にっぽんが揺れている

……最近、かなり大きな地震が日本列島の各地で不気味に発生している。輪島にいる友人のHY君にお見舞いと、くれぐれも注意されたしの電話をしようと思っていたら、こっち(関東)も揺れた。先日の地震で横浜に住む知人は、揺れた瞬間「今日が自分の死ぬ日なのか!」と真っ青なまま大急ぎで覚悟を決めたという。 

マルセル・デュシャン

……その話を聞いた時に、20世紀美術の後半に「観念の美」を提唱したマルセル・デュシャンの墓碑銘に刻まれた言葉を思い出した。デュシャンいわく「さりながら死ぬのはいつも他人なり」と。

……誠にそうである。たとえどんな断末魔の状況が眼前に迫っても他人は死ぬが、自分だけは何とか生きているだろう。
……日々根拠が無いままにそう誰しもが思っている、この思いは何処から来るのであろうか
……とまれ、この不穏な揺れは今までと違う感じがしてならない。


先日のゼレンスキ―氏電撃来日の報を聞いた時に、その政治戦略方法の巧みさから、坂本龍馬の事が浮かんだ。
……薩長連合が締結された夜、寺田屋に戻った龍馬は、龍馬の護衛をしていた長府藩士の槍の名手・三吉慎藏と祝盃をあげていた。そこに幕府・伏見奉行の捕り方約100名に襲撃された。その脱出の際に龍馬は極秘書類である薩長締結の密約書を、懐に仕舞うのでなく、あえて寺田屋の室内に残して脱出したのであった。当然、密約書は捕り方が没収し、その密約は天下公然なものとなり、幕府側は青ざめた。秘密裡に作成された最重要な密書をあえて何故、敵方の手に!?……と考えるのが普通であるが、龍馬の素早い脳の回転は、この突然の難事を最大の政治的好機と捉え、書類を残して脱出した。……結果どうなったか?……薩摩はそれまで対長州の立場であったのが、これで倒幕側に完全にまわってしまった事を知り、薩摩を以後は敵と見なすように方針が定まった。つまり薩摩の変心の可能性とその退路を絶ったのである。……また薩摩の保守層もこれによって封じられ、西郷達の倒幕路線も腹が座り方向が定まったのである。……この機知が成功した事を、後に船上で龍馬と西郷が笑いあった事はよく知られた話である。 

G7会場に招待出席していたインド(ロシア、中国に対してもバランス外交を計り、玉虫色の曖昧な立ち位置にいる)のモディ首相の心中は、この電撃来日の報を知って何を思ったであろうか。
……到着早々、ゼレンスキ―氏が先ず対談を行った相手がこのインドの首相である事からその戦略意図が見えて来る。また被爆地広島での開催というイメ―ジの利を活かして、F-16戦闘機他、反転攻勢に向けての武器の交渉も各国の首脳と交渉して畳み込むように成功した。そのゼレンスキ―氏の機を見るに敏の政治センスの冴えと速度の見事さを、私はかつての龍馬に重ね見たのであった。

 

……さて、5月24日(水)から6月12日(月)まで、西千葉にある山口画廊で個展『Genovaに直線が引かれる前に』が開催される。昨年に続き2回目である。今回の個展では新しい挑戦として鉄のオブジェが加わっている。
……鉄という硬質な素材の中に孕まれた時間の織りが静かに語りだす物語を、その硬い皮膚の表に開示する試み、その初めての展示なのである。画廊主の山口雄一郎さんの感性は素晴らしく、今回の個展で、昨年に続き極めてハイセンスな案内状を作られたので、それを掲載しよう。また、画廊通信として刊行している冊子に『秘められた系譜』と題して長文の北川健次解読の論考も執筆されている。圧巻の労作である。かなりの長文であるが、ご興味のある方のために一挙掲載しておこう。

 

画廊通信 Vol.242 『秘められた系譜』を読む

 

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『……まさか、パリで!!』

連休が明け、さぁこれからコロナ第9波に?……それとも一応の終息へ?の岐路に私達は今、立っているわけだが、ともあれ毎日響いていたあの悪夢のような救急車のサイレンがしなくなった事だけは慶賀である。……想えば長く息苦しい3年間であった。そして私達各々の運というものを実感する機会でもあった。

 

……さてこのブログも書き出してから早くも15年以上の月日が経った。内容の程はともかくとして、文量の多さでは最早『源氏物語』をとうに抜き、今やプル―ストの大長編小説『失われた時を求めて』に迫る勢いになってきた。…とはいえこれは私の謂わば「日記」、生きた証の夢綴りのようなもの。これからも気分転換のように気軽にお読み頂ければ何よりである。

 

昨今は加速的に凄まじいネット社会となり、無駄な情報やフェイク、仮想感覚が日常的に入り込んで来て、実に空虚でかまびすしい。……文豪永井荷風は明治期に早々と「便利さには何の意味や価値も無い」と看破しているが、その便利さを人類がしゃかりきに追った結果が、今、ここに殺伐とした精神の請求書となって私達の前に突きつけられている。……同じ価値観が人々(特に若い世代)を同じ方向へと向かわせ、人々から豊かな「個」の妙味を奪いさっている。

 

 

 

 

…最近は、寝る前に本を読みながら眠りに入っていく事が多い。しかし睡魔が急にやって来て本が落ちると顔に当たって危ないので、もっぱら文庫本である。それもバラバラな種類の本が寝床の横には積み上がっている。

 

……例えば最近は、『魔都上海』(劉建輝著)『岡本綺堂・近代異妖篇』『北原白秋詩集』『ジヴェルニ―の食卓』(原田マハ著)『創造者』(ボルヘス著)……といった具合。

 

 

昨夜、その中から原田マハさんの『ジヴェルニ―の食卓』を読み始めたら、冒頭は夜明け時の光が寝室に入り込んで来る描写から始まっていた。

 

「南に面した窓の鎧戸の隙間が、うす青い横縞を作っている。遠く近く、鳥のさえずりが聞こえる。/薄氷のような夜を溶かして、まもなく夜明けが訪れる。朝の光が部屋の中をたっぷりと満たすよりずっとまえに、ブランシュはあたたかなベッドを抜け出さなければならない。

 

…………以前に出した私の詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』に収めた『紙束』というタイトルの詩が同じ光の主題だった事を思い出し、原田マハさんの小説と私の詩の描写の比較をしてみたくなった。

 

 

『紙束』

「朝まだ来だというのに/光がすでに眩しい。紙束が温み 文字が温み/やがて室内が温む。/闇が全て消え去った頃に/呼び鈴が鳴り/レカミエ夫人の不意の帰還を告げるであろう。」

 

また同じ主題、同じタイトルで、私の第一写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』でもヴィジュアルでその時間帯の光を表すべく挑んでいる。(私のアトリエ内を撮した写真である。)……小説、詩、写真での各々の攻め方の違いが、少しでも伝われば有り難い。また同じ詩集中の『長い夜に』というタイトルの詩では、それより少し前の夜明け前の気配を書いているので、ここに写そう。

 

 

『長い夜に』

ギザルド通りを抜けて/サン・ミッシェルへと至る/一九九一年四月二日の午前二時の廻廊。/そのしじまにMary Ussellaは眠る。/暗室と化したパリの幾何学の庭で。/セ―ヌの波紋のように白布が流れ/午前の白い朝が目覚める前に。」

 

 

 

先日、横浜中華街にある画廊「1010美術」(倉科敬子さん主宰)から個展案内状がアトリエに届いた。平山健雄さんという方の個展で、ステンドグラスでは第一人者で、山口長男から学んだ人です、ぜひいらして下さいと、案内状に書いてあった。……山口長男は佐伯祐三とパリで深く関わった画家なので佐伯に関する何かが訊けるかもしれないと思い、久しぶりに横浜中華街の画廊を訪れる事にした。……中華街は、私が30才から15年間住んでいた山下町・海岸通りの真後ろにあり、思い出がある町である。……しかし久しぶりに訪れてみると、かつての油断をすれば消されかねないような怪しい気配や情趣は失せて、ただの観光地と化していて、人、人、人で溢れかえっていた。

 

 

 

 

↓同じ場所

 

 

 

