『白黒はハッキリと!!』 

今から27年前の1990年の晩秋のある日、私はスペイン・カタロ―ニャ自治区の北東部にあるフィゲラスのダリ劇場美術館にいた。前日にダリのアトリエ(通称―卵の家)のあるカダケスで過ごし、早朝のバスで、ダリの生地であるここフィゲラスに着いたのである。……奇想の画家・サルバド―ル・ダリの作品が数多く収蔵展示されているこの美術館は、元は朽ちた劇場であったのをダリ自らが設計改造して美術館に作り替えたものである。……部屋ごとに集められた数々の作品を観て行くと、突然、何も展示されていない全くの白くて広い部屋に行き当たった。(……ん、何だろう!?)。見ると、他の観客達はただの通路だと思ってみな足早に取り過ぎて行く。私はふと足下から強い気が来るのを感じて下を見た。……その床面には、「Salvador Dali 1904―1989』と銘が彫られており、私はそれが白い墓石であり、昨年亡くなったばかりのダリの遺体が、この足下の更に深くに眠っている事を知ったのであった。

 

……その墓が掘り起こされて、ダリの遺体がDNA鑑定されるという。……何とも穏やかでない話であるが、事の発端はダリの隠し子だと名乗る女性(マリア・ピラル・アベル・マルティアというタロットの占い師)が現れた事で、ダリの財産(約500億円……意外に安いのは、晩年に近親者たちが勝手に使い込んでいた為)を管理しているダリ財団と、この占い師をめぐって、遺産の相続に絡んだ権利問題に発展しかねない情況が出てきたからである。遺体をDNA鑑定する事を命じたのはマドリ―ドの裁判所である由。そして今年の7月に調査が始まり、先日、結果が出て白と判定され、この占い師には調査に要した多額の費用の賠償請求が近々に課せられるという。………………実は、結果が白である事は、私は当初から既に読んでいた。私事になるが、2004年に刊行した拙著『「モナリザ」ミステリ―』(新潮社刊)所収の「停止する永遠の正午―カダケス」で、ピカソ・ダリ・デュシャンを登場させたが、私はその執筆に際し、多くの資料や逸話までも動員して彼らの下半身事情―いわゆる性癖までも徹底して調べあげていた。その結果、確信を持ったのであるが、ダリは自らを蟷螂(雌に食べられる雄のカマキリに自身を同化する、男性性における性的な不能者)に見立て、ダリの頭上に君臨するガラの横暴に耐える事にのみ性的な恍惚を覚えるという、徹底した受動体であったのである。ダリの「隠し子」と名乗るその占い師が、ダリと自分の母親が関係したと主張する時期は、既にダリはガラの徹底した管理下にあったカダケス時代であり、精神的にも肉体的にもダリの実体の近似値を他に求めれば、浮かんでくるのは、あの谷崎潤一郎の『春琴抄』に登場する丁稚のマゾヒスト・佐助に限りなく近い。……ひたすら堪え忍ぶという忍従の徹底から放射する、独自で特異な美の結晶。谷崎は、マゾヒズムを極める事で、それを超越した耽美主義の誰にも真似の出来ない絢爛たる隱花を咲かせたが、ダリもまた独自な偏執抂の月下の美を顕した。ダリが美の規範(カノン)とした基準は〈可食的であるか否か〉であったが、自身の徹底した受動体の価値を、そこに合わせ見ていたように私には思われる。…………それはそうと、今回の、墓を掘り出してダリの遺体を調査するという話から思い出したのであるが、フランスでは数年前に、ジャンヌ・ダルクを火刑にしたその遺灰からDNA を調査する試みが実施されたというが、15世紀初頭の人物にまで調査する対象が向かうという、その白か黒かの徹底には、痒い所に手が届くという観があって私は好きである。……話を日本に変えれば、「坂本龍馬暗殺の真相」をめぐって何百冊もの本が書かれてきたが、その詰めになると皆一様ですっきりとしない。中岡慎太郎が最後に語り遺したという、死客達の斬り込み状況のみを信じて、それを鵜呑みにしているが、ズタズタに斬られて断末魔にある中岡慎太郎に、定番として語られているような暗殺時の状況を冷静に振り返って語れる筈がない。真相は、薩摩あるいは土佐の政治的な理由に拠って周到に隠蔽された観が強いのである。……いっそ、東山霊山に埋葬された龍馬、慎太郎、そしてその後に埋葬してある藤吉の遺骸(三人とも樽の中に座ったままの土葬)を掘り出して、その頭蓋骨や肩、背骨に残る刃傷痕の強弱、深浅を調べれば、より確実で具体的な惨事の状況と、新たなる真相が見えてくるのになぁ……と、京都に行って墓参の度に焦れったく思う私なのである。もっとも、調査を実践した場合、翌日の朝刊の一面を飾るトップニュ―スになる事は間違いないであろうが。……そして、その龍馬の墓の同じ場所から、三人以外の、(伏せられている)もう一人の人物の少量の骨が出てくる事は間違いない、云わば知る人ぞ知る……の真相であるが。その小さな骨が、龍馬の妻―明治39年に亡くなって、その遺言により、妹の光枝によって横須賀の信楽寺の墓以外に分骨されたお龍その人である事を知って、……これもまた話題になる事は間違いない事ではあるが。………………

 

 

 

 

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『狂った夏の終わりに』 

8月25日、東京芸術劇場に勅使川原三郎氏のダンス公演「月に吠える」を観に行く。以前に私はこのブログで、彼の表現に於ける実験性と完成度の高さが共存する事の稀有な素晴らしさについて言及したが、それに加えて、知的洗練と原初的な獣性が同居する事の凄みにもまた触れるべきかと思う。月に吠える―萩原朔太郎。このイメ―ジのネクロフィリアの詩は、梶井基次郎、川端康成に通ずるものがあり、その湿った鈍い光は、私の初期の銅版画のマチエ―ルに深く吸収されていったように思われる。……この日に観た勅使川原氏の多彩多層な変幻と対を成すかのように、佐東利穗子さんの綾なす〈イノセント〉が、この舞台に不思議な艶を醸し出していた。無垢から無限まで、佐東さんの表現領域もまた無尽へと射程の拡がりを見せている。……公演終了後、私は興奮の汗の生々しく残る楽屋に行き、氏に「芸術というものは、虚構が紡ぎ出す砂上楼閣―水晶伽藍だと思っていたが、こと勅使川原氏のダンスに於いては、それだけでは言い切れない別なものがあるように思う」と語った。別なもの、……全ての概念を捨て去った身体の、更なる否定と懐疑の後に初めて立ち上がる、それは特異な未だ名付けえぬ領域に棲まうものなのかもしれない。

 

