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『ヴェネツィアの春雷in名古屋』

先日の5日、銀座の永井画廊で開催中の、松崎覚さんという方が制作した蝋人形の展覧会を観た。夏目漱石ジョン・レノンサルトル太宰芥川チェ・ゲバラピカソ…他、等身大9体の極めて精巧な蝋人形が画廊に整然と展示された様は、実に異様な気配を発していて眩暈すら覚えた。

 

…ロンドンのマダムタッソ-パリの蝋人形館でも観てきたが、それらの人形に比べて、技術の冴えは松崎さんの方が格段に優れている。体臭や息遣いまで伝わってくるほどに生々しいのである。

…かつての明治期の生き人形も凄味があるが、例えば乱歩の『人でなしの恋』や『白昼夢』に見る如く、この人形という世界の行き着く先にはあやかしの倒錯性が潜んでいて、一種幻葬的な世界へと引き込んでいくものがある。

 

 

画廊の永井龍之介さんと久しぶりに少し話をした。以前に開催された私の個展の後に、新橋の永井さん行きつけの店で話し合った時も、なかなか面白かった。…周りの客の喋りがうるさい中で、店の隅の席で私達が熱く話しあったのは、『水中花』の詩で知られる詩人の伊東静雄高村光太郎についてであった。以前にこのブログでも書いたが、光太郎が書いた智恵子抄に秘められた贖罪について、永井さんの返答がどう来るのか興味があったのである。…永井さんは美術の域を越えて実に博識で、突然話題を変えても、全方位的に更に話が膨らんでいく人である。………永井さんは松崎さんの蝋人形を他と差別化する為に、「蝋彫刻」として今後、展開していくようである。

 

 

銀座の永井画廊を出て、荻窪へと向かった。…ダンスの勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが海外の公演が長かったための、久しぶりの日本での公演『骨と空気』の初演を観るのである。公演時間はおよそ一時間、……「圧巻」という言葉しか出て来ない見事なその舞台に、しばし失語症になってしまった。……勅使川原さんの突出した才能は、演出、照明にまでも深く及んでいるが、何をおいても身体の動きの速さはまた別格である。

 

…1つの例として、複数のダンサ-と激しい動きをしている時に、高速度カメラで撮影した人がいた。どのような速い動きをしていても高速度カメラでは当然、被写体は停まって写ってしまう筈である。…プリントした時のその画像では、ダンサ-達の姿は確かに停まっているが、唯一人、勅使川原さんだけは、なおもぶれて写っていたという。高速度カメラでもなおぶれて写ってしまうという事は、もはや異常な速さと見ていいだろう。…彼にとっては、その速度もまた美であり、そして詩なのだと私は思っている。そして、その異常な速さが紡ぎだす特異な残像の重なりが、私たち観者の脳内でポエジ-として結晶化し出した頃に、彼の見事な作劇法は大団円としての夢幻へと移ろいを転じて、舞台は暗転するのである。

 

…私は観ている途中でふと、彼の見事な身体表現に最も相応しい観客は誰か…と考え、すぐに世阿弥の事が頭をよぎった。…すると、公演が終わった後で観客に向けて話をする勅使川原さんから、その時、世阿弥の名前が出たのであった。……………猿楽を芸術の高みへと昇華した世阿弥の『風姿花伝』を読むと、その随所の言葉に、勅使川原さんのメソッドと重なるものを私は覚えてしまうのである。

 

………次回の公演は、5月24日から6月5日まで。佐東利穂子さんのソロで『悲しみのハリ-』(映画「惑星ソラリス」より)である。…7月中旬まで展覧会が3つ入っていて制作や準備で慌ただしいが、次回の公演も、私はまた予定を入れているのである。強い刺激と、確かな充電を得る為に………。

 

 

 

先日の9日に、名古屋画廊で開催する、俳人の馬場駿吉さんと私の二人展『春雷疾駆/ストラヴィンスキ-の墓上』展(5月9日〜24日)の初日なので名古屋に行って来た。…展覧会の舞台はヴェネツィアである。私はヴェネツィアには撮影もはさんで5回行っているが、馬場さんは実に10回以上もヴェネツィアを訪れて、それは100作以上の俳句作品になっている。

 

 

 

 

 

 

…夜半に見た真っ暗なアドリア海と真っ暗な空が合わさって巨大な舞台となり、春のある夜にそこに観たのは荒ぶる銀の走りと化したヴェネツィアの春雷であった。その凄まじい荒ぶる様は、ちょうど蕪村が詠んだこの俳句と重なるものがあるだろう。……「稲づまや/浪もてゆへる/秋津しま」。……秋津しまとは日本の事。極東の島国に俯瞰的に走る雷光の様をまるで宇宙から視たような想像力を持って詠んだ蕪村の秀句。………斜めに、或いは横に、そして突き刺さるように垂直に落ちる雷の荒ぶる様を視た私は、その時の強い印象が忘れ難く『ヴェネツィアの春雷』という連作となって10数点の作品を作った事があった。

 

…その体験談をある日、馬場さんにお話をすると、何と馬場さんもその凄まじい春雷を深夜のヴェネツィアで目撃されたという。…今回の二人展の肺種はその時に立ち上がったのである。…この展覧会で、私は20点のオブジェやコラ-ジュ、そして20点のヴェネツィアで撮影した写真を出品し、馬場さんもヴェネツィアを詠んだ俳句を出品されている。……廃市幻想の水の島  - ヴェネツィア。俳句と美術という珍しい形でのイメージの競演をぜひご高覧ください。

 

 

 

 

 

 

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『土方歳三に会って来た話』

…桜の花弁が散ったと思ったら、もう5月の足音が…。そしてますますの気象の乱高下が、今夏の更なる異常熱波の到来を不気味に暗示してでもいるような。

 

……さて、前回のブログでご紹介した福井のギャラリ-サライでの個展は今月末まで開催中であるが、…先日、雷雨の隙間を縫うようにして午前中に名古屋画廊に入り、夕方までかけて作品の展示に関わって来た。…5月は9日から24日まで、俳人で美術評論など他分野までも幅広く活動されている馬場駿吉さんとのヴェネツィアを舞台にした俳句と美術作品による二人展が開催され、また5月22日から6月9日迄は千葉の山口画廊で3回目の個展が開催されるのである。…画廊のオ-ナ-の山口雄一郎さんは毎回、作品の本質を見極めるような鋭い視点で長文のテクストを書かれるので、今回も私はそれを拝読するのを愉しみにしているのである。…このブログでは順を追ってご紹介する予定なので、次回のブログは、先ずは名古屋画廊での展覧会について詳しく書こうと思っている。

 

 

…さて、あなたがもし犯人に疑われ、警察の取調室で無罪を証明する為に1年前のこの日にどうしていたか⁉…と突然問われたら、その日の事を直ぐに思い出せるだろうか。…日記に書いてでもいない限り、まず即答は無理であろう。…しかし、私がいまブログを書いている4月21日に限っては、1年前のこの日に何をしていたかを即答出来る。…それほどに1年前の4月21日は記憶に強く残る日であった。

 

……1年前のこの日、私は日野に在る佐藤彦五郎新撰組資料館に行き、新撰組副長、土方歳三の生身の物を目撃するという体験をしていたのである。その物とは、新政府軍による箱館総攻撃で、土方が銃弾を浴びて亡くなる前日に、未だ少年だった小姓の市村鉄之助に、自分の写真、愛刀と共に土方の日野にある生家に届けるように命じた、土方が自分で切った形見としての遺髪であった。

 

(…少年の市村鉄之助は、官軍の厳しい捜査網を掻い潜り、実に2年をかけて日野にある土方の生家に遺品を隠し持って辿り着いたが、その時の姿はまるで衰弱しきった悲惨な乞食のようであったという。)……その後、土方の写真や愛刀は折りにふれて公開されたが、遺髪だけは土方家の仏壇内に仕舞われたままで、その存在は今まで全く秘密であった。

 

 

………その秘密にされていた土方の遺髪の存在をずばり指摘したのは、死者の遺品、或いは行方不明者の持ち物に残る「残留思念」から、その時の状況を言い当てる事で知られる超能力者のジャッキ-・デニソンさんというイギリス人の女性である。…私はたまたま或る番組で、ジャッキ-さんが土方の子孫の前に座り、土方の刀に触れた後で、静かな、しかし確信を持った口調で、(もしかすると、この人の遺髪がある筈だ)とずばり言い当てて、子孫の人が驚愕するその場面を観ていたのであった。

 

…このジャッキ-さんのような、残留思念から不明者の様々な事を透視する能力が確かに存在する事は以前から知っていた。……残留遺物から事件の真相(例えば誘拐犯人の居場所や死体遺棄現場……など)を突き当てる捜査法が、欧米の警察捜査では実際に活用されている事はつとに知られているが、ジャッキ-さんの持っている透視能力は特に突出している感がある。…ちなみに、このブログでも度々書いているが、私は予知的な能力、或いは強度な「気」を発する、更には瞬時に離れた場所から物事の本質を視ぬいてしまう直感力…などといった能力は多分に持っているが、ジャッキ-さんのように残留思念から捜査の対象者の当時の事柄を透かし視るという能力は、私とは違うまた別なものである。…

