西脇順三郎

『第10回菊池ビエンナ―レ展 現代陶芸の〈今〉を観る』

昨日の午後、アトリエでオブジェの制作と平行して詩を書いていたら携帯電話が鳴った。誰かからのEメールである。開いて見たら「三田文学に詩を書いています。お読み頂ければ有り難いです」とだけの短文で、全く知らない人の名前が……。現代詩手帖ならばいざ知らず、森鴎外永井荷風等の流れを汲んだ歴史ある「三田文学」での詩ならば面白いかも…と興味が湧き開いて見たら、忽ち〈悪質メール注意〉の警告が!……直ぐに消したが、その後で笑ってしまった。怪しい連中が「三田文学」の角度からも詐欺をやっている、その着想の幅の広さに半ば呆れて笑ってしまったのである。「三田文学」を知っている詐欺師とは、なかなかの知識があるようで面白い。……そして「そうか、この連中は私を詩人としてリストに入れているのか」と思うと、妙に励まされたような笑える気分であった。そして思った。(そうだ頑張って、遅れている第二詩集の為に詩作を急がねば)と。

 

……さてこの度の能登半島大地震であるが、惨事は他人事でなく、いつ私達を襲ってくるかはわからない。正に一寸先の事は誰も知らず、突然ガタガタッと窓ガラスが激しく揺れた時が、この世との訣別の瞬間かとも思われる。……もの凄い揺れに襲われ、玄関の扉も開かなくなったその瞬間、パニックになったあなたはどうするか?……先ず閃くのはテ―ブルの下への避難であるが、しかし大量の二階からの落下物がのし掛かってテ―ブルの脚も折れ曲がり、意に反して脱出が困難になる場合が多分にある。……ここで、先人が助かった例として提案したい場所がある。それは……「トイレ」である。構造が狭い分、重い落下物が周囲に分散し、またトイレは外に隣接しているので、脱出或いは発見される可能性が高い。そしてそこで大事な事は日頃から「笛」・ホイッスル(緊急用救助笛―ちなみに楽天で171円他)をトイレに予め用意しておく事である。……怪我をして次第に脱水症状が出て来ると、救助の呼び声に言葉で返す力も無くなってくる。そうした時に笛は僅かな息だけで遠方に音が響き、発見される可能性がきわめて高い。自力の微かな声よりも、遠くまで響く他力の音が遥かに実際的である。……一例として、阪神淡路大震災の時に自宅が全壊した俳人の永田耕衣さん(1900~1997)は、丁度使用中だったトイレに閉じ込められたが、たまたまそこにあった茶碗を箸で叩いて助かった事がある。とまれ参考にして頂きたく、一例としてこのブログで提案した次第である。

 

 

先日の快晴日に、東京の日比谷線の神谷町駅で下り、大倉集古館のそばに在る菊池寛美記念・智美術館で3月17日迄開催中の『第10回菊池ビエンナ―レ展』現代陶芸の〈今〉』を観に行った。…場所は虎ノ門に在りながら、都会の喧騒とは無縁の静謐な空間を帯びたこの美術館が好きで、私は度々訪れるのであるが、この菊池ビエンナ―レ展は、特に審査のレベルが高く、土でしか出来ないオブジェの可能性を追っている点からも、素材の妙を知る上で、特に私の興味をひいている展覧会である。

 

 

 

 

しかも今回は、女性初の受賞者である若林和恵さんが大賞受賞者であるが、その若林さんは私のアトリエの在る建物の階上に住んでおられ、地下の工房で日夜、磁器の制作に励んでおられるのを長年知っているだけに、感慨もまた深いのである。(私はつごう7回の引っ越しを経て、導かれるように現在のアトリエで制作しているが、世間が静まった夜半に階下から聴こえて来る、若林さんが作陶に挑んでいる土や水の響きが時おり伝わって来て、自分も頑張らねばと、一人の表現者として私は自ずと鼓舞されるのである。)………………

 

