志賀直哉

『志賀直哉』

私は、最後の文豪 ー 志賀直哉に会い損ねた事があった、と云えば、人は驚いて「お前は一体何歳なのか!?」といって笑うであろう。しかし私は、そして時代は、実際にかすったのであった。それについて以下に少し記そう。

 

1970年。私は多摩美術大学に入り、川崎の溝の口に在った男子寮に住んでいた。同室は現在は服飾デザイナーとして国際的に活躍しているYであった。80人ばかりいた寮生は皆、個性が豊かで蛮カラの気風が残っていた。その寮生の中の私の1つ先輩に小谷文治さんという油画科の人がいた。或る日突然、全身の半分をタテに、頭髪、まゆ、ひげ、身体の毛すべてを剃り落し私達を喜ばしてくれたりした。しかしその気質は真面目であり、後年、美術教師として故郷の岡山に帰ってからは、ずいぶんと生徒達に慕われたという事を後に風の便りに聞いた。或る日、私が部屋で寝転んでいて天井を見ていると、その小谷さんが突然部屋に入って来て、「北川、明日よかったら志賀直哉に会いにいかないか!?」と切り出したのであった。その時、初めて知ったのだが、小谷さんは随分と志賀直哉を愛読しており、渋谷に未だ存命中なのでどうしても訪ねたいが一緒に来ないかと言うのである。「……志賀直哉ですか、三島由紀夫なら行きますけどねぇ……」私が気乗りしない返事をすると、小谷さんは残念そうな顔をして出て行った。

 

二日後の夜に寮の食堂で小谷さんを見掛けると、随分と嬉しそうであった。聞くと、小谷さんはやはり翌日に渋谷の志賀直哉に会いに行き、運良く在宅していた志賀直哉に許されて部屋に入り、一時間ばかり話をしてきた由。もちろんアポなしの、まるで刺客のような訪問ではあったろうが。(… やはり行けば良かったかな)ー 私は少し後悔したが、この後悔は、後に自分が文筆業もやるようになって次第に大きなものとなっていった。文体のエッセンスを盗むべく、あの正確な観察体の眼差しの極意について、後年の私は無性に知りたくなったのである。この年の秋に三島は自決し、翌年に志賀直哉も亡くなって、新聞は昭和の最後の文豪の死を大きく報じていた。その辺りから、文学も美術も大物が出なくなり、各々の扱う主題もまた小さくなっていった。

 

今になって、ふと思うことがある。小谷さんは何故私を誘ったのか…と。その頃の私は、文芸評論では伊藤整が抜きん出て良い事を語っていたからなのか……。後年になって、横浜に住んでいた私のところに深夜、小谷さんから電話が掛かって来た事があった。電話の声は思い詰めたように暗く鋭かった。電話の話では、小谷さんは教師を辞めて、やはり絵画で自分の才能を試してみたいのだという。聞くと、今、静岡のドライブインから電話をしているとの事。これから会いに行くので、作品を見てくれないか… という話であった。既に美術家としては身を立てていた私だが、何様でもない私が、先輩の絵を見て意見を言う…という、その不自然なニュアンスが何となく気になっていた。しばらく待ったが…結局小谷さんは現れなかった。そしてまた月日が流れていった。……小谷さんが既にこの世にはいない人であるというのを知ったのは、大学から送られてきた卒業生名簿の消息欄であった。古い手帖に書いてあった小谷さん宅の番号に電話をすると、奥様が出られ、その後の軌跡を知らされた。小谷さんは結局故郷の岡山に戻り、教職を務めながらその早い生を閉じたのであった。未だ40歳前後頃ではなかったろうか。小谷さんを思い出すと、いつも決まって浮かぶ想像の場面がある。それは小谷さんが志賀直哉と向かい合って対話をしている場面である。論客であった小谷さんは何を尋ね、志賀直哉はどう答えたのか……。それはもはや答えのない永遠の謎として二人は鬼籍に入って既に久しい。「やはり一緒に志賀直哉に会っておけばよかった!!」私が18歳の時に落として来た青春時の悔いのひとつである。

 

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