 

その土方歳三の形見の遺髪が初公開されるという2024年の4月21日。…日野にある佐藤彦五郎新撰組資料館の前は、そのテレビ番組を観て、公開日を知って訪れた人、人、人…で溢れていた。資料館の人の話では、公開日は限定した数日間に限られていたが、1日で約6000人もの人が全国から訪れているという。…私が行ったその日も整理券が配られて、…遠方から遙々来ても入れない人もいるという状況であった。

 

私達の列が観れる番が来たが、限られた見学時間は僅かに10分。…近藤勇沖田総司永倉新八、…等々の書簡、土方の愛刀、写真(複写)…と順に展示されている別な場所に、件のその束ねた遺髪が白紙の上に展示されていた。

 

 

…私はその髪を観ながら、間違いなく死ぬという明日の激戦を前に髪を形見に切った瞬間の土方の心境を想った。

 

そして、その束ねた毛髪からは、池田屋事件時の叫びや長州人の断末魔の怒声、鳥羽伏見の闘いの時の大砲の破裂音や硝煙の匂いさえも透かし視るように伝わって来るのであった。

 

 

 

 

…熱くなって覚えたこの感覚の先に、ジャッキ-デニソンさんには、残留遺物からの様々な事が見えてくるのであろう。

 

 

 

………ふと気がつくと、遺髪を観ている私のすぐ横に、たいそう美しい女性が静かに立っていた。その顔を見て…土方歳三の子孫だと直感したので、(もしかして子孫の方ですか?)と問うと、果たしてそうであった。…私は好機と思い、以前からずっと気になっていた或る事を確認したく、その方に訊いてみた。(…実はものの本で知ったのですが、市村鉄之助が隠し持って来た土方歳三の写真の実物には、その写真の端を噛んだ土方の歯跡が残っていると書いてありましたが本当でしょうか⁉)と。

 

………………女性の方は、おそらくは今まで誰も訊いて来なかったであろうこの質問に一瞬戸惑ったようであったが、(……うっすらですが、その写真には土方の歯跡が今も確かに残っています)と答えてくれた。……やはりそうであったか。……私は写真の端に付いているというその歯跡こそ、土方の生きた証と矜持を映す物であると常々思っていたのであるが、今まで機会ある度に見た写真の複製には写っていなく、或いは伝説上の話かとも思っていたのであるが、タイミングよく子孫の方に直に訊けて得心したのであった。

 

………(新撰組で一番恐かったのは、それはもう副長の土方歳三です。隊列の先頭で歩いて来る、あんな鋭い眼をした人は今も忘れる事は出来ません。) ……司馬遼太郎が書くずっと以前に、作家の子母澤寛が、土方歳三を目撃したという、当時まだ存命中だった京の街に住んでいた老婆から訊いた覚え書きには、そのようにある。…幕末史に詳しい人でも、西郷隆盛暗殺未遂事件というのがあった事を知る人は案外少ないのではないだろうか。…

 

 

 

その暗殺未遂事件、単独で仕掛けたのは誰あろう、土方歳三である。…実行したのも土方歳三ただ一人(近藤も沖田も関わっていない幕末遺聞の閉ざされた一頁。)…土方は一人、平服で待機しており、薩摩藩邸から出て来た大男を視るや、通り越し時に抜き胴で一瞬で仕留めたが、それは西郷ではなく別人であった。

 

もしこの時、西郷本人であったら間違いなく明治維新は無く、徳川政権が続いた事は必至であろう。幕府の最大の敵になるのは西郷隆盛である事を、土方は早々と明察して、単独で暗殺を謀ったのである。

 

 

 

 

…今回のブログは土方歳三のその豪胆な話と先見性に詳しく言及したかったのであるが、信号が赤く点ってしまった。…どうやらブログの分量が尽きてしまったようである。

 

 

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『室生犀星&恩地孝四郎 in福井』

…いよいよ4月。…先日の桜の頃に、個展のために福井に行って来た。3日間の慌ただしい滞在であったが、故郷である事もあって久しぶりに会う人が多く、嬉しくも駆け抜けたような3日間であった。

 

 

……個展会場であるGalleryサライのオ-ナ-の松村せつさんのセンスの良い采配で、作品34点が壁面に掛けられていき、緊張感を帯びた個展空間が立ち上がった。翌日の初日、朝10時の開廊と共に福井のコレクタ-の人達が次々に入って来て、会場はすぐに人で埋まった。

 

 

初日の夕方、福井に来たもう1つの大事な目的があった。日本の近・現代版画の主要な作品を数多くコレクションされているコレクタ-の荒井由泰さんが来られて、車で一緒に荒井さんのご自宅がある勝山(恐竜博物館でも知られる)に行き、作品の数々を(今回は近代版画の地平を切り開いた恩地孝四郎を中心に)拝見するのである。

 

…そして、その後で、同じく勝山に住む画廊サライのオ-ナ-の松村さんのご自宅と古い蔵(築300年)に行き、その壁面に掛けられている作品の数々を拝見するのである。…画廊で、これから勝山に行く事を知った私の作品のコレクタ-の若い男性2人も同乗する事になり、夕方一路、深い自然が残っている古刹の永平寺を通過して勝山へと向かった。

 

荒井さんは、以前のブログでも何回か登場されているが、美の眼識が実に高く、交流関係の実に広い人で、画家のバルテュスが来日した際も、はるばる勝山を訪れて、荒井さんのご自宅で寛いだという逸話がある、荒井さんとはそういう人である。荒井さんとのお付き合いは長いが、いつも作品について熱心に熱く話をされる荒井さんを見ていると、「作品を収集するという行為もまた、確かな創造行為なのである。」という言葉があるが、この言葉は実に至言だなと思うのである。…熱い思いでコレクションされて来た作品の総体。それがすなわち、荒井さん自らが紡ぎ上げた紛れもない自画像なのである。

 

 

 

2階で恩地孝四郎の代表作にして近代版画の頂点に在る「『氷島』の著者・萩原朔太郎像』、『Allegorie No.2 Ruins (Haikyo)』が先ず在って私を驚かせた。

 

『氷島』の著者(萩原朔太郎像)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そしてその場で私は荒井さんから恩地孝四郎の貴重な随筆と写真が載っている限定本『博物志』をプレゼントとして頂いた(美術家にして詩や文章も書く恩地孝四郎は私における具体的な導きの先達なのである)。

 

 

…その後で恩地の貴重な作品を数多く拝見したが、特にその夜に私の関心を惹いたのは、室生犀星の『青い猿』の挿画作品として刷ったグロテスクな女達の相を描いた木版画であった。…私は反射的に〈あっ、これはあれだな‼〉と閃く、室生犀星の詩があった。…それについて以下に少しく書こう。

 

 

ここに掲載した室生犀星の詩。…画像は裏が透けて読みにくいかと思うが、これは私が詩集の新しい表現の為の印刷の可能性を実験した為で他意はない。さて犀星の詩はこう書いてある。

 

…(あさくさに来りて/くらき路地をくぐりぬけつつ/哀しきされど美しき瞳をさがす。/うつくしき瞳はみな招へども/こころ添いゆかず/さまよい疲れて坐る/公園のつめたき石。)

 

……哀しき、美しき…が前面に出ているロマンチケル、理想の高い夢追い人、室生犀星の都会のさ迷い日記の一頁のような…詩である。…しかし、この詩に登場する舞台や人物は、このブログで度々登場する凌雲閣(浅草十二階)下に迷宮のように広がっていた銘酒屋(店に置いている酒は飾りで実際は淫売屋)で客の男性を漁っている女郎たちである。…室生犀星は夜行列車で金沢から上京するや、上野からすぐその足で浅草に行き、銘酒屋の女達を求めて頻繁にさ迷っていたのである。

 

…恩地孝四郎が描いたこのグロテスクな女達の不気味な相は、それを直に表した作品なのである。……今は無きこの銘酒屋にいた女郎たちはその数実に2000人はいたというから、浅草十二階下から拡がっているその様を迷宮といったのは誇張ではない。…室生犀星は(うつくしき瞳はみな招へども…)と美しい言葉で装おって書いているが、次の行の(こころ添いゆかず)は、リアルである。

 

…この淫質な迷宮をさ迷っていたのは室生犀星だけではなく、…谷崎潤一郎今東光石川啄木竹久夢二永井荷風高村光太郎…と挙げればきりがない。…室生犀星は幼児期に姉が東京の女郎屋に売られた事があり、最初は姉の行方探しもあったかと思うが、次第にこの都会-浅草の毒に、はまっていったように思われる。

 

…それにしても、すぐれた抽象、具象の抒情…と恩地孝四郎の表現の幅は実に広く、かつ深い。…恩地だけにとどまらない荒井さんの膨大なコレクションを全て見ようと思ったら数日はかかってしまうに違いない。…(荒井さん、もう1度機会をみてまたぜひ、今度は個展でない時に来たいですね。) ……そう話していると、ギャラリ-から松村せつさんが戻られたので、続いて、松村さんのご自宅へと向かった。

 