9月1日。昨年の今日、私は撮影のために、パリとブリュッセルに向けて出発した日である。……その時の成果は、今年の5月、日本橋濱町のギャラリ―・サンカイビでの写真展「暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように」で発表した。……パリでは、ISが次にテロをやるとしたら何処を狙うか……という話を友人として、私は、「ル―ヴル美術館かノ―トルダム寺院が危ないな」と話をしていた、まさにその時、直前に未遂で捕まったものの四人の女性テロ集団が、私が正に言ったノートルダム寺院に向けて、爆弾を積んだ車で突進するという事件があった事を、深夜のニュースで知った時には驚いた。

 

9月2日、恵比須のギャラリ―・LIBRAIRIE6で、澁澤龍彦没後30年展の第Ⅰ部「石の夢」に展示してあったパエジナ・通称―「風景大理石」を予約していたのを引き取りに行く。この石はイタリアの或る山でしか採れない石で、砕くとその断面に、不思議な支那の寺院や、カタストロフの光景、或いはタ―ナ―が描いたような落日の光景……が浮き出ていて、私達の想像力を煽ってやまない石なのである。ゲーテやミケランジェロもこの石に魅了され、そのコレクションをしていた事は、よく知られている。以前に英文学者の高山宏氏からの依頼で私は丸善で刊行している冊子に、この石について書いた事があるが、澁澤龍彦氏や、ロジェ・カイヨワの著書にも度々登場するのでご一読をお勧めしたい不思議な石である。……「絵のある石」パエジナは、わがアトリエに来て、ルドンやジャコメッティ、ゴヤ、川田喜久治、ホックニ―、ベルメ―ルといった秀作の中に混じって、壁面の一角に掛けられた。……そしてその不思議な波動を受けながら、私は秋に迫った個展、11月8日から11月27日まで日本橋高島屋本店・美術画廊Xで開催される個展に向けて、いま制作の真っ只中にいるのである。アトリエに設置した巨大なテ―ブルの上には、微温を帯びた不思議な漂流物のように、新作の未だ名付けえぬ物たちが次々と並べられており、その出番を待っているのである。

 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART③ 

前回の続き。……ロンドンのイ―ストエンド地区は、旅行ガイドブックには載っていない、今もなお不穏な気配のする危険区域である。ロンドン塔からさらに東に行ったその先が、5件の売春婦連続殺人事件の5つの現場がある地域―ホワイトチャペル界隈である。犯人の切り裂きジャックの事件と同時期に、デビット・リンチの映画『エレファントマン』の実際のモデルとなった人物―ジョゼフ・メリックもまた、このホワイトチャペルにある興行小屋で異形な見せ物として、観衆の好奇な視線に晒されていた。……つまり、そのエレファントマンを観る観衆の中に、切り裂きジャックが紛れ込んで観ていた可能性は充分にあるのである。……さて、事件から103年が経った1991年の夏の或る昼下がり、私は仁賀克雄氏の著書『ロンドンの恐怖・切り裂きジャックとその時代』(早川書房刊)1冊を持って、5件の現場全てを見て回っていた。最後の犠牲者となった売春婦メアリー・ジェ―ンは、「間違いなく次は私の番だわ!」と言い残してパブを出て数時間後に予言どおりに殺された。その彼女が最後に入ったパブに入り、私もまた喉を潤したが、出されたビ―ルは生温く、半分だけ飲んで、最後の現場―彼女の自宅跡のあるミラ―ズコ―トへと歩を進めたのであった。

 

〈切り裂きジャック〉という名前は、犯人が自らつけた名前である。びっくり箱の事をJack in the boxと言うが、深夜に闇の中からまさに突然ナイフを持って躍り出てくる犯人には、まさしくピッタリのネ―ミングかと思われる。……さて、ジャコメッティに話を戻すと、ここに、売春婦の喉を切り裂く犯人〈切り裂きジャック〉の行為と重なる異形なオブジェがジャコメッティに在るから面白い。『Woman with Her Throat Cut』(喉を切り裂かれた女)。画像を掲載したが、極めておぞましい戦慄きわまりない、この作品。見た瞬間に、喉を掻き切られたような触覚的な恐怖感覚に誰しもが襲われる。……このような加虐的なオブジェを作っていた前期は、父親の死を契機にピタリと終わり、一転して私達の知る、あの細く長い彫像へと一変する。……多くの論者は、ジャコメッティの前期と後期を分けて語る向きがあるが、私は前期、後期は表象の違いを越えて、その本質は変わらずに繋がっていると考えている。……その変わらない低奏音に流れているのは、彼に固有の呪われたオブセッション(固定された脅迫観念)とフェティシズム(性的倒錯・呪物崇拝)であろうかと思われる。その資質、感性の澱みの奥から突き上げて来る破壊衝動は、彼にあっては芸術という形而上学の衣裳を帯びた、しかし、その本質は犯罪者のそれ(破壊衝動)である。……今、私は自分がコレクションしているジャコメッティの銅版画『アトリエの光景』を前にして、この文章を書いている。アトリエの中の二点の彫像を表したその作品から静かに伝わってくるのは、3次元の空間への像(イマ―ジュ)の顕在化よりは、消し去りたいという、像の抹殺的な破壊衝動の方が、そのベクトルの引き合いに於て勝っているように思われる。

 

……オブセッションとフェティシズム。私はジャコメッティに沿って書いているが、しかしこの2つの云わば病める病巣は、突き詰めれば、実は芸術に関わる者には必須の資質であると思っている。……例を挙げれば、ゴッホ、ムンク、ベ―コン、ダリ、キリコ、ス―チン、クリムト、シ―レ……などと次々と浮かんで枚挙に暇がない。その過剰で強度な感性の突き上げの果てに、芸術という美の毒杯、ポエジ―という能う限りの危うい華が顕在化するのである。(この稿・終わり)

 

 

 

 

 

 

