#佐伯祐三

『手塚治虫…そして、あの日あの時』

今までたくさんの映画を観て来たが、No.1は何れかと言われたら、その主題の壮大さ、先見性、つまり映画でしか現しえない可能性を多分に孕んでいるという点で、私は躊躇なく『2001年宇宙の旅』(監督スタンリ-・キュ-ブリック/原作ア-サ-・C・クラ-ク)に指を折る。…映画の権能を駆使した視覚による進化論、この映画はそう言っていいだろう。

 

…未だ美大の学生だった18才の頃、この深遠にして壮大な暗示性に充ちた映画を観ていた私は映画の2/3辺りで、自分に問題を突きつけた。…(自分がもし監督だったら、この映画のラストシ-ンをどのような映像にするのか?と)。

 

…私は自分が監督だったら、暗黒無限な宇宙空間の中にさ迷う胎児を漂わせて終わりにする!…そう思った。………………やがて映画のラストに来た時に、暗黒の彼方から小さな飛来物が現れて、それが次第にアップになった瞬間、果たして私が予見したのと同じ、宇宙空間にさ迷う、羊水の中で指をしゃぶりながら眼を閉じて眠る胎児が映った時は、体が熱くなった事を今も覚えている。……

 

 

この映画が出来る前の1965年に監督のキュ-ブリックから一人の日本人に(21世紀を舞台にしたSF映画の構想を練っており、その美術デザインに貴方の力を借りたい)というオファーの手紙が届いた。…しかしあまりに現状が多忙な為に、断りの手紙を書いた。

 

…そしてその3年後に『2001年宇宙の旅』が公開された時、映画を観たその日本人は参加しなかった事を生涯悔やんだという。……手塚治虫のよく知られた逸話である。…高度な想像力を持った人材としてキュ-ブリックも手塚治虫の事を高く評価していたのである。…手塚治虫の脳裡にはロボット、AI、…それら諸々の科学がやがては過剰に進化した結果、終には人間を不幸に至らしめる事が見えていたのである。

 

 

…最近は制作に没頭の日々であるが、六本木ヒルズで開催中の『手塚治虫/火の鳥展』の最終日に行って来た。…原画を観るのは、以前に東京国立近代美術館で開催された手塚治虫の原画展以来である。…やはり手塚治虫の原画は凄い、そして線に魂が入っていて至上に美しい。…表現の鬼と化したその直筆の原画からは、懸命に命を削るように描いている、鬼気迫る執念と気迫が直に伝わって来る。……そして会場で『火の鳥』の原画を観ながら、小学、中学生の時に当時、漫画家を目指していた自分の姿を思い出していた。…

 

 

そう、私は小学生の時に早々と漫画家になる事を決めていた。…勉強はそっちのけで、積み上げた漫画本の山に埋もれるように日々生きていた。…少年マガジンか冒険王だったかに漫画を描いて投稿した時に、選者であった石森章太郎藤子不二雄が私を一席に選んでくれて寸評が載った時はかなり興奮したのを覚えている。……ケント紙に墨汁をつけたペンをカリカリと走らせ、天井を見上げては空想に浸り、今思えば子供にしては早熟なスト-リー漫画を描いていた。(……宇宙船が飛来して地球に接近し、後にキリストとなる謎めいた生命体がパレスチナベツレヘムに怪しい光を放ちながら降りていく話。)……また、(ナチスが開発した「V2ロケット」がド-バ-海峡の上を飛来してロンドンを爆撃する場面から始まる二重スパイの話。これは二重スパイなので次第に話が混乱し、途中で筆を折ってしまった。………etc)

 

 

……高校一年の春であった。休み時間に他のクラスの生徒がやって来て教室の窓越しに(…北川君ていますか?)と言うので、(僕ですが、何か?)と言うと、その学生は(僕は中山といいます。君の噂を聞きました。実は僕も漫画を描いているのですが、友達になりませんか‼)。……そして私達はすぐ仲よくなり、熱に浮かれたように漫画熱に感染し、高校を出たら一緒に上京して漫画家になろう‼と話し合っていた。その時、手塚治虫の存在は正に天上の高みにあった。……『まんが道』(特に立志編)は、テレビ化もされた藤子不二雄の自伝的漫画作品であるが、彼らの出会いと正に同じであった。

 

 

