『川田喜久治・勅使川原三郎―表現の深度に沿って』

個展が終わり、アトリエに静かな制作の時間が戻って来た。……語り得ぬ物、立ち上がらんとする何物かを捕らえんとする、イメ―ジの狩人のようなもう一人の私に変わる事の、緊張と静寂に充ちた至福の時間。…このアトリエでは満ち足りたものと、逃がすまいとする焦燥が混在化して、何とも不思議な時間が流れていく。……………その制作の合間を縫って、二日間続けて、以前から楽しみにしていた写真展と公演を観に出かけた。写真の川田喜久治作品展「影のなかの陰」と、勅使川原三郎ソロ公演「青い記録」である。

 

……川田喜久治さんから個展の度に頂くオ―プニングパ―ティ―のお知らせは、いつも決まって実に昂るものがある。私はよほど本物の表現に接する事に飢えているのであろうか、美術家の個展などには全く見向きもしない私であるが、こと川田さんの場合だけは、暦にその日時を書き込み、逸る気持ちを抑えるようにして、その日を待つのである。 ……今回の個展のタイトルは「影のなかの陰」。実に上手いタイトルで、やられた!!と思った。英語ではshadowの一語しかないが、日本語だと書き分けによって、更に〈かげ〉〈蔭〉〈カゲ〉〈翳〉という文字までも孕んで自著のテクストの中に使い分け、そこに複雑な表情を持った陰影のマチエ―ルが立ち上がる。短い言葉の中に、川田さんが抱く「闇の多彩な透層」というものへの様々な拘りと凝視的な視座が伝わって来て、「タイトルとは、こうでなくてはならない」という感をあらためて持った。この短いタイトルだけで、既にして自らの川田喜久治論が饒舌に内包されているのである。……東麻布にある会場の「PGI」の壁面には、新作の写真作品が、やや間を詰めながら、通過する魔群のような表情を帯びて数多く展示されていた。……昨年辺りから、川田喜久治さんはインスタグラムを始められた由であるが、気軽に発信可能という、その意識のフットワ―クの良さを掌中の武器として、また新たな表現世界を顕在化したように思われる。昨年の高島屋の個展に川田さんが来られた際に、私はその被写体として撮られ、それは数日後には川田さんのサイトにたちまちアップされた次第であるが、私もまた、虚構と現実とのあわいに潜む実体不明な住人の一人と化したのであった。……会場で、黒い仮面を付けた、なんとも強い黒の深度を帯びた女性の写真があり、気になったので川田さんに伺うと、その黒い仮面は、ゴヤの版画『ロス・カプリチョス』中に描かれている仮面を実際に作って、妖しいモデルに付けさせた由。……あぁ、確かにあの作品の中にこの仮面があった……と思いが至ると、そこまでゴヤに入り込んでおられたのか!という、その徹底に驚嘆する。私はかつて「……かくして時を経て、ゴヤの遺伝子は間違いなく川田喜久治のそれへと受け継がれた。」という主旨の文を書いた事があったが、その想いをまた新たにしたのであった。……さて川田喜久治さんの写真であるが、そのほとんどがニュ―ヨ―ク近代美術館やテ―ト・モダン……また国内外の主要な美術館に収蔵されているので、なかなかに入手困難であるが、私のアトリエには奇跡的に、その川田さんの代表作二点(ボマルツォの怪獣庭園の巨大な怪物の顔と、日蝕の闇夜を飛ぶ奇怪極まる怪しいヘリコプタ―を撮した写真作品)が、ルドンやホックニ―、ヴォルスなどと共に掛けてあり、我がアトリエの空間をいよいよ緊張の高みへと誘って私を鼓舞してくれるという、コレクションの中でも、極めて重要な作品であり、その黒のメチエは群を抜いて深く、私に様々な示唆を与えてくれるのである。……さて、この個展は7月5日(金曜)まで。お問い合わせは会場PGIまで。入場無料にて開催されているので、ご覧になられる事を強くお薦めする次第である。

 

……川田喜久治さんの個展を拝見した翌日の6月1日の夕刻、私は荻窪にいた。この荻窪にあるスタジオ「アパラタス」を拠点として、まさしくアップデイト(更新)するように、公演の度に新たな身体表現の未踏の極へと迫って留まる事を知らない、勅使川原三郎氏のアップデイトダンス公演(62作目)『青い記録』のソロ公演の、その日は最終日なのである。いつもながら会場は既にして満員。公演は2部構成(「光の裏側」と「白い嘘」)から成る。……川田喜久治さんの闇の透層への拘りは、写真という2次元であるが、このダンス公演では、川田さんとはまた異なる勅使川原氏の拘りを見せて、3次元の舞台空間に妖しくも劇的に開示されていく。……始まりは闇。……そして薄い光が射すや、舞台空間はあたかも、かつて視た銀閣寺の白砂の枯山水の夜の面のような清浄とした表情が点り、その立ち上がりと共に、影から実体へと勅使川原氏の姿が顕と化していく。……そして様々な光のマチエ―ルの移りと共に、身体による様々な変幻が、不思議な時間感覚の中で揺れ動く。そして、一条の過剰な、刃の切っ先にも似た〈或る意思〉を帯びたかのような鋭い光が、勅使川原氏の身体上部(丸い頭部、肩、腕の直線、……指先の先端まで遍く)を貫いていく。……次に一転して、会場を切り裂くように響く、細い板木が執拗に何度も倒れる音。(これもまた聴覚から強引に入り込んで観者を揺さぶる一つのダンスか!!)…………倒れるようにして倒れる事、或いは絶対に倒れないようにして倒れる事。そのしなやかな背反の身体的トレモロ。……2部に移ると、私達の身体が、僅かな最少の骨と筋肉があれば、そこはもはや感情がかしぎこわれ、或いは逆巻く場としての異形な、形なき皮袋である事実を危ういまでに突きつけてくる。もはやこの段では、勅使川原氏は自らの身体にマネキンのごとき客体〈オブジェ〉性を課し、積算された緊張は、対極の緩やかな官能性の襞までも見せてくる。……極限まで引きつった顔の筋肉の戦慄は一転して、ダ・ヴィンチの描いた聖アンナのごとき慈愛の相へと落下するようにして転じ、その極から極への変容を支える、中空に浮くかのような(静の中に動を内包した)アルカイックな美しき身体は、あくまでも勅使川原氏のものであるが、そこに本作の主題である「身体の記録性―記憶の曖昧なる虚ろ性」が絡んで、つまりは、圧巻的に美しい。本作は、記憶の曖昧なる虚ろさよりも、身体に刻まれた記録こそ、或いは確かなのではないか!?……という設問が核にあるが、私は、勅使川原氏が常に自問していると想われる、イメ―ジと偏角性までも孕んだ〈距離の問題〉も、本作に観て取ったのであった。……かつて私は拙作の作品―或る版画集に『ロ―マにおける僅か七ミリの受難』というタイトルを付けた事があったが、本作を観ながら、私は『僅か七ミリの距離を52分をかけて渡りきる試み』という設問を勅使川原氏に伝えたいという、妙な閃きに捕らわれたのであった。……凡庸な表現者であるならば、「そんなのはダンスの主題ではない」「ダンスを知らない者の戯言」と言って、ダンスの狭い概念に汲々として安逸な顔を見せるであろうが、もはやダンスの概念を越境している勅使川原氏ならば、この七ミリの僅かな距離が、遠大にして不到達な距離としてイメ―ジされ、そこに多層的な解釈が加わって艶までも呈するに違いないと私は思うのである。……敏感な人ならば、私のこの設問が、ジャコメッティのオブセッションに繋がっている事に気づかれたかもしれない。……とまれ、次の勅使川原氏の公演へと、もはや私の関心は跳んでいるのであるが、それは間近の今月17日から~25日にわたって早くも開催される事が用意されている。驚異的な速度である。……『マネキン・人形論』(ブル―ノシュルツ原作)。……その案内の葉書には「無限なき物質的生命の陶酔」と記されている。……こちらも、ぜひご覧になられる事をお薦めする次第である。……お問い合わせはKARAS APPARATUSまで。

