『何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…完結編』

今年もアッという間に年末になってしまった。…12月になると、ジンタの楽隊のように遠くから〈クリスマス〉という響きが聴こえて来る。…私は耶蘇教の信徒ではないので別段関心はない。…むしろクリスマスと聴くと、私の耳の中で変換されるのか、…クリスマスが→苦しまず、に聴こえて来てしまう。…出来るならば…苦しまずに一瞬で逝きたいものだ…と。

 

 

 

…さて、12月に入ったある日の事、私は日本橋人形町の老舗洋食店『小春軒』に入って早めの昼食を食べていた。…店の隣は文豪・谷崎潤一郎の生誕の地である。

 

 

 

 

…出てきた好物の海老フライを食べながら幼年時代の谷崎について考えていると、そのライバルであった川端康成の事が浮かんで来て、あれこれと思う事があった。今回のブログは、それについて書くのである。

 

 

 

…この国が戦後にやってしまった愚策の代表的なものが2つある。1つは抒情豊かであり、先人達との魂の結び付きの深かった地名(町名)が1962年に変更になり、何とも褪せた浅い名前になってしまった事である。…例を挙げれば、小石川初音町が→文京区小石川1~2丁目に、また、樋口一葉が住んでいた本郷菊坂町が→文京区本郷1~2丁目に、湯島天神町が→文京区2~3丁目…といった具合に。…この愚策を、第二の東京大空襲と評して怒った人がいるが至言かと思う。

 

…もう1つが、教科書からルビを無くしてしまった事である。…「日本の戦後教育の大誤算の一つは、ルビをなくせば漢字学習の民主化が徹底されると考えて、あの便利なルビを極力一掃してしまったことであろう。じつに馬鹿げた発想というべきだ。…」と、澁澤龍彦は自著『狐のだんぶくろ』の中で書いているが、この愚策を考えた役人は万死に値するといっても過言ではない。

 

…さて、そのルビに関してであるが、川端について小春軒でつらつら考えていたら、今まで全く考えていなかった或る疑念が卒然と湧いてきた。……それは川端康成の代表作である『雪国』のまさしく冒頭に書いてある「国境」の文字であるが、あれは本当は、「こっきょう」でなく「くにざかい」と読むのが正しいのではないか⁉…という疑念である。日本語本来の読みは訓読み(和語)が正しいので、当然くにざかいが正しい。…しかし今では当然のように「こっきょう」と皆が読んでいる。川端自身もそれを否定していない。…確かにその方が勢いがある、しかし、川端の抒情豊かな世界から見ると、この勢いは…いささか速すぎる感があり、列車から見る風景に、哀しみを含んだ村々の景色がありありとは見えて来ないのである。

 

……早速アトリエに戻って調べが始まった。…そして驚いた。…私が懐いたこの疑念は当たっていて、文学界でも未だに結論がつかないまま論争中なのだという事がわかり、俄然面白くなってきた。……事実、川端自身が武田勝彦(武田はくにざかいが正しいと読んでいる)との対談で「くにざかい」の読みを諾なっているのであるのを知った時に、徹底して詰めて考える私は、これはミステリ-として実に面白い…と思ったのであった。…つまり、誰よりも美しい日本語に厳しい筈の、しかも作者自身である川端康成が、「こっきょう」の読みも否定せず「くにざかい」の読みも諾なっている事のこの曖昧さ。もっと言えばいい加減さ。……その川端自身の曖昧さの奥にある、秘めた心理の実相を開いてみようと私は考えたのである。

 

…川端のもう一つの代表作は『伊豆の踊子』である。清らかな14歳の踊子に惹かれる、孤独な青年を美しく描いた、あまりにも無垢な短編小説。…しかし、この小説が誕生する裏には1冊の本の存在が原点となっている事はあまり知られていない。

 

田山花袋が大正7年に書いた『温泉めぐり』がそれである(ちなみに伊豆の踊子は大正15年に発表)。

…田山はその本の中で書いている。(湯ヶ野にある温泉宿の福田屋の湯槽からは、向かいで湯浴みする旅芸人の若い娘たちが見えた)という意味の事を。

 

……それを結び付けたのは猪瀬直樹の川端康成と大宅壮一に関する著書である。猪瀬の調査は川端自身が書いている気象の記録までを精査した徹底ぶりで、まるで偽証やアリバイを覆すようで面白い。…濁った視線の欲望から結晶化した無垢なる産物『伊豆の踊子』の生誕逸話としては実に面白い。

 

…さて、その猪瀬の本が出る遥か前に、一人の美大の学生が、中伊豆のその福田屋に泊まり川端が入った浴槽につかった。……「私」である。

 

 

 

 

 

 

部屋で名物の猪鍋を食べていると仲居がやって来て、(このお部屋は百恵ちゃんも泊まったんですよ)と嬉しそうに話した。

 

…はて、百恵ちゃん?…伊豆の踊子に主演した山口百恵の事か、なるほど、そう思った。

 

 

 

…私は学生時は梶井基次郎の文章が好きで、彼が泊まった『落合楼』に翌日は泊まり、大学の寮に戻ってから50枚ばかりの論文『伊豆の踊子小論』を書いた。

 

川端の資質の内に生来ある突然の時間感覚の飛翔性に及んだもので、…その論旨は、川端も評価していた伊藤整の伊豆の踊子論と重なる視点だったので、大いに自信を得たが、銅版画の制作が忙しくなってきたので、文芸評論家への道はやめた。やめた後に、文芸でなく美術評論を手掛けるようになり、それは『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)となり、美術書としては異例の増刷となった事は善い事である。

 

 

 

…さて急いで結論に入ろう。…私はこう考える。…つまり川端自身が当初思っていた以上に作品は独り歩きを始め、いつしか作者を離れて『雪国』は川端の生涯を代表する名作であるばかりか、日本の近代文学を代表する名作となっていった。

 

