『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男④』 – 完結編

………さて、ここに一枚の地図がある。藤牧義夫が消える運命の日となった、昭和10年9月2日の藤牧の足取りを時系列順に追って記した地図である。画面最左(D)の自分の下宿を出発した藤牧は、画面最右(A)に住む姉の太田みさおの家に行き、俄に降り始めた雨の中を画面左下(C)に住む、もう一人の姉、中村ていの家に向かうと言って、みさおの家を出た。そしてAからCの途上にある小野忠重の家(B)に立ち寄ったところで、藤牧義夫の姿は完全に消滅してしまい、以後その姿を見た者は誰もいない。……その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。……小野が語っている藤牧の姿、「飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という言葉からは真逆の、藤牧義夫の壮健な姿が、この距離の数字から見えてくる。

 

 

 

 

……小野の言葉は更に続く。「……しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。それまで身辺にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれの図版の裏にも彼の鉛筆画の残る、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロ美術特集号などをぶちまけた。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。……(中略)……捜査願いも空しかったという言葉で、仏壇を見ると、位牌には、彼の法号と命日が、私の家から消えたその日をのこしていた。」

 

……小野は、藤牧がいかに自分を信頼していたかを強調したかったのであろうが、この文で大きな墓穴を掘っている。藤牧義夫は尊敬していた父親の影響で、宮沢賢治や高山樗牛、創作版画の先達だった山本鼎らも会員であった国柱会(満州事変の指揮をとった石原莞爾を擁する)―つまりは右傾化した思想の持ち主であったが故に、小野が(藤牧が最後に置いて行ったと)語ったような、云わば左翼青年が読むような表現派やダダの本を読む筈がない。逆にこれは後に判明するのであるが、小野は、自分が一時はプロレタリア運動に挺身した過去を持つと語り、偽装した経歴を積もらせていくのであるが、彼自身の自宅の本棚にあったのを安直に書き並べた事は想像に難くない。〈小野は藤牧義夫の下宿を訪れるような親しい仲で無かった事が、ここから透かし見えて来よう。〉……小野が語る、自分はかつての左翼の闘士であったという経歴の嘘を見破ったのは、自身が一時は左翼の闘士であった実際の過去を持つ州之内徹氏である。小野証言に疑いの眼を深めていった州之内氏は推論する。「どちらが正しいか。(中略)いずれにしても、どちらの記述も彼(藤牧義夫)のノイローゼを強調しているのは、その後に来る彼の失踪(自殺)の理由をそこに求めようとするからではあるまいか」。……小野は記す。「…………それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている」と。

 

 

……言葉には、言霊(言葉に内在する霊力)というものが必ず宿る。これは不思議な、しかし確かな事である。言霊という言葉は和歌などの調べを想わせる美しい響きがあるが、一方で〈内なる邪〉も宿す。今一度、小野の文を読むと、そこから伝わって来るのは、失った友への哀悼の情では決して無く、ギラリと光る、それこそ濁った情念のようなものがある。……仮に親友が隅田川に投身したとするならば、友が迷うことなく成仏する事を願い、水底に沈む友のイメ―ジに清冽なものを覆って黄泉へと送るのが、当然の心情ではあるまいか。間違っても、「どす黒い水底」、「藤牧の骨」と云った死者を汚すような言葉は使わない。………………とまれ、藤牧義夫の姿はその夜をもって消失し、また下宿からは、彼の版画の貴重な版木がことごとく一夜にして消えた。……藤牧義夫の版画の明らかな贋作が、あたかも秘かに生産工場が在るかのようにして続々と出てくるのは、藤牧義夫の姿が消えてからおよそ40年後の事である。」

 

 

 

近代版画の歴史から次第に藤牧義夫は忘れ去られていったが、その作品が持つ表現力の素晴らしさに最初に注目したのは、画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏(当時まだ20代後半)であった。前述したが大谷氏はまだ日本で注目されていなかったヨ―ゼフ・ボイスの個展を開催し、また青木繁の素描展を開催するなど、慧眼にして行動の人である。藤牧義夫版画の素晴らしさを何とか世に知らせたいという大谷氏の真摯な情熱に対し、当時、藤牧義夫に関する唯一の窓口であり、あまつさえ藤牧の師匠とさえ、いつの間にか呼ばれるようになっていた小野が「個展を開催するならば」として渡した数多の藤牧版画は、そのことごとくが贋作(それも明らかに失くなった筈の実際の藤牧義夫の版木に加筆彫り込みをしたという異常さ)であった。それが一括購入した先の東京国立近代美術館からの指摘で判明する事となり、以来、大谷氏は10年以上の歳月を要して『藤牧義夫眞偽』(学藝書院刊行)と題する、真作と贋作の違いを完璧に精査した文献を出版し、この国の主たる美術館に収蔵されている。……その慧眼の大谷芳久氏と州之内徹氏が時に強力な連携を組み、事件の真相に迫っていく白熱する過程は、前述した駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(講談社刊行)に詳しい。そして、私のこのブログの詳細な記述も、駒村氏、大谷芳久氏、州之内徹氏の著書、更には大谷氏からの直接の聞き取りに依り書かれている。

 

……このブログで連載の形を取るのは、以前に書いたジャコメッティの件以来であろうか。そして長きに渡った藤牧義夫に関するこの連載もようやく終わろうとしている。しかし、ここに至って私は自問する。……かくも情熱を持って(しかも、向島、浅草の各々の現場跡に何度も取材し)書かしめているのは、果たして何であるのかと。駒村氏の実にスリリングな著書を読み、その詳細を知った事の驚き。或は、この事件の謎を人生の最後に取り組み、かなり追い詰めながらも不慮の急死により、その執筆が途絶えてしまった州之内徹氏の無念への想い……。そして藤牧義夫の更なる評価を希求し、逆に不実なものを徹底して断じようとする大谷芳久氏の真摯な情熱。……その全てから発して、このブログは書かれたのであるが、……私自身が40年以上前の美大の学生の時に、実際に小野忠重に会っていたという事実が、やはり大きいかと思う。

 

…………あれは確か22才の頃であったか。……その部屋には、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎氏と私、……そして小野忠重と他に何人かがいた。私は自作の銅版画を卓上に並べ、駒井氏との貴重な話に熱中し、傍の小野には申し訳ないが全く無関心であった。それを敏感に察したのか、小野は次第に肩を震わせ始め、苛立っているのがあからさまに伝わって来た。……どういう経緯でそう言ったのかわからないが、突然私の口から「浅草に叔母がいる」という言葉が口に出た。……正にその瞬間であった。「俺ぁ、お前の作品が嫌いだな!!!」と小野は私に鋭い怒声を浴びせたのであった。卓上に並べた私の作品は、駒井哲郎棟方志功土方定一、そして坂崎乙郎……といった美術の分野を代表する先達たちから既に高い評価を受けていた作品であり、22才の若僧に過ぎないとはいえ、私にも強い自信と当然の自負があった。小野の怒声に私もまた怒りを持って鋭い声で返し、その場に異常な緊張が走った。正に殴り合いの寸前であった。見ると、無頼できこえた駒井氏でさえも驚きの顔を呈していたのを今もって覚えている。〈……その時に私は見てしまったのである。〉―もし駒井氏や余人が傍にいなかったならば、間違いなく私に飛び掛かって来たに相違ない、あの男の自分でも御し難いような内なる獣性を帯びた、その瞳孔の奥に光るもう一つの異様な〈気〉を。〈浅草に……叔母がいる〉……私は何かに促されるようにして、どうしてその言葉を発してしまったのであろうか、今もってそれはわからない。しかし、その言葉を発した瞬間に小野が速攻で切れた事は間違いのない事である。そして、この〈浅草〉〈叔母〉という2つの言葉は、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか』に何度か出てくる言葉でもあったが、小野が私に示したあからさまな敵意の真因が何に依るものであるのかは、今もってそれはわからない。……ただ、年月を経ても私の記憶の内に、あの小野が瞬間に見せた敵意を孕んだ私への、刺すような眼孔の鈍い光だけはありありと今も覚えている。……人は、一体どうなればあのような〈眼〉が出来るのであろうか。

 

……その謎を解くべく、今回のブログは綴られて来たように今は思う。……後の版画の歴史に鮮やかな一頁を間違いなく残したに違いない藤牧義夫。その彼が24才の若さでその生を終える瞬間に、脳裡に去来したものは果たして何であったのか。……そして、いや、だからこそ私は結論として今想う事がある。州之内徹氏が死の直前に綴った最後の文章「……失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。」と書いて、小野忠重が引っ張ろうとしている「隅田川に自死して消えた」という方向への強い懐疑を示したが、この一点だけが州之内氏と私の推理が異なる点である。……私は断言するが、藤牧義夫は、間違いなくこの隅田川の水底に沈んでいると。そして、その現場は、藤牧義夫が故郷の館林に帰る度に乗っていた東武伊勢崎線が隅田川を通過して、北十間川と接する水門の真下近く、……前回のブログで永井荷風と交差した不気味な黒い影、『断腸亭日乗異聞』に登場したその暗い男が向かった隅田川河畔の向島寄りの水底に藤牧義夫は眠っていると私は想う。

 

 