 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART②

前回の続き。……さて、ジャコメッティ展の会場の中は、前期のシュルレアリスムに接点を持つと見ていいオブジェの展示から始まっていた。拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも言及しているが、殺意に充ちた白日夢のようなヴィジョンの開示に、会場の観客は息を潜めている感がある。更には僅か数センチの高さしかない女の全身像に観客は一瞬、息を呑む。人々はそこに実存主義的な概念を、或いはオブセッション(強迫観念)的な感覚の放射を絡め見るかもしれないが、これらの表現のオリジンは、顕かにエジプト美術に見る極小の呪詛的彫刻を範としたモダニスム的な変容である。…周知のように、ジャコメッティの着想の源は、フラ・アンジェリコやデュ―ラ―などの古典絵画から得ている事が多いが、そのオリジンを読み解く事もジャコメッティ展の1つの楽しみであろう。……さて、私は本展で気になる作品に出会った。それは折れたスプーンの先端を巨大化したブロンズの作品で、タイトルは女性の像とある。スプーンの反りが、見立てとして、つまりは女性の内臓を根こそぎえぐりとったイメ―ジと重ねているわけで、彼の内なる御し難い加虐的なサディズムの映しを、私は、前期のシュルレアリスム的傾向の強い時期のオブジェ群から変わらずに在るものとして、そこに見て取った。僅かな距離の絶対視、存在、出現、消滅……といった正面性(フロンタリティ―)からの論点のみジャコメッティは語られる観があるが、かつてピカソがジャコメッティ論の白眉として高く評価した、ジャン・ジュネの著した『ジャコメッティのアトリエ』の中の1節「ジャコメッティは同時代の人々のために仕事をするのでもなければ、来たるべき世代のためでもない。彼は死者たちをついに恍惚たらしめる立像を作るのだ。」という記述にもっと注視すべきであろう。……〈死者たちをついに恍惚たらしめる立像〉。この一行の中に、あまりに美しい表現としてのエロスとタナトスが孕まれているのである。……そう、彼の内なるエロスへの傾きは、顕かに至近的にタナトス(死神、死への誘惑)へと直結しており、その強度な濁りの内から、彼の特異なヴィジョンは立ち上がっているのである。……その知られざる一例として、彼は「売春婦」という言葉と存在に病的なまでの拘りと執着があり、そこに過剰な破壊的衝動、つまりは死に至らしめたいという、自身の闇のフェティシズムについて、密かに告白してもいるのである。逸話を話そう。……ジャコメッティの妻はアネットであるが、カロリ―ヌという名の愛人がいた。彼女の職業は高級娼婦である。ジャコメッティは、前回のブログでも記したが、自身は清貧に甘んじながら、愛人の娼婦には莫大な金を与え、その娼婦は真っ赤な巨大な外車を乗り回して、深夜のパリを絶叫しながら走り回っていたという。この話から私が連想するのは、パリを巨大な鳥籠に見立て、その中で羽ばたく下品な声を放つ真っ赤な鳥のイメ―ジである。その鳥は自由に放たれて見えるが、パリという巨大な鳥籠の檻から遂に逃れる事は出来ない、詰まりは飼い殺しの、ジャコメッティの視線の内に常に在る。……閑話休題、そのような事を想いながら、更に展示会場を進むと、ジャコメッティのアトリエを中心とした付近の地図が掲示してあった。……それを見て、私の中に推理の閃きが走った。ジャコメッティのアトリエの近くに娼婦街がある事を知ったのである。……ジャコメッティが、ここモンパルナスのその地にアトリエを構えた、もうひとつの秘めた意味が、夜のパリの闇のイメ―ジの内にうっすらと見えて来たのである。……誰も書かない、もうひとつのジャコメッティの病巣、そこからインスパイア(つまりはインスピレ―ションの動詞形)する強度なまでの彼の表現。……私はそんな事を想いながら再び地図を眺め見た。先ほど記したジャコメッティの娼婦への拘り、そして、内臓を根こそぎえぐり取ったその加虐的なイメ―ジの女の彫像。…………するとパリのその地図は一転して、ロンドン・イ―ストエンド地区、ホワイトチャペル界隈の地図と重なって見えて来た。…………1991年の7月の或る日、私は、そのホワイトチャペル・バックスロ―界隈の中にいて、ヴィクトリア時代の霧の中に消えた一人の男の影を追っていた。……1888年の春から晩秋にかけて、この界隈で一人の男が疾風の如く駆け抜けて五人の娼婦を殺害した。世にいう〈切り裂きジャック〉である。……そしてその被害者の内臓は鮮やかな刄の捌きによって、全てえぐり取られていた。……あろうことか、ジャコメッティと切り裂きジャックの二人の暗いシルエットが、私の内で最も近似的な存在として重なって来たのであった。 (……続く)

 

 

 

 

 

 

 


 


 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART①

 

先日、制作の合間を縫って国立新美術館で開催中のジャコメッティ展を観に行った。……以前にパリに撮影で出向いた際に、たまたまポンピドゥ―センタ―で開催中の大規模なジャコメッティ展に出くわした事があったが、ここの展示は見事であった。キュレ―タ―の質が高く、知性とハイセンスが相乗して現在形の1つの優れたジャコメッティ論考の豊かな高みにまで達していたのである。興味深い展示資料も多く、実際に解体保存してあったアトリエまでも再現して会場で見せているのであるが、その徹底には感心させられた。やはり作者が生きていた本場ならではの強みなのであろう。……さて今回の会場には、ジャコメッティが通ったモンパルナスのカフェ・ドフロ―ルで寛ぐジャコメッティの珍しい映像が上映されており私の気を引いた。そして、私は面白い逸話があったのを思い出した。……ジャコメッティは早朝まで制作に没頭し、ようやく終わるや、近くのモンパルナスのカフェに来て、朝食のパンと茹で卵を食べるのが日課であるが、しかし制作の余熱が残っている時には、カフェの伝票や新聞に、先ほどまで取り組んでいた肖像の残余の面影をボ―ルペンで描くのである。会場には、その時に描いた作品が数点展示されていたが、これにはちょっとした挿話がある。……ジャコメッティは、その描いた紙を描き終えるや、テ―ブル下の床に執着なく次々と落としていく。……下世話な事を書くが、その価値や1枚が数千万円。……それが何枚も床に残されたままにジャコメッティはアトリエへと帰って行く、それが早朝の彼の日課なのである。…………さて、ここに一人のギャルソン(カフェの給仕)が登場する。この男は目敏く、床に落ちている作品を日々集め続け、相当な数に達していたという。またもや下世話な事を書くと、既にして数億の財産を彼は手にしているのである。誰が見ても優れた作品であり、それだけで明らかにジャコメッティ作とわかるのであるが、この男は価値の倍増を思いつき、ある日、あろうことかジャコメッティ宅を訪問し、ジャコメッティに各々の作品にサインを要望したのである。……当然な事であるが、持ち込んだそれらの作品は全てジャコメッティに没収され、それらの作品は契約先のマ―グ画廊の収蔵と化した。この話、私は大好きな話でたいそう気に入っている。……肩を落として去っていくギャルソンの後ろ姿に、晩秋に散るマロニエの葉が重なって、その日のパリはたいそう哀しいのである。……さてこの逸話と対照的な話が1つある。……それはダリとガラの話であるが、ダリは閃きの画家なので、ジャコメッティと同じく、カフェの伝票などに奇想的な絵を描き、また同じく床へと次々に落としていく。しかし、ダリのマネ―ジメントを(ダリの人格権までも!!)管理していたガラは徹底していた。ガラは、床に落ちるその作品をその場で徹底的に回収し、残す事なくその場から全て持ち帰っていたという。ダリの価値が下がる事に対する病的なまでの過剰な神経を注いでいたのである。…………逸話には、その人間像の知られざる側面がもうひとつ見えてくるものがあって、なかなかに面白いものがあるのである。(続く)

 