……本当は国境は「くにざかい」と読むつもりで抒情豊かに書いたのであるが、自分がまさかのルビを打たなかったばかりに、いつしか「こっきょう」として読まれ始め、その速度感が読者にも気持ちよく響いて広く知られる事になり、口々に誰もが知る〈国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。…… 〉になっていった。……ここに至って、(くにざかい…と訂正を入れる事にもはや意味はないだろう。…このまま曖昧なままでいよう。それがいい。…それでいい。)…彼の内なる生身の俗性と野心はそう思ったと私は視る。

 

 

 

俗性と野心?…私は今そう書いた。…………後年に、(今回は私に譲って欲しい。)…ノ-ベル賞受賞が決まる前に、川端が、今一人の候補者として下馬評が高かった三島由紀夫に書いた焦りとも映る、手紙で見せたノ-ベル賞受賞という栄誉への異常なまでの執着は凄まじい。

 

 

…受賞の決定は三島が審査するわけではないのに、そこまで見せてしまった俗を極めた名誉欲に映る様は、ある意味、不気味ですらあるだろう。

 

…………この受賞以後、川端の執筆はその勢いを停めてしまい、自裁した三島由紀夫の幻を度々視るようになり、睡眠薬への依存はやがて、誰もが知る逗子マリ-ナでの終焉へと繋がっていったのである。

 

 

…さて最後にささやかな秘話を一つ書こう。…実は川端康成は1971年に①仰天すべき或る事をしてしまった。…もしこの事実が明るみに出れば、新聞は一面に載るばかりか、ノ-ベル賞の歴史までもが根底から覆る出来事なのである。…さすがに私でも、それをここで書く事は憚られる、秘密にしなければならない質の、それは内容なのである。……日本の文芸界の裏の秘話を実によく知る知人から最初に聞いた時は、私もさすがに疑った。…しかしあの川端ならあり得ない話ではないな‼…私はすぐに切り替えた。

 

……②話は全く変わるが、1971年に秦野章(元・警視総監)が都知事選に立候補した時に、川端康成が応援演説で登場した時、世間は大いに戸惑い、川端という人物に疑問を呈した事があった。…政治には全く関わりを持たない事を信条としていた、あの川端が何を考えているのか理解に苦しんだのである …。

 

さて、今書いた①と②は各々が別な2つの点である。…しかし、この2つの点に1本の線を引いたとしたら、さぁどうだろう。……直観の鋭い、このブログの賢明な読者諸氏の中にはピンと来た方がおられるのではあるまいか。…ヒントを?…ヒントなら今回のブログの中にそっと伏せたそのままに。…とまれ、「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、それは話なのである。どうしても知りたいという方は、いつか、人形町の小春軒でお会いしたその時に。………………

 

 

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何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…!?Part1』

①前回のブログで、私の旧知の画商の時津さんが登場したが、ブログをアップした後でいろいろな事が思い出されて来た。……今から20年以上前になるが、時津さんの企画で丸亀の画廊で私の版画集を中心に個展が開催された事があった。四国在住のコレクタ-の人達が沢山来られ、会は盛況であった。…その夜に、私達は何台かの車を連ねて海辺へと向かった。時津さんが中心になって私の歓迎会を開いてくれたのである。

 

…海潮音が聴こえる漁師小屋の店で栄螺(さざえ)のつぼ焼きを中心に海の幸の料理が次々と出てくる。…つい先ほどまで生きていた取れ立ての栄螺が沢山火に炙られ、私には栄螺が何かにじっと耐えているように見えた。(…今しがたまで海の底にいたこの栄螺達は今、何事かを間違いなく考えている)。……と、その時であった。(北川さん、今から面白いのが見れますよ‼)と誰かが嬉しそうに言ったその瞬間、勢いよく各々の栄螺のあの尖った貝の中から、螺旋形の捻れた身が、熱さに耐えきれずいっせいにポンポンと飛び出して来たのであった‼

 

 

…それは実に初めて視る光景で、かつセクシ-なものがあり、例えるならば、火が出た銭湯の女風呂から、いっせいにタオルで裸身を隠しながら必死の形相で(死んでたまるか‼)と飛び出して来た吉野良子さんや佐藤麻美さんのようであった。

 

…私はあの時に食した栄螺の壺焼きの美味さを今も鮮明に覚えている。

 

 

 

 

……さて、その夜の事。写真家のMさん夫妻の自宅の古民家で、私と時津さんは泊まる事になった。寛ぎながらMさんの写真作品について感想を話していると、突然、二階でギシツ、ギシツと軋む音がして、確かに体重の重い人が歩いている気配がした。…(あれ、上に誰かいるの?)と私が問うと、Mさんは当然のように(あぁ、います、私のお祖父さんですよ。………3年前に亡くなりましたけどね…)と日常的な顔をして当然のように言った。見るとMさんの夫人も明るく笑っている。彼ら夫妻にとっては、そのお祖父さんの気配がむしろこの古い民家の守り神のように映っているようであった。……すると、二階の先ほどとは離れた場所で、またミシッという音が今一度して…消えた。私と時津さんは顔を見合わせながら唖然とした。…しかし不思議と怖いという感覚はなく、その音をMさん夫妻と同じく懐かしいものとして受け入れる、むしろそういう現象も在って然るべきだろうという、そういう感じを私達は共に懐いた。

 

 

…以前のブログで書いたが、私が東京芸大の写真センタ-で深夜に寝袋で寝ていた時に私の周囲をカツッカツッと硬い靴音を立てて廻る、明らかな昭和初期とおぼしき軍人の靴音を聴いた事があったが、その時とはまた違うものであった。……しかし私は想った。軍人の靴音や、その時のミシッミシッ…という足音。…霊魂という〈気〉にそれだけの重さは果たしてあるのか⁉……重さとは三次元における存在にかなり関わっている代物ではないのか⁉…という当然の疑問を私は懐いた。…その夜、私と時津さんは、その亡くなった祖父さんだという遺影がある仏壇の前に敷かれた蒲団の中で、その事について話し合ったのであった。

 

 

 