最後に後日譚を記そう。……藤牧義夫の墓は館林の故郷に在るが、当然ながらその墓の中に藤牧の遺骨は無い。……一方、小野忠重は今、何処にいるのであるか。……小野は小梅の自宅が空襲で焼かれた後に杉並の方に移ったと聴くが詳しくは知らない。……では今は何処に!?小野は1990年の10月に81才で亡くなっている。そして、その墓は浅草の慶養寺という寺に在る。私はその寺を訪れた事があった。今でこそスポ―ツセンタ―の巨大な建物によって隅田川の景観は全く見えないが、かつてはその寺からは、そして墓地からは隅田川の流れが見えた事と想われる。……その寺の在る場所は対岸に向島が、そして、丁度右斜め45度の対岸には、今し書いた東武伊勢崎線の鉄橋と、その下の水門とその水の面が見えるのである。樋口一葉、幸田露伴、永井荷風たち文人が……鮮やかな美文で綴ってきた隅田川の景観は、今は無い。ただ、隅田川の流れだけが今も、とうとうと流れているのである。(終)

 

 

追記.……私が関心を持つと少し遅れてメディアが、その主題を取り上げるという現象は度々このブログでも書いて来た。近い例では前述したジャコメッティの話がそうである。私はブログで、今迄のジャコメッティのイメ―ジを取り除き、娼婦に翻弄される、およそ今迄のストイックな巨匠の姿を覆して書いた。するとその半年後に『ジャコメッティ最後の肖像』という映画がジャコメッティ財団の監修で日本でも上映されたが、それは私のブログを台本にしたかのように、私が記した正にそのままのジャコメッティの姿の提示であり、矢内原伊作で築かれたイメ―ジはあっけなく覆った。創造の舞台裏、それを私は直観的に視てしまうらしい。……そして今回の藤牧義夫に関しても同じような現象が起きた。駒村氏の著書に登場する藤牧義夫研究家の和田みどりさんから先日連絡が入り、今月の29日(土曜)の『美の巨人たち』(テレビ東京・夜10時~)で藤牧義夫を取り上げるという。〈大谷芳久氏が出演される由である。〉何というリアルタイムであろうか。……この番組のプロデュ―サ―が、ある程度掘り下げて、藤牧義夫の実像とその作品の独自性を観せてくれるのを今は祈るのみである。なお、次回のブログは『もう一つの智恵子抄』を書く予定。知られざる高村光太郎と智恵子の実像が鮮やかに、そしてショッキングに立ち上がります。……乞うご期待。

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男③』

②からの続き。………………すみだ郷土文化資料館で、昭和10年頃に「本所小梅1―7」であった場所の現在の住所を問うと、「向島1丁目―30」がその番地である事がわかった。地図を見ると約800mくらい先か。とすれば徒歩だと10分くらいの距離である。………そして私は目指すその場所へと辿り着いた。小野忠重の家(すなわち藤牧義夫がこの世から姿を消した最後の地点)の区域は、空襲で様相を変えてしまっているが、当時の面影は何となく伝わってくる。そしてかつてのその現場に私はピンポイントで立った。見ると、先の高みにはスカイツリーが寒々とした姿で立っている。少し行けば隅田川と交わる北十間川、振り向けば隅田川が意外に近い。 ……私は今までこのブログで、藤牧義夫が「失踪した」或は「消えた」という能動態で表して来たが、その語法は藤牧義夫の姿が消えた後で語り始めた小野忠重の発言に依っている。しかし、ロジェ・カイヨワの言を引くまでもなく、世界の本質は対称的な関係で成り立っている。ならば自らの意思によって「消えた」だけでなく、受動態の、「消された」という考えも当然湧き上がって来よう。そうでなければ、推理は在ってはならない片手落ちになってしまう。 ……ここに藤牧義夫をモデルにした野口富士男著の『相生橋煙雨』という小説が登場する。野口は小野が繰り返し書いてきた「晩年(まだ24才)の藤牧義夫は、前後の事情から考えて貧窮による栄養の絶対量の極限にちかい不足と胸部疾患でひどい健康状態だったはず」・「……藤牧は終日川岸を去らなかった。わずか寝るだけに帰る浅草の裏街の部屋に入るとパッタリ倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それいらい、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という、どうしても自殺―隅田川からの投身に持って行きたい言葉を真に受けたのか、野口は妄想を膨らませて、9月2日の夜、小野の自宅に立ち寄った藤牧義夫を、実は小野が見た幽霊のように書き、文意の繋がりのかなり不明な奇妙な小説を書いている。(しかし、実際の藤牧義夫を撮った写真が駒村吉重氏の小説の最後に載っているが、姿が見えなくなる半年前に撮られたその姿は、藤牧が小柄ながらも服装はきちんと整い、その顔は気概に満ちて健康そのものである)。私はあきれながらも、その小説に出てきた幽霊の登場を面白いと思った。これからは、このブログから小野はしばらく退場してもらい、……これからは、幽霊……すなわち、夜半に揺れる何者かの黒い影をここに登場させて、狂言回しのように書いていこう。

 

 

 

 

……私が今いるこの舞台、すなわち向島にはかつて、文人の幸田露伴が永い間住んでいた。その露伴が書いた「墨堤」という一篇に「……裏道づたひいづくへとも無く行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。……」という、確かそのような文章があったのを私は何故かふと思い出した。その「……一構の奥に物の音のしたる」という文が、何故か、ここ(現場)にいてふと浮かんだのである。……奥に物の音のしたる。その連想が膨らんで、何者かの暗い影が奥戸からぞぞと現れ出で、何事かをするその影が揺らめいて見えた。……突然「リアカ―か!?」という唐突な閃きが、野口富士男が書いた幽霊に倣って俄に浮かんだ。……すると、あろう事か、妄想が現実を凌駕して、ここ向島1丁目―30のかつての藤牧義夫が消失した、正にその現場の私の眼前に、一台のリアカ―が立て掛けてあるのが目に映ったのであった。(注・画像掲載)

 

 

 

 

……幸田露伴から転じて、ここから永井荷風の登場となる。……私はふと、藤牧義夫がこの世から突然その姿を消失した昭和10年9月2日の夕刻に(駒村吉重氏の小説はその時、気象は雨)、では永井荷風は、どうしていたのかがふと気になり、彼の日記『断腸亭日乗』にその日付を追った。……あった。……荷風は著す。「昭和10(1935)年九月初二。雨降りては止む。『すみだ川』改刻本の序を草す。晩間雨の晴れ間を窺ひ銀座に行き竹葉亭に食し、茶店きゆぅぺるに小憩してかへる。」と。……そうか、正にその時、荷風は銀座にいたのか!。なかなかリアルである。……しかし、ご存知のように日記に全てが書かれているわけではない。樋口一葉は行間にもう一つの、いわゆる裏日誌の秘めた記述があり、荷風はその余白に(後の世に知られたくない)秘めた行動がある。……名作『墨東綺譚』には次のような、気になる文がある。「……柳橋の妓にして、向島小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。」……小梅!……正に私がいるその現場がそれである。荷風の記述はさらに続いて、その女が荷風に会いたいという、女から届いた手紙(……少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何とぞ御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待ち申上候。一日も早く起越しのほど、……)が彼の人生に於ける正直な開示として記してある。『墨東綺譚』が書き始られたのは昭和11年9月21日からなので、実際の物語りはそれ以前、つまり、藤牧義夫がこの世から突然姿を消失した昭和10年9月2日の頃と重なってくる。……ならば『断腸亭日乗』のその日の書かれなかった部分に、荷風が銀座を出ようとして、降りだして来た雨の湿りの内に恋情が湧き上がり、女(仮にその名をお元としよう)の待つ本所小梅に円タクで向かったとしたら……という連想を、あったかもしれない可能性の内にここに書いてみよう。「……銀座より円タクを拾いて、枕橋にて下りる。雨、その降りを少し増し北十間川の流れ早し。余お元の待つ本所小梅へと向かう。ふと視る、小梅の方より重いリアカ―を引きし男の在るを。この雨の内に何を何処へ運ばんや。男、余の横を俯きて過ぐ。その気配、覆われた荷の歪な様、いかにも奇妙なり。そは何者ぞ。余は興味ありを以て幅をとりその後を少し尾う。男、暗き隅田の川岸へと消える。余お元の待つ小梅へと向かう。雨、夜半にいりても遂にその止む事を知らず。」……紡いだ荷風の幻はそこで消え、私は向島1丁目30の場から北十間川に沿って枕橋に至り、見番通りを渡って隅田公園に入った。その先はもう隅田川である。……すると、公園の中に一枚のプレ―トが立っているのが目に入った。近づいて見ると昔日の写真とその説明が書いてあった。……それを見て私は唖然とした。そのプレ―トの写真は、私が荷風に成り替わって書いた『断腸亭日乗異聞』のままに、リアカ―を引いて正に隅田川へと向かう一人の男の後ろ姿の写真が、そこに写っていたのである。しかも写真の年代の説明文を読むと〈昭和10年頃に撮影〉と記されていた。正に藤牧義夫が突然この世から消失した、その当時の写真なのであった。……写真に撮された電信柱に書かれた(花柳病専門病院)の白い文字が、時代を物語っている。