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『Morisotに恋して』

……突然であるが「模写」というものはいい。頭ではなくて、手と眼を通した色彩や線のなぞりからは、模写の対象であるその画家の、描画の際に移行していく意識や逡巡さえも伝わってきて、実に豊かなエッセンスの吸収や、作品への理解が出来て、実作者にしか見えない様々なものが身に付いてくるのである。筆法は文体にも似て、作者の密なるものがそこから透かし見えてくるのである。……高校生の頃は、よくこの模写をした。日本では佐伯祐三、西洋絵画では主にモネ、ドガ、そしてセザンヌあたりを熱心に模写したものである。しかし、マネはやがて卒業して、むしろ前代のマネやタ―ナ―に私の関心は移っていった。特にマネはどうしても解けない知恵の輪のように平明でありながら、その実は不可解な謎に充ちている。その謎の最大なるものは、マネはモネ達の新しいイズム、つまりは印象派の価値を最大に認めて支援しながらも、何故マネは、近代のその先へと進まず、足踏みするように自らを前代の中に押し込んでしまったかという謎である。

 

マネ(1832~1883)のその意識の深部に迫るべく、同時代を生きた、例えばボ―ドレ―ル(1821~1867)と比較して検証がなされる事が多いが、視点が社会学の域を出ていない為に、検証はきまって尻切れ蜻蛉に終わっている事が多い。……しかし、社会学ではなくて比較文化論的に絞って考えると意外に見えてくるものがある。つまり、西洋の謎を東洋の地―日本に移してみると、似たケ―スに辿り着くのである。その対象とは、マネとほぼ同時代を生きた明治の時代の人、夏目漱石(1867~1916)や森鴎外(1862~1922)と、モネ(1840~1926)とはやや遅れるが大正時代の人、芥川龍之介(1892~1927)や志賀直哉(1883~1971)を比較してみると面白い事が見えてくる。その検証の切り口として、乃木将軍の殉死(明治45年―1912年)の例を考えてみるとわかりやすい。乃木将軍の死に際し明治の人はこぞってショックを覚え、、漱石は『こころ』を、そして鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いているのに対し、芥川は乃木将軍の死に突き放した違和感を覚え、志賀は日記に「下女かなにかが無考えに何かした時と同じような感じがした」と素っ気ない。つまりは成長と共に形づいてくる個人の意識よりも、いつ生まれたかという時代の衣装、さらには意匠に、先ずもって決定的に我々の感受性は括られているという事が、このケ―スから見えてくるのである。マネがモネの才能や次代のモ―ドに理解を示したのと同じく、漱石は芥川の新時代の才能や更なる文学空間の拡がりを理解して芥川を文壇へと導いたが、自身の理念は生涯、明治の人であり続けたのと重なって来よう。私事になるが、私が美大の学生時に最初に出会って意識した表現者としては、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎がいた。影響力のある人だけに、学生達は教祖を慕う信者のように、駒井の世界こそが銅版画の範であるかのごとく染まっていったが、二十歳の私はかなり醒めていた。駒井の感性のリアリティ―をいたずらに模倣する事に危険を覚え、何よりも、自分の表現空間の有り様を未知の方に見て、自分のリアリティは駒井哲郎とは違う、まだ先の地平に待っていると確信していたのである。……そして結果は正しかったと私は今、断言出来るのである。……これは表現者の場合だけでなく、普遍的に、人は誰もが、その生まれた次代軸の座標によって、感性を揺らしながら宿命的に生きていくのである。

 

……さて話をマネに戻すと、最近私はマネが描いた不気味な「ベルトモリゾ」の肖像が存在する事を知って驚いた。近代絵画の中で最も美しく描かれた一人に、マネの弟子であった画家のベルトモリゾがいる。美形のモリゾをマネはよほど気に入っていたらしく、およそ10点ちかいベルトモリゾの肖像が残っている。……美しかりしベルトモリゾ。しかし、もう一点のグロテスクな婦人像もまたベルトモリゾである事は、最近まで知られていなかった。……モリゾと親交があったルノア―ルでさえ「ヴェ―ルを被ったとても醜い婦人像」と記して気付いていない。またベルトモリゾ自身が「私は醜いというか、奇妙な姿をしています。詮索好きな人たちの間では妖婦と呼ばれているようです」と、姉に宛てた手紙に書き送っているが、確かにこのグロテスクな肖像は、ゾラの小説『ナナ』の娼婦像の悲惨を越えて、私がかつてロンドンで追い求めた『エレファントマン』の骨格標本(ロンドン病院所蔵)に似て、あくまでも怪異である。しかし、この二点は共に同年の作というから、そこから否応なしに画家とモデルとの私小説的なドラマが見えて来よう。さらには日記の秘められた叙述のようなものが……。ちなみにベルトモリゾは、マネの弟のウジェ―ヌと1874年に結婚しているが、この二点が共に描かれたのはその2年前である。……ピカソの主題は常に私小説的であり日記のようなものであったと云われるが、ピカソに限らず、表現者の創造のアニマとヴェクトル、そして表現の衝動はみな、日常の実人生の中から立ち上がってくる。日常性から形而上への性急なる昇華。その現場に立ち入れないところに、或いは評論の限界なるものも、あるように思われるのである。

 

 

 

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『突然、喉が……』 

先日、スパンア―トギャラリ―のオ―ナ―の種村品麻さんと話をしていたら、実に嬉しい逸話を話してくれた。品麻さんのお父上はドイツ文学者の種村季弘さんであるが、この人の眼力は三島由紀夫も絶賛したくらい、物の本質を見極める名人である。種村さんは、美術家から依頼されて個展の序文も書かれるので、その御礼や交遊の記念にと、美術家たちは自作をプレゼントするので、種村さんのコレクションの数たるや実に多い。この点は双璧と評された澁澤龍彦さんと似ている。北鎌倉の澁澤さん宅に今に残るコレクションもやはり多くの寄贈から成り立っているのである。……その種村品麻さんいわく、「親父が自分で購入したのは、北川さんとハンス・ベルメ―ルの作品だけですよ」と。……確かに拙作の『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』は、種村さんを特集した日曜美術館でも特別に愛蔵されている感じで映像に流れた事があったが、それよりも、私が高く評価しているベルメ―ルと対である点が実に嬉しく、私は素朴に喜んだ。そして私の作品について執筆する構想を抱いておられたが、果たせず亡くなられた事の具体的な詳細を私は品麻さんからお聞きした。確かにこれほど自信の裏付けとなる心強いものはない。……しかし、喜びのすぐ後で予期せぬ悲劇が私を襲った。突然声がかすれて来て、遂には言葉が出なくなってしまったのである。品麻さんも私の急な変調を心配されたが、また出直しますよとかすれ声で云って、私は画廊を出たのであった。……度々私を襲うこの奇妙な病気、しかし遂に咽頭癌の症状が出たかと私は焦ったのである。

 