 

 

川田喜久治『影の中の陰』

会場:PGI
東京都港区東麻布2―3―4 TKBビル3F
TEL:03―5114―7935
時間:11―19時(月~金)11~18時(土)
(日・祝日/休館)
*入場無料

 

 

勅使川原三郎『マネキン・人形論』
(ブル―ノシュルツ原作)

日時: 6月17 ,18,19,20,日/24,25日 20:00
6月22,23日  16:00〜
*受付開始:30分前、客席開場:10分前
料金:一般 予約 3,000円 当日3,500円
学生 2,000円 *予約・当日共

場所:東京都杉並区荻窪5―11―15
カラス・アパラタスB2ホ―ル
TEL03―6276―9136

 

 

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『次なる創造に向けて』

先日の25日、三週間に渡って開催された、銀座・画廊香月での個展が盛況のうちに終了した。画廊主の香月人美さんの知人、そして私の知人が数多く来られ、会場には常に来訪者が誰か必ずいるといった具合で、気を休められないものがあった。……今回の個展で特に良かったのは、遠方にいる私のコレクタ―で、まだ存じ上げなかった仙台や愛媛、そして長崎などにおられる方々に初めてお会い出来た事が嬉しい収穫の1つであった。……いずれの場所もまだ個展をしていない地域であるが、私のサイトや雑誌他の情報から、今回の個展開催を知り、遙々遠方からこの個展を目指して来られたのだという。そして、私の作品を前にして真剣に迷われながら、各々の方の感性に共振する作品を的確に選ばれて帰られて行った。……分けても仙台の方は、後日に名産の『牛タン』を香月さんと私の各々に送って来られ、特に記憶に残る人となった。仙台は、以前に宮城県立美術館で講演を行い、その翌年には講座でも喋ったという場所だけに懐かしい。……また、近々に盛岡で画廊を開設する予定だという初対面のS氏が来られ、即座に私の作品を買われた後で、画廊空間について幾つか問われたので、先ず第一に重要なのは照明の問題である事を伝え、幾つかのアドバイスを更にした。……この方はなかなかに飄々としたものがあり、しかも直感に光るものがあり、以後も何らかの形でご縁が特にあるように思われた。

 

……そのS氏が帰られた夕刻、珍しく来客が途絶えたと思って少し寛いでいると、一人の三十代後半の男性が静かに画廊に入って来られた。……その一瞬の気配で「この人物は……」と思わせる只者ではないものを私は感じた。その人は、画廊内に展示されているオブジェやコラ―ジュ、そして版画をじっくりと観ながら、新作のオブジェ二点と、版画『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』一点を買われた。画廊の香月さんがお茶を出して雑談になった。伺うと、この人は京都の古美術商で未だ修行中の身であるが、私の作品を含め、既にかなりのコレクションがあり、やかては画廊を京都の地に開設する事を考えているのだという。……古典から現代に渡ってかなりの知識があり、鋭い眼識と直感の持ち主と視た私は唐突に「宗達について書かれた幾つもの論考の中で、あなたは誰を第一に挙げますか!?」と問うと、はたして即座に受けて「宗達の中に、大和絵の髄とバロックの強度を同時に併せ視た三島由紀夫以外に、本質を突いた人はいないでしょう!」と返して来た。……本物である。その返しの見事な瞬発力は、「考えるは常住の事、席に及びて間髪を入れず」と語った芭蕉の即応の覚悟を思わせ、また具体的には、私の知る限り最も鋭い眼力の持ち主である、画廊「中長小西」のオ―ナ―である小西哲哉氏を想わせるものがあり、私は嬉しくなって来た。次代に続く若手の画商に人材が絶えて久しいが、まだまだ若いながらも雄伏している人材が確実にいる、その事を知り、私は無性に嬉しくなったのであった。なおも伺うと、昨年のこの時期に福島のCCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催された私の個展に、京都から遙々二回も観に行かれたのだという。そして、昨年に刊行した私の作品集『危うさの角度』をはじめ、パリで刊行した画集、美術館の私の図録なども全て持っているとの事で、私は大いに手応えを覚えたのであった。…………まだまだ私の存じ上げていない、私の作品を推す人達がこの国にはたくさんいる。今回の個展は、その事を具体的に知る出会いに恵まれた、そういう個展なのであった。……さぁ、今年前半の個展はこれで終了した。明日からは、凝縮していた新作への創造欲を爆発させる日々が待っているのである。

 

 

 

 

 