中華街は知り尽くしているので、画廊の場所はすぐにわかった。……画廊主の倉科さんから、個展を開催しているステンドグラス作家の平山健雄さんをご紹介頂いた。……「この人からはいろんなお話が伺えそうである。」一目視てそう直感した私は、最初からいきなり本題の佐伯祐三に関する、山口長男が平山さんに語ったという貴重な逸話、またパリの教会のノ―トルダムやサントシャペル……の構造の違いなどについて質問した。平山さんの造詣は実に深く、私はその場の平山さんが語った何気ない話から、次回の個展のタイトルも一瞬で閃いたのであった。

 

……そして平山さんの現在のアトリエのご住所を訊いて驚いた。……15年以上続いているこのブログの中でも最も名作と評価の高い『未亡人下宿で学んだ事』というタイトルの、つまりは私が大学院時代に住んでいた横浜市港北区菊名町の住所のすぐ間近なのであった。つまり現在のお互いのアトリエも、歩いて行ける程にすぐ近くなのである。

 

…………更に話は続いて、私が1990年から1991年にパリに住んでいた場所の話になり、「…私はサンジェルマン・デプレ地区のギザルド通り12番地の最上階の屋根裏部屋に住んでいました。……マン・レイジュリエット・グレコの家が近く、天窓からはサンシュルピス教会の古い尖塔が見えました。家の通りのすぐ前には、いつも閉まっている真っ黒い重い扉のレズビアンバ―がありまして……」と話した瞬間、平山さんが突然「……レズビアンバ―!あった、あった!!」と大きな声を発したのには驚いた。

 

「…!?」と思って平山さんに訊くと、1976年にパリに渡りフランス国立高等工芸美術学校のステンドグラス科に入学して以来、幾つかした転居の中で、平山さんはそのレズビアンバ―の上の部屋に住んでいた女性の部屋に転がりこんで住んでいたのだという。そして、あの店の重く黒い扉は深夜になると静かに開くのだという。…………今、この画廊で向かい合って話している正にこの位置のままに、広いパリの中で、時代を隔てながらも、平山さんと私の住んでいた場所は向かい合い、そこを拠点に充電、研鑽の時間が流れていったという事がわかり、この偶然の妙にお互いが暫し何ともいえない感慨を抱いたのであった。

 

 

……出会いとは不思議なものであるが、特に見知らぬ異邦の国でのこの偶然がもたらした感慨は、アトリエに帰ってからもしばらく尾を引いたのであった。……近いうちに、私のアトリエのすぐ近くに在るという、平山健雄さんのステンドグラスの工房を訪れてみようと思っている。……まだまだ不思議な話の続きが出て来そうな予感がするのである。

 

 

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『……新緑の今、アトリエで一人想う事。』

……この国の四季のうつろいの妙や風情が無くなって既に久しいが、考えてみると、今のこの時期が一年の内で最も気持ちの良い時期なのかもしれない。暑すぎず、寒すぎず、生きているには丁度良い。

 

…………5月が近づくと制作も集中と加速に入る時期だが、しかし充電も大事と思い、先日、二月公演に続いて歌舞伎座の『鳳凰祭四月大歌舞伎』に行って来た。

 

演目は坂東玉三郎片岡仁左衛門による『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』。一階席なので仁左衛門が間近に迫って来て演技をするのが面白い。眼前で江戸の粋が妖しい艶を帯びてリアルに揺れるのである。玉三郎はもはや円熟の極み。泉鏡花の『天守物語』の玉三郎を初演の時に観ているから、この天才が見せる折々の花を観て来た事になる。舞台はおよそ三時間。歌舞伎が放つ様式美と写実の混淆が視せる危うい虚構の華は、確かな充電となって、幕後にアトリエへと急いだ。……今日中にやるべき制作の続きがまだ残っているのである。

 

 

アトリエに着くと郵便受けにギッシリと小包が。……中を開けると二人の詩人から新刊の献呈本が届いていた。高柳誠詩集『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(ふらんす堂刊行)と、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画刊行)。お二方ともお付き合いは古い。特に野村氏とは共著もあり、今回の対談集には、私も対談者の一人として名を連ねている。タイトルに「楕円」の文字を入れているのは野村さんの機知である。……周知の通り、楕円という形の中には2つの中心点が存在する。それを対談という二人の関係、対峙する形に見立てているのである。

 

 

野村さんとは今まで2回対談をしている。1回目は雑誌の企画でご自宅の書斎。この本に載っているのは、東京.茅場町のビル内に在った森岡書店のギャラリ―で開催した野村喜和夫・北川健次詩画集刊行記念展『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』時の記念イベントとして企画された対談で、初出は『現代詩手帖』に掲載されたものを再構成した内容である。

 

各々の方が発言してなかなか面白いが、わけても私が面白かったのは、詩人の阿部日奈子さんとの対談「未知への痕跡」である。阿部さんともお付き合いは古い。ヴィラ・グリュ―ネヴァルトという昭和初期建立の謎めいた洋館に住み、才媛にして明晰、その深さはなかなか捕らえ難く、静かな謎を秘めた詩人である。……もしご興味のある方は、書店もしくは以下に申し込んでご購読下さい。

 

 

「洪水企画」

神奈川県平塚市高村203-12-402   TEL&FAX-0463-79-8158
http//www.kozui.net/
価格.2420円(税込)

 

 

 

先日、東京・京橋のア―ティゾン美術館に行った後、日本橋に移転して特別展を開催中の画廊『中長小西』を訪れた。……この画廊の空間が放つ洗練された美意識の結晶深度、そして画廊のオ―ナ―の小西哲哉氏の感性の鋭さは、今日の美術界において別格の突出した存在であると断言していいだろう。送られて来た展覧会図録を見て、私は早く観たくなり展覧会初日に訪れたのであった。

 

……「その作品が優れているか否かは、その作品を茶室に掛けた事を想像すればすぐわかる」という考え方、見抜き方は、偶然にも私と小西さんの共通したものであったが、その事を映すように、移転して新装なったこの空間は、正に茶室のわびさびと今日のモダンを共有した感があり、その展示空間に棟方志功川端龍子山口長男村上華岳池大雅香月泰男……他二十名のジャンルを越えた作家の作品が、静かに、深い静謐な韻を漂わせながら展示されていた。

 

……中でも、棟方志功の巨大な版画が放つ引力は凄まじい。私事になるが、私が二十歳の時に作った銅版画『Diary』を棟方志功は一目見て絶賛し、当時美大生であった私は早々と作家として生きていく自信を氏から得たのであるが、この時の私の版画は表現主義的なものを帯びていた。おそらく棟方志功は私の作品の内に氏自身の感性の映しを視た事は想像に難くない。……その棟方志功こそ、わが国における最初の表現主義の体現者である事はもっと語られ、研究される必要があるであろう。(あまりにも棟方志功の版画は民藝運動の柳宗悦河井寛次郎らの域に組み込まれて語られる感があるが、時代や淘汰を越えて今、更に新しく、強いモダンな相を棟方志功の作品が放っている事に気づいているのは小西哲哉氏くらいであろう。)

 

 

…………画廊の中で、私は恐ろしい作品を視た。村上華岳の『風前牡丹圖』である。一方向から激しく吹く風に揺れながら耐える牡丹の花に配された朱色の滲み。そこに籠められた危うく魔的な何物かの気配、…………私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊行)を書いている時に、蕪村が最も執着し、最も多く詠んだ花が牡丹である事を知ったが、その事を思い出したのであった。「牡丹散りて 打ちかさなりぬ 二三片」は有名であるが、私が華岳の絵から連想したのは「地車の とどろと響く 牡丹かな」、「牡丹切って 気の衰へし ゆうべかな」、「散りてのち 面影に立つ 牡丹かな」の三句であった。特に「地車の……」の句が放つ夏の真盛りの光の下の壮麗雄大にしてグロテスクな牡丹の描写は正に華岳のそれと照応する。……察するに、華岳は蕪村の俳句からその多くを吸収している事は間違いないであろう。

 

 

 

 

 

……この中長小西の展示は今月の29日(土曜)で、いったん終わり、次に継続して5月8日(月)から再開し、20日(土)迄の展示予定になっている。昨今の美術界、また表現者の作品は衰弱の感を見せて停滞堕落の一途であるが、芸術は何より強度であり、美術館や画廊は美の感性を鍛える観照の場であるのが本道である。……その意味でも、今回の展覧会は私が強く推す内容である。

