浅草十二階

『新春の仮説―オミクロンの登場は吉か凶か!?』

2022年初春―明けましておめでとうございます。今年も意識が正常にある間は、ブログ執筆に全力を注いで参りますので、読者諸兄の変わらぬご贔屓、ご愛読の程、よろしくお願いいたします。

 

 

……さてブログである。新年の5日に浅草で新年会のお誘いを頂いたので、さっそく出かけてみた。浅草寺、仲見世はもの凄い人出で夢のような三密状態である。そう正に夢みるように。……浅草六区にある木馬館や浅草フランス座なども盛況で、昨今人出は少なくなったと云われる凌雲閣(浅草十二階)も、さすがに正月だけは人人々で賑わっている。……十二階上の展望台では、群衆の中に石川啄木とおぼしき青年が先ほどから腕組みをして、東京の街を睨むように俯瞰しながら「浅草の/凌雲閣にかけのぼり/息がきれしに/飛び下りかねき」などと詠んでいる。また十二階下の銘酒屋街(私娼窟)のひなびた一軒からは、面長の癖のある男が、舶来のカメラ「コダック」を大事そうに抱えながら上気顔で出て来たところである。その足で洋食屋「アリゾナ」に向かうところを視ると、察するにおそらく永井荷風であろう。……6日には東京に初雪が降り、暫しの抒情が立ち上がって、小林清親の世界とふと重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、次はオミクロンである。年明けを待っていたかのように、暴発の勢いで感染者が増しているオミクロンという新参のウィルス株。しかし、このウィルスは目立って重症化が少なく、感染しても自覚があまり無い、かなり軽度のものであるという。それがもの凄い感染力で拡がり、強度なデルタ株を席巻し、今やその移り変わりは、感染者の7割以上がオミクロン株の感染者であるという。しかし報道は、かつてのデルタ株感染者数とオミクロン株感染者数の具体的な比率を(手間がかかり過ぎるからとは云え)別けず十把一絡げに「今日のフランスの感染者は15万人に達した模様です云々……」「沖縄の感染者は……」と粗く報道しているせいで、必要以上の過度な切迫感が昨今の状況を領している。

 

私は言葉の遊びにして、オミクロンという言葉を「今日、毛が生えた人」と置き換えて聴いている。つまり「今日、パリでは12万人の人に毛が生えました。もの凄い数です!信じられません!!!」となって面白い。ふざけているのではない。もっと敵の実情を心を静めて知れば、過度な切迫感が薄れ、この先が少し視えて来ると、そう思っているのである。恐怖は敵の正確な実情を知らないから沸き上がるのであり、つまり「敵を知り己を知らば百戦危うからず」なのである。

 

デルタ株の強度に比べ、オミクロン株は、この数ヵ月間の実体を診た結果、今までのコロナウィルスで最も軽度であるが、そのオミクロン株が登場して、今までのさばっていた強度なデルタ株を席巻(つまり一掃している)しているという現象は、(今のところではあるが、と断った上であるが、)むしろ吉報とすべきではないかとさえ思うのである。更に言えば、極めて軽度で重症化リスクが低いオミクロン株ならば、いっそ皆がかかって軽度なままにオミクロン株からの抗体を造れば、現存してあるワクチンと同等、或いはそれ以上の一応の備えになるのではないか!……と思ってもいるのであるが、さて賢明な読者諸兄は如何思われるであろうか!?

 

……海外(国名、人名は忘れたが)の或る感染症研究者が、オミクロンの世界的な感染流行後に、コロナ感染が急速に減少へと向かう可能性があると報じているが、さて、誰も先はわからない。わからないが、少なくとも昨今の報道は、感染者の仕分けが手間がかかるとは云え、もう少し丁寧な報道を期すべきではないかと思う私なのである。

 

とまれ、2年前のコロナ感染初期には不明であった医療の処し方が、18000人以上の尊い犠牲者の死を経て、今では臨戦態勢は整って来ている。おそらくオミクロン株の感染者数は、月末には、今までに無かったとてつもない数字に達していると思われ、感染そのものも、今までで一番私達の至近に迫って来る事は必至であるが、問題はその先である。前述したような好転を見せるのか、今まで大人しかったオミクロン株が、まさか!!の裏に隠していた、もう一つの顔をあらわにするのか!?……少なくとも、その吉か凶かの顔の実相を明らかにするのは、間も無くかと思われるのである。

 

 

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『企画の冴え―電線絵画展を観る』

今年の2月初旬に刊行した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が引き続き好評で、サイトのトップ頁の購入方法を読まれた方から、詩集購入の申し込みがアトリエに届き、署名を書いてお送りする日々が続いている。一冊の詩集を仲立ちとして、それまで未知であった人と感性、美意識を共有して知り合える事の不思議な人生の縁。そして、読まれた方から感想が届き、次なる制作、執筆への大きな自信、励みとなっている。

 

先日も新聞の文化欄に私のオブジェへの的確で明晰な批評文が載り、併せて詩集に関しても核心を突いた批評文が書いてあった。……その部分を引用しよう。「2月に第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』を出した。擬人法やレトリック(修辞)を駆使。すべてを語らない微妙な狭間(はざま)で表現し、読み手の自由な感性に委ねている。」また文化部の別な方からは「時空を越えて豊かなイメ―ジが膨らむ珠玉の詩篇」という讚を頂いた。……私はイメ―ジの発芽を立ち上げるが、芽から息吹いた花を愛で、その意味を読み、その人の感性に則して豊かな対話を続けていくのが鑑賞者や読者であり、その人がもう一人の作者になっていく。……というのは私の持論であるが、今回の詩集刊行の経験を経て、いよいよその考えは強い確信へとなっていっているのである。

 

 

