世田谷美術館

『年末だから石川啄木について語ろうの巻』

①今から7年ばかり前の事、坂道を歩いていたら、一瞬パチッという音がして右膝に痛みが走った。どうやら一瞬捻ったらしい。しまった!と思ったがもう遅い。……運悪く明日は成田を発ち、ベルギ―とパリに、写真撮影とオブジェの材料探しを兼ねた旅に行くという、その前日のアクシデントであった。……ご存知のようにブルュッセルは坂の多い街である。痛みを堪えて歩くのは難儀したが、それなりに収穫の手応えはあった。

 

……以来、膝の痛みを我慢していたが、先日急に痛みが酷くなったので整形外科に行きMRIで膝の断層撮影をおこなった。……診断の結果、3ヶ所に異常が見つかり、〈膝蓋骨軟骨損傷〉〈骨挫傷〉〈内側半月板断裂〉が見つかった。3つの字面を視て、壊れたピノキオになった気分であった。……そして思った。病名や身体の部位というのは、どうしてこんなに痛々しい名前なのであろうかと。半月板などは、まるで老舗の煎餅屋で売っている京風の薄い煎餅のようで、いかにも割れそうではないか。そこで自分なりに楽しい病名を考えた。……〈膝わるさ〉〈骨のおむずがり〉〈骨ぐずり〉……そういう診断が出たら、「まぁ、しょうがないなぁ……」と、よほどメンタルに良いと思ってしまう、この年末である。

 

 

②前回のブログで、世田谷美術館で開催中の藤原新也展の事を書いたらすぐに反響があり、「観て来ました。良かったです」「実にタイムリ―な企画展で写真と言葉の力に圧倒されました」といった意見が多かったが、中にこんな問いのメールがあった。「あの時代、学生運動の騒乱と挫折の反動を受けてインドに行った人の多くが、ブログに登場したTさんのように、無気力な姿となって帰国したのに、なぜ藤原新也さんはそうならなかったのでしょうか?」という問いのメールである。……私はなにも藤原新也氏本人ではないので、そんな事はわからないが、1つだけ、自分も写真を撮っているという経験を踏まえて、ふと想い至る事はあった。

 

……あれは8年ばかり前であるが、1週間ばかり厳寒の冬のヴェネツィアで写真撮影に没頭していた時があった。そして日程をこなして、マルコポ―ロ空港から飛び立った。……すると、遠ざかる眼下のヴェネツィアの街を視ていて、ふと妙な感慨が立ち上がった。「自分は本当に眼下に視るヴェネツィアに、この1週間いたのだろうか?」という妙な感慨が沸き上がったのである。……1週間、ヴェネツィアで過ごしたという実感がまるで無いのである。……そしてその理由がすぐにわかった。普通の旅と違い、撮影が目的の時はカメラが媒体となって被写体を追い求める為に、自分の眼と合わせて、カメラレンズの単眼をも併せ視る為に写真家は自ずと「複眼」となり、被写体という獲物を狩る為の醒めた客観性が入って来るのである。……その点、撮影を目的としない所謂普通の旅は、云わば裸形の剥き出しの感性となり、衝撃も無防備な迄に諸に受けるのである。つまり、写真家は、あくまで攻めの姿勢を持った、視覚における狩人と化すのである。……それに加えて藤原新也氏は海峡ゆずりの太い気質が加味して、六道めぐりのような凄惨な場面をも、経文の声でなぞるようにフィルムに収め得たのではあるまいか、時に阿修羅界の眼で、時に餓鬼界の眼で、……と私は思うのである。

 

 

 

③……12月の冬枯れになると、毎年、神田神保町には救世軍の数人の吹奏楽者が奏でるサ―カスのジンタのような哀愁ある響きが流れ、まるで中原中也が急に背後から現れそうで面白い。「昔と変わってないなぁ」と想い美大の学生だった頃を思い出す。…………その頃は大学よりも、神保町の古本屋巡りに通っていた方が多かった。書店で買った本を持って決まって入るのは趣のある老舗の喫茶店『ラドリオ』であった。……ふと本を読むのをやめて、壁の薄暗い一隅を視ると、そこに額に入った色紙書きの短歌があり、私はそこにいつも眼をやって、二十歳頃の未だ定かではない自分のこの先を思いやった。