過去に確か4回はあったと思われる、この奇病。さっそくクリニックで診てもらったところ、急性咽頭炎と診断された。全治2週間は要するとの事である。タブレットで調べてみると、美輪明宏さんも患い舞台をキャンセルした由。……歌は歌わないが、喋るのが存在の証しのようによく喋る私にとって、喋れないというのは1種の死刑宣告にも似た酷がある。更にタブレットで調べてみると恐ろしい事が記してあった。この病気が悪化した場合、最悪は喉から肺に至る気道が炎症によって塞がれる為に呼吸不全で死に至るとの由。……2週間経っても快復しないので、内科から耳鼻咽喉科のクリニックに変えてみたら、ようやく改善の兆しが見えてきた。……私はそこの看護婦さんから面白い事を聞いた。声がかすれている為にどうしてもヒソヒソ声で喋るようにしてしまうが、却って声帯の筋肉を弱くしてしまい、治った後もずっと小声になってしまうので、どうしても伝えたい時には、普通の喋りで簡潔に!と教わったのである。私がそれを聞いてすぐに連想したのは、瀧口修造さんの事であった。今では、その存在は伝説と化しているが、その瀧口さんが、全く聞き取れない感じで小声で喋るのは有名な話で、先日読んだ立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』の文中で武満さんも言及しており、かなり聴き逃した貴重な話があった由である。その小声の原因は、奥さんが小声で喋るので、それに瀧口さんが合わせている内に小声になってしまったのである。その瀧口さんの小声での囁きは、あたかも聖なる話の秘技的な伝達であるかのように今日では神話化されているが、事実は声帯の筋肉の衰弱にあったとは面白い話かと私は思う。……今では神話化して伝わっている、その瀧口修造さんが小声で話される現場に偶然遭遇した事がある。……私がまだ美大の学生であった時、銀座の西村画廊で開催中の草間彌生展に行った時に、会場に瀧口さんが座っておられて、その横に草間彌生が座って、小声で話す瀧口さんの言葉を聴き逃すまいとする真剣な姿があった。自分の存在を全く主張しない事によって逆にブラックホ―ルのような強度な存在感を放っている、その老人の姿を最初に見て、ただ者ではない事は察したが、近寄って、その老人が瀧口修造さんである事を知って私もまた緊張したのを今もありありと覚えている。瀧口さん亡き後、その周囲にいた美術家のほとんどが俗世の欲に自身を落としてしまったが、それを思うにつれ、ますます瀧口さんの存在だけがより美しく、より孤高化していく観を覚えるのは私だけではないであろう。……閑話休題、長かったこの病気も日に日に快復してきているので、オブジェの制作もまもなく加速していく事であろう。暫く休んだ分、いま猛烈な創作への意欲が湧いているのである。

 

追記:   先月、ギャラリ―・サンカイビでの個展の時に、私はコレクタ―の土手秀人さんから実に貴重で興味深い贈り物を頂いた。……生前に瀧口さんが愛蔵されていた古い皿である。瀧口さんが亡くなられた後に、瀧口さんのコレクションの整理に関わった骨董商から土手さんへと渡り、そして縁あって私のアトリエに漂着したという次第である。青い絵具で一気に描かれたとおぼしき植物の線が部分的に滲んで妙味があるが、日本の器とは絞りきれない情趣があって面白い。推測するに、その器を諒とした感性を想えば、小林秀雄、永井龍男、堀辰雄、中原中也達と関わりのあった「山繭」の時代に入手した器かと思われる。…………また、画廊の視点から現代の美術の分野を牽引し、今では伝説的な画廊となった佐谷画廊の佐谷和彦さんは長年『オマ―ジュ瀧口修造』展を企画して、タピエス、デュシャン、そして、武満徹さんや駒井哲郎さん達が関わった実験工房と瀧口さんとの関連を軸に展覧会を毎年開催して来られたが、そのオマ―ジュ瀧口修造展の最後の作家として考えていたのが私の個展であった。私は佐谷さんからその企画構想がある事を打ち明けられた時は、荷が重いです、と語ったが、佐谷さんがやって来られた展覧会の唯一無二なレベルの高さを思えば、私は佐谷さんが抱かれた私への評価を素直に受け取って、以後の表現活動に鞭打つ覚悟である。

 

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『on Kawara(河原温)の作り方』

先月、池田満寿夫美術館で講演をした翌日に、私は長野駅から電車で上田駅に行き、私の作品のコレクタ―であり旧知の友人でもある真田町に住むK氏宅を訪れた。K氏ご夫妻は、500坪の土地と古民家付きの物件を3年前に田園風景の広い真ん中に入手して以来、自給自足・晴耕雨読の実に羨ましい人生の時間を過ごされている。庭園では数多くの野菜や果実を、また近くの川ではヤマメや鮎を釣ったりという、……都会の喧騒からみると、この土地では実にゆったりとした時間が流れていると想った。築100年は経つという古民家をモダンに改装したという趣のある家内に入って、すぐに私は驚かされる光景に出会った。……小暗い壁面に、グレーに彩色したキャンバスに、制作した日付をレタリングした「日付け絵画」で知られる河原温の作品が二点、さりげなく掛かっているのである。これは大変な購入金額になるであろう。……そして机上には、以前に川村美術館や原美術館の個展で見た事のあるトゥオンブリ(Cy Twombly)の、組み立てた細木に石膏地で白く彩色したオブジェが1点静かに置いてあり、……そして、もう一方の壁面には、私のオブジェらしき作品が掛かっているのである。しかし、一見して私は理解した。……自分で言うのもなんであるが、構成力、空間の間の取り方、詩情……つまりは総じての緊張感が全く伝わって来ないこのオブジェは、私の表現世界にK氏自身が入り込みたいという一心の強い想いで作った、一種のコピ―なのであった。私はその動機の純なるを知って笑いだしてしまったのであるが、……しかし、トゥオンブリは実に上手く出来ていて私は感心してしまった。トゥオンブリの個展会場に悪戯でそっと紛れ込ませても、おそらく観客も学芸員もそれと気付かないであろう、……それほどにこの作品は、トゥオンブリのエッセンスを掴んでいる。……そういえば氏は知る人ぞ知る、大のトゥオンブリのファンであり、その関連書籍を数多く持っている。果たしてK氏はトゥオンブリ研究の1つの試みとしてオブジェを作られた由。しかし私は言った。「君とトゥオンブリの決定的な違い、……それは君の方が綺麗に上手く造り過ぎている事だよ」と。……さて、もう一方の河原温、しかし、ここに両者(作者とK氏)の差は全くなく、完全にオリジナルに見えてくるから不気味である。……私は以前から河原温の「日付け絵画」を、関係画廊や美術館の学芸員が、沈黙に徹した河原温になり代わって、代弁者のごとくその意味性を熱く語る程には評価していない。ただ、その概念なり、ミニマルなり、……まぁそんな事はどっちでもよいのであるが、その概念なり、ミニマルなり……を意味付けるに足る、あの日付け日記の画面に配されたグレーの彩度の有り様の上手さだけは、意匠として、また修辞的な点から見て、秘かに、なるほど確かに役者だな!……と思っていた。スペインのベラスケスやゴヤの「黒」に影響を受けながらも、あの独自でエレガントな独自の黒に達した、マネのあの「黒」は、実に24色もの色彩を絶妙にブレンドして作られている事を知る人は少ないであろう。それを知る私としては、河原温について知りたい関心事は、唯その一点であった。……お茶を頂きながら、私はその事をK氏に話した。