…………しかし、私に突然の出会いが現れた。画家・佐伯祐三の作品を観て、電光石火、画家へと進路が一変してしまったのである。…佐伯の模写から油絵を描きはじめ、美大を目指して石膏デッサンにのめり込む日々が続き、中山君とは次第に疎遠になってしまったのであった。……美大に入ってしばらく経ったある日、高校の美術部の後輩から中山君の消息を偶然知ることが出来た。…彼は高校を卒業して直ぐに上京し、さいとうたかおと劇画界を二分する人気劇画家の佐藤まさあきのアシスタントになったという。…しかしその後の中山君の消息は不明である。彼の実家も引っ越してしまって探しようがない。

 

 

 

………かつて目標としていた手塚治虫、そして、その後に出会った佐伯祐三の作品を視ると今でも体が熱くなる。三つ子の魂百までではないが、今も制作に入る前は時に佐伯祐三の画集を開くことがある。…すると感性に電流が走りはじめ、熱くなって来るのである。

 

…今、アトリエの机の上に手塚治虫の2冊の漫画本がある。…連載途中で死去した為に遺作となった『ル-ドウィヒ・B』(未刊)、…楽聖ベ-ト-ヴェンの伝記漫画である。…その中に(僕にはもう時間がないんだ‼)という言葉がある。癌に冒され、死期が近いと覚った手塚治虫自身と完全に重なっていると思い、考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

…私事になるが、私が学生時に学んだ銅版画の詩人といわれた駒井哲郎さんも、癌に冒されて以後は、作品全てが自画像と化していた。…岩礁のくりぬかれた洞窟は、朽ちた頭蓋骨と化し、舌癌ゆえに、描かれた岩場のそこは、まるで崩れた歯と同化しているが、最期の時期の何れの作品も、その集中力と達観ゆえなのか表現の深度が実に深い。

 

……表現者の最期、……手塚治虫のその最期の頁を開きながら、今回のブログを書きつつ、いろいろと考えてしまったのであった。

 

 

 

 

予告.……次回は一転して、西郷隆盛の盟友にして最大の対立相手となった大久保利通の、知られざる訳ありな話を書く予定です。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『邪視を持った三人の男について話そう』

…今回は平賀源内について書こうと思っていたが、意外や意外、前回のブログを読まれた人達から、ラストの終わり方が気になって仕方がない、実に面白いので、もう少し続きが読みたい‼…というメールがかなり反響として来たので、先ずはこの類い、…私以外に、予知能力、更には異常な交感能力を持っていた三人の人達について書く事から、今回のブログを始めようと思う。

 

…先ずはパリで客死した佐伯祐三の話から。…1923(大正12)年9月1日、最初のパリ行きを控えた佐伯は家族や友人一行と信州渋温泉に滞在していたが、その前日に、近々に関東にかつてない大地震が来る事を直感的に予言して話していたという。

果たして翌日に未曾有の関東大震災が発生している。…これはパリで佐伯の最期を看取った親友の山田新一の証言にある。

 

 

 

佐伯祐三は時代が違うので残念ながら面識はないが、これから登場するお二人(駒井哲郎・井上有一)は実際に面識があり、またそこには私も絡んでいるという、ちょっと厄介な話。

 

……銅版画の詩人と云われた駒井哲郎さん(1920-1976)のお宅に、土方巽の弟子で、芸大で木版画を制作している友人のAと訪れたのは二十歳の頃であったかと思う。(大学で話し合うより、突っ込んだ話が出来るので、私達は度々訪れていたのである)。

 

 

 

…私達は版画の先達者の恩地孝四郎の画集を拡げながら、駒井さんと様々な意見を交わし合っていた。…今思えば、それは至福の体験であったのだが、私は分裂気味なところがあるらしく、意識の右側で駒井さんが熱心に語る恩地孝四郎論の話を熱く聞きながら、もう一方の左側では別な事を考えていたのであった。駒井さんのその広い家を眺めながら妄想に耽っていたのである。

 

(…いいなぁ、こんな天井の高い広い家に住めて、しかも美しい奥さんが出してくれるコ-ヒ-が実に美味しいではないか‼…それに引き換えどうだ、自分がいま住んでいる下宿は名前こそ『宝山荘』という立派な響きであるが、平屋で傾いていて…しかも暗い、…自分が大学を出たら、はたしてこんな広い家に住めるのだろうか?…ああ、いっそこの家に住んでみたいなぁ)…、二十歳の私はそう強く思ったのであった。…すると、Aと話していた駒井さんが、瞬間に何かを受け取ったらしく、突然私の方に顔の向きを変えてニヤリと無気味な笑みを浮かべながら、低い声でこう言ったのであった。(…俺が死んだら、この家に住めよ…‼)と。