 

……「不来方の/お城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」……作者は石川啄木である。不来方はこずかたと読む。意味は盛岡の事であるが、不来方と書くのが啄木の上手さ。……「盛岡のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」では抒情性もなにも立ち上がっては来ない。不来方の字面と響きから遠い浪漫性が立ち上がり、最後の〈十五の心〉へと体言止めの一気読みが貫いて、私達の内心が揺れるのである。

 

……………啄木の短歌はずっと惹かれているが、今、何故か気になっているのはこの一首、「函館の/青柳町こそ/かなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」である。……安定した職を求めて盛岡から北海道へと流離する啄木を函館に迎えたのはこの地の短歌のグル―プであり、彼らは青柳町に住む場所さえも啄木に与えたのであった。……そのグル―プ達が歓迎の場で興に乗り、啄木に恋歌を披露する者までいた。矢車草は夏の季語。「かなしけれ」は、この場合、「心を強く惹かれる」として使われている。……だから意味は、函館の青柳町にこそ私は今、強く心惹かれている。恋歌まで披露する友もいるではないか。季節は夏、夏の真盛りなのである。……となるが、心惹かれるを〈かなしけれ〉と詠む事で、啄木の個人的体験を離れて、読む私達の内にある切なさを覚える感情が揺らいで、またしても一気に普遍へと一変するのである。

 

……この場合、活きているのが「函館」そしてそれに続く「青柳町」という響き(音・韻)である。函館で、何かが立ち上がり、青柳町という響きで、イメ―ジの舞台が読み手である私達の想像力を動員して鮮やかに、そして哀しく現れるのである。……つまり作品は私達の内で初めて完成するのであり、言葉の効用は、その為の装置なのである。この〈作品は観者や読み手の想像力を揺さぶって人々のイメ―ジを立ち上げる装置である〉という考えは、私自身の創作における考えと重なってくる。……試しに別な言葉を入れ換えてみよう。……「青森の五所川原こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花」。……青森より函館、五所川原より青柳町の響きが格段に佳く、哀しみも立ち上がって来るのである。

 

 

今、私はドナルド・キ―ン氏の『石川啄木』を読んでいるのであるが、この日本語が奏でる響きの美がもたらす効果が、果たして英訳すると、どれくらい伝わるのか、もっと云えば、本当に伝わっているのか?という疑問がどうしても湧いて来てしまうのである。

……特に翻訳が難しいと思うのは、言葉の前後がバッサリと無い俳句や短歌において、外国語という全く改変された音や響きで、意味や抒情の深度は本当に伝わるのであろうか……という疑問が、この年末の私を捕らえているのである。……逆に言えば、例えばランボ―の詩の翻訳が、小林秀雄中原中也堀口大學鈴村和成、……諸氏によって全く違うのも同様である。…………外国語の翻訳が上手い人は、つまりは日本語が上手いということになるが、……そのような事をつらつら思いながら、ドナルド・キ―ン氏の『石川啄木』を読んでいる、年の暮れの私なのである。

 

 

 

 

 

 

④……12月24日のイブの夕方に、実に美麗で重厚な嬉しい献呈本が送られて来た。……この国の短歌の分野を代表する歌人、水原紫苑さんの歌集『快楽Keraku』である。

 

本の表紙はご自身の撮影したパリのサントシャペル教会のステンドグラス。表紙全体から、タイトルの快楽に通じる薔薇の香りが放射するように漂って来るようである。

 

……水原さんは三年前にパリに行く予定であったが、コロナ感染の拡大の為に断念していたのが、ついにパリ行きを決行し、現地で詠んだ短歌を含めた第十歌集の刊行である。この水原さんの歌集については新年の最初のブログで詳しく書こうと思うが、幻視者にして魂の交感を綴る言霊の歌人による歌集を、これから読みこんで行くのが愉しみである。

 

……右に石川啄木歌集、左に水原紫苑歌集を抱えて、どうやら今年の暮れは、除夜の鐘を聴く事になりそうである。

 

 

 

 