美術館の螺旋階段を降りて行くと広い会場である。若林さんの大賞受賞作品『色絵銀彩陶筥「さやけし」』(画像掲載)が先ず展示されている。古典の雅とモダニズムの華やぎとの共存を帯びた圧巻の存在感を放って尚も優美。…観る人をして鑑賞でなく、観照の深みへと引き込む存在の強さがある。…この存在感は、若林さんが芸大を卒業後にピカソの作陶でも知られるイタリア・ファエンツァの国立陶芸美術学校に留学して学んだマヨリカ陶の技術研鑽と共に、体感として享受したアドリア海の硬質な強い光が、感性の中に豊饒なままに息づいており、それが日本古来からの美の湿潤さと静けさの豊かな混淆の放射として産まれた、若林さんの作品だけに固有な独自の存在感のように思われた。

 

……実に照明の配慮が行き届いた館内には、今回の応募総数359点の中から第二審査迄を経て選出された53点の入選作品が展示されていて、各人の技術研鑽の苦労と作品への想いが伝わって来る。しかし、私にはあくまでも既存の「工芸」の領域に作者達の意識が総じて向かっているような一元性を感じさせて映った事は正直な感想である。優れた作品が他を排して存在するのは、作品が孕んでいるもう一つのイメ―ジの揺らぎ、西脇順三郎的に言えば「諧謔」的なものが在るか否かなのである。そして、私が作者を知っているからという単純な身贔屓でなく、私が審査員であったとしたら、やはり今回の大賞は若林さんに一票を投じたに違いないであろう、作品・色絵銀彩陶筥『さやけし』は、そのような作品なのである。………………いろいろと考える切っ掛けになったこの展覧会は、ジャンルを越えて得るところのあった経験であった。今年は元旦から不穏な事が続き、私達の気持ちが日々荒れている感がある。もし時間的に余裕があるならば、喧騒から離れた静かなこの美術館を訪れて、作品の数々に接して自身と向かい合う観照の場にされては如何であろうか。

 

 

 

 

 

 

…………さて、美術館を出ると、なおも日射しは真冬だというのに、夏のような烈々とした強い光である。神谷町駅から日比谷は近い。私は久しぶりのこの快晴の光をもっと浴びたくなり、日比谷公園に行き松本楼で昼食をとった。……そしてフットワ―クの良い私はその足で銀座線に乗って浅草寺に行き、珍しく御神籤をひいた。……「大吉」であった。

 

 

 

 

 

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『交尾を見ながら考えた事』

……「あぁかけすが鳴いてやかましい」と詠んだのは、詩人の西脇順三郎であるが、ここアトリエの前にある桜の樹の上では、先ほどから蝉がしきりに鳴いてやかましい。ジリジリと実にやかましい。あまり異常に鳴くのでさすがに見に行った。……見上げても樹の色に同化した蝉の姿はわからないが、鳴き声のする高みを注視すると、そこに蝉がいた。普段は行く夏を惜しむ抒情の風物として聴こえるが、それにしても今日の蝉の鳴き声は尋常でない。……夏の終わりに急かれたのか、雌を求めて必死に雄が鳴いているのである。

 

……すると別な樹の上から1枚の葉がハラリと落ちたかと思うや、急に風が吹いたようにその雄の側に流れてピタリと停まった。強さを誇示する鳴き声に誘われた雌が遊び女(あそびめ)のように翔んで来たのである。しかし、雄のすぐ横にくっつくのではなく10㌢ばかり間をとっているのは、お安くはないのよ!と言わんばかりの、雌なりの矜持か。見ていると、動かない雌に焦れた雄が下に下がり、次に雌の背後に忍び寄って、約束事のように交尾が始まった。けっこう長い時間、交尾が続き、時おりジジッ、ジジッ……というわけありな声を雄が発している。

 

その交尾中の雌雄の姿を見ていると連想が浮かんだ。……借金の返済を迫られている雌(もとは遊女、今は堅気の商家の妻)。その雌を力尽くで手籠めにしている豪商・穀田屋五兵衛(執拗なかつての男)……。場所は……京都、そうなるとやはり白川辺りが相応しいか。すると、私は雌のすぐそばに、どうしても健気で気丈な娘を配したくなった。……こうなってくると連想が止まらず、物語の一コマがありありと浮かんで来る。私はやはりこういう場面では、水上勉の小説『しらかわ巽橋』が相応しいと思い、記憶の中の登場人物たちの台詞をそこに重ねた。……祗園の一等地である白川巽橋の付近で、焼き鳥の屋台を引いて女手ひとつで娘島子を育てる、茶屋の女中上がりの勝代。……勝代は島子に言う、「〈男は女を喰いものにする動物や、負けたらあかん……うちらは、この世で、ふたりきりや。男を鼻であしらう女にならな、生きてゆけん〉」。すると島子が言う、「そうや、うちも出直しや」。