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『個展最終日、近づく』

まだ5月下旬だというのに、気温は30度に早くも達する暑い日が続き、もはや7月の気温になって来た。この異常事は史上初の事であるという。この後に梅雨が訪れ長雨のトンネルがしばらく続いたその先には、昨年の猛暑を超える、更なる炎暑、熱波の夏がメラメラと待ち構えていて、日常の中に〈メメント・モリ(死を想え)〉が蔓延するに違いない。……今回の個展は、そう考えてみると、ギリギリでベストな時期に開催されたように思われる。……今年の12月に3年ぶりに個展を開催する予定の、鹿児島のギャラリ―・レトロフトのオ―ナ―の永井友美恵さんをはじめ、北海道、仙台、愛媛他、遠方からも実に多くの方が遙々と私の個展を観に来られ、本当に有り難いと思っている。この場をお借りして感謝を申し上げる次第である。……さて、残る2日間、最期に如何なる方々の不意の訪れが待っているのか興味津々の個展である。……個展が終われば、10月から始まる日本橋高島屋・美術画廊Xの個展が待っている。今の個展が終われば、すぐに制作に没頭の日々が私を待ち受けている。その集中の日々を想うと、今からぞくぞくとする感覚が立ち上がって来るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『個展開催中―奥野ビルの謎が解けた!!』

前回のメッセ―ジでお知らせした通り、今月の25日まで、銀座1丁目9―8の奥野ビル6階の画廊香月で個展『立体犯罪学―密室の中の十七の劇場』が開催中である(注..日・水は休み)。会場の奥野ビルは昭和7年から存在しているというから、まもなく築90年になろうとしている。このビルの存在を初めて知ったのは、『日曜美術館』での、ドイツ文学者・種村季弘さんの特集の時であった。……番組の冒頭で、カメラが、このビル内の石の階段を這うように低く、ミステリアスなアングルで映し出されていく。すると、突然、階段の途中で唐突に立て掛けられた、額に入った版画が画面に映し出され、それを幕開けとして、三島由紀夫が最も高く評価していた知の巨人―種村季弘ワ―ルドの世界が一気に開かれていくという流れであったが、観ていた私は驚いた。……何故なら、その版画は拙作の『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』であり、種村さんの愛蔵のコレクションだったのである。後日、種村さんにお会いした時に伺ったら、番組出だしのそのアイデアは種村さん自身が考案された由(ちなみに、この作品はカフカの翻訳でも知られる池内紀さんも書斎に愛蔵されている、80年代の代表作である)。……まぁ、それはともかくとして、その番組で、このタイムスリップしたような、帝都の面影を色濃く遺す奥野ビルの存在を知ったのであったが、後日に縁あって、美術家の池田龍雄さんからお話があり、そこで個展を開催する事になるとは、これもまた面白いご縁か。

 

……さて、この奥野ビルであるが、戦時中に何度も銀座は空襲爆撃に遭いながら、何故か、この奥野ビルだけが戦禍を免れ無傷のままに焼け残り今に残ったのだという話であるが、私にはその話に引っ掛かるものがあり、何故に空襲を免れたか……という事にずっと秘かな疑問を抱いていた。しかし、その疑問が解ける日が、今回の個展でやって来た。…………先日、デザイナ―で、私の作品の熱心なコレクタ―でもある久留一郎氏が画廊に来られた。久しぶりの再会なので話題がいろいろと飛び、やがて話がこのビルの話になった時、久留氏の口から、このビルの長い歴史の中であまり知られていない或る時代の事が明かされた。……彼の話に拠ると、このビルは戦時中には、築地の聖路加病院の看護婦たちが住む女子寮であったのだという。……かつては詩人の西条八十も棲んだというが、戦時中にそういう事があったとは意外であった。……その話を聴きながら私には、戦前のある秘話が浮かび上がって来たのであった。

 

……1934年(昭和9年)に、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック達、アメリカ野球のMLB選抜チームが日本を訪れ、沢村栄治らを擁する日本の野球チームとの親善試合が数回、場所を変えて行われた。そのアメリカチームの選手の中にモー・バーグという名前の捕手がいた(かなり格が落ちる二流の選手)。バーグは数試合に出ただけで突然、姿を消し行方がわからなくなったが、それを気にする者は誰もいなかった。……試合が行われている頃に、築地にある聖路加病院の最上階の見晴らしの良い屋上に一人の背の高い男が手にカメラを持ちながら立っていた。……モー・バーグである。彼は野球選手でありながら、今一つの顔は〈スパイ〉であった。バーグは、浅草寺、隅田川、富士山、筑波山……などの要所を基点に入れながら360度、一望に見渡せる広角の連続撮影でパノラマ写真を撮りながら、後に日米間の戦争を見据えての精確な撮影を秘かに行っていたのである。つまり、東京を始めとする、実に緻密な情報が、戦前からアメリカは入手していたのであるから、向こうが遥かに上手である。……私は今も築地の聖路加病院の近くを通ると、その秘話を思い出して、病院の最階上に眼を遣るのであるが、その秘話と絡め合わせると、銀座の奥野ビル近辺への爆撃を意図的に止めていた事が浮かび上がって来るのであった。聖路加の病院名は、新約聖書の福音書『ルカによる福音書』を書いたと云われる聖ルカに由来し、その建物は古くからキリスト教と密接な関わりがあるので、その病院で働く看護婦たちが住む、当時女子寮であったビルだけが戦禍を免れた事は想像に難くない……とも見えてくるのである。……ともあれ、様々な人達のドラマがあり、長い時間の澱が秘めやかに刻印されている、この奥野ビルで開催されている今回の個展『立体犯罪学―密室の中の十七の劇場』は、いかにもこの建物とリンクして、相応しいタイトルではないだろうかと思っている。……その個展が始まって、会期の三分の一が過ぎたが、まだまだ25日まで個展の日は続く。……そして遠方も含めて数多くの方々が観に来られて、様々な出会いの日々にもなっている。毎日が実に充実した日々がまだ暫く続き、その後は、10月からの日本橋高島屋の個展の為の、今度は一転してアトリエでの静かなる制作の日々へと移っていくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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〈個展『立体犯罪学―密室の中の十七の劇場』今月7日より東京にて開催さる!!〉