3月のはじめに、日本橋高島屋美術部の福田朋秋さんから、練馬区立美術館で開催が始まった『電線絵画展』が面白い!!というお話しを頂いていたが、オブジェの制作が始まっていたので、なかなか時間が取れないままずっと、その事が気になっていた。そんな折りに、この展覧会の図録編集を担当されている求龍堂の深谷路子さんから、展覧会の図録と招待状が送られて来た。(深谷さんは私の『美の侵犯―蕪村×西洋美術』や作品集『危うさの角度』なども編集担当された方で、既に長いお付き合いをして頂いている。)……送られて来た図録を開き、パラパラと頁を捲った瞬間、早くも熱い戦慄が走った。私が偏愛してやまない浅草十二階関連の写真や絵画(三点)、他に岸田劉生佐伯祐三松本竣介月岡芳年川瀬巴水坂本繁二郎…etc などが載っており、何より響いたのは、「電線」を切り口として、小林清親以来の近・現代の絵画を視点を変えて観てみよう、というその企画力の妙に先ず打たれた。この展覧会はぜひ観ておかなくては悔いが残る、……そう思ったのである。

 

会期がまもなく終わろうとしている或る日、練馬の美術館を訪れた。美術館というのは、たいてい各室に一人か二人の観客がポツンといるくらいが常であるが、私の予想を越えて各室には沢山の観客がいて驚いた。……そして思った。優れた企画の展覧会を人々は待ち望んでいるのだと。つまり、人々は企画の妙に揺さぶられたいのである。ただ、たいていの美術館の企画は学芸員の独り善がりの、社会学的な凡な企画、既に通史としての評価が定まった作品をただ並べ展示しただけの安易な展覧会が多い。……しかし私が常々このブログでも書いているように、企画とは、…企画の妙とは、比較文化論的な切り口から立ち上げねば意味が無いのである。……色の違った2枚の透明な薄いガラス板の部分を重ねると、その部分が全く違った色の変幻を見せてくる。……AとBという各々の色が転じて、AはZという思いもかけない色彩の綾を魅せてくる。つまりは既存の固定したイメ―ジが崩され、作品の眼差しの偏角から、意外な未知の相貌が現れてくるのである。

 

図録によると、企画・編集した人は練馬区立美術館加藤陽介氏とある。私は未だこの方とは面識がないが、ネットで視ると、『月岡芳年展』『坂本繁二郎展』も企画されている由で、実は私はこれらの展覧会も訪れている。……美術館の面白さ、魅力とは、つまりはその美術館に企画の才のある人がいるか否かで決まってくる。……このコロナ禍で海外からの美術作品の借り入れは不可能になっているが、企画の妙を持ってすれば、国内にある作品だけでも鮮やかな、私達を煽ってやまない展覧会は十分に可能なのである。……今回の展覧会でも明らかなように、「美術館に人が訪れない」のではなく、「行きたくなる展覧会」の企画力があれば人々は行くのである。……ただ、そのような刺激的な展覧会が、この国はあまりに少ないだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………次回は、一転して『二つの不気味な池』の話を書く予定。ゴ―ギャンが生まれ、また坂本繁二郎が愛したフランス北西部・ブルタ―ニュ地方に現存する奇怪な池と、私の幼年期の記憶の淵にある池をめぐる話。乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『もう1つの智恵子抄』

 

 

前々回に連載したブログを書く際に、私は向島に4回ばかり取材をしているが、その延長先にある玉ノ井(私娼街)の現在を見るべく足を延ばして訪れてみた事があった。ご存じ永井荷風の名作『墨東綺潭』の舞台になった所である。現在は、その時代の面影は気配としてしか残っていないが、迷宮のように狭く入り込んだその残夢の中に入りながら荷風の後ろ姿を追っていくと、そこに混じって玉の井を訪れた何人かの作家や芸術家の姿も透かし見えて来て面白い。その人物達の名前をあげると以下の通り。……徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチロ―、尾崎士郎、高見順……と賑やかである。……これらの名前を見て、一瞬(!?)と意外さを感じる人物は、おそらく高村光太郎ではないだろうか。あの、運命的な愛と別れを切実と詠んだ智恵子抄の作者と玉の井は、いかにも似つかわしくないように思われる。……しかし光太郎は来た。それも頻繁に、詩までも残して。詩の題は、そのものズバリ『けもの』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けもののをんなよ/限りのない渇望に落ちふけるをんなよ/盲人のしつこさを以てのしかかるをんなよ/海蛇のやうにきたならしく/ぬかるみのようにいまはしいをんなよ/けれど、かなしや/お前をまたも見にゆくのは/さばかりお前がけものなるゆえ/いまはしいゆえ/  「けもの」

 

……この淫蕩な感覚は、留学先のパリで覚えたデカダンス故と光太郎は云うが、果たして……。

 

そんなにもあなたはレモンを待っていた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパァズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱっとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの機関はそれなり止まった/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう/  「レモン哀歌・智恵子抄より」

 

 

……以前から気になっている事があった。それは智恵子が狂いへと至る原因である。資料や文献を読むとみな判で押したように、その原因が実家の破産と貧困がそれであると云う。そして、光太郎の淫蕩な生活ぶりが智恵子との出逢いでピタリと止んだと、これもまた判で押したように書いてある。しかしある時、智恵子が狂った大きな原因は光太郎のあいも変わらぬ女性遍歴にあるという話を聞いた事があった。また、光太郎の意のままに智恵子は型に嵌められていき、智恵子は自らが「人形」と化す事でそれに応えた観があるという興味深い話を先日、伺った。……女性の権利獲得を主張した「青鞜」の中心人物、平塚らいてうとの関わりも深かった高村智恵子と、もう一人の異なる智恵子の間に亀裂へと至る相克がここにある。……そうしてみると、「智恵子抄」は愛の刻印と喪失の絶唱から、悔恨、懺悔の唄へと一変して変貌を見せてくる。……光太郎の晩年は岩手の山口村に独居して、蛔虫と極寒の過酷な生活に入るが、「掘立小屋を作って住んだのは、自分が悪いことをしたから水牢に入るような気持ちであった」と告白している事をそこに重ねれば、私の疑問も解けてくる。……人はイメ―ジで一面的に他人を括りがちであるが、なかなかに複雑な屈折がそこに在り、本人ですら自らを御せないものがある。高村光太郎とは、その代表のような人物であるかと思われる。

