、激しい動きから一転して完全なる停止へと移り、そのままそれを持続した事であった。……人々はダンスとは時に激しく、時に緩やかに動くものであると思い込んでいる。しかし、氏の停止する身体から、停止し続ける事への移行によって、それまでの激しい動きによって積算的に積み上がった「動」のベクトルは、一瞬にしてさ迷える「気」、彷徨引力となって中空をさ迷い、観客は、完全に停止の状態、つまりは絶対零度の予期せぬ空間から次なる移行への転移を、緊張をもって待つのであり、そこに観客各々の中に、不可思議なるもうひとつのダンス性(妙な言い方であるが……)が立ち上がりもするのである。……勅使川原氏のこの突然の停止する身体表現から、ジョン・ケ―ジの試みを連想する人がいるかと想うが、それは全くもって似て否なるるものがあり、勅使川原氏のそれは、具体的に時空間を孕んで、観客各々のイマジネ―ションが持つ豊穣を揺さぶって、遥かに創造的である。また氏の両義的な試みに、確実に刺してくるナイフの鋭さと、また氏とは異なる身体表現のマチエ―ルを持って、その舞台に形而上的な危うさと艶を呈してくる佐東利穂子さんのダンスは見事なものであり、間違いのない本物の才能を私はそこに見るのである。共演よりも競演、そして美の毒杯を立ち上げる共犯ともいえる危うさを帯びて、彼らは私たちをして強度なる本物の美の領域へと、拉致していくのである。……最後に付記するが、勅使川原氏がソロで見せた停止する身体は、その肉体の厚みをも消して、恐ろしいまでに平板と化し、私はそこにマチスが晩年に辿り着いた「切り絵」による身体表現の境地―極をさえも透かし見たのであった。

 

……さて、6月である。深緑の……と言いたいところであるが、雨季の予感を孕んで空気がすでに重い。…………昨年秋の日本橋高島屋の個展から続いて、名古屋、鹿児島、福井、東京、そして先日の新作写真の個展(東京)と、6ヶ月間で6回の個展をして、その間に引っ越しもあったりと、自分でもよく動いたものだと想う。新しく作ったオブジェは全て完売となり、それを必要とするコレクタ―の人達によって、各々のオブジェは、「観る人の想像力を煽る装置」として機能して様々なイメ―ジを紡いでいく事になるのであろう。そう、作者は二人いるのである。想えば、ようやく新しいアトリエでの制作が、これから始まるのである。アトリエの玄関のガラスの大きな扉に、白い文字で名前を入れて、ようやく形がととのった感がある。……表からは、制作中の私の姿が丸見えの全面ガラスのアトリエである。……間もなく雨季になり、外にそぼ降る雨を見ながらの抒情的な制作の日々が待っているのである。

 

 

 

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