前回のノ―トルダム大聖堂炎上に関して書いたメッセ―ジには、多くの方から様々な反響を頂いた。いろいろなご意見があって面白く拝読したが、異質なものとして面白かったのは、美大の後輩で、細密な天使像を描く佐藤弘之君のご意見「聖堂が炎上している時に、あのノ―トルダムのせむし男は、果たして無事に逃げ延びられたのでしょうか!?」という着想は、特に私の気を引き〈しまった、そこまで考えなかった!〉と反省をしたのであった。ウンベルト・エ―コの名を出さずとも、美には醜が憑き物のように付いているので、この佐藤君の閃きには〈負けた!〉と脱帽したのであった。……そう、確かにあの炎上の最中に、ノ―トルダム聖堂の、あの黒ずんだ巨大な鐘を鳴らす男が必死で逃げ惑う様を想像するのは、絵になる光景ではあるだろう。……マクロンは、聖堂を僅か5年で直して見せると発言した。……5年、この早さに何の意味があるのか。何を急ぐのか!?……神無き現代に、聖堂が精神的支柱としての存在への崇高な希求などは、もはやそこにはなく、あえて意味を見るならば、観光資源としての必要からの早急さしか、私には見えないのであるが、はたして皆さんのご意見は如何であろうか。

 

 

 

 

……さて、今回のメッセ―ジで書きますと前回予告したのは、ある意味でノ―トルダム聖堂の炎上以上に大変な事態が、実はル―ヴル美術館で起きており、それを書けば誰もが唖然とする事なのであるが、その惨状を示す画像の拡大したものが、未だ私宛に届いていないので、画像が届き次第書くことにして、……今回は、予告を変えて、今月7日から25日まで、銀座の奥野ビル6Fにある画廊香月で開催される個展『立体犯罪学―密室の中の十七の劇場』についてのお知らせを書こう。美術家の大先輩である池田龍雄さんから、銀座の画廊香月でぜひ個展を!!と直接の依頼を頂いてから、もう何年になるであろうか。……早いものであり、いつしか毎年、春の個展として定着するようになってしまった。画廊のオ―ナ―の香月人美さんは、かつてラジオのパ―ソナリティや、舞踏家の大野一雄に私淑してその弟子になったりと、その経歴は多彩であり、また未だ謎であり、ために普段私などが知り合う機会のない方面の方々が画廊に来られるので、私自身もまた一興にして一驚の妙があり、期間中は出来るだけ画廊に行くようにしている。また作品への様々な感想も伺えるので、表現者として発展的な日々が、これから約3週間続くのである。……長い連休が続き、郵便の配達が作動しなかった為に、場所によっては、今回は個展のご案内が届かない場合もある可能性があるので、以下に詳しい画廊の住所を記しておこうと思う。……更なる新作の展開をご覧頂きたく、皆さまのご来場を楽しみにお待ちしています。

 

 

『画廊香月』

会期:  5月7日(火)―25日(土)

時間:13時~18時30分まで (休廊:日曜・水曜)

場所:東京都中央区銀座1丁目9―8 奥野ビル6F TEL&FAX 03―5579―9617

(昭和初期に建てられたレトロな建造物で一見の価値あり。今ではロ―マなどでしか見られない、開きの手動エレベ―タで6Fのボタンを押してから、階上へと上がっていく仕組みで、これもまた面白い体験です)

 

 

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『巴里炎上』

……あれは、3年くらい前の9月頃であったか、ベルギ―とパリに撮影に行った時の話。まだイスラム過激派組織(IS)が盛んにテロ活動をしていた時、私と写真家のM氏はバスに乗っていて「ISがパリのメイン観光地を狙うとしたら、次は何処を標的にすると思うか!?」という物騒な話をしていた。そして私は言った。「自分がISだとしたら、狙うのはル―ヴル美術館かノ―トルダム寺である」と。……最も打撃が大きいのは、この二つであると考えたのである。……その翌日、私はセ―ヌ沿いの古書店「Shakespeare and Company」の脇の道を撮影の為に歩いていると、パトカーが何台も停まっていて不穏な気配。……後日知ったのだが、私が危ない発言をしていた正に同じ頃、以前にISのテロリスト達が射殺されたのを恨んだ女性たち四人組が、正に私の予言通り、ノ―トルダム寺院に、ガスボンベを積んだ車ごと激突しようという杜撰なテロ計画が進んでおり、私が古書店の脇を通る数刻前に、計画を察知したパリ市警によって、その通り近くで決行直前に逮捕されたのであった。(この未遂事件は後日、NHKでも特番で報道されたので、ご覧になった方も多いかと思う。)……ともあれ、その時、ノ―トルダム寺院は危うく難を逃れたのであった。

 

 

しかし、歴史的にも象徴的な意味でも最もパリの心臓部と云える、そのノ―トルダム寺院が、原因未だ不明の火災によって炎上し、建物の中心上層部がことごとく灰塵に帰した。その炎上する様は中継で報道され、世界中が驚愕し、悲しんだ。……私がその炎上する様を観て、すぐ脳裡に重ね合わせたのは昭和25年に起き、三島由紀夫が題材とした『金閣寺炎上』を撮影した記録映画の場面であった。観念の美と現実の美が相乗して燃え盛る様は、悪魔的なまでに美の顕現化した姿であり、私達の原初的な感覚を揺さぶって、ある意味エロティックでさえもある。私はノ―トルダム寺院が巨大な黒のシルエットとなり、その後ろで加虐的なまでに燃え盛る業火の様を見て、今、この瞬間に、暗夜のノ―トルダムに一目散に走った俊敏な映像作家が必ずやいるに違いないと想った!……1ヶ所に定点観測のようにビデオカメラを設置して、この瞬間に、美の結晶的刻印を絡め取らんと冷静に凝視している俊敏な人物が、悲嘆にくれる民衆の群れ中に紛れ込んで、間違いなくいるに違いないと想った。もしいたとしたら、その人物は私の稀有な美的同胞であるに違いない!!……サイレントで流されるノ―トルダムの崩れいく映像の姿は、もはや神の代わりにAI なるものを絶対神として仰ぎはじめている、愚かな現代の歯止めなき傾向に対して、我々にとって真に貴重な物は何だったのか!?を突きつけながら、過去の時間の知の殿へと去り行く告別の姿としてもそれは映ったのであった。……そして美とは毒を孕んだ強度にして麻痺的なものであるという意味でも、ノ―トルダムの燃えいく姿は、多くの示唆を含んだものとして私には映ったのであった。……しかし、世の多くの人々は、この度のノ―トルダム寺院炎上を、人類史的な意味や世界遺産的な意味も含めて大いなる損失と叫んでいるが、実は、その意味で今回のノ―トルダム寺院炎上よりももっと大変な、取り返しのつかない事が、それ以前に、このパリで現実に起きてしまっているという事に全く気付いていないのである。……それについて、次回、強い憤りと共に私は書きたいと思っている。