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『レンズを持って旅をする男の話 (前回のつづき)』

……線状降水帯が、正に世田谷美術館の真上を通過しているという激しい豪雨の中、館内に入ると、『祈り・藤原新也』展は沢山の観客が詰めかけていたが、観る者をして沈黙へと促すような作品の為か、息をのんだように静かであった。

会場は作者の初期から現在に至る迄の写真作品が、まるで大河の流れのように巧みに構成されており、実に観やすかった。しかし初期の『メメント・モリ』の、記録性を越えた凄惨な写真と、作品中に配された文章の妙が持つ相乗したインパクトは、わけても圧巻であり、藤原新也はここに極まれりという感は、やはり強い。

 

 

 

 

 

ガンジス川の岸辺に転がる、膨らんだ白い死体の硬直した足先を喰らう黒犬、その左に立って虚ろな目を放つ茶色い犬、その足元に立っている烏の姿……。そこに添えられた一行のコピ―文。……「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」。……これを視た瞬間、人々の背筋に走るのは間違いなく冷たい戦慄であろう。しかし、意味を理解してのそれは戦慄ではない。……藤原新也が書いた文章の、意味がわかるようで掴み切れない謎かけの不可解さ故の戦慄であり、ここで使われた「自由」という言葉のあまりの多義性故に、人は戸惑いを覚え、自分の見えない背中の暗い部位を慌てて覗くように揺らぐのである。「自由」そして「正義」という言葉ほど多面性、多義性を帯びた言葉はないであろう。……また、文章の出だしを人間と書かず片仮名のニンゲンにする事によって、次に漢字で書かれた犬の字面がニンゲンより優位に立ち、そこから一気に「食われるほど」と来て、「自由だ。」で、読む人の背筋に揺らぎと戦慄を作り出す。写真と文章が相乗して実に上手い。藤原新也は殺し文句を知っている。…………いま私は、藤原新也の文章の実存的なくぐもった低い呟きと、その体温に近い人物が、確かもう一人いたな……とふと思い、しばらく考えてから、そうだ、自由律俳句の俳人・種田山頭火があるいは近いのではと、閃いたのであった。

 

山頭火の俳句、……「沈み行く夜の底へ底へ時雨落つ」・「いさかえる夫婦に夜蜘蛛さがりけり」・「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」・「松はみな枝垂れて南無観世音」…………は、藤原新也が写真集『メメント・モリ』の作品中に入れた文章とかなり近似値的ではあるまいか。……藤原新也の「ありがたや、一皮残さず、骨の髓まで」・「契り一秒、離別一生。この世は誰もが不如帰(ほととぎす)。」・「人体はあらかじめ仏の象を内包している。」……。藤原新也の写真に、山頭火の俳句をそっとまぎれこませても面白い相乗が立ち上がる、……そんな事をふと想ったりもしたのであった。

 

 

 

とまれ、今回の世田谷美術館の『祈り・藤原新也展』は、ぜひご覧になる事をお薦めしたい必見の展覧会である。写真展であると同時に、視覚による現代の経文に触れるような、深い暗示性と示唆に充ちた内容である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……藤原新也の写真集『メメント・モリ』の中に、私が最も好きな頁がある。全編、死の気配と記録性に充ちた重い内容の中で、その頁だけがフッと息がつけそうな安らぎに充ちたその頁には、車窓から写した山河と農村の建物と畑と光の煌めき……が写っていて、左頁の端に「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過ることがある。」という文章が添えられている。

 

 

 

 

この頁の写真と文章を読んだ時に、すぐに想い浮かんだのは「確かに自分にもそう思う瞬間があった!」という同じ感慨であった。……バルセロナからグラナダへと向かう12時間の長い列車の旅の車窓から視た、或る瞬間の風景、……或いは、ヴェネツィアのジュデッカ運河で視た真夏の花火、または夜半のアドリア海で視た銀色に光る春雷、…………。想いは尽きないが、そのような永遠を想わせる絶体風景を暗箱の中に封印した魔術師のような人物が、今、京橋のギャラリ―椿で個展(12月24日まで)を開催中である。

 