②…上野公園の動物園と芸大がクロスする所に、江戸川乱歩の小説『青銅の魔人』や『一寸法師』『何者』…の舞台に相応しい廃墟とおぼしき建物があるのをご存知だろうか。…戦前に開通して今は廃線となって久しい京成電鉄の「旧博物館動物園駅」である。

 

 

…夜にもなると、人影が絶えた公園のこの廃墟の闇の中から何物かがその鋭い眼を醒まして、深夜の公園をさ迷い出すような、そういう建物の…京成線に、最近何故か私は惹かれている。…この京成線に乗って上野から浅草を経て玉の井へと向かった永井荷風の存在もあるのだろうが、私はこの京成線に今、関心を持っている。哀愁だけでなく、何か濁りを帯びた魔所へと、この鉄路は私をして運んで行ってもくれそうな、そんな期待をこの線はいだかせるのである…………。

 

 

その京成線が通っている沿線に在るのが市川駅の隣の本八幡駅である。…先日のある日、11月だというのに狂ったように暑いある日、私のオブジェ作品を沢山コレクションされているKさんと、或る用事があってその本八幡駅のカフェで話をしていた。…そして話は永井荷風に及び、荷風が晩年を過ごし、そこで亡くなった家の話になった。そう永井荷風はこの本八幡で亡くなっているのであるが、その事は荷風の日記の名著『断腸亭日乗』に詳しい。

 

……さてそのKさんから『八幡の藪知らず』という言葉が突然出た。…八幡の藪知らず…という言葉は〈そこに入ったら二度と出てくる事は出来ない〉という意味である事は知っていたが、それは何かの故事伝説であり実在しないものと思っていた。…しかし今、Kさんの口からその言葉が出て、それがこの本八幡に実在して、禁足地として遺っているのだという。…私は俄然興味を持ちKさんの案内で、その魔所へと向かった。

 

…八幡の藪知らず‼…確かにそれはそこに在った。…不気味なまでに竹藪が拡がって暗い闇を作り、その奥はようとして見えない暗所である。

 

…朽ち欠けたような古い説明文を読むと、平将門絡みの凄惨な殺戮のあった場所で、江戸時代から既にそこは禁足地であったが、好奇心の強い水戸光國(黄門)は、家来が止めるのも聞かず、その竹藪に入ったところ、感覚が鈍ったばかりか、妙な幻覚症状に襲われてしまったという。………(私は入りませんが…)とKさんは言うが、暗に私に入ってみたら!と勧めているようである。…正面には高い石の柵があるので入りにくいが、次回ここに来たら、私は裏側からこの竹藪の中に入ってみよう‼…そう決めて、本八幡駅から横浜へと向かったのであった。

 

 

 

③…「二階から聞こえて来た足音」、「八幡の藪知らず」と2章に渡って書いて来たが、実はそれは、この世とかの世とは地続きである事を話す為の云わば伏線のようなものである。「仏界入り易く、魔界入り難し」……一休宗純のこの言葉を最も好み、書に数多く書いたのは、今回と次回に渡って登場するブログの真打ち、川端康成である。………周知のように、自身が生と死のあわいを旅人のように、かつフェティッシュなまでに往還した彼の代表作は『雪国』であるが、この抒情性に充ちた小説が、実は生者と死者の交感の不気味な話である事を知る人は案外少ないのではないだろうか。…川端はこの小説の真意について次のように語っている。……(あの小説の中で生きているのは主人公だけで、後はみな死者なのですよ)と。

 

 

………「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。…………」

 

次回のpart2では、…この雪国で、川端が語らなかった或る秘めた謎について、その内心の闇に迫ろうと思っている。…それは日本の文学界において今なお論争にもなっている事とも重なってくる。………次回のブログに乞うご期待を。

 

 

 

 

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『晩秋はF・カフカの季節』

①…個展が終わって数日が経ったある日、私は銀座で友人と会う約束があり、日比谷線の銀座駅を降りて、銀座三越から松屋方面へと続く長い地下鉄の通路を歩いていた。…すると通路の壁面に1点が2メ-トル近くある巨大なポスタ-が10点近く並んで掲示してあるのが目に入って来た。かなり気合の入った宣伝だな、…そう思った。…見るとポスタ-には、銀座松屋で開催中の美術展のイベントらしく、『GINZA ART FESTA』(10/30-11/04)と書いてあり、その巨大なポスタ-1点づつに、藤田嗣治ビュフェアンディ・ウォ-ホル浜口陽三…等の作品が印刷されて人目を引いている。

 

 

…なかなかポスタ-のセンスがいいな!と思いながら行くと、突然……!⁉と思う物に出会ってしまった。…何と、そのポスタ-の1つに私の銅版画『F・カフカ高等学校初学年時代』が大きく印刷されて掲示してあったのである。…全く予期せぬ所で自分の過去の作品と突然出会うというのは不思議な感覚であるが、この作品を作ったのは1985年頃なので、(あぁ、自分を離れて作品がもはや一人立ちして歩いているなぁ…)とも思ったのであった。…ポスタ-の顔ぶれを見ると、なかなかこの展覧会は面白そうだなと思ったが、しかし友人と会う約束の時間が迫っていたので、私は観ないで通り過ぎていった。

 

 

…その夜にアトリエに帰って来たら、1通の封書が届いていた。…差出人を見ると、旧知の画商の時津さんからであった。…何だろうと開けて見ると、昼に見た松屋の美術展の図録とお手紙が入っていた。…付箋が貼ってある頁を開くと、私の銅版画『F・カフカ高等学校初学年時代』が、左にジョルジュ・ルオ-、右に藤田嗣治と並んで載っていて、その価格がルオ-と同じく660.000円となっていたのには驚いた。この作品は版画なので、限定部数が50部あり、既に完売となり絶版になって久しい。ちなみにこの作品を愛蔵されている人には、慧眼で知られるドイツ文学者の種村季弘さんや、カフカの翻訳でも知られる文芸評論家の池内紀さんなどもおられる。私の作品が緩やかに評価額が上がって来ている事は知っていたが、現在は、この作品がその中でも最も高いかと思われる。…価格で云えば、銅版画の詩人と評されている駒井哲郎さんの『小さな幻影』にそれは近いか。…確か最初の発表価格は15万円くらいであったと記憶する。

