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『10月―新作オブジェの大きな個展、近づく』

……今日は9月24日。彼岸も過ぎて、日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで10月19日から始まる個展が少しずつ近づいて来た。……毎年連続して開催されて来たこの個展も、今年で14回目になる。今までに制作して来たオブジェの作品数は既に1,000点を越えているが、そのほとんどがコレクタ―の人達の所有するところとなり、今、アトリエに残っているのは僅かに30点くらいである。オブジェの前に制作していた銅版画も刷った枚数は5000点以上になるが、全てエディションは完売となっていて、手元には作者が保有するAP版の版画が少しあるだけで、これは表現者として実に幸せな事だと思う。感性の優れたコレクタ―の人達との豊かな出逢い、そして、手元に旧作が残っていないという事の自信が、次なる新たなイメ―ジの領土への挑戦の促しとなり、それらが相乗して、制作への集中力をさらに鋭く高めてくれるのである。

 

…………毎回、主題を変えて開催して来た今までの個展図録を通しで見ていると、自作に懐いているオブジェへの視点や構造、ひいては、この「語り得ぬ、物語りを立ち上げる装置」への想いが、次第に変わって来ている事に気付かされ、様々な感慨がよみがえって来る。……そして今回新たに制作した作品を見ていると、以前にもまして、象徴性や暗示性が増して来ているように思われる。

 

 

今回の個展のタイトルは『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』。新作オブジェ72点は全て完成し、今は、求龍堂から刊行される個展案内状の校正刷りのチェック段階に入っている。案内状作りは個展を象徴的に表す大事な仕事。まだまだ神経の張った日々が続くのである。

 

今回の個展に向けての制作が始まったのは3月の初旬であった。作品全てが完成したのは8月の末。……計算すると6ケ月で72点、1ヶ月で12点の計算になる。しかも1点づつに完成度の高みを自分に課して作って来たわけだが、不可思議な事に作って来たという実感がない。オブジェ、この限りない客体性を持った、不思議なる詩的装置を作るという事は、一種の憑依的な感覚によって集中的に成されているのかもしれない、……と振り返ってみてあらためて思うのである。

 

私が未だ20代前半の学生であった頃、私が信頼している美術評論家の坂崎乙郎さんや、池田満寿夫さんは、私の作品が放つものを直感的に読み取って、感性が鋭すぎて身が持たないのではないかと危ぶんだ事があるが、大丈夫、私はまだ生きている。……集中力と速度、これは私の表現者としての生来の資質なのであろう。だから制作のペ―スはコントロ―ルしていて、時折は興味ある場所に出掛け、気分転換を図っている。

 

 

……その気分転換を兼ねて、9月のある日、田端に在った芥川龍之介の家跡を訪れた。…高校生の頃から芥川龍之介は好きでよく読んでいて、昭和2年に自殺した芥川のその場所をいつか訪れてみたいと思っていたのが、漸く実現したのであった。折しも田端にある田端文士村記念館では、詩人の吉増剛造企画による芥川龍之介展が開催されていて、なかなか見応えのある展示内容であった。会場には芥川関連の貴重な写真や資料が展示されていたが、私が興味を持った写真は、出版記念会の席で向かい合って写っていた、芥川と谷崎潤一郎の姿であった。小説における筋の是非をめぐっての芥川vs谷崎の大論争は、近代文学史上で最も興味深い論争であったが、今、この二人の天才は仲良く、巣鴨の染井墓地横の慈眼寺に並ぶように眠っている。

 

私は昔、コロタイプで精巧に印刷された芥川龍之介の河童の墨絵(確か2mくらいの原寸大)を持っていた事があった。……芥川が自殺したその部屋に、死の直前に描いて放り投げてあった河童(自画像)の絵と自讚の言葉である。その言葉は今でも覚えている。「橋の上ゆ/きうり投げれば水ひびき/すなわち見ゆる/禿のあたま」である。……上ゆの「ゆ」は、からの意味。……橋の上から……である。その現物がないかと探したが会場になかったのは残念であった。

 