……④の完結編へと続く。

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男②』

……画廊主であり、小説家、美術エッセイストでもあった州之内徹(1913―1987)という人に強い関心を懐いたのは、私が最も霊妙な作品と高く評価している松本竣介の『ニコライ堂』を、この人も評価し、一時コレクションしていたという事を知ってからであった。だから、骨董市で州之内氏を特集している『芸術新潮』を見つけて買い求め、彼の人生とその意味深い足跡を読んだ時に、彼が最期に執念とも云える情熱を持って追っていたのが、版画家・藤牧義夫の24才での突然の失踪と、その失踪の鍵を唯一人握っている版画家・小野忠重にまつわる、いわゆる美術界最大のミステリ―と云われる事件であるのを知った時、おぉ、州之内氏も追っていたのか!!……という驚きがあった。そして、彼が或る言葉を残しているのを知った時、私はこの謎の失踪事件に対してのあらためての追求の意欲が湧いて来たのであった。州之内徹氏が語るその言葉を、ミステリ―作家駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』から引用しよう。 「……なごやかに語らいながらも州之内は、かつての宣撫官の肩書を彷彿とさせる、ふてきな言葉をふともらす。〈嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ〉と。小野証言を指していた。」……これは、このノンフィクションミステリ―小説に於ける最も凄みあるドスの効いた場面で、事実、恐るべき眼識を持った州之内氏の睨んだとおりの方向へと真相は不気味なまでに傾いていく。そして州之内氏は連載『気まぐれ美術館』の、まさしく急死する直前の最後の文章を暗示的に次のように締め括っている。〈失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説 (注.小野忠重の説)もあるが、私は信じたくない〉と。

 

 

 

 

……………………版画家・藤牧義夫の名を知る人は、美術界の中でも、或いは少ないかもしれない。近代版画史の中に燦然と輝く一枚だけ存在する版画『赤陽』(東京国立近代美術館蔵)と数点の木版画、そして『隅田川両岸画巻』と題する、総延長60メ―トルの長さの全四巻から成る隅田川両岸を、墨一色、筆一本で正確無比に描き終えた後、僅か24才の若さで、昭和10年・9月2日の雨降る夜に忽然とその消息を絶ってしまったからである。遺作『赤陽』の深い抒情性、光に対しての澄明なる清んだ感性、そして版の可能性を極めん為の果敢にして実験的な精神。もし生きていれば近代版画史に新たな美の水脈を間違いなく切り開いたであろう、その優れた才能は惜しまれて余りあるものがある。……9月2日の夕刻、浅草神吉町の藤牧の下宿を出て、向島にある姉の太田みさをの家に行き、今一人の姉の中村ていが住む浅草小島町に向かう途中、向島小梅にあった小野忠重の家に立ち寄ったところで、藤牧義夫は永遠にその姿を消してしまう。(……けっきょくみさをは、雨音を耳にとめながら、湿った暗がりに溶けてゆく、弟の背を見おくることになる。みさをが、弟・藤牧義夫の姿を見たのはこれが最後となった。……)『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』より。……一方の小野忠重であるが、小野は創作版画という新しい動き、運動に於ける、理想に燃えながらもいまだ作家とはいえないアマチュア集団に於けるリ―ダ―的な存在であった。隅田川の左岸、本所小梅の小野の自宅に版画を志す青年達が集まってくる。小野より2才年下の藤牧義夫もそこに時おり姿を見せていたという。その若者達は突出した才能を見せる藤牧義夫の作品に興味や羨望を示すが、藤牧はその誰とも距離を置き、独自な表現を模索する日々が続く。……そして若冠23才にして作り上げた完成度の高い名作『赤陽』の後に、長大な画巻による線描の独自な展開を見せ始めた直後の突然の謎めいた失踪となり、以後、藤牧義夫の名前は版画史の表舞台から消えていく。藤牧が失踪した後、小野は版画家・近代の版画史に詳しい研究家として重宝され、俗にいうところの版画界の大御所的な存在となっていき、国から勲章ももらい、順風満帆な歩みを見せることとなる。……しかし、その順風が急に凪ぎとなり、また冷たい風となり、そこに、慧眼な複数の人物達が懐き始めた疑念、徹底的な推理分析、更には矛盾点を徹底的に突いた緻密な研究書が出るに及んで、小野が記して来た版画史の記述の、いま改めての見直しへと時代は少しずつ軌道を修正しつつある。……今、私のアトリエには、芸術新潮の記事『版画家Xの過剰なる献身』、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』、更には、日本の美術館が未だこの国に紹介する遥か前に、作品集を見て、直観でその才能を見抜き、日本での最初の個展、ドイツの現代美術家のヨ―ゼフ・ボイスの展覧会を開いた、画廊「かんらん舎」の画廊主・大谷芳久氏が記した、徹底して積み上げた小野忠重の矛盾点(その膨大な数)と、あろう事か、藤牧義夫の失踪後、少しずつ小野が藤牧義夫の作品として出して来た明かに稚拙な贋作を藤牧義夫の真作と比較分析し、(10年以上の年月を要して)書き上げた研究書『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院刊行)、そして州之内徹氏の名著『気まぐれ美術館』の著作……他がある。合わせると膨大な量であり、そこには全て人物達の名前が実名で書かれている。このメッセ―ジの私の記述は、それらの文献の総体に導かれたものである。……私はその全ての文献を読み、一つの結論へと推理が終わりつつあるのであるが、それを確かめるべく、藤牧義夫が消えた地点、すなわち小野忠重の家がかつて在ったというその場所(本所小梅1―7)へと向かったのであった。……州之内徹氏の二つの言葉、「嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ」という言葉と、「失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない」という言葉が、幻聴のように私の耳に響いてくる。……私は浅草駅から出て、先ずは言問橋を渡り、最初に目指す、すみだ郷土文化資料館へと歩を進めた。隅田川河畔の公園に「小梅」という名前は残っているが、肝心の「本所小梅」という地名は今は無い。地名番地が変わった後の今の現場を、先ずは調べるのである。……その日は快晴ながらも、隅田川河畔には時おり冷たい風がふく、不思議に生ぬるく、不思議に荒れた妙な日であった。

…………③・完結編へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男①』

正月に数年ぶりに引いた御神籤は大吉であった。……その勢いもあってか、オブジェの制作の速度が凄まじく早い。まるで何かに取り憑かれたように一心に集中して制作が進んでいる。暗い室内から数多の鳥が飛び立つように、イメ―ジが次々に浮かんで止まらないのである。しかし、その間にも時折の外出があり、気分転換と充電になっている。今回のブログの入り口は、先ずはそこから。

 

 

1月17日

長年改装中だったブリヂストン美術館が名称を変更して「ア―ティゾン美術館」になり新装オ―プンしたという招待状が届いたので、その内覧会に行く。私の好きな青木繁や佐伯祐三、松本俊介……そして、海外ではピカソやルオ―など多数の秀作をコレクションしているこの美術館は、未だ美大の学生だった時に懐かしい思い出がある。……第11回現代日本美術展に応募した私の版画三点(「午後」「Friday」「Man.Walking」)が全てブリヂストン美術館賞を受賞し、この館のコレクションに入ったのである。審査委員長の土方定一氏が即決で私の作品を美術館賞に決め、「では、うちの美術館に!」と、その場に審査員でいた当時のブリヂストン美術館館長だった嘉門安雄氏が名乗り出て収蔵に決まったという審査の経緯を、後に、この美術館の館長室で嘉門さん自身から伺った。(想えば、その場に美術評論家の河北倫明氏が同席していて静かに私達の話を聴いていたのをふと思い出す。この時の私の服装はと云えば、確かボロボロのアロハシャツにモジャモジャの長髪、そして高下駄であった。学生だったから致し方がないが、絶望的に貧乏だったのである。)……そして、その時の展覧会を観た美術評論家の中原祐介氏が私の作品を気に入り、氏が作家選定のコミッショナ―をしていた第10回東京国際版画ビエンナ―レ展(会場・東京国立近代美術館)の日本側の招待作家に選出され、海外からの審査員も交えた審査会で国際大賞の賞候補へとなっていく、その契機となったのが、この美術館なのである。ちなみに、館長の嘉門安雄氏とはその後に、文化庁の在外研修員として留学試験に応募した際に、その最終選考の席に審査委員長として再び顔を会わせる事になる。(その横に同じく審査員として、詩人の岡田隆彦氏が同席していたのを、ふと思い出す。)

 

 

新装なった館内の展示作品をざっと観て、美術館が用意した軽食を食べていると、突然「北川さん……でしょうか?」と声をかけて来た人がいた。NHKの番組制作会社のT氏であった。話をしていると、T氏が早稲田大学の学生時に坂崎乙郎氏のゼミにいて影響を受けた事を話し出したので、私も話に熱が入った。坂崎氏は私も縁あって学生時にお会いした事があり、私の初期の版画を高く評価して頂いた懐かしくも貴重な思い出がある。……「坂崎さん、あの人は実にいいですね!私は大学や講演で話す時は必ず坂崎さんの名前を出し、美術評論を読むなら、先ずは三島由紀夫、それから澁澤龍彦坂崎乙郎、更には種村季弘瀧口修造……などを必ず読むように!と言っています。坂崎さんの評論では特に『エゴン・シ―レ(二重の自画像)』が良いですね。あの著書は翻訳して海外でも読まれるべきかなり質の高い本ですよ!」と。………………しかし、今日の内覧会はさすがに株主招待者が多いらしく、美術の関係者(特に作家)が実に少ない。友人の美学の谷川渥氏や美術評論家の中村隆夫氏がいないかと見るが、どうやら今日はお休みのようである。帰りに、美術評論家の高階秀爾氏と蕪村の話を少しして館を出る。

 

 

 

 