 

 

 

 

 

 

…作品は時間の篩(ふるい)にかけられ、淘汰され、約35年あたりを経過すると後の時代に残っていく作品と消えていく作品に二分されていく。歴史が証しているそれは作者も同じ事で、もはや手が届かない「淘汰」というものの恐ろしさであり、面白さでもあろう。………その図録に偶然とはいえ、ルオ-と私の版画が並んでいるのを見て、ある感慨が立ち上がって来た。…20才を過ぎた頃の未だ学生時に駒井哲郎さんの世田谷のご自宅で話をしていると、駒井さんが(北川君は、銅版画の原版がもし見れるとしたら誰の原版が見たいですか?)と問われた事があった。…私はすかさず(ルオ-の原版が見たいです!)と即答した。すると駒井さんはニヤリと笑って(僕もルオ-ですね!)と答えたのであった。

 

 

レンブラントでもピカソでもなく、マチエ-ルの凄みという視点で云えば、絶対にルオ-なのである。……ルオ-の銅版画に於けるマチエ-ルへのこだわりと執念の凄みはつとに有名で、その原版の重厚なインクの厚みを産み出す仕掛けは、実は版画を志向する者にとっての謎と言えよう。(契約画商のヴォラ-ルがルオ-の版画の原版を封印して誰もそれを見た者がいないのである。)……また私のカフカの版画も、マチエ-ルへのこだわりは強いものがあり、この版画一点が完成するのに実に一年以上を要したのであった。この作品の主題は、少年のカフカを介在とした、時間という層の厚い重なりなのである。……それら二点が奇しくも並んでいる事に、何か面白い縁のようなものを覚えたのであった。

 

 

図録を見ると、この展覧会は幾つかの画商が自分が所有している油彩画や版画を持ち寄って開催したようで、出品数は200点以上あったようである。…そして私の作品や、ルオ-、藤田嗣治、浜口陽三等の版画は時津さんが出品した旨が同封してあった手紙からわかった。…時津さんは画商の中でも最も経験と知識が深く、また昨今流行りの軽薄な美術作品の傾向と、その作家達への批判精神も高く、私が最も評価し、その眼識に信頼を置いている、思えば40年近くお付き合いをしている旧知の人である。…私のアトリエに掛かっているデイヴィッド・ホックニ-の銅版画も、時津さんからの提案で、私の版画との交換トレ-ドで入手したもので、今や私のコレクションの中でも、ルドン、レンブラント、ジャコメッティ…と並んで、いつもアトリエに掛かって私を鼓舞してくれているのである。

 

 

……さて、次回のブログは一転して、先日、(その奥暗い薮に入ったら二度と出てくることが出来ない)という不気味な言い伝えで知られる千葉に現存する魔所、〈八幡の藪知らず〉の現場に行って来た話。……そして、川端康成の名作『雪国』に知られざる論争があるという事などを、健筆を振るってちかじか書く予定。…重ねて乞うご期待である。

 

 

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『登場する明智小五郎』

…いつの頃からか、妙に気になっている場所があった。…場所はJR日暮里駅改札を出て谷中墓地へと上がる石段を上り、天王寺を越えた先の左側の陸橋真下に線路と平行して広がって在る「芋坂児童公園」がそれである。…児童公園とは名ばかりで、児童が遊んでいる姿など見た事が無く、…仮にいたとしても人気の無いこの場所で一人で遊んでいたら、十中八九怪しい男に拐われるだろう。墓地にした方が相応しいのだが何故か墓地にもなっていない。何だか仮っぽく見えるこの土地は、果たして何だろう?

 

……………先日、森まゆみさんの著書『「谷根千」地図で時間旅行』(晶文社)を読んでいたら、あっさりその謎が解けた。そこにはこう書いてあった。(……また三月十日の空襲(東京大空襲)では、いまの日暮里駅に近い児童遊園のあたりに死者が埋葬された。)…と。…古くからある公園の歴史には案外こういう伏せた物語が多い。

 

…例えば墨田区に今もある錦糸公園は、1945年の東京大空襲で命を落とした人たち実に1万余の遺体がこの公園に埋葬されたという。……  (…富蔵さん、児童公園と言いながら遊具など全く無いですね)…跨線橋にもたれながら、私は同行してもらった田代富夫(通称・富蔵さん)さんに、そう呟いた。…すると一人の男性が近づいて来た。訊くとここ谷中墓地の管理をされているとの事。富蔵さんが、この児童公園の来歴を話すと、その方も知らなかったらしく驚いていた。

 

…個展が終わった先日、私は、このブログで度々登場される富蔵さんと日暮里のカフェで久しぶりにお会いして、様々な話をして午前を過ごしていた。午後から私は、件の児童公園~谷中に在った川端康成の旧宅、そして、前回のブログで書いた川端の不気味な短編小説『化粧』の舞台となった谷中の斎場跡(芥川龍之介大杉栄伊藤野枝他を焼いた場所)を探して観ようと思っていた。…午後からの私の行動予定を富蔵さんに話すと、好奇心が強い富蔵さんは付き合ってくれるというので、先ずは児童公園の方へと一緒に向かったという次第である。

 

 

…件の児童公園を見た後で、霊園を抜けて、上野桜木町の川端康成旧宅跡(画像掲載)と隣接して在った斎場跡(画像掲載)を目指すと、すぐにその場所はわかった。

 

 

 

…当時の詳細な地図のコピ-を、私は事前に作って持参していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

……川端の小説の中でも最も感性の鋭い時期に書かれたのが、この上野桜木町時代であり、川端康成の122編の短編小説を収録した掌編小説集『掌の小説』(新潮文庫)にその多くが入っているので、ご興味がある方には、ぜひお薦めしたい。

 

 

