多摩美術大学

『人魂に魂を入れてしまった男の話』

…東京の大井町線とJR南武線が交わる所に「溝の口」という駅がある。今ではすっかり様変わりして駅前通りが綺麗になってしまったが、昔は溝(どぶ)の口とよばれた、実にロ-カルな渋い場所であった。…この駅から線路沿いにしばらく歩いた所に、多摩美術大学の男子寮があり、私は18才の一年時からそこに入っていた。(…余談だが、寮に行く途中に地味な布団屋があった。後で知ったのだが、私が来るしばらく前に一人の青年がその店でバイトをしていた。…後のタモリである。私はタモリは頭がいいと思って感心した。…布団屋は暇であり、たまに仕事が入って布団を運んでも軽い楽な仕事、しかし時給は他とあまり変わらない。バイトをするなら、忙しいスタバでなく、布団屋に限る。)ま、それはともかくとして、大学に入ってすぐに私は二つの大きな挫折をあじわった。

 

一つは、日本の美術の分野を代表する作家の斎籐義重氏が多摩美で教えていたので習おうと思って勇んで入ったものの、斎籐氏は学園紛争で外部に出てしまい、目標とする人物が大学にはいなくなってしまったのである。…二つ目は、三島由紀夫の『近代能楽集』に強く感化された私は、三島に長文の手紙を書き、その最後に「貴方の美意識を舞台美術で具現化出来るのは、間違いなく私しかいないと思っています」と熱く書いて投函した。…根拠はなくても強烈な自信だけは満々とあったのである。…出してから数日して丁度届いたと思った頃、ふとテレビをひねると、三島由紀夫が決起して市ヶ谷の自衛隊駐屯基地で演説をしている、まさかの姿が中継で入って来た。そして自決。…上京して半年で、前途の目標を失ってしまったのである。(斎籐氏には後に会う機会があり、私のオブジェを高く評価してもらったが、やはり18才の生な時に語り合いたかったと思う。)……、当面の目標が断たれはしたが、しかし私は未だ18才。生きていかなくてはならない。

 

…二年生の夏に、偶然の導きで池田満寿夫氏の版画と出会い、一気に版画表現にのめり込んで行くのであるが、私はもちろんその運命を未だ知る由もない。…文芸評論、映像作家、或いは悪の道。…しかしどの道に進むとしても先ずは充電と思って、映画はフィルムセンタ-に通い、文芸はかなり読み耽った。…金が無いのでバイトは数々したが一番日当が佳かったのは、桜田門や大手町の地下鉄の送風機を取り付ける仕事で、日当5000円(今に換算すると毎日3万円くらいか)であった。…このバイトは力仕事なのに何故か多摩美と芸大の学生だけが独占し、各々の大学から30名づつくらいが、いつも組んで場所を移動しながら稼いでいた。…昨年亡くなった坂本龍一氏の本を本屋で立読みしていたら、彼もそのバイトをしていた事を知って驚いた。…(そうか、あの学生達の中に彼もいたのか…)と思うと共に、彼もその本の中で書いていたが、どの大学も紛争直後で荒廃し、何か空無な気だるい無力感が漂っていた、そんな時代であった。

 

…多摩美の男子寮は、多摩芸術学園と洗足学園音楽大学(寮も含む)の間に在った。…寮の庭から、洗足学園の女子寮の食堂が見えた。華やかな笑い声が時折聞こえても来た。…この大学は、古くは歌手の渡辺真知子や、近くは平原綾香等が出た、いわゆるお嬢様学校。…私どもの寮の食事はほとんど茶色一色。冷えたご飯に生卵を割れば、先ずは白身が沈んで次に黄身も消えるような粗食。先方の寮の食事はカラフルの一語に尽きる、…同じ人間として生まれて来た筈なのに…いささかの理不尽がそこにあった。一言で言えば、晩飯とディナーの響きの違いか。だから寮の先輩からは、こう言われたものである。(洗足女子寮の食事は見るな!…見れば自分たちが辛くなる)と。

 