 

…思っていた図星を指摘された私は驚いて駒井さんの顔を見た。…すると駒井さんは、笑うと写楽の絵のような凄みがあると云われている無気味な、もっと正しく謂えば、邪気に充ちた笑いをもう一度ニヤリと浮かべたのであった。…何も知らないAは、ただ私達のこの光景を呆然と眺めているだけであった。

 

…その後に出された天丼を食べながら私は思ったのであった。…これは読心術ではない。何故なら駒井さんはAと熱心に話し合っていた筈。だから私の顔の表情は視ていなかった。…とすれば、自分が出す何かが異常に強く、それをまた異常なまでに鋭く繊細な駒井さんの感性の受信能力と、まるで見えない電波のように交感してしまったのではないだろうか…。ともあれ、恐ろしくも不思議なそれは体験であった。

 

……それから4年後、24歳の私は池田満寿夫さんのプロデュ-スのおかげで、初めての個展を開催した。…版画の全作が完売となり、画廊との契約も順調にいき、個展の最終日に私は横浜の下宿へと帰った。…そこに一本の電話が入った。…駒井さんが舌癌肺転移のために築地の国立ガンセンタ-で逝去されたという知らせであった。

 

 

 

最後に登場する井上有一さん(1916-1985)は、国際的に高く評価された書家である。その突出した作品が放つ香気と狂気の様は他に類がない。…渋谷西武で『未来のアダム』という企画展が開催された折りに、私は出品作家として打ち合わせに行くと、そこに、同じく出品作家として来られた井上有一さんがおられた。

 

…それが出会いであるが、私は書の世界に疎く、そこで初めて井上さんの書を拝見したのであった。そして、その凄まじい集中力に私は唸った。…四谷シモンさんの人形や、建築家の坂茂さんなど様々な分野の作家を集めたこの展覧会のオ-プニングは盛況であった。

 

…そして会が終わり、三々五々、作家達もひきあげる時になった。…見ると、会場を出た通路の先を行く特徴のある後ろ姿が目に入った。……井上有一さんである。取り巻きに囲まれながら歩いているその後ろ姿を視て、邪気めいた悪戯を閃いた私は周りの友人達に(今から、ちょっと面白いものを見せるよ‼)と言って、前方を行く井上さんの右肩から左の背中に、一瞬の居合い切りの思いで強い〈気〉を放ったのであった。…(あれだけの作品を画く強い気を持った人物ならば、私のこの強い念は通じるに違いない‼)…そう思って、視えない、心中の刀で井上さんの背中を真っ二つに切り裂いたのである。

 

…果たして私が思った通り、井上さんは紛れもない本物の人物であった。…正に右袈裟斬りで切られたかのように井上さんは仰け反り、そして、後ろから誰かが鋭い気を放った事を瞬間に覚ったのであった。

…突然の事で驚いている周りの取り巻きに構わず、井上さんはその強い気を放った人物が誰なのかを確かめるべく、後ろを振り返って視たのであった。…そして、そこに私がいる事を知って、(ああ、あなたでしたか‼)と得心の笑みを浮かべながらお辞儀をしたので、私も笑ってお辞儀を返したのであった。

 

…私の友人達も唖然としていたが、それが井上さんとの最期の時であった。…………それを思い出すと、…まるで、平安京朱雀大路で深夜にすれ違った二人の陰陽師のような体験で実に可笑しいのであるが、私はその時の事を時おり懐かしく思い出す時がある。

 

関東大震災を前日に正確に予知した佐伯祐三。…私の想いが空間を一瞬で跳んで駒井さんの感性に受信され、心中の言葉が、正確に伝わった事。…また私の放った強い気が、そのまま激痛となって井上さんが感受した事。…私の事はさておくとして、前述した佐伯祐三、駒井哲郎、…そして井上有一。…その三人の顔(特に眼)を視ると一つの共通点が見えて来る。…三人とも眼力(めぢから)が刺すように強いのである。…澁澤龍彦が何かのエッセイでそれについて『邪視』と表現して書いていたのを思い出す。邪視の持ち主こそが芸術家の証しであり、写真に残る特に十九世紀にはドラクロアなど、沢山の芸術家がみな邪視であったが、昨今は少なくなってしまったと。

 

 

