不眠の都市

『到津伸子さん』

私が画家の到津伸子さんと最初にお会いしたのは、当時契約していた銀座の番町画廊であった。ある日、私が画廊に入っていくと、画家とおぼしき目の鋭い利発そうな女性が自作の版画を床に並べて、画廊主の青木宏さんと個展の打ち合わせをしているところであった。青木さんが、「到津さん、彼が北川健次さん!……」と紹介すると、その女性はチラリと私を見て「あぁ、パリで池田満寿夫さんから、あなたの事は聞いてたわ、彼は褒めていたけど、でも私には鎖国時代の伴天連(バテレン)のような版画にしか見えないわ!」とズバリ言った。私は「バテレンとは面白い!……確かにそうかもしれないね!」と笑い返すと、一転して柔らかな微笑を見せてくれた。私は「……この人とは、永い付き合いの友達になるな!」と直感した。そして思ったとおり、以後40年近い付き合いの、云わば同志のような関係を結んでいく事になる。……到津さんは、芸大の油画科を卒業すると、すぐに単身でパリに渡り、30年近い日々をパリでボヘミアンかつ高等遊民のように画家生活をして過ごすという自由な人生を選んだ。そして鋭い独自の眼を養っていき、あくまでも世間の常識には囚われない、醒めた批評精神の持ち主となっていった。…………昨年の11月末、私が本郷の画廊で個展開催中にも来てくれて、一緒に画廊を出て、夕暮れの神田川沿いの道を歩いた。彼女は、昨年の4月に急逝したお母さんの話をして、「母は、来年の桜の咲く頃に私は死ぬわと予言して、そのとおりに突然亡くなったの」と話し、「よかったら母の写真、見てくれる?」と言って、バッグの中から一枚の写真を取り出した。凛とした、美麗な顔の女性で、横光利一の小説『上海』にでも出てきそうな、品格と謎を秘めたような姿がそこには写っていた。「美しいね、この時代の女性の美しさを全部持った人だね」と話すと、嬉しそうに笑った。……到津さんは最近、急に足が痛みだし、画廊に来る前に順天堂病院に寄ってから画廊に来たのだという。「あなたは、大丈夫なの?」と言うので「膝が痛い時があるけど、気にしてないよ、なんだかピノキオが壊れていくみたいで、意外と自分で面白がってるよ」と話すと、相変わらずね……とばかりに笑ってくれた。……それから、この国がもはや体が無いまでに狂ってしまっている事、松本竣介……の事などを話しながら歩き、御茶ノ水駅まで来て、「じゃ、さようなら」「またいつか!」と言って握手をして別れた。改札口に向かう彼女を見送りながら、とても不思議なくらい気持ちの良い別れ方だったなと思い、清々しい余韻が残った。……それが、まさか到津さんとの、この世での最後の別れになるとは知るよしもなく、私は年が明けても、時おり、その日の事を思い出していた。…………到津さんと深く関わっておられたギャラリ―サンカイビの平田美智子さんから、「到津伸子さんがスキルス性の癌で今朝亡くなられました」との知らせが入ったのは昨日の夕刻であった。私と別れてから1週間後にガンが見つかったが、もはや手遅れであり、僅か1ヶ月半後の先日の早朝に亡くなられたのだという。有明がんセンタ―の最上階、彼女の病室の窓からは、東京湾の眺望が眼下に広く眺められる、彼女の人生の終章に相応しい壮大にして美しい眺めであった事を、連絡を頂いた平田さんから伺った。……そして私はいま、走馬灯のような想い出の数々を振り返りながら、茫然としているのである。

 