……その人物の名は桑原弘明君。私が最もその才能を高く評価している、超絶技巧の持ち主にして視覚の錬金術師と評していい人物である。……桑原君の作品の緻密さの芯を画像でお見せする事は不可能に近い。0.2㍉、0.5㍉……大きくても僅か数㍉のサイズで作られた室内の木馬や、窓、中世オランダの室内、螺旋階段……といった物が、絶体静寂の韻を帯びて、永遠に停止したままに、精緻に作られた暗箱の中で謎めいた呼吸をし、それを視る人の内心の孤独と豊かな対峙をしているのである。

 

 

 

 

 

 

桑原君が今までで作った作品(scoPe)総数はおよそ160点、最初に作った2点以外は、全てコレクタ―諸氏の所有するところとなっている。その1点の制作に要する時間はおよそ2ヶ月以上。毎日、視神経を酷使する苦行にも似た制作スタイルのそれは、驚異の一語に尽きるものがある。……私も同じく、版画作品の刷った総数はおよそ5000枚以上になるが、全てコレクタ―諸氏や美術館の所有に入り、またオブジェも既に1000点以上を作ったが、アトリエに残っている僅かのオブジェ以外は全てコレクタ―諸氏や美術館の所有するところとなっている。

 

……先日、個展開催中の画廊を訪れ、久しぶりに桑原君と話をしたのであるが、手元に作品がほとんど残っていない事、そして作品が、それを愛してくれる熱心なコレクタ―の人達に大事にされ、その人達の夢想を紡ぐ人生の何物かになっているという事は、表現者として一番幸せな事なのではないか、……そして、私達が亡くなった後の遠い遥かな先において、もはや匿名と化した私達の作品の各々の有り様、そしてそれを視る全く私達の知らない人達の事を考える時、その時が最も夢想の高まる時であるという点で、私達は意見の一致をみたのであった。……桑原君の仕事は凄まじい迄の緻密さであるが、只の細密に堕する事なく、彼はリアリティというものが私達の脳内において初めて結晶化するという事を熟知している点が、彼の作品を他と差別する質の高さに繋がっているのであろうと思われる。

 

……藤原新也という、あくまでも現実に起きる万象に対象を絞りながら、レンズを持って旅をする男。……かたや、桑原弘明君のように錬金術師のごとく密室に隠って、視る事の逸楽や至福をスコ―プ内のレンズを通して立ち上げんとする、あたかも玩具考の如く空想の地を旅する男。……対照的な二人のレンズを持った旅人達の各々の個展であるが、いずれも見応えのある内容ゆえに、このブログでお薦めしたく筆をとった次第である。

 

 

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『松本竣介』

20年ばかり前の話であるが、親しくしている額縁屋のI氏宅に行った折に仕事場で一点の油彩画が立て掛けてあるのが目に留った。初めて見る作品であったが、深い詩情性と言いようのない孤独感を湛えたその画面から「・・・松本竣介だな!!」と直感した。「竣介の絵が何故ここに?」—- 私がI氏に問うと、氏はニヤリと笑みを浮かべながら或る逸話を語り出した。I氏の話によると、或る人物が信州の旅館に泊まった時、部屋にこの作品が掛かっていたという。一目で竣介だとわかったその人物はそれとなく旅館の主人に問うてみると、絵の事は門外漢で、その絵もたまたま持ち込んだ人がいたので掛けているだけだという。しかもあろう事か主人は、「そんなにその絵がお好きなら良かったら差し上げましょうか」と申し出た。その人物はドキリとしながらも、「いや、タダというわけにはいきませんから、では3000円で・・・」と言ってその絵を入手し、それが持ち込まれて今、その額を考案中なのだと云う。ちなみに竣介の絵は最高時で一億を超えたというから、果たして・・・その絵はいくら位の評価が付くのであろうか。

 

