棟方志功、駒井哲郎、池田満寿夫

『銀座・永井画廊にて展覧会開催中・Part①』

6月10日から7月3日まで、東京銀座の永井画廊 (銀座8―6―25 河北新報ビル5F)で『……彼らは各々に、何をそこに視たのか。』と題して、私と駒井哲郎さん、棟方志功さん、池田満寿夫さんの四人の代表作による展覧会を開催中である。企画を立ち上げたのは永井画廊の社主、永井龍之介さん。永井さんといえばテレビの人気番組『開運!なんでも鑑定団』で、番組立ち上げから20年以上、美術作品の鑑定をされていた方として広く知られているが、『知識ゼロからの名画入門』(幻冬舎)などの著者としても知られている。以前から番組を観ていて、永井さんは日本美術史だけでなく古今の西洋美術史にも造詣が深く、その発言に確かな裏付けがあるのを知り、永井さんには興味を抱いていたが、まさか後日に展覧会開催のオファ―が突然来るとは思ってもいなかったので、誠に人生は面白い。最近つくづく思うのであるが、人生とは不思議な縁によって引き合い紡がれた物語りであり、それは偶然でなく、後に思い返せば、必然性の強い力がそこに不思議な作用をしているように思われる。運命とは、そういう事を云うのであろう。

 

……今回の展覧会は、永井さんが、その不思議な作用に焦点を絞り、棟方志功・駒井哲郎・池田満寿夫という三人の、現代の版画史を築き牽引して来た人達が、当時まだ20才くらいの私が作った銅版画作品に出会い、各々が称賛を送ったという事から切り返して、彼ら(棟方・駒井・池田)は、当時まだ美大の学生であった私の作品の画中に、果たして各々に何をそこに視たのか!!という切り口から立ち上げたのが、今回の展覧会のテ―マなのである。…… 会場には、池田さんが私の最初の個展(24才時)の為に書かれた序文の原稿や、ニュ―ヨ―クから届いた手紙など、今までの展覧会では展示した事のない珍しい物も展示してあり、来られた方の興味を引いている。

 

 

 

 

永井画廊で開催中のこの展覧会は、その切り口の斬新さもあって、美術館の学芸員や作家、また文藝の関係者までも含めて、毎日たくさんの人が画廊に来られている。昨日は、以前からお会いしたかった、棟方志功さんの孫である石井頼子さんが来られて、4時間ばかりの愉しく、また興味が尽きないお話をする事が出来た。(今回の展覧会は永井さんが直接、棟方志功さん、駒井哲郎さん、池田満寿夫さんの各々のご遺族からこの展覧会の主旨への賛同を得て、ご遺族がお持ちの貴重な作品を展示しているのである。だから保存の状態が実にいい。)

 

……石井さんは、棟方さんが逝去される日まで、棟方さんの傍で直接に接して来られた方なので、棟方さんの制作法、また生きる姿勢、知られざる逸話などを詳しく伺う事が出来て、実に有意義な時間であった。……また私が棟方さんと出会った時の経緯、審査会場に私の作品が運ばれて来た瞬間、棟方さんは審査員席から立ち上がり、私の作品『Diary1』に駆け寄って額の上から撫でまわし、賞賛の言葉を呪文のように無心に呟きながら、実に30分以上もその状態が続いた為に、審査が停まってしまった話、また授賞式の挨拶の場で、棟方さんから私の名前が何回も連呼された時に、20才を過ぎたばかりの私の身体に入り込んだ強烈な自信の話など、懐かしくも尽きない話が出来て、私は嬉しかった。

 