…300年前に建てられたという大きな蔵に入って驚いた。…広い四方の壁面に私のオブジェや版画が沢山掛かっていて、それがアフリカの古いお面やタピエス…などの作品と調和していて、また新たに変容した私の表現世界が静かにそこに、松村さんの美意識と相乗していたのであった。

 

 

 

 

 

そして蔵に隣して在るご自宅は、昭和の初期に建てられたという大きな病院だった家で、電話室がある玄関から入ると、奥は寺院や老舗の旅館の奥座敷を想わせる深い気品があり、松村さん手製の大きな提灯が広い和室に深い韻を醸し出していた。

 

 

 

 

 

 

……勝山は、周囲を深山が領している、時間が止まったような静かな美しい土地である。夜、暗い道を歩いていると、既に亡きこの土地に生きた先祖たちの魂が豊かに息づき、生者を見守っているような気配を私は感じたのであった。…荒井さん、松村さん、…共に私の作品を相当数コレクションされていて、その作品がこの勝山の夜と同化している。…私は表現者冥利に尽きる感慨を覚えながら、数日後に横浜に戻って来たのであった。

 

 

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『一枚の写真から始まるひとつの物語』

…イタリアでは3月後半の気象変動の激しいこの時期を〈狂い月〉というらしい。狂い月なのは日本も同じで、桜の話題が出たと思ったら、いきなりの雪で、仕舞った冬服を出せば、次には一気に汗ばむような25度の暑さに。……狂っているのは気象だけでなく、かろうじて踏ん張っていた世界のバランスらしきものは、今や二人のずば抜けた愚者が演じる、名付けてトランプ-チン現象によって完全に箍が外れ、総じての破滅の底へと加速的に堕ちていっている感がますます強い。……と言うわけで、今回のブログは、『室生犀星の真実と嘘』を書くつもりでいたが、いささか抒情過ぎて、この狂い月の頃には物足りないのでは…と思い、今回は予定を変えて、狂い月のこの時期に相応しい内容にした次第。…暫しのお付き合いを。

 

さて、……ここに一枚の写真がある。…高い石塀に囲われた薄暗い隅で行われているのは、訳ありな若い男女が人目を忍んでひたむきに集中している、もはや獣の雌雄と化した、愛の、恋の営みの現場の写真。…場所は、このブログでも度々登場するのでお馴染みとなった谷中墓地。

 

…この写真が特異なのは、(暗くて少し見えにくいかと思うが、)男の上に跨がった若い娘の背中で背負われている幼児(見た感じでは幼女)が、この激しい現場をじっと視ているという事である。…服装から推察すると時代は昭和12年頃か。…脇に投げ出された風呂敷包みが臨場感を醸し出している。…

 

丸刈りの青年は、場所や姿から察するに、上野広小路にある老舗デパ-ト松坂屋裏の自転車屋『内山』の奉公人、吉野留吉。…名前から察するに末っ子で口べらし。故に福島の四ツ倉から常磐線で上京して、…早10ケ月が過ぎた頃か。…

 

一方の若い娘は名前を鈴木八重。断ずるに19才頃か?…こちらは島根県の大桂島出身。

…八重も口べらしで最初は大阪の船場にあるカフェ『香彩房』で女給として働くも身持ちの悪さ故に店の金を持って男と逃亡、…今は名前を寺島千鶴と変えて子守りをしながら、日暮里駅裏の丸安呉服店で奉公するも、…かくのごとし。

 

……私が何故この写真を持っているか…には訳がある。今から30年前に台東区の額縁屋で修行していた知人のT氏からもらい受けたのである。…そのT氏から写真の来歴を訊いた事があった。…すると面白い答えが返って来た。

 

…何と、この写真を撮影した人物は、谷中の交番に勤務している警官で、墓地内を巡察しながら、さも仕事らしく肩にカメラを担いで、退職するまで隠し撮りを生涯の趣味として生きていたのだという。〈警官にして同時に覗き魔、これならば絶対に捕まらない構図である。〉…そして、退職した時に、自分が生きた記録として、数多ある写真を現像し数冊のアルバムを遺して逝ったのだという。…(めぐり巡った、それが、これ!)とT氏は言い、アルバムに見入っている私に(…もし気になるのがあったら1枚だけあげるよ‼)と言ったので、ならばと私が選んだのが、今回掲載したこの写真なのである。

 

ちなみにこの頃(昭和10年頃)、例の阿部定など金に余裕がある男女は渋谷の円山町や新開地の二子新地などの旅館に行ったが、余裕がないアベックは、葉の繁る日比谷公園や人気のない墓地を目指して行ったという。…面白い話がある。…その頃、深夜の広い谷中墓地にはおよそ100組ものアベックが夜毎現れていたらしい。…そしてその数を上回る覗き魔も…。真っ暗な闇の中で、時々、頭にぶつかる物があるので、何だろう⁉と思って見上げると、桜や松の木の上で縊死したばかりのぶら下がった死体の冷たい足が、……といった事もあったらしい。恋の場所、そして死に場所としても谷中墓地は人気があったらしい。

 

……今、このブログを書いていて思ったのだが、もの凄く強力なサ-チライトで深夜の谷中墓地全体をいっせいに照らし出したら、さぁどうなるであろうか。…下半身だけが裸の男女、白い死装束姿で首に縄を巻いたままの女性、或いは男が、そして覗き魔と化した、会社で堅物と言われている係長や、自称愛妻家で真面目一徹との噂さえある男達が、まるで蜘蛛の子を蹴散らしたかのようにいっせいに墓場から飛び出してくる姿は考えてみるだけでも面白い。…正に人生の縮図、お祭り騒ぎの光景がそこには…。

 

 

(……では富蔵さん、そろそろ参りましょうか‼) 冷やしコ-ヒ-を飲みながら私は静かに田代富蔵さんに言った。…昨年の夏の熱い真盛りの頃であった。…私は持参したA3のコピ-紙を富蔵さんに渡し、谷中墓地のそばにあるカフェを出た。私もその同じコピ-を持っている。…(熱いですねぇ、こんな日に決行するというのは命懸けですねぇ)と言いながら…… 私達が手にしているのは、今回掲載した写真を大きく拡大したコピ-なのである。向かう先は谷中墓地。

 

…ずいぶん前から考えていた事があった。…それは、およそ90年前に、その警官が隠し撮りをしたその現場をこの目で見つけてみたい‼という事であった。その同行の盟友として、このブログで度々登場する富蔵さんは実に息が合って相応しい。私達はよほど好奇心の波長が合うのか、何より富蔵さん自身がやる気満々なのが実に嬉しいのである。しかし、この谷中墓地は無限に広く、ある意味で迷宮といっていい。およそ1万基はあるという墓地内で、ピンポイントでその現場を見つける事など、しかもこの酷暑の中で探索する事など不可能といっていい。……しかし富蔵さんと私は、そのコツがある事を本能的に知っていた。…人目を避ける、或いは追い詰められた気分、つまりはその男女の切迫した気分に自分を同化すればよいのである。…蛇の道は蛇…である。私達は二手に分かれて動いた。

 

……およそ30分くらい経った頃であったか、私の進んで行く先の暗い繁みに富蔵さんが既に立っていた。見ると、おぉ‼とばかりに、その富蔵さんの目の先に件の高い石塀の連なりがあった。…そして、90年以上前の男女のその現場がその奥に今も暗いままに在った。正にあの写真そのままである。

…〈間違いないですね。…この塀の尖った水切りの形、突き出た石塀の段の数……。) そこに、たまたま通りかかった、年配の墓地の掃除係の人が来たので、私達はそのコピ-を見せた。…(その写真の場所はここですよね)と富蔵さんが確認の為に問うと、その人はかなり興味深げに写真に見入りながら(間違いないです‼)と断言した。(しかし、この写真、どうして持っているのですか‼?)と興味深げに訊くので、(ちょっと訳ありなんですよ)と私は応えた。…私はお礼に持っていたコピ-をその人にあげると、嬉しそうに眺め入っていた。

 

………写真のこの男女はその後、果たしてどういう人生を辿ったのであろうか⁉…時代からみて青年は戦死した可能性も高い。…そういえば、作家の吉村昭さんの随筆の中で、少年時代にこの谷中墓地の徳川慶喜の墓地の敷地内で、出征する男と、若い女性が交合している現場を偶然見てしまったという話を書いている。

 

……写真の娘の方も既に亡くなっていると思うが、……その背にいた、背負われていた娘は今は………。その原風景に潜在光景として、その現場は記憶の中に消える事なく入っていたのであろうか。………とまれ、まるで人生という演技を終えたようにその男女はこの世から幻のように消え去り、現場の石塀や樹木だけは今もそのままに在る。…

 

 

私はロンドンやパリで入手した古い手紙を沢山持っている。その中には明らかに恋文と思われる手紙も混じっている。…その文字を見ていると、筆跡から伝わってくる熱い感情の名残はそのままに、あたかも埋火のように今も生々しい。…しかし、その恋文の書き手と受取人はもういない。……考えてみると、生きる…とは、見返りなどを求めずに、自分にある固有の生のエネルギ-を全方位的に熱く激しく放射する事、詰めて語れば、唯それだけなのかもしれない。