 

 

河原温のコピ―の出来映えのあまりの上手さに疑問を発する私の問いに、K氏は次第に含み笑いをしながら「……実は1冊のネタ本があるのですよ!」と言いながら席を立ち、書庫の中から1冊の薄い冊子を取り出してきて見せてくれた。私はそれを開いて呆気に囚われてしまった。……かつて60年代~70年代中期までを席巻した「概念芸術」なるものは、例えば神社の構造的仕掛けと似ているところがあるように思われる。奥の聖なる神威気に意味を持たせる為に、その拝殿に到る迄の、鳥居からの静静と続く長い距離と玉砂利の感触と音、そして鬱蒼とした杉の木立は必須アイテムなのと同じく、作者と観者には既にして共有化された約束事、共有感覚、集合無意識的なと云っていい課せられた意味付け……といったものがいつからかある。そしてそこに疑問を挟む事は村に棲む者同士の無言の掟のように排されている。概念が、ただ概念だけがそこでは必死で震えながらつま先立ちで立っている。……故にその傾向の作品の作り手達は、作品の横にいて意味付けに饒舌になるか、或いは河原温のようにストイックなまでに沈黙に徹するかの二者択一の選択をとる事となる。しかし、この〈沈黙〉は明らかにデュシャンの姿勢を借景としている事は明白であるが……。そして教祖の沈黙故に信者は代わって多弁になる。……しかし、私が手にした薄い冊子には、「それを言っちゃお仕舞いよ!」とばかりに、私が知りたかった日付け絵画のセピア色の下地の塗りから、次なる色の重ね、そして下地の透かしと相乗して映える仕上げのグレーの塗りの生々しい行為を写した連続写真。そして最後の日付けのレタリングの様。まるで夏休みの工作本のように、さあ、君にも明日から出来る「河原温の作り方」といった内容が写真満載で載っている本を私は手にしてしまったのである。プロセスを撮した写真の存在は聞いていたが、出版となると、そこに具体的な別なる意味が加わって来よう。……歌舞伎役者が舞台裏まであからさまに見せては中心の何かが割れる。概念とは、巨大な時間や世界までも孕んでいるようであるが、その実は「表こそ全ての、つまりは一種の知的遊戯」のようなものかと思われる。……その表象の意味付けは、行為の生々しさを隠す事によってかろうじて成り立っているのであるが、この本は禁裏を破るようにして今ここに在る。奥付けを見ると河原温がまだ存命中の時の出版とは如何にも不可解。出版したのは作者の身内らしき女性の名前……。想像力の動きすぎる私が先ず考えたのは、余人の計り知れない何事かあっての本人もまさかの出版という推理……。この着想を笑うなかれ、かつてダリと近親相姦の仲であったとされる妹が、ガラに走った兄への復讐に書いた暴露本の主題は「如何に兄(ダリ)が普通の人間であったか!」という内容。謎めいた自己演出に必死のダリが最も嫌がる弱点の角度を妹は知っていたのである。……故に私の推理は先ずは俗からはじまり、次に至ったのは河原温自身によるパンドラの函明け、……つまり40年以上コツコツと作り続けた日付け絵画からの脱出宣言、自己放棄によるカタルシスの獲得ではなかったか……という推理である。数年前に私は河原温と親しかったというニュ―ヨ―ク在住の女性の画家とたまたま会って話をした折りに、河原温の本音は、絵を思いっきり描きたかったという事を本人はいつも云っていたと言うが、あくまでも他者からの伝聞なので、さぁ本当かどうかはわからない。もし本音であったとしても、契約画廊はそれを望まず、ストイックな生き様と、スタイルが変わらないという牢獄のような徹底を持って作者のアピ―ルを続けるであろう。……この点、たとえそのスタイルが評判が良くても、賽子の目のように表現が次々と変わり続けたピカソとは対照的である。ピカソが資本主義にひれ伏すのではなく、経済も含めた世界がピカソに平伏したのである。

 

……K氏宅から見る田畑の拡がりは果てしなく続き、蛙の声が響いてきて懐かしい。晴耕雨読は誰もが懐く理想郷であるが、氏はその生活を獲得し、自然を愛でるように美の世界もまた変わらぬ強い関心を懐いている。帰りにK氏はトゥオンブリの画集をお土産にくれたばかりか、真田町のこの土地から出土したという、銃弾を製造する鉄製のやっとこのような道具をプレゼントしてくれた。江戸期には武器の無断の製造は禁じられていた為に、これは錆び具合から見て、真田一族の時代の物かと想われる。その錆びた感触からは明らかな、遠い時代の時間の澱が紡いだ確かな物語りの豊かさが伝わって来て、概念という実のないものとは明らかに違う、確かな手触りの生ある豊かさが、ありありと伝わって来るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◀展覧会のお知らせ▶

独自な切り口で知られるスパンア―トギャラリ―の企画で、6月25日まで六本木にある六本木ストライプスペ―スで、『永遠の幻想・美の幻影』と題した展覧会が開催されていますのでご覧頂けると有り難いです。出品作家は私の他に、金子國義・合田佐和子・野中ユリ・今道子・Hヤンセン・ベルメ―ル……etc

 

〈六本木ストライプスペ―ス〉

東京都港区六本木5―10―33・ストライプハウスビル 1F・B1

TEL:03―3405―8108

地下鉄大江戸線・日比谷線「六本木」駅3番出口。

アマンドを右に曲がり、芋洗い坂下る。徒歩4分。

 