 

福永武彦の『高村さんのこと』というエッセーに「……高村さんが彫刻家を以て任じておられるのは明らかだった。ロダンのことが話に出るたびに、日本の芸術家は伝統がないために、三十年は遅れている……と言はれた。」とある。また壺井繁治は「彼(光太郎)の魂を、パリは近代的な魂に入れかえてくれたのである。彼がロダンに傾倒し、ロダンを通じて彫刻の真髄を悟ったというのもパリであり、……」という一文があるように、高村光太郎はロダンに心酔し、会う為に父親の高村光雲が旅費を出し、パリへと留学させている。……しかし光太郎は、ロダンに会うのを目的としながら、何故かロダンに会っていないのが気にかかる。……光太郎はしかし詩の中で「やがてロダンは静かに言った、カリエエルさん、あそこにいる娘さんのうなじはまるでマリアのやうですね」と。……また後庭のロダンをしのんで作った詩句として「悪魔に盗まれさうなこの幸福を/明日の朝まで何処に埋めて置こう。」……といった言葉の刻みがあるなど、まるでロダンに会ったかのやうで紛らわしい。ロダンに会ったのは、その時にパリに留学していた、夭折した友人の彫刻家・荻原守衛だけである。……光太郎はロダンの後ろにあるルネサンス、ゴシック、近代の法則を洪水のように一気に受容する事で、自分の背後にあった日本の彫刻の伝統が一度に瓦解する恐れを抱いて臆したのであろうか?……ともあれ、ブロンズにおいては光太郎以後もこの国に傑作が登場する事は遂に無く、光太郎に於いての傑作は木彫の小品「蝉」「蓮根」「白文鳥」「鯰」「桃」であり、ブロンズの「手」はロダンに遠く及ばず、ロダン以後の正統は残念ながらブランク―シに指を折る。……高村光太郎がもしロダンに会っていたなら、以後のこの国の分野に面白い可能性もあったかと思われるが、光太郎という分水嶺、或いは胚種は、成果をあげる事なく奇妙な立ち位置のまま、囚われたイメ―ジのままの一面性を背負っているのである。

 

……さて、玉ノ井を一巡した後、私は文人達が愛でた向島の百花園、白髭神社を経て、玉ノ井から私娼街が移った「鳩の街」(120軒以上の娼家があった)を訪れた。ここの一廓はまだ建物にその名残があるが、開発の為に正に壊されて消えていく直前に私は出くわした。……何と、私の目の前に在るその貴重な時代の証言とも云える建物のタイルが職人達によって運ばれていく現場に遭遇したのである。……以前のブログで浅草十二階の煉瓦(画像掲載)を入手した時は現場工事の親方に「すいません、文化財の仕事に関わっている者ですが!」と言って、十二階の遺構の前に立ち、大きな煉瓦の塊を二つ入手したが、今回は、「すいませんが、昭和史の建築を研究している者ですが!」というと、解体工事の、一見こわもての監督はあっさり「あぁ、いいよ持っていっても」と言ってくれたので、永井荷風『春情鳩の街』や吉行淳之介『原色の街』の舞台となった私娼館のタイルの貴重な塊をまたしても入手出来たのであった。言ってみるものである。……浅草十二階の煉瓦は、江戸川乱歩ファンや十二階の建築愛好家にとって垂涎の遺物であるが、早晩、この私娼館のタイルは昭和史を語る遺物として価値が上がるのは必至かと思われる。……かくして、美術家にして時空探偵でもある私のアトリエに、またしても不思議な「物」が加わったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『本郷界隈』

世の中はおしなべて、やれオリンピックだ!、やれ平成の次の年号は何だ?と、メディアに乗せられてかまびすしいが、もし本気で熱くなっているのがいるとしたら、それはよほど阿呆であるか、過剰にセンチメンタルな人間であろう。誘致には賄賂が常識になっているオリンピックの裏の真実―スポ―ツに名を借りただけの拝金ビジネス。西暦と元号(年号)がダブって2つあるという、この面倒な年号制度。新天皇が即位すると改元する「一世一元の制」になったのは明治政府になってからで、察するに山県有朋あたりが「象徴の設計」を目論んだ事に拠るかと思われるが、それ以前は信長や徳川幕府が制定に強く介入しており、この面倒な元号制度の視点から歴史を視ていくと、思いの外に闇が深い。いずれにしても、元号とは概念に過ぎず、平成が終わっても、平成、昭和……と同じく東から太陽がのぼり、環境破壊は加速して深刻となり、AIの不気味な進化によって、人心は渇き、人生から豊かな物語はますます薄くなり、AIの全的な普及によって弾かれた人が爆発的に溢れて雇用問題が暗い影を深刻に落としていく、……ただそれだけである。

 