 

 

画廊「中長小西」

東京都中央区日本橋3丁目8-13 華蓮ビル6F
TEL03-6281-9516
http//www.nakachokonishi.com/

 

 

 

 

 

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『……大日本陸軍の闇がそこにはゴッソリと!!』

①……よく知られているように、江戸川乱歩は強度な「隠れ蓑願望」の持ち主であった。自分にまとわりついている社会的な属性を一切捨てて、見知らぬ町に隠れ家を見つけて住み、もう一人の自分として別な呼吸をして生きたいという、一種の変身願望である。私にもそれは多分にあって、時々遠方の地を歩きながら、隠れ家にむいたエリアを物色している時がある。

 

……最近気にいっている場所は谷中・初音町。…(はつねちょう)という響きが実にいい。森鴎外樋口一葉が愛した谷中の墓地からも近く、鴎外の『青年』の舞台としても登場する。必ずやいつか!……と思っていたら、この場所に先客がいるのを最近知った。その住人とは、……ゲゲゲの鬼太郎である。漫画にはこう書いてあった。

 

「……東京に、こんな古めかしいところがあるかと思われるような谷中初音町に……おばあさんと孫が、昔おじいさんが三味線を作った残りかすの猫の頭などを売っていたが、今時こんなものを買う人もない。そこで二階を人に貸したのだ。借りた人は鬼太郎たちである。……」 隠れ蓑願望の強かった水木しげるもまた、谷中初音町にアンテナがいっていたのかと思うと嬉しくなってくる。ともかくそこは、昔から全く時間が動いていない、停止した空間なのである。

 

 

 

②私の出身地である福井のギャラリ―サライ(松村せつさん主宰)では、10年前から隔年毎に私の個展が開催されている。今年はその開催年になり、4月1日から今月末まで開催中である。私は初日から3日間の慌ただしい滞在であったが連日画廊につめていた。……初日の夜は、福井県立美術館、そして福井市美術館の館長はじめ学芸員の人達が多数集まり、歓迎の宴を催してくれた。また3日目は、高校の美術部の後輩達がこれもまた小料理屋での宴を催してくれたりと、懐かしい人達との嬉しい再会の時間が流れていった。

 

中2日目は、福井新聞社編集局の伊藤直樹さんが記事の取材に来られ、私のオブジェの特質である「二物衝撃」と、観者の人たちの想像力の関係の不思議について話をした。伊藤さんは実に思考の回転が早く、話す事の核心を的確に汲み取る人なので、話をしていて実に手応えがあって愉しい。……また、画家のバルテュスとも個人的に親交が深く、近・現代版画の優れたコレクタ―であり、そして私の作品も多数コレクションされている荒井由泰さんが来られ、最近新しくコレクションされたという谷中安規の代表作「自画像」の版画(微妙に刷りが異なる珍しい二種類の版画)を見せてもらい勉強になった。

 

……ギャラリ―サライの松村さんは人望があるので、来客が実に多い。……その中で一人の男性の方が静かに語りかけて来られ、「北川さんは、戦時中に武生(福井県)に陸軍の中国紙幣の贋札工場が在ったのをご存知ですか?」と切り出して来られ、私の関心は一気に沸騰した。この魅力的な切り出しは「その話、じっくり聴かせて頂こうではないですか!」となって来る。……名刺を頂いた。見ると、先ほどの伊藤さんと同じ福井新聞社の論説委員の伊予登志雄さんという方であった。「北川さんのブログは毎回拝読しています。実に面白いので、あのブログは纏めてぜひ本にすべきです」と言われ、有り難いと思う。……それから、伊予さんが語られた話はどれも戦慄する内容の洪水であった。

 

……戦時中の「アメリカ本土を攻撃した風船爆弾」スパイのゾルゲ事件」「人体実験で知られる731部隊」「日本陸軍が作製した精巧な蒋介石の顔を印刷した贋札工場」「帝銀事件」……と、次々に伊予さんが話される大日本陸軍の闇、闇、闇の具体的な話。伊予さんは以前にその関係者や生存者に直接会って取材して来られたという経緯があるので、話の重みと迫真力が違う。そして、それらの実際の現物や資料が、神奈川県川崎市の多摩区東三田にある明治大学生田キャンパス内の『登戸研究所資料館』(この資料館の在る場所が、戦時中に実際の機密組織として様々な研究や活動をしていた場所)に保存されていて一般に公開されている事を教えて頂いた。……松本清張の『日本の黒い霧』『小説帝銀事件』など殆どの著書を読破している私としては、この伊予さんとの出会いは天啓であったと言えよう。

 

〈…………しかし、2年前にこのサライで個展があった時は、佐伯祐三について来客の方と話をしていたら、その隣にいた方が話に入って来て、実に佐伯について詳しく話され、「明日、北川さんに面白い本を持って来るので良かったら差し上げますよ!」と言われ、早速翌日にその方が来られて『二人の佐伯祐三』(馬田昌保著)という本を頂いた。いわゆる佐伯祐三にまつわる贋作事件、それに連座してのこの国の美術評論家の実態、福井の武生市が女性詐欺師に騙された話など、それまで切れ切れであった話がこの本で一気に繋がった。……私の気から発する何かがその人達を喚んでいるのか、ともかく不穏な話、興味深い話が何故か自ずと集まって来るのである。〉

 

 

 

③私はフットワークが実に早く、そして軽い。横浜に戻って直ぐに大日本陸軍の闇を書いた本を図書館で借りて来て読み、件の『登戸研究所』にさぁ行こうとして、ふと郵便受けを開くと伊予さんから詳しい資料が入ったお手紙が届いていた。正にこれから出発という、その絶妙なタイミングである。「今から行って来ます」と伊予さんにメールして電車に乗った。

 

小田急線の生田駅を下車して件の研究所を目指して坂を上がって行くと、まもなく大学構内に入る。……するとさっそく不穏な建物が出迎えてくれた。「弾薬庫」と呼ばれる暗い廃墟である。

 

研究所内に入ると係の方の説明があり、何室かに分けられた資料室があり、731部隊、スパイ養成所であった「陸軍中野学校」、特務機関、諜報・謀略活動……暗殺の為の腕時計…、贋札の実物、…等々、わけても私の注意を引いたのは、部屋の隅にさりげなく展示されていた帝銀事件の際に犯人が実際に使用したのと同じ型のスポイド、被害者の銀行員たちが呑まされて多数が毒殺された湯呑み茶碗であった。実に生々しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……敗戦と同時に「特殊研究」に関する書類や実験器具は焼却、埋設処分するなど証拠隠滅作業は徹底的に実施された由なので、この研究所内に原物がいろいろ展示されている事自体が奇跡に近いかと思われる。研究に関わっていた人達はGHQによって徹底的に尋問を受けたが、不思議にも実際に戦犯指名を受けた者はいないという。何故か!?……考えられる事は唯一つ、731部隊の隊長、石井四郎と同じく、当時のアメリカ軍に情報提供を条件に免責された可能性は大きいが、真相は遂に闇の中へ。………………今回は撮影して来た写真を掲載して終わりとしよう。とまれ百聞は一見に如かず。ご興味がある方は、この研究所見学をぜひお薦めしたいと思う次第である。

 

 

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『桜が咲いたその夜に、橘夫人が……』

……作品の制作中はアトリエの中は全くの無音であるが、寛いでいる時はレコ―ドを聴く事が多い。脳のリセットに丁度良い。……最近は専らジュリエット・グレコを聴いている。曲で特に気に入っているのは『あとには何もない』という曲。低音の艶を帯びたグレコが歌い紡ぐ、過ぎ去りしサンジェルマン・デ・プレのノスタルジックな情景は、留学時にそこに住んでいた時を彷彿とさせ、風景や街の匂いまでがありありと浮かんで来て懐かしい。

 

聴きながらアトリエの外の桜の樹に目をやると、満開を過ぎて散りゆく桜花が美しい。…時おり、通行人がそれを撮影しているのが目に映る。

 

 

 