夕方から用事があるという富蔵さんと上野桜木町で別れて、私は三崎坂を下って、真向かいにV字へと上がっていく急な坂道の団子坂を上がり、次なる目的地へと向かった。…江戸川乱歩の小説『D坂の殺人事件』の舞台となった場所跡を目指したのである。

 

 

………「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコ-ヒ-を啜っていた。…(中略)…さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先を眺めていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしているといかにも変わり者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが……… 」

 

………という始まりで、話は次第にサディズムを孕んだ陰惨な猟奇殺人事件へと展開していく。…私が目指したのが、正にこの小説の舞台となった団子坂(つまりD坂)であり、後に私立探偵の代名詞となっていく明智小五郎が、この小説で初めて登場するのである。

 

また文中に書かれている古本屋とは、実際に江戸川乱歩が二人の弟たちと営んでいた書店『三人書房』であり、この団子坂を登りきった場所(千駄木五丁目5-14)に乱歩は住んでいたのであった。(…時代は大正8年、あの松井須磨子が自殺した年である。)

 

 

 

この小説を初めて読んだのは高校時代であったが、その時以来、私はいつかこのD坂なる怪しい場所に行ってみたいと思っていたのである。妙にこのタイトルに惹かれるものがあった。…D坂が団子坂という名前である事を知った時は唖然としたが、やがて乱歩のそのタイトルの付け方の妙に私は惹かれていき、影響すら受けたのであった。

 

(これに似たのがクレーの名作『R荘』というのがある)…私がタイトルや、オブジェの中に時々アルファベットの大文字を使うのは、実にこの『D坂の殺人事件』というタイトルからの影響が大きいのである。

 

 

 

……鴎外の旧宅(観潮楼)の跡地に建つ森鴎外記念館が見えて来て、さらに暫く行くと右側の番地が正にその三人書房があった場所。

辺りにいる筈がない乱歩や明智小五郎の影を探すが、時代は既に令和となって抒情も怪しさも、物語の発生する気配すら無い。

 

 

…私はこの小説の芯となっている彼ら「高等遊民」(ある意味、シャ-ロック・ホ-ムズもそうであるが)が生きていた虚構と現実の間(あわい)が好きなので、その影を、もはや暮れ始めて来た、このD坂なる坂道の翳りの中に追ったのであった。…坂を下って途中から左へ折れると、高村光太郎智恵子の旧宅跡、その隣には池田満寿夫さんが若き日に住んだ旧宅跡が在る、それはまた次の探訪の楽しみにするとして、千駄木駅の改札口へと向かったのであった。

 

 

 

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『昔、お葉と呼ばれた女がいた』

…今から半年前の話から、今回のブログは始まる。

 

…ある日、知人のAさんから浮世絵を商っている人(仮にBさんとしよう)と神田・神保町の中華料理店で会うので、もしよかったら来ませんか?…ご紹介しますよ。当日は、珍しい版画が直で見れる筈です。… という連絡が入った。好奇心の強い私は、何事も勉強とばかりに勇んで出かけて行った。……月岡芳年広重を持っている私の眼には、しかしその日は結果的に空振りであったといえよう。Bさんが卓上に広げた版画は、かなりマニアックな力士や歌舞伎役者の浮世絵が主で、しかも刷りが弱い。期待していた分がっかりしたが、この店の料理が美味しいのだけが救いであった。

 

 

…話題が変わって版画からBさんの個人史へと移るや、Bさんは昔から恋い焦がれているという或る女性の話を突然し始めた。…料理を頂きながら、まぁ付き合いとばかりに聞いていたが、Bさんは途中からその女性の事をマドンナ、マドンナ…と連呼し始め、もはやAさんや私は眼中にないらしい。…(マドンナ…純潔にして憧れの永遠の女性…か。)…明治の漱石の小説等にはそれらしき女性は度々登場するが、今時にマドンナという言葉は死語に近い。

 

 

しかしこのBさんと違い、漱石の小説に登場する女性性は清楚の裏に計りがたい女性の謎や秘めた毒がある。また泉鏡花に至っては『高野聖』のように、もはや蛇淫と化した魔性の女性からは逃げるしか手はなく、川端康成の『化粧』という短編に至るや、女性はゾッとする氷のごとき戦慄的な豹変を見せ、川端はただ震えてそこに立ちつくすしか途はないのである。

 

 

……うっとりとなおもその女性への想いを一人称的に語るBさんの宙に浮いたような目を見ながら私は思った。(このBさんは知らないのだな。…その女性はBさんにとっては純潔、清楚一色かも知れないが、別な男性に見せるそれは激しく熱いカルメンの顔やも知れず、或る男性には、凄まじい毒婦かも知れないという事を。…男性から見れば遥かに女性は役者であり、相手によって様々に変容した顔を見せる…〈謎〉そのものであるという事を。…そして、実際に様々な顔を見せたばかりか、それが名作の絵画作品となって今もありありと残っている、そのモデルとなったあまりに有名な女性がいた事を、ふと私は思い出した。

 

 

…やがて間違いなくやってくる南海トラフ地震。…その大惨事から死にたくない人には谷中の上辺りに住む事をお勧めしたい。関東大震災の時には、この地の武蔵野台地は盤石であり、他の下町の凄惨な被害と比べ、この地は全く揺れず、被害も皆無であったという。周知のように江戸期からの墓地や寺が多いのも頷ける。……ブログでも度々書いて来たが、今年、私は何回この谷中の地を訪れたであろうか?  …15回?いやもっと来ているに違いない。………私が愛してやまないその谷中の、4丁目3-5の領玄寺の門前に1896年頃から岡倉天心の依頼で開設した宮崎モデル紹介所という、画家の為にモデルを斡旋する所があった。…歌手の淡谷のり子も学生時代にここに所属してモデルをしていたというからその歴史は古い。

 

 

 

……さて、大正のはじめ頃に、この紹介所に佐々木カネヨという、当時まだ12、3才の少女がいた。しかし既にしてトップモデルであったという。その淫靡奔放さ故に付いたあだ名が(嘘つきお兼)。

 

