文芸春秋

『紀尾井坂の変』

前回のメッセ―ジは、もはや凶器と化した水の脅威について書いたが、加えて夏は酷暑がそこに追い討ちをかけている。一昨年より去年、去年より今年の夏が明らかに異常な猛暑が過酷化し、遂に気象庁が「今日は命にかかわる危険な暑さ」という表現を普通に使い始めた。来年の夏からは、猛暑が「酷暑」「炎暑」という表現に変わるらしい。太平洋高気圧とチベット高気圧。この二つが日本の上に居座るというかつて無い異常な事態。2年後の夏のオリンピック、特にマラソンは猛烈な炎暑の中での凄惨な光景がデスゲ―ムのように魔口を開けて待っているに違いない。…………ところで、あの女性は何という名前だったか?……ミランダ・カ―?……いや違う。ケイト・ブルンネン!?……いやかなり違う。あぁ、そうであった、滝川クリステルであった。そのクリステルがしたり顔で言った「お・も・て・な・し」とは、祇園や柳橋の料亭、御茶屋の女将の手慣れた接遇や気配りをイメ―ジするのは間違いで、来るべき更なる炎暑のアスリ―ト達への洗礼こそが、すなわち「お・も・て・な・し」の秘めた真意だったように、今となっては思われてくる。おもてなしとは、表無し。……つまりは、もう一つの裏の意味の響きがあったように思われて来るのである。 ……さて、このあたりで話題を変えて、少しひんやりとした話に移ろう。

 

地下鉄の赤坂見附駅を下りて弁慶橋という橋を渡り、紀尾井町方面を目指して行くと、左手にホテルニューオータニが見えてくる。そこに至って真向かいに目を遣ると、鬱蒼と木々が繁り、何やらひんやりとした冷気さえ漂う公園がある。今は「清水谷公園」と呼ばれるそこは、明治11年5月14日の早朝に馬車に乗って赤坂仮皇居へと向かう、時の内務卿・大久保利道が不平士族六名によって暗殺された現場で、今はそこに巨大な石碑が建っている。……前年の9月に西南の役で自刃した西郷隆盛。その半年後に暗殺された大久保利通の事実上の相討ちであった観がある。この二人は正に薩摩を代表する両頭として語られるが、実際の人物の格は少し違う。或る人物が両者を評してこう言った。すなわち「大久保は完璧な銀の玉である。一方の西郷はキズのある金の玉である」と。けだし名言、至言であるが、この言葉の意味は、大久保は目的遂行の為には容赦のない鉄の心を持った完璧な人物であるが、しかし、どうあがいても、金の玉の西郷には及ばない、という事である。二人は誰よりも固い友情で結ばれていたと多くの歴史小説はドラマチックに書くが、友情という概念は明治以降に入ったもので、もっとリアルな心情を探ってその時代を凝視していくと、自尊心が異常に高かった大久保の内面から見えてくるのは、西郷に対する秘めた嫉妬、更には大久保自身の凄まじい野心を実現する為には如何に西郷の求心力が〈今は〉必要であるかという、強かな計算が見えてくる。……この辺りの二人の微妙にして特異な関係は、日本ではなく、むしろキュ―バ革命を成功させたチェ・ゲバラとフィデル・カストロの関係が、或いは類として近いかと思われる。勿論、高潔にして革命に理想の詩を見たゲバラが西郷であり、根っからの政治家であり、八方の心を掴む事に長けていたカストロが、大久保のそれと重なる。また、倒幕への目的遂行の為に実質的にタッグを組んだ相手は、西郷は家老の小松帯刀であり、大久保は公家の岩倉具視が最も近い。……明治9年に西郷が最も心を許した桂久武という人物に宛てた、大久保政権を激しく批判した書簡(近年に公にされた)で、西郷は「自分の志が伸びないのは大久保一蔵〈利通〉あるを以て也。大久保は人のする処を拒み自ら功を貪り、……陰に私意を逞しくしている」と記し、最後に「彼の肉を食うも飽かざるなり」と激烈な批判を浴びせている。……一方、大久保は暗殺される直前に馬車の中で読んでいたのは、自分宛ての西郷からの古い手紙であったという。……西郷を死へ追いやった事への悔恨であろうが、この辺りもゲバラを結局は死へ追いやったカストロの心情と、私にはだぶって見えてくるのであるが、如何であろうか。

 

……私は、4月辺りから度々この大久保利通暗殺現場の前を通り、紀尾井町に至る近道がある清水谷公園内の石段を登っていく日々が続いている。紀尾井町の文藝春秋ビル内にある、美術と文芸に関わる老舗の出版社「求龍堂」から8月初旬に刊行予定の私の作品集『危うさの角度』の為の打ち合わせや色校正のチェックが厳しく続いているのである。オブジェ、コラ―ジュ、版画、写真、そして詩を収めた、美術書としては類例のない作品集にすべく、質的に高い内容にするために妥協のないチェックが続き、普通の作家ならせいぜい2回で終わる色校正のチェックが、先日5回目の校正で、私はようやくOKを出した。来週はいよいよ印刷の本番が埼玉の印刷所で行われるのであるが、私は担当の編集者の人と一緒に印刷所に行き、2日間の通しで立ち会う事になっている。……9月9日まで、福島のCCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催中の個展。8月22日~9月8日まで東京の不忍画廊で開催予定の『現代日本銅版画史展』。……10月10日から日本橋高島屋・美術画廊Xで開催予定の個展と、予定はびっしりと詰まっているが、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』に続いて求龍堂から刊行される作品集は、また別な神経が使われるので、完成の日までは気持ちが休まらない、この夏である。……ともあれ考えている事は、妥協のない制作であり、また新たなる領域への挑戦である。外も暑いが、私の内面もまだまだ熱い夏が、今しばらく続くのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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