…私の部屋の隣室に中村敬造さんという2年上の先輩がいた。…デビュー当時の武田鉄矢を講釈師にしたような飄々とした、何とも味のある人であった。…私達は、そして寮の誰もが、真昼時の太陽が沈むのを忘れたかのように……暇であった。…敬造さんの部屋で、(……しかし暇ですなぁ…)と私。(…まったく、何か面白い事が無いかねぇ…)と敬造さん。……私は言った。(いっそ、人魂でも出しますか!?)と。敬造さんは(人魂かぁ、それは面白いかもなぁ。しかしどうやって作るんだ?)と訊くので、(まぁ任せて下さい!)と言って、私は寮の黴びた物置小屋から細い竿を出して来てピアノ線を結んで艶消しの黒を塗り、綿に油画に使う画材のオイルを染み込ませて、アッという間に作り上げた。

 

…(で、何処に人魂を出す?)と敬造さんが言った瞬間、私達は同じ事が閃いた。…やがて夜になった。…私達は寮の塀を乗り越え、一路、隣の女子寮へと向かった。…ある部屋の前に来たものの意外と窓が高い。敬造さんが踏み台になり、私が部屋の中を見た。…しかしそこに見たのは紫煙けむる中、あぐらにコップ酒、花札の中にいる女子達の姿であった。…(北川、何が見える?)と下にいる敬造さんが小声で訊くので、私は応えた。(見ない方がいいですよ、まるで女囚、ここでは人魂を出しても意味が無い)と話して、静かに下りた。…その時であった。ボロンボロンというピアノの音が近くの窓から流れて来たのであった。…見ると、先程とは一転して真面目風な感じの女子2名が熱心にレッスンの最中であった。…(人魂はここがいい!)…私達は綿にライターで火を入れて、ゆるやかに、かつ怨めしく人魂を闇夜にゆらゆらと浮かべ、そしてさ迷わせた。

 

敬造さんが小声で言った。(しかし北川は上手いね!…まるでプロの文楽の人形師のようにリアルだなぁ!)と。(人魂の中に魂を深々と入れるんですよ。悲しく、あくまでも悲しく!)……自分たちでも感心するような哀しい人魂の揺れ具合である。(これで食べていけるのでは)私はふとそう思った。

 

……、その瞬間であった。突然バタンという、ピアノの蓋を激しく閉じる音が響いたと同時に、部屋の中から複数の叫び声がキャ~からギャ~へとけたたましく響いた。その時であった。「こら~!!」という警備員の鋭い声が響き、私どもの方へ走って来るのが見えた。…私達は咄嗟に逃げて、先ずはバタンバタンと転がる人魂を矢投げのように塀の向こうに投げ、続いて私どもの姿も瞬時に多摩美の寮がある暗闇の中へと消えた。

 

問題が起きたのは、その翌日であった。洗足学園の寮から抗議があり、放火魔らしき二人組が出没して多摩美の寮に消えたので、調べて欲しいという内容であった。寮生全員が集められたが、結局名乗り出る者はいなかった。…洗足学園側は、美大の連中はらちが明かないと見て、浸入を防ぐ為の鋭い有刺鉄線が、まるで収容所の塀のようにして、延々100メ-トル近くも張り巡らされたのであった。…敬造さんと私は反省会議を開いた。…あのようにリアルな人魂をもっと人々にあまねく見せたいが、ではそれを何処に出すか…という会議であった。…そして寮の最屋上の給水設備の所から、第三京浜へと向かう車列に向けて、人魂を出す事になり、それはその夜に決行された。

 

…私達は黒服に身を包み、人魂を闇夜に再び揺らしたのであった。効果は予想以上であった。(北川、見ろ!…車が渋滞し、車から出てきたみんながこっちを指差しているぞ!)と。方々のクラクションが鳴り響き、…私達は想像したのであった。…人魂を見たあの人達は、後々までずっと信じるかもしれない。…人魂は本当にいる!何故なら私は、あの夜に溝の口で見たのだから……と。……しかし、その時、私はまだ知らないでいた。…僅か六年後に本当の人魂を見てしまうという事を。

 

…多摩美の大学院を修了した私は、寮を出て、2つの住所を転々と移り、横浜山手の丘の上に在った「茜荘」というアパ-トに移った。…この建物は以前は連れ込み宿であったのを作り直したのであるが、玄関に料金所の名残りがあって、それとわかるのであった。出て右に行くとすぐに真っ赤に塗られた打越橋というのがあるが、そこは飛び込み自殺の名所。…茜荘を出てすぐ左には牛坂と呼ばれる暗い坂道があるが、引っ越して来てすぐに読んだ、『昭和の猟奇事件-ノンフィクション』という中に突然、その坂の事が出てきて驚いた。…なんとその坂道の途中に在った人家で、狂った若い女が家族を皆殺しに殺すという事件が起きたのであった。その話の出だしは「…食っちゃったぁ」と、その狂女がへらへらと笑いながら、踏み込んだ二人組の刑事に話す場面から書いてあった。…救いは山手へと向かう先にあるミッション系の共立女学園の存在。…しかし、ここだってわかったものではない。