1月18日

荻窪のカラス・アパラタスでの勅使川原三郎氏・佐東利穂子さんによるバッハへの『音楽の捧げもの』と題する公演を観る。常に新境地を開いて歩む、その果敢な実験の精神が、この天才をしてまた深く、かつ純度の高い表現世界を開示した。公演が終わるや、満席で埋まった会場内に感動の拍手が鳴り止まない。……この人に於いては、メソッドの芯の中さえも官能性に充ちた危ういバイブレ―ションが揺れ続いている。……帰り際に私は勅使川原氏に、ジャン・ジュネの名前を出し、併せて短い感想を少し話した。またいずれ、じっくりと話をする事にして帰途につく。……次回の公演は早くも2月3日から11日まで、新作の『オフィ―リア』が始まる。常に実験、そして完成度の高い表現世界の切り開きが、このカラス・アパラタスの地下の舞台で繰り広げられているのであるが、それは実に驚異的な事なのである。

 

 

1月20日

骨董市でふと見つけた『芸術新潮』(1994年の11月号)の「州之内徹・絵のある一生」の特集号が目にとまったので購入した。開いて見ると、州之内氏が愛し、私も好きな隅田川の写真が何枚か載っていた。……小林秀雄が「当代一の評論」と称賛した、型破りな美術評論家・州之内徹。また先述した土方定一氏や白州正子さんもその眼識を高く評価した州之内徹。その彼が記した、長年にわたって書いた名著『気まぐれ美術館』の最後に、彼が追っていたのが、この国の美術界最大のミステリ―と云われる、版画家・藤牧義夫の突然の失踪の謎と、その鍵を握るもう一人の版画家・小野忠重の事であったのを知った時、私の中に新たなる推理の熱い火が俄然灯ったのであった。そして、直ぐにその事件の事を詳細に記したノンフィクション小説『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(駒村吉重著・講談社刊行)を読み、私なりの推理と分析が始まった。そして、その本の中には低奏音のように逆巻いて流れる隅田川の濁流が在るのであった。本の中に登場する実際の人物(事件の鍵を握る小野までも含めて)の多くと私は実際に面識があるだけに、この本はいっそうのリアルな不気味さがあった。そして、私はかつて話しを交わした、ドイツ文学者にして鋭い慧眼の人、種村季弘氏との会話を思い出したのであった。

 

……1990年の7月のある日、私は半年間暮らしていたパリを出てイギリスへと向かった。夏というには余りにも暗いド―バ―海峡を渡り、揺れの激しい三等列車でロンドンに入った時は激しい雨であった。そして、テムズ河の陸橋を渡る時に、私は眼下を、豪雨で激しく逆巻く眼下を見た。テムズ河の濁流を見た時に、私は1888年の晩秋にジョン・ドルイットという名の青年が、このテムズ河で自殺を遂げ、その水死体が濁流の中で見つかった、という話を思い出していた。……ジョン・ドルイット、……澁澤龍彦がその著書の中で、彼こそが切り裂きジャックの真犯人であると断定した、その男なのであった。本を読んだ時に、澁澤氏はなぜ犯人を断定しえたのか、その根拠を知りたくなり、直ぐに私は鎌倉に住む澁澤龍彦夫人の龍子さんに電話をした。……龍子さんの答えは「自分が結婚する前の著書なので、澁澤のその根拠まではさすがにわからない」という話であった。……とまれ、眼下に見るテムズ河は、正にミステリ―の舞台に相応しく、その時の私の脳裏に隅田川と重なるものが、何故かふと浮かんだのであった。

 

「…………と、いうわけなのですよ。私には、そのテムズ河と隅田川が何故か重なって仕方がないのです。この点、如何でしょうか?」と目の前の人物に語った。……目の前にいる人物、種村季弘氏は、先ほどから腕を組み、じっと私の話を聞いている。そして、その眼をゆっくり開けると、次のように語った。「……確かに言われてみると、テムズ河と隅田川は妙に似ているなぁ。……つまりあれだな、犯人が片方の街で深夜に殺人を犯した後で河畔に立ち、飛び込んで何とか泳ぎ渡れる、川幅が似た妙に暗い不穏さが、確かにこの二つの川は孕んでいるなぁ。」……種村氏は、そう語り、私達の話題は永井荷風と隅田川の関係の方へと移っていったのであった。種村氏もまた浅草を愛し、深夜まで浅草の六区で酒を飲み、暗い隅田川に想いを重ねる人であったので、こういう話を聞いてもらう相手として、これ以上に手応えのある人は、もういない。……さて、次回は『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男』の②を連載で記す予定。話は不気味さの渦中へと展開。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『顔、そして眼……楢崎龍(おりょう)の場合』

……電車に乗っていると、ほとんどの人はスマホに没頭しているが、私は座席の前に並んで座っている人達の顔に関心がいって仕方がない。顔という小さな面積(キャンバス)の中に、先祖代々の様々な人達の遺伝子や物語が凝縮して、今、目の前の人達の「顔」として宿命のように現れている。そう想うと、「人は皆、遠い先祖たちの過去までも背負って生きている」と映って、想像力が湧いて来て仕方がないのである。……昔、コナン・ドイルが『名探偵シャ―ロック・ホ―ムズ』の執筆を着想した際にモデルにした人物がいるが、その人は医者でありながら、趣味は、人の顔相や着ている服装、そして靴の痛み具合や磨り減り方を見て、観察している相手の職業や家庭環境……等を推理する事であったという。そして、このホ―ムズのモデルとなった医者の分析はことごとく当たっていたという。私はこの逸話を聞いて、暫くそれに没頭した事があるが、とにかく、そういうわけで私は他人の顔に関心がいって仕方がないのである。……そして、その顔が他の何に似ているかと考え、痒い所に手が届いた達成感のようにピタリと当てはまらないと、自分でもまだまだイメ―ジを連結させる修行が足りないと、反省する事しきりなのである。人に似ている物が、別な人とは限らない。例えば、正面から見た新幹線であったり、海藻が絡み付いた地引き網であったりと、その対象はあまねく広範囲なのである。……そういうわけで、顔と云えば、インパクトに於いて他の追随を許さない人物、つまり前回に続いてカルロス・ゴ―ンがここに登場する事になる。……この男、「レバノンにいま必要なのは先ずは教育現場の豊かな拡張だと思う。だから僭越かも知れないが、私は私財を叩いて学校を建てる事に協力を惜しまない。この国に尽くしたい。……」とでも云えば、レバノンでもいだかれている拝金主義の亡者のイメ―ジから、流れは少しは変わるかも知れないが、作業員に変装して失笑をかった辺りから、やることすべてに焼きが回ったようで、つまりは精彩がなく窮していくばかりである。とまれ、日産・ルノ―、そして造反、……そんな事は全く関心はなく、私は年明けから、このあまりに特徴的な顔をしたゴ―ンが他の「何」に似ているかという事に取りつかれ、その事ばかり考えていた。……タブレットで検索すると「Mr.ビ―ン」に似ているという意見が圧倒的に多い。たぶん、みんなの関心もゴ―ンの顔にあるのであろう。……しかし、Mrビ―ンの売りは、小心、屈折、無口、僻みであって、ひたすらな強気、頑固、巧みな饒舌、背景を大きく見せる剛腕で生きて来たゴ―ンとは真逆で、言われる程には似ていない。……私は更に考えて漸く、痒い所に手が届く物に到達した。それが、……何と、……「達磨(だるま)落とし」である。太い眉、不機嫌に相手を睨み付ける強い眼力、逆Vの字の固く閉じた口。…………さてさて、皆さんにはどのように映ったであろうか!?

 

 

 

 

話は変わって、話題は顔から眼に移る。……昨年の夏に千葉を襲った猛雨の時に、本来ならば災害本部を立てて陣頭指揮をすべき筈の県知事の森田健作が、あろう事か一番大事な時に公用車を私的に使い自宅へ向かった!というW失態で糾弾されたのは記憶に新しいかと思う。しかし、その直後の会見がいささか不味かった。……私だったら早々と頭を丸め、修行僧の袈裟姿に服装を変えて会見の場に臨み、横に「どんなに注意して歩いても、目先の石にだってつまずく事はある。だって、人間だもの。 相田みつお」と、黒々と墨書きした大きな色紙を掲げて(もちろん、相田みつおに、そんな言葉は無いと思うが……)、先ず最初に深々と頭を下げ、「この失態を猛省し、知事である以前に、先ずは一人の人間として精神の修行を積み重ね、これをバネにしてこの国の県知事史上、最高に優れた知事と言われるように己をひたすら磨き、千葉県の人々の為に粉骨砕身しますので、皆さんも、この未熟者を叱咤すると共に、何卒寛大な眼差しを持って見守って頂きたいのであります!」と先手で話し、「……何もそこまでやらなくとも……」と、矛先をはぐらかせば良いものを、詭弁を弄して逃げ切ろうとする反発の姿勢を見せたから、2か3で済むのを、8か9に飛び火させて、世論の過剰反応な情緒が一斉に噛みついたのであった。……その公用車の私的使用に関しても、舛添都知事の時もあったし、極論すればかなりの数の政治家、知事、その他諸々がまぁ日常的にやっていることは想像に難くないのである。…………テレビで、その森田健作が汗を拭きながら弁明する姿を見ていて私が思ったのは、ちょっと世間の人の憤りとは違ったものかと思う。「……しかしこの森田健作、ずいぶん眼が小さく、細くなったなぁ……」という驚きであった。ためしにタブレットで昔の俳優をやっていた頃の森田健作を見ると、果たして、人はかくも眼が小さくなるのかと、ため息が出る程の今の変わり様である。私は思った。〈人は例外なく歳を取ると、眼が小さくなってしまう〉と。森田健作以外に身近の周りを思い出しても、そこに例外は無い。……かく言う私も、20代の頃は30m先から北川さんの大きな眼、長い睫毛が気になって仕方がない……と方々に指摘され、瞳孔の綺麗な光が太陽に反射して眩しすぎる!……とつい昨日のように言われたのを今、思い出した。……そして、私は思ったのであった。「やはり間違いない!……あの女は、楢崎龍ではなく別人である!!」と。…………本名、楢崎(ならさき〉龍、通称、おりょう坂本龍馬の妻として知られる、あまりにも有名な女性である。