 

 

 

……私はなおも考えた。……私はそのような事を連想したが、ではこの蝉の交尾現場を見ながら、他の人はどう思うのかと。私の大学の後輩のS・H君(自称spiritual・artist いわき市在住)は、世界の万象全てをエロティシズムの視線で視てしまう特殊な能力というか、煩悩の持ち主なので、『O嬢の物語』的な禁忌、禁断のイメ―ジをそこに過剰に紡いで、おそらくは一人でうち震えるであろう。

 

また上智大学神学科を出て、暫くボロ―ニャ大学で教鞭をとっていたアベ―レ神父(A proposite del prete Abele)ならば、そこに神の荘厳を視て十字を切り、小説の神様と云われた志賀直哉ならば、人間の理性では御し切れない動物的な側面を、人間のどうしようもない業として描いた『暗夜行路』の如く、その微細な動きを容赦ない観察者の眼で写し取り、生の見立てをそこに重ね描くであろう。……要するに同じ事象でも、それは観る人の感性の違いで様々に異なって脳内で再び変容するのである。漱石が『草枕』の中で書いた「……ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の女も見様次第でいかようとも見立がつく。」と書いたように。

 

……これは表現作品を観賞する際に全て云える事である。……例えば、映画や演劇、ダンス、能、歌舞伎、音楽……などを観たり聴いたりする時に、会場に1000人の観客がいたとしよう。すると、その作品を観た観客は全て同じものではなく、各々の感性の違いによって実は脳内に映った異なったものを観ている事になる。……ここに、実は内的感動としての1000のかそけき孤独が各々に生まれるのであるが、しかし、劇場の暗い闇の中でその1000の孤独から派生した各々の熱い「気」のようなものが空間で不思議な〈交感〉を産み、そこに生まれる熱いものがエモ―ション(感動)となって、観る人達に相乗した感動をもたらし、その時にこそ、その作品も本当の作品となって立ち上がるのである。

 

……故にそれは、やはり実体験としてのライブ(生)でなければならないのである。(……但し、今私が云っているのは、あくまでも優れた表現作品にのみ云える事であって、凡な駄作は全くこの限りではない。)……また、美術、文芸の詩や小説などは、観賞享受の構造があくまで1対1の関係性ゆえに、作品との孤独な対話さらには観照は、ついに孤独な深化を極める事となる。……ここまで書くと、かつてオランダ・デン・ハ―グのマウリッツハイス美術館で観たフェルメ―ルの代表作『デルフトの眺望』の事を思い出す。この神性の宿りと云っていい美しい作品を観たプル―ストやゴッホ、ジャン・コクト―達が孤独ゆえの熱い感動を各々に文章で残しているが、私も熱い感動をそこに覚えたものであった。その感動とはつまり、いま自分が確かに生きている事の真の高揚感であったと云えるものであるが、この感動は孤独な一人であったからこそ生まれたものであり、もし連れがいたなら、この感動は薄まっていたに違いない。

 

 

なおも私は考えた。私の人生とは何であったかと。その答えの一つとして、想えば、私の人生は交尾ばかり観て来た人生であったのでは……というふうにも云えるだろう。犬や猫の交尾は誰もが見ている。……それに加えて私は蟷螂(カマキリ)の交尾を視、その交尾中に雌によって雄が頭から食べられているのを見た。乾いたパリパリというその音は今もありありと記憶にある。蜥蜴も見た。珍しいのは鶴の交尾であった。……これは正に寸秒で終わるアクロバティックな難易度の高いもので、私は鶴の雄に同情したものである。…そして、今見た蝉の交尾。…… 更に私は、そのものずばり『交尾』という題の小説を書いた梶井基次郎の事を思った。梶井がその小説を書いた現場が見たく、学生の頃に湯ヶ島の梶井が滞在していた宿にはるばる行った日の事を。

 

