ダンボ―ルで作られた月

『歌舞伎とダンス―光と闇の叙述』

今月は2日続けて力の入った公演を観た。先ず11日は、歌舞伎座の二月大歌舞伎.第二部の『女車引』と『船弁慶』。翌12日は荻窪の「アパラタス」での勅使川原三郎佐東利穂子両氏による『月に憑かれたピエロ』である。

 

 

歌舞伎の『女車引』は、七之助雀右衛門魁春による艶やかな舞である。幕が開いた瞬間から目映い光に照らされた花道から三様態の女房たちが舞出て来るのであるが、その次に観た『船弁慶』共々、非現実的な過剰な照明の光が綾なす効果は、舞台を、またその演目の世界を極めて平面的に見せ、「表こそが全て」の、虚構が現実を凌駕する表象のみの人工的、活人画的な芸の空間である。奥行きは約束事としての想像に託され、ひたすら艶やかな華と、一皮剥いだ奥にある狂気が入れ替わりながら一幕、或いは数幕の作話が展開するのである。

 

……過剰な光…と云えば、元々は出雲大社の巫女であった出雲阿国の「かぶき踊り」を祖とするこの芸の照明は、夜は蝋燭の細い光であった。昼は自然光を借り、夜は束ねた蝋燭の光が作話を演出し、それに合った演目が作られていった。……今日のような人工の目映い光に次第に移行したのは明治以降からと聞くが、背景画に描かれた書割(かきわり)のあえてリアルな写実性を排した表現と同じく、嘘っぽさと、その光の過剰さはリンクして、観者の脳内の想像力の中でようやくの実と美が活性を帯びるという、考えてみれば歌舞伎とは、構造の危うさに支えられた特異な芸道と、言えるのかもしれない。

 

 

 

翌日に観た『月に憑かれたピエロ』(シェ―ンベルク作曲・元来の歌詞はフランス語であるが、勅使川原氏はあえて語調の強いドイツ語を採用し、それに佐東さんの柔かな翻訳の語りを加え、聴覚による二重の揺さぶりを演出)は、過剰な光に拠る歌舞伎とは真反対の、計算し尽くされた薄暗い闇の深度が物理的な遠近感を越えて、私達の記憶の遠近法までも揺さぶり、ノスタルジア的な感慨までも立ち上げた魔術的な舞台であった。

 

……私事で恐縮であるが、以前に、詩や批評を扱う『ユリイカ』の編集長から「久生十蘭」の特集号に載せたいので詩を書いてほしいという依頼があり、私はその詩の中に久生十蘭の本質を表す意味で「ダンボ―ルで作られた月」という言葉を入れた事があった。今回の舞台装置で勅使川原氏が作った薄い金属板の月が見せた効果は、久生十蘭のその特異な文学空間を超えるア―ティフィシャルな冴えを呈した巧みな造形性があり、歌舞伎の書割以上の妙味に、私をして歓喜させたのであった。

 

私がその日に観ていたのは表現の形としてはダンスであるが、途中から、この舞台の構造は能のシテ方とワキ方をも取り入れているのでないかと直感した。……デュオを踊り、最終に近い場面で横たわっている佐東利穂子さんがもしワキを演じているならば、最後は立ち上がって去って行くであろう。……そう思って観ていると、はたして最後に佐東さんは立ち上がり奥の暗部へと静かに姿を消し、舞台に一人残って座したシテ方のピエロ、勅使川原氏の指先が虚ろなままに何かを暗示して舞台は完全な闇と化す。……そこで全てが終わりとなる。……この、もしかすると能の構造までも取り入れているのではあるまいか!、という直感は私の唯の独断なのであろうか?……しかし、勅使川原氏の愛する枕頭の書が世阿弥『花伝書』である事を私は思い出していた。……これは私の制作におけるメソッドとも云える持論であるが、表現に際し異なる二元論を導入すると、より重奏的な膨らみが表現に増すという事を私は体験的に知っている。……この場合、『月に憑かれたピエロ』という海外の原典に、日本の夢幻能の構造が二重螺旋のように入り込み、表現空間に量りがたい深みが呈している、と私は視たのであった。

 

このダンスの舞台であるアパラタスが出来てから早くも十年になるという。ご縁があって、私がここに通いはじめてから早八年になる。……その途中から気づいた事があった。氏の舞台を観ていると、その途中からふと、自分の幼年期の記憶が、この巧みに演出された闇の透層の中で突然(しかも毎回、それは場面を変えて)よみがえって来るのである。……懐かしい感情がわき上がるや、それが舞台のその日の演目に加乗して表現空間がいよいよ膨らみを増して来るのである。

 

……幼年期の仕舞われた記憶が突然蘇るのは何も視覚だけとは限らない。聴覚、嗅覚、触覚、更にはふと覚えた微かな気配からも記憶が蘇る時がある。……ボルヘスの言葉に「一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ」というのがあるが、勅使川原氏のダンスとは、それが身体表現として完成して閉じたものではなく、人々の記憶を揺さぶり、ノスタルジアを立ち上げる詩的な装置として、毎回、放射されたものであると考えた方が或いは近いのかもしれない。

……ちなみにアパラタスとは「装置」という意味である。歌舞伎の表の平面性を強調した美学に対し、勅使川原氏のそれは、闇の暗部の彼方に限りない記憶の遠近法を孕んだ詩学であると、或いは言っていいものではないだろうか。

 

 

 

 

…………さぁ、充電の後は自分の制作に向かわねばならない。ダンス公演の翌日は名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんと共に、競作の主題について語り合った。そして、馬場さんと私が共に惹かれ、気になっているヴェネツィアを舞台に、馬場さんは俳句で、そして私は様々な方法を駆使して、追えば逃げ去る「逃げ水」のごとき魔性と謎を帯びたヴェネツィアに迫る事で決まった。……その他にも詩集の執筆、オブジェの制作、画廊での個展、……鉄の表現、他にもやるべき事が春からは山積している。……もうこの辺りで長かったコロナの圧迫感とも意識的に訣別しなければならない。……人生は本当に短いのだから。

 

 

 

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