『……モナリザを切断したのは誰か⁉』

…2月1日から4回、集中的に連載した『モナリザ』の話は、前回で一応の完結となったが、少しく語り残した事があったので、今回はその補記の話から書く事にしよう。

 

 

………私のアトリエに在る原寸大の精巧な『モナリザ』の複製画は、長らく独占放送の形でルネサンス番組を放送していた日本テレビのスタッフの方から記念に頂いたという話は、以前のブログで書いた。

 

…或る夜、その方達と会食をしていた時、話題は面白い方向に進んでいった。…額とガラスから『モナリザ』を外して、彼らがモナリザを撮影していた時、…立ち会った関係者はみな、生のオリジナルのモナリザその物が放つ、凄みあるアニマや不気味さを直に目撃して、息を呑んだという。至上なまでに美しいという印象を越えて、むしろゾッとしたというのである。

 

 

……興味深いその話を聞いて、私は以前から気になっていた或る質問をした。(…モナリザは薄いポプラの木の板に描かれていますが、その板の側面はご覧になりましたか?…ひょっとして、絵の具のような痕跡は無かったですか?)…と私。

 

…すると、その方は(…えぇよく覚えています。薄い板の側面には確かに絵の具の薄く擦ったような痕跡が幾つかありました)と断言した。…瞬間、私の眼は僅かに光った。……何故ならこの答は、以前からずっと知りたかった事であり、私はそれが叶って興奮した。…レオナルドがモナリザを描いていた時の情景が、次第に透かし見えて来たからである。

 

 

…描かれた当初、『モナリザ』は現在の物より左右に7cmずつ幅が広く、そこにはテラスの円柱が描かれていた事は確かである。…絵を観ると意外と気づかないが、よく観ると左右の端に黒くて丸い塊状の物が見える。…それは円柱の台座であり、長い間、それを切断したのはナポレオンの仕業だと伝説のように言われていた事があった。

 

…切った理由は、彼がモナリザを、妻のジョゼフィ-ヌの寝室に掛ける時に、用意した額縁に絵の左右が多少大きく入らなかったので、なんと額の幅に合うようにモナリザの両端を切ったというのである。

 

……真しやかに聞こえるこの話は眉唾物であるが、では誰が何の為に切ったのかが、長い間結論が出ないままであった。…私は(切ったのはレオナルドに間違いないが、それを確認するには、切った側面を見ればすぐわかる筈。…その切断後になおもレオナルドは仕上げる為に描いていたと思われるので、…ならば絵の具の痕跡があれば、間違いない)と、以前から思っていたからである。…しかしル-ブル美術館の関係者か修復家以外、それを確認出来ないのが難であったが、意外な話の展開から、積年の疑問があっさりと解けたのであった。

 

 

…ここに、モナリザの画像と、もう1枚、モナリザが描かれていた正にその時にレオナルドを訪問したラファエロの線描模写があるので、それを掲載しよう。

 

 

 

 

…では、レオナルドは何故、モナリザの両端を切断したのか?…考えられる理由は2つある。…1つは、完成間際の時点で、左右にテラスが在る事で、絵は旧態の絵画の概念の域を出ず、真ん中正面の女性像に迫真的な生々しいリアリティが立ち上がらない事に気づいたレオナルドが両端を切断した。

 

…もう1つは、この頃に、モナリザの絵と平行して進んでいたのが、前回に述べた、立体画像に見える為の研究(…つまり、光は角膜を通り、瞳孔、水晶体を通過して角膜にあたる。水晶体はレンズの役割をし、網膜は明るさ、形、色が認識され、その情報が視神経を通って脳に伝わる事で、物が立体的に見える)…という原理と、視覚の構造を追求する為に描いた夥しい数の眼球を切断した素描が残っているが、それはおそらく、レオナルドがモナリザを描いていた、1504年前後頃と平行していると、私は推理している。

 

…そして、モナリザが完成間近に近づいた頃に、レオナルドは、モナリザと、弟子に描かせた同じサイズのモナリザの模写を平行に並べて、立体に可視化して見える為の様々な試作実験を行ったという事が、或る確信を持って私には透かし見えているのである。

 

…レオナルドが遺した、膨大な数のメモを記した手稿があるが、その中に、レオナルドの凄さがわかる、興味深い或る品々が書かれている。…卵白、水銀、食塩水…といった記述である。…もうおわかりであろう。…そう、レオナルドの手稿には写真撮影に必要な、鶏卵紙を想わせる記述がそこには書かれているのである。…モナリザの本画と模写を二点並べ、僅かにずらして二つの角度から撮影し、プリントしたその写真を並べて、レンズを付けた眼鏡で見れば、画像は立体的に見える筈。…そのより立体に見える為に、モナリザの左右の柱は視覚の障害になると判断して、レオナルドは切断した。…私の推理は、その方向に傾いているのである。…果たして、レオナルドの試みはどれくらい可視化したのであろうか?

 

とまれ、私が好きなこういう言葉が残っている。…「中世の、人々が未だ深く眠っていた暗黒の時代に、唯一人だけ不気味に眼を醒ましていた人物がいる。…レオナルド・ダ・ヴィンチである」と。

 

 

……次回のブログは、一転して舞台が東京。…『歩くのをやめた人形の話…in上野』。…乞うご期待です。

 

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『美術史上最大の謎『モナ・リザ』に挑む』(完結編) 

…前回のブログで、私はモナリザの背景を真ん中から切断して、画面を左右に入れかえると、それまでずれた感のあったモナリザの背景が、実に整然と左右に繋がる事を書いて実証的に示した。

……下図がそれである。

 

 

…そこまでは見えて来た。(確かなダ・ヴィンチの意図として)…しかし、その先の〈何故〉がわからない。…ダ・ヴィンチはそれを描く前後で、果たして何を考えていたのであろうか⁉ ダ・ヴィンチの考えを知るには、やはり遺された彼の手稿を調べるにしくはない。…しかし、モナリザの背景の謎に迫れそうなヒントとなるダ・ヴィンチ自身の言葉など、そこに書いてあるのだろうか?

 

 

…私はこの国で翻訳されている限りの手稿を読み漁り、モナリザの背景の左右が反転している謎に絡んでいる…と思われる箇所を幾つか見つけ出し、そこから見えて来た推論を書いた。…その箇所を拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』(新潮社刊)の次に刊行した『絵画の迷宮』(新人物文庫・『「モナ・リザ」ミステリ-』に加筆した改訂版)から転載してみよう。

 

(……そして、思い至ったのは、レオナルドが絵画の文脈を超えて「モナ・リザ」を、立体絵画の為の視覚実験の装置としても考えていたのではないか、という結論であった。一見この着想は、度を過ぎた閃きではあるだろう。しかし、レオナルドが手稿の中で繰り返し記した言葉……「絵画において最も重要なことは、その表現する対象が浮き上がって見えねばならぬという事である」という言葉と、それを裏付けるべく彼が手稿の中で夥しく描き示した、「見る対象は、水晶体を通った際に左右が反転し、脳に送られて再び反転して正像化するという視覚のメカニズム」に関するデッサンの数々が在る事を思えば、あながち考えられなくもないのである。…群を抜いて最高な知性を持つ科学者でもあった男が、絵画史においても突出して最高に優れた絵画「モナ・リザ」を描いた。…ここではそう見た方が、レオナルドの本質に近づくのではないだろうか。……私はそう書いた。…問題はここからである。

 

…上述したダ・ヴィンチが書いた絵画の在るべき理想を読むと、手稿から自ずと立ち上がって来たのは、作品を3D化(立体的な画像の可視化)しようとする、とてつもない目論見である。…..推論の思わぬ展開に自分でも驚きながら、では私と同じ推論に現在至っている人物が他にいないかをネット検索で調べてみた。…そして、私と同じ着想をしている人物が、日本でなく、海外に二人いる事を初めて知った。……ドイツ人研究者のクラウス・クリスティアン・カルボン教授と、ヴェラ・ヘッスリンジャー博士である。…ともあれ、私と同じ推論を立てた人物がいる事を知って、私は自分の着想に同行者を得た思いであった。両氏の研究は詰めを得たものであった。……ル-ヴル美術館にあるモナ・リザのオリジナルと酷似したモナ・リザの絵(同寸)がプラド美術館に収蔵されている事は以前から知られているが、その絵とオリジナルのモナ・リザは左右に2.7mm微妙にずれて描かれていて、それは私達の左右の目の間の平均的な距離に近い事を調べ上げたのである。…そして、その詰めは、画像が立体的に見えるステレオスコ-プ(立体鏡)の原理と一致する事を突き止めた。