………未だ生まれざる人と、既に死者となった人のために芸術は存在する、という意味の事をパウル・クレ-は書いているが、そもそも芸術とは語り得ぬ視えない物と人との豊かな交感現象である事を想えば、ここに書いてきた体験、更には前回のブログで書いた事は、全く不思議でも何でもなく、十分にあり得る事なのではないだろうか。

 

私事を語れば、…24才の時に、私の作品を初めて見た池田満寿夫さんは〈神経が剥き出しで表に出ている!〉と驚嘆し、また美術評論家の坂崎乙郞さんは、氏が関わっていた新宿の紀伊國屋画廊に持参した私の作品を視て、〈君の神経は鋭すぎる、このままでは精神が絶対に持たない!必ず破綻を起こす!〉と真顔で忠告してくれた事があった。…私は坂崎さんからの影響はかなり受けていて尊敬もしていたので、その忠告は胸に響くものがあった。自分でも、あまりに裸形な自分の神経を自在に御する事が出来ず、今想えばかなり辛かったのだと思う。

 

……紀伊國屋画廊の外に一歩出ると、街は若者たちの夜の雑踏で賑わっていた。その人群れの中を縫うように歩きながら私は自分に誓うように、こう呟いたのを覚えている。(…もう、短距離走者は止めた‼…これからは長距離走者で行こう‼)と。私は意志的な切り替えは速い。…そう意識を変えると、晴朗な気分に変わり、次第に制作への視点も変わっていった。…そして銅版画からオブジェへと表現の軸が変わり、美術に関する執筆活動、詩、写真…と表現の幅も拡がっていって、現在がある。…しかし、前回のブログで書いたように〈考えなくても直感的に突然視えてしまう!!〉という、この予知的な感覚だけは消える事がなく、ますますその頻度が増して今に来ているのである。

 

……次回のブログは、クレ-、ゴッホ、そして平賀源内について書く予定です。乞うご期待。

 

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『雨のメリーゴーランド in Paris』

 

…先日の事である。アトリエで制作している時に、ふと本棚にあるジョゼフ・コ-ネルの画集に目が行き、久しぶりに手に持ってみた。すると本からパラリと落ちる物があったので見ると、それは写真家ロベ-ル・ドアノ-がパリの寂れた「メリーゴーランド」を撮した1枚の絵葉書であった。

 

…パリには珍しい土砂降りの雨の中、無人のメリーゴーランドが雨に打たれて哀しい姿で写っている。絶妙に切り取られた構図の中に凝縮された郷愁が宿り、私の記憶の中の〈何か〉と共振したらしく、たまらない切なさが充ちて来た。………しかし葉書故に細部が見えず、私はもっと大きく撮したこのメリーゴーランドの写真画像が載っている写真集をいつかぜひ欲しいと強く思った。…………

 

 

…その翌日、私はJR日暮里駅で降りて、谷中銀座へと向かう御殿坂を上がっていった。…度々このブログに登場する田代富蔵さんが6月に個展を開催するので、その個展の為に書いたテクスト文を渡すのと新年の打ち合わせがその日の目的であった。……私はこの御殿坂を上がる度にいつも(一体何処に在ったのだろう!?)と思っている或る事があった。

 

…私が高校の時から好きで影響を受けていた画家の中村彝(つね)が未だ19才の頃に住んでいた家が、確かにこの坂の何処かにあった筈であるが、その住所が資料を調べても全く載っていないので、…ここ数年、私はこの100メ-トル近くある坂を上る度に、その場所を探すのであるが、煙に消えたように、それはようとしてわからないままであった。……一本道の坂の途中に在るのは、2つの寺(本行寺経王寺)と、老舗蕎麦屋の「川むら」、…そして数軒の食べ物屋くらいである。…

 

……坂の上の蕎麦屋「川むら」で、富蔵さんと好物の「牡蠣せいろ」を食べ終えて、真向かいのカフェで打ち合わせをしようと店の暖簾を上げた時に、一瞬、横の露地へ消えようとする人が目に入った。…見ると、その人は以前にこのブログに登場した、露地奥で、坂本龍馬等を撮した幕末期の湿板寫眞機にこだわり、寫眞館を経営している写真術師の和田高広さんであった。

 

……奇遇とばかりに立ち話が始まり、和田さんのご高説が始まった。…今日は谷中の寺と借地権の話である。和田さんは話し出すと立て板に水とばかりに止まらない。話は廃れ行く谷中銀座の話になったが、何故か風の向きが瞬間変わったように……

 

(…………だから、彝もその家に昔いたんだから‼……)と突然、川むらから入る露地向かいの一軒の家を指差した。…?!!!