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『今、アトリエにて想う事』 

写真の個展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』(ギャラリ―サンカイビ)が、先日の30日に盛況のうちに終了した。遠方からもたくさんの方々が画廊に来られ、交わし合う話しの中からも私は自分の新たな試みに確かな手応えを覚える事の出来た収穫の多い個展であった。……オブジェ、コラ―ジュ、詩、執筆、そして写真、更には、どのように化けていくのか未知数の中のサムシングの絶え間ない発芽への注視……。この六輪を各々に廻しながら、私の表現活動はなおも続いて行くのである。…………私が今回の写真展で強くその「眼」を意識したのは、写真家の川田喜久治さんであった。今日の写真家の多くが、迷走、失速、衰弱、そしてとって付けたような浅薄な観念の意味付けに傾く中で、唯一人、光が孕む魔的な闇の正体を追って悠然たる独歩の道に分け入っている、写真術師たる川田さんの眼は、私はやはり意識する。しかし、この緊張には心地よいものがあり、会場で川田さんが拙作の写真をご覧になっている間、私は無性に嬉しくて仕方がなかったのであった。前回のブログで登場した駒井哲郎さん、棟方志功さん、そして私をプロの道へと引き上げてくれた池田満寿夫さん達に、20才を過ぎたばかりの頃に拙作を観てもらっている時に覚えた手応えに通ずるものを、私は川田喜久治さんにも覚えるのである。つまり私は、本物の稀人たる表現者にしか興味がないのであろう。川田さんが以前に私の写真について書かれたテクスト「ひかりの謎」(私の写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』所収)は、読み返す度に発見があり、私を確かな方向へと導いてくれる本質的な示唆に充ちている。その確かな眼差しは、私が最初に版画家として出発する24才時に、池田満寿夫さんが書かれたテクストと通じるものがある。川田さん、池田さん等の実作者が見抜いた視点の核を突く鋭さに比べると、つくづく評論家なるものの書いた文章が、「眼力」ではなく、机上の頭で書かれた、つまりは現場知らずが書いた概念の印象、唯の感想の羅列でしかない事が、ありありと見えてくる。…………先日、会場で話された川田さんの言葉は、私の思考と直感の隙間を突いてくる刺激ある示唆に充ちていた。私には写真による自分にしか出来ない表現が放射状にある事が、ますます確信をもって見えてきたのである。

 

個展が終わり、いよいよ制作に集中を切り換える直前という正に好機に、私は実に刺激的な舞台を観た。勅使川原三郎氏と佐東利穂子さんによるダンス公演『ABSOLUTE ZERO―絶対零度』(世田谷パブリックシアタ―)である。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の中のマックス・エルンストの章で、勅使川原氏について言及し、彼を「天才」、そして「美の稀人」と断じたが、この断言の確信は今もって揺るがない。20年前の初演の時も私は観たが、時を経て、この作品は変容し、更なる思索と試みの先鋭な衣裳を帯びて、身体表現のとてつもない可能性を放射する作品となり、私たちに突然の「問い」さえも突きつけてくる深さに充ちていた。……唐突であるが、この勅使川原三郎という人物に一番近似的な人物は、もしかすると、先述したマックス・エルンストかもしれないと想う時がある。……作品が実験性と完成度の高さを併せ持つ事はなかなかに至難であるが、それを両者は、自らの掌中で賽子の目を鮮やかに転がすようにやってのけ、しかもそこに謎めいたポエジ―をも顕在化して見せるのである。やはり氏は本質的に優れた詩人なのだと私は想う。……今回のダンス公演での圧巻は、勅使川原氏が、激しい動きから一転して完全なる停止へと移り、そのままそれを持続した事であった。……人々はダンスとは時に激しく、時に緩やかに動くものであると思い込んでいる。しかし、氏の停止する身体から、停止し続ける事への移行によって、それまでの激しい動きによって積算的に積み上がった「動」のベクトルは、一瞬にしてさ迷える「気」、彷徨引力となって中空をさ迷い、観客は、完全に停止の状態、つまりは絶対零度の予期せぬ空間から次なる移行への転移を、緊張をもって待つのであり、そこに観客各々の中に、不可思議なるもうひとつのダンス性(妙な言い方であるが……)が立ち上がりもするのである。……勅使川原氏のこの突然の停止する身体表現から、ジョン・ケ―ジの試みを連想する人がいるかと想うが、それは全くもって似て否なるるものがあり、勅使川原氏のそれは、具体的に時空間を孕んで、観客各々のイマジネ―ションが持つ豊穣を揺さぶって、遥かに創造的である。また氏の両義的な試みに、確実に刺してくるナイフの鋭さと、また氏とは異なる身体表現のマチエ―ルを持って、その舞台に形而上的な危うさと艶を呈してくる佐東利穂子さんのダンスは見事なものであり、間違いのない本物の才能を私はそこに見るのである。共演よりも競演、そして美の毒杯を立ち上げる共犯ともいえる危うさを帯びて、彼らは私たちをして強度なる本物の美の領域へと、拉致していくのである。……最後に付記するが、勅使川原氏がソロで見せた停止する身体は、その肉体の厚みをも消して、恐ろしいまでに平板と化し、私はそこにマチスが晩年に辿り着いた「切り絵」による身体表現の境地―極をさえも透かし見たのであった。

 

……さて、6月である。深緑の……と言いたいところであるが、雨季の予感を孕んで空気がすでに重い。…………昨年秋の日本橋高島屋の個展から続いて、名古屋、鹿児島、福井、東京、そして先日の新作写真の個展(東京)と、6ヶ月間で6回の個展をして、その間に引っ越しもあったりと、自分でもよく動いたものだと想う。新しく作ったオブジェは全て完売となり、それを必要とするコレクタ―の人達によって、各々のオブジェは、「観る人の想像力を煽る装置」として機能して様々なイメ―ジを紡いでいく事になるのであろう。そう、作者は二人いるのである。想えば、ようやく新しいアトリエでの制作が、これから始まるのである。アトリエの玄関のガラスの大きな扉に、白い文字で名前を入れて、ようやく形がととのった感がある。……表からは、制作中の私の姿が丸見えの全面ガラスのアトリエである。……間もなく雨季になり、外にそぼ降る雨を見ながらの抒情的な制作の日々が待っているのである。

 

 

 

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『人生の不思議』

……人生とは偶然の重なりの連続であるが、それでもあの日の出来事がなかったら、或いは今の自分はなかったと思われる「時」があるものである。それが私の場合、池上線の池上駅であり、今もその駅を通過する時に、その改札口を出て、運命の「時」に向かって歩いていく私の後ろ姿を思い出す時がある。……その時の私は23歳、美大の大学院の2年の時であった。そして、その手には版画を入れたカルトンが携えられていた。私が向かって行こうとしている先には南天子画廊が主宰している版画工房があり、その中では、ニュヨ―クから帰国中の池田満寿夫氏が新作の版画集の制作に取り組んでいる最中であった。

 

……話は、それより3年前に遡る。大学2年の春に、私は偶然に友人宅で不思議な作品(それは印刷物であったが)に出会い、その表現の斬新さとポエジ―の深さに瞬間で魅了されてしまったのであった。友人に訊くと、その作品は銅版画であり、作者は池田満寿夫であるという。勿論その高名な名前は知っていたが、私はなによりその作品(『スフィンクス 森の中』)に、自分の感性と繋がる何かを直感し、銅版画をやってみようと瞬間で決意した日であった。……それから僅かに3年後、『プリントア―ト』という版画の季刊誌の編集長をされていた魚津章夫さんから深夜に1本の電話が入った。「北川さん、池田満寿夫さんに会ってみる気はありませんか!?」。……美大、芸大の版画科の学生四人と、ニュ―ヨ―クから帰国中の池田満寿夫氏との座談会を魚津さんは企画して、そこに私を選んでくれたのである。……そして、その座談会(新宿中村屋)の終わった後で、新宿から渋谷方面に帰るのは私と池田氏だけであったのは、今思い返しても不思議であるが、私は渋谷までの数分間の間に「池田さん、一度私の作品を見ていただけますか?」と切り出したのであった。「勿論いいよ、では近々に僕から電話するから!」と言って、私たちはお互いの住所と電話番号を書きあい、私は渋谷で下車したのであった。そして数日後の深夜に池田氏から突然の電話が入り、私は指定された池上線の池上駅に降り立ったのであった。