世の多くの人々の関心は次なる時代へと向かっているようであるが、最近の私はと云えば、ますます昔日の「濃密にして、かつ緩やかに時間が流れていた時代」へと、つまりは抒情を追い求める意識が向かっている。……昨年の秋に本郷の画廊で個展を開催したのも一つの大きなきっかけであったが、年末から最近にかけて、明治・大正・昭和前期の面影をいまだに残している、坂の多い本郷界隈を、制作の合間をみては歩く日々が続いている。……樋口一葉、宮沢賢治、石川啄木、そして鴎外、漱石……といった文豪達の目線と重なるようにして、ひっそりと息づく本郷の界隈を、足の向くままにひたすら歩くのである。そして夜は樋口一葉の書き遺した日記や、啄木歌集を読み耽り、明治中期の空気や音を、そして一葉や啄木の、近代という岐路に直面した表現者としての自立した意識と諦観に触れる日々が続いているのである。………しかし、今から遡る事36年前の1983年の暑い夏の盛り、私よりかなり早くに、この本郷界隈を末期の鋭い眼で歩く人物がいた。……昭和の絵師と云われた、劇画家の上村一夫(1940―1986)である。この地に在った本郷菊富士ホテル(注・画像掲載)を舞台に、そこの住人であった、谷崎潤一郎、大杉栄、伊藤野枝、竹久夢二、モデルのお葉、芥川龍之介、佐藤春夫、斎藤茂吉、菊池寛、そして縛り絵で知られる伊藤晴雨……といった、かなり強度な人物群像と、大正の病んだ抒情を絡ませて描いた名作『菊坂ホテル』と、夭逝した天才作家・樋口一葉を描いた『一葉裏日誌』の構想を得るために、癌で病んだ身体を静かに鼓舞しながら、この坂の街を巡って、昔日の東京の名残を透かし視ていたのである。『一葉裏日誌』の巻末で、「……上村一夫が死んで、〈絵師〉という言葉は死語になる。……1月11日午前1時、朧絵師・上村一夫は手品みたいに、1のゾロ目を並べてみせて、あの世とやらへ飛んで行った。」と、作家の久世光彦(1935―2006)は書いているが、つまり、過去を追う視線とは、耽美な世界を追う視線と何処かで結び付いているようにも想われる。……昨今の、薄く軽く、決して深くは掘り下げない時代に、もはや美の呼吸すべき場所はない。美は昔日の中で今も確かに艶やかに息づいているのである。……『菊坂ホテル』は劇画であるが、その体を借りた、見事な文芸作品である。そして、私が偏愛してやまない浅草十二階(通称・凌雲閣)の存在が、不気味な暗い韻を放って、この『菊坂ホテル』の展開に怪しく関わってもくるのである。……まだ未読の方にはぜひお薦めしたい、これは一冊の奇書である。

 

 

本郷菊富士ホテル

 

 

旧菊坂町

 

 

 

樋口一葉・旧宅の跡

 

 

宮沢賢治旧居跡

 

 

一葉が通った質屋

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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『魔所―〈十二階下〉』

前回のメッセージで書いた通り、私の手元にはいま、明治、大正時代を象徴する異形な高搭―浅草十二階(凌雲閣)の赤煉瓦が、ほとんど完全な姿で2つ、半分のが1つ、小さな欠片が1つ在る。……「浅草二丁目の建設作業中の現場の地中深くから浅草十二階の遺構が出て来た!!」という報道がネットや新聞で一斉に流れるや、沢山の人が現場に押しかけた。そして現場の人の好意により、運よくタイムリーに、出土した浅草十二階の煉瓦を入手出来た人達がいたという。しかし、ネットを読むと、配布された煉瓦の多くが、ショベルカ―で砕かれた為に小さな欠片であったらしい。……その煉瓦の配布が終了してから既に日が経ち、私が現場に行ったのはようやくの10日後であった。しかし、私の〈想ったものをこちらに手繰り寄せる念力の、尋常でない強さ〉がまたしても発揮されたらしく、奇跡的に、あたかも私の到来を何者かが待っていたかのように、工事現場の目立たない場所に、その時に降っていた流れるような春の雪にうっすらと埋まるようにして、完全な姿のままに在る赤煉瓦を私は見つけたのであった。そして、その内の完全な形状をした煉瓦はアトリエの医療戸棚の中に収まり、小さな欠片は『浅草十二階』というタイトルの美しい本と共に、本棚の中に収まっている〈画像掲載〉。明治20年代に撮られた十二階と瓢箪池の水の写真が美しく本の表紙に配され、その手前に原物の赤煉瓦の欠片を配した眺めは、まるで不思議なタイムスリップの妙がある。江戸川乱歩が名作『押絵と旅する男』の文中に書いた妖しい言葉「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。」という文を読むたびに「あぁ、自分はあまりに遅く生まれてしまった!!」という、過去の人達への羨望が少しは薄らいだのであった。…………祭りの後のように静かな日が過ぎたある日、私はふと、あの現場に再び行ってみたくなった。遺構は保存される事なく、工事を続行する為に、おそらく十二階の遺構はまもなく完全に閉じられて、128年前の明治の「気」と「時間」の中に永遠に封印される頃であろう。……そう想うと、矢も盾もなくなり、私は現場へと向かった。……現場に着くと果たして、工事は続行されてかなり進んでおり、先日見た遺構もほとんどが柵の中に隠され、わずかに1ヶ所を残すのみとなっていた。おそらく明日は完全に閉じられてしまうのであろう。ギリギリで間に合ったという感である。前回に見た時は、現場はシ―トで覆われていたが、今日は二人の作業中の人がいるだけで、埋める工事が着々と進んでいる。見ると、今日は珍しく地上から現場へと降りる梯子が掛けられている。……寒空の下、私はマスクをとって作業中の人に大声で声をかけた。

 