 

池田満寿夫さんのプロデュ-スで初めての個展を開催したのが、私が24才の時。…その個展が始まって、確か3日目の夜、銀座の画廊から帰途につき、石川町という駅を出て、地蔵坂という坂道を上がり、途中から石段を登って家路に着くのであるが、その夜は小雨が降っていた。石段の途中の右側がロシア正教の小さな教会、左が江戸時代からの小さな墓石がたくさん立っている、その墓石の私のすぐ近い所に、ポッと鈍く光るものが突然、出現した。「…人魂か!!?」一瞬そう思った私は、その人魂の走る先を凝視した。…人魂は燐が燃えたものと俗に言うが、燐ならば無機質な物質なので林立して立っている墓石の何れかに直ぐにぶつかって消える筈。私がぞっとしたのは、その小さな人魂が、まるで意識があるように、ランダムに立っている墓石を次々と避けるように薄く光りながら流れていき、やがて墓場の先の暗闇に消えていったのであった。

 

……私が人魂を見たのは、それ1回きりであったが、学生の時に作った人魂とは全く違う、静かな不気味さがあり、今も記憶に焼き付いて離れない。…昔作った人魂は、歌舞伎の怪談で、離れた客席まで見せる為の大きな作りであり、人々はそのイメ-ジのままに今日まで到っている。……私の残りの人生の中で、今一度、あのような薄火の、しかしそれ故に芯から恐怖が伝わって来る人魂を見る機会が果たしてあるのであろうか?…ここまで書いて来て、俳句で人魂を詠んだのがないかとふと考えた。…意外になく、只一作だけあったのを私は思い出した。…「ひと魂でゆく気散じや夏の原」である。気散じとは気晴らしの意味。…ひとだまになって、それでは夏の原っぱをぶらりとゆこうかという、風狂達観の意味がこめられた作である。…作者はいかにもの人。葛飾北斎の辞世の句である。

 

 

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『産婦人科に行った日の事』

……季節は啓蟄となり、春の芽が息吹きはじめた或る日、多摩美大で喋っている友人のTから連絡があり、「たまにはもの語りなどしよう」との誘いがあったので、気分転換のつもりでアトリエを出て、世田谷の上野毛にある大学を久しぶりに訪れた。……上野毛駅を出て、かつて私も通った多摩美大への道は、まるで時が止まったように昔日の姿を留めていて懐かしい。20才の頃の、よれよれの服と生意気な面。そして金が無いので伸ばし放題の髪をした自分とすれ違うようで妙に懐かしい。……大学の門を入ると、記憶のままに右側の下り傾斜にある、うす暗い駐車場へと至る。信じがたい話だが、この大学には体育館なるものが無かったので、空手部と剣道部がこの狭い駐車場を半分に分けて汗を流していた。当時、私は剣道部に入っていたので、古い日記を開くように、ここにはいっそうの思い出がある。……Tとの約束した時間にはまだ間があったので、私はふと昔日の或る日の事を思い出し、「そうだ、あの時お世話になった、あの産婦人科医院はまだあるかな!?」と思って、大学のすぐ真裏、瀬田にあった産婦人科医院へと向かった。しかし、その辺り周辺を廻っても、あの日の夕暮れに明々と灯っていた「○○産婦人科医院」の大きな看板は見当たらず、あの時、お世話になったあの医院は無くなっていた。そして替わりに、あの日の苦い出来事がまた、フラッシュバックのようにありありと甦って来た。

 

 

……あれは、私が3年の時であった。独学で銅版画にのめり込み、版画科の学生達が制作している明るい時は剣道に励み、皆が帰った夕方から私は誰もいない版画実習室で一人、作品を作っていた。……そしてその日は、私は銅板にミリ単位の間隔で定規を使いカッタ―を引いて深々とした線を刻んでいた。どす黒く、精神に斬り込んでくるような鋭い暴力的な黒の面を作りかったのである。のめり込んで作っていると、現実感が無くなってくる時がある。その時がまさにそれであった。……ザクッと心臓を突くような鋭い感覚と次に鈍い痛みが走った時、、カッタ―の硬い刃先は定規を斜めにえぐってなお走り、更に私の左の親指を深々と斬り込んでいた。パックリと開いた指の腹。直後に噴き上げてくる鮮血を見て、誰もいない実習室の中で私はどうすべきか焦った。何故なら、既に夕方で保健室は閉まっており(開いていても常駐の保健医など見た事がない)、血はどんどん流れ出てくるのである。そして、混乱する頭の中に、剣道部の稽古時に防具を付け裸足で走っていた時にふと見た、瀬田の畑と人家の間に場違いのように建っていた、○○産婦人科医院の事が過ったのであった。