 

(注意・プラド美術館のモナ・リザの絵は明らかに稚拙である事から、弟子のメルツィに師のダ・ヴィンチが命じて描かせた物であろう。大事な事は本画のモナ・リザから右に2,7mmずらして描く事であり、モナ・リザの顔の描写や背景のアバウトに描かれた臼青い描写はさほど重要ではないだろう。…要は、2,7mmの右へのずらしが、掛けた眼鏡のような2つのレンズを通して、果たして立体画像に見えるか否かに、ダ・ヴィンチの実験の主たる目的はあったと、私は推理する。)

 

 

 

…よく美術館のグッズコ-ナ-で、同じ名画を少しずらして並べてプリントし、それを簡易なメガネで視ると立体画像に見える物が商品として売られている。…それを見て、もしダ・ヴィンチがそれを見たら狂喜するに違いないと私は想像する事がある。そして、こうも思う。…二点のモナ・リザを並べて、果たしてダ・ヴィンチは、その立体画像化に成功したのであるか否かと。……

 

………私が数回に分けて書いて来たモナ・リザ論考。しかし多くの読者諸氏は、或いは荒唐無稽すぎる感を懐かれたのではないだろうか。…しかし、この荒唐無稽という言葉こそ、またダ・ヴィンチの無尽蔵の発想と創造力を一番的確に表した言葉ではないかと、私は書き終えた今思う。

 

…ル-ヴル美術館に行き、『モナ・リザ』を観た後に各館に展示してある絵画を通史的に観ると(あぁ、それぞれ時代は異なっても、一元論的な意味では、絵画の文脈に全て収まっているなぁ…と思い、物足りなさを覚えてしまう事がある。…しかし、こと『モナ・リザ』だけは、絵画の文脈を超えて、様々な試行錯誤や思念、はたまた懐疑、声なきダ・ヴィンチの自問…といったものが多角的にぎっしりと詰まっていて、身震いさえ覚える事がある。…………レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『モナ・リザ』は今もなお、その推理が万人に開かれている、正に尽きない最高にミステリアスな現場なのである。

 

 

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『迷宮の絵画-モナ・リザの謎に迫る試み』

前回のブログは『モナ・リザ』に描かれた女人像の謎について書いた。…私は実に美的なまでの効果を帯びて入っている顔の亀裂について自論を展開し、…それがダ・ヴィンチ自身の緻密な意図に依って仕掛けられた亀裂であり、モナリザの顔は、実はその内に真意と、更なる謎の問い掛けを封印した仮面(ペルソナ)ではあるまいか、…人の顔に入る筈がない亀裂は、その仮面性を暗示しているのではあるまいか⁉…という、あくまでも仮説ではあるが、その提示であった。

 

 

……さて今回は、以前から疑問を持っていた、モナリザの背景について書こうと思う。

 

……先ずはモナリザの背後に描かれている風景の画像を注意して見て頂きたい。……ふと観ると奇妙な感がしないだろうか?……モナリザの背後、左側の風景描写に比べ、右側の風景がやや隆起したように上に持ち上がって描かれている事を……。

 

……私は以前からその事がずっと気になり、出ている限りのモナリザの論考を読んだが、これもまた不思議な事に、全く誰もその事について言及している人はいなかった。……厳然として、その奇妙さはありありと目の前に在るというのに、研究者はなぜ誰もそこに疑問を呈しないのであろうか?……。

 

………………『「モナリザ」ミステリ-』を執筆していた或る日の事であった。…トイレで用を足そうとして便座に座った正にその瞬間、頭上から閃光が落ちて来るように、とんでもない仮説が降りて来た。〈モナリザを真ん中から切断して、左右を逆に入れ換えてみたら、果たしてどうなるか…!?〉…そう思った私は、早速モナリザの画集を持ってコンビニに走り、モナリザを2枚コピ-してアトリエに戻り、1枚のコピ-をカッタ-で真ん中から切断し、左右を入れ換えてみた。

 

…すると、どうであろう‼…閃いた予感はすぐに確信へと変わった。…それまでずれて見えていた背景は、まるで手品の隠されたトリックを暴いたように整然と繋がったのであった。最奥の霞んだ岩山は横になおも拡がり、水を貯めた湖面はさらに平らかになり、欄干真下から拡がる地平の石橋の在る道は右側の道へとS字形に連なり、……つまり、そこにはあたかも雪舟『破墨山水図』にも似た幽玄ささえも鮮やかに立ち上がったのであった。

 

 

 

……………………その瞬間、何か大きな扉が開かれたのと同時に、更なる深い謎が隠し扉の向こうになおも待ち受けているのを私は感じた。…絵画の文脈から逸脱して、まるで何かの視覚実験を思わせるような奇怪な仕掛けをこのモナリザの中に取り入れた、ダ・ヴィンチという魔的なまでに高い知性を帯びた男の暗い影が、…その先に待ってでもいるような、……見つけてしまった故の冷たい緊張の走りを私は覚えた。…この先にとてつもない難題が控えている。…その事への高ぶりでもあった。

 

 

………………………モナリザの背景が何処なのかを論じたのは、私が最もその眼識に信頼を寄せているイギリスの美術史家のケネス・クラ-ク卿である。…氏は、背景の現場がアルプス山脈であり、ミラノ時代のダ・ヴィンチが少なくとも2回、アルプスに登攀している事を突き止めている。

 

アルプスと云えば奇妙な感を人は懐くかもしれない。…しかしミラノからアルプス山脈は近く、ダ・ヴィンチは地球の地殻大地の構造と隆起の謎(例えば、山頂に海底の貝の化石が在る事など)を調査する上で、アルプス山脈への登攀は重要な事であったのである。

 

……ケネス・クラ-ク卿の本を読んでいた私は、ダ・ヴィンチの執筆取材で訪れたミラノからパリに行く機上から眼下に拡がるアルプス山脈の光景を見て不思議な感慨を覚えた。…まるでモナリザの絵の中に入っているような感覚になったのであった。険しい岩山、その間を走る細い川の流れ。…そして、モナリザの背景そのままに冷たい水面を映している小さな幾つもの湖……。

 

私のアトリエには、ダ・ヴィンチの貴重な資料が2つある。……1つは日本テレビのルネサンス番組を永年手掛けていたスタッフから頂いた、原寸大のモナリザの実に精巧な画像を貼ったパネルである。…ル-ヴル美術館への莫大な資金援助の返礼として、ガラスを外したモナリザを至近からの撮影許可を得て作る事が出来た、原寸大は世界でも一点だけという貴重な画像。…拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』(新潮社)が刊行され、日本テレビの美術番組で本が紹介された時に記念に頂いた物であり、私はこの原寸大のモナリザを立て掛けて静かな自問自答をしている事が多い(今回もそうである。)……もう1つは、ドイツの出版社のTASCHENから刊行されたダ・ヴィンチの画集で、全絵画・素描が入っている事で貴重であるが、実に重いのが難である。

 

(モナリザの背景はアルプス山脈を描いている)…ケネス・クラ-ク卿の言葉を確認すべく、私はTASCHENの重い本を開き、全素描を精査するように確かめた。…そしてモナリザ正図の左方の最奥に描かれている嶮しい岩肌を見せる形状の連なる形が、アルプスを登った際に描かれた中の二点のスケッチと酷似している事を突き止めたのであった。……ダ・ヴィンチはモナリザの背景にアルプス山脈の光景を、あたかも地球という進行変化形の生命体の謎を封印するようにして描いている。…これは間違いのない事である。

 

…では、それを正図として描かず、切り離して左右に入れ換えて描いている、その真意は何なのか⁉ …私は数日間、その意図を探るべく思案した。…そして、見えて来たのは全く予想だにしない事であった。…『モナ・リザ』が通史以来の絵画の概念を遥かに越えた、とてつもない産物であるという結論に達したのであった。(次回に続く)

 