「すいません、文化財の仕事に関わっている者ですが、貴重な文化遺産が埋められてしまうので、ちょっと梯子を降りて間近で見せて頂けますか!?」……すると、「ああ、いいよ!!降りてらっしゃい」という嬉しい返答が返って来た!!……逸る気持ちで梯子を降り、私は浅草十二階の、深い時間の澱を湛えたその実物を間近で眺め、直に手で触れた。そのひんやりと湿気を帯びたザラツキの感触が、私の感覚を震わせる。想えば、雑誌『太陽』の江戸川乱歩特集でも、私は「浅草十二階」への思いを熱く書き、浅草に来る度に空の高みを仰ぎ見て、既に消えた非在の高搭―浅草十二階のまぼろしを幻影の内に何度、私は透かし見たことであろうか。……それが今、不思議な時間隧道の捻れを経て、私の眼前に在る事の不思議!!不思議なタイムスリップが現実に起きている事の奇跡!!。 ……作業員の方に伺うと、その方は先日の騒動の時に新聞社から取材を受けられたとの事。「凄い数の人が、数日間、ここに押し掛けて来たよ!」との由。その時にショベルカ―で砕かれた赤煉瓦の欠片が見物人に配布され、またたく内に無くなってしまったようである。見物人は、ネット越しに、この現場を熱心に見下ろしていたという。そして、私は改めて、自分の強運を思った。…………正面を見ると、良い状態のまま、赤煉瓦が露出している。私は「もうこの遺構が見れるのも最後だと思いますので、もし宜しければ記念に少し頂けますか!?」と問うと、「ああ、いいよ」と、その作業員の方(おそらくはこの現場の責任者のようである)は言われ、ハンマーで大きな形のままにザックリと取り出して、私に渡してくれたのであった。……かくして、最後の最後に私は本当に器の広い良い人と出会え、最後にまた1つ、赤煉瓦を入手する事が出来たのであった。……さようなら浅草十二階、さようなら、ノスタルジアに満ちた明治の人よ、その夢見のようなあやかしの時空間よ!!……浅草十二階の遺構の最後の姿を眼に焼き付けたその足で、私が次に向かったのは浅草―等光寺(歌人・土岐善麿の生家)であった。……等光寺、そこは歌人・石川啄木の葬儀が行われた寺である。……そして再び私は浅草十二階の現場に戻り、浅草花屋敷の裏側―知る人ぞ知る、かつて私娼窟が在った、通称「十二階下」と呼ばれた魔所を探訪して廻ったのである。

 

「十二階下」……そこは魔都上海の響きにも通じる魔所、……盛りの時は3000人以上の女達が蠢めいていた私娼窟、すなわち性の饗宴、狂いの場でもあったが、そこは同時に近代文学の発芽をも促した温床の場でもあった。黄昏時、浅草十二階の高搭がその巨大な影を不気味に落とす頃に、夜陰に紛れるようにして「十二階下」の魔所に通った若き文学者達は多彩を極めている。……谷崎潤一郎、川端康成、芥川龍之介、永井荷風、石川啄木、室生犀星、北原白秋、高見順、高村光太郎、金子光晴、江戸川乱歩、画家では竹久夢二……etc。わけても室生犀星は、上京するや、上野駅からこの「十二階下」に直行し、そのままに溺れていったという経緯がある。「……ふしぎに其処にこの都会の底の底を溜めたおりがあるような気がする。夜も昼もない青白い夢や、季節外れの虫の音、またはどこからどう掘り出して来るかとも思われる十六、七の、やっと肉づきが堅まってひと息ついたように思われる娘が、ふらふらと、小路や裏通りから白い犬のように出てくるのだ。……〈中略〉それが三月か四月のあいだに何処から何処へゆくのか、朝鮮かシナへでも行ったように姿を漸次に掻き消してしまうのだ。」(室生犀星『公園小品』より。…………まるで寺山修司の芝居のような、ミステリアスな艶と謎と危うい引力を、この十二階下は秘めている。

 

十二階下の魔窟に軒を並べている娼家の客となった犀星。……しかし、もっと顕な記述を遺しているのは石川啄木である。啄木は、暗号のように密かに綴った『ロ―マ字日記』(岩波文庫)の中で「……女の股に手を入れて手荒くその陰部をかき回した。」と記し、「微かな明かりに、じっと女の顔を見ると、丸い、白い、小奴そのままの顔が、薄暗い中にぽ―っと浮かんで見える。予は目も細くなるほど、うっとりとした心地になってしまった。」「若い女の肌は、とろけるばかりに温かい」と素直に精細に書き綴り、十二階下は奇跡的に「地上の仙境」であるとさえ記している。…………「浅草の/凌雲閣にかけのぼり/息がきれしに/飛び下りかねき」・「不来方(こずかた)の/お城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」・「函館の/青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」……。私は石川啄木の墓のある函館の立待岬にかつて行った事があるが、何もない、ただ海風だけが荒く吹いている寂しい所である。

 

大震災が起きて数多の人心が絶望感に打ちひしがれている時に、目をぎらつかせながら被災地を野良犬のように駆け回っている者たちがいる。……盗人たちである。あれはもはや別な生き物かと思われるが、…………それと似たような危うい男が、関東大震災の直後に被災地を好奇の目を持って駆け回っていた事を知る人はあまりいない。誰あろうその人物とは、ノ―ベル賞作家の川端康成である。『文学』(岩波書店)の「浅草と文学」特集号の中で〈大正十二年九月一日に関東大震災が起こった時には、地震発生から二時間とたたぬ内に、彼(川端康成)は本郷駒込千駄木町の下宿から浅草の様子を見に行ぎ、浅草の死体収用所や吉原の廓内、本所の被服厰跡や隅田川河畔で無数の死体を眺め回った。〉とある。ここに記述はないが、川端と共に途中から行動を共にした人物がいるのを私は知っている。……芥川龍之介である。川端と芥川。……意外な結び付きに思われるかもしれないが、菊池寛が間にいる事を思えば直に結び付くであろう。〈類は友を喚ぶ〉ではないが、川端、芥川、共に最後が自死である事を思えばまた見えてくる事もある。浅草十二階の下には瓢箪池という大きな池があり、主に其処で溺死したのは、十二階下に棲まう未だ幼さを残す私娼たちであった。周知のように川端康成は目を通しての視姦、死体愛好の強度な癖を持っていた。『雪国』の中に登場する主人公の島村以外は、芸者駒子以下誰もが既にして死者である事は知られているが、『片腕』『たんぽぽ』他何れも、この世でなくかの世の話である。横光利一の葬儀の弔辞で川端は「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」と語り、以後は日本の抒情歌を綴る事に専心した。かそけき抒情の花の下、その地中深くにはネクロフィリアの暗い根が不気味に息づいているのである。

 