……桜と言えば、幕末に坂本龍馬が好んで唄った都々逸に「咲いた桜になぜ駒つなぐ/駒が勇めば花が散る」というのがある。元々は伊勢の民謡で男女の事を謳った卑俗な唄らしいが、龍馬は薩摩の島津久光の命令で起きてしまった「寺田屋事件」の悲惨な同士討ちへの憤りを嘆いて度々三味線を弾きながら唄ったという。…曲本来の意味を変える、引用と見立てのセンスが龍馬は抜群である。……龍馬自作の都々逸は「何をくよくよ川端柳/川の流れを見て暮らす」というのがある。実に粋であるが、粋と云えば、長州の暴れ馬、高杉晋作の作った都々逸「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」もなかなか秀逸である。

 

幕末の変革を起爆的かつ実質的に変えたのは、西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作の三人の行動力であるが、その中の二人が共に風狂な諧謔精神を多分に持っていた事は興味深い。この二人に共通していたのは即興の力であり、機敏―即ち、機を視るに敏の能力が、長州の藩論を一気に倒幕へと動かした巧山寺挙兵の高杉晋作のク―デタ―、また坂本龍馬の薩長連合や大政奉還の仕掛けへと繋がっていった事は周知の通り。……桜について色っぽく書こうと思っていたら、また熱くなってしまったので、ここで少しく話題を変えよう。

 

 

先日、京都の観光名物の一つ、亀岡から嵐山へと流れる保津川を舟で行く「保津川下り」で船頭の棹(さお)の操作ミスにより舟が岩に激突し座礁して転覆、四人乗っていた船頭の内の一人が死亡、もう一人の船頭が今も行方不明という事故が起きた。乗客25名はライフジャケットを着けていたので無事であったという。

 

……私はこの事故の詳細を知ってゾッとした。今から30年前の春、桜の花見時に京都にいて、この保津川下りを体験していたからである。ゾッとしたのは他でもない。私が乗った時はライフジャケットなど無く、もしその時に転覆事故が起きていたら果たして……と思ったからである。

 

亀岡を出発して終点の嵐山・渡月橋まで舟で行く距離は16Km、およそ二時間の舟旅である。……私は数名の知人と一緒に乗っていた。桜が満開の時で風景が華やいでおり、乗客はみな浮かれ気分であった。……江戸時代から、嵐山遊山の名物の一つであった、この保津川下り。船頭の巧みな技で、川の巨大な岩々に棹を当てて漕いで行くのであるが、その棹を岩に当てるポイントが決まっている為に、長年の時を経て、その岩に棹の当たる所に穴が出来ている。それ程に永い歴史をこの観光名所は持っているのである。

 

…………最初は流れが緩やかなので、船頭が客に「誰か棹を操ってみませんか?」と楽しそうに言う。すると、私が乗っていた時は中年の主婦らしき人が勇んで手を挙げ「私、やります!」と言って立ち上がり、棹を操ってみせた。なかなか上手い。……すると船頭が「さすがお客さん、人妻だけに棹(竿)の扱いが実に上手い!」と下ネタのジョ―クを言って笑わせた。……鴨にされたその主婦はふくれるが回りは爆笑。おばさん達も笑っている。ある意味それも恐いが……。思うにこの船頭、毎日飽きもせず、このネタで楽しんでいるのだろうな、と思ってみたりもする。

 

……さらに舟が行く。……私は舟に乗りながら、昭和25年7月3日に、この保津川に、乗っていた山陰本線の列車から真っ逆さまに飛び降りて死んだ一人の女性・林志満子の事を想っていた。〈昭和25年〉、〈林〉……この2つの言葉でピンと来たら、その人の連想力は刑事級であるかと思う。……先を急ごう。……林志満子、……昭和25年の7月2日の深夜に金閣寺を焼いた林養賢の母親の名前である。……事件翌朝、舞鶴から駆けつけ、牢獄にいる息子に面会を求めたが息子に拒絶され、その帰途に母は列車から、……私達がいるこの保津川に投身して果てたのである。……『金閣寺』を刊行した直後に対談した三島由紀夫小林秀雄との会話の中で、この保津川の寂しい景色の事を(静まり返った不思議な所)と二人が共に語った箇所を読んでいて、いつかその場所に行ってみたいと思っていたのである。

 

……………………「さぁ、これからがスリル満点の荒々しい場所に入りますからね。皆さん覚悟はいいですかぁ!」と船頭が大声で言って、最大の難所―大高瀬という流れの激しい場所に舟が入って行く。……この度の転覆死亡事故はそこで起きたのであった。「事故はやはりあすこで起きたのか!」……当然だなと思う程に今もありありとその時の光景が浮かんで来る、そこは激しい急流なのである。だから、その難所を経て流れは次第に穏やかになり、終点の嵐山の渡月橋が正に大観の「生々流転」の縮図、劇のカタルシスのように効果的に見えて来るのである。……

 

 

 

今回のブログは、タイトルにあるように橘夫人が登場する予定であったが、桜にまつわるエトセトラにくわれてしまい、どうやら出番を見失って、小栗虫太郎の小説の行間の中に入っていってしまったようである。橘夫人には、またいつか登場して頂く事にしよう。

 

 

 

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『「人形の家」奇潭』

その①……

春三月・早いもので、いよいよ桜が満開を迎える頃になった。昼の制作時の集中のせいなのか、夜は床に就くのがかなり早い。寝床ではいつも読書三昧であり、これが実に愉しい。最近読んだ本は坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)。……夏目漱石正岡子規に、著者の坪内氏が加わりながら、初期の漱石が作った俳句百句について各々が自由に意見を述べるという、夢の机上対談である。

 

周知のように、漱石(1867~1916)は森鴎外と共に日本近代文学の頂点に立つ文豪であるが、小説家としてのスタ―トは実は遅く、そのデビュ―作『吾輩は猫である』を書いたのは1905年、実に漱石38歳の時であった。……では、その前は何をしていたかと云うと、親友の正岡子規に作った俳句の添削を仰ぐ熱心な俳人であった。その詠んだ句数はおよそ2000句。しかし子規と比べてみると、漱石の俳句は詰めと捻りに今一つの冴えが無い。

 

子規は一生懸命に添削をして鍛えるが、子規の死後に俳誌「ホトトギス」を継承した高浜虚子などに言わせると、「俳句においては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いてなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった」と書いている。

 

 

〈余談であるが、この高浜虚子という名前。以前から実にいい名前であり、構えに隙が無い城郭のようなものとして私には映っていた。しかしこの度の坪内氏の本を読んで、高浜虚子の本名を知って驚いた。驚きのあまり寝床で読んでいる本が顔に当たりそうになった。その本名とは…………高浜清(きよし)。……禅の悟りの境地のような響きを帯びた虚子(きょし)でなく、身近にもよくいそうな、やさしい響きのきよしなのである。それを知って、文藝の山脈の高みから一気に下りて来て、前川清(ク―ルファイブ)、西川きよし……の列に近づいて来た時は何故か嬉しくなってしまった。(察するに少年時の呼び名はキー坊ででもあったのか?)……この人も頑張って来たんだなぁ、そんな感じである。ちなみに虚子と命名したのは正岡子規。〉

 
しかしこの高浜虚子の存在が、俳人から文豪夏目漱石へと変貌する切っ掛けを作ったのだから、その功績は大きい。……虚子は自らが主宰する俳誌「ホトトギス」に何か書くように漱石に薦めた。そして書いたのが国民的小説『吾輩は猫である』であった。……漱石は以後、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『明暗』へ……と一気に文豪への階段を駆け上がっていった事は周知の通り。……そこで私は考えてみた。漱石はなぜ完成度の高い小説を次々と、まるで堰を切ったように書きえたのか?と。…………そしてその才能の開花の伏線に、23歳の時に正岡子規との交友が始まり、以後、子規の死まで2000句にも及ぶ句作の訓練をした事が膨大なイメ―ジの充電に繋がったに違いないと私は思い至ったのである。