 

 

私のアトリエのある横浜・東横線の妙蓮寺駅から3つめの「反町駅」という駅で下車して暫く行くと、高台の上に「田中家」という幕末からの老舗料亭が今も在る。広重の東海道五十三次の「神奈川台之景」にも、その「田中家」は描かれている。1867年に京都の近江屋で坂本龍馬が暗殺された後、明治の世になり、龍馬の妻のおりょう(1841~1906)は、勝海舟の口利きで、この田中家で働いていた事があった。そこで撮した当時の写真が残っているが、その顔は、おりょう晩年の時に撮した顔と目鼻立ちにおいて似ており、何より眼が大きいのが特徴的であり、同一人物と見て間違いはない。……晩年のおりょうの眼は、なかなかいないくらいに眼が大きいのが特徴的なのである。……その2枚の写真と比べると、度々、龍馬関係の番組などで知られる、若き日のおりょう(と云われている)の写真の顔は、瓜実顔で眼が細い典型的な京美人の顔である。……若い頃に撮ったおりょうの顔が、晩年の顔と違いすぎるので、疑問視する声は以前からかなりあり、同写真を収蔵している高知県立坂本龍馬記念館が警視庁科学警察研究所に鑑定を依頼した事があった。顔の輪郭や目などの位置や形を分析した結果、目や口の形などに相違はあるが、同一人と示唆することが科学的に妥当な判断と、断定は控えながらも一応はゆるい結論が出た。……「目や口の形などに違いはあるが」という大事な箇所を、警視庁科学警察研究所は何らこだわりなく素通りしているが、私が引っ掛かるのは、若い頃より晩年の方の眼が、写真では大きいという不自然な事実である。これが、若い頃に眼が大きく、晩年になって小さくなっていたのなら、「目や口の形などに違いはあるが(つまり、すぼんだ)」は難なく納得するが、そこの大事な所を鑑定者は飛ばしてしまったのではないかと、気にかかる。……また、その若き日に撮られたおりょうと同一人物が芸者として写っている写真も別に存在していて、誰もが納得するような結論はまだ藪の中である。……私は『「モナリザ」・ミステリ―』という著書を以前に書いたので、読まれてご存知の方もお在りかと思うが、そこまでやるのか!と言われるくらいに、問題点が浮かんだら物証的な裏付けを求めて、例えば、京大の発達心理学の教授に会いに行って、私の視点に対し、その分野のプロが見て整合性はあるのか……というふうに客観性を交えた複眼で徹底的に詰めて書く人間であるが、それ故に、この警視庁科学警察研究所の鑑定結果報告に、消化不良の得心の無さをどうしても覚えてしまうのである。……まぁ、良しとして事なかれの妥協点をこの国は平気で出して、人々も曖昧の内に了解してしまう流れが国民性としてあるが、これが西洋だと、その曖昧さは許されない。……数年前の話になるが、ダリの娘だと称する女が現れた時に、フィゲラスのダリ美術館の地下に埋葬されているダリの死骸を掘り出して、血液鑑定、遺伝子鑑定を徹底精査して、その女の虚偽を立証した例などは記憶に新しい。……とまれ、人は例外なく歳を取ると眼が小さくなる。……ここに書いたおりょうのように、小さく細かった眼が重力や目蓋の重みに反して、不自然なまでに晩年になってありありと開いた……というのは絶対に有り得ないが、余談を記せば、若い頃から眼が大きく、晩年になっても、その眼の大きさを保った……というのは、考えてみると、女優の京マチ子(1924~2019)くらいであろう。未だ新人の内に文豪・谷崎潤一郎にその才能を絶賛され、谷崎の予言通りに、国際映画祭を次々に制し、グランプリ女優と呼ばれた伝説の女優の、それは内に秘めた矜持の成せる業なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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『年の始めに……永井荷風と陽水』

新年明けましておめでとうございます。今年初のメッセ―ジをお送りします。…………12月後半は不覚にもA型のインフルエンザを患い、熱が下がったと思ったら次は悪性の風邪。医者からはひたすら安静に、と言われていたので寝床での読書三昧の日々が続いた。……読んでいたのは芥川龍之介『支那游記』、谷崎潤一郎『上海交遊記』、そして永井荷風『断腸亭日乗』……他である。以前のブログでも書いたが、私は自分が関心を持つと、何故か少し遅れてメディアがそれを話題にする事が度々あるが、年末のテレビで、読んでいたその芥川の『支那游記』を原作とした『ストレンジャ―~上海の芥川龍之介』の放送があった時は、あまりにタイムリ―すぎて面白かった。1920年代の魔都・上海をリアルに映像化した画像が出てきて、まるで私の為にこの番組を組んでくれたかのように愉しめたのである。……そして年が明けた2020年。除夜の鐘のゴ~ンという音の響きがまだ記憶に残っている時に、生き物の方のゴ―ンが狭いトランクの中に潜んで、日本を脱出した。シュミレ―ションを何回も重ねた後の脱出劇だというが、もし仮に検査係が「カミソリ」のような切れ者で、トランクに疑問を抱いて脱出直前で開いていたならば、……と、その姿を想像すると笑いが止まらない。一か八かの博打のようで、この事件、江戸時代の大奥の女が、惚れた歌舞伎役者に逢いにいく為に、籠に潜んで抜け出た江戸城からの脱出劇と発想は同じで、今も昔と変わらない。

 

 

 

 

……さて、正月の2日、先ずはアトリエの片付け、清掃からと思って作業を進めていると、卒然と神経に直に伝わってくる生々しい感覚を覚えた。自分でも意外だったのであるが、創作の衝動が急に立ち上がって来たのである。(この空間にそれらはいつからかおり、私に捕まるのを息を潜めて待っているかのようである。)……作る!というよりも何物かの強い力によって導かれ、引っ張られるように、次々に構想が浮かび、一気に様々な短編小説を綴るように作業台の上に10点近い生なオブジェ(勿論、最終的な完成形は後日になる)が、夕方、暗くなる頃には一堂に並んだのである。……それらを視ると、また新たな展開が来訪したかのように、かつて無かった世界が、そこに拡がっている。二年前に求龍堂から刊行された作品集『危うさの角度』で自作を振り返り確認出来た事であるが、制作に於ける攻める方法論が、より「客体」である事を志向するかのように、年々ありありと変わって来ているのである。……今、私の眼前にある10点近い新たな形は、彼方からやって来たように有機的な気配を未だ帯びており、私はその「名付けえぬ物」たちの生誕に立ち会う最初の観者のように、それらの新作を眺め観ているのである。

 

 

……『クレーの日記』や『ドラクロアの日記』は、美術の分野における画家の正直にして貴重な内面の記録であるが、文学の分野における日記の有り様は、各々の作家の複雑な資質を映して、正直あり、自白あり、隠し事あり……となかなかに一様では掴めない(という手強さがある)。三島由紀夫、山田風太郎、石川啄木、樋口一葉、正岡子規、武田百合子……等々。しかし、群を抜いた面白さという点では、やはり永井荷風の『断腸亭日乗』に指を折るかと思われる。世相の移りと荷風自身の内面との距離感が面白く、そこに時代特有な抒情やエロティシズムが絡んで、夕暮れの切ない陰影を孕んでいて面白い。……その『断腸亭日乗』を年末から年明けにわたって読んだのであるが、実は30年ぶりの再読になる。12月の鹿児島での個展の合間に訪れた文学館に再現されている向田邦子さんの書斎の蔵書の中に『断腸亭日乗』があるのを見つけ、「やはりツボを押さえているな」と思い、鹿児島の古書店で見つけて久しぶりに読み始めたのである。……再読してもやはり面白い。「秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に往き晩餐をなし、堀割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。……」といった抒情や男女の風情ある交わりがあるかと思えば、転じて、「去年大晦日の『毎夕新聞』に市ヶ谷富久町刑務所構内にて明治三十年来死刑に処せられし罪囚の姓名出でたり。左に抄録す。明治三十年より昭和十年まで四十年間に御仕置になりしもの六百余人なりといふ。 野口男三郎(詩人野口寧斎女婿臀肉斬取り犯人)・幸徳秋水(約九字抹消)・石井藤吉(大森砂風呂お孝殺し)・大米竜雲(鎌倉辺尼寺の尼を多く強姦せし悪僧)・ピス健(強盗)…………」と、物騒ながら何故か気を引く記述が続く。かと思えば、「十一月五日。百合子来る。風月堂にて晩餐をなし、有楽座に立寄り相携へて家に帰らむとする時を街上号外売の奔走するを見る。道路の談話を聞くに、原首相東京駅にて刺客のために害せられしといふ。余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるるものは不用意なり。百合子と炉辺にキュイラッソオ一盞を傾けて寝に就く。」……といった、政治、世相に対岸の火事のごとき無関心の距離をとって、個人主義に徹し、それよりも身近にいる女性の存在の方に関心の揺れる重きを置く。…………と、この辺りで、そう云えば、この記述に似た冷めた眼差しの距離があったな……と思い、辿っていくと、井上陽水の初期の代表曲『傘がない』に行き着いた。「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞の片隅に書いていた/だけども問題は今日の雨 傘がない/行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ……」。……これが出た1972年当時は、若者の自殺が増え、川端康成のガス自殺があったりと不穏な世相であったが、その世相への冷めた視線と、個人に重きを置く切り口が斬新ということで、この曲は時代を映す名曲となったが、辿っていくと永井荷風にその先を見るわけであるが、井上陽水が荷風のこの日記を読んで閃いたのか、はたまた時代は廻る……といった時世粧の事に過ぎないのかは、勿論知るよしもない事である。とまれ、この永井荷風の『断腸亭日乗』、ご興味のある方にはぜひお薦めしたい、不思議な引力のある、読み応えありの書物です。