 

 

さぁ、まもなく3月が終わり、詩人のT.S.エリオットが〈4月は残酷な月である〉と語った、更に狂える月がやって来る。…私の場合を云えば、4月1日から先ずは福井の個展から始まり、年内は5つの個展と、2人展が控えていて、アトリエは正に混沌とした制作の現場と化している。…その混沌とした空間が私は好きである。未知の作品が次々とそこから立ち上がって来る、私はその最初の目撃者になれるからである。

 

 

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『アトリエからギロチンが出て来た話』

3月に入って、アトリエにこもって制作する日々が続いていた或る日、(…久しぶりに会いませんか?)という清水壽明さんからのお誘いのメールが入って来た。…清水さんは平凡社の月刊誌『太陽』の名編集長で、数々の刺激的な企画で出版界を長年席巻して来た人。お付き合いは35年以上になる。…清水さんは横浜山手に家があり、ならばお互いの中間の場所という事で会うのは中華街にして、待ち合わせ場所に私は加賀町警察署前を指定した。

 

……中華街で会って、先ずは画廊の1010ART GALLERYに行き、オ-ナ-の倉科敬子さんに清水さんをご紹介した。折しも堀江ゆうこさんという方の写真展を開催中。なかなか面白い作品で暫し話をした後で、倉科さんに『楊貴妃』というカフェを教えてもらい、二人で入った。…私はベトナム珈琲を注文する。

 

…清水さんは昨年末にイタリアを旅して来たので、その話から始まった。…以前に私が、(清水さん、イタリアのミラノに行くなら足を延ばしてマッジョ-レ湖がいいですよ。その河畔にヘミングウェイが泊まって『武器よさらば』を執筆した、まるで夢のような壮大なホテルがあるので必見ですよ、)と話していたが、今回の旅で清水さんは行って来て(…あのホテルは本当に夢のようだね)という感想を熱く語ってくれた。

 

…また、ヴェネツィアのダリオ館の事(歴代の主がみな自殺している謎の館)を私がブログで度々書いてきたが、清水さんが行った日は残念ながら公開日ではなかった由。…ともかく、清水さんは、かつて取材で何十回と海外を経験しており、今回もポイントを踏破した旅であったようだが、次回は南下してロ-マ方面を考えているとの事。…次に行きたい場所は……? …と清水さんが訊くので(次は、お伊勢参り…かな?)と私。その後はもろもろの話をして別れた。…アトリエに戻って、また制作を再開する。

 

 

 

先日、アトリエの片づけをしていたら、紛失したと思っていた2枚の写真が偶然出て来た。おぉ‼と思って、しばしその時の事を思い出していた。……今から30年前に行ったベルギ-のブル-ジュの歴史民俗博物館で撮影した本物のギロチンの写真である。

…撮影しただけでなく、私は好奇心の衝動と誘惑を抑えがたく、何事も経験とばかりにそのギロチン台に登って処刑台に腹這いになって跨がり、先にあるくり貫かれた丸い穴に頭から首まで全部を突っ込んで、マリ-・アントワネットルイ16世の心境の擬似体験をしてみたのである。

 

…やってみよう‼…そう思うと、心境まで敗者の気分に成りきって役者が演ずるように没入してしまう私なのである。…危ないとわかっていても好奇心の方が勝ってしまう、ある意味、子供のままに成長していない部分があるのは自覚しているが、絶好の好機とばかりに、もうそう思ったら私は止まらないのである。

 

……そのギロチンは実際に使われていた物で、私が首を突っ込んだその同じ穴で幾人かの人達の生首が実際に落ちたのである。…穴の先から私は右上に顔を傾けて窮屈な姿勢で見やると、真上から吊り下げられた巨大な刄が私を見下ろすように静かに吊り下がっている。…些かながら綱も疲れているようにも見える。今、何かの弾みでその古い綱が切れて刄が落ちたら、間違いなく私の首がゴトンと落ちるにちがいない。…その時は観光客も監視人も来そうにないので、2分ばかりの間、私は執行される時の気持ちを味わっていたのであった。

 

 

 

 

………この時は、ベルギ-象徴派の画家フェルナン・クノップフの代表作『見棄てられた町』が描かれた現場を見つける迄は、この水都幻想の町ブル-ジュを出ないつもりで10日間ばかり滞在していた時の、旅のひとこまであった。

 

 

 

『見捨てられた町』

 

 

 

…………振り返れば、美大の学生の時に世田谷の上野毛にあった産婦人科の医院に担ぎ込まれて、分娩台の上で緊急の指の手術をされた事があるが、…思えば、この二つの台、…分娩台とギロチン台の上に乗った馬鹿な男は世界広しと言えども、私くらいかもしれない。…………………

 

 

人生を活気づけ面白くするのは間違いなく好奇心であるが、程度を過ぎれば、或いは命取りになるやも知れず……か。…まぁ、この性分、それも由として、生きていこうと思っている私なのである。…さて、次回は一転して、室生犀星をめぐる真実と嘘、そしてきわどい話へと発展していく予定です。

 

 

 

 

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『クレ-・ゴッホ、そして…平賀源内登場』

…少し遡るが、先月の25日に名古屋に行ってきた。…名古屋の馬場駿吉さんとのヴェネツィアを主題とした二人展を、老舗の画廊の名古屋画廊で5月9日から開催するので、その打ち合わせが4時から予定されているのである。

 

…せっかくの名古屋行なので、着いて早々に先ずは愛知県美術館で開催中の『パウル・クレ-創造をめぐる星座』展を観る事にした。 広い会場には老若男女の沢山の人が熱心に観ている中、質の高いクレ-の作品が数多く展示されていて、高まって来るものがある。

 

クレ-はいい。作品とタイトルとの関係もまた絶妙である。…近・現代の美術作品が、各々の時代が放つ澱のようなものを帯びはじめていく中、時代の淘汰を凌駕して、ますますクレ-は、クレ-だけはその深い詩情を観者に放って、常に褪せぬ鮮度があり、かつ深い。会場で私はいろいろな事を考える事が出来て収穫の多い展覧会であった。…会期が3月16日迄なので、機会があればぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

 

午後4時少し前に名古屋画廊に着く。25日に打ち合わせ日をお願いしたのは私の方で、画廊で開催中の『ファン・ゴッホと日本近現代ア-ト展』という実に興味深い展覧会の、この日が最終日なのである。

 

 

 

ゴッホの初期の油彩画の農夫の手を描いた作品が展示されているが、それはゴッホの初期を代表する名作『馬鈴薯を食べる人々』の習作で描かれた作品だと思うが、…小品ながらゴッホ研究の第一に来るべき名品かと思われる。

 

…農民の拳の盛り上がった肉の厚みを観ると、ゴッホの絵画の本質にあるミレ-の系譜に繋がる祈祷性を持った、ある意味の宗教画である事が実感として伝わって来る。……そのゴッホの作品の左右に坂本繁二郎白髪一雄中西夏之三木冨雄…達の作品が並んでいて不思議なバランスを奏でながら展示されているが、なかなか工夫された試みかと思う。…

 

しばらくして馬場駿吉さんが来られたので、画廊の社長の中山真一さん、画廊の桑原光司さんと一緒に打ち合わせが始まる。…近くの老舗鰻屋で名古屋名物のひつまぶしの会食を頂きながら、話が順調に進んでいった。…帰路の新幹線の中で、ヴェネツィアを訪れた時の事を思い出していた。…それをどう虚構に転じて詩情性を放つか、…新しい展開が少しずつ透かし見えてきたようである。

 

 

 

…美大の学生の頃に、…人は必ず死ぬ、ならばこの1回しかない人生をどう生きるか⁉…つらつらそんな事を考えていた時に、一つの指針となったのは、27才で亡くなった高杉晋作の辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」であった。

 

 

 

 

 

 

…その次に飛び込んで来たのは平賀源内であった。…私の著書『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)を絶讚して頂いた芳賀徹さんの名著『平賀源内』を読んだ影響もあると思うが、高杉晋作と共に風狂なまま自在に生きた源内は、ともかく自分の才を多彩に存分に出しきって生きた先達として私の心をとらえたのであった。

 

…(自分とは何者なのか!?)、(自分の才の様々な引き出しは果たしてどれだけあるのか!?)…ともあれ出しきって、死ぬ時に自足して死のう‼…そう思っていた。

 

 

 

……今まで引っ越しは8回ばかりしており、その度に部屋の作りも変わったが、変わらないのが一つだけあった。…平賀源内のあの肖像画だけは常に変わらず、部屋に貼っていたのである。…源内のように、一つだけの分野に収まらず、放射的に様々な分野に挑戦して生きてみたい、…いつしかそう考えるようになっていった。

 

…源内は発明、戯作、博覧会を開催、本草学者、画家、作家、銅版画の先駆者、コピ-ライタ-…などの分野で生きた。…では私はどうなのか?…銅版画、オブジェ、写真、美術評論の執筆、詩集の執筆刊行、版画集の版元かつ作者、コピ-ライタ-(これは電通からの依頼でやっている)