到津さんとの想い出は幾つもあるが、やはり、私がパリに住んでいた28年前の時が最も記憶に残っている。……パリ6区のサン・ミッシェル通りとサン・ジェルマン通りが交差する角に老舗のカフェがある。その中で私と彼女は珍しく深夜まで真剣に話し合っていた。彼女はそれまで、画家でありながら雑誌にパリの文学者へのインタビュ―記事などを時おり書いていた。その文章の座りかたや切り口に独自の才能を感じた私は、この辺りで拠点をパリから東京に移して、文章も本格的にやっていく事を薦めた。彼女の独自な視点と、日頃語る切り口は、話をするだけでなく、文章にして残す形、第三者にも広く伝わった方が良いと思ったのである。……私はその後に拠点をロンドンに移す事になりパリを去るが、その頃に彼女は腹を決めて日本に拠点を変え、文章での表現活動も積極的にやっていく事となった。……彼女の文才に眼をとめた編集者が動いて、雑誌「マリ・クレ―ル」にパリの日々を綴った連載を書き始め、次にエッセイをまとめた『不眠の都市』を講談社から刊行した。私は送られて来た本を読んで、その才能に震えた。そして彼女にすぐに電話をして「エッセイの形を借りた、これは間違いなく文学だよ!……小説に膨らむ主題を、あえてエッセイの鋳型に入れた事で内容に膨らみと艶が出ている!到津さん、見ててごらん、この本は間違いなく賞を取るから!!」。……果たして私の予言した通り、この『不眠の都市』は、その年の第19回講談社エッセイ賞を授賞する。……吉行淳之介、池内紀、四方田犬彦、阿川佐和子、須賀敦子……と続いたこの賞はレベルが高く、このまま文章と絵画、そして以前から始めていた写真の幅広い作家活動を開始するかと思われた。しかし、到津さんは次は長編の小説に挑むという。……私はその話を聞いて、珍しく反対の意見を出した。……彼女の本質は短編こそ合っていると分析し、その事を伝えた。あたかもスノード―ムのような掌に乗る器のかそけき短編の中に、パリで体験した事実と、虚構を入れ混ぜて、非在のパリ、非在の東京を往還し、彼女が私に教えてくれた、パリに実在する美しい言葉―「冬のサ―カス」の語感のような夢のアラベスクを織り込んでいく事にこそ、彼女の最たる可能性があり、その方向を独歩していけば、彼女しか出来ない新たなジャンルを確立出来ると私は思ったのである。……しかし、到津さんは、私は長編小説で行く!という。彼女の体験の中には、まぁしかし、エッセイや短編の形でなく、長編でしか立ち上がらないイメ―ジ世界も秘かにあるのであろう。そう思った私は、その後の執筆を遠くから見守る事にした。……そして、その後、私自身も次第に文章を精力的に書き始め、文藝誌『新潮』での発表を機に、新潮社や求龍堂、他から単行本を出し、写真集も刊行していく事になり、到津さんと会って話をする時は、絵画、文学、映像、写真、……多岐に渡った話をする仲になり、表現活動における貴重な同志のような存在になっていった。常に考える人であり、故に話も面白く、……故に今、大きな何ものかを失ったような不条理な喪失感が私を襲っている。……到津さんは、その後、10年以上をかけて長編小説に挑み、600枚以上を書き上げて、校正も終わり、まさに刊行直前での急逝であったと聞く。……彼女の死を知った夜に、到津さんの夢を見た。……というよりも、亡くなられて間もないこの時に、別れを告げに現れてくれたのだと想う。……夢はこうであった。……綺麗な屋敷の中の端に不思議な幾重にも折れ曲がった長い階段を何故か私が上っていく。……階段の下に到津さんがいて、私に「ねぇ、面白いでしょ!」と下から声が聞こえてくる。私はズンズン上りながら「まるでピラネ―ジやエッシャ―の絵のような果てのない階段だね」と言う。彼女は「面白いでしょ、きっとあなたなら面白いと言ってくれると思ったの!」と弾んだ声が聞こえてくる。しかし、次に上から声をかけても、下にいる筈の彼女の存在感が、いつしか消えており、私は階段の上に在って、但、空(くう)を見つめる所で、弾けるように夢は終わったのであった。……夢から醒めた私は、この無限に長い階段の意味を考えて、スッと気が付いた。……この長い階段は「長編小説」の暗示なのだと気が付いた。到津さんは、私に十年以上をかけて書いた600枚に到る長編の小説を、私に読ませたかったのだと気が付いたのであった。………………「地上とは思い出なりき」と稲垣足穂は語った。また澁澤龍彦は「人生とは夢のようだという言葉があるが、本当に夢なのかもしれないね」と亡くなる直前に語った。……また、「私達の終の住みかとは忘却である」と、ある詩人は私に語った。……とまれ、私は最後に御茶ノ水駅での別れの時に到津さんに交わした言葉―「また、いつか!」を思い出の中に放って、しばしの魂の交感をしていたいと思っている。

 

 

 

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