……会場を出て、2つ鉄橋を越えて、崖の石段を上がるとそこが芥川龍之介のいた家の跡である。……以前に池田満寿夫さんは、「芥川龍之介とビアズレ―は似ている。共に若い時期にはまるが、その後は熱病が引いたように関心が薄れていく。」と何かの折りに語っていて、上手い事を言うなと感心した事がある。……この二人は、若い時期の先鋭な感性に直で響いてくるものがあるのかもしれない。……夏目漱石はその逆。

 

 

 

 

 

……田端は、芥川龍之介以外にも室生犀星菊池寛野口雨情堀辰雄……などの文士が住み、大龍寺という古刹には正岡子規の墓がある。その墓の前に立ち、かつては漱石が、そして私が唯一、先生とひそかに呼んでいる寺田寅彦氏がこの墓の前に立った事を想い、時間の不思議な流れを思った。……そして、寺のすぐ前に、女優の佐々木愛さんが代表をしている劇団文化座(80年以上の歴史を持つ)があり、その劇団の人としばらく言葉を交わした。いつか機会を作って、是非この劇団の芝居を観てみたくなった。

 

 

 

 

……田端駅裏には田端操作場があり、かつては、佐伯祐三長谷川利行が、その生を刻むように画布に向かって筆を走らせた場所であった。…………半日ばかりの探訪であったが、この日は、過去へと往還出来た貴重な時間と体験になった。……しかし、開発は加速的に進み、風景はますます不毛と化している。……このような過去の豊かだった時代を偲び、体感できるのも、今後はもう不可能になって来るに違いない。……いにしえを訪ね、気分転換を兼ねて充電を図る事は、日本ではもう最後の時かとも思ったのであった。

 

 

 

……10月19日から始まる個展に関しては、順次このブログでも書いていく予定でおります。……さて次回は一転して、最近私の身近に起きた怪奇譚を書こうと思っています。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

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『あの坂を下りてくる影、あれは……』

友人の中村恵一さん達が主宰している季刊の文芸冊子『がいこつ亭』がアトリエに届いた。いつも切り口が面白いので毎回愉しみにしているのであるが、今回の号は特に私の気を惹いた。……三神さんという方が書いた『眼球が最後に映すもの』(元総理銃撃事件と高橋和己「わが解体」)というタイトルを見て、7月10日付けで書いた私のブログ『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』と重なる視点で、銃撃され倒れこんだ元総理の最期の視覚に何が映っているかに言及しているのであるが、この三神さんの文章の特に面白い点は、高橋和己の『わが解体』所収の「死者の視野にあるもの」からの引用部分であった。高橋和己のその一文を少しく引用してみよう。

 

「……かつてイタリアの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が惨殺される寸前、この世で最後に見た恐怖の映像を復元するのに成功したという記事を読んだことがある。……(中略)…私はその紙面の一部に紹介されていた写真を奇妙な鮮明さで覚えている。全体が魚眼レンズのように同心円的にひずんだ面に、鼻が奇妙に大きく、眼鏡の奥に邪悪な目を光らせた男の顔がおぼろげに映っていた。(中略)……被害者が、無念の思いを込めて相手を見、そこで一切の時間が停止し、最後の映像がそのまま残存する―それは充分ありそうなことに思われた。」

 

……あの銃撃事件の時の映像を思い出してみよう。集まった眼前の聴衆を前にして喋っている元総理の顔。……その直後、ボンという第1発目の乾いた発射音に2.7秒遅れて振り返った後ろ向きの姿が一瞬映るが、次に地に崩れていく瞬間の姿は人影に隠れて見えなかった。……しかし、映像は確かに捕らえていた。その直前、確かに彼が振り返って射撃犯の顔を直視した事を。三神さんの文章は、そこからどんどん鋭くなっていくのであるが、……私は読みながら、30年以上前に体験した或る事を思い出したのであった。私は高橋和己の良き読者ではないので『わが解体』のこの文章は知らなかったが、ずいぶん前に読んだイギリスのミステリ―雑誌で、死ぬ直前の眼球の水晶体には最後に映った光景がそのまま残存する、という興味深い説がある事は知っていた。……そしてそれを私が実際に試みる時がやって来たのであった。

 

 

 