 
漱石の最高傑作は『草枕』であるが、それは俳人・与謝蕪村が俳諧で描いて見せた理想郷を小説化したものである。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を書くにあたり蕪村の俳句2000句を詰めて分析し、そのイメ―ジの多彩さ、絢爛さ、その人工美の引き出しの多さに目眩すら覚えた。……漱石がその初期から最も心酔し、影響を受けたのがこの蕪村であった。……俳句とは五七五の17文字の中にイメ―ジを凝縮し、爆発的に放射させる力業の分野である。……漱石は、小説家としての出発以前から既にして、〈夏目漱石〉が準備されていたのであり、その才能の開花に大きく寄与したのが、もう一人の天才正岡子規の存在であった事は言うまでもない。

 

 

 

その② ……

昔、銀座七丁目に『銀巴里』という名の日本初のシャンソン喫茶があった(今はそれが在った事を示す小さな石碑のみが建っている)。……私も美大の学生時に知人に誘われて何度か訪れた事があった。三島由紀夫川端康成等も度々訪れた伝説のシャンソン喫茶である。若き日の美輪明宏金子由香利戸川昌子岸洋子……達が専属歌手として歌っていた。……そのシャンソン喫茶にピアフグレコアズナブ―ル……等のシャンソンの訳詞を書いて現れては、なにがしかの翻訳代を受け取って生活している若者がいた。後年、私も2回ばかり銀座で間近で見かけた事があるが、その若者は、獲物を確実に仕留めるような切れ長の、獣のような鋭い眼をしていた。……後の作詞家、なかにし礼である。……以前から私はこの人が書く詩が放つ〈艶〉に興味があった。そして、その詩法なるものに興味があった。……例えば、この人の初期にあたる作詞に『人形の家』という、弘田三枝子が唄ったヒット曲がある。……

 

 

顔もみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない

愛が消えたいまも/ほこりにまみれた人形みたい

愛されて捨てられて/忘れられた部屋のかたすみ

私はあなたに命をあずけた

 

 

……詩は一見、哀しくも耐える女のそれと映るが、異例の大ヒットのこの曲に、何か直感的に引っ掛かるものがあった。もっとこの詩には底に秘めた何かがあるに違いない、そうずっと思っていた或る日、なかにし礼本人がその底にあるもう一つの意味を、たまたま観ていたテレビで語った時には驚いた。……この詩に登場するのは、天皇と、召集令状が来て南方へと行き戦死した日本兵士だと、氏は告白したのであった。中国の牡丹江から命からがらに逃げて来た僅か10才の少年、なかにし礼の視た人間が獣と化す地獄絵図。………はたして直感は当たっていた。……なかにし礼における作詞のメソッドには、強かな二元論が入っていたのである。

 

それを知ってから、更にその詩法が知りたくなった。指紋のように付いてくるその艶の正体が知りたくなった。……私が出版編集者であったら、その詩法を書いて本にすれば面白い本になる筈、そう思っていた。……先日、制作の合間を縫って横浜の図書館に川本三郎氏の著書『白秋望景』(新書館刊行)を借りに行った。係の人から文芸・詩・俳句のコ―ナにある筈です、と言われ探したがなかなか見つからない。……すると2冊、目に入る本があった。一冊は先述した拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』。この図書館の美術書のコ―ナ―には拙著『モナリザミステリ―』(新潮社刊行)があるが、この本が文芸の俳句の欄に在る事は作者の執筆意図が反映されていて嬉しいものがある。

 

……そして、その本の近くに、願っていた本が川本三郎氏のすぐ横の詩の欄に『作詩の技法』(河出書房新社刊行)―なかにし礼というタイトルで見つかった。氏が亡くなる直前、2020年に刊行した遺作本である。作詞でなく、作詩と書いてあるのが氏の矜持と視た。

早速借りて来て読むと、一作が出来る迄の膨大な迷い、閃き、更なる言葉の変換が書いてあり、美術家としてでなく、私も詩を書く表現者として実に興味があった。……そして、なかにし礼氏の艶なるものが次第に見えて来た。……それはプロの作詞家になる以前の膨大な、およそ2000曲は翻訳して書いたというシャンソンの翻訳作業時代に培われて来た感性の構築が大きく関わっていると私は視た。……シャンソンの詞が孕んでいる愛憎、哀愁、そして洗練された優雅なるエスプリ。氏はそこから多彩な艶を吸収し、掌中に収めていったと私は視たのであった。

 

 

…………最初に書いた夏目漱石の俳句の修行時代に作った俳句、およそ2000句。そしてなかにし礼氏が食べて生きていく為に書いたシャンソンの訳詞数、およそ2000曲。……不思議な数字の符合である。

 

 

……以前に、ダンスの勅使川原三郎氏と公演の後だったか忘れたが、楽屋で雑談をしていた時、氏はこう語った事がある。「我々は10代から20代の半ば頃迄に何を吸収し、自分の糧としたかで、その後の人生は決まって来る。ひたすら吸収した後は、その放射だけである」と。全く同感である事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

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『……それは拷問の話から始まった』

①…………今から思えば、…あれはその場所の「残酷な土地の記憶」というものが多少なりとも響いていたように思われる。……あれ、あの時、つまり前々回のブログで書いた、大寒波の夜に京都.先斗町で、京都精華大教授の生駒泰充さん、そして京都高島屋美術部の福田朋秋さんと一緒におばんざい屋の酒席で語り合っている時に、どういう弾みであったか、話は美術から離れて次第に血の気の多い世界史上における残酷な様々な拷問の話へと移っていった。……その話題へと突き動かしたのは、やはり、私達がその時、語り合っていた場所の土地の記憶の成せる業であったのか?

 

 

…………先斗町、その場所の残酷な土地の記憶。……それは今から158年前の「池田屋事件」に遡る。……河原町四条上ル東(先斗町近く)で古道具屋を商っていた尊皇攘夷の志士、古高俊太郎宅を急襲した新撰組に踏み込まれ、武器弾薬を押収され、諸藩志士と交わした手紙や血判書が押収され、屯所に連行された古高は過酷な拷問を受け、遂にその痛みに耐えきれず口を割り、御所に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうという計画を自白、それが池田屋事件へと発展した事は周知の話であるが、その時の自白へと至らしめる為の拷問が凄かった。新撰組副長・土方歳三の指示で、古高は屯所の二階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられたのである。日本拷問史に残る特筆すべき一例であるといえよう。

 

 

 

 

……また、この先斗町近くは、桂小五郎の愛人・後の妻の幾松寓居(ここにも新撰組が踏み込んでいる)跡があり、佐久間象山大村益次郎、そして坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺現場も近いという血飛沫が飛び交った場所柄、私達の話が自ずと熱くなってしまったのは仕方がない。……拷問の話は西洋の方へと拡がっていったが、突然「北川さん、こんな話は知ってますか?」と生駒さんが面白い中国の拷問の話を切り出してくれた。……拷問と云えば、痛みが伴うものだが、生駒さんが語ってくれた話は違っていた。全く痛みが伴わない「ジワジワ」の話なのである。……生駒さんは語る。「狭い部屋の中に人間を閉じ込める、ただそれだけの話です。しかしこの部屋にはちょっと変わった仕掛けがあって、部屋の四面の壁面に一本に繋がった平行線が引かれています。しかし、その1ヵ所の平行線だけが〈ちょっとだけ〉歪んでいる。……ただそれだけですが、部屋に閉じ込められた人間は、日々の中でその歪みがどうしても眼に入ってしまい、やがて次第に精神に歪みが生じ、常軌を逸して来るという、そういう話です」。

 

……その場では、確かに面白い話の1つを教えてもらったというだけで、話題は別な方に移っていき、やがてお開きとなったのであるが、祇園の宿に帰ってから、先ほど生駒さんが語ってくれた、その歪んだ平行線の話が妙に気になり出し、今やその話は、鉄による立体作品の構想へと発展して来ているのである。元来、私の作品には垂直性と正面性がオブセッションのように食い込んで来ている事もあり、垂直線と平行線の交差した絡みがそこに入り込んで来て私の感性を揺さぶり、日々、時間の合間をみては、狭い部屋に見立てた立方体や直方体を描いて、その一辺に歪みを入れた図面を作っているのであるが、なかなかにこれが面白く、私は今、のめり込んでいるのである。

 

 