 

 

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『春の雪』

昨日、北関東地方を中心に大雨が降り、やがて雪となって、散り始めた桜の花びらの上に白く積もった。……いわゆる「春の雪」である。三島由紀夫の絶筆『豊饒の海』4部作の第1部のタイトルはまさしくその『春の雪』。輪廻転生・唯心論などを絡めたこの長編小説の序としては「春の雪」というイメ―ジは暗示的でたいそう美しいが、しかし、昨日、現実に降った春の雪は、気象の狂いを如実に示し、今夏の更なる気温の上昇を暗示してたいそう不気味極まるものがある。日々定まらない気象の変動で、私達の内面の疲労はそうとう疲れきっているに違いない。

 

さて、元号が「令和」というのに決まった。旧きを辿れば、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と幕末には激しく入れ替わり、明治、大正、昭和、平成……と続き、この度の「令和」であるが、明治辺りから元号の響きが緩んで来たのに対し、この度の「令和」は、また聖武天皇の天平時代に戻ったような、今と馴染まない復古調となり、意味を砕けば、人々の間の最も大事な和を冷やすようで、いささか冷たく素っ気ない。……元号というのは例えるならば、夏休みが終わった9月の新学期の教室に突然現れた転校生のようなものに似て、ある日突然の感がある。最初は馴染まなかったであろう昭和や平成……。しかし、事情があって次の転校生と入れ替わりで遠くに去っていくのを知るや、たちまち感傷的になり、去っていく同窓生に「本当は、お前の中に俺の思い出がたっぷり入っているんだよ!」と、取って付けたような寂しさひとしおとなるのであるが、この度の「令和」は、かなりひんやりとしていて、あまり向こうからも打ち解けて来ないように思われる。担任は「まぁ、みんな、うまく付き合ってやってくれよ」と云うのであろうが、「令」の語感の冷たさには、それにしても他に無かったのかと、万葉集に詳しい、その学者さん達の、マニアックな知識は結構だが、肝心な言霊の受容センスの無さには、いささかの「おむずがり」も出ようというものである。

 

 

 

 

 

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『桜の下の芥川龍之介』

昭和二年、すなわち芥川龍之介が自殺する年に谷崎潤一郎と交わした「小説の筋」をめぐっての論争は、近代文芸史を代表する一つとしてあまりにも有名である。……芥川は、技巧を凝らさない筋のない小説こそ良いとするのに対し、谷崎が主張したのは、作為や技巧に富んだ小説こそ是とするものである。この各々の主張は、つまりは美意識の相違を通して彼らの資質(芥川の本質は短篇―詩的散文にあり、谷崎はそれに対して緻密で肉厚な構造体を要する長編にある)にまで及んでいるのであるが、この論争はいま読み返してもなかなかに面白い。……しかし、この二人、論争はしたが普段はいたって仲が良く、才は才を知るの言葉を映すように、よく連れ立って出かけてもいる。しかし、仲の良さは死後までも続き、二人の墓が向かい合って在る事を知る人は、あんがい少ないかと思われる。……墓の在る場所は染井墓地に隣して建つ慈眼寺。時は折しも満開の桜が咲く快晴の日。「思い立ったが吉日」は、自由業の云わば特権のようなもの。さっそく出掛けてみる事にした。場所は豊島区駒込、下車する駅は〈巣鴨駅〉である。

 

……巣鴨駅を出て、とげぬき地蔵のある巣鴨地蔵通り商店街に向かう道があるが、そこに入らず通りを右に横断して細い道を進んで行くと、突然右側に、いかにも怪しく謎めいた昭和初期に造られたと覚しき帝都の面影を残す古びた洋館が現れてくる。―その名を『ヴィラ・グルネワルト』。……いかにも怪しい訳ありのようなネ―ミング。火曜サスペンス劇場の舞台としては最適なこの洋館には、私の旧知の友が二人、各々に住んでいて久しい。フランス語翻訳の達人で、西脇順三郎論などの論考も著している中村鐵太郎君と、歴程賞などを受賞している詩人の阿部日奈子女史である。舘の玄関の扉を押すと、重く鍵が掛かっていて開かない。……事前連絡無し、思い立っての突然の訪問であったが、建物の前で携帯電話をかけても、何故か二人とも繋がらない。……ひょっとしてもしやと思い、半開きに開いている窓に向かってオ~イと各々の名前を読んでも返事がない。というよりも建物の住人全員が神隠しにあったような無人の気配、……先を急ぐ旅ゆえ、やはり○○なってしまったのかも知れないとここは急ぎ結論付けて、次のお目当て地の「芥川チョコレ―ト」という、昭和30年代に在った紡績工場のような懐かしい工場へと向かうが、かつて記憶しているその場所に工場の姿が無い。……信号待ちしている自転車に乗った初老の人に訊ねると、最近、巣鴨駅近くに移転したという。聴きなれない「芥川チョコレ―ト」という、この味のある名前。ちなみに芥川龍之介とは無関係らしいが、帝国ホテル専門にチョコレ―トを作って納めているらしい。以前に来た時はチョコレ―トの甘い香りが漂っていたものである。……さて、先ずは染井墓地である。折しもソメイヨシノが満開のこの広大な墓地。……岡倉天心、高村光雲・高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、土方久元(龍馬、中岡慎太郎と共に薩長同盟の仲介に尽力)……等の著名な人達が眠る墓地をゆるりと抜けて慈眼寺へ。境内にある墓地の奥まった場所に、今日の目的である芥川龍之介、そして谷崎潤一郎の墓が向かい合って在る。この二人の墓を目指して来たと思われる何人かの参拝者の姿があった。……芥川龍之介の墓は独立して在り、横の墓に妻の文、ご子息の也寸志、比呂志……の墓碑銘が彫られている。向かいに在る谷崎潤一郎の墓は、やはり独立して潤一郎の墓が在り、その周囲に親族の墓が在る。但し、谷崎潤一郎の墓は分骨であり、もう1つの墓は京都・法然院(やはり桜の名所)に在る。暫し二人の墓を観ながら、生と死の境の無さに想いが至る。…………晴天のこの日、まだ時間があるので、巣鴨の商店街を抜けて、「庚申塚駅」から都電荒川線に乗り、終点「三ノ輪駅」へと向かった。……途中の「飛鳥山駅」を通過した辺りで、車窓から一瞬、チラッと見えた電信柱に「尾久」という地名を記した白いペンキ文字が目に映り、私の脳裡にピンと来るものがあった。……〈荒川区尾久〉……間違いない、ここは、かの阿部定事件(昭和11年)が起きた待合い「満佐喜」が在った場所である。……以前のメッセ―ジでも書いたが、私は以前に、立教大学女子大生殺人事件の犯人、大場教授の別荘裏の事件現場(……警視庁の捜査が始まった同日に)行き、また昭和13年に起きた、津山30人殺しの現場が在った岡山県、美作加茂の現場にも行ったが、不覚にも阿部定事件のこの現場は未だ来ていない。……かつて私は、非公開となっている東京大学医学部解剖学標本室を訪れ、私の事を妙に気にいってくれている教授と話をしている際に、成り行きでたまたま阿部定事件の渦中の逸物(つまり、被害者・石田吉蔵の切り取られた○○)の現物の標本を見たことがあり、ぜひいつか現場へ!……と思っていたのだが、作品制作や個展、はたまた撮影の旅に追われて機会を作れなかったのであるが、う~む、またしても先方(場の強い磁力)から喚ばれているようにも想われる。今日、偶然目に入った電信柱の文字は、私にはそう想われる。…………さて、電車は終点の三ノ輪駅へと着き、私は明治の中期を駆け抜けた天才―樋口一葉の遺品が展示されている記念館へと歩を進めた。……ここ半年近く、私はこの天才女流作家、―かの森鴎外をして(真の詩人)とまで言わしめた樋口一葉の作品世界とその人物に入り込んでいる。……この人物が持つ計り難い多面的な謎と、その純度の高い詩心については、また近々にこのメッセ―ジで書く事を期して、今回の「桜の下の芥川龍之介」を終える事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『産婦人科に行った日の事』