ふと樹の上を見やると、雌雄の蝉は何処かへと消えていた。あとには蝉の形の妙だけが残った。丁度、幼児の円く膨らませた掌を伏せて、そっと引くと、そこに蝉の幻の形が立ち上がる。そんな感じである。……すると高村光太郎の木彫りの名品『蝉』の事が頭に浮かんだ。光太郎は木彫りの彫刻の方が断然にいい。

わけても『蝉』は、『鯰』や『柘榴』と共にいい。……最近、高村光太郎の事が何故か気になって仕方がない。……高村智恵子が亡くなった後、酒に酔った光太郎が三河島の呑み屋で「智恵子は俺のこの手で焼いたんだ」と、独り呟き、またロダンに憧れ、はるばるパリに会いに行きながらも、実は会わずに、しかしまるで会ったかの如く装う光太郎の内なる矛盾と闇の深度に関心があり、そこが日本近代史の一つの切り口になると私は睨んでいるのである。…………………………そう思っている間に時間がずいぶん経ってしまったので、そろそろアトリエに戻らなくてはならない。……10月20日からの高島屋の個展に向けて、『聖セバスティアンの殉教』を私は今、制作中なのである。

 

 

 

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『Isola Bellaの白い孔雀』

この度のコロナ騒動で具体的に判明した事が一つある。それは、世界とはすなわち私達個々の内なる幻想・幻影の映しに他ならず、世界はあたかも回り舞台に描かれた下手くそな書き割りの絵、茶番、虚像で成り立っているという事である。世界はかくも脆く、故に夢見のように儚い悲喜劇とせつなさに充ちている。このせつなさの先に、詩人の西脇順三郎が云ったポエジ―と諧謔が在り、この世を全て移動サ―カスと見れば、フェリ―ニの詩情に充ちた映像のように俯瞰的に面白く、妙味を持って世界が裏側(繕いだらけの張りぼて)から見えて来る。……少なくとも世界とはそのように私には映っている。……ならば、窮屈な今を離れて、少し前の旅の記憶について今日は書こうと思い立った。

 

……今から30年前、1年間の間であったが、ゆっくりとヨ―ロッパを巡る旅に出た事があった。旅の前半の拠点はパリであったが、その間にスペイン、イタリア、オランダ、ベルギ―……と廻り、後半は拠点をロンドンに移し、ミステリ―の生まれた舞台…暗い霧の中に在って、ひたすらイメ―ジの充電に浸る日々であった。……その様々な旅の記憶の中で、今日のブログに書きたいのは、ミラノからスイスへと行く途中にあるマジョ―レ湖の事である。今の渇いた殺風景な日本から、せめてイメ―ジを翔ばすには、たっぷりと水気を含んだ広大な湖こそ相応しい。

 

 

 

 

マジョ―レ湖へと私を導いたのは2冊の本(ゲ―テの『イタリア紀行』と澁澤龍彦の『ヨ―ロッパの乳房』)であった。ミラノからスイスに向かう列車に一時間ばかり乗り、ストレ―ザという駅で下車。緩い坂道を下って行くと正面に「珠玉の美しさ」と云われた広大な湖が見えて来る。その湖畔には、夢の中にでも出てきそうな巨大なホテル「グランドホテル・ディ・イル・ボロメ」(画像掲載)が在る。ヘミングウェイがこのホテルに泊まり『武器よさらば』を執筆した場所としても、ここは知られている。

 

 

 

 

湖畔に来ると数艘のモ―タ―ボ―トがあり、中央に見えるイゾラ・ベッラ島、また近くの島を廻る旅人の為に漁師たちが舟を動かすのである。……メインであるイゾラ・ベッラ島は、今もミラノに住む貴族・ボッロメオ家の所有であるが、かつてナポレオンも泊まったという巨大な宮殿は見学が可能であり、夥しい数の貝殻で造られたグロッタの部屋や、庭に出ると真昼時の光を浴びた広大なバロックの庭園や、頂上の高みに白い一角獣を配した彫像群が在り、雪をいだいた連峰を遠くにみるマジョ―レの湖面に映えて美しい。

 