 

指を布切れで押さえながら、大学裏にある産婦人科医院に走ると、まるで地獄で仏のように看板の明かりが灯っていた。医院に入ると、看護婦が二人出てきて、布に染まった鮮血を見て、すぐに事を理解してくれた。「とにかく中へ!」と促してくれたその時、床に鮮血の塊がボタリと落ちた。「おっ、綺麗だな!」と思った瞬間、私の背筋をひんやりとした震えるものが走り、不覚にも私は失神し、後ろへと倒れていった。手慣れた看護婦が倒れていく私をハタと受けとめてくれたのは、いま思い返しても頭が下がる。その看護婦二人が私を抱えて何処かへと運んでいくらしい。…………やけに眩しい照明がバチりと私の顔面を照らしたので、ふと我に帰ると、私がいる場所は分娩台の上であった。数年前のブログに書いたが、かつて私はブル―ジュの博物館の中に設置してあった本物の古いギロチン台の展示を見て、部屋に人が誰もいない事が後押しとなり、好奇心を押さえきれないままに台の上によじ登り、紐で釣り下がっているギロチンの刃の下に首を潜らせ、マリーアントワネットの断末魔の感覚を味わった事があった。もし紐が切れたら一巻の終り「ブル―ジュで日本人の旅人、まさかの事故死!」であるが、恐怖よりも好奇心の方が私を震わせてやまない。とはいえ、ギロチン台に首を潜らせた人間も珍しいかと思うが、次にまさかの分娩台の人になろうとは……。ともあれ、院長の手慣れた技術によって傷口は縫われ、包帯が巻かれて私は安堵した。そして感謝を述べ「今日は治療費は持っていませんので、明日持って参ります!」と云って医院を後にした。……しかし、明日の食費のあてもない苦学生に保険の効かない高い治療費など払えない。……私は医院を去る時に今一度振り返り「すみません、お世話になりました」と呟いた。……名前も告げておらず、私はこのまま消えようと思ったのである。

 

その後、次第に傷口は塞がっていったが、まだカッタ―で銅板に線を切り刻むだけの力は出ない。その時に作っていた作品「Diary―Ⅱ」は、近々にあるコンク―ルに出品する予定だったが、応募〆切迄に時間がない。……その時、美大の後輩のSの事が閃いた。Sは私の事に興味があるらしく、時々、版画の実習室にも遊びに来ている。私はSに電話をして、カッタ―で線を引く作業の手伝いを頼むとSは喜んでやって来た。そして、私の代わりに作業をしながら、傍にいる私との会話を楽しんでいた。……まさかの事が起きたのは、その時であった。私の耳に「北川さん、やっちゃった!」という信じたくないSの悲鳴が響き、見ると、左利きのSは私の時とは真反対の右の親指の腹がパックリと開き、その顔は痛みで歪んでいる。……時刻はあの時と同じ夕刻。私はSを励ましながら、あの、もはや訪ねる事はない……と思っていた産婦人科医院へ行くしかない、と腹を括って駆け込み、Sもまた分娩台の人となった。……Sにも、また院長に対しても、もうしわけないという気分と、とうてい払えない治療費の事が頭を過りながら、Sの治療されるのを見守っていた時、院長が私に「あれからずいぶん経ったねぇ!」と笑いながら語る声が聞こえた。「えぇ、全くこいつが……」と、私は分娩台の上にいるSの頭を軽くピシャリと叩きながら、訳のわからない返答をした。…………私はしかし幸運であった。今のように儲け主義に走って「医は仁術(博愛)」が遠退いた時代と違い、その院長は私がまさに極貧であるのを理解してくれて、今は死語となった「出世払いでいいから、余裕が出来たら持って来なさい」と云ってくれたのであった。…………それからずいぶんの時が経った。あの時、既にご高齢であった院長は、もう亡くなられてしまったに違いない。……私は、あの時に医院があったと覚しき場所に暫し立ち、美大へと戻った。大学に戻り、研究室で助手の人から、かつて地下に在った版画の実習室も、今は演劇の学科の倉庫になってしまったという話を聞いた。…………約束していたTと、暫く美術の現況についてもの語りをして、私はアトリエへと戻ったのであった。