…では発明は?…と問われたら、実はしっかり或る物を発明して商品化に成功しているのである。

 

 

…あれは版画集を版画工房で制作している時であった。刷師のK君が、ある水溶性の版画溶剤を見せてくれた事があった。…その後で、私は窓の外を眺めていた時にふと透かし見えて来る光景があった。……銅版画は薄い銅板に油性のグランドという黒い液体を流して乾燥させ、その上から針で引っ掻いて絵を描き、それを硝酸液に浸すと、引っ掻いて銅の面が現れた箇所だけ腐食が入り、その腐食された溝に硬いインクを詰めて、紙に刷ると銅版画が完成する。

 

…しかし、その液体のグランドという薄膜は油性でなければ腐食の際に硝酸液の中で溶けてしまう。…それを、先ほど見せてくれた水溶性の版画溶剤を工夫すれば、硝酸液の中でしっかり腐食し、その後で水で流せばすぐに代用で塗ったグランドが水で流せるのではないか‼という……魔法のような商品の姿が見えて来たのであった。…そればかりか、神田の文房堂という老舗画材店の棚に、私が考案した物が画材商品として並んでいる姿が透かし見えて来たのであった。

 

…(どうだろう?)…刷師のK君に話すと理論的には絶対に不可能ですと言われてしまった。(いや、必ず出来る‼…なぜなら私には完成した姿が見えているのだから!)と言って、K君を励ました。…そう、私は閃くだけで、取り組むのはK君なのである。そこがずるい。…2年が経ったある日、(…出来たよ‼!)というK君からの吉報の電話が入って来た。…すぐに新日本造型という美術の画材会社に持ち込み、それは『ウォ-タ-グランド』と私が名付けて、ラベルにレンブラントの銅版画の絵を貼って店頭販売となり、2年前に私が予知的に透かし見てしまった、神田の老舗文房具店の棚にもそれは並び、美大からも注文が入って来た。

 

…この商品はそれなりに売れ、海外からの注文の話が入って来たりもした。…しかし、私は頭に閃いたのが実現した時点で、それで儲けていくという話には全く興味がなく、興味は失せて、新たな次なる作品の制作や執筆に関心が向かってしまうのである。…明日は何が待っているのか⁉…その見えない先に好奇心がいつも向かっていくのである。

 

 

………さて源内であるが、彼は或る事件で幕府の役人を殺め、獄中で亡くなってしまうのである。…(あぁ非常の人、非常を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる)…源内の墓に刻まれた親友杉田玄白の言葉がある。…台東区橋場の住宅街の一画に、それはひっそりと在る。

 

 

………さて私の最期はどんな結末が待ち受けているのであろうか?次第にその時が近づいている事は間違いないのであるが。……ともあれつらつら考えてみると、私という人間は、分裂気質で、何より安定してしまう事を嫌う資質だという事だけは間違いのないようである。

 

 

 

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『邪視を持った三人の男について話そう』

…今回は平賀源内について書こうと思っていたが、意外や意外、前回のブログを読まれた人達から、ラストの終わり方が気になって仕方がない、実に面白いので、もう少し続きが読みたい‼…というメールがかなり反響として来たので、先ずはこの類い、…私以外に、予知能力、更には異常な交感能力を持っていた三人の人達について書く事から、今回のブログを始めようと思う。

 

…先ずはパリで客死した佐伯祐三の話から。…1923(大正12)年9月1日、最初のパリ行きを控えた佐伯は家族や友人一行と信州渋温泉に滞在していたが、その前日に、近々に関東にかつてない大地震が来る事を直感的に予言して話していたという。

果たして翌日に未曾有の関東大震災が発生している。…これはパリで佐伯の最期を看取った親友の山田新一の証言にある。

 

 

 

佐伯祐三は時代が違うので残念ながら面識はないが、これから登場するお二人(駒井哲郎・井上有一)は実際に面識があり、またそこには私も絡んでいるという、ちょっと厄介な話。

 

……銅版画の詩人と云われた駒井哲郎さん(1920-1976)のお宅に、土方巽の弟子で、芸大で木版画を制作している友人のAと訪れたのは二十歳の頃であったかと思う。(大学で話し合うより、突っ込んだ話が出来るので、私達は度々訪れていたのである)。

 

 

 

…私達は版画の先達者の恩地孝四郎の画集を拡げながら、駒井さんと様々な意見を交わし合っていた。…今思えば、それは至福の体験であったのだが、私は分裂気味なところがあるらしく、意識の右側で駒井さんが熱心に語る恩地孝四郎論の話を熱く聞きながら、もう一方の左側では別な事を考えていたのであった。駒井さんのその広い家を眺めながら妄想に耽っていたのである。

 

(…いいなぁ、こんな天井の高い広い家に住めて、しかも美しい奥さんが出してくれるコ-ヒ-が実に美味しいではないか‼…それに引き換えどうだ、自分がいま住んでいる下宿は名前こそ『宝山荘』という立派な響きであるが、平屋で傾いていて…しかも暗い、…自分が大学を出たら、はたしてこんな広い家に住めるのだろうか?…ああ、いっそこの家に住んでみたいなぁ)…、二十歳の私はそう強く思ったのであった。…すると、Aと話していた駒井さんが、瞬間に何かを受け取ったらしく、突然私の方に顔の向きを変えてニヤリと無気味な笑みを浮かべながら、低い声でこう言ったのであった。(…俺が死んだら、この家に住めよ…‼)と。

 

…思っていた図星を指摘された私は驚いて駒井さんの顔を見た。…すると駒井さんは、笑うと写楽の絵のような凄みがあると云われている無気味な、もっと正しく謂えば、邪気に充ちた笑いをもう一度ニヤリと浮かべたのであった。…何も知らないAは、ただ私達のこの光景を呆然と眺めているだけであった。

 

…その後に出された天丼を食べながら私は思ったのであった。…これは読心術ではない。何故なら駒井さんはAと熱心に話し合っていた筈。だから私の顔の表情は視ていなかった。…とすれば、自分が出す何かが異常に強く、それをまた異常なまでに鋭く繊細な駒井さんの感性の受信能力と、まるで見えない電波のように交感してしまったのではないだろうか…。ともあれ、恐ろしくも不思議なそれは体験であった。

 

……それから4年後、24歳の私は池田満寿夫さんのプロデュ-スのおかげで、初めての個展を開催した。…版画の全作が完売となり、画廊との契約も順調にいき、個展の最終日に私は横浜の下宿へと帰った。…そこに一本の電話が入った。…駒井さんが舌癌肺転移のために築地の国立ガンセンタ-で逝去されたという知らせであった。

 

 

 

最後に登場する井上有一さん(1916-1985)は、国際的に高く評価された書家である。その突出した作品が放つ香気と狂気の様は他に類がない。…渋谷西武で『未来のアダム』という企画展が開催された折りに、私は出品作家として打ち合わせに行くと、そこに、同じく出品作家として来られた井上有一さんがおられた。

 

…それが出会いであるが、私は書の世界に疎く、そこで初めて井上さんの書を拝見したのであった。そして、その凄まじい集中力に私は唸った。…四谷シモンさんの人形や、建築家の坂茂さんなど様々な分野の作家を集めたこの展覧会のオ-プニングは盛況であった。

 

…そして会が終わり、三々五々、作家達もひきあげる時になった。…見ると、会場を出た通路の先を行く特徴のある後ろ姿が目に入った。……井上有一さんである。取り巻きに囲まれながら歩いているその後ろ姿を視て、邪気めいた悪戯を閃いた私は周りの友人達に(今から、ちょっと面白いものを見せるよ‼)と言って、前方を行く井上さんの右肩から左の背中に、一瞬の居合い切りの思いで強い〈気〉を放ったのであった。…(あれだけの作品を画く強い気を持った人物ならば、私のこの強い念は通じるに違いない‼)…そう思って、視えない、心中の刀で井上さんの背中を真っ二つに切り裂いたのである。

 

…果たして私が思った通り、井上さんは紛れもない本物の人物であった。…正に右袈裟斬りで切られたかのように井上さんは仰け反り、そして、後ろから誰かが鋭い気を放った事を瞬間に覚ったのであった。

…突然の事で驚いている周りの取り巻きに構わず、井上さんはその強い気を放った人物が誰なのかを確かめるべく、後ろを振り返って視たのであった。…そして、そこに私がいる事を知って、(ああ、あなたでしたか‼)と得心の笑みを浮かべながらお辞儀をしたので、私も笑ってお辞儀を返したのであった。

 

…私の友人達も唖然としていたが、それが井上さんとの最期の時であった。…………それを思い出すと、…まるで、平安京朱雀大路で深夜にすれ違った二人の陰陽師のような体験で実に可笑しいのであるが、私はその時の事を時おり懐かしく思い出す時がある。

 

関東大震災を前日に正確に予知した佐伯祐三。…私の想いが空間を一瞬で跳んで駒井さんの感性に受信され、心中の言葉が、正確に伝わった事。…また私の放った強い気が、そのまま激痛となって井上さんが感受した事。…私の事はさておくとして、前述した佐伯祐三、駒井哲郎、…そして井上有一。…その三人の顔(特に眼)を視ると一つの共通点が見えて来る。…三人とも眼力(めぢから)が刺すように強いのである。…澁澤龍彦が何かのエッセイでそれについて『邪視』と表現して書いていたのを思い出す。邪視の持ち主こそが芸術家の証しであり、写真に残る特に十九世紀にはドラクロアなど、沢山の芸術家がみな邪視であったが、昨今は少なくなってしまったと。