……それにしても、授賞式の帰りに一緒にエレベ―タ―に乗り合わせた時に、「棟方志功」という、不世出の、強度な作品の作り手が、満面に笑みを浮かべながら私の顔面すれすれに接近して来た時の、その顔から放たれた顔圧、眼力のあの異様な凄さは今も忘れ難い。…………棟方さんとお会いしたすぐ後に、東宝砧の撮影所で、今度は勝新太郎と出会ったのであるが(この場合は、棟方さんの時と違い、私の悪戯によって最大の被害者となった勝新から、やはり顔が接するギリギリまで怒り心頭に発したその顔が、あの眼力が、まさに怒髪天を衝く勢いで迫って来たのであるが、) この両者には何か共通した印象を私は今も抱いている。強烈な自己放棄の裸形さと、相反する強度な自己愛が産んだ我執への集中が矛盾して捻れうねりあい、放射されるそのアニマ、オ―ラといったものは、他に類が無いものである。そして、今想うのは、唯ひたすらの懐かしさである。駒井哲郎さん、池田満寿夫さんにも各々に忘れ難い思い出があるが、しかし、この版画史から突出した三人の先達に出会い、励まされ、プロの表現者へと導かれたという事実は、私における全くぶれない矜持となっている。

 

……閑話休題、永井画廊にいる時は、奥にある控え室で私は度々休んでいるのであるが、この控え室には実に興味深い作品が掛けてある。梅原龍三郎氏の絶筆となった、描き始めた直後のままに遺った大作が掛けてあるのである。私は、梅原氏の逝去により未完成になった、その薄塗りの、まさに彼が影響を強く受けたルノア―ルの筆触を想わせる画面を観ていて、ふと、詩を書いている最初時の、無垢な言葉の立ち上げに似ていると思った。言葉がアクロバティックに、積算的に、また連弾的にくねりながら、時に逡巡し、時にレトリックの羽を得て詩は漸く完成へと至るのであるが、梅原龍三郎氏の未完に終わったその大作を眺めながら、私は「この描きかけの作品を観て、最も強い興味を抱くのは、やはり小林秀雄であろう、」……そう思った。

 

……展覧会は7月3日迄である。棟方志功さんに続いて、駒井哲郎さんのご遺族、また池田満寿夫さんのご遺族が、この展覧会を観に画廊に来られる予定になっている。タイミングが合えば、私にとっては実に久しぶりの再会になるが、ぜひお会い出来ればと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『洗濯女のいる池―ブルタ―ニュ篇・Part①』

久しぶりのブログである。少し間が空いてしまった為か、心配した友人から「もしやコロナでは?」という、温かいメールを頂いた。しかしコロナごときは掠りもせず、私はいたって元気である(以前から実行している二重マスクが効を奏しているのかもしれない)。……慌ただしかった詩集の刊行後は、昨年の9月に亡くなられた成田尚哉さんの遺作展を今年の9月に開催すべく、下北沢のギャラリ―『SMARTSHIP』の山王康成さんと一緒に、平井の成田さんの御自宅に伺い、奥様の可子さんと一緒に詳しい打ち合わせを行った(遺作展に関しては、後日のブログで詳しくお知らせします)。

 

……また、6月10日から7月3日まで銀座の永井画廊で開催予定の、私の版画の代表作を集めた展覧会の為に画廊主の永井龍之介さんと、案内状を含めた細かな打ち合わせを行った。この展覧会では私の他に、棟方志功、駒井哲郎、池田満寿夫さん達の代表作も一堂に並ぶ予定で、各々のご遺族の方から作品が画廊に提供され、大まかな準備が出揃った(この展覧会に関しては近々にまた詳しくお知らせします)。またそれらとは別に、今年の10月後半から日本橋高島屋本店の美術画廊Xで開催される私の個展に向けての制作に本格的な火がつき、タイトルも決まり、助走から次第に速さが増し、今や完全に集中の軌道に入った感がある。……その合間を縫っての、前回に続く「池」の話をこれから書くのである。

 

……その池の話はフランスのブルタ―ニュの話であるが、そこに至る前にパリでの寄り道を少々しなければならないので、先ずはそちらから始める事にしよう。……度々このブログでも書いて来たが、私は想った事や願った事が、不思議な念力の回路を通って、すぐか或いは暫くの時を経て、実現する事が実に多い。つまり、夢が現実になるのである。人には生涯においてそういう事が数回はあるが、私の場合はそれが異常なまでに多いのである。今回はそんな話から…………。

 