…………アトリエに戻り、作業員の人から頂いた浅草十二階の赤煉瓦の表に付いていた土を洗い流していると、その一辺が黒く溶けたようになっているのが見えて来た。熱に強い煉瓦がこのように黒いとは……!? そして私はその黒ずみが、他でもない関東大震災時の猛火の惨事の様をありありと映す証しである事を理解した。……黒ずみは、煉瓦の内部にまで浸透し、その激しさを如実に物語っていて、この煉瓦は特に貴重な物と思われる。…………今、私が手にしている煉瓦のすぐ間近に、川端康成のあの烏のような眼があり、石川啄木がおり、そして私が唯一、先生とよぶ寺田寅彦(物理学者、俳人、随筆家)が、そして数多の文学者達がおり、そして消えていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『128年の時空を超えて』

私は今まで、このメッセージを通して私に起きた不思議な出来事を度々書いて来た事があった。……その不思議な出来事とは、私がこうあって欲しい、或いは、ふと頭の中に唐突に閃いた事が、すぐに、あるいは、暫くの時を経て目の前で現実化してしまうという、一種の予知現象の事である。1回なら、それは偶然で終わってしまうものが、私の場合、10代の後半から、それこそ何十回と起きているので、やはり、私の頭の中の回路の一部は、〈時間〉の捻れと何処かで直結しているように思われて仕方がないのである。

 

その例を少し挙げると、①80年代の終わりに〈都市論〉なるものが流行っていた頃、「東京人」という雑誌が目立って注目を浴びていた時があった。ある日の午前中に、私は何故かふと「東京人」に書いてみるのも面白いなぁ!と想ったのであるが、……その日の午後に、何と、「東京人」の編集部からとつぜん電話が入り、私はその求めに応じて〈岸田劉生の代表作『切通之写生』の現場の今昔の違い〉について書いた事があった。②個展で熊本に行った帰り、私はANAに乗って羽田への帰途についていた。羽田に着くや横浜美術館に直行して、新潮社から刊行したばかりの拙著『モナリザミステリ―』についての講演が待っていたのである。その羽田へと向かう機内の中で、私は機内誌『翼の王国』を読んでいた。イタリアの街について誰かが書いた記事を読んで、生意気にも「私ならもっと艶のある紀行文が上手く書けるのになぁ……」と想いながら地上に着き、2.3日が過ぎた頃、『翼の王国』編集部から電話が入り、代官山で会って面会したいという。……その初めての面会の時に知ったのであるが、私の新刊を読んだ編集者が私に興味を持ち、〈次の紀行文の取材は北川で〉という案が編集会議にかけられたのであるが、正にその時、私は空の高みの機上にいて機内誌を読んでいた、その時なのであった。……そして私は念じた通りとなって、写真家とスタッフの3人でパリへと飛んだのであった。

 

③……「ガウディの建てた、あの異形な建築物〈サグラダ・ファミリア教会〉は、何故バルセロナの〈あの場所〉に建てられたのであろうか!?」……どの研究書にも書かれていない、その詳しい背景について、私は電車(東横線)に乗りながら自らに設問し、かつその答をまさぐっていた。……しかし、建築の専門家でない私にわかろう筈がない。……電車は、まもなく終点の渋谷へと近づいていた。私はふと、網棚の上に新聞が打ち捨ててあるのに気がついた。普段は他人が読み捨てていった新聞になど興味がないのであるが、その時だけ何故かふとその新聞が気になり、背を伸ばして手に取り開いて見た。それは確か産経新聞であったかと思う。パラパラと読み流していく内に文化欄の紙面になり、その紙面を見た私は、我が目を疑った。……そこには正に私がいま自問しながら終にわからないでいた、〈サグラダファミリアが、何故バルセロナのその場所に建てられたのか〉という具体的かつ興味深い理由について、日本人建築家の人が詳しく書いた記事が載っていたのであった。…………「そんなに知りたいのなら、ではそっとお前だけに教えてやろうか!!」……悪戯好きな悪魔が、間違いなく私の傍にいる!!記事を読みながら、私はそう思ったのである。

 

④ 昨年の春5月のある日の夜半、私は民放の「報道ステーション」なる番組をぼんやりと見ていた。北朝鮮についての相変わらずの報道を見ていた時、私は全く唐突に、昔、訪れた事のある太宰治の生家「斜陽館」の事がふと脳裡に浮かび、そこでかつて見たビデオの美しい映像 ― 桜吹雪が舞うなか、ゆらゆらと揺れるように、太宰治の生家近くの金木駅の線路上を走る津軽鉄道の古色を帯びた電車の光景を見た時の記憶がよみがえって来た。私は何故か無性にその映像の事が恋しくなり、「あぁ、今一度あの電車を見てみたい」という突き上げる感情を覚えたのであった。…………すると数分後に司会者の(……それでは、ここで気分を変えて、この映像をご覧下さい)という声が流れるや、画面は一転して深夜の暗い駅舎が映り、そこに今し入ってくる最終電車の、ロ―カルで抒情溢れる映像が画面に中継で映し出された。……〈まさか!!〉と思い驚いて見ると、それは正にその少し前に、突然私の脳裡に立ち上がって激しく見たいと希求した、正にその津軽鉄道・金木駅と電車の光景なのであった。………………………………

 

私に度々起こるこの現象……いわゆる人体に潜む超常能力と超感覚の具体的な現れについては、コリン・ウィルソンの著書『サイキック』(荒俣宏監修)に詳しく記されているが、その現象がまた先日にも起きた。これから記すのは、先日書いたメッセージ『夢見るように眠りたい』の後日譚のようなものである。

 

先日、十日以上前に私は、隅田川・吾妻橋の河岸に建つアサヒビ―ル本社22階のカフェから、関東大震災で崩れ去った異形な高塔―浅草十二階(通称・凌雲閣)の建っていた場所を遠望しながら、その塔への強い拘り、一目見たかったという、その思っても詮無い想いをたぎらせていた。江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の一節は次のようにある。「……あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。……」。私はこの文に接する度に、遅く生まれてしまった事を悔やみ、もし、明治期に遡って生まれ変われるものであれば、今の生に全くの執着は無い、……それほどに強い想いのままに、カフェの高みから、その蜃気楼、その幻影の塔を透かし見ていたのであった。…………しかし、私が見ていた正にその時、かつて十二階が在ったとおぼしき場所では、信じがたい事が起きようとしていたのであった。