 

 

 

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「さらば2019年」

鹿児島の個展から戻ると何かと忙しい日々が待っていた。……しかし充電は必要と思い、今月の14日は三島由紀夫の代表作『サド侯爵夫人』(演出・鈴木忠志)を観に吉祥寺シアタ―を訪れた。この観劇に誘って頂いたのは日本語教育研究所の理事をされている春原憲一郎さんである。春原さんと初めてお会いしてから、もう何年が経つであろうか。……はじめは確か森岡書店での私の個展か、伴田良輔氏(作家・写真家)との二人展の時だったかと思うが、初めてお会いして直ぐに私は春原さんに対して、「旧知の懐かしい人にようやく出逢えた!」というなんとも熱い不思議な印象を抱き、以来その感覚は変わらずに、豊かなお付き合いは今も続いている。その春原さんは、演出家の鈴木忠志氏の作品をまだ20代の頃から観続けておられ、満を持しての今回の三島由紀夫『サド侯爵夫人』にお誘い頂いたのである。……三島由紀夫の才能の真骨頂は戯曲に尽きるのはもはや自明であるが、その中でも頂点を極めた『サド侯爵夫人』の台詞が持つ「言外の言」の心理描写とその鋭さは圧巻であり、あらためて、戯曲は目で読むものではなく、目と耳(聴覚)で生々しく体感するものである事を実感する。

 

 

 

 

……私たち表現者と、その作品というものが持つ宿命、すなわち淘汰について考えていた。すると私的な感想かもしれないが、私には20世紀の前半を牽引したピカソにもはやかつてのような鮮度や驚きを覚える事はなく、マチス、ダリ、エルンスト……、あのデュシャンさえも、時の経過と共にその澱に包まれ始めているような、そういう印象をふと抱いたのであった。まぁ、言い換えればそれが古典に入っていくという意味なのかもしれないが、否、しかし、という閃きが跳ねるように立って来た。いつまでもその作品群が褪せないばかりか、逆に今日に対して、鮮やかな深いポエジ―を放射している画家が一人だけいる事に気づいたのである。……それがポ―ル・クレーなのであった。クレーの作品は何回観ても、また画集を開いても、そこには初見の驚きと眼の至福感、そして懐かしい既視感があり、そしてそこには、他の画家には比べようもない馥郁たるポエジ―が私達をして、記憶の原初へと誘っていくのである。その秘密に迫るべく彼が遺した書簡集『クレーの手紙』を読んでいると、ある日、公演の開催を告げる1通の案内状がアトリエに届いた。両国シアタ―X公演 勅使川原三郎『忘れっぽい天使 ポ―ル・クレーの手』である。クレーが最晩年に到達した主題は「天使」であったが、その時、クレーの手は筋肉が硬直化して自由な線が描けないという状態にあった。またそこに追い打ちをかけるナチスの迫害。しかしクレーはそれを才能と意志の力を持って凌駕し、「線」というものが持ちうる最高な表現の高みへと飛翔し、奇跡的な達成をなし得たのであった。……勅使川原氏は、クレーの線が持つ生命力に背反をも含む二言論的なベクトルの妙を覚え、自らのダンスメソッドをそこに重ね見たものと思われる。私はさっそく勅使川原氏が主宰しているKARASの橋本さんに連絡して、指定の予約日を早々と入れていた。……それが三島由紀夫『サド侯爵夫人』を観た翌日、15日の公演の最終日であった。会場のシアタ―Xはかつての吉良邸の在った場所、しかもその日は吉良邸襲撃の悲願達成の翌日。会場内に入ると客席は満員、しかも熱心な若い世代の男女が目立つ。私の席は嬉しくも最前列のど真ん中である。……私は拝見していて、クレーの晩年に入り込んだというよりは、クレーを自らの方へ、勅使川原氏は逆に引き込んでいるな、という印象を強く持った。そこに勅使川原氏とクレ―との妙味ある合一を、重ね見た想いがしたのであった。…………美術史の近代の中で例を見れば、ゴヤは聴覚を失う事で、あの暗黒の「妄」が地獄の釜が開くように開示し、マチスは晩年に手の自由がきかなくなってから「切り絵」による更なる開眼を果たし、そしてクレーにも、あの平明にして、その実は悪魔的な両義性を孕んだ、逡巡と強い意志の力が瞬間で揉み合い、一気に迷路の中を疾走していく、あの独自な線への到達がある。…………。さてもアクシデントは時として、不思議としか言い様のない恩寵をもたらすのであろうか。

 

 

 

 

「亡妻よ聴け観世音寺の除夜の鐘」「時計みな合わせて除夜の鐘を待つ」「近づいてはるかなりけり除夜の鐘」………… ちなみに「除夜の鐘」を詠んだ俳句をタブレットで調べてみたら、予想を越えて数千以上の句が出て来て驚いた。いにしえより、この除夜の鐘を聴きながら、今年逝った近しき人を偲び、遠い昔日の両親や先祖を想い、来る年に切なくも小さな夢を託して来たのであろう。……とまれ、風の流れによる鐘の響きの違いで、私達の心情も揺れながら、生の哀しみや尊さをしみじみと除夜の鐘のあの響きは教えてくれるのである。……中国の宋の時代を起源とし、鎌倉時代の禅寺から始まったという、この深淵な除夜の鐘に対して、昨今俄に〈騒音〉と言い始めた近隣の住人が寺を相手に、除夜の鐘を止めるように裁判を起こし、裁判所は「防音装置を付けるように」と判決を下したものの、費用をどちらが負担するかということで、問題は白紙に戻っているという。馬鹿馬鹿しい限りである。また、実質は僅かな数に過ぎない「除夜の鐘を止めろ!」という連中の抗議をマスコミがまた馬鹿馬鹿しくも取り上げるから世間は拡がっていく社会現象のように錯覚し、つまらない広がりを見せている。……私に言わせれば、この裁判長はかなり頭が悪いと思えて仕方がない。防音装置などという馬鹿な出費を労さずとも、100円ショップで売っている「耳栓」を、その神経過敏な、風情、情緒、伝統の奥深さを解せない連中に渡し、そんなに耐えられないならば(しかし、何ゆえ今、突然言い出したのか!?)、鐘が鳴り終わるまでの、たった二時間くらい耳栓を突っ込んで布団を被って寝ていろ!!と判決を下す方が具体的に理にかなっていよう。……私は以前にスペインのバルセロナに留学した際に、恐らく深夜も騒音が凄いだろうと読んで、日本から「耳栓」を持って行ったのであるが、この読みがピタリと当たり、バルセロナの、日本人だけを留まらせるホテルで、私だけが安眠快適に毎晩過ごし、他の泊まり客から羨ましがられたのを今、懐かしく思い出している。……その、「除夜の鐘を廃止しろ!」と訴えた連中とピタリと重なる俳句があるので、ここに書こう。

 

「おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘」 山口青邨

 

 

……ことほど左様に、昨今の日本は、自我の確立が未熟なままに「個人情報」云々という張りぼてがヨロヨロと横行した辺りから、妙にギスギスした窮屈な国へと更に劣化の道をひた走っているように思われる。……今年の9月に列島を襲った猛烈な台風(もはやハリケ―ン)が残した爪痕の深さが癒えぬまま、おそらく来年は更なる凄みを増した台風や、或いはいよいよの地震が、この国を容赦なく砕き始める、そんな事態が待ち受けているように思われる。この事は実は誰もが感じている事ではあるが、そのような時に始まるオリンピックは、もはや幕末の「ええじゃないか」と同じ不気味な狂態の再来である。……ともあれ、かく言う私の言葉が杞憂に終わる事を今は乞い願うのみである。大晦日の夜は私が住んでいる横浜は、除夜の鐘と共に横浜港に停泊中の船が年越しの前後に一斉に汽笛を鳴らして誠に情緒深いものがあり、年越しのそれは、またとない楽しみなのである。…………1年間のご愛読に感謝しつつ、今年のメッセ―ジはひとまず今回で終わります。……年明けの2020年1月に、またお会いしましょう。どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

 