 

 

…(和田さん、今、彝と言いましたが、ひょっとして画家の中村彝の事ですか…⁉)と、私が問うと(そうだよ、中村彝はこの店にいたんだから…‼)と、もう1回指を差した。…(彝がいたのは確か下宿屋ですが…)と私が問うと(そうだよ、このあづま家という家は昔、下宿屋だったんだよ)と言う。

 

予想だにしなかった物がポトリと落ちてくるように、ここ数年来懐いていた疑問が一瞬で解けてしまった事に唖然とした。…何の事はない。…いつも出入りしていた蕎麦屋の隣が、ずっと探していた彝の家だったのであった。

 

 

…彝は実に絵が巧い。そして天性の色彩画家であった。ここに掲載したエロシェンコの肖像画は、僅かに4色で描いているが、そこに気づいている人は案外少ないのではあるまいか。

 

…彝がここにいたのは19才の頃で明治38年、…つまり1905年だから、今から120年前の話になる。…それを何故、和田さんは知っていたのか⁉…そして私が訊いてもいないのに、和田さんの話が急転するように、何故、中村彝の話になったのか、わからないままに私達は和田さんと別れて、カフェに入った。

 

 

カフェで富蔵さんとお茶を飲み、執筆を約束していた個展のテクスト文をお渡しした後、私は駒込駅へと向かった。…その日は駒込のギャラリ-『ときの忘れもの』松本竣介の素描展が開催されており、竣介のご子息の松本莞さんの『父、松本竣介』の刊行記念の対談の日なのである。松本竣介は中村彝、佐伯祐三と並んで、特に私が気になっている画家。…この日は元・池田満寿夫美術館の主任学芸員をされていた中尾美穂さんに連絡して、中尾さんから指定された東洋文庫ミュ-ジアム横のカフェ「オリエントカフェ」で待ち合わせをしていたのである。せっかくなので、池田満寿夫、松本竣介の作品に造詣が深い中尾さんにお会いして、二人の作家像をどう捉えているのかを伺うのも、今日駒込に来た目的なのであった。

 

…私は中尾さんから指定された東洋文庫を目指したのであるが、駒込はあまり来ないので地理に疎い。………迷いながら歩いていると、佇まいが気になる一軒の古書店が目に入った。…表の安売り本に『北原白秋歌集』があったので手に持って入ると、おぉ‼…この店はいいのが揃っている!と直感する。………………ふと、(写真関係の本はありますか⁉)と店主に何気なく問うと(その下の段に少しですがあります)との返事。確かに評論集のようなのが5~6冊しかないが、1冊だけ薄い写真集らしいのがあったので(!?)と思いながら引き出して見ると、『ROBERT DOISNEAU』と書いてあった。…ロベ-ル・ドアノ-の写真集である!!

 

…もうここで私の直感はマックスに達し、(有る、有る!…間違いなく昨日、大きく見たいと思っていたメリーゴーランドの作品が有る筈)と思って頁を捲っていくと、果たしてその写真が強い黒の綺麗な印刷で見つかったのであった。…それにしても昨日の今日とはあまりに展開が早い。…かくして、この日は、欲しかったドアノ-のメリーゴーランドの写真集と、長年不明であった中村彝の家の在所跡がまとめて見つかったのであった。

 

 

…このブログの連載が始まって既に15年以上の時が経つ。…その折々の話題の中で、私は自分が頻繁に体験している予知的な現象についても記録するように書いて来た。…その中で書いて来たものをここで少し挙げてみよう。

 

 

①ある日の昼前に、ふと、江戸東京の魅力を毎回特集している月刊誌『東京人』に何か書くのも面白いな、と漠然と思っていたら、その日の午後に『東京人』編集部から電話が入り、私は翌月に岸田劉生の描いた代表作『切通之写生』の現場について書いた事があった。

 

 

 

 

 

 

②以前に、報道ステーションという番組を観ていたら、番組とは全く関係なく何故か突然、以前に行った太宰治の生家への旅行の事を思い出した。

 