②2月最終の1週間は特に慌ただしかった。4月から5月に、私の親しい人達三人の方が続けざまに個展を開催するので、個展案内状に載せる序文の詩や、画廊で展示する為のテクストを頼まれていて、その作品を拝見し、各々の方の作品に寄せる想いを伺ってから文章にしていくという作業をしていたのである。その中の一人、私の後輩としても永いお付き合いをしてもらっている彫刻家の川越三郎君のアトリエに行く為に千葉へと向かった。電車で横浜から二時間で千葉の茂原駅に行き、そこから川越君の車でアトリエに向かうのである。……アトリエといっても彼は石を彫る彫刻家なので、仕事場は外である。このあたりはミケランジェロの時代と何ら変わらない。……広いスペ―スの中に石彫りの未だ途中の作品も幾つか在り、私はこういう生の現場を視るのが好きである。最初訪れたのは昨年の春であった。気軽に訪れたのであったが、なかなか重厚にして深い作品が何点かあるのを視て、私は彼に個展の開催を薦め、それがこの5月に実現の運びとなったのである。……何点か撮影したので、その画像と、私が彼の作品から触発されて書いた詩をここに掲載しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光のプリズムを浴びて
石の豊穣の中に神話学が走る。
打つ、削る、弾く、磨く……………………、

そこに生まれる
メビウスの曲線、スピノザの直線、
或いはカッラ―ラの石化する感情よ。
………………………………

幾何学の深奥にイメ―ジが宿り、
石の表が官能の華と化す。
物語の最終行が
遂には伝説に変わるように。

 

 

 

 

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『歌舞伎とダンス―光と闇の叙述』

今月は2日続けて力の入った公演を観た。先ず11日は、歌舞伎座の二月大歌舞伎.第二部の『女車引』と『船弁慶』。翌12日は荻窪の「アパラタス」での勅使川原三郎佐東利穂子両氏による『月に憑かれたピエロ』である。

 

 

歌舞伎の『女車引』は、七之助雀右衛門魁春による艶やかな舞である。幕が開いた瞬間から目映い光に照らされた花道から三様態の女房たちが舞出て来るのであるが、その次に観た『船弁慶』共々、非現実的な過剰な照明の光が綾なす効果は、舞台を、またその演目の世界を極めて平面的に見せ、「表こそが全て」の、虚構が現実を凌駕する表象のみの人工的、活人画的な芸の空間である。奥行きは約束事としての想像に託され、ひたすら艶やかな華と、一皮剥いだ奥にある狂気が入れ替わりながら一幕、或いは数幕の作話が展開するのである。

 

……過剰な光…と云えば、元々は出雲大社の巫女であった出雲阿国の「かぶき踊り」を祖とするこの芸の照明は、夜は蝋燭の細い光であった。昼は自然光を借り、夜は束ねた蝋燭の光が作話を演出し、それに合った演目が作られていった。……今日のような人工の目映い光に次第に移行したのは明治以降からと聞くが、背景画に描かれた書割(かきわり)のあえてリアルな写実性を排した表現と同じく、嘘っぽさと、その光の過剰さはリンクして、観者の脳内の想像力の中でようやくの実と美が活性を帯びるという、考えてみれば歌舞伎とは、構造の危うさに支えられた特異な芸道と、言えるのかもしれない。

 

 

 

翌日に観た『月に憑かれたピエロ』(シェ―ンベルク作曲・元来の歌詞はフランス語であるが、勅使川原氏はあえて語調の強いドイツ語を採用し、それに佐東さんの柔かな翻訳の語りを加え、聴覚による二重の揺さぶりを演出)は、過剰な光に拠る歌舞伎とは真反対の、計算し尽くされた薄暗い闇の深度が物理的な遠近感を越えて、私達の記憶の遠近法までも揺さぶり、ノスタルジア的な感慨までも立ち上げた魔術的な舞台であった。

 

……私事で恐縮であるが、以前に、詩や批評を扱う『ユリイカ』の編集長から「久生十蘭」の特集号に載せたいので詩を書いてほしいという依頼があり、私はその詩の中に久生十蘭の本質を表す意味で「ダンボ―ルで作られた月」という言葉を入れた事があった。今回の舞台装置で勅使川原氏が作った薄い金属板の月が見せた効果は、久生十蘭のその特異な文学空間を超えるア―ティフィシャルな冴えを呈した巧みな造形性があり、歌舞伎の書割以上の妙味に、私をして歓喜させたのであった。

 

私がその日に観ていたのは表現の形としてはダンスであるが、途中から、この舞台の構造は能のシテ方とワキ方をも取り入れているのでないかと直感した。……デュオを踊り、最終に近い場面で横たわっている佐東利穂子さんがもしワキを演じているならば、最後は立ち上がって去って行くであろう。……そう思って観ていると、はたして最後に佐東さんは立ち上がり奥の暗部へと静かに姿を消し、舞台に一人残って座したシテ方のピエロ、勅使川原氏の指先が虚ろなままに何かを暗示して舞台は完全な闇と化す。……そこで全てが終わりとなる。……この、もしかすると能の構造までも取り入れているのではあるまいか!、という直感は私の唯の独断なのであろうか?……しかし、勅使川原氏の愛する枕頭の書が世阿弥『花伝書』である事を私は思い出していた。……これは私の制作におけるメソッドとも云える持論であるが、表現に際し異なる二元論を導入すると、より重奏的な膨らみが表現に増すという事を私は体験的に知っている。……この場合、『月に憑かれたピエロ』という海外の原典に、日本の夢幻能の構造が二重螺旋のように入り込み、表現空間に量りがたい深みが呈している、と私は視たのであった。

 

このダンスの舞台であるアパラタスが出来てから早くも十年になるという。ご縁があって、私がここに通いはじめてから早八年になる。……その途中から気づいた事があった。氏の舞台を観ていると、その途中からふと、自分の幼年期の記憶が、この巧みに演出された闇の透層の中で突然(しかも毎回、それは場面を変えて)よみがえって来るのである。……懐かしい感情がわき上がるや、それが舞台のその日の演目に加乗して表現空間がいよいよ膨らみを増して来るのである。

 

……幼年期の仕舞われた記憶が突然蘇るのは何も視覚だけとは限らない。聴覚、嗅覚、触覚、更にはふと覚えた微かな気配からも記憶が蘇る時がある。……ボルヘスの言葉に「一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ」というのがあるが、勅使川原氏のダンスとは、それが身体表現として完成して閉じたものではなく、人々の記憶を揺さぶり、ノスタルジアを立ち上げる詩的な装置として、毎回、放射されたものであると考えた方が或いは近いのかもしれない。

……ちなみにアパラタスとは「装置」という意味である。歌舞伎の表の平面性を強調した美学に対し、勅使川原氏のそれは、闇の暗部の彼方に限りない記憶の遠近法を孕んだ詩学であると、或いは言っていいものではないだろうか。

 

 

 

 

…………さぁ、充電の後は自分の制作に向かわねばならない。ダンス公演の翌日は名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんと共に、競作の主題について語り合った。そして、馬場さんと私が共に惹かれ、気になっているヴェネツィアを舞台に、馬場さんは俳句で、そして私は様々な方法を駆使して、追えば逃げ去る「逃げ水」のごとき魔性と謎を帯びたヴェネツィアに迫る事で決まった。……その他にも詩集の執筆、オブジェの制作、画廊での個展、……鉄の表現、他にもやるべき事が春からは山積している。……もうこの辺りで長かったコロナの圧迫感とも意識的に訣別しなければならない。……人生は本当に短いのだから。

 

 

 

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『巴里に命を刻む二人の話』

前回のブログの舞台は京都であったが、今回は一転してパリである。……年末、そして先日に歌人の水原紫苑さんから、パリでの現地詠を含んだ歌集『快楽Keraku』(短歌研究社刊行)と、昨年過ごしたパリ滞在の日々を短歌、写真と共に綴ったエッセイ集『巴里うたものがたり』(春陽堂書店刊行)が送られて来た。……最近、私は森有正の『遠ざかるノ―トル・ダム』を読んだばかりで、今はモンマルトルの坂道を主題にした鉄の立体も作っている折であり、正にパリづくしである。

 