 

「工事中の作業現場から浅草十二階の遺構らしき礎石の一部と赤い煉瓦が発見される!!」という報道が、新聞やネットで流れた日、私は全くその報道を知らずに、前回のメッセージ『夢見るように眠りたい』の文で、正にリアルタイムで、浅草十二階への強い想いを書いている最中であった。そして、その情報を後に知ったのは、シス書店の佐々木聖さんからであった。さっそくネットで見てみると、出てきた浅草十二階の赤煉瓦は、ショベルカーで砕かれ、その破片を、報道を見て駆けつけた人達に配っているという。その群集の中にはアルフィ―の坂崎幸之助さんの姿も混じって映っていたのには驚いた。……そしてネットの最後に、出てきた十二階の赤煉瓦の配布は既に終了し、作業は続行して新しいビルが建つ事、また赤煉瓦の形の良いのだけが数個選ばれて文化遺産として保存される由が記されていた。……その記事を見て万事休す、あぁ、私は何故そこに駆けつけなかったのか!という悔いに包まれた。……しかし、赤煉瓦の配布を終了してから既に十日以上が経っている。私は目の前に現れた蜃気楼が一瞬、現実と交差してふたたび幻となって過去の時の中へ消え去っていくのを覚えた。……しかし、せめて、今回の工事でその建っていた場所が確認された、その場所を見てみたいという思いが立ち上がって来た。東京に出る用事は数日後であったが、それを待たずに明日、行ってみよう、そう思って、その日は寝た。翌朝は雨であった。浅草の雷門に着くと、雨は急に雪へと変わった。薄雪の降りが流れるように美しい。白く霞んで、ふと彼方の昔日の雪をそこに透かし見た。「こぞの雪今いづこ」……そう呟いた中原中也の詩の事がふと浮かぶ。…………白雪の中を、伝法院通り、六区、ひさご通りへと歩いて、ようやくその現場へと私は来た。……しかし、何故か地面を深く掘り下げた作業現場に作業員は全くおらず、ネットで見た、10日前にたくさん駆けつけた人達も当然おらず、現場は不思議な程に全くの無人であった。……私はかつて浅草十二階が建っていたまさにその現場に立ち、ふと何かに誘われるような「気」を覚えて、導かれるままに現場の目立たない一画に目をやった。……そこに私は、信じ難い物が在るのを見てとった。既に配り終えて在る筈の無い赤煉瓦(しかも完全な形のままに)が二つ、ひっそりと薄雪に埋もれるようにして在るのを見たのである。……乱歩の小説の中で「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………」と呟いた魔的な呟きが、ふと頭をよぎる。その魔的な何者かが、この浅草の一角を暫し「不思議な時空」へと変えて、あの電車の中で起きた時のように、私に見せてくれた妖かしのこの時、まさに一時のこの時に、128年の時空が捻れて交差した!!……私はそのように思ったのであった。……かくして今、過去の遠い見果てぬ夢、幻の蜃気楼は、具体的な〈時の欠片〉となって、私のアトリエの医療戸棚の中に、ひっそりと息づくようにして在るのである。浅草十二階―通称・凌雲閣。……その確かな現物が、実物を見てみたかったと永年夢見て来た私のアトリエに、かくして息づいて在るのである。

 

〈追記/ 持ち帰った浅草十二階の赤煉瓦(ほぼ完璧な形状のまま)を、現代のJIS規格で決められているレンガのサイズと比較してみると、現代のレンガは三辺が210×100×60であるのに対し、128年前のその赤煉瓦は三辺が175×100×55と、やや小ぶりであるが、今日のそれと比べると遥かに密度があり、ズシリと重い。設計者のウィリアム・K・バルトンの確かな想いがそこから見えてくる。……アトリエに在るその赤煉瓦は、128年間の時間の澱を孕んで深い古色を帯び、それは終わりの無い夢想を運ぶ、もはや完璧なオブジェとして、いま私の眼の前に在る。……とまれ、浅草・吾妻橋沿いのアサヒビ―ル社の22階のカフェから、十二階の在った場所を遠望しながら紡いでいた或る日の見果てぬ夢が、僅か10日の後に、不思議な経路を経て現れ出て、いまアトリエの医療戸棚の中にひっそりと在る事の不思議よ。……私は今日もまた夢見のような気持ちで、浅草十二階のその断片を眺めているのである。〉

 

 

 

 

 

 

 

 

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『夢みるように眠りたい』  

アドリア海に面しているヴェネツィアの寒さは、また日本のそれとは質が違う厳しさである。足下の凍った石畳から直に冷気が伝わって来て感覚が硬直してくるのである。しかし、感性はその分、垂直的になるのでむしろ良い。……とまれ、2台のカメラを駆使した撮影の成果は、詩画集という形で今後に展開していく事になっているので、乞うご期待である。

 

……翌日は、昼過ぎに紀尾井町にある文藝春秋社ビル内で打ち合わせが終わるや、私はすぐに浅草へと向かった。最近、つとに永井荷風の事が頭にちらつくので、彼が愛した浅草隅田川、吾妻橋、言問橋、向島……を眼下遥かに見下ろせるアサヒビール社の22階の展望カフェで、〈浅草〉が持っている不思議な魔の引力について考えてみたくなったのである。しかし、それにしても快晴である。……嘘のように晴れ渡った眼下を見ながら、浅草寺のやや左側に、大正12年の関東大震災で崩れ去るまで建っていた、蜃気楼のような浅草十二階―通称「凌雲閣」の事を私は想った。

 

浅草十二階

 

仁丹塔

 

 