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『「モナ・リザ」はいつ割れたのか⁉…part②』

拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』を刊行してから20年が過ぎた、昨年秋の事。高島屋の個展会場にいると、ある日、年輩の女性の方が現れた。(…直感で、美術に関わっている人だな…)と思い話しかけると、修復を生業にされているとの事。ならばと思い、『モナ・リザ』の事で以前から少しずつ気になっていた事があったので、話題をそこに向けてみた。

 

…(以前から疑問に思っていたのですが、モナリザの絵にある亀裂ですが、原因をどう思われますか?…ダ・ヴィンチの技法はスフマ-トという、時間をかけて絵の具を薄く何層も重ねていく技法で、彼の他の絵には亀裂はなく、モナリザだけに何故か亀裂が入っていますが…?)と私。…(あれはたぶんニスのせいではないでしょうか…)と、その方は話された。…ダ・ヴィンチが最後に塗ったニス、そして後世の何度かのニス塗りによる経年劣化の為に亀裂が生じたのだというのである。

 

…しかし私には疑問が残った。ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれて最期の地であるフランスのアンボワ-ズに赴いた際に、遺作『洗礼者ヨハネ』『聖アンナと聖母子』と共に『モナ・リザ』も携えており、ダ・ヴィンチは最期まで絵に手を加えていたという。…そして手の描写からモナリザは未だ未完成であったという指摘もある。………ならばダ・ヴィンチは生前には仕上げのニス塗りを未だしていなかった事も考えられて来る。…亀裂のもう1つの原因として、モナリザが描かれた薄いポプラ材の板の収縮がそれではないか…という説もある。(しかし、おなじ支持体の板を使った他の絵には亀裂は無い…)

 

…………年が明けた元旦の日に、例の小野・藤牧事件について推理の詰めをしていた時に、突然横から割って入って来るように(…もしかすると『モナ・リザ』の亀裂は、ダ・ヴィンチ自身が意図的に入れたのではないか⁉)…という大胆な着想が卒然と閃いた。…この説を考えた先人はいないか⁉…と思い、早速AIでチェックした。(AIは使いようでは思索が次々に進むので効率的に便利である)…すると(ダ・ヴィンチ自身が意図的に亀裂を入れた事を裏付ける資料や専門家の見解は存在しない。)という返答。…つまり私以前に誰もこの説を立ち上げた人物は具体的には500年間いなかった事になる。

 

私は頭の中に入っている西洋美術史において亀裂の目立つ作品を、2つばかり思い浮かべてみる事にした。先ずはAの画像の作品(作者・題不明)。…次にBの画像(ペトルス・クリストゥス作・『若い女の肖像』)は、中国の実に美しい絵皿を想わせ、むしろ亀裂がこの作品を名画たらしめていると言っても過言ではない作品。しかし共に後世に入った亀裂と思われる。…描いた絵の具が完全に乾くのを待たずに次の絵の具の層を入れると、異なる乾燥による捻れで、亀裂が起きて来る。しかし、ダ・ヴィンチが考案したスフマ-トという技法は、極薄の半透明な色彩層を何度も塗り重ねる技法で、亀裂が生じにくいダ・ヴィンチ独自の唯一無二の技法である。上記した二例の作品は全面的に亀裂が入っているので、永い時を経て起きた劣化による亀裂である事がそれとわかる。

 

 

(A)

 

(B)

 

…では私が、仮説ながらも『モナ・リザ』の亀裂はダ・ヴィンチがある意図を持って自身が入れた亀裂であるという根拠をこれから書こう。上記の2つの画像を見てわかるように、外因によって生じた亀裂ならば、画面全面に亀裂が入っている筈である。…ではこれから掲載する『モナ・リザ』の顔の部分アップ画像はどうであろうか⁉

 

 

 

 

…如何であろう。…もし後世に入った亀裂ならば先述した二点と同じく、モナ・リザの顔にも全面的に均一に亀裂の走りが入っている筈である。…しかしご覧になっておわかりのように、顔の最もハイライトの部分(つまりより立体感を出す明るい部分)には亀裂が目立たなくなっており、うっすらと亀裂の上をなぞるようにして、あたかも化粧の仕上げを描写するように、更なる筆の走りが実に巧妙に在る事を。これはダ・ヴィンチが描画の或る段階で亀裂が入るように絵の具の乾燥を操作し、亀裂が入った時点で、絵の具を柔らかい薄い布で亀裂を強調する為に詰め、その後をまた明るい肌色の絵の具で最も明るい部分を
描いていった事が、可能性として想像の上に見えては来ないだろうか。

 

前回のブログで拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』の内容について幾つか書いたが、もう1つご紹介しよう。ダ・ヴィンチが遺した手稿には、数々の考えが書かれているが、モナ・リザに関しては一切の記述・言及が無い…というのが研究者や識者の間での定説であった。…私はむしろ絶対に書いてある筈!という考えで、この国で読める手稿の全てを読破し、間違いなくモナリザについて言及している箇所というのを見つけたのであった。それにはこう書いてあった。…「或る作品の中で、異なった2つの遠近法が使われている場合、その作品は不気味で不安な印象を観者にもたらす」と。

 

 

モナ・リザの絵を観ると、腕を組んで妖しく微少する女性像は真正面から描かれているが、背景の謎めいた山河は、やや上から見下ろした視点で描かれた俯瞰的な描写という、異なる2つの視点、つまり異なる2つの遠近法で描かれているではないか。正にダ・ヴィンチの言葉そのままの事がモナ・リザには描かれているのである。

 

………(その絵は不気味で不安な印象を観者にもたらす……)、…私達がモナ・リザを観て率直に懐く印象は、正しくダ・ヴィンチが意図して手稿に記したそのままである。

 

 

………………………さて、私はここまで書いて来て、はたと気がついた。今回のブログの書き方でいくと、大変な分量になり、ブログというより、例えばフランス学士院に提出するような膨大な量の内容になってしまうのではないか…という事を。……一昨年に、アンドレ・マルロ-の見事な翻訳でも知られる竹本忠雄さんに、拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』をお読み頂いた際に、この本は、翻訳してフランスでも実際に問うに値する内容と高く評価して頂いた事を、今、書いていて思い出した。このままいくと、とてもこのブログでは収まりきらなくなってしまうのである。なので少し先を急がねばならない。

 

 

〈実は亀裂は美しい。〉…というよりも、観る人にある意味、扇情的といってもいい程の感性を揺さぶる効果を与えるという事は、美学的にも謂えるかと思う。…その例を3つ挙げよう。…先ずは亀裂に美を見出だした「金継ぎ」という先人の優れた感性。…次に、先に掲載したペトルス・クリストゥスが描いた絵画の亀裂がもたらす効果は、まるで李朝の割れた皿の白い肌のように美しく、かつ妖しい。

 

 

…そして最後は、ピカソと並んで20世紀美術の美に対する新たな認識を呈示したマルセル・デュシャンの代表作・通称大ガラス作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』に視られる亀裂の大なる効果である。…デュシャンは途中まで作った処でこの作品を放棄した。…最後の詰めが浮かばなかったのである。ガラスに亀裂が入ったのは偶然であった。…作品をトラックで運んでいた際の運転手の運転が荒く、運搬途中でガラスに偶然亀裂が走った。…最初にそれを見たデュシャンは悲嘆したが、さすがにデュシャンである。…彼はこの事故による亀裂を恩寵と捉え、そこに視覚と観念の美を見出だしたのであった。

 

 

『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』

 

 

 

前回のブログで、ダ・ヴィンチが晩年に描いた、或る奇妙な一点の素描(晩年のダ・ヴィンチの後頭部に肉付けして描かれている後ろ向きで微少する女の描写)を掲載した。…私がこの素描こそ、晩年のダ・ヴィンチが秘かに描いた『モナ・リザ』の真意を暗示した素描であるという推理を込めて。

 

 

 

…それと、亀裂をダ・ヴィンチ自身が意図的に入れた…という事を併せ読むと、1つの仮説の内にモナ・リザに込めた真意のようなものが立ち上がって来る…それは『モナ・リザ』の顔は、『ペルソナ』(仮面)を意図して、その内にダ・ヴィンチ自身が孕んでいる、両性具有的にして、不可解極まる本源的な謎を封じたのではあるまいか⁉…という考えである。

 

 

 