水原さんはわが国の現代短歌の紛れもない第一人者である。30年以上前に比較文化学者で評論家の四方田犬彦氏宅の何かの集まりの時にお会いしたのが始まりと記憶しているので、お付き合いはかなり古い。自宅が近いという事もあり、才ある表現者として身近に感じる存在である。ご本人は柔にして自然体の人であるが、次々と刊行される短歌に綴られた表現世界は、美しい日本語で開示された幻視の領土が拡がり、光と底無しの闇が交差する危うさがある。そして何れの作品もその完成度はきわめて高い。

 

 

「シャルトルの/薔薇窓母と/見まほしを/共に狂女と/なりてかへらむ」

「彫刻と/オブジェのあはひ/ゆく蝶を/ひたにおそれき/ことのは以前」……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何れの作品にも、鋭く研がれたナイフの切っ先のような鋭さと、時に美しい狂気すらある。新刊『巴里うたものがたり』のエッセイの本は、私がかつて1年近く住んでいたパリが舞台なので、実に愉しく懐かしく一気に読んでしまった。水原さんが滞在したホテル・カルチェラタンは、私がいたサン・ジェルマン・デ・プレ界隈にも近く、記憶が重なって、自分が旅人であるような錯覚すら覚えてしまった。……文中、オペラ座に和装で行くのを願うが、狙われる事は必至なので友人に忠告されて断念する下りは、与謝野晶子のパリ滞在(明治45年)、林芙美子がパリに滞在した(昭和六年)時とは隔世の感がある。しかし晶子や芙美子にとってパリが一過性の街であったのと違い、この人は、また3月からパリに行くが、パリでの客死すら厭わない覚悟が透かし見えて来て引き込まれる。……滞在中はソルボンヌに学び、日々のエッセイを書きながら、写真家が被写体を狩るように、又は鋭く呼吸するようにして集中して一気に短歌を詠んでいく。……なるほど、この人はこのようにして歌を詠んでいるのかというのが垣間見えて面白い。

 

先日、私はヴェネツィア行もお薦めしたが、既にそれもこの春からの予定に入っているという。……限り無く美しい日本の言の葉によって紡がれる、西洋の硬く乾いた硬質なマチエ―ルとの対峙がどのようなイメ―ジの化学反応を産んで、更なる深化へと、この人を導いて行くのか見届けたいものである。……以前からの私の願望であるが、ヴェネツィアを舞台にした壮麗な歌集の出現を、水原紫苑女史に期待しているのである。……そして、この度刊行されたこの二冊をぜひ読まれる事を、このブログの読者諸氏にお薦めする次第である。……さて次は、パリで客死した画家・佐伯祐三の話。

 

 

 

……先日、東京ステ―ションギャラリ―で開催中の佐伯祐三展を観た。10代の中学生の時に画集で出会って以来、佐伯祐三は今もって一番好きな画家である。……佐伯の集中力(一点を仕上げるのに要した時間は僅かに30分から2時間)は神憑り的で、しかも完成度も高い。パリに行き、佐伯がフォ―ヴィスムの画家ヴラマンクに油絵の作品を見せた時に、「このアカデミック!」と一蹴され、強いショックを受けたという逸話は有名であるが、実はこの逸話には先に続きがあって、ヴラマンクは「しかし、色彩感覚は良いものを持っている!」と佐伯を誉めているのである。……佐伯の作品を観ると、確かに優れた色彩感覚がそこに視てとれるのと同時に、彼の作品の骨となっているのは、作品の奥に透かし見える幾何学的な秩序感覚の先鋭な才気であり、また硬質さに対するオブセッションとフェティシズムである。

 

佐伯はゴッホに傾倒していた事もあって、その死もゴッホと重ね合わせるように、神経衰弱、肺炎の悪化による自殺未遂、そして狂死という事で、何れの佐伯祐三伝説も同じように書かれているが、しかし、私には以前から引っ掛かっている〈或る事〉があった。それは現存する数葉の写真の中にある。……寒風の中、街頭に出てひたむきに描く佐伯祐三の姿。しかし、その横に佐伯の幼い娘(彌智子)が写っているのであるが、ずいぶん以前から私はそこに違和感を覚えていたのである。……集中して挑むように画布に向かう佐伯祐三。……何故その真剣勝負の時に、気が散る存在の幼い娘がいるのか?

 

 

 

 

……常識的に視て、佐伯が絵に集中する時には常に妻の米子が娘の面倒を見る筈である。……佐伯は午前早くから写生に出て、暗くなるまで描く事に没頭していた筈。……その長い時間、では米子は何処で何をしていたのであろうか……。佐伯祐三の死因については諸説ある。……中には事件性すら思わせる説もあるが、私の推理は、……佐伯がある時を契機にして何かに憑かれたように作画に集中して神経を磨り減らして行くのであるが、それは何もゴッホへの傾斜、自己の完成度への焦り……といった伝説的なものではなく、原因は、もっと身近なパリの日常生活の〈或る時〉にあったと私は視ている。……或る事実を知ってしまった佐伯が、その怒りを他者でなく、自らへ向けた自傷行為の果てに墜ちていった、詰まりは緩慢なる自殺行為の果ての客死であったと私は推理しているのである。……この推理と近いものを、例えば美術史の裏面までも詳しい山田五郎氏(評論家・編集者・コラムニスト)なども考えているように思われる。

 

 

 

荻須高徳

 

 

 

薩摩治郎八

 

薩摩千代

 

里見勝蔵

 

藤田嗣治

 

 

 

……とまれ、これは推理するに足るドラマ性を多分に含んでいるのであるが、そこに登場する人物達の画像をここに掲載するに留めて、ひとまず今回のブログの筆を置く事にしよう。……年表の表に書かれた物語はあくまでも表皮に過ぎない。「事実は小説よりも奇なり」という言葉をここに残して。

 

 

 

佐伯祐三「カフェのテラス」

 

 

佐伯祐三「ガス灯と広告」

 

 

佐伯祐三「広告貼り」

 

 

 

……さて、今月は11日に歌舞伎座の二月大歌舞伎『女車引』と『船弁慶』を観劇予定。……翌12日は荻窪のカラスアパラタスで、勅使川原三郎佐東利穂子両氏による今年初のアップデイトダンス公演『月に憑かれたピエロ』(2月14日迄、公演開催中)、……そして翌13日は、先月の寒波で延期されていた名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんとの打ち合わせで、俳句と私の作品との接点の可能性について語り合って来る予定。……異なる優れたジャンルに積極的に触れる事が、自身の表現に善き展開をもたらして来る。……絶え間無い充電と、制作の日々が今月も続くのである。

 

 

 

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『京七条・油小路に雪が降る』

……あれは今から何年前であったか、パリで知り合った、国際芸術祭BIWAKOビエンナ―レの主催者の中田洋子さんという人から招待作家として出品を依頼された事があったので「いいですよ」と快諾し、その打ち合わせで会場予定の近江八幡に行く事になった。東京の作家4人が新宿で合流し1台の車で向かうわけであるが、その日の夜は、西から数年に1度という大型の台風が直に襲ってくるという最悪の日であった。かなり強い台風なので気にはなったが、「面白いではないか」という事で夜の9時過ぎに出発した。……浜松に近づいた辺りから車が揺れるくらいに嵐が激しく吹き荒れて来た。高速道路の脇から海水の飛沫が飛び散り、なおも行くと、何台かの車が横転したまま打ち捨ててあり、不思議な事に前も後にも先ほどまで見えていた車の姿が全く消え去り、ただ私達を乗せた車だけが、暗闇の中を不気味なくらい静かに走り続けている。あれほど吹き荒れていた風もいつしか止み、外に視る闇は全く静か、車内の4人もみな息を詰めたように無言である。……口火を切ったのは私であった。「ひょっとすると、我々はもう死んでいるのかも知れないね。……さっきの何処かで車が衝突し、今、冥土に向かって我々を乗せた車が静かに走っているのかも知れないねぇ」……その言葉にホッと安堵したのか、皆が一斉に笑った。

 

 

……先日の25、26日は名古屋~京都に行く事で予定が入っていた。25日のお昼に馬場駿吉さん(元名古屋ボストン美術館館長・俳人)と名古屋画廊で待ち合わせをして、画廊の中山真一さんと三人でお話しをしてから夕方に京都に行く予定であった。しかし、24日の夜半に中山さんから連絡があり、10年に1度という豪雪と寒波が明日来るので2月13日に延期しましょうというご提案があった。了解し、私は25日午前に直行で京都に入った。途中の米原辺りから新幹線の外はホワイトアウトで何も見えない。まるで映画「八甲田山」のようであり、京都もさぞやと思ったが、駅に着くと吹雪が去った後で雪は止んでいた。