…その放つ妖しいフェロモン故か、カネヨが家で母親と茶漬けを食べていると、硝子が割れて度々小石が飛んで来たという。…上野の美校の学生達が、カネヨの色香に興奮しての事だというから、カネヨが放つ魅力は推して知るべしであろう。

 

カネヨは字も読めず、自分の意志もあまり持たなかったというから、その姿は一種人形を想わせる。

 

 

 

 

このカネヨを独占的に描いたのが、責め絵で知られる伊藤晴雨。その絵の特徴は執拗に描いた髪の毛の乱れに見られるが、よく知られているように晴雨は毛髪に対しての執拗なフェティシズムを持っていた。

 

…谷崎潤一郎は足裏フェチ、泉鏡花が蛇の肌フェチ、川端康成の窃視フェチ…と、美の出処はかくの如くあくまでも暗い。

 

 

 

 

 

……竹久夢二は、カネヨに〈お葉〉という名を付けて、晴雨のそれとは全く異なるカネヨを大正の病んだ衰弱体へと変容させた。…カネヨをモデルにした『黒船屋』は夢二を代表する作品である。

 

 

 

 

…カネヨの別な面を現したのが、藤島武二の『蝶』『芳恵』等の代表作。…女性性の謎はその変容力にあるというが、佐々木カネヨという女性の今に残る写真を見ると、全く別な女性かと思うほどに顔が違う。撮したのは夢二であるが、夢二に見せる顔にして変容の様は多様である。

 

…自身の生き方に意志がなく、その奔放な様を改めるようにカネヨを諭したのは藤島武二であるが、その最初はカネヨの魔性に翻弄されたであろう事は私の想像に難くない。……佐々木カネヨのような顔相は、あたかも病んだ時代、大正そのものの映し絵であって、今日、このような顔相はほとんど見かけない。…………

 

 

 

 

さてBさんであるが、延々とマドンナの話が終わりそうもないので、私とAさんはお開きの気分になって来た。…その日は空振りに終わったが、久しぶりに佐々木カネヨを思い出した事が面白かった。

 

……大正浪漫の幻か。……ふと、そう思った勢いで、夢二やお葉、そして谷崎潤一郎大杉栄伊藤野枝坂口安吾正宗白鳥菊池寛…たちが梁山泊のように住んでいた『本郷菊富士ホテル』跡を、久しぶりに訪ねたい気分になったが、既に夕暮れが近い。…それはまたの楽しみにして、私はアトリエへと戻って行ったのであった。

 

 

 

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『加速的に世界が壊れていっている今、…あなたは!?』

 

…やがて11月になり、季節は一気に秋の終わりへ向かおうとしている今、巷ではアジサイや桜が狂い咲き、ツクツクボウシが虚空に向かって鳴いているという。…周知のように永久凍土が溶けて流れ出し、今や当たり前のように世界中で起きている大洪水の凄まじい氾濫画像を観ると、20~30年後の為のCO2削減対策云々などと言っている話が、もはや完全に空々しい。

 

 

…荒れ狂う広大な大海に向かって、如雨露で水をショボショボと垂らすようなこの話。…既に遅すぎて打つ手無しで、人類が壊して来た自然界の猛威的な逆襲は、今後ますます容赦なく、その牙の鋭さを顕にして来ることは必定である。そんな中、今日、明日、明後日…と世界中で数多の新生児が次々に産まれている。…その親達は我が子の無事の生誕を喜び、この子が無事に大きく育ったら…と、やがて間違いなく襲って来る火炎地獄を直視せず、世は事も無しとばかりに狭視眼的にうっとりと、嘘のように晴れた青空をそこに見てでもいるような……。

 

 

 

…話は遡って、9月の某日、私は名古屋に行き、このブログでも度々登場されている、俳人の馬場駿吉さんの事務所で、11月29日から名古屋画廊で開催する予定の、馬場さんの俳句と私の作品によるヴェネツィアを主題にした展覧会の打ち合わせをした。…それから1ヶ月が経った或る日、画廊から連絡が入り、馬場さんが怪我をされたという知らせが入った。…そして、その後で次は私が突然、坐骨神経痛を発症してしまい、高島屋の個展開催すら危ういという情況に襲われてしまった。日々の長時間制作に集中したあまり、遂に脊髄が損傷してしまったのである。…正に万事休すであった。…脚の激痛の中でなんとか個展はスタ-トしたが、会期終了の21日まで、今まで体験した事のない日々を体験する事となった。

 

 

…個展会期始めに、名古屋画廊の中山真一さんが来られて開催日延期の話になり、来春5月9日→24日に開催が決まった。…故に来年の私の展覧会はつごう6ヶ所の画廊で開催するという事になった。

 

…展覧会の話が沢山入るという事は表現者冥利に尽きる幸せな話であるが、果たして、その後の命は……どうなるのであろうか?ちなみに展覧会を順にあげれば、福井(4月)・名古屋、千葉(共に5月)・東京恵比寿(7月)・東京日本橋高島屋(10月)・横浜(12月)である。…

 

 

 

 

 

高島屋の個展は、先日盛況のうちに終了し、旧知の大切な人達、また今回初めて出逢えた人達が、新作のオブジェを介して語り合う事が出来、実り深い19日間であった。

 

 

…また会期中、私は65点の新作を観ながら分析し、今、現在のオブジェの有り様を考えながら、次なる展開の可能性を探り、そこで掴んだ試みのヴィジョンを形にしたく、早速に始めたいという意欲に今、充ちているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、個展が終わり、次なるブログの内容もほぼ決まった。

…タイトルは『昔、お葉と呼ばれた女がいた』である。

 

行間に大正ロマン特有のゆるんだエロティシズムが色濃く漂う

内容になる事は必至。

 

…乞うご期待である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「個展開催中のお知らせ」

今月21日まで、東京・日本橋高島屋本店6F美術画廊Xにて、新作オブジェ65点を一堂に展示した個展『狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ』を開催しています。…多くの方々のご来場、ご高覧をお待ちしています。

 