 

 

………未だ生まれざる人と、既に死者となった人のために芸術は存在する、という意味の事をパウル・クレ-は書いているが、そもそも芸術とは語り得ぬ視えない物と人との豊かな交感現象である事を想えば、ここに書いてきた体験、更には前回のブログで書いた事は、全く不思議でも何でもなく、十分にあり得る事なのではないだろうか。

 

私事を語れば、…24才の時に、私の作品を初めて見た池田満寿夫さんは〈神経が剥き出しで表に出ている!〉と驚嘆し、また美術評論家の坂崎乙郞さんは、氏が関わっていた新宿の紀伊國屋画廊に持参した私の作品を視て、〈君の神経は鋭すぎる、このままでは精神が絶対に持たない!必ず破綻を起こす!〉と真顔で忠告してくれた事があった。…私は坂崎さんからの影響はかなり受けていて尊敬もしていたので、その忠告は胸に響くものがあった。自分でも、あまりに裸形な自分の神経を自在に御する事が出来ず、今想えばかなり辛かったのだと思う。

 

……紀伊國屋画廊の外に一歩出ると、街は若者たちの夜の雑踏で賑わっていた。その人群れの中を縫うように歩きながら私は自分に誓うように、こう呟いたのを覚えている。(…もう、短距離走者は止めた‼…これからは長距離走者で行こう‼)と。私は意志的な切り替えは速い。…そう意識を変えると、晴朗な気分に変わり、次第に制作への視点も変わっていった。…そして銅版画からオブジェへと表現の軸が変わり、美術に関する執筆活動、詩、写真…と表現の幅も拡がっていって、現在がある。…しかし、前回のブログで書いたように〈考えなくても直感的に突然視えてしまう!!〉という、この予知的な感覚だけは消える事がなく、ますますその頻度が増して今に来ているのである。

 

……次回のブログは、クレ-、ゴッホ、そして平賀源内について書く予定です。乞うご期待。

 

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『雨のメリーゴーランド in Paris』

 

…先日の事である。アトリエで制作している時に、ふと本棚にあるジョゼフ・コ-ネルの画集に目が行き、久しぶりに手に持ってみた。すると本からパラリと落ちる物があったので見ると、それは写真家ロベ-ル・ドアノ-がパリの寂れた「メリーゴーランド」を撮した1枚の絵葉書であった。

 

…パリには珍しい土砂降りの雨の中、無人のメリーゴーランドが雨に打たれて哀しい姿で写っている。絶妙に切り取られた構図の中に凝縮された郷愁が宿り、私の記憶の中の〈何か〉と共振したらしく、たまらない切なさが充ちて来た。………しかし葉書故に細部が見えず、私はもっと大きく撮したこのメリーゴーランドの写真画像が載っている写真集をいつかぜひ欲しいと強く思った。…………

 

 

…その翌日、私はJR日暮里駅で降りて、谷中銀座へと向かう御殿坂を上がっていった。…度々このブログに登場する田代富蔵さんが6月に個展を開催するので、その個展の為に書いたテクスト文を渡すのと新年の打ち合わせがその日の目的であった。……私はこの御殿坂を上がる度にいつも(一体何処に在ったのだろう!?)と思っている或る事があった。

 

…私が高校の時から好きで影響を受けていた画家の中村彝(つね)が未だ19才の頃に住んでいた家が、確かにこの坂の何処かにあった筈であるが、その住所が資料を調べても全く載っていないので、…ここ数年、私はこの100メ-トル近くある坂を上る度に、その場所を探すのであるが、煙に消えたように、それはようとしてわからないままであった。……一本道の坂の途中に在るのは、2つの寺(本行寺経王寺)と、老舗蕎麦屋の「川むら」、…そして数軒の食べ物屋くらいである。…

 

……坂の上の蕎麦屋「川むら」で、富蔵さんと好物の「牡蠣せいろ」を食べ終えて、真向かいのカフェで打ち合わせをしようと店の暖簾を上げた時に、一瞬、横の露地へ消えようとする人が目に入った。…見ると、その人は以前にこのブログに登場した、露地奥で、坂本龍馬等を撮した幕末期の湿板寫眞機にこだわり、寫眞館を経営している写真術師の和田高広さんであった。

 

……奇遇とばかりに立ち話が始まり、和田さんのご高説が始まった。…今日は谷中の寺と借地権の話である。和田さんは話し出すと立て板に水とばかりに止まらない。話は廃れ行く谷中銀座の話になったが、何故か風の向きが瞬間変わったように……

 

(…………だから、彝もその家に昔いたんだから‼……)と突然、川むらから入る露地向かいの一軒の家を指差した。…?!!!

 

 

…(和田さん、今、彝と言いましたが、ひょっとして画家の中村彝の事ですか…⁉)と、私が問うと(そうだよ、中村彝はこの店にいたんだから…‼)と、もう1回指を差した。…(彝がいたのは確か下宿屋ですが…)と私が問うと(そうだよ、このあづま家という家は昔、下宿屋だったんだよ)と言う。

 

予想だにしなかった物がポトリと落ちてくるように、ここ数年来懐いていた疑問が一瞬で解けてしまった事に唖然とした。…何の事はない。…いつも出入りしていた蕎麦屋の隣が、ずっと探していた彝の家だったのであった。

 

 

…彝は実に絵が巧い。そして天性の色彩画家であった。ここに掲載したエロシェンコの肖像画は、僅かに4色で描いているが、そこに気づいている人は案外少ないのではあるまいか。

 

…彝がここにいたのは19才の頃で明治38年、…つまり1905年だから、今から120年前の話になる。…それを何故、和田さんは知っていたのか⁉…そして私が訊いてもいないのに、和田さんの話が急転するように、何故、中村彝の話になったのか、わからないままに私達は和田さんと別れて、カフェに入った。

 

 

カフェで富蔵さんとお茶を飲み、執筆を約束していた個展のテクスト文をお渡しした後、私は駒込駅へと向かった。…その日は駒込のギャラリ-『ときの忘れもの』松本竣介の素描展が開催されており、竣介のご子息の松本莞さんの『父、松本竣介』の刊行記念の対談の日なのである。松本竣介は中村彝、佐伯祐三と並んで、特に私が気になっている画家。…この日は元・池田満寿夫美術館の主任学芸員をされていた中尾美穂さんに連絡して、中尾さんから指定された東洋文庫ミュ-ジアム横のカフェ「オリエントカフェ」で待ち合わせをしていたのである。せっかくなので、池田満寿夫、松本竣介の作品に造詣が深い中尾さんにお会いして、二人の作家像をどう捉えているのかを伺うのも、今日駒込に来た目的なのであった。

 

…私は中尾さんから指定された東洋文庫を目指したのであるが、駒込はあまり来ないので地理に疎い。………迷いながら歩いていると、佇まいが気になる一軒の古書店が目に入った。…表の安売り本に『北原白秋歌集』があったので手に持って入ると、おぉ‼…この店はいいのが揃っている!と直感する。………………ふと、(写真関係の本はありますか⁉)と店主に何気なく問うと(その下の段に少しですがあります)との返事。確かに評論集のようなのが5~6冊しかないが、1冊だけ薄い写真集らしいのがあったので(!?)と思いながら引き出して見ると、『ROBERT DOISNEAU』と書いてあった。…ロベ-ル・ドアノ-の写真集である!!

 

…もうここで私の直感はマックスに達し、(有る、有る!…間違いなく昨日、大きく見たいと思っていたメリーゴーランドの作品が有る筈)と思って頁を捲っていくと、果たしてその写真が強い黒の綺麗な印刷で見つかったのであった。…それにしても昨日の今日とはあまりに展開が早い。…かくして、この日は、欲しかったドアノ-のメリーゴーランドの写真集と、長年不明であった中村彝の家の在所跡がまとめて見つかったのであった。

 

 

…このブログの連載が始まって既に15年以上の時が経つ。…その折々の話題の中で、私は自分が頻繁に体験している予知的な現象についても記録するように書いて来た。…その中で書いて来たものをここで少し挙げてみよう。

 

 

①ある日の昼前に、ふと、江戸東京の魅力を毎回特集している月刊誌『東京人』に何か書くのも面白いな、と漠然と思っていたら、その日の午後に『東京人』編集部から電話が入り、私は翌月に岸田劉生の描いた代表作『切通之写生』の現場について書いた事があった。

 

 

 

 

 

 

②以前に、報道ステーションという番組を観ていたら、番組とは全く関係なく何故か突然、以前に行った太宰治の生家への旅行の事を思い出した。

 