……季節は啓蟄となり、春の芽が息吹きはじめた或る日、多摩美大で喋っている友人のTから連絡があり、「たまにはもの語りなどしよう」との誘いがあったので、気分転換のつもりでアトリエを出て、世田谷の上野毛にある大学を久しぶりに訪れた。……上野毛駅を出て、かつて私も通った多摩美大への道は、まるで時が止まったように昔日の姿を留めていて懐かしい。20才の頃の、よれよれの服と生意気な面。そして金が無いので伸ばし放題の髪をした自分とすれ違うようで妙に懐かしい。……大学の門を入ると、記憶のままに右側の下り傾斜にある、うす暗い駐車場へと至る。信じがたい話だが、この大学には体育館なるものが無かったので、空手部と剣道部がこの狭い駐車場を半分に分けて汗を流していた。当時、私は剣道部に入っていたので、古い日記を開くように、ここにはいっそうの思い出がある。……Tとの約束した時間にはまだ間があったので、私はふと昔日の或る日の事を思い出し、「そうだ、あの時お世話になった、あの産婦人科医院はまだあるかな!?」と思って、大学のすぐ真裏、瀬田にあった産婦人科医院へと向かった。しかし、その辺り周辺を廻っても、あの日の夕暮れに明々と灯っていた「○○産婦人科医院」の大きな看板は見当たらず、あの時、お世話になったあの医院は無くなっていた。そして替わりに、あの日の苦い出来事がまた、フラッシュバックのようにありありと甦って来た。

 

 

……あれは、私が3年の時であった。独学で銅版画にのめり込み、版画科の学生達が制作している明るい時は剣道に励み、皆が帰った夕方から私は誰もいない版画実習室で一人、作品を作っていた。……そしてその日は、私は銅板にミリ単位の間隔で定規を使いカッタ―を引いて深々とした線を刻んでいた。どす黒く、精神に斬り込んでくるような鋭い暴力的な黒の面を作りかったのである。のめり込んで作っていると、現実感が無くなってくる時がある。その時がまさにそれであった。……ザクッと心臓を突くような鋭い感覚と次に鈍い痛みが走った時、、カッタ―の硬い刃先は定規を斜めにえぐってなお走り、更に私の左の親指を深々と斬り込んでいた。パックリと開いた指の腹。直後に噴き上げてくる鮮血を見て、誰もいない実習室の中で私はどうすべきか焦った。何故なら、既に夕方で保健室は閉まっており(開いていても常駐の保健医など見た事がない)、血はどんどん流れ出てくるのである。そして、混乱する頭の中に、剣道部の稽古時に防具を付け裸足で走っていた時にふと見た、瀬田の畑と人家の間に場違いのように建っていた、○○産婦人科医院の事が過ったのであった。

 

指を布切れで押さえながら、大学裏にある産婦人科医院に走ると、まるで地獄で仏のように看板の明かりが灯っていた。医院に入ると、看護婦が二人出てきて、布に染まった鮮血を見て、すぐに事を理解してくれた。「とにかく中へ!」と促してくれたその時、床に鮮血の塊がボタリと落ちた。「おっ、綺麗だな!」と思った瞬間、私の背筋をひんやりとした震えるものが走り、不覚にも私は失神し、後ろへと倒れていった。手慣れた看護婦が倒れていく私をハタと受けとめてくれたのは、いま思い返しても頭が下がる。その看護婦二人が私を抱えて何処かへと運んでいくらしい。…………やけに眩しい照明がバチりと私の顔面を照らしたので、ふと我に帰ると、私がいる場所は分娩台の上であった。数年前のブログに書いたが、かつて私はブル―ジュの博物館の中に設置してあった本物の古いギロチン台の展示を見て、部屋に人が誰もいない事が後押しとなり、好奇心を押さえきれないままに台の上によじ登り、紐で釣り下がっているギロチンの刃の下に首を潜らせ、マリーアントワネットの断末魔の感覚を味わった事があった。もし紐が切れたら一巻の終り「ブル―ジュで日本人の旅人、まさかの事故死!」であるが、恐怖よりも好奇心の方が私を震わせてやまない。とはいえ、ギロチン台に首を潜らせた人間も珍しいかと思うが、次にまさかの分娩台の人になろうとは……。ともあれ、院長の手慣れた技術によって傷口は縫われ、包帯が巻かれて私は安堵した。そして感謝を述べ「今日は治療費は持っていませんので、明日持って参ります!」と云って医院を後にした。……しかし、明日の食費のあてもない苦学生に保険の効かない高い治療費など払えない。……私は医院を去る時に今一度振り返り「すみません、お世話になりました」と呟いた。……名前も告げておらず、私はこのまま消えようと思ったのである。

