『時代のマチエ―ル』

先日、恵比寿の東京都写真美術館に『アジェのインスピレ―ション』と題した写真展を観に行った。近代写真の祖と云われるウジェ―ヌ・アジェ(1857―1927)と、その影響を受けた写真家たち(マン・レイ、アポット、森山大道、深瀬昌久、荒木経惟……他)による写真展である。アジェは未だに謎の多い写真家であるが、鶏卵紙に濃いセピア色で現像された彼の代表作の数々を観ながら、わがアトリエの書庫にある、アジェの写真と、マルセル・プル―スト(1871―1922)の文章の抜粋を各々に組み合わせた奇抜な写真集がある事を思い出した。プル―ストが、まるでアジェの写真を見て文章を書いたかのように、まさにピタリとそれらはイメ―ジが合致する魔法のような写真集なのである。……今朝、ふとそれが気になって調べてみると、プル―ストが『失われた時を求めて』を執筆し始めた時が1906年頃であり、アジェが撮影を始めた時が1898年。そして二人の作業は共に死ぬまで続くのであるが、調べてみて、アジェの撮影の時期とプル―ストの執筆の時期がピタリと重なっている事がわかったのである。しかし、文学と写真の分野の各々のこの異才達は全く交流がなく、同じ時代の、あの狭いパリを生きていたのである。時にはそれと知らずすれ違ったであろう、この二人。ジャンルを異にしながらも、表現者の宿命である〈時世粧〉には明らかなる接点があり、その共有の内から、異なる美意識が各々紡がれ形象化していったのである。……しかし、アジェの写真が放つ、或は孕む時空間のマチエ―ルには、いま一人の重なる人物がいる事に気がついた。……わが国の永井荷風がそれである。永井が帰朝後に記して発表した『ふらんす物語』の言語空間が正にアジェの写真と、そのマチエ―ルに於て通低しているものがあると直感したのである。……ひょっとしてと思って調べてみると、永井がパリに滞在したのが1907年~1908年。つまり、アジェが写真を撮影していた時期と重なり、プル―ストが、音がしないようにコルク張りの密室の書斎に籠りながら『失われた時を求めて』を執筆している時期に、正に永井荷風はパリに滞在して、デカダンに耽りながらイメ―ジと感性を育んでいたのである。……そして、アジェ、プル―スト、永井荷風の三人が、それと知る事なく、まさしく同時期にパリに在ったという事を想う事は、わが内なるロマンチケルな心情の部分に響くものがある。……余談ながら、プル―ストと永井荷風には共通項がいま一つある。……それは〈実践者としての覗き趣味〉である。この視線の尽きない欲望とフェティシズムが、より深く、より深くと、時代の澱を突き抜けて、過去の遠ざかっていくものを追い求めて、美的な結晶へと昇華していったのである。

 

さてその永井荷風であるが、少し気になっている事がある。……それは、『ふらんす物語』の文中でイタリアへの旅の希望を明らかに記しながら、何故彼は、例えばヴェネツィアに旅をしなかったのであろうか!?……という点である。あまりに滞在期間が短すぎたからであろうか。否であると思う。……ボ―ドレ―ルやモ―パッサンから多大な影響を受けているのは明らかであるが、いま一つ荷風の眼差しに、その意識に存在として強く在ったのは間違いなく、マラルメの影響下の象徴主義の詩人―アンリ・ド・レニエ(1864―1936)であり、ヴェネツィアを限りなく耽美に綴った彼の代表作『水都幻談』を知っており、また永井自身がレニエの翻訳をしており、レニエを通してヴェネツィアへの旅の希求は当然強く在ったと思われるからである。余談ながら、ヴェネツィアを日本人で初めて訪れたのは誰か!?……それは周知のように、中浦ジュリアンたち四人からなる天正遣欧少年使節であるが、文学者では森鴎外が或はそれであろうかと思われる。……医学留学生としてドイツに学んだ折り、つまり1886年前後頃にヴェネツィアの墓地の島・サンミケ―レ島を鴎外が訪れた記録がある。ちなみに、私の三作目の版画集のタイトル『サン・ミケ―レの計測される翼』の舞台はこの島である。……永井荷風が私淑していた森鴎外、そしてレニエ。……この二人が訪れたヴェネツィアを訪れたいという希望は当然ありながら、何故訪れなかったのかという点が、私の内なる美意識という点で引っ掛かってくる、それは小さな、喉にかかった小魚の骨のような疑問なのである。…………とまれ、永井荷風が行かなかったヴェネツィアは、未だに私における捕らえがたいイメ―ジの領土であり、それはスフィンクスの謎のような手強さに充ちている。私がそこに行くのは、オブジェの作り手ではなく、光の狩人、闇の狩人としての写真家として、明確なスタンスで行くのである。厳寒のヴェネツィアとの対峙、……果たして如何なる対峙が、私をして、そこに待ち受けているのであろうか‼これは表現者としての自らに課した、遂には終わりなき自問の問いなのである。

 

 

 

〈お知らせ〉

前回、1月18日付のメッセージ『光の旅人』の中で、幻の写真家・謎の写真家と云われる飯田幸次郎の事をご紹介し、写真ファン待望の中、その写真集が昨年末の12月20日に刊行されるや、たちまち初版が完売になった事を書きましたが、その後もこの写真家への反響が大きく、この度、第二刷目の写真集が増刷される事になりました。写真の分野での写真集の増刷は異例の事のようです。定価は2700円(税込み)です。……ご興味がおありの方は、発行所の飯田幸次郎写真集刊行委員会の中村恵一さんまで、お問い合わせ下さい。

〒161―0034 東京都新宿区上落合1―18―7―402 中村方 kei.nak@outlook.jp

 

また、飯田幸次郎に関するト―クイベントが、写真評論家・飯沢耕太郎さん、金子隆一さん、そして中村恵一さん他の方々の出席で2月24日(土)の10時から恵比寿の写真集食堂「めぐたま」で開催が予定されております。詳しくは「めぐたま」で検索をよろしくお願いいたします。   北川健次

 

 

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