私は版画集を2001年から2008年までの間、ほぼ毎年刊行して来たが、2004年に刊行した版画集は『反対称/鏡/蝶番―夢の通路―Vero-Dodatを通り抜ける試み』というタイトルである。……この制作の伏線として、私はパリに実在するパサ―ジュVERO-DODATを訪れたのであるが、そこを訪れたのは、主たる目的といったものはなく、たまたま導かれるようにして、ふと、そのパサ―ジュの暗い通路に入ったのであった。パリにはその13年前に半年以上も住んでいたのであるが、不思議な事にパサ―ジュを訪れた事は無かった。それが何故かその時は(今思い出しても不思議なのであるが)ふと行ってみようかという気になったのである。午前の早い時間に訪れたそのパサ―ジュは、長くて薄暗い通路があり、その両側に巨大なガラスに覆われたように何軒かの店があるのであるが、そこに並んでいる物は、現代にというよりは、およそ50年以上も前の時間がそのまま停まったかのように、宙吊りになった停止した時間に向けて、ショ―ウィンドゥのガラス越しの中には、もはや何も映しはしない銀の手鏡(ヴェネツィア製か?)、骨格標本のようなコルセット人形、役目を終えた活版用印字、夥しい亀裂が入ったアンティ―クド―ルの巨大な頭部、三十二面体の幾何学模型…………、また別な店は古書店、その向かいは、ダリが作ったマヌカンの人形等を撮したフォトギャラリ―……と云った、時代や客に媚びる事のないダンディズムの韻を帯びて、それらの店々の店頭には不思議な品々が並んでいるのであった。しかも、店主もおらず、店は全て閉まったままで、薄暗い通路を歩くのは唯、私一人であった。床の大理石に私の靴音だけが唯、響くだけである。

 

パサ―ジュとは何か、……パリの右岸を中心に建てられた華麗な店が幾つも並んだ19世紀の遺構であるが、後に百貨店の台頭によって人々は去り、パリを彷徨する高等遊民だけが、そこの空間に息づく意味を見い出し、やがてブルトンアラゴンといった文学者やシュルレアリスト達が、詩神ともいうべき黄泉へと通じる驚異と神秘の磁場をそこに見い出したのであった。……「今まで何度となく、この豪華な巣窟のわきを通って来たのに、その入口に気がつかなかったのは不思議に思われた。」(ボ―ドレ―ル)。「パサ―ジュは外側のない家か廊下である―夢のように」(ヴァルタ―・ベンヤミン)

 

……さて私は、幾つものショ―ウィンドゥを眺めながら夢想した。ここに例えば私が今生きているこの時代の版画家達の作品を並べたらどうか?……答えは否である。彼らの作品は、たちまちこのダンディズム漂う強い気韻に弾かれて、居場所を失うであろう。……私は更に夢想した。「ならば、かく言うおまえ自身はどうなのか!?」。私は他者へ向けた刃の切っ先を今度は自分へと突き刺した。そして想った。「面白い!!……ならばやろうではないか!!……例え実際にこの空間での作品展示など実現不可能な夢想であるが、仮に無理だとしても、強い韻を放って来るこのショ―ウィンドゥ―の中に、他の不思議なオブジェ達に混じって、堂々とした空間を更に醸し出すような強い版画を作ってみようではないか!!」……空間への挑戦意識は、たちまち湧いてくるインスピレ―ション、啓示へと替わり、私はその場で次の版画集の主題とタイトルを忽ち立ち上げたのであった。題して『反対称/鏡/蝶番―夢の通路Vero-Dodatを通り抜ける試み』。帰国してすぐに私は版画集の制作に取りかかり、三週間で六点組から成る版画集を完成させ、その年の秋に全国五つの画廊で刊行記念展を開催した。作品は圧倒的に支持され、日本語版48部、フランス語版35部全てがAP版のみを残して、ほぼ三ヶ月で完売した。……私はその版画集に手応えを覚え、そのきっかけとなったパリのあのパサ―ジュでの事を思い出して回想に耽った。……パサ―ジュのあのガラスの奥の空間に入って行けないことが激しい反動となって創作への強い促しとなり、私は確かなテ―マを掌中に収めて、その場所から立ち去った、あの時の事を。

 

「パサ―ジュVERO-DODATで作品を展示してみないか?」……作家のⅠ氏から突然の吉報が届いたのは、それから二年後のことであった。

(次回に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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