 

その後、次第に傷口は塞がっていったが、まだカッタ―で銅板に線を切り刻むだけの力は出ない。その時に作っていた作品「Diary―Ⅱ」は、近々にあるコンク―ルに出品する予定だったが、応募〆切迄に時間がない。……その時、美大の後輩のSの事が閃いた。Sは私の事に興味があるらしく、時々、版画の実習室にも遊びに来ている。私はSに電話をして、カッタ―で線を引く作業の手伝いを頼むとSは喜んでやって来た。そして、私の代わりに作業をしながら、傍にいる私との会話を楽しんでいた。……まさかの事が起きたのは、その時であった。私の耳に「北川さん、やっちゃった!」という信じたくないSの悲鳴が響き、見ると、左利きのSは私の時とは真反対の右の親指の腹がパックリと開き、その顔は痛みで歪んでいる。……時刻はあの時と同じ夕刻。私はSを励ましながら、あの、もはや訪ねる事はない……と思っていた産婦人科医院へ行くしかない、と腹を括って駆け込み、Sもまた分娩台の人となった。……Sにも、また院長に対しても、もうしわけないという気分と、とうてい払えない治療費の事が頭を過りながら、Sの治療されるのを見守っていた時、院長が私に「あれからずいぶん経ったねぇ!」と笑いながら語る声が聞こえた。「えぇ、全くこいつが……」と、私は分娩台の上にいるSの頭を軽くピシャリと叩きながら、訳のわからない返答をした。…………私はしかし幸運であった。今のように儲け主義に走って「医は仁術(博愛)」が遠退いた時代と違い、その院長は私がまさに極貧であるのを理解してくれて、今は死語となった「出世払いでいいから、余裕が出来たら持って来なさい」と云ってくれたのであった。…………それからずいぶんの時が経った。あの時、既にご高齢であった院長は、もう亡くなられてしまったに違いない。……私は、あの時に医院があったと覚しき場所に暫し立ち、美大へと戻った。大学に戻り、研究室で助手の人から、かつて地下に在った版画の実習室も、今は演劇の学科の倉庫になってしまったという話を聞いた。…………約束していたTと、暫く美術の現況についてもの語りをして、私はアトリエへと戻ったのであった。

 

 

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『饗庭孝男さん―我が文芸事始めの人』

……前回のメッセ―ジで、私は画家の到津伸子さんについて書いた。その文中で、私はパリの深夜のカフェで、到津さんに積極的に文筆活動をしていく事を強く薦めた事を記した。彼女の友人で作家のロラン・トポ―ルもまた同じ頃にそれを薦めていたという。到津さんは私達の薦めもあってか、以後の拠点をパリから日本に移し、文筆活動を精力的にしていく事となる。……しかしその頃(1991年の冬)の私はと言えば、雑誌『太陽』からの執筆依頼で『X宛のバルセロナよりの書簡』という短い連載文や他雑誌からの紀行文をパリの屋根裏部屋で書いているくらいで、文章に関しては未だ散文的な日々を送っていた。到津さんにアドバイスはしたが、自分への何かモメントのような物を私はまだ見いだせないでいた。その私が文章への意欲を俄然立ち上げたのは、石のパリの灰色の冷たさが和らぎ始めた頃であった。……パリの14区に世界中の留学生や研究者が滞在している「パリ国際大学都市」というのがあり、そこにバロン薩摩と称された薩摩治郎八が私財を投じて建てた日本館がある。ある日、私はそこに滞在している友人で、当時は京大の建築科の助手であった平尾和洋さん(現・立命館大学教授)を訪ねて行った事があった。しかし平尾さんはまだ帰って来ていなかった為に、私はそこにある図書室で本を読みながら彼を待つことにした。その図書室の中で、幾冊かの本をつらつらと読んでいた時に、私は初めて饗庭孝男(あえば・たかお)という優れた文芸評論家の存在を偶然知ったのであった。何気なく書棚から取り出したその本は、饗庭さんの『石と光の思想』という本であった。……10代の頃から、三島、川端、谷崎、また泉鏡花、永井荷風……更には数多の詩人達の作品らに影響を受けていた私ではあったが、優れた文芸評論……というよりも、その深い思索を実に美麗にして読みやすい文体で綴ったそのフォルムに、私は打ちのめされ、自分の進むべき指針を得たような決定的な出逢いを覚えてしまったのである。以前にニュ―ヨ―クから頂いた池田満寿夫さんからの手紙に「私はあなたの文学との関わり方にも大いに興味があります。」と記された一文があったが、自分が進むべき文章の有り様へのヒントが、饗庭さんの文章との出逢いで漸くうっすらと見えて来たのであった。しかし……具体的な発表の場など、美術の分野にいる私などにあろう筈がない。

 

〈日本館〉

 