 

 

 

 

 

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「10月21日迄、日本橋高島屋で個展開催中」

……私が24才の時に、東京国立近代美術館で開催される「東京国際版画ビエンナ-レ展」の日本の代表作家の一人として選出された時に、当時ニュ-ヨ-クに住んでおられた池田満寿夫さんから祝電のお手紙が届いた事があった。その手紙の末尾に、(私はアメリカを代表する作家の一人として出品します。共に頑張りましょう。)と書いてあり、私は燃えるような気持ちで熱くなった事がある。

 

…また、その手紙には(…あなたは、これからはコレクタ-の人達と一緒に人生を生きていく事になるでしょう)と書いてあり、当時の私はその箇所だけは、些か疑問を抱いた事を覚えている。…作品は本質的に匿名である故に、具体的な人達と接点を持つべきではないと思ったのである。…しかし、個性ある作品を遺した人達の生涯の記録を読んでいくと、その人達が具体的なコレクタ-の人達と実に深い生きた物語を交わしながら、作品の質を高めていったかを知るにつれ、私の考えは変わっていった。…コレクタ-の人達もまた作品収集をするという行為を通して、その人自身の人生を豊かに紡いでいるのであり、それもまたその人達における表現行為なのだと次第に気づいていったのである。

 

…想えば、私の版画はそのほとんどが、その人達によって評価され、収集されていき、完売による絶版という形で、私のアトリエに版画作品はほとんど残っていない。…そしてそこに、私を支え続けてくれた人達との不思議な「ご縁」としか言いようのない豊穣な物語が実にたくさん残っている事を、私は時に思い出すのである。…そして、作品を収集するという行為もまた深い創造行為なのだと、私は実感を持って想うのである。

 

版画の次に、私は精力的にオブジェを作り続けて来た。その作品数は既に1200点以上であるが、アトリエに残っているのは僅かに40点くらいである。…考えてみるとこれは驚異的な事であり、表現者としてこれほど幸せな事はないとつくづく思うのである。…その1000点以上の作品は今、各々の作品との出逢いを通じてコレクタ-の人達の身近でまた新たな尽きる事のない豊かな物語を紡いでいるのである。

 

…最近つくづく思うのであるが、人生という限りある時間の中で一番大事な事は、人と人とを結んでいる「ご縁」というものではないかと思う。…ご縁という不思議な運命の筋書き。振り返ってみると、本当にその不思議な縁によって、実にたくさんの面白い出逢いがあった事を思い出し、私は豊かな気持ちになるのである。…昨今のように相手の顔も知らずにネットで不毛な刹那的触れ合いをして、次に消去を繰り返している時代にはもはや、豊かな物語を作る土壌は無いと私は見ている。…時代は寒い方へと傾斜を墜ちていっているが、私はその「ご縁」という不思議なとしか言いようのない現象のドラマにこだわり、それを大切に考えていたいと思っている。

 

…さて、日本橋高島屋での個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」が2日から始まった。…それに関して、「月刊美術」10月号の新刊で、この個展に関する展覧会評が出たので、以下にご紹介しようと思う。…個展は21日迄、休み無しで開催されている。…そして私は毎日、画廊にいて、私の作品と、その作品と出逢った人との不思議な、しかし何かに結ばれているとしか思えない、その出逢いの瞬間に立ち会うのである。…そして、その作品の次なる作者は、私からその人へとなっていくのである。

 

 

 

 

 

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個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」開催のお知らせ

 

先日、ギャルリ-東京ユマニテで開催中の故・中川幸夫ガラス作品展に行って來た。個展の制作に忙殺される日々であったが、この展覧会だけは必見と思い、美と毒と妖しさを多分に吸収するつもりで行ったのである。

 

 

 

……作品はガラス作家の高橋禎彦氏との共同制作であるが、ガラスを強度に加熱して歪ませ、或いは全方位的に垂らし、その瞬間々々の神経の集中によって、ガラスは強度な狂気性を帯びて、遂には狂女にも似た結晶へと変容する。しかしこの結晶には強度なるものと共に、あえかなともいうべき儚げな一面も併せ持っていて、いっそう謎めいている。……作品を観てあらためて、正しく中川幸夫は天才と断ずるに足る人であったと痛感した。…生前その中川さんには一度だけであるがお会いしてお話を交わした事がある。…場所は銀座のザ・ギンザアートスペースでの佐谷画廊企画のオマージュ滝口修造展:中川幸夫「献花」オリーブ展での中川さんの個展の時であったか、確かドイツ文学者の種村季弘さんの紹介であったと記憶するが、それは今としては貴重な体験であった。刹那ではあるが、先達の内に狂おしいまでの才を帯びた人との魂の交感は得難い財産となっている。

 

 

………………さてともあれガラス、そして新たなるガラスの表現。………私は自作のオブジェの中に、ここ数年来、割れたガラスの断片、或いは螺旋状にねじれたガラスなどを取り入れて、それもまた私の作品中の、限りなく正面性を帯びた劇場の中で、一つの詩の言葉、或いは活人劇の役者として機能している。…まことにガラスとは両義牲を持った不思議な素材で、脆いと思えば強かに硬く、透けているのに閉ざした一面もあり、エレガントかと思えば凶器的でもあり、何処かしらノスタルジアを喚起する不思議な表情をその内に秘めている。私の内なるオブセッションとフェティシズムが揺れて、ますますガラスは私の作品の中で重要な存在となっていくであろう。

 

 

…………さて、10月2日から21日まで、東京日本橋・高島屋本館6階の美術画廊Xで、個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」を開催するが、その出品作の中にはガラスが様々な表情をして、劇中に配されているので、各々の変容した様と、その演技を観て頂けれはと思っている。…またこの展覧会では、タイトルにも登場する「螺旋」が様々な表情や役割をしているので、それもご覧頂きたいと思っている。出品数65点の新作が一堂に展示されています。ぜひご覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」

場所:日本橋高島屋・美術画廊X(本館6階)

会期:10月2日(水)~ 21日(月)