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『桜島を見ながら考えた事』

個展で滞在中の鹿児島のホテルで、夜中にテレビを観ていたら、オリンピックというものに対する欧米人の生な意見が紹介されていて、なるほど!と思った。……彼等の意見の主たるものは「自分の知らない人間が自分より高く跳んでも、早く走っても、それについての関心はほとんど無い。それがどうした!?」というのである。個人の自覚が成熟している故のこの醒めた意見、ちなみに私も全く同感である。海外のオリンピック関連報道で熱く流されるのは、実は番組成立の為に一部の人間を誇張し構成して流しているにすぎず、その実質は冷やかに醒めているのが実態であり、オリンピックよりも、むしろ普段のサッカーや野球の方がまだ熱いらしい。……大河ドラマの『いだてん』が全く人気がなく、悲惨な低視聴率に陥っているのをみると、昔の東京オリンピック時と違い、この国の民もオリンピックなるものの裏の実態が浸透して見えて来て、「スポ―ツ」という名の裏側に貼り付く、ごく一部の企業や人間に利権が集中していくという金まみれの汚れ具合に辟易として来ているのかと思われる。……先だっての台風の被害に遭われた長野、福島……の未だ絶望的な状況にある人達、また地震の被災の爪痕が未だに残っている人達への復興支援金に、オリンピックや桜うんぬんの結局は膨大な湯水と変してしまう膨大な予算を使う方が、税金がまだいくらかは活かされるというものである。

 

 

 

 

……さて、鹿児島のレトロフトMuseoでの個展であるが、1週間の滞在中、画廊には、まるで会社の面接試験のように次々と人が来られて、かなり忙しい日々であった。私の名前は知っていても、遠方ゆえに作品を実際に観るのは初めてという方がけっこうおられて、2回目(3年ぶり)の今回の個展、実現して本当に良かったと思う。画廊の永井さんご夫妻も会場におられる事が多く、ご夫妻を通じて私はこの短い期間に、個性的な、いろいろな方と知り合う事が出来た。その中でも印象深いのは、編集者のH氏である。氏は、文芸誌『新潮』にかつて掲載された私の『停止する永遠の正午―カダケス』という、ダリ・ピカソ・デュシャンに纏わる、謎の多いカダケスという土地を主題にした美術紀行文を読んでいらい私に興味があったらしく、私の個展が地元の鹿児島で開催されるというのを知って楽しみに来られた由。さすがにH氏は編集者である。実に博識であり、私もまた話をしていて面白く、三時間ばかりを氏との尽きない話題の展開に終始した。……沢尻エリカがスペイン滞在時にカダケスにいたとやらで、カダケスの名を久しぶりにテレビで聴いたが、H氏にぜひそのカダケスに行かれる事をお薦めして私達は別れた。……また調香師のYさんという方が来られたので、私は、その香を炊いて嗅ぐと、死者が現れるという『反魂香』を実は長年探していると言うと、Yさんの眼が一瞬鋭く光った。「お主、反魂香の事を知っているのか!!」という、まるで京の朱雀門辺りで陰陽師同士が出逢ったような印象を私は持った。Yさんの言に拠ると『反魂香』は確かに実在するし、調合の秘伝の割合も知っているが、反魂香だけは、絶対に手を出してはいけない、云わば禁忌の香であるという。……私はますます興味が湧いて来たのであった。会いたい死者が現れるという、その『反魂香』。もし樋口一葉が現れるならば、私はぜひ、この禁忌なる香を入手したいものである。

 

……画廊のレトロフトは11時に開くので、その前の時間をみて、鹿児島市美術館に行き、念願だった香月泰男の名作『桜島』を観た。香月は実に絵が上手い。上手いという字より、巧いの方がむしろ合っていようか。(画像を掲載したのでご覧頂きたい)。……桜島を描いた画家は多いが、わけても黒田清輝の『噴火する桜島』のリアルな描写は秀逸であるが、香月泰男の『桜島』は、モダニズムの視点から見てもその上を行っていると私は思う。桜島に、今一つの象徴性が加わって、絵は観照としての深みを帯びて観る人に迫ってくるのである。「油彩画で画かれた水墨画」という形容をこの絵に賛した人がいるが、まぁ当たっているかと思う。画面下段、右側の桜島の煙の描写は嫌らしいまでに巧みであり、表現としての「殺し文句」を帯びてなおも深い。……また、画面左下の黒の描写と、描かない余白の釣り合いが絶妙で、私は他に観客のいない午前の部屋で、香月の画面と対峙しながら、その余白の幾つかの位置に指を重ねて、描いている時の香月の心境を重ね視た。それから画面上部の実に美しいマチエ―ルに、例えばゴヤの、砂に埋もれる犬を描いた名作『犬』の上部空間の実に密度の深いマチエ―ルを重ね視た。……ダリやルドンなどの西洋の作品も観ながら、およそ一時間ばかりを美術館で過ごし、隣接して在る「かごしま文学館」で開催中の向田邦子展を観た。以前のブログでも書いたが、或る深夜に、演出家で作家の盟友・久世光彦さんと向田さんは、この世に在る様々な死に方の名前をつらつらと思い浮かべて挙げるという言葉遊びにふけっていた。……最後に久世さんが向田さんに、「では君の望む死に方は何か!?」と問うと、向田さんはすかさず「爆死!!」と即答した。果たしてその通りに、数年後、直木賞受賞後の絶頂期に、台湾上空で、飛行機は原因不明の爆発を起こし、向田さんは7000m上空で一瞬で散った。……恐ろしくも、実に見事な予言である。……個展が終了した翌日、飛行機は夕方の便なので、朝早くにホテルからタクシ―に乗り、西南の役で西郷隆盛が入っていたという城山に現存する洞窟を見に行き、政府軍の総攻撃が始まった時にその洞窟を出て、更に下り、腹部に被弾した現場、西郷自刃の現場を経て、更に歩き、西郷隆盛ほか、薩摩軍の兵士達が眠る南洲墓地、そして、西南の役の資料が展示されている記念館を訪れた。……館長としばらくお話をして、疑問に思っている幾つかの歴史的な闇の不明点を尋ね、知りたかった疑問は氷解したのであった。……かくして8日間に渡る鹿児島の滞在は終わり、永井さんご夫妻をはじめ、様々な方とお会いした思い出を胸に、私は機上の人となり一路、東京へと帰ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『鹿児島―素晴らしきレトロフト』

……前回のブログで忠臣蔵(赤穂事件)の大石内蔵助について書いたが、先日その勢いで泉岳寺駅近くに住む友人宅を訪ねた折りに、近くにある、赤穂浪士47人の墓がある泉岳寺を訪れた。門を入った先にある墓は、沢山の参拝者が捧げる線香でもうもうと煙っている。しかしそれにしても沢山の参拝者の数である。だが、彼らの多くは墓参りだけを済ませて帰るが、実は泉岳寺の出口近くにある横道を入り、歩く事およそ5分。高松宮邸に沿って入り、左手にある公園の脇を入ると、そこが「大石良雄他十六人忠烈の碑」すなわち、47士が討ち入り後に四家の大名屋敷に分けられて身柄預かりとなり、その内、大石内蔵助(良雄)達16人が預けられた細川藩邸跡がそこであり、また、その場所で大石達が切腹した現場跡なのである。……先日、私は初めてその場所まで行く事にしたが、おそらく行っても、コンクリ―トの上に石の台座があり、そこにかつての「切腹現場跡」を示すプレ―トが彫られているくらいに思っており、まぁついでくらいのつもりで足を運んだのであるが行ってみて驚いた。……公園(かつての細川藩邸跡)内の一画にある、大石内蔵助達が切腹した場所は、彼らの背後に小さな池があり、その前で次々と十六人が切腹したのであるが、鉄柵で仕切られた20畳ばかりのその現場は、水こそ枯れているが、池跡や幾つかの巨石がそのままにあり、そこに湿った葉が繁茂していて、まさに彼らが数日前に目前で切腹したかのような凄惨な余韻を漂わせながら、武士道の鑑として細川藩が大事に(藩の誉れとして)現場跡をそのままに遺して320年もの間、時を潜りねけてなおも、彼らが確かに存在していた!という事実を今に遺しているのであった。曇り空の下、そこだけが更に暗く、赤穂事件と、吉良邸討ち入り、そして本懐の後の切腹斬首があったという事実を生々しく伝えており、私はそこにしばし釘付けになってしまったのであった。……泉岳寺を訪れたならば、そこから僅か5分で行ける大石内蔵助達の切腹した現場にも、ぜひ足を運ばれる事をお薦めしたいのである。

 

 