映像の魔術師と云われた映画監督のフェリ―ニを愛する私は、ア―ティフィシャルな人工美に何よりも重きを置いている。……故に「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と記した江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階は、私のイマジネ―ションの核にありありと今も聳え建っているのである。…………あれは何年前であったか。平凡社『太陽』の名編集長であったS氏から電話がかかって来て「今度、江戸川乱歩の特集〈怪人乱歩・二十の仮面〉で20人の書き手に、乱歩の20の謎をキ―ワ―ドにして書いてもらいたいので、あなたには〈洞窟〉を書いてもらいたいのですが……」と切り出された時に、私はすかさず「〈洞窟〉は書きたくないけれど、〈蜃気楼〉をキ―ワ―ドにして〈押し絵と旅する男〉についてなら喜んで書きますよ」と話した。意外にも、当然企画に入っていると思った〈蜃気楼〉がなく、私は即座にそれならば書こうと閃いたのである。一旦編集会議を開いて……となり、翌日再度電話がかかって来て、私は〈蜃気楼〉を書く事になった。……ちなみに最初に依頼された〈洞窟〉は〈迷宮〉を更に追加して、直木賞作家の高橋克彦氏が書いたのであるが、この時の執筆者は他に、種村季弘、久世光彦、谷川渥、佐野史郎、鹿島茂、石内都、荒俣宏、赤瀬川原平、団鬼六、林海象……他、実に賑やかであったが、すでに今は鬼籍に入られた方も多い。……さて、私はかつて浅草十二階が聳え建っていた場所を22階の高みから透かし見ながら、今一つの蜃気楼―〈仁丹塔〉の事を、遠い記憶をなぞるように、これもまた重ね見たのであった。……ずいぶん以前のこのメッセージ欄で、私は仁丹塔に登った事、中の螺旋階段は途中で行き止まりになっていて、そこに何故か二羽の白い鳩が、突然の来訪者である私に驚いてパタパタと塔内の虚ろな空間に羽ばたいていた事、またその仁丹塔の入口近くには怪しい蛇屋があった事……などを書いた事がある。しかし、もはやそれも遠い記憶、確かに行った事さえも夢見の中の出来事のように虚ろな、正に逃げ水や、蜃気楼のような遠い記憶なのである。

 

 

 

……その、今では幻と化した浅草・〈仁丹塔〉が重要な舞台となった映画『夢みるように眠りたい』(林海象監督)展が、恵比寿にあるギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」で開催中である(24日まで)。この映画は1986年に初上映された時に私は観ており、実に32年ぶりである。この映画を観んと、この度、ギャラリ―に訪れた沢山の観客に混じって私は観たのであるが、この映画は色褪せるどころか、更に不思議なマグネシウムの閃光のような煌めきを放って私を魅了した。……つまりは、この世は〈想い出〉に他ならず、人生もまた幻であると見るなら、映画の本質は、その幻影ゆえの実をまことに映し出している、という意味で、この映画はその本質を直に活写したものであり、フェリーニの『アマルコルド』や、衣笠貞之助の『狂った一頁』(川端康成原作)と並び立つ名作だと私は思う。ギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんから監督の林海象さんをご紹介頂き、私は林さんに、「実は私も仁丹塔に登った事があります」と話すと、林さんは古い共犯者に再会したかのように驚かれ、「あすこに登った人は、意外にいなくて、確かに見えていたのに近づくとフウッと消えて見えなくなってしまう、あれは実に怪しい塔なんだよ」と話されたので、「全く同感、あれは蜃気楼だったんですよ!」と私は話した。この映画でデビュ―した佐野史郎さん、また会場で久しぶりにお会いした四谷シモンさん以外、私はこの塔に登った人を知らないし、存命者ではもうあまりいないかと思われるのである。

 

本展の会場になったギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」は、JR恵比寿駅の西口から徒歩2分。少し歩くと、急に恵比寿の喧騒が消え失せ、ふとパリのモンマルトルの一角を想わせるような風が立ち、目の前に急な石段が現れる。その石段を登り、それとわかる何気ないビルの扉を静かに開くと、そこは、全くの別世界。その静寂の中、高い美意識に包まれて次第に気持ちが典雅にリセットされてくる。しかし、このギャラリ―は、いつも決まって何人かの来廊者がいて、静かに作品を鑑賞している姿が見てとれる。……私はこのギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんとは20年近い、長いお付き合いをして頂いているが、今もってこの人は謎である。毎回、夢のような優れた企画展示をしているが、元来が〈風〉の人である佐々木さんは、ある日ふと、何の前触れもなくギャラリ―を突然たたんで、気まぐれにサ―カスの軽業師の団員か何かになって、まるでブラッドベリの小説の中の登場人物のように、嵐の夜に忽然と消えてしまいそうな気配を漂わせていて掴めない。掴めないが、この人の拘りと、眼の確かさは本物である。……私は、以前にゲ―テが愛した〈風景大理石〉をこの画廊で買い求めて、今はアトリエの壁に大切に掛けているが、本展でまた1点、写真の素晴らしい作品に出会い、一目で気に入り、購入を予約した。……それが、『夢みるように眠りたい』の1シ―ン、前述した〈仁丹塔〉の屋上に登った、謎の探偵に扮した佐野史郎さんと助手が点景のようになって、仁丹塔から彼方を指差している写真(額入り)である。この写真作品を見た時に、かつてそこに登った時の自分が重なり、本当の自分は、実は今もなお、既に消えて久しい仁丹塔の中の迷宮をいまだに、それこそ永遠にさ迷っているような感覚に包まれて無性に懐かしかった。……この作品は、私にとって〈夢の結晶〉のように大切な物として、後日アトリエにやって来るのであるが、ご興味がある方は、ぜひ24日の会期終了までに訪れて、ご覧頂く事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

LIBRAIRIE6+シス書店

東京都渋谷区恵比寿南1―12―2 南ビル3F

TEL03―6452―3345

Open・水曜~土曜 12:00―19:00 日曜・祭日12:00―18:00

Close: 月曜/火曜

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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