時間:10時30分 ~ 19時30分

 

 

 

 

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『存在感を放つ戸嶋靖昌記念館-東京・半蔵門』

…ここ数年来、千葉のDIC川村記念美術館から毎回送られてくる展覧会の招待状から次第に「気」が抜けて来ているなと思っていたら、案の定、来年1月から休館に入るという。収蔵されているコ-ネルほかの名品の行方を危ぶむ声が届いていて、その存続を願う動きが起きているという。しかし、多くの人々は気づいていない。美術館の実質は、建物や収蔵品が第一に非ず、ひとえにそれを企画する館長の理念と気概、学芸員のセンス、知性、そして発信するという事は知の揺さぶりなのだという有機的な自明の事を認識しているか否かの是非にあるという事を。…確かに千葉の佐倉は遠くて不便ではある。しかし、展覧会の質が高ければ、人は己を高める為に其処に行くのである。伝わって来る休館(或いは移転説)に至った経緯を読むと、運営における資金面や他の諸事情はあるとしても、つまりは人、人材が美術館というものの実質的な骨格なのである。

 

……例えば、10月2日から始まる高島屋での大きな個展の後、私は、11月29日から名古屋画廊馬場駿吉さん(美術評論・俳人)とヴェネツィアを主題とした二人展を開催する予定であるが、その馬場さんが以前に館長をされていた当時の名古屋ボストン美術館の展覧会の企画力は、実に素晴らしいものが続いており、その多くを観た私の記憶には今もそれが鮮明に残っている。馬場さん自らがその多くの企画の立ち上げから関わり、また優れた学芸員がそこに能力を発揮していて、展覧会には常に観る事の愉楽と知との華やぎがあった。ジム・ダイン展、北斎展、ゴ-ギャン展…と様々な名品展が次々に開催され、会場はいつも沢山の観客で溢れていた。…繰り返すが、その美術館の館長が抱いている理念の高みと、それを具体化する能力のある優れた学芸員の存在があれば、その美術館へと人は己を高めに積極的に行くのである。

 

 

しかし問題はDIC川村記念美術館だけでなく、アトリエに届く、他の多くの美術館の案内状からも同様に「気」が抜け落ちていて、何やらぼんやりとした黄昏時の感がある。…そのような中で例外とも云えるのが、このブログでも度々紹介して来た、東京・半蔵門にある戸嶋靖昌記念館からの展覧会の案内状であり、その記念館が刊行している冊子「ARTIS」が届いた時である。…郵便受けに届いていると、まるで私宛に届いた果たし状か挑戦状のような気配が既にしてそこから伝わって来る。

……「戸嶋靖昌記念館」…館長の執行草舟さんは、実業家、啓蒙家であると共にまた数多の著作を執筆刊行している人であるが、美術作品や書などの収集も精力的にされており、現在の収蔵品は既に数千点を超えており、今なおその作品数は増え続けている。…ちなみに私のオブジェや銅版画も多数そのコレクションの中に入っている。…昨年、この美術館の数多ある収蔵品の中から選抜してスペイン大使館で『禅と美』と題する展覧会が開催されたが、その企画の切り口の鋭さを感受した人々が会場を訪れて連日賑わいを呈していた。…前述したが、発信するという事は知と美の揺さぶりであり、この展覧会はそれを具現化した一例なのである。

 

 

…執行さんは「美とは、部分の調和によって成り立つ。それは、目に見えるものと見えないものとの間にある」というダ・ヴィンチが遺した言葉を知る人であり、その見えないものの深部迄も直観で感受出来る人なのだと、私は時おり感じることがある。

 

田中昇 「イタリア風景」1971年制作

…今、この戸嶋靖昌美術館では『イタリアの響き』というテ-マで、40代で夭折した画家・田中昇展を11月30日迄開催中である。…デュ-ラ-ゲ-テは烈々たる過剰な光を精神に受容せんとして希求するようにイタリアへと赴いたが、田中の描いたイタリアには、私達が知るその光が無く、むしろ謎めいた静寂を帯びていて、遺された画面には、ミステリアスな一人称めいた韻が静かに流れているのである。…

 

 

 

…さて、前述したが、この美術館では冊子「ARTIS」を刊行している。それは僅か10頁前後の薄い冊子であるが、その内容の知的密度には無尽蔵な深みと緊張があって、私は毎回送られてくるのを待ち遠しくしているのである。内容は主席学芸員の安倍三﨑さんから執行さんへのインタビュ-が主であるが、10代にして三島由紀夫や小林秀雄と対話して鍛えて来た人だけに直観の鋭さと知性の洗練が深みを帯びていて、その文章を読む事それ自体が私達に突きつけられた挑戦状であり、美的享受ともなっている。また安倍さんが執筆している巻頭の〈一点を追う〉、自由企画の〈いま、ここで〉は、9月号では田中昇さんの作品への詩的抒情に充ちた文章が綴られ、次回、10月1日から刊行配布される「持続する思考」特集号では、私のオブジェについての論考が掲載される予定である。

 

 

 

 

…………さて、最後に大事なお知らせを。…隔月毎に刊行されているこの「ARTIS」。希望される方には無料で送られてくるので、ぜひ読んで頂きたいと思っている。
申し込み方法は、①戸嶋靖昌記念館直通の電話番号03-3511-8162か、②主席学芸員の安倍三﨑さんのアドレス-abemi@biotec1984.co.jpに、お名前・ご住所・お電話番号を連絡すれば、次回、拙作のオブジェへの論考が掲載されている号から、無料で隔月毎に送られてくるので、ぜひのご愛読をお勧めする次第である。

 

 

……………さていよいよ、10月2日からの高島屋での個展『狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ』展が近づいて来た。出品総数65点。…今回は私の感性にいつしか呪縛的に入り込んでいる螺旋という構造が放つ狂いのオブセッションから、美を立ち上げるという試みである。全作品に私の神経が放射されており、深く突き刺さっているという手応えが強くある。今月末のブログにはそれについて書く予定。…乞うご期待である。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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