5日の午前10時に羽田を発ち、12時に鹿児島空港に着く。……空港で出迎えて頂いた永井明弘さんと3年ぶりの再会を果たす。永井さんは、鹿児島の個展会場であるレトロフトMuseoを奥様の永井友美恵さんと共同で運営されているオ―ナ―である。空港から車で鹿児島市内へと向かう。……永井さんによると、桜島はここ最近、度々噴火を繰り返しており、窓ガラスがかなり激しく揺れるのだという。その桜島が錦江湾の彼方に雄大な姿を見せて出迎えてくれる。車はやがて市内へ入り、市の中心地に在るレトロフトに着いた。画廊オ―ナ―の永井友美恵さんと再会を果たし、そのまま展示作業に入った。……展示は二時間くらいで終わり、その後で新聞社の文化部の方が来られて取材があったが、その頃には、まだ個展が始まる前日だというのに、個展の情報を知った人達が早くも画廊に入って来られたのは嬉しい手応えである。会場内で作品の写真を撮ると、窓の向こうにまた別なレトロな建物が映って、気配は1930年代のあたかも魔都上海を想わせる。それが私の作品世界の虚構性とリンクして夢の中に入っていくようで実に嬉しい。……さて私は、久しぶりに念願であったこのレトロフト内の探検に入った。築50年以上が経つレトロフトという、バリのモンパルナス辺りの気配にも似た、このまさにレトロモダンな建物の中は、あたかもピラネ―ジの描いた「牢獄」や、エッシャ―の迷宮的な建物に似て、掴みにくい複雑な構造をした建物で、その中に古書店やカフェ、また自然食の店、また別なカフェが複雑に店舗を構えており、その2階にギャラリ―が在り、その上の階からは40室ばかりが在り、イギリスで学んだという皮製品のデザイナ―のスタジオや、何故か烏賊の絵ばかりを描く女流画家……といった一部屋ごとに様々な人達が住んでいる、……不思議な建物なのである。さっそく、私は古書店で永井荷風の『断腸亭日乗・上下』(磯田光一編と、イギリスで刊行されたブリュ―ゲルの美しい画集を購入した。

 

 

 

 

さて、今回のレトロフトでの個展のタイトルは、『〈盗まれた会話―エステ荘の七つの秘密〉』であるが、このタイトルにはいつもとは異なる秘めた想いが在る。……オ―ナ―の永井明弘さんはミラノで庭園の設計を学ばれていた時に、やはりミラノでテキスタイルの勉強をされていた永井友美恵さんと出逢われたのであるが、昔、縁があって永井さんご夫妻とお会いした時に、私はその出逢いの運命的な話に惹かれ、そこに私のイタリア旅行時の様々な体験を重ねた重層的なイメ―ジが閃き、その舞台をあの謎めいた『エステ荘』に設定して、3年前に鹿児島での個展を開催したのであるが、今回の個展はその更なる展開であり、また永井さんご夫妻に献じたオマ―ジュ展の意味も強くあるのである。現実と虚構がかなり意識的に組み込まれた個展というのは私には珍しいものがあるが、その着想の独自性は、やはり、私の表現世界と入れ子状に交差する、このレトロフトの魅惑的な構造がかなり影響しているように思われる。……今日は個展の初日であるが、早くも多くの方が次々と来られ、また私の作品を以前から気になりながら、なかなか実際に観る機会のなかった人達が来られて、じっくりと熱心に観られているのを実際に見るというのは、作者冥利につきるものがあり、直に自信と確信に繋がっていくものがある。

 

……個展は11日で終わり、今年の作品発表は終了である。その今年最後のレトロフトでの個展。様々な想いを胸に、私の鹿児島での滞在はしばらく続くのである。

 

 

北川健次展

〈盗まれた会話―エステ荘の七つの秘密〉

会期: 12月6日~11日

時間:11時~19時(会期中無休)

場所:レトロフトMuseo

TEL:099―223―5066

〒892―0821 鹿児島市名山町2―1 レトロフト千歳ビル2F

(会期中・作家在廊)

 

 

 

 

 

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『老婆に生々しさを覚えた夜』

……今から数年前の或る夜の事。私はアトリエの近くにある図書館で『豊田佐吉』の伝記本を読んでいた。20時を過ぎていたので人の姿もまばらであった。…………豊田佐吉の挫けない、豊田式木製人力織機開発へのめげない努力。この根性、私も学ばねば……と胸に誓ったその時、いつから私の背後の席にいたのか、まるでゴヤの黒い絵の『妄』のシリ―ズにでも出て来そうな3人の老婆達の会話が突然聞こえて来た。いずれもダミ声の、何かが喉の奧に詰まったような低い声である。「気候が年々おかしくなり、人間同士の関係も何だか殺伐だよ~」「昔が良かった、ホント昔が良かったよ!!」……と会話が続いたその後であった。「こうなったら、あれだね。いっそ早く逝った方が逃げ得かもよ~」と1人の老婆が喋ったのと同時に、別の2人の老婆が「確かにね~!」と強く賛同し、その直後に弾けたようなダミ声の高笑いとなり、それが図書館の床を伝い這って、私の足下から背中に廻り、一気に首筋に回って、ぞぞ~っとした生々しい寒気を覚えたのであった。私が驚いたのは、老婆というものに抱いていたイメ―ジが、その時に崩れたからであった。老いの為に、この世を視る眼ももっとぼんやりと霞んでおり、世時の事も何もかも関心が薄くなり、ひたすら昔の懐古の事にばかり行っているものと思っていたのが、さにあらず、当然と言えば当然なまでに、老婆達もまた「今」を生々しく直視していたのであった。「逃げ得かぁ、まぁ確かにそういう見方もあり得るな」。……その時から数年が更に経ち、老婆達が語っていた気象は更に狂いを呈し、もはや愛でる四季の風情も私達の前から消え去ってしまった。恐らく、その時の老婆達も、あれから願い通りに逝ってしまったかと思われる。……「逃げ得」、……私の頭の中にその言葉だけが今もしっかりと残っているのである。

 

 

 

 

……少し遅きに失した感があるが、最近、スマホの危険性が漸く指摘されるようになって来た。確かに、電車に乗るとほとんどの乗客が、まるで位牌を手に持つようにスマホに眼がくぎ付けである。そのスマホへの異常とも映る画一的な熱中の様は明らかに異常な姿であり、それは脳の病める依存症の不気味な映しであるが、次々に飛び込んでくる情報(その殆んどが実は全く知る価値の無い)に遅れまいと、若者達は総じて、自分に似た、ボンヤリとした幻想の友をそこに求めて、切実なまでに繋がっていたいのであろう。ONを押せば、便利で、すぐに現れる内実の虚しい幻を求めて。更にはゲ―ムに没頭し、肩や眉間を歪ませてカチカチと指先を突き刺すその様は明らかに歪んだ神経症のそれである。……しかし若者の世代はもはや処置無しであり、パチンコや喫煙の底無しの沼と同じく、また環境破壊による自然界の容赦なき猛威が呼び起こす終末感とリンクして、ますますパラレルに重症化していくのは必至であるが、問題は、情けなくも若者達と同じようにスマホに集中している、頭が白くなり加齢臭さえ漂っているオヤジ達である。その姿は情けなさの窮まりであるが、私はこのオヤジ達が繋がろうと必死に指を突っついている、その先が何であるのかを、……ふと想う。……若者達が追うのは、合わせ鏡の所詮は覇気なき自分のコピ―のような映しであるが、問題はオヤジ達の繋がろうとしている、その先である。彼等が繋がろうとしているその先は、……ひょっとして、………………あの世か!????

 

 

晩秋になると、薄墨色で刷られた「喪中につき……」の葉書が届くこの頃は、夕暮れに閉ざされた哀しみの季節である。今年もまた私の大切な友が逝き、肉親も逝った。しかし、彼の世とこの世は一本の地続きと考えている私は、住所録や携帯電話に在る、彼ら逝った人達の名前も電話番号も消さないでいる。ふと何かの間違いでかかって来るのではないか、或いは試しに電話をすると、何かの弾みで彼らと声が繋がるのではないか……そういう想いが私にはあるのである。……だからその内、私の携帯電話の記録は、生者の数を越えて、死者達の名前でいっぱいになるであろう。

 

 

死を目前に迎えた時、殆んどの人が恐怖や絶望感、或いは不条理感を覚えるのは致し方のない事かと思われる。そして死には、晩秋の風が落葉を吹き散らしていくような哀しみが付きまとう。……さて、では、死を目前に迎えて、そこに凛と飛び込んで哀しみの欠片もなく、堂々と逝った人物はいなかったかと、歴史の中に追ってみると何人かの名前が浮かんで来た。……その筆頭に先ず浮かんだのは、光秀の謀叛にあって本能寺で死んだ織田信長である。予期しなかった光秀の謀叛に遭い、天下統一を目前にしてさぞや無念……と想うのは凡人のひ弱な想像であり、この非凡にして、中世の扉を押し開いた稀人は、「是非も無し!!」の言葉を残して燃え盛る炎の中に鮮やかに消えた。この信長は、来世や輪廻など無く、生は一回限りであると断じ、無神論そのままに激烈に生きた男である。……そして今一人は、ご存じ大石内蔵助である。「あら楽(たのし)や/思いは果つる/身は捨つる/浮世の月に/かかる雲なし」……吉良の首を討って本懐を遂げ、真の目的である幕府に刃の切っ先を突き付けて判断の窮地に追い込んだ大石が詠んだ辞世の句は、後世への意地もあるかと思うが、その表に於いて実に清々しいものがある。……そして幕末から明治にかけて大業を果たした勝麟太郎。この鋭い慧眼の男が、死の床において語った人生最後の言葉をご存知であろうか?……驚くなかれ、「これで、おしまい!」がそれであり、最後まで人をくっていて面白い。勝は十代の若年時から向島の寺で禅の修行に入り、自分という存在に対する執着を脱け出し、来るべき死に対して超然とする腹が座っていた。……織田信長、大石内蔵助、そして勝麟太郎(海舟)。……この三人に共通するのは、自分が運命として与えられた、苛烈にして非凡な人生に於いて果たし得た達成感が、それであるかと思う。達成感、……人生の最期に於いて、その心境に入れる者はまさに稀人である。

 

 

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