……私は、この島のレストランから郵便が出せる事を知り、澁澤龍彦夫人の龍子さんに昔のマジョ―レ湖を撮した葉書に感動のままに文字を書いた。……「澁澤氏の『ヨ―ロッパの乳房』の描写のままに実景もまたあまりに美しく、氏の文が誇張なく綴られた、誠に1篇の詩である事を痛感しました。私はここに来て、実景と文章における距離の計り方を知り、何かを掴んだように思います。この経験は得難いものとなりました。必ずや帰国してから活きると思います。明日、またミラノに戻ります。」……記憶では、およそ、そのような内容の手紙であったかと思う。……帰国してから活きる、この予感は当たり、文藝誌の『新潮』に書いた、フェルメ―ル論やピカソ・ダリ・デュシャンを絡めた書き下ろしの中編をはじめ、文章を書く機会が多くなっていくのであるが、私はこの島での僅かな滞在ではあったが、何かエスプリと艶のごときものを掌中に収め獲た旅となった。

 

……さて、このイゾラ・ベッラ島には、この島の美しさを具現化したような白い孔雀がバロックの庭に優雅に遊び、私をして非現実の世界へと軽やかに誘った。……今、この孔雀の事を思い出しながら、このブログを書いているのであるが、その意識とは別に、先ほどから脳の中の何処からか突き上げてくるものがあり、たちまちそれは四行の短い詩文となったので、忘れないうちにこのブログの中に記しておこう。

「イゾラベッラの白い孔雀は/真夜中にその羽を広げる。/マジョ―レの湖面に/幻の満月を映すように。」

……オブジェの制作の時も同じであるが、それ(イメ―ジの胚種)は、向こうから突然やって来て、私はそれをあたかも釣り上げるようにして立ちあげるのである。今、マジョ―レ湖の旅の記憶を思い出すままに書いていると、突然、詩が出来上がったのであるが、〈旅人〉〈その記憶〉という立ち位置は、何か自在に表現へと向かわせるものがあるようである。とまれ、この度のコロナ騒動が収まったら、このマジョ―レ湖とイゾラ・ベッラ島への旅は、ぜひお薦めしたい旅なのである。……次回は、パリ編のモンマルトル墓地で私が体験した非現実的な話を書きたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、以前から予告していた私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が沖積舎から刊行された。11月の高島屋の美術画廊Xでの個展が好評のうちに終わるや、すぐに頭を切り換えて、オブジェの作り手から言葉の人となり、12月の末には最後の詩の原稿を書き上げた。1月初めに社主の沖山隆久さんに原稿を渡し、その月末に詩集は完成したのである。恐るべきその速さ!……私も沖山さんも生き急いでいるのである。詩集は550部の限定出版であり、既に多くの詩人や、また私の関係者の方に献呈した為に、詩集の残部は早くも残り90冊を切ってしまった。

 

……かつての中原中也や宮沢賢治が行った詩集の販売方法を受け継ぐわけではないが、購入をご希望される方は、3000円(内訳・詩集価格2750円〈税込み)+送料込み)を、現金書留で下記の私の住所にお送り頂けると、詩集の見開き頁にその方のお名前を銀で直筆して日付を書き込み、お手元にお送りします。……なお、安全と確実さを期したいので、文字は崩し書きでなく読める形、また万が一の不明文字の確認の為に電話番号の記載をよろしくお願いいたします。

 

現金書留の送り先: 〒222―0023 横浜市港北区仲手原1―21―17 北川健次
なお、販売部数が少ない為に完売・絶版になりましたら現金書留は返却致します。また、完売のお知らせは、すぐにこのブログでお知らせします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『東京日本橋・不忍画廊』

東京の日本橋にある不忍画廊で昨日から『名作のアニマ ー 駒井哲郎池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴』が始まった。私は最新作のコラージュ30点近くと、代表作として考えている銅版画を13点近く出品している。銅版画のパイオニア的存在であった駒井氏の作品は名作『果実の受胎』他、そして池田氏の作品は、その存在は知られていてもなかなか見る機会の無かった西脇順三郎氏との詩画集『トラベラーズ・ジョイ』全点が展示されている。この国が生んだ最大の詩人西脇順三郎氏の詩は英語で書かれていて版画集に所収されているが、その訳も展示されており、詩画集の金字塔的存在を直接見ることが出来る、今回はその最後の機会であるだろう。今回の展覧会に際し、私は画廊のオーナーである荒井裕史氏から、駒井・池田・そして私の自作に対しての小論を書いて欲しいという依頼を受け、展覧会直前にそれを書き上げた。駒井・池田両氏とも私をプロの作家へと導いて頂いた恩人であるが、私は客観的な視点を自分に強いて、その小論を書き上げた。三つの小論の題は『駒井哲郎という現象』『トラベラーズ・ジョイ小論』そして自作への文『コラージュ〈イメージの錬金術として〉』である。ご興味のある方は不忍画廊の公式ページでも配信されているのでお読み頂ければ有り難い。