…私は太宰が東京へと旅立った生家近くにある津軽鉄道の金木駅を見たかったのであるが、その時は、知人が数人同行していて急ぐ旅だったので遠慮して行かず仕舞いのままだったのを後になって悔やんだ事を、何故か漠然と思い出したのであった。…すると、アナウンサ-が(ではここで、ちょっと気分を変えて、こちらの映像をご覧下さい)と話すや、テレビの画面からは、私が今、思っていた正にその駅、満開の夜桜の中を最終列車が入って来る、津軽鉄道の金木駅の情景が映し出されたのであった。

 

③熊本の個展の帰り、ANAに乗って東京に向かう機内の中で、機内誌『翼の王国』を読んでいた。…誰かが書いた海外の取材文であるが、文章に艶がなく、有体に言ってかなり硬い。(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ……)と思っているうちに、飛行機は羽田に着いた。…その翌朝、1本の電話が入った。ANAの『翼の王国』編集部からであった。…私の好きな海外の場所に行って取材文を書いて来て欲しいという依頼であった。実に昨日の今日である。

 

…恵比寿のカフェで打ち合わせに行ってわかったのであるが、私が機上にいて(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ)と思った正にその時に、私を取材に行かせたいという事が決まっていたのであった。…2ヶ月後に私はパリのパサ-ジュに取材に行き、その時に制作していた版画集の個展も併せてやって来たのであった。

 

 

…こういった現象は、その度に今までのブログに書いて来たので、以前から読まれている方は、既にご存知の事と思う。…今回はその内の3例を挙げたが、覚えているだけでも40以上は書いて来たと記憶する。…人生でこういう事を経験する方がいても、その回数が希であり、又は深入りしたくないという常識が働いて、偶然、或いはたまたま…という言葉で済ませてしまうかと思うが、私のように異常に回数が多いのは、何と云えば良いのであろうか?

 

…しばらくしてから現れる事象を先に視てしまう、或いは直観してしまう事の不思議を身をもって生きているわけであるが、…… 私は自分の経験を通して思う事がある。… この宇宙はわかっているだけでも11次元はあるという。しかし私たちはその内の僅かに1つの次元、すなわち3次元しか知覚出来ないでいる。… だが私の場合のようなこの現象を思うと、時にこの3次元の壁を瞬間的に突破して、別な次元との往還をしているのではあるまいか、そんなふうにも実感をこめて思うのである。

 

 

……このドアノ-の美しい写真集を刊行したのは、京都の祇園に在る何必館(かひつかん)である。7年ばかり前にこの美術館でドアノ-の写真展を開催した事があり、写真集はその時に刊行したのであった。…幾つか伺いたい事があったので、先日、何必館に電話をすると、3月30日頃までドアノ-の写真展を正に開催中との事。何という絶妙なタイミングであろうか。私が願うとそれは向こうからやって来るようで面白い。

 

…記念のポスタ-もありますとの事で、訊くと、メリーゴーランドのその写真もポスタ-になっている由。ならばと、私はそのポスタ-が欲しくなった。………そして、私の個展をプロデュ-スして頂いている福田朋秋さんが、現在、京都の高島屋美術部におられて来月に上京の折りに会食をする約束があるので、そのポスタ-を代わりに買って来て頂く約束を福田さんにお願いしたのであった。

 

……しかし、福田さんはかなり忙しい人であり、ふとそのポスタ-の在庫が何故か気になったので、今日の昼に何必館に電話をして、(京都高島屋美術部の福田さんがちかじか来られるので、そのポスタ-を取り置きしておいて、来られたら渡して頂きたい)旨を連絡して電話を切った。…その直後、入れ替わるように1本の電話が入った。…福田さんからであった。…今、丁度その何必館にいて、学芸員の方に私からポスタ-を取り置きして欲しい旨の電話があった事を知らされたとのお電話である。…福田さんいわく、あまりにジャストタイミングだったので、まるで私に見張られているようで驚いた‼…という。

 

 

…………………ずいぶん前になるが、私が未だ学生だった頃、横浜のマリンタワーでバイトをしていた事があった。…ある日、バイトに行くとマリンタワーの2階でかなりの人だかりがしている。…訊くと、よく当たるという評判の人相占い師がイベントに来ていて、その順番を沢山の人が待っているという。…その占い師に興味が湧いて来て、私は離れた所からその人を視ていた。…すると、私の存在に気がついたその占い師が、私をじっと凝視して、私に手招きをしたのであった。…何だろう!?と思いながら、その占い師の前に立つと、なおもその占い師は私の眼を鋭く凝視しながら、はっきりとこう言ったのであった。…(あなた、…いったい何者‼?)…と。

 

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『勅使川原三郎xジョン ケイジを踊る』

 

先日の19日に荻窪の劇場カラスアパラタスに行き、勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんによるダンス公演『ケイジの夢』を観た。…真っ暗な会場の舞台の上に垂直に朧な光が射しこむと左右にマヌカンのような気配を持った演者である二人が立っている。完璧なその美しい立ち位置の配置に先ず息をのむ。…そこから既に立ち上がっている緊張感は、かつてマルセル・デュシャンが(名人が配したチェス盤上の駒の配置は実に美しい)と語った、その美しさを想起する。

 

…また、満席で埋まった観客席に鋭く突き刺してくるその緊張感は、詩人・日夏耿之介の(己が頭脳は千百の思考の銀線で悉く/張り裂けさうであるところへ/水晶体は多彩多淫の光塵にて/……)という詩行の、正にそれである。…勅使川原さんの、時に犯意を多分に帯びたグロテスク、時にロマネスク、時にアルカイック…と妖しい身体表現の多彩な様が展開し、それに対演するように佐東利穂子さんの優美にして妖しい身体の動きが相乗して、ますますの膨らみを呈する中、そこにケイジの「夢」の緩やかにして眠るように虚ろな幻聴のような音が聴覚から忍び入って来て、私達はかつて覚えた事のない体感を各々の感性のまま各々の孤独の内に享受するのである。

 

……一瞬の隙もないこの緊張感の持続はおよそ一時間続き、最後の正に最後の暗転直前に、勅使川原さんが光の中で見せた〈一瞬の振り返り〉という所作によって、その一瞬後に美しい幻の残像となって、この作品は完成度の高さを極めるように、鮮やかに紡ぎ終えるのである。

 

 

 

………話を一変して物騒な事を書こう。…かつて三島由紀夫は、切腹する時の刃の様をこう語った事がある。…〈刀が体内に入るのではなく、体内にそれは出るのである〉と。…私がこの〈出るのである!〉と書かれた文章を読んだ時に覚えた戦慄は今も生々しく覚えている。…マゾヒズムの極地、被虐的なエロティシズムと狂気の混合、或いはやがて本人が突き刺す時の気合いの映しか⁉…三島が現代の定家と評した天才歌人の春日井建の歌にも、さすがにここまでのイメ-ジの言及は無い。

 

……それともう一つ。…周知のように、この宇宙はわかっているだけでも11次元あるというが、私達が感覚として実感出来るのは僅かにこの3次元だけである。身体内部もまた広大無辺な宇宙として捕らえ、そこに11次元的な考察をする事から見えてくる事の可能性の数々。……また、A4用紙の両端の左右に点を打つと、各々の点は左右に離れているが2つ折りにすると、この2点は一瞬で重なって最短の関係となる。

 

…………私は勅使川原三郎という稀人が全く独自に編み出したダンスメソッドについて時に好奇心を持って想像するのであるが、それをダンスではなく詩法の一つの可能性として考えている。…今述べた、三島の特異な身体感覚、宇宙の11次元的構造、紙上の2つの点の重なり……等々。これらも含めて様々な角度からの詩的イメ-ジの出現として捕らえ、その想像の権能から身体感覚へと移し変えているのではあるまいか、…そんな想像さえも、自分の制作の合間に想像してみるのである。そしてそれは自分の作品制作にも及んで来て、実に有益な時間でもあるのである。

 

………荻窪の劇場カラスアパラタスに行くと地階が公演会場であるが、私は1階の奥に展示してある勅使川原さんの毎回の新作素描を先ずじっくりと拝見するのを楽しみにしている。…来場した観客達は地階へと急いで、その素描の存在には気付いていないようであるが、私は実に興味津々に新作の素描に見入るのである。…世界素描大全という画集がもしあるとしたら、その全集に収まる事のない危ういまでに逸脱したその素描は必見である。

 

…あえて近似値を探すとしたら、人間の人体構造の仕組みを冷徹な迄に追及して描写したダ・ヴィンチが近いか、…或いは少女の腕の傷口に偏執したヴォルスのそれか。…とまれ勅使川原さんの素描を例えるならば、手術用の薄いゴム手袋を裏返した、その生々しさに或いは近いかもしれない。…それまで裏側の日影的な存在だったゴムの皮膚が急に表にされた事で、恥じらうように熱や匂いを放射して、腐臭さえも伝わって来るような、…そして腑分けされた肉の積み重ねられた素描の中に出現する幼児、時に胎児のままの姿と化した彼自身の肖像を前にする時、あたかもダンスという美的犯意の現場に遺された、犯人の姿を垣間見れるヒントのようで実に興味深いのである。

 