 

 

 

京都では4人の人に会う予定で約束済みであった。その中のお一人が京都精華大学で教授をしている生駒泰充さん(画家)。生駒さんは旧知の友で、以前に私が『モナリザミステリ―』(新潮社)を刊行した際に、精華大で講演を企画してくれて喋った事がある。ドイツ在住の造形作家.塩田千春など沢山の人材を育てているが、生駒さんの感性と直感力は私と何故か重なるので話題が尽きないのが嬉しい。……10年ぶりに到来した寒波で大学が休校になった為に生駒さんの授業がなくなり、京都駅で私達は早く待ち合わせが叶い、先ずは三十三間堂に一緒に行く事になった。

 

……生駒さんが面白い話を切り出した。アンディ・ウォ―ホルの代表作のマリリン・モンロ―のあの作品の着想は、彼が1956年に来日した際に京都に来て三十三間堂の1001体の千手観音仏像を視たときに閃いたのでは!?という興味深い仮説を語ってくれた時に、私の直感が激しく揺れた

そして頭の中で1001体の(顔の表情が各々微妙に異なる)仏像と、マリリンの顔(しかし意図的な刷りの変化で顔の表情は各々に異なる)が、例えるならば完璧だったアリバイが一気に崩れるようにそれらはピタリと重なった。

 

 

……以前に私が拙著『美の侵犯―蕪村x西洋美術』(求龍堂)の中で見破ったキリコが隠している、あのキリコ絵画の特徴である異なった多焦点が、実は後期ルネサンスの建築家パラディオの作品『オリンピコ劇場』の多焦点の効果と遠近法の崩しから着想している!という着眼法と正に重なったのである。……机上で考えている評論家にはおよそ閃かない、私たち実作者だけに視えて来る舞台裏、現場主義の視線があるのである。私が前回のブログの最後に書いた「過去は常に今よりも新しい」という言葉の真意が正にそこにあるのである。

 

……私達の様々な話題は尽きなく、次に四条木屋町の老舗喫茶「フランソワ」でも熱く語り合い、次にお会いする約束の京都高島屋美術画廊の福田朋秋さん(福田さんは、このブログでも度々登場されている)に生駒さんをご紹介した後、3人で一緒に先斗町のおばんざい老舗『うしのほね』本店に席を移し、福田さんも交えて更に尽きない話の井戸の底へと私達は落ちていった。……先斗町のその店の窓外に見える夜の鴨川がいかにも情緒的であった。……恋人同士ならば柔らかな話の間もあるのだろうが、私達は、今話しておかねば後悔するという感じで様々な話に耽ったのであった。……なので、お二人と別れた後で、祗園一力の隣に予約していた宿に帰った時は、喉が乾いて水ばかり呑んでいた。

 

 

翌26日は3つの目的があった。……先ずは、美術.写真集などを数々出版している青幻舎の編集長、田中壮介さんに久しぶりにお会いする約束が午前10時からあるので、祗園から河原町を歩いて会社のある三条烏丸御池へと向かった。……途中で老舗旅館の俵屋、柊家が目に入ったので、柊家の方の古風な造りを眺めていた。文政元年(1818年)からの老舗であり、文豪川端康成の常宿としても知られている。……ここは文人墨客の店。……逆光で映った私の姿風情にオ―ラでも感じ取ったのか、中から「もしよろしかったら、中へお入りになりませんか?」という柔らかい声が。……では、と言って中へ入り、宿の人と暫く川端康成の逸話などをお聞きしながら時が過ぎていった。…………おっ、こうしてはいけない、田中さんとの約束の時間が……と思い、青幻舎の場所を訊くと、ご丁寧に詳しく書いた地図を渡してくれたのには更に感謝であった。「次回、京都に来た時はお世話になります」と言って旅館を出、目的地へと向かった。

 

 

青幻舎の中で田中さんとお話しをした後で席を移し、近くにある趣のあるカフェで続きのお話しを交わした。田中さんとの会話はいつも話が弾んで面白い。……しかし、私は予定を詰め過ぎていた。……次に会う約束をしている平尾和洋さん(立命館大学教授・建築家)と12時に近くの烏丸御池のカフェで待ち合わせなのである。田中さんとお別れした後で、カフェで平尾さんと10年ぶりくらいの再会。以前は立命館大学の工学部で私がダ・ヴィンチの建築家としての視点から講演をして以来かと思うが、気の合う同士なので、すぐに話は本題に。……しかし、私の京都行の目的がもう1つ残っていた。……京都七条.油小路にある、新撰組伊東甲子太郎ほか数名が暗殺された現場を訪ねる事が残っていたのである。……平尾さんにその話をすると好奇心の強い平尾さん、では一緒に行きますよ!との事。二人でタクシ―に乗り、現場である本光寺へと向かった。

 

現場に着いてみると既に先客の幕末史ファンがいた。若い男性、外人の二人組。……以前は赤穂浪士の忠臣蔵は海外で知られていたが、新撰組もそこそこ知られ始めているのであろうか。とまれ皆さん熱心である。……男性が持っているタブレットを見せてもらうと、伊東暗殺直後に駆けつけた伊東の門下生(かつては新撰組)達が惨殺された詳しい現場跡がわかって、私の興奮はしきりである。

 

伊東甲子太郎は容姿端麗、人望が高く、既にして名士。……元治元年(1864年)に新撰組に加盟する。参謀としていきなり要職に就くが、佐幕派の新撰組と伊東の倒幕の異なる方針をめぐって次第に対立、やがて脱隊して、薩摩藩の支援で東山高台寺の月真院に「御陵衛士」として本拠を置く。この時に新撰組発足以来の藤堂平助ほか多くの隊士が伊東を慕って新撰組から去った。

 

慶応3年(1867年12月13日―旧暦で坂本龍馬が暗殺された3日後。ちなみに伊東は近江屋に潜伏していた龍馬と、同席していた中岡慎太郎に、暗殺の動きがあることを告げて警告をしている)の夜に、伊東は新撰組局長の近藤勇から呼ばれ、近藤の妾宅で接待を受ける。酔った伊東はその帰途は上機嫌であったらしい。伊東は思ったであろう(…そういえば、先ほどの席に近藤はいたが、副長の土方(歳三)はいなかった。…おそらくあの男は私に臆したのであろう。新撰組の屋台も私によってほぼ分裂し瓦解した。…土方、…新撰組を作り上げたあの策士も、もう終わりだな……)

 

……その時、はたして土方は何処にいたか。……伊東甲子太郎が歩いて来る先の暗闇、七条油小路の民家の暗闇にいて、その切れ長の鋭い目を光らせていた。……そして数十名の新撰組もまた民家の陰で息を潜めながら、その時を待っていたのである。……一瞬、闇に光が走り、鋭い槍の切っ先が伊東の首を貫いた瞬間、北辰一刀流の剣客であった伊東の体はくるりと一閃し、自分を突き刺した男を切り下げて、絶命した。「奸賊ばら!」……闇に響いたこれが、伊東の最期の言葉であったという。

 

土方の作戦はこれに止まらず、伊東一派の粛清にあった。寒さで忽ち凍てついた伊東の遺体を路上に放置し、番所の役人を月真院に走らせて、これから遺体を収容しに来る伊東一派を誘い出す囮としたのであった。そして土方の読みどうりの乱闘となって三名が戦死。他は逃げ去り明治まで生き残る。……その乱戦の現場を、その場にいた幕末史ファンの男性のタブレットで知り、私と平尾さんは移動してその場所に立った。……その乱闘の様子を民家の中で秘かに目撃していた老婆の証言が資料として残っていて、私はそれを想いながら、京都行最後の目的を果たしたのであった。……ふと平尾さんを見ると、先ほどから寺の庭に出来ている大きな蜜柑に関心が移っているようである。……冷たい風が吹いて来た。小雪がその風に乗って京都がまた白くなって来た。京七条・油小路に今し雪が舞っている。…………平尾さんと再会を約しながら京都駅前で別れ、私は帰途についたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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