 

普通に開催されている展覧会というものは、作家が作った新作を並べる事に終始しているが、今回の展覧会にはその核に秘めた強い骨子がある。ー それは、現代の衰弱を極めた版画界への鋭い切っ先が、問題提示として在るという事である。私のアトリエには毎日展覧会の案内状が送られてくる。そのほとんどが芸術とは無縁と化したイラストレーションのごとき内容であるが、その中でも悲惨を極めているのが〈版画〉である。強いアニマ、馥郁としたポエジー、つまりは見る事の愉楽からはほど遠い、ペラペラと化した状況へと陥っているのである。原因はある程度わかっている。技術(それも既存の)しか教えられない美大の形骸化した指導のやり方。唯のマニアしか読者として意識しない版画誌の編集スタイル。デューラーからクレー、さらにはルドンといった名作から何らかのエッセンスを盗んで自らの物としようという気概ある意識の向上を欠いた作家志望(?)の個々の問題etc。しかし、それにしても表現には不可欠なアニマやポエジーはことごとく、この版画というジャンルからは消え失せて、それも久しい。その貧しき現状への、この展覧会は問題提示が骨子として在るのである。

 

以前に、やはり不忍画廊の企画で私と池田満寿夫氏の二人展が開催され、また別な企画では私と駒井氏の作品が並んだ事は度々あった。しかし、駒井・池田両氏と私が並ぶ事は今までなかっただけに、そこから立ち上がってくる三者のアニマやポエジー、そしてそもそもの各人の在りようを検証出来る事は、私にとっても大きな意味がある。昨日、私は駒井氏の作品の前に立って、学生の或る時の自分を想い出していた。・・・・それは駒沢の駒井哲郎宅を一人で訪れた時の事である。私は駒井氏に向かって「あなたの考えておられる銅版画の理念とは、せいぜいその程度でしかないのですか!?」という暴言を吐露したのである。既に『束の間の幻影』という名作をはじめ、銅版画界の最高の表現者であった氏に向かって、私はかくの如き言葉を突き刺した。長州の久坂玄瑞ではないが、ともかくその頃の私は「激」であった。・・・そして、駒井氏と私はしばらくの間ひたすら睨み合った。池田満寿夫氏はそういう私を面白がり、「君の神経は表に出過ぎている!!」と言って笑われたものである。同じ頃、美術評論家の坂崎乙郎氏もまた私の作品を見て「君の神経は鋭どすぎる。これでは君自身の身が持たない!!」と言われた。私は池田・坂崎両氏共に敬愛していたために素直にその言を聞いた。・・・坂崎氏と会って深夜の新宿の雑踏の中を帰る時、私は「長距離ランナーになろう!!」・・・そう自分を一瞬で切り換えた。しかし切り換え過ぎたのか、私は「作る人」から「しばし考える人」に変わってしまった。すると、或る夜の二時頃に電話が鳴った。作品を作る速度が遅くなった私にいらだった池田氏からの激しい叱咤であった。それはかなり激しいものであった。「・・・とにかく、頑張ります!!」私はそう答えただけで、電話を切った。坂崎氏をはじめ、その駒井、池田両氏ももはやこの世にはいない。しかし、彼らが生の証しとして作り上げた作品は、今も私たちの前に或る光輝さえも帯びて燦然と在る。私は今月は、出版社と約束してある与謝蕪村の原稿の残りを書き上げなければならず、また個展ではないので度々は画廊には行けないが、それでも会期中には何度か訪れる予定でいる。そして泉下の駒井・池田両氏の作品から、出来るだけの更なる発見をしたいと思っているのである。

 

駒井哲郎『果実の受胎』

 