 

 

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『志賀直哉』

私は、最後の文豪 ー 志賀直哉に会い損ねた事があった、と云えば、人は驚いて「お前は一体何歳なのか!?」といって笑うであろう。しかし私は、そして時代は、実際にかすったのであった。それについて以下に少し記そう。

 

1970年。私は多摩美術大学に入り、川崎の溝の口に在った男子寮に住んでいた。同室は現在は服飾デザイナーとして国際的に活躍しているYであった。80人ばかりいた寮生は皆、個性が豊かで蛮カラの気風が残っていた。その寮生の中の私の1つ先輩に小谷文治さんという油画科の人がいた。或る日突然、全身の半分をタテに、頭髪、まゆ、ひげ、身体の毛すべてを剃り落し私達を喜ばしてくれたりした。しかしその気質は真面目であり、後年、美術教師として故郷の岡山に帰ってからは、ずいぶんと生徒達に慕われたという事を後に風の便りに聞いた。或る日、私が部屋で寝転んでいて天井を見ていると、その小谷さんが突然部屋に入って来て、「北川、明日よかったら志賀直哉に会いにいかないか!?」と切り出したのであった。その時、初めて知ったのだが、小谷さんは随分と志賀直哉を愛読しており、渋谷に未だ存命中なのでどうしても訪ねたいが一緒に来ないかと言うのである。「……志賀直哉ですか、三島由紀夫なら行きますけどねぇ……」私が気乗りしない返事をすると、小谷さんは残念そうな顔をして出て行った。

 

二日後の夜に寮の食堂で小谷さんを見掛けると、随分と嬉しそうであった。聞くと、小谷さんはやはり翌日に渋谷の志賀直哉に会いに行き、運良く在宅していた志賀直哉に許されて部屋に入り、一時間ばかり話をしてきた由。もちろんアポなしの、まるで刺客のような訪問ではあったろうが。(… やはり行けば良かったかな)ー 私は少し後悔したが、この後悔は、後に自分が文筆業もやるようになって次第に大きなものとなっていった。文体のエッセンスを盗むべく、あの正確な観察体の眼差しの極意について、後年の私は無性に知りたくなったのである。この年の秋に三島は自決し、翌年に志賀直哉も亡くなって、新聞は昭和の最後の文豪の死を大きく報じていた。その辺りから、文学も美術も大物が出なくなり、各々の扱う主題もまた小さくなっていった。

 

今になって、ふと思うことがある。小谷さんは何故私を誘ったのか…と。その頃の私は、文芸評論では伊藤整が抜きん出て良い事を語っていたからなのか……。後年になって、横浜に住んでいた私のところに深夜、小谷さんから電話が掛かって来た事があった。電話の声は思い詰めたように暗く鋭かった。電話の話では、小谷さんは教師を辞めて、やはり絵画で自分の才能を試してみたいのだという。聞くと、今、静岡のドライブインから電話をしているとの事。これから会いに行くので、作品を見てくれないか… という話であった。既に美術家としては身を立てていた私だが、何様でもない私が、先輩の絵を見て意見を言う…という、その不自然なニュアンスが何となく気になっていた。しばらく待ったが…結局小谷さんは現れなかった。そしてまた月日が流れていった。……小谷さんが既にこの世にはいない人であるというのを知ったのは、大学から送られてきた卒業生名簿の消息欄であった。古い手帖に書いてあった小谷さん宅の番号に電話をすると、奥様が出られ、その後の軌跡を知らされた。小谷さんは結局故郷の岡山に戻り、教職を務めながらその早い生を閉じたのであった。未だ40歳前後頃ではなかったろうか。小谷さんを思い出すと、いつも決まって浮かぶ想像の場面がある。それは小谷さんが志賀直哉と向かい合って対話をしている場面である。論客であった小谷さんは何を尋ね、志賀直哉はどう答えたのか……。それはもはや答えのない永遠の謎として二人は鬼籍に入って既に久しい。「やはり一緒に志賀直哉に会っておけばよかった!!」私が18歳の時に落として来た青春時の悔いのひとつである。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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