上杉謙信

『コロナ夜話―〈梅雨入りのその前に〉』

先日、木版画家の山中現さんとお茶の水駅で待ち合わせをして、一緒に聖橋にさしかかると橋上がたくさんの人群れで正に密な状態であった。しかも皆が空を熱心に見上げているので問うと、ブルーインパレスがまもなく飛来してくるという。見ると、蒼穹に白い曲線を描いて飛来してくる、その姿があった。医療従事者への感謝と激励を込めたパフォ―マンスとの由。閉ざした閉塞感漂う昨今にあって、それは一服の涼として心地好く映った。

 

 

 

 

知人宅で話をしていると、その人が思い出したように「そう言えば、先日、突然マスク(いわゆるアベノマスク)が届いた」と言って見せてくれた。手に取って見ると、確かにかなり小さいのには驚いた。女性でも小さく、どれくらい小さいかをわかりやすくタレントに例えて云うと、渡辺直美だと紐が耳に届かず、高橋英樹やコロッケだと、まぁ、唇が隠れるくらいか。……しかも、古びた臭い匂い。廃屋の湿った匂いにそれは近いか。

 

さて、そのマスクに関してであるが、トランプとプ―チンだけがマスクをしていないのは面白い共通点だと常々思っていた。。しかも新型コロナウィルスに二人とも何故か罹っていない。大国のリ―ダ―に課せられた強者としての演出は御苦労な事だと思っていたが、気合いなのか、自分が強者だという盲信が免疫力を生んでコロナウィルスをも弾いていたのかとも思ったりしたが、何の事はない、人前ではしていないが、裏では秘かにマスクを愛用しているというのがわかった。しかも、トランプは「ヒドロキシクロロキン」という免疫疾患治療薬を愛用している由。しかし、これがかなりの副作用のリスクがあるという。側近は危険だと言って止めさせる事に必死であるというが、まぁ本人が望むのであれば、それはそれで1つの貴重な、まさしく活きた臨床実験の好例にもなり、結果的にこの危機を突破する何らかの貢献に寄与するかもしれない。全身が既にして副作用の固まりのようなこのトランプという男の今後を、その意味で私は注視していこうと思っている次第である。ともあれ、トランプもプ―チンも、リ―ダ―としてのカリスマ性を演出する為に必死であるが、しかし、振り返って我が国に目をやると、本物の強度なカリスマ性を持った二人の人物がいた事に気付き、改めてその凄さに慄然とするのである。その二人とは、織田信長と上杉謙信である。

 

……信長と謙信には共通点が多い。先ずは戦の勝率が圧倒的に高い事。謙信は71戦中、61勝2敗8分け。一方の信長もまた高く、84戦中、58勝19敗7分けとその勝率は群を抜いている。また、戦の際に、大将たる者は家康や秀吉のように安全な位置で籠に乗り、回りを屈強な武将達が固めて挑むのであるが、信長と謙信だけは例外で、先陣の先頭に自分がいて真っ先に敵陣に斬り込んでいくというから素晴らしい!!。謙信は、毘沙門天(武運の神)が自分を守護しているという狂信的なまでの信念があり、信長に至っては、自分こそが絶対神であるという、これ以上はない信念を鎧として生きた人物である。歴史を絞って視れば、この二人だけが、真のカリスマ性を持ったリ―ダ―の条件というものを持っていると云えるのであり、その背景には、時代の緊張感の凄みというのが、その母胎となっているのかもしれない。

 

 

……さて、ここにチクと面白い画像があるのでお見せしよう。……この画像は山形県天童市の三宝寺が所蔵している「織田信長」の肖像画である。(原画は焼失して無いが、その焼失前に写した同様の絵が、三宝寺以外に宮内庁にも在る)……一見して、私達の知る線描の信長の画像と違うので、そのリアルさに驚かれ、かつ戸惑われるかとも思うが、この肖像画はルイス・フロイスと共に実際に信長に謁見した宣教師が正に同時代に描いた物で、実は織田家の御墨付きも得ている貴重な肖像画である。蛮社の獄(1839年)で刑死した文人画家の渡辺崋山辺りから、ようやく西洋画に迫るリアルな描写が我が国にも出て来るが、その前はご存じのとおり様式化された線描画であった為に、その迫真性が伝わって来ないのが難であった。しかし、この絵は実際に信長を見た、西洋のリアリズムを熟知した、宣教師にして画家であった人物が描いた物であるが故に、私達の想像力とイメ―ジの芯を突いてくる不気味な迫真性を帯びてはいないだろうか。……私がこの信長の肖像画の存在を知ったのは、ビエンナ―レ展に出品する為に打ち合わせで行った際に立ち寄った、近江八幡市安土町に在る「滋賀県立安土城考古博物館」を訪れた時であった。展示してあったのはコピ―であったが、一見して私は直感的に「この顔に間違いない!!」……そう確信した。私の中に詰まっている信長に関する知識(最も記述の信憑性が高いと云われる信長公記を主とした)と、ありありと照応するものを、この肖像画は多分に孕んでいる、……そう私は想ったのである。……コロナウィルスから転じて信長へと話が移ってしまったが、まぁ、自粛のこの時期、少しでも興味を持って頂けると、ブログの書き手として有り難いのである。