…私は太宰が東京へと旅立った生家近くにある津軽鉄道の金木駅を見たかったのであるが、その時は、知人が数人同行していて急ぐ旅だったので遠慮して行かず仕舞いのままだったのを後になって悔やんだ事を、何故か漠然と思い出したのであった。…すると、アナウンサ-が(ではここで、ちょっと気分を変えて、こちらの映像をご覧下さい)と話すや、テレビの画面からは、私が今、思っていた正にその駅、満開の夜桜の中を最終列車が入って来る、津軽鉄道の金木駅の情景が映し出されたのであった。

 

③熊本の個展の帰り、ANAに乗って東京に向かう機内の中で、機内誌『翼の王国』を読んでいた。…誰かが書いた海外の取材文であるが、文章に艶がなく、有体に言ってかなり硬い。(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ……)と思っているうちに、飛行機は羽田に着いた。…その翌朝、1本の電話が入った。ANAの『翼の王国』編集部からであった。…私の好きな海外の場所に行って取材文を書いて来て欲しいという依頼であった。実に昨日の今日である。

 

…恵比寿のカフェで打ち合わせに行ってわかったのであるが、私が機上にいて(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ)と思った正にその時に、私を取材に行かせたいという事が決まっていたのであった。…2ヶ月後に私はパリのパサ-ジュに取材に行き、その時に制作していた版画集の個展も併せてやって来たのであった。

 

 

…こういった現象は、その度に今までのブログに書いて来たので、以前から読まれている方は、既にご存知の事と思う。…今回はその内の3例を挙げたが、覚えているだけでも40以上は書いて来たと記憶する。…人生でこういう事を経験する方がいても、その回数が希であり、又は深入りしたくないという常識が働いて、偶然、或いはたまたま…という言葉で済ませてしまうかと思うが、私のように異常に回数が多いのは、何と云えば良いのであろうか?

 

…しばらくしてから現れる事象を先に視てしまう、或いは直観してしまう事の不思議を身をもって生きているわけであるが、…… 私は自分の経験を通して思う事がある。… この宇宙はわかっているだけでも11次元はあるという。しかし私たちはその内の僅かに1つの次元、すなわち3次元しか知覚出来ないでいる。… だが私の場合のようなこの現象を思うと、時にこの3次元の壁を瞬間的に突破して、別な次元との往還をしているのではあるまいか、そんなふうにも実感をこめて思うのである。

 

 

……このドアノ-の美しい写真集を刊行したのは、京都の祇園に在る何必館(かひつかん)である。7年ばかり前にこの美術館でドアノ-の写真展を開催した事があり、写真集はその時に刊行したのであった。…幾つか伺いたい事があったので、先日、何必館に電話をすると、3月30日頃までドアノ-の写真展を正に開催中との事。何という絶妙なタイミングであろうか。私が願うとそれは向こうからやって来るようで面白い。

 

…記念のポスタ-もありますとの事で、訊くと、メリーゴーランドのその写真もポスタ-になっている由。ならばと、私はそのポスタ-が欲しくなった。………そして、私の個展をプロデュ-スして頂いている福田朋秋さんが、現在、京都の高島屋美術部におられて来月に上京の折りに会食をする約束があるので、そのポスタ-を代わりに買って来て頂く約束を福田さんにお願いしたのであった。

 

……しかし、福田さんはかなり忙しい人であり、ふとそのポスタ-の在庫が何故か気になったので、今日の昼に何必館に電話をして、(京都高島屋美術部の福田さんがちかじか来られるので、そのポスタ-を取り置きしておいて、来られたら渡して頂きたい)旨を連絡して電話を切った。…その直後、入れ替わるように1本の電話が入った。…福田さんからであった。…今、丁度その何必館にいて、学芸員の方に私からポスタ-を取り置きして欲しい旨の電話があった事を知らされたとのお電話である。…福田さんいわく、あまりにジャストタイミングだったので、まるで私に見張られているようで驚いた‼…という。

 

 

…………………ずいぶん前になるが、私が未だ学生だった頃、横浜のマリンタワーでバイトをしていた事があった。…ある日、バイトに行くとマリンタワーの2階でかなりの人だかりがしている。…訊くと、よく当たるという評判の人相占い師がイベントに来ていて、その順番を沢山の人が待っているという。…その占い師に興味が湧いて来て、私は離れた所からその人を視ていた。…すると、私の存在に気がついたその占い師が、私をじっと凝視して、私に手招きをしたのであった。…何だろう!?と思いながら、その占い師の前に立つと、なおもその占い師は私の眼を鋭く凝視しながら、はっきりとこう言ったのであった。…(あなた、…いったい何者‼?)…と。

 

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