しかし、一年間の留学を終えて帰国した私に、積極的に文章を書いていく事になる大きな転機が待っていた。名編集者としてその慧眼を知られる新潮社の中瀬ゆかりさん(現・出版部部長)と幸運にもめぐり逢えたのである。……文芸誌『新潮』の中の小説の挿画を画く事になり、その打ち合わせで先ずはお会いしたのであるが、中瀬さんは私の語る留学時の様々な話に興味を持たれ、視点と着想に独自性があると言われた時は大きな自信となった。中瀬さんは不思議な眼力の持ち主で、これから伸びていく人は、私にはオ―ラのような光を放って輝いて見えるのだと言う。その後に本郷にある東大の医学部解剖学教室の部屋で再びお会いした時に、先ずは『新潮』に文章を書くように突然言われた。『新潮』と言えば、三島由紀夫、川端康成ほか名だたる文豪達の主要な発表の舞台であるが、そこに近々に書くように言われた私は、いきなりの事にさすがに緊張したが、硝子という素材への私の偏愛と郷愁を主題にした『水底の秋』という文章を書いてOKとなり翌月号にそれが載った。そして中瀬さんからは続けて書くように言われ、私はピカソ、ダリ、デュシャンの知られざる逸話を絡めた『停止する永遠の正午―カダケス』という、80枚ばかりの原稿を書いた。中瀬さんは私の手書きの原稿をプロならではの速読の物凄い速さで読み進み、書き直し無しの一発OKがその場で出た時は、本当に嬉しかった。……中瀬さんはその後、『新潮45』に異動されて編集長として活躍されるのであるが、異動後もいろいろとサポートして頂き、本当に助けて頂いた。そして、私は続けて、フェルメ―ル試論とも云うべき『デルフトの暗い部屋』を書いて『新潮』担当編集者の方に渡した。……掲載の是非の知らせがなかなか来ずに気をもんでいたある日、『新潮』の編集長自らが電話をかけて来られ、昨日、編集会議があり、編集者全員の一致で掲載が決まった事、また美術に関する物としては過去に類が無いほどの緻密にして美しい文章である事を言われ、引き続き執筆していく事を強く薦められた。私はその時に、目標としていた饗庭さんの事がふと頭を過った。……その後に書き下ろしで170枚以上となる異形な視点から書いたレオナルド・ダ・ヴィンチ論『「モナリザ」ミステリ―』を書き上げ、新潮社から『「モナリザ」ミステリ―』のタイトルで、以上の三部作を収めた本が刊行されすぐに増刷となり12000部以上が読まれて話題となった。……そして、書き下ろしの詩を80点近く入れた写真集(沖積舎)を出し、また新潮社からは久世光彦さんとの共著『死のある風景』の刊行などが続き、求龍堂からは『美の侵犯―蕪村X西洋美術』……へと刊行が続いていく。この本も話題となり、多くの書評が書かれたが、最も鋭い批評眼で知られる齋藤愼爾(さいとうしんじ)さんからは、新聞の書評で「この国の美術評論家が束になってもかなわない事を、北川健次はこの一冊で成し遂げた」と書かれたのは嬉しい手応えがあった。しかし、それに相当するような存在感のある美術評論家が、では現実にいるかと云えば、現在全く見当たらないのは、美術界の哀しい現実かと、また思われる。

 

鉄をも切り裂くような鋭い批評眼を持った齋藤愼爾さんに新刊の『美の侵犯』を献呈としてお送りするのは、些かの躊躇いというのがあった。真っ向から否定されるのではという不安と、この眼力の高い人ゆえにこそ、踏み絵に乗るようなつもりで送らねば……という想いが交差していたのである。だからすぐに齋藤さんから電話が入り、その切り口を絶讚されて、「新聞の書評欄に書く!!」と云われた時は安堵し自信もまた甦って来た。しかし、本をお送りするのに躊躇した人がもうお二人存在した。……日本を代表する比較文学者の芳賀徹さんであり、もうお一人が饗庭孝男さんである。芳賀さんの『与謝蕪村の小さな世界』『絵画の領分』……といった名著の数々から、比較論的にかつ複眼的に物を観て、考える事の豊かさと蒙を開かれた私は、30代に芳賀さんの本に出逢って、どれだけ視野が拡がった事か。しかも芳賀さんには一面識もないにも関わらず、私は今まで多大なる影響を芳賀さんから受けた事を記した手紙を添えて本をお送りした。まもなくして、その芳賀さんから「私も本当はこのような自在な切り口で、蕪村を書いてみたいと思っています。」と書かれた長文のお手紙を頂いた時はさすがに熱くなり、また執筆の労が一気にほどけていくような安堵と手応えを覚えたのであった。……しかし、饗庭孝男さんには、まだまだ!という躊躇が先行して遂に送らないままに時が過ぎていった。……それからも饗庭孝男さんは、私にとっての鋭い指針であった。

 

時が過ぎて、私はそれまで19年間過ごしたアトリエを移り、現在の仲手原という場所に引越して来て、新たに制作の場を作った。通りから一歩入った閑静な場所である。……引越して来て片付けも完了し、ようやく落ち着いたある日、そのアトリエに詩人のKさんが私との詩画集の打ち合わせの為に来られた事があった。……詩の舞台はヴェネツィアにしたいというKさんとの話の流れで、話題がふと饗庭孝男さんの話になった。饗庭さんの本の中にもヴェネツィアが度々登場するからである。……聴いて驚いた事は、Kさんは饗庭さんと長い知己があり、最も影響を深く受けた人であるという。しかし、その後に続いて出た話に私は驚いた。……饗庭孝男さんのお宅は、私のこのアトリエのすぐ間近にあり、その饗庭さんは私がこの場所にアトリエを移すべく引越して来た、まさにその同じ月に亡くなられたのだという。私はKさんに饗庭孝男さんのご住所を教えて頂き、すぐにその場所へと向かった。何と歩いて数分の場所にそのお宅はあった。……そして、饗庭さんと私のアトリエの間には、饗庭さんが散歩の折りによく休まれていたという小さな公園があった。そこは私にとっても密かな安息の場所であった。……パリで偶然に知った饗庭さんの文章の、美しくも強靭な思索と陰影に富んだ世界。その方向の凛とした気韻ある表現の有り様を範として、私は文章を、自分の分野を越境するようにして書くようにようになった。その範とする私を導いてくれた人が、まさか私の間近に長年住んでおられて、数多の美しい文章を紡いでおられ、私はその場所に引かれるようにして引越して来た、……というのも、また何かの不思議な縁なのであろうか。…私にとって、文章を綴る営みというのは、オブジェなどの「語り得ぬ領域」に対する、もう一方に在る「語り得る領域」という、これもまたスリリングな世界である。…………思えば、中瀬ゆかりさん、芳賀徹さん、……そして饗庭孝男さんは、私が文章を書いていく上での導きの人達である。私が次に書く内容は、更に深化したものでなくてはならず、またそのように自分を追い込む事は、表現者としての愉楽でもあるだろう。とまれ、この不思議な導きを得難い縁と思って、また新たに次なる執筆に私は向かいたいと思っている。

 

 

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