『銀座・奥野ビル・画廊香月 PART①』

銀座一丁目通りの喧騒を抜けるようにして、東銀座寄りの二つ目の通りに入ると、一転して静かな空間となる。その静かな中に、時間の澱を孕んだ無国籍な気配の怪しいビルが建っている。昭和初年頃の築というから87年以上も前の建物。銀座で戦火を免れた、云わば時代の移りを呼吸している重厚な建物で、その趣を例えるならば、日本というよりも、昔日の上海、或いはプラハにそれは近いか。

 

その建物の中は、事務所、古美術店、画廊、個人の隠れ部屋……などと様々であるが、私がこのビルの存在を知ったのは20年ばかり前の事である。……『日曜美術館』というテレビ番組があるが、たまたま観ていた特集が、ドイツ文学者の種村季弘さんの特集であった。……初めに、石の床を這うようにして、低い視線のカメラのアングルが、あたかもプラハの古いビルの中をさすらうようにして薄暗い空間を映していく。やがて階段を昇り始めたと思うやその途上に立ちはだかるようにして立つ、金の細い額に入った銅版画にカメラの視点が定まり、作品の細部が拡大されて映った。……若き日のフランツ・カフカの立像と、象徴的なアンモナイトを暗示的に配した画面。……私は自分の作品『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』が突然映りだされた画面を観て驚いた。……何故、私の作品が!?……しかし、その後に登場した種村季弘さんを観て、すぐに了解した。種村さんがコレクションしている拙作のこの版画は、種村さんが気にいって画廊で買い求め、今回の自分の番組のイントロにと閃いて、拙作が登場したのである。(ちなみにカフカの翻訳でも知られるドイツ文学者の池内紀さんも、この版画を書斎に掛けて愛蔵されている由。)……そういう経緯があって、私はそのプラハの古い室内を想わせる建物が銀座にある事を、この番組の後日にお会いした種村さんから教えて頂いて知ったのであった。

 

かくして、私はその奥野ビルの存在を知りさっそく見に行った。……重いガラス扉を押し開けて中に入ると、そこは正に昭和初期へのタイムスリップの回転扉。拙作『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』の重層的なマチエ―ルとピタリと重なって来て、種村さんが番組の冒頭に拙作を登場させたセンスの冴えが伝わってきて面白い。私は一目見て、この建物が気にいってしまった。

 

……佐谷画廊の佐谷和彦さんは、美術館クラスの名企画展を次々に開催して、日本の80・90年代の美術界をギャラリストの側から牽引した、今では伝説的に語られる人物である。その佐谷さんからある日、電話が入った。事務所を銀座に探しているのだが一度相談に乗ってほしいという内容である。銀座の画廊を閉じて荻窪のご自宅を事務所にして、ライフワ―クである『オマ―ジュ瀧口修造展』という、これも今では伝説的な企画展を継続して毎年開催しておられたのであるが、荻窪では諸事の打ち合わせが不便なので、銀座に店舗を探しておられ、私にも情報を求められたのである。。私は佐谷さんに食事をご馳走になりながら、「奥野ビル」の事を提案した。そしてその足で二人で見に行くと佐谷さんはすぐに気にいり、また私達はカフェでお茶をした。……私は「実は、私もあの奥野ビルの一室を借りようと思っているのですよ」と告げると、佐谷さんは「ほう、それは面白い!君と一緒に借りれば、こんな愉快な事はない!……ところで、君は部屋を借りて何に使うのかね!?」と当然の質問を話されたのであるが、その時私は、「えっ、いや、ちょっと…………」と、私にしては珍しく返答を濁したのであった。佐谷さんとは、その直前まで、瀧口修造の事、日本の美術界の現状の奇妙さ、そしてクレーの事についてバンバン話していたのであるが、……私が実は奥野ビルを借りれたら実現しようと思っていた「探偵事務所」開設の構想は、さすがに話の流れからいって、ちょっと話しにくかったのである。しかし私はその時に想像した。……佐谷さんが夜の7時頃に奥野ビルの事務所を出て帰られたその後、私のシルエットが7時半すぎ頃に現れて「佐谷画廊・事務所」の看板を静かに裏返す。すると一転して、芸術とはかけ離れた「北川健次探偵事務所」が現れる。……そして私は事務所の中に入って、いつかかって来るかわからない、難事件の解決依頼の電話を待ちながら、例えばベンヤミンの本を読み耽っているその姿を……。しかし、この後で佐谷さんはご病気になられ、惜しまれながら逝去されたので、事務所の構想は夢のままに潰えたのであった。

 

現在、練馬区立美術館で「戦後美術の現在形」と題した個展を開催中の池田龍雄さん(1928~ )は、まさに戦後美術の最古参の方であるが、その池田さんから「奥野ビルの画廊香月という画廊のオ―ナ―・香月人美さんという人は、実に手応えのある人物なので、一度ここで個展をやってみませんか!?」と言われたのは、銀座一丁目の画廊・中長小西で、私がダンテの『神曲』を主題にした個展を開催中の時であった。……私は池田さんを先達の美術家として密かに尊敬しているので、池田さんから申し出のあった画廊香月で、翌年の春に個展を開き、以来毎年の春に個展を開催して、現在、個展『Prelude―記憶の庭へ』を今月の24日まで開催中である。……かくして、種村季弘さん、佐谷和彦さん、池田龍雄さんという三人の優れた先達によって私はいま、その奥野ビルの中で、導きのように、時の移りを経た厚い壁面に、オブジェやコラ―ジュ、そして銅版画を展示している。これも何かの縁なのであろう。……私は、日曜・水曜の画廊の休み以外は毎日画廊香月に出掛け、また折りを見ては、この時間迷宮のようなビルの中を陶然とした気分で歩き廻っている。……今は亡き種村季弘さん、佐谷和彦さんという不世出の骨太の才人達の事を偲びながら。

 

 

北川健次展『Prelude―記憶の庭へ』

画廊香月にて4月5日―24日まで開催中。

13時―18時30分 日・水曜日休廊

東京都中央区銀座1―9―8 奥野ビル605 TEL03―5579―9617

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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