半世紀以上前まではほとんど無名に近い存在であった松本竣介。しかし今や彼は、靉光藤田嗣治佐伯祐三岸田劉生等と共に近代洋画史を代表する人気と高い評価を得ている。松本竣介が今日の評価を獲得するに至るには二人の人物の存在が大きく関わっている。一人は神奈川県立美術館館長であった土方定一氏と、今一人は画家の岡鹿之助氏である。二人とも生前の松本竣介と面識はなかったが、竣介の死後まもなく、彼の絵を見たこの眼識ある二人の人物の果たした動きが、急上昇するように竣介の絵の価値を世間に知らしめる事となった。土方氏は美術館で竣介の展覧会(二人展)を企画し、また、岡氏は画集出版に関しての労を取った事がその起爆剤となったのである。土方氏は、美術館の果たす役割として次代の可能性を持った画家を見出し、本物の形へと高めていく事もその仕事であるという理念を持っており、実際に動いていた。私も版画を作り始めたばかりの20歳の頃、土方氏から突然に作品を神奈川県立美術館で購入したい件に関する丁寧な手紙を頂き、それが作家としての自信を深める契機となっている。「お前さんは、もっと高みを目指していい作家だよ!!」—-これは、私が土方氏から頂いた言葉である。しかし私のような場合と違い、松本竣介は生前に自分を引っ張り上げてくれる人物とは出会っていなかった。非常に暖かい友情で支えあった画家や彫刻家の友人達はいたが—–。今では信じ難い話ではあるが、彼は経済的な困窮の中でのほとんど衰弱死的な形で僅か36歳で夭逝してしまったのである。今一人の岡鹿之助氏は、竣介の作品の中に自らが理想とする表現世界が在るのを見て、すぐに画集刊行を指示し水面下で動いたが、それが如何に松本竣介の名声の確立に寄与した事かは計り知れないものがある。秀れた眼識があり、しかもその発言が大きな力を持っているこの二人の人物との出会いがもっと早ければ—–という無念はあるが、それも又、運命なのであろうかとも今にして私は思う。

 

昨日、世田谷美術館で開催中の『松本竣介展』を観に行った。十代の初期から絶筆までの見応えのある内容であり、私はしばし竣介の哀愁を帯びた静かなポエジーと美しいメチエの世界に没入した。わけても私が好きなのは「Y市の橋」と「ニコライ堂」である。特に「ニコライ堂」を描いた連作の中の一点が持つメチエの深さは、既にして神秘を孕み、霊妙といっても過言ではない表現の深みに達しており、松本竣介の最高傑作の一点はこれであると私は見た。岸田劉生の遺した言葉の中に「いい画は皆、永遠の間に、夢の様にふっと浮かんでいる。」という名言があるが、まさしくこの言葉に竣介の「ニコライ堂」は当てはまる。竣介の最晩年の作品「建物」や「彫刻と女」を見ると、最後の表現の域は、更なる上昇を計りながらもあたかもイカロスの失墜のごとく力尽きているのが惜しまれる。生前に欧州に行く事を夢見ていたというが、もしそれが叶えられていたら確実に日本の洋画史は、藤田や佐伯とは異なる豊かな美の顕現を得ていた筈に相違ない。

 

横浜に住んでいる私は、時折、横浜駅の東口を出て高速道路が見える「或る場所」に立つ事がある。そこは名作「Y市の橋」が描かれた現場なのである。今から70年前に松本竣介はそこに立ち、まるで生き急ぐような素早い線画でそこを描き、帰宅してから別な風景もモンタージュとして加え、風景画の典型を刻印した。その連作も含め、竣介の風景画には謎めいた人物が黒のシルエットとして不気味に散見出来るのが気にかかる。ほとんどの人は気付いていない事であるが、実は佐伯祐三の晩年の風景画(カフェテラス等)にも同様な死を予感させる気配を帯びた謎の人物が、作品から作品へと渡り移るように度々描かれているのである。映画『アマデウス』ではないが、絶筆の「レクイエム」を作曲時に、ちらちらと不気味な人物が幻視のように出現している事をモーツァルトも語っている。—–まさか、死後の名声と引き換えに現れたデモニッシュなものの変容ではあるまいが、—–興味のある方は佐伯の画集を併せて御覧頂ければと思う。とまれ、多くの美術館で様々な展覧会が開催されているが、世田谷美術館の『松本竣介展』(2013年1月14日まで開催中)は、私が今一番に推す展覧会である。

 

建物

 

鉄橋近く

 

Y市の橋

 

Y市の橋(部分)

 

不思議な気配を帯びた人物の黒いシルエットが、硬質な画面に郷愁を奏でると共に不穏な韻を立ち上がらせている。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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