 

……駅から工房に向かう途中、緊張の中にも、しかし私には秘めた自信というものがあった。カルトンの中には、銅版画の詩人と云われる駒井哲郎氏から高く評価されていた処女作からの作品と、棟方志功氏が絶賛してくれた版画『Diary』などが入っており、当時の美術界を牽引していた鎌倉近代美術館館長の土方定一氏からは、美術館がバックアップして、南天子画廊での個展開催が約束されていたからである。私は詩人アルチュ―ル・ランボ―に自らを重ね、パリにいる詩人ヴェルレ―ヌに書いた手紙の1節「ヴェルレ―ヌさん、私をちょっと貴方のいる所まで引っ張ってくれませんかね」という生意気な一文があった事などを思い出しながら、不安と不遜の入り雑じった気持ちを抱きつつ、池上本門寺の方角を歩き……やがて工房に着き、ベルを押した。……満面笑顔の池田満寿夫氏が現れ、挨拶もそこそこに私はカルトンを開けて、大きな作業机の上に10点ばかりの版画を並べた。それを観る池田氏の表情が一瞬にして鋭いものになり、長い沈黙の後に「君はもう既に完成している。すぐに個展をやるべきだ!……序文は僕が書くから!!」と熱く語ってくれたのであった。私は駒井氏、棟方氏から評価を得た事、そして土方定一氏が個展を既に決めてくれている事を話した。すると池田氏は「いや、最初は番町画廊の方がいいと思う。」と強引に決めたのであった。私は土方氏には申し訳ないと思ったが、自分の運命を池田氏の直感に賭けた。そして数日後に池田氏は多忙なスケジュ―ルを縫って番町画廊に行き、社長の青木宏氏に私の個展開催の企画を話したばかりか、私と画廊とのプロとしての専属契約の手続きも全て完了してくれたのであった。私は学生でありながら、その日からプロの作家としての人生が始まったのである。……偶然はまだあった。……私の運命を変えた池田満寿夫氏の作品『スフィンクス 森の中』は、私が個展をする事になった番町画廊で発表された作品なのであった。そしてその出会いを知った池田氏は、その版画を私にプレゼントしてくれたのであった。私は夢見の中の気分のままに家路へと着き、…………時は流れ、今の私がここにいる。……導きのような作品との出会い、新宿中村屋での座談会、そして電車の中で切り出した、私の言葉……。あの時がなかったら、その後どのようになっていたかと時々想い浮かべる時がある。誠に人生とは不思議なアミダくじのようなものであるかと思うのである。

 

―池田満寿夫氏が急逝されてから早くも20年近い時が経つ。その作品のほとんど全作が池田氏の出身地である長野の池田満寿夫美術館に収蔵展示されている。池田満寿夫という極めて優れた多面体の突出した才能を様々な切り口から分析し、魅力的な企画展として長年展開しているのは、学芸員の中尾美穂さんである。中尾さんのその切り口の鮮やかさとセンスの良さに私は注目しているのであるが、各々の美術館の存在感と存在意義は学芸員の力量をそのままに映すという視点から見ても、独自な個性豊かな展示を、この美術館は継続しているのである。……その池田満寿夫美術館で、先日私は『天才の創造の舞台裏』と題して講演をおこなってきた。予定されていた以上の多くの方が来られ、私は、私の考えている池田満寿夫という人の多面体の魅力について語り、天才と定義したその意味について語った。……天才の定義、それはその分野の概念を大きく切り開いた才能のみに冠せられる一つの批評分析言語なのだと私は思うのである。……池田満寿夫。……この懐かしくも不思議な不世出の才能について語っている間、私は珍しくも高揚してくるものを覚えていた。講演を機に私は久しぶりにまとめて氏の作品の多くに接したのであるが、今も鮮やかな現在形として映る作品が数多くあるのを観て、時代の淘汰を潜り抜けて息づく氏の表現世界の確たる「今」を改めて確認出来たことに、高揚を覚えたのであった。……長野の広大な自然に囲まれた中に建つ池田満寿夫美術館。ぜひご覧になる事をお薦めしたい、確かな存在感を放つ美術館である。

 

……さて、日本橋浜町のギャラリ―・サンカイビで開催中の写真展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』(30日まで)も、いよいよ会期が残り1週間となった。……池田満寿夫氏は版画、小説、詩、陶芸、美術評論、映画などに挑んでその多彩な才能を示した生涯であったが、やはり写真にも挑戦している。他に版画に挑みつつ写真にも挑んだ人を探せば、版画のパイオニアと評されている恩地孝四郎氏の存在が浮かんでくる。恩地氏はやはり詩も書いている。……その意味では、版画から始まり、オブジェ、コラ―ジュ、詩、美術評論、そして写真に挑戦している私は、何らかの影響をこの二人の先達から受けているといえるのかもしれない。しかし僅かにこの3人だけであって、あまりに他の表現者達(特に日本に於て)は大人しい。自分の可能性の扉を次々と果敢に拓いて行こうとする姿勢が見当たらない。そこには守りの姿が見えてくる。……というよりも、表現者としての焦点の意識、特異性が、恩地、池田、そして私が掴まんとしているのは、つまりは〈ポエジ―の形象化〉にあるのだと私は思う。直感と論理的整合性、言い換えれば、語りえぬものと語りえるものとのあわいに息づく何物かを照射して、そこからイメ―ジの核たるポエジ―の正体に迫りたいのである。……今回の写真展では色彩の不思議に加えて、写真の被写体の対象が様々である事に来場者は驚かれているようである。写真を撮る行為は、外界の客体を通しての自己表現であるという特異性が、私には常に手強く、またそれ故に尽きない妙がある。……ともあれ、私が挑んで止まない写真への挑戦の様を、ご覧頂ければ有り難いのである。

 

《ギャラリ―サンカイビ》

東京都中央区日本橋浜町2―22―5 TEL: 03―5649―3710

営業時間11時~18時 (日曜休廊)

〈交通のご案内〉

都営新宿線浜町駅A2出口「徒歩3分」

半蔵門線水天宮駅7番出口「徒歩6分」

日比谷線人形町駅A1出口「徒歩6分」

都営浅草線人形町駅A3出口「徒歩7分」

 

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