 

 

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『勘三郎と内蔵助』

中村勘三郎さんのこの度の逝去に際し、あらためて人生の意味とは、その長さではなく密度と生き様である事を痛感した。舞台は度々拝見したが、今年の新橋演舞場での勘九郎襲名披露公演での口上が最後となってしまった。間近でお見かけしたのは久世光彦さんの葬儀の時であった。遺影の前に座っていて焼香のために並ぶと、数人前に勘三郎さんがいた。舞台では大きく華やいで見えるが、実際はかなり小柄であるのに驚いた。そういえばすぐ近くに森光子さんもいたが、舞台で共演したお二人がほぼ同じ時期に逝くのも何かの縁であろうか。政治家で、その死が惜しまれる人は昨今皆無であるが、役者は惜しまれてこそ命である。勘三郎としての円熟は果たせなかったが、この人が放つ「粋」と「艶」は、それを出し切っての生涯であったかと思う。生き急ぐように駆け抜けた見事な生涯であった。

 

人生を駆け抜けた・・・といえば、この時期はやはり1702年に起きた「赤穂事件」が思い浮かぶ。昨日、慶応義塾大学で開催中の瀧口修造展に行くために三田へと向かったが、途中で「泉岳寺」に眠る浪士たちの墓が見たくなり立ち寄った。私は四十七士の中では、最も奮闘した不破数右門と、上野介に太刀(槍ともいう)を浴びせ絶命させた武林唯七が好きであるが、やはり大石内蔵助(1659-1703)の墓前では立ち止まってしまう。その大石の辞世の歌「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」は、主君の浅野内匠頭の辞世の歌「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせん」の現世への未練がましさと比べると晴れ晴れとした心情が見事に刻まれていて心地良い。本来、辞世の歌とはあまり芸術的なレトリックを凝らさず、明快単純こそが好ましい。歌の31文字は俳句の17文字と比べると、その字数が多い分、つい本音が出てしまう。しかし本音を封印して後世に虚構や意地を放つのが辞世の歌の、云はば要領なのであろう。その意味でも、この大石の辞世の歌は目的を達成した自分や浪士たちの心境を映した名歌として、あまりにも有名である。しかし、しかし・・である。歴史好きな私としては、この大石の歌が、かつて何処かで聞いたものと重なって響くのが気になっていた。それで、個展も終わった束の間の閑を利用して調べてみた。すると、ある戦国武将の辞世の歌に辿り着いた。それは、信長と共に私の最も好きな武将である上杉謙信(1503-1578)である。謙信の辞世の歌は「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかかる雲なき」である。如何であろうか・・・。たまたまだよと言う方もおられるかもしれないが、しかし両者を結ぶ人物が一人だけいる。それは江戸前期の儒学者、山鹿素行(1622-1685)である。彼は官学である朱子学を批判したため、一時、赤穂藩にお預けとなっていた折、若き日の大石たちに兵学を講じ、その際に行動学の美しい範として上杉謙信について熱く語った事は想像に難くない。その証しの一つが、大石が討ち入りの際に使った山鹿流の陣太鼓である。

 

討入りを果たした後に浪士達は四つの藩にお預けとなったが、その浪士たちが残した手紙の中に「虚しい・・・」という一文がある。ここに赤穂事件の真実が透かし見えるが、既に大石の意識は後世の評価にその目があった。「・・・・・浮世の月にかかる雲なし」を大石が切腹前のいつ頃に詠んだかは不明であるが、名プロデューサー大石内蔵助の本領がここに在る。上杉謙信からのパクリとは決して言えない見事な「引用の詩学」であると、私は思うのである。

 

 

泉岳寺の中門。空襲から免れて当時の遺構を今に留めている。

 

 

今も線香の煙が絶えない大石内蔵助良雄の墓

 

 

討入りの本懐を果たした後で、泉岳寺のこの井戸で吉良上野介の首を洗ったと云われている。碑は明治時代の俳優ー川上音二郎の建立。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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