池田満寿夫・西脇順三郎による詩画集『トラベラーズ・ジョイ』全点

 

 

北川健次『鳩の翼 - ヴェネツィア綺譚』


 

北川健次 『青のコラージュ「廃園の中の彫像と鳩」』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『VICENZA – 私を変えた街』

旅の記憶というのは不思議なもので、僅かに一泊しただけであるのに、時を経るにつれて源泉の感情を突いてくるように忘れられなくなってしまう〈街〉というものがある。例えば私にとってのそれは、イタリア北部に在るビチェンツァ(Vicenza)がそうである。

 

別名「陸のヴェネツィア」と呼ばれ、16世紀の綺想の建築家パラディオによる建造物が数多く残るこの街は世界遺産にも登録され、中世の面影を色濃く停めている。私がビチェンツァを訪れたのは20年前の夏であった。パラディオ作の郊外のヴィラや、バジリカ、そして画家のキリコに啓示を与えたオリンピコ劇場などを巡り歩いた午後の一刻、歩き疲れた私は宿に戻り束の間の仮眠をとっていた。すると窓外に俄に人々のざわめきが立ち始め、嗅覚に湿った臭いが入り込んで来た。- それは突然の驟雨であった。私はバルコンの高みに出てビチェンツァの街を見た。

 

西脇順三郎の詩集「Ambarvalia」の中に、「・・・静かに寺院と風呂場と劇場を濡らした、/この静かな柔い女神の行列が/私の舌を濡らした。」という描写があるが、私はこの古い硬質な乾いた石の街を銀糸のようにキラキラと光る雨の隊列が濡らしていくまさにその様を見て、〈官能〉が二元論的構造の中からありありと立ち上がるのを体感し、私の中に確かに〈何ものか〉がその時に入ったという感覚を覚えたのであった。・・・・・・夜半に見るビチェンツァの街は私以外に人影は無く、私はオペラの舞台のような不思議な書き割りの中を彷徨うようにして、この人工の極みのような街を、唯ひたすらに歩いた。・・・そして私の中で、今までの私とはあきらかに違う〈何ものか〉が生まれ出て来るのを私は直感した。それは銅版画のみに専念していた私から、オブジェその他と表現の幅を広めていく私へと脱皮していく、まさにその契機となるような刻であったのだと、私は今にして思うのである。

 

今月の11日(月)から23日(土)まで茅場町の森岡書店で、私の新作展が開催される。タイトルは、そのビチェンツァの街に想を得た『VICENZA – 薔薇の方位/幾何学の庭へ』である。今回の個展は、今後の私にとっての何か重要な節になるという予感が漠然とではあるが、私にはある。タイトルにビチェンツァが入ってはいるが、それは私の創造の中心にそれを置く事であり、イメージは多方へと放射している。パリ、ブリュッセル、そしてイギリスのポートメリヨン等々、様々なイメージが〈ビチェンツァ〉を核にする事で立ち上がっているのである。まさに現在進行形の私の今の作品を見て頂ければと願っている。

 

〈追記〉

写真の撮影や取材などでヴェネツィアへはその後も幾度か訪れているというのに、私はその僅か手前にあるビチェンツァの街を再び訪れてはいない。イメージの深部にいつからか棲みついてしまったこの不思議な街のくぐもりに光を入れるのを恐れるかのように、私はこの街に対してまるで禁忌にも似たような距離をとっている。今年は本が二冊刊行される予定であるが、いずれは私は〈詩集〉という形でもこのビチェンツァの街の不思議を立ち上げてみたいと思っている。ビチェンツァは、様々な角度から攻めるに足る,捕え難い妖かしの街なのである。

 

北川健次新作展『VICENZA – 薔薇の方位/幾何学の庭へ』

2013年3月11日(月)〜23日(土)

時間:13:00〜20:00(会期中無休)

場所:森岡書店 tel.03-3249-3456

東京都中央区日本橋茅場町2−17−13第二井上ビル305

*地下鉄東西線・日比谷線「茅場町」下車。3番出口より徒歩2分。

永代通りを霊岸橋方向へ向かい橋の手前を右へ。古い戦前のビル。

(会期中は作家が在廊しております。)

 

 

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商品カテゴリー

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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