……30代の10年間ばかり、横浜・中区山下町の海岸通りに面したマンションに住んでいた時があった。…ある日の昼過ぎ、中華街でランチを食べた私は自宅に戻るべく歩いていた。……するとマンション側にたくさんの人だかりがして、明らかに異様な気配であった。大量の血が地面に筋を引いて流れているのが目に入った。……私はひょっとしてと思い、人だかりを掻き分けて一番前に出た。……すると地面には果たして、今マンションから飛び降りたばかりの青年の姿があった。顔は蒼白というよりは既に土気色。目は乾いた感じであったが僅かに艶の名残が見てとれた。……それを見た瞬間、私は件の事を思い出し、死にいくその人の目に己が姿を映そうとしたのであった。……私は真っ赤な血は苦手だが、凶事への視覚的な好奇心がそれを上回っているらしい。遠くから響いて来る救急車のサイレンの音。それが着く前に、マンション向かいの警察病院から数名の看護婦が一目散に走って来た。そして先頭の看護婦が青年の脈を計り、後ろの看護婦達に両手でバツの合図を送った。(……ずいぶん事務的で寒いものを見たと、私は思った。)後で知ったのだが、マンション前にある病院で末期の癌を宣告されたその青年はパニックになり、病院から走り出て、私の住んでいるマンション3階から投身したのであった。

 

 

……それからずいぶんの時が流れたある日、私は自分の個展会場にいた。夕方、和服姿の60代くらいの上品そうな女性が画廊に来られた。(初めてお会いする方である。)そして、展示してあるオブジェと版画が気にいって購入を決められた。先ほどまで来客で賑わっていた会場であったが、人の流れが落ち着いたので、その方との寛いだ談話になった。話を伺うと、その方は今は和服を作って販売しているが、その前の職業は全くの畑違いで20年ばかり病院で看護婦をしていたという。そして、私は「病院は不思議な話が多いと思いますが、何か面白い話はありませんか?」と訊くと、「今、病室で危篤状態になっている老婆が、あろう事か、その同じ時に、正装した姿で宿直中の看護婦たちがいる部屋に御礼を言いに静かに入って来た事があり、その時が最も怖かったという。」……そういう事が特に夜の病院内では度々あり、それがやがて普通になってしまうのだという。そういえば、患者を死へと連れ去っていく、病院内をさすらう黒い影の話(実際に日本画家の鏑木清方夫人が体験した話)を、夫人から聴いた泉鏡花が怪談『浅茅生』に書いているのを思い出した。「では、病院に勤めている間で一番怖かった体験はどんな話ですか?」と更に話を向けると、その人は徐に話始めたのであった。

 

 

「私が看護婦で働いていたのは、横浜の山下町にある警察病院でした」という。……そして「一番怖かったのは、今話した幽霊でなく現実の話で、末期癌を宣告され、病院から飛び出した若い男性が通りの向かいにあったマンションから飛び降りた、その時の男性の姿が一番怖かった」という。」私はまさかの偶然に唖然とした。そして訊いた。……「実は、私もあの時の現場にいたのですが、血相を変えて病院から走って来た看護婦が三人いたのをありありと覚えています。ひょっとして貴女は、その先頭にいて、男性の脈を計りませんでしたか!?」と訊くと、「……そうです。」と云う。

 

 

「事実は小説よりも奇なり」というが、年月を経て、何かの捻れのように再会した、その人と私。……話はこれで終わるのだろうか? それとも不思議な宿縁のように、これは何かのプロロ―グなのだろうか。……そういえば、帰られる時に、この方が渡してくれた名刺の住所を見て驚いた。……私のアトリエから僅かに15分の近い距離。その間には小高い坂がある。……坂は怖い。永井荷風は坂について「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と書いているが、岸田劉生の坂のある風景『道路と土手と塀〈切通之写生〉』は凶事の予感を孕んであくまでも暗い。……残暑のある日、その方は逆光の影となって、果たして現れるのであろうか。そして私は「あの坂を下りてくる影、あれは……」と小さく呟くのであろうか。

 

 

 

 

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『八月の夜に蛇の影を踏んではいけない』

……先日、青森や秋田を襲った線状降水帯の猛烈な雨は、各地に甚大な被害をもたらした。濁流が人家を呑み込んで無惨に流れていく様を観ていると、グリ―ンランドで毎日60億トンの氷が溶けて濁流となって流れ続けている現状