そして、真に彼は中原中也が記した、物が名辞される以前の感覚を温存したままに感性が息づいている稀人(つまりは本当の詩人)なのだと思うのである。

………『失踪したフィレンツェの或る屠殺執行人が遺した犯罪忘備録』…私は勝手にそう呼んで拝見している、この膨大な素描の山は、天才勅使川原三郎を知る、興味深いヒントなのである。

 

 

………ヴェネツィア・ビエンナ-レで金獅子功労賞を授賞して以降、更に海外からの公演依頼が殺到し、2月からは、プラハ・そしてミラノなどのイタリア三都市・ロンドン・セルビア・オランダと公演が続くので、次回の日本での公演は4月26日からである。

 

 

………アトリエには知人や未知の美術家からの個展案内状が届くが、申し訳ないが私は殆ど観に行かない。人生という短い時間の中で、無駄には過ごしたくないからである。…しかし、この荻窪にある劇場カラスアパラタスには余程の事がない限り私は通いつめ、既に10年以上の時が経つ。早いものである。…何故行くのか⁉…理由は簡単で、それが至純に美しく、紛れもなく本物の芸術だからである。

 

 

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『あぁ杉田くん、君は…』

 

…今年は、日本海側を中心に大雪を報せる映像が次々と入って来ている。例年の約二倍の降雪量というから凄まじい。…私は北陸の福井で育ったから雪の執拗な襲いかかり方は経験がある。…汗を流して雪掻きをしても、翌朝は嘲笑うようにまた繰り返し積もっていてきりがない。屋根に積もっている何トンもの雪を道に落とす為に、未だ小学生の頃から大屋根に登り、汗だくになって手伝ったものである。

 

 

 

 

…大屋根から落ちたら死ぬ危険性が高い為に本当は命綱が必要な作業だったが、子供だったので不安感はなく、今想えば、恐ろしい事を平気でやっていたものである。…今は雪も少なくなったが、昔は3メト-ル以上降った事もあり、家の2階の窓から出入りして、積もった雪の高みの上をまるで空中散歩のようにして歩いたものである。

 

 

 

 

…集団登校はホワイトアウトの中、凍った田んぼの上を進み、学校の姿が全く見えない為に、勘で方向を定め無言で何かに耐えるようにして歩く姿は、将兵199名を雪中遭難で死なせた映画『八甲田山』の映像とリアルに重なって来る。

 

氷が割れて田んぼの冷たい水の中に集団登校の児童の誰かがはまっても、まわりが無言で担ぎ上げ、何事もなかったようにまた無言で私たちは歩いて行くのである。

 

………今だったら、児童の死者が出ると誰が責任を…という事で早々と休校になるが、当時は吹雪の中を登校するのが当たり前で、誰も文句を言わず、それが当たり前であった。

 

 

…1991年の2月、私はパリのリヨン駅から夜行列車に乗り厳寒のヴェネツィアに向かった事があった。ヴェネツィアはつごう5回行っているが、その時が最初であった。…その年の冬はアドリア海が90年ぶりに凍るという酷しい寒さであった事は後で知った。

 

 

 

 

…滞在して3日目頃であったか、サンマルコ広場の老舗カフェ・フロ-リアンで夕方に休んでいて外に出ると、先ほどまであった人影が全く無く、店の灯りが次第に消えていき、まるでフェリ-ニの映画『カサノバ』の場面のように静かな不気味さが伝わって来た。…すると急に粉雪が吹き始め、たちまち呼吸すら出来ない白い吹雪のホワイトアウトに襲われたのであった。

 

…宿に向かって歩くが、何回試みても同じ場所に戻って来てしまい、無人の迷宮の中で焦りが次第につのって来た。…その時、八甲田山の死者達の死因を私は思い出した。…彼らは前進していたつもりで歩いていたが、実は同じ円の中をぐるぐる回っていて最期は亡くなったのであった。脳が覚えてしまう不気味なその錯覚の怖さを思い出した私は、今度は自分が良いと思う方向の真逆を進む事にした。すると次第に見覚えのある景色が現れて来て、…ようやく宿に帰る事が出来たのであった。ことほどさように雪は怖く、その白い衣裳の中には確かに魔物が棲んでいるのである。

 

 

…さて、今日は高校の同級生であった杉田君の事を書こうと思う。…この杉田君はずいぶん昔のブログで1度登場していて、今回が2回目になる。…1回目は修学旅行で阿蘇の草千里に行った時の事。…草千里には放牧中の牛や馬がいて、今は知らないが当時は係員の指導で希望者は乗馬が出来た。…杉田君、女子に良いところを見せようとでも思ったらしく、勇んで馬に乗ってみせた。…まぁそこまでは良かったのだが、どうやら雄馬のデリケートゾ-ン近くを彼の靴が弾みで当たったらしく、馬は突然悲鳴をあげるや、脚を高らかに上げ、杉田君を乗せてもの凄い速さで草千里の彼方へと駆けて行ったのであった。〈手綱を引いて姿勢を低くして下さい!!〉…焦った係員がマイクで必死に叫ぶのも空しく、杉田君を乗せた暴れ馬は、草千里のなだらかな斜面を一気に下り、いつしか私達の視界から消えていったのであった。

 

 

………今回はその数ヵ月が経った或る冬の日の話である。…校舎を改装する為に、私達は臨時に仮設したプレハブの校舎に一時的に移って授業をしていた。…昨夜から降った雪がかなり積もっていて、教室の窓を積もった雪が突き破りそうな程であった。…見かねた教師が(誰か雪掻きに行ってくれないか‼)と言った。…(…僕が行きます‼)といち早く挙手したのが件の杉田君であった。…授業をサボれる、…動機はそんなところであったかと思う。…しばらくして、窓硝子の向こうに長靴に履き替えスコップを持った杉田君が現れた。嬉しそうに、こちらに手を振っている。笑って応える生徒もいた。……そして私達は授業を受け、窓の外では杉田君がサクッサクッと真面目に雪を掻き除ける音がしていた。

 

 

 

……その日は前夜に降った大雪が嘘のように晴れた暖かい日であった。…………すると突然、私達の頭上で何かが纏まって滑り落ちていくもの凄い音がした。…明らかにプレハブの屋根に積もった雪が一斉に雪崩れて落ちていく音であった。

 

…教室の誰もが反射的に窓側を視た。そして視た‼…というよりは視てしまった。…杉田君が、さっきの笑顔とは一転して忽ち悲しい顔になり、両手を空しく上げ、自身に落ちてくる雪の量に耐えきれず、次第に積もった雪面の上にうつ伏せになって倒れこみ、やがて目を閉じて全く動かなくなり、その上を60センチほど積もった雪が完全に覆ってしまったその様を、私達は視てしまったのであった。その悲しい姿が窓ガラス越しに、ありありと見えるのである。

 

 

……その様を例えるならば、私たちが子供の頃に黒紙で覆ったビンの中に、二日程で出来たトンネルのような蟻の巣の作りがビンの外から丸見えに見えるのを想像してもらえたらわかりやすいかと思う。

 

…………(雪崩れで死ぬ人はあぁやって死んでいくんだなぁ)……(杉田、息をしてないんじゃないかな)……(まるで悟った仏みたいに杉田が見えるよ)……中には面白くて笑いを抑えている者もいた。

 

…あまりの異常なハプニングに最初笑っていた教師が、急に真顔になり(今からみんなで杉田を掘り出そう‼)と言ったので、私達は教室を駆け出して行ったのであった。

 

 

 

 

……それから時が流れていった。…2011年の秋に私の個展が福井県立美術館で開催される事になり、その記事が新聞に載った事があった。…それを読んだ元同級生の女子が発起人となり、同窓会が開かれる事になった。…同窓会というのは絶対に出ない私であるが、開催の主旨に私が絡んでいるのだから仕方がない。…というわけで出席したのであるが、座の途中で私は杉田君の事を思い出し、すっかり変わった杉田君を見つけたので近づいていって話をした。…確かに杉田君は生きていた。…そして、日本の近い将来の姿を考えて会社員を止め、一念発起して今は安定した職業の整体師になっているのだよ、…と言って、笑いながら私に「杉田整体医院」と印刷した名刺をくれたのであった。

 

 

 

 

追記。…しかし私には長い間、1つの疑問といえるものがあった。…それは、杉田君が雪崩れに襲われた時に簡単に失神してしまったのを目撃したのであるが、人はなぜ簡単に失神してしまうのであろうか?、もちろん雪崩れの雪の量にも拠るだろうが、意識の抵抗はかくも脆いのであろうか?…という疑問であった。

…しかし先日たまたまテレビを観ていたら、雪崩れの凄さを試す実験をやっていて成程と首肯するものがあった。

 

…地表に木製の硬い箱を置き、その上の屋根から雪崩れを落とす実験であった。…観て唖然とした。雪崩れの直撃を受けた箱は一瞬で木っ端みじんに砕け散ってしまったのであった。…重さ100Kg以上の直撃が次々と身体を襲えば、意識などは一瞬で停まってしまう。…先日も40代の女性が街中の通りの屋根からの雪崩れを受けて亡くなったという事故があったが、成程…と疑問が解けたのであった。…あの時、杉田君を助けに行くのがもう少し遅かったら…と思うと、今になってゾッとしたのであった。

 

 

 

 

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