 

…………しかし、この推理が仮に当たっていたとしても、それを確認する事は、未だ行方不明になっている残りのダ・ヴィンチの手稿が見つかって、そこに真意が書かれていない限りは永遠に謎である。…何故ならダ・ヴィンチは既に死んでしまって、永遠に答えてはくれないからである。…あくまでも仮説、しかし仮説を立てる事には大事な意味がある。

 

…芸術の意味とは、深い美を享受する感性の力であると共に、限りなく思索するという、人間にしか出来えない知の力の表れでもあるからである。

 

 

 

 

 

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『「モナ・リザ」はいつ割れたのか!?…part①』

…私はオブジェも作るが、時にまとまった文章も書くという二股の人生を生きている。オブジェという、言葉では決して語り得ない領域と、言葉の権能を駆使した、文章という語り得る領域との、右脳と左脳の間を慌ただしく行き来するのが面白く、いつしか二股の人生になってしまった。とにかく、仮説から実証へと向かい、何らかの形が見えて来るのが面白く、今まで読んで頂いたブログでもおわかりのように、人生をミステリ-漬けにして生きているのである。…言い換えれば、成長に失敗して大人になれなかった、ただ好奇心だけが強い子供のままなのかもしれない。

 

 

………………一年間ばかり制作を中止して「モナ・リザ」一点が孕んでいる様々な謎を説くべく200枚近い原稿執筆のみに専念し、『「モナ・リザ」ミステリ-』と題する本を新潮社から刊行してから既に20年の月日が経つ。…早いものである。

 

それまでに、『デルフトの暗い部屋』と題するフェルメ-ル論を、…そして『停止する永遠の正午-カダケス』と題したピカソダリデュシャン論を文芸誌の『新潮』に発表していたが、さすがにダ・ヴィンチが描いた『モナ・リザ』だけは、まるでスフィンクスの謎かけのように手強い難物であった。…それ故に、こちらの感性と直感力も、推理する刃の切っ先を鋭く研いでかからねば攻めきれない、故にこんな面白い対象はない相手であった。

 

 

 

 

 

…執筆時は、日々頭の中がモナ・リザ一色に渦巻いていて、ダ・ヴィンチという最高な知性と、計り知れない闇の底の持ち主に挑むように書き進んでいったのであった。書くとなったら私は徹底してやる性格で、……執筆の為に、イタリアとフランスに飛び、ダ・ヴィンチの足跡を追うように各地を巡り、哲学者の木田元さんからの紹介状を持って京都大学大学院の発達心理学の教授に会い、意見を交換しながらダ・ヴィンチの鏡面文字の謎に迫ったりもした。私の推理して立てた仮説の客観的な整合性を問うべく、専門家の意見も取り入れて裏付けを更に固める為である。…結果、私が解いた「鏡面文字の謎」の解析によって、今まで謎とされていた事は謎でなくなり、私達の多くが発達の段階(4歳頃)の一時期に鏡面文字を書いている事を立証したのであった。

 

 

 

…………ダ・ヴィンチは肖像画のモデルが誰であるかを、絵の中の何処かにヒントとして忍ばせているが、モナ・リザだけにはそれが無い!…というのがそれまでのダ・ヴィンチ研究家の間での定説であったが、定説なるものを単純に受け入れない私は(あの「モナ・リザ」だからこそ、秘めたヒントは必ず有るに違いない)…と考えて、「モナ・リザ」の大きく開いた襟ぐりの縁に描かれた飾り模様のレ-ス部分に着目し、国立国会図書館に赴いて、あるだけの文献を漁り、そのレ-ス模様が「柳の細枝」を意味するvinciである事を突き止め、モナ・リザのモデルがダ・ヴィンチその人を暗示して描かれた組紐模様である事に辿り着いたのであった。…私のこの推論は、最近ではレオナルド研究にも学説として取り入れられており、モナ・リザ解析の一歩が更に進んだという観があって面白い。

 

レオナルド晩年の素描

 

 

…また私はイギリスのクライスト・チャ-チ美術館が収蔵しているダ・ヴィンチが描いた1枚の素描にも着目した。……「真実」を映すという円い手鏡の前で、その映された自身の姿に恐怖しておののく一人の老人(明らかにダ・ヴィンチ自身を想わせる)の横顔。…そしてその後頭部に不気味にくっついた肉付きの一人の妖しく微笑する女の顔(何故かモナ・リザのそれと重なって見える)。…その膨らんだ腹部から、この人物は妊婦である事に気付くが、…モナ・リザの絵の女性像も組んだ両手奥の膨らみから妊婦である事が、今日の研究で指摘されている。…私はこれらの複合的な点から、この1枚の素描が、実はダ・ヴィンチが密かに吐露したモナ・リザの秘めた主題であると断じて、それも書いた。

 

………このようにして一年を要して書き終えた「モナ・リザ」論は、先に文芸誌に発表した二作と併せて『「モナ・リザ」ミステリ-』と題して刊行されたが、反響は予想以上に大きかった。…全国の主要な新聞の書評欄に記事が載り、「わが国におけるモナ・リザ論の至高点」と評された時は、さすがに嬉しかった。…美術書としては異例の増刷になり、二万部が読まれた事を知った時は、一年間の執筆の疲れから解放され、…モナ・リザについては全て書き尽くしたという達成感があった。

 

 

…しかし、その後、20年の月日が経ち、その間に、与謝蕪村の俳句の中に古今の西洋絵画に通低する、云わば時空を越境したイメ-ジの共通性が有る事を、比較文化論的な視点で気づいたので『美の侵犯-蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)として刊行し、また詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』(沖積舎刊)を書いたりしたが、次第に表現の比重は、オブジェの制作に重きを向けた方に進んで来たのであった。……以来、この20年間で、およそ1500点近い数のオブジェが作られ、その多くが私の手元を離れていった。

 

 

…………………………………しかし、もうそちらの方に向く事は無いと思っていた『モナ・リザ』は、20年を経て、再び私の前に、あの絶対の静けさと不気味極まる薄笑いを帯びて、或る日卒然と、立ち現れたのであった。……未だ解き明かしていない謎があるぞと言わんばかりに。…そして、その謎は今まで500年間もの間、確かに誰もその事に全く気づかなかった、まさか‼…と思うような謎の問い掛けなのであった。

 

 

……次回の『「モナ・リザ」はいつ割れたのか⁉…part②』は、その謎の真相に迫りながら、昔、学生時に深夜の上野公園内にある国立科学博物館の真っ暗な闇の中で体験した、レオナルド・ダ・ヴィンチと私との、実に幻想的な交感体験について書く予定です。…乞うご期待。

 

 

 

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『もくづ塚』

 

年末にアトリエの片付けをしていたら、ガサリと1冊の本が棚から突然落ちて来た。…!?と思って手に取ると『乱歩-キネマ浅草コスモス座』(高橋康雄著)という本であった。(乱歩とは江戸川乱歩の事である。)開いて読み始めたら気になる章があったので、掃除はさておき読み耽ってしまった。その気になる章のタイトルは「もくづ塚」。

 

書き出しはこうである。………(昭和9年の春、乱歩は久しぶりに浅草に出向いた。(略)…土地の人らしい年配の男に出会ったので乱歩は道を訊いた。「慶養寺に行きたいんですが…」。

 

……この冒頭から私は忽ち掴まれてしまった。…年末のブログに登場した二人の人物。版画家小野忠重と、彼の家に入ったまま、以後その姿を現す事なく、この世から24才の若さで消えた(或いは消されてしまった)、才能ある版画家藤牧義夫の両名とその事件。…その限りなく黒と目されている小野忠重の墓が在るのが、乱歩が行こうとしているこの慶養寺なのである。

 

乱歩が寺に現れたのが昭和9年。この同年に藤牧は全4卷・全長60mに及ぶ大作『隅田川両岸絵巻』などを完成させ、小野が率いる「新版画集団」の中でも抜きん出た才能を発揮するという新境地を見せていた。正にこれから飛躍の勢いである。

 

しかし、翌、昭和10年9月2日の夜、藤牧は姉の太田みさお宅から、もう一人の姉の嫁ぎ先の中村てい宅に行く途中で、その中間の場所にある小野忠重宅に行き、家に入ったまま永遠に出る事なく、僅か24才という若さで、以後終に現れる事はなかった。

 

…姉の中村ていは、待っていた弟の藤牧が来ないので、騒ぎだして事件が明るみとなる。…小野は、さも藤牧が憔悴、絶望のあまり、涙ながらに小野の家を出てその足で隅田川に入水したかのような、リアリティも根拠すらない放言に終始し、新版画集団の連中も、主宰する小野への忖度と、才能ある藤牧への嫉妬も絡んでか、懸命な捜索もされないまま、この集団は解散する。

 

…さて、藤牧が消えて、それから僅か7ケ月後の昭和11年の3月に、小野は急に不審とも思える行動をとった。その時未だ26才であるというのに、…この慶養寺に小野は自分の墓を作ったのである。…そして藤牧はといえば、未だその死体はいっこうに発見されていないままである。昭和11年3月と云えば、その前の2月に2.26事件、そして5月には阿部定事件…と、時代は血生臭い不穏な気配を帯び始めた頃である。…そんな時に小野は、まるで何かに急かれるように、なぜ墓を作るなどという行為に突然意識が向かったのであろうか。……

 

 

…………江戸川乱歩が、この慶養寺に来た目的は、この寺に在るという「もくづ塚」という塚を見る為であった。本を読んでいくと興味ある記述が次々と拡がっていく。その文を少し拾おう。

 

(…乱歩が今、慶養寺を訪れたのは、最後の「藻屑物語」の采女、右京の二少年の悲恋物語への関心に端を発していた。徳川初期に起こった武士道的少年愛の事実を美しく綴ったものである。仮名草子の稚児(ちご)物語の作風と西鶴武道ものの作風との、ちょうど過度期に属するものである。…(略)…「実は『藻屑物語』の采女右京の墓があるのではないかと…」と乱歩は口ごもりながら聞いた。住職も珍しいこともあるものだといわんばかりに乱歩の顔をまじまじと見つめた。そんな珍客は初めてのことであった。「もくづ塚ならあります」住職は言った。(略)…雑草におおわれて、無残な姿であった。

 

………この文を読んでわかるように、もくづ塚のある慶養寺は、男色者における聖地のようなものでもあり、当時、古ギリシャや日本の古代からの同性愛文献資料あさりをしていた乱歩は、その収集目的で、この寺を訪れたのであった。

 

 

………読者の方は覚えておられるであろうか。

 

…年末のブログに掲載した、新版画集団の展覧会の集合写真で、小野が藤牧の肩に手を回し、あたかも好色な僧が、年少のまだ少年の面影すらある藤牧義夫を、自分の可愛い稚児の様にして写っている、一見して異様な1枚の写真の事を。

 

…そして検証の意味で、私の友人の画家で男色者のM氏に見せたところ速断で、この写真から直に自分達の側にいる人間特有の気配が伝わってくると証言した事を。

 

…アトリエの片付けをしている時に、まるで推理の促しのように棚から落ちて来た、乱歩について書かれた1冊の本。…読んでいて知った事実。…乱歩はこの後も数回、この慶養寺を訪れているのであるが、…すると、後にこの「もくづ塚」の事を随筆で書く為に寺を訪れている乱歩と、その後ろにある墓地に墓を作っている最中の小野忠重が同時期にいた可能性が見えてくる。

 

1月16日、私は、この事件に強い関心と推理を寄せているブックデザイナ-の長井究衛君と一緒に、浅草今戸にある慶養寺に行くべく予定を立てていた。その前夜にM氏(画家にして男色者)に、もしやの誘いのメールを入れると(私も行きます。小野の墓には興味がありますので)という返事。…いつもなら私単独で現場に行くのが常であるが、友人を誘ったのは他でもない、…なかなか見つからないという『もくづ塚』を、複数なら探しやすいという事と、藤牧が消えたほぼ直後と言っていい数ヵ月後で、何かを急ぐかのように僅か26才で墓を作った小野の深意解析について、長井君、M氏各々のご意見にも興味があったからである。

 

 

11時に待ち合わせして浅草の老舗の神谷バ-で昼食をとり、タクシ-で慶養寺へと向かった。(因みに私が寺に来るのは2回目である)。住職に来意を告げて、先ずはもくづ塚を探した。…気のせいか、歩く乱歩の影が木々の間や葉群らの影に幻のように過って見える。しかし…件の塚はなかなか見つからない。…彼ら二人は寺の奥に更に探索を拡げ、私は住職に寺の歴史を問うた。…住職は奥から江戸時代に画かれた絵地図を探して来て見せてくれた。…建物に道を塞がれている今と違い桁違いの巨大な寺院で、すぐ目の前が隅田川である。

 

 

…私は了解した。…乱歩や小野・藤牧の頃(昭和10年前後)は未だ寺は広大な敷地を有していたが、空襲、そして戦後の荒廃で、寺の敷地を貸したり、売却するなどして、その時に件の「もくづ塚」も破壊されてしまったのだと。…今の住職がもくづ塚の在所を知らないという事が、その証であろう。

 

 

…さて、次は小野の墓である。…この古刹慶養寺にはそれなりの墓地があって墓もあるが、歴史が古いので、何れの墓も朽ちたようにかなり古い。…そんな中で、小野の墓は薄いピンク色をした石で目立って新しく、裏側に「昭和11年3月再建 小野忠重」とだけ彫ってあり、普通なら刻してある筈の親や先祖の各人の享年月日が、この墓にだけは一切無いのが異様であった。……「再建」の文字の意味を住職に訊くと、この小野の墓の場所は江戸時代から小野の先祖が所有していたが、縁者の骨は再建の際に何らかの意図で一掃されてしまった可能性もあるという。…理由まではさすがに寺もわからないと言う。

 

 

…その日は暖かく汗ばむ陽気であったが、墓の前に立っていると、妙に重い冷気が時おり肌を撫でていく。…墓地全体に目をやると、何れの墓も肉親や縁者が立てた、死者を供養する卒塔婆が何本も立っているが、…ただ小野忠重の墓には一本も無く、花を供える花立てに花筒もなく、枯れた花すらも無いのが、無常の冬ざれとして映った。

 

……私達三人は墓の前で無言であった。………しかしこの墓には、小野以外に何かが、…いや誰かの存在した証しとおぼしき魂の一片が、今も確かにこの墓の暗いくぐもりの中にさ迷っているような、そんな気配をふと覚えたのであった。闇の中のもう一つの闇に。そして私は思った。………他でもない、もう一つの「もくづ塚」はここに在ったのだと。

 

 

 

…お詫び。ブログが本件で終始してしまいました。予定にあったダ・ヴィンチのモナ・リザ、次回に渾身の気持ちを入れて書きます。

 

 

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『新春第1弾-モナ・リザはいつ割れたのか⁉……Part①』

新年明けましておめでとうございます。先ずはブログを介しての年賀状から

このブログの連載も早18年以上が経った。書く材料が全く尽きる事なく、月に約2回のペ-スで書き進めて、あっという間の18年。……内容はともかくとして、文章量では長編の代名詞、紫式部『源氏物語』を越えてしまったように思われる。…私のブログが実に面白いというので、二つの出版社から本にしたいという申し出もあったが丁重に御断りした。…ブログは私の生きた証の徒然の記録なので、日々映りいく走馬灯のように読者の方々に気軽に楽しく読んで頂けたら、それでよいのである。拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)のように世に問うのと違い、極めて私的な随想的記述なのであるから……。

 

 

 

さて、では本文へ入ろう。

 

…………………元旦の朝に珍しいお茶を初めて呑んだ。お茶の名前は「上喜撰(じょうきせん)」。…この名を聞いて、あぁと思い出した方もおられるかもしれない。…そう、高校の日本史の授業で幕末に登場するお茶の名前である。1853年、浦賀に突如現れた四隻の黒船(蒸気船)に驚く世情と、当時のお茶の名前(上喜撰)を巧みに掛け合わせた狂歌「泰平の/眠りを覚ます/上喜撰/たった四はいで/夜も眠れず」。生来、好奇心が強い私は、この狂歌を授業で知った時に、(実に面白い、そして上手い‼)と感心し、…その上喜撰なるお茶をぜひ一度呑んで、幕末の味覚を追体験してみたいと思った。調べると、横須賀のとあるお茶屋で作っているらしい事はわかったが、しかしなかなか機会なく、日々の事に追われながら、…いつしか年月が流れていった。

 

……昨年10月の高島屋の個展に、美大の後輩になるサイトウノリコさん(版画家)が来られ、雑談の際に家が横須賀に在ると聞いた瞬間に、横須賀!?……上喜撰!!が閃き、サイトウさんに入手代行をお願いした。…そして年末の横浜の個展時に、サイトウさんがバッグに件のお茶『上喜撰』を携えて来廊された時は嬉しかった。…訊くと、横須賀にそれは無く、幕末にペリー率いる黒船が来航した浦賀まで探しに行って、ようやく入手出来たとの事。持つべきは善き友、そして善き後輩である。

 

 

上喜撰は煎茶で、説明書を読むと、徳川将軍家に献上していた当時のお茶の製法を今に遺しているらしい。…呑むと、若干の渋味があるが意外に口には優しく懐かしい香りがする。…狂歌の通り、試しに4杯呑んで寝た。…(たった四はいで夜も眠られず)とあったが、すぐに寝落ちしてしまい、あまりみる事の無い不思議な夢を見た。

 

好奇心、…確かに私は異常なまでにこれが強い。そして、それが本当はどうであったのか⁉…を自分の目と足で実際に確かめてみたいという確認欲求が強く、それがまた日々の人生を面白くしてくれてもいるのである。高杉晋作の辞世の句「面白きこともなき世を面白く」…を実践しているのである。

 

 

…………1968年から71年の長期にわたり、私の故郷の福井市を中心に県全体で69件の放火事件が発生した事があった。何故か3と8のつく日にしか犯人は放火しないので「三・八連続放火事件」と云われた事件である。私が夏休みで大学から帰省した時は、未だ事件は進行中であり、犯人はランダムに現れては県全体で放火を繰り返すので、正に神出鬼没であった。この事件に興味を持った私は図書館に行き、新聞に載っている事件の発生記事を全て表にし、地図も作って推理した。

 

神出鬼没⁉……犯人は意識してランダムに出没しているようだが、その犯人の潜在意識の深奥に、必ずや何らかの規則的なものが潜んでいると推理したのである。…絞りこんでいくと近郊の村の「春江町」という地名に辿り着いた。……そこから逆放射して地図上の全ての現場に黒い点を打っていくと、やや不完全ながらも次第に規則的な姿が透かし見えて来たのであった。…母に(この放火の犯人は春江町にいるよ)と告げて、私は東京に戻った。母は暇な息子の戯言をただ笑っていた。…放火はその後も1年近く続いたが、遂に警察が用いた逆探知器で火災現場近くの車内にいた犯人が捕まった。果たして、犯人は春江町在住の、自称画家であった。…火災現場に駆けつけた警察官同士の話を盗聴して愉しんでいた犯人を、逆探知器を使って逮捕したのである。

 

 

…………………昨年末のブログは特に反響が強く、ミステリ-の醍醐味を愉しんだ方がかなりおられたようである。…そのブログでも書いたが、版画家の藤牧義夫が昭和10年9月2日の雨降る夜に向島・小梅に住む版画家・小野忠重の家に入って以来、この世から完全に姿を消してしまった事件。…結論からいえば、この事件の全容は何ら難しい事はなく、もはや全て白日の下に明らかである。…問題は、何故、小野の家に誘われるように藤牧が行ったのかという事の背景と心理、…そしてこの事件の裏にある湿った陰花植物的な動機に今の私の関心は向かっている。

 

 

 

…次回のブログPart②は、

 

消えた、或いは消された藤牧義夫の謎、そこに意外にも、現実の江戸川乱歩が登場し、更なる闇へと入って行くのである。…そして後半は、拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』も含めて、モナ・リザの顔に夥しく入っている亀裂の謎を解明すべく、ブログは進んで行くのである。

 

………次回『モナ・リザはいつ割れたのか⁉ …part②』……乞う期待。

 

 

 

 

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『1枚の写真が暴いた、或る未解決事件の内幕』

…わが国の幻想文学の頂点に立つと言っていい江戸川乱歩の名作『押絵と旅する男』は、浅草十二階(通称・凌雲閣・明治23年建立~大正12年の関東大震災で崩壊)を舞台にした怪しいまでの幻夢譚である。

 

「……あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物でございましたよ。……」と文中に書かれた浅草十二階について、乱歩以外には、芥川龍之介石川啄木谷崎潤一郎竹久夢二木下杢太郎川端康成室生犀星……他、多くの作家がその不気味な磁力を持った高塔について書いている。

 

……私が浅草十二階に取り憑かれたように興味を持ったのは、いつ頃からであろうか。…定かではないが、この人工の象徴的存在への愛着は異常に強い。(それは私が作り出すオブジェ制作への尽きない想いとも関係しているように思われる)……浅草十二階をネットで開けば、私のブログが出てくるし、1994年6月号に刊行された『太陽』の江戸川乱歩特集・「怪人乱歩・二十の仮面」では、私は『蜃気楼』と題して、浅草十二階への想いを熱く語っているのである。

 

…またこのブログの2018年2月25日『128年の時空を超えて』~3月8日の『魔所-〈十二階下〉』迄は、偶然出土した浅草十二階の遺構から私が赤レンガを入手する迄の導きのような話を書いているので、ぜひ、そのブログを先ずはお読み頂けたら有り難い。

 

………また、その想いを更に言えば、(もし浅草十二階のあの空間にタイムスリップ出来るとしたら、あなたは今、死ねますか⁉)という問いがあれば、躊躇なく(勿論死ねます‼)と応える私なのである。

 

 

…俄に初冬の寒い気配を見せ始めた今月のはじめ、…アトリエに帰ると、郵便受けに大きな小包が入っていた。封を開けると2冊の書籍が出てきた。…!?…と思って取り出すと、1冊は『浅草十二階幻想』、もう1冊は『浅草遠景館』と題する本が、丁寧なお手紙と一緒に入っていて、著者の名前が鷹岡志津さんと書かれていた。

 

 

 

 

 

…早速本を開いてみて驚愕した。浅草十二階、浅草を撮した貴重な絵葉書が各々満載してあり、読んでいくうちに臨場感のある明治の空間に引き込まれていくようで、忽ち私は驚喜した。…そして、著者の鷹岡志津という古風な名前から、この名前は筆名で本名は、というよりこの方は、度々私が体験する交感現象の極みで、過去の時空の彼方からの迎えであるか⁉…とさえ半ば本気で思ったのであった。

 

2冊を読み進めていくと、驚いた事に『藤牧義夫…雨の夜に消えた天才版画家』と題して、私が2020年・2月21日から書いた『墨堤奇譚』と題した連載ブログと重なる視点で、版画家・小野忠重の家に立寄った後に忽然とこの世から完全に消えてしまった(或は、何者かによって消されてしまった)藤牧義夫事件に考察を重ね、鋭い視点で彼女なりの推理が綴られていたのであった。…、また更に読み進めていくと、学生時の私が、小野忠重が私に対して放った礼儀を失した発言に対し、私と小野が一触即発の気配となり、傍にいた版画家の駒井哲郎さんが唖然としたという経緯も書かれていたのであった。

 

「…小野の目の奥に宿っていた昏い光を目の当たりにした北川はもしかすると、思いがけず藤牧失踪事件の真相の一端を垣間見たことになるのかもしれない。…果たしてあの雨の夜、小野は藤牧に対して同じ目をしたのだろうか。…あくまでも推察に過ぎないが、小野が若かりし日の北川に突如くってかかったのは、北川の姿がかつての藤牧の姿とオ-バ-ラップして苛立ったからではないだろうか。(中略)……「浅草に叔母がいる」という北川の言葉に小野が過剰反応したのは、長年心の奥底に抱え続けていた、(いつか藤牧失踪事件の真相が誰かに暴かれてしまうのでは)という恐れや不安が瞬間的にピ-クに達し、咄嗟に話の矛先を逸らそうとしたからではないかと筆者は考えている。……と続き、この若き天才を容赦なく踏みにじった存在への、筆者の強い怒りが綴られていく。

 

 

…ともあれ、1935(昭和10)年9月2日の雨の夜に、小野忠重の家から出た痕跡が無いままに、次に立ち寄る筈だった姉の家に現れる事はなく、この才能あり、前途に期待されていた若き天才版画家の行方は今なお判明しておらず、未解決事件として今にある。

 

…そして時を経て、小野忠重は、藤牧が小野などに預ける筈のない貴重な版木の上に自分の彫刻刀で彫りを行い、画商に藤牧義夫の版画と語って多数の版画を売り、美術館の調査で藤牧の真作ではないと判断されるに至っている。

 

 

…何故、小野は行方知れずとなった藤牧の木版作品の版木を持っていたのか?…小野は藤牧が行方知れずになった後に、藤牧が隅田川に自殺したと思わせるような発言を繰り返していたのか?……しかし、この事件は、駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』や、大谷芳久著『藤牧義夫 眞偽』、『芸術新潮2011年1月号〈版画家Xの過剰なる献身』、失踪の謎に迫ろうとした美術評論家・州之内徹の慧眼な追跡調査があり、…また私のブログでの例外的な長文の推理、…そして最近では山田五郎YouTube『大人の教養講座』 等で、多くの人にその真相の閉ざされた闇が解明されるに至っている。…わけても私が読者の方々にご覧になる事をお薦めしたいのは、山田五郎さんのYouTube『オトナの教養講座』で扱われた藤牧義夫の謎の真相に迫る解明で、実にわかりやすく、かつ的確な解説で、この事件を取り上げており、事件の真相が次々に明らかにされていくのである。

 

…そう、この事件そのものはさほど難しいものではないと私は思う。…情況証拠、また次々と崩されていく小野の偽証発言への疑問符を持ってすれば、中学生でも構図が判る事件なのである。しかし、では事件発生に至る動機は何であったのか⁉…という心理だけが、今1つ不明のままであった。…〈才能への嫉妬〉、それが底辺にある事は間違いない。……二人の構図を語れば、藤牧は小野が率いていた「新版画集団」に所属していたが、一方では、石原莞爾宮沢賢治らが傾倒していた国柱会に所属しており右派の思想を持っていた。…一方の小野は、自分は左派と称していたが、左派のスパイ活動に深く関わっていた慧眼な州之内徹の発言(小野…?そんな奴はいなかったな‼)という証言で一蹴されている。…ある時までは私も思想的な対立が事件の根底の1つだと思っていた。…そして事件解明に関わった多くの人もそう思っていた節があった。

 

先述した鷹岡志津さんと、事件に関してメールで頻繁にやり取りをしていたのであったが、折しも個展開催中であったので、鷹岡さんは横浜に来られるという事になり、私はその日を楽しみに待っていた。…その数日前の事であった。…鷹岡さんから届いた『浅草遠景館』に載っていた藤牧義夫の写真を見ていて、1つの疑念がわいてきたのであった。

 

…端整であった藤牧の顔つきが昭和8年から、消えた昭和10年の2年間に一変しているのである。…これは忽ち、新版画集団の中でも突出して才能を開花させて來た藤牧の自信の現れだと思うが、…それにしても初期の、姉と撮した顔の、あたかも歌舞伎役者の女形(おやま)を連想させるような優男顔……。そしてこの世から消えてしまう年に撮された顔は、男として芯のある顔へと変貌している。

 

 

 

 

…小野が語っていた、藤牧は「飲まず食わずの痩せた苦行僧のような顔をしていた」…と違って、自殺を暗示したのとは真逆の力強い面構え、…それが頭から離れなかった。…ひょっとして、男色か!⁉…卒然と閃いたこの着想は、〈まさか〉…というより〈或いは!〉という方に傾いていった。

 

数日して画廊に鷹岡さんが来られたので、私達は近くのカフェでお互いの推理を出しあった。…まるでホ-ムズとワトソンのような感じで、推理がどんどん膨らんで形を成していく。私が〈男色説〉の推理を出すと、鷹岡さんは大きな声でアッと驚き〈実は長年気になっていた1枚の写真があるのです〉と話された。…それは新版画集団のメンバーの集合写真で、鷹岡さんの本にも載っていたのであるが、掲載したサイズが小さくて細かい事がわからない。…鷹岡さんは、スマホに入っているその画像を徐々に拡大していった。

 

 

…スマホの拡大した画像に現れて來たのは、右側に、集団組織のボス顔をした小野が左右の腕を、小柄な藤牧の肩に絡ませて、あたかも好色な僧侶が、最近入って來た若い青年を稚児のように私物化しているような、…そう思われても仕方のない、ある意味、不気味な写真であった。…画像がボヤけていて不鮮明かと思うが、ここに掲載しておこう。

 

 

…そして、この写真からは、藤牧の版木に自分の彫刻線を彫りこんでいった、小野の倒錯した妄執が、セクシュアルな合体の願望として見えても來たのであった。

 

私は友人を通して犯罪心理学の専門者に問い、この種の犯罪の類例が無かったか否かを知りたいと思った。…しかしそれよりも蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)を知るにしくはない。…そう思って、私の知人で画家のM氏にこの集団写真を送信して、中央にいる小野と藤牧の二人を、主観を排して感じたままの感想を問うてみた。……私は友人の幅が広い。その友人の一人であるM氏は、男色家なのである。

 

…M氏はこう語った。(この写真を見た瞬間に、間違いなく私達の側の世界にいる人間の獣のような匂いが生々しく立ち上がって來た。…右側の男が左側の小さな青年に掛けている左右の手の動きは、間違いなく愛玩の手のそれであり、…私も経験があるが、右側の男の見えない肘は、小さな青年の背後にピッタリとくっついている。…そして、集団写真でありながら、これ見よがしに笑みを含んだような顔で男が写っているのは、この関係を誇示し、永遠に残しておきたいという願望だと思う‼…ただ青年は未だ男に応じての関係はしておらず、少し困惑した表情にも見て取れる。)……そう語ったのであった。……(有難う‼…とても参考になったよ‼)と言って、電話を切った時は、既に夜半を過ぎていた。…(やはり、蛇の道は蛇だったか!)…そう思った。しかし、男色関係の縺れで死へと至らせるに近い程の事例は過去に何かあったか⁉……〈いや、あった‼〉…という例を私はすぐに思い出した。

 

天才詩人のランボーをパリに呼び寄せた詩人のヴェルレ-ヌ。…二人は忽ち相愛の仲になるが、次なる時代へと表現を飛翔させるランボ-に対し、ヴェルレ-ヌの表現はその時代に留まるものであった。…この場合は本例と逆の立場になるが、ランボ-の求めから逃げ去ろうともがくヴェルレ-ヌは衝動的にランボ-に向けて2発の銃弾を発砲した、…そういうケ-スが1つ在った。

 
…藤牧が消えた後に、藤牧の作品の版木の上から、自分の線を重なるように彫刻刀で彫っていくという初動に視れた行為は、埋火のように暗く、なおも燃える執着の重なりでもあったのか⁉…初動はそれであり、年を経て、それを藤牧の版画と詐称して売ったのは、小野の金銭への執着であり、その軽率なミスが、後に私達が懐く数多の疑惑へと繋がる結果を生んでしまったと思われるのである。

 

…先述した鷹岡志津さんは、本人は笑って否定されたが、私には140年前の浅草十二階の螺旋階段の潜みから現れたなにものかの化身のように、なおも見えるのであった。…その鷹岡さんは、浅草十二階と浅草関連の貴重な絵葉書を各々1000枚以上、…そして1930年代の最も面白い時代に撮した魔都上海と巴里の絵葉書を各々、これも相当数コレクションされており、現在も新たな執筆に専念中である。…私を狂喜乱舞させてくれた、この2冊の本は実に面白く、私達を遠いノスタルジアの世界へと誘ってやまない。…もしこの2冊の本にご興味がおありの方は、アマゾンで購入が可能なので、ぜひのご愛読をお薦めする次第である。

 

 

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『年末…やはり12月は駆け回る日々』

…前回のブログでお知らせしたように、21日(日)迄、横浜の画廊で今年最後の個展を開催中。…しかしその間にぜひ観ておきたい個展が東京の2ヶ所で開催されているので観に行った。

 

1つは銀座ヒロ画廊で開催されている『浜田知明展・戦争の影/人間愛』である。浜田さんとも、お付き合いは長かった。…私の人生で関わった版画家はごく少数に限られており、先達の棟方志功さん、駒井哲郎さん、池田満寿夫さん、加納光於さん、そして浜田知明さんだけであり、いずれも日本の版画史に間違いなく残っていく人達である。

 

……この先達たちに学生時から早々と作品を賞賛された私は幸運な出会いに感謝しながらも、時に反論も交わし、実に多くの事をこの先人達から学び、糧として来た感がある。……久しぶりに拝見した浜田さんの作品はひたすら懐かしく、私には思い出す事が沢山込み上げて来た。浜田さんは、ご自身で考案された秘伝のインクの作り方を私に教えてくれただけでなく、浜田さんが住まわれている熊本県の美術館に、私の作品が収蔵される手配までして頂いた事があった。…作品(特に名作)は遺るからいい。作者はその中に永遠に生きている、…そう強く思った。

 

 

……もう1つは谷中の朝倉彫塑館で開催されていた『生誕100年ASAKURA Kyoko』展である。…朝倉響子さんは日本の彫刻界を牽引した朝倉文夫の次女で、姉は舞台美術家の朝倉摂さん。

 

…私の24才の初の個展の時に来られてからのお付き合いで、若輩の生意気な私を面白がり、夜半に電話をかけて来られて、長い時間、話し込んだ事も今は懐かしい想い出である。〈…詳しくは私のブログ(2020年8月1日付)に響子さんが登場するので、お読み頂けたら有り難い。〉

 

 

…響子さんは魅力的な低音で、実に切れ味の良い話し方をされる長髪の美しい人であったが、感性に日本刀を想わせる鋭さがあり、私はその人柄が好きであった。…今、響子さんはご両親の朝倉文夫ご夫妻、姉の摂さんと共に、谷中墓地の泉下で永遠の眠りの中にいる。

 

 

…さて15日は忙しい。…長年の我が友であり、映画の名プロデュ-サ-であった成田尚哉氏の遺作の数々を公開する映画特別上映ラピュタ阿佐ヶ谷で11月30日~12月30日迄開催中なので、ようやく時間が15日にとれるので観に行く事になった。

 

…当日は彼の代表作の一つである『櫻の園』が上映される。成田氏の企画によるこの映画は、1990年の「キネマ旬報」ベストテンの第一位になり、その年の賞を総なめにして、現代日本映画の名作として今も評価が高い。

 

…成田尚哉氏はまた優れた美術作品も沢山制作されており、彼の遺作集が来年に刊行予定なので、そのテクストを書く事になっている。

 

…その成田氏を以前に荻窪の会場アパラタスに連れて行き、私が間違いなく天才と評しているダンスの勅使川原三郎氏に、公演後にご紹介した事があったが、それもみな愉しい想い出、…そして、美しい幻である。

 

その勅使川原三郎氏の今年最後の新作アップデイトダンス『空耳』が15日の夜に、荻窪のカラス・アパラタスB2ホ-ルで開催される(公演の期間は12月13日~22日まで)。成田氏の遺作『櫻の園』を観た後で直行するので、この日はかなり慌ただしい。

 

 

…さて次回のブログは今年最後になるかと思うが、私の人生の中でも最大の事件と思われる不思議極りない、夢か現実かという事が、この12月のはじめに起きて、今も継続中なので、それを書く予定。

 

…12月に入り、季節は完全に冬である。…もはや日本の四季は無くなり、春と秋は朧と化し、死ぬ危険さえある酷暑と、酷寒の冬の二季となってしまった。…このブログを愛読して頂いている読者諸氏のご健康と更なる弥栄(いやさか)を祈念しながら、次回のブログ、…ぜひの、乞うご期待である。

 

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『横浜の支那人町に降る雪は、…幻のようでありました』

…思えば大学を出てから10回ばかり、山手町本牧…など転々と引っ越しを繰り返して来たが、いずれも横浜である。今の綺麗な無菌化した横浜と違い、不穏な怪しい気配がまだ横浜には充ちていて、幾つもの物語が交差していた感がある。

 

今や観光で賑わう〈みなとみらい21〉界隈は、綺麗になる前の赤レンガ倉庫が廃墟のように不気味に建っていて、引き込み線の線路にはペンペン草が生え、廃墟の裏には刺殺体が転がっていそうな危うい雰囲気が漂っていた。……私が本牧にいた頃は未だ米軍基地があって、日本人は立ち入り禁止なのだが、アトリエ裏の崖を登ってこっそりと基地内に入り、相模湾を航行する船を、柔らかな芝生の上に寝転びながら、のんびりと眺めていたものである。…つまりそうとう暇だったのである。…美術の作家と並行して私立探偵を職業にしようかと本気で考えていたのも、この頃であった。

 

一番長く住んでいたのは、山下公園そばの海岸通りの山下町で、30才から45才までの15年間。家を出れば目の前にすぐ横浜港が見え、背後には中華街があり、船の汽笛を遠くに聞きながら、自転車や徒歩でフラフラとしていたものである。当然何回か職務質問をされた事がある。国家も政治も権力なるものも、全て虚ろな幻に過ぎないと思っている私の事、警官の職業的勘から、この男は…何か怪しい!…と、思われたのかもしれないと、今は思う。

 

昼食は殆ど中華街であった。中華街の裏道りには暴力団の事務所があり、見ると、正面に巨大な額に入った一万円札が鉛筆で描かれていて、福沢諭吉の顔の場所には、明らかにその組の組長の顔が稚拙に描かれていた。

 

…また5階建ての怪しい古道具屋があって、商っている品は優れ物だが、廊下の壁の不自然な場所に固定されたマジックミラーが幾つも在って、来た客の多くが不審がっていた。…特に変なのは、いつも落ち着かない初老の店長の男以外は、店員はみな若い女性だけで、何故か顔ぶれがよく変わる。…そして戸口にはいつも貼り紙があってこう書かれていた。…〈求む女店員‼〉と。

 

 

 

「……この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持ち物だったという奴を、横浜の支那人町の、へんてこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」

 

…この一文は江戸川乱歩の最高傑作『押絵と旅する男』の一節である。…横浜の支那人町(今の中華街)の古道具屋で兄が見つけた不思議な遠眼鏡(…自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで喰違っている処の、別な世界を透き視してしまう望遠鏡)を兄が入手した処から始まる幻夢譚である。

 

 

 

 

 

兄はその望遠鏡を持って明治二十六年時の浅草十二階の高塔に上がり、浅草寺裏の観音堂裏手に在った一軒の覗きからくり屋に在った、押絵になった覗き絵の女性(八百屋お七)に恋慕してしまう処から始まる幻想文学の頂点に位置する小説である。

 

 

 

…私はこの小説が好きで、文中に出てくる横浜支那人町に、昔、乱歩がモデルとして着想したような古道具屋がないか探し回ったものである。

 

 

 

…さて、それから数十年が経ち、……過去の沢山の思い出が詰まった中華街に在る画廊で、縁あって12月1日から21日までの3週間、『記憶の十字路に射すヴィクトリアの光』と題したオブジェ中心の個展を開催する事になった。

 

…画廊の名前は1010美術。…オ-ナ-の方は倉科敬子さん。10年以上、この場所で企画展を運営されているというから正にプロである。

 

…ご縁ともいうべき不思議な導きによって開催する事になった今回の初の個展。…東京を中心に、名古屋、札幌、熊本、鹿児島、香川、京都、冨山、福井、千葉、金沢、…と今まで沢山の画廊で個展を開催して来たが、不思議な事に地元横浜での初の個展というのは、思えば不思議ではあるが、やはりご縁という〈導き〉なのであろう。…オ-ナ-の倉科さんとは波長が合うのか、お互いの話の展開が実に面白く、私は今回の個展が実に楽しみなのである。…アトリエからも近く、ほぼ30分で行けるので、出来るだけ在廊していたいと考えている。

 

30代の頃、…まさか後にこの中華街の中で個展を開催するとは知る由もなく歩いていたのだから、…人生とは本当に面白い。…私も度々画廊に行く事にしている今回の個展。……乱歩の小説に登場する謎の古道具屋を探し求めてさすらっている当時の私自身とすれ違うような…………、横浜中華街とは、そんな不思議感の漂う迷宮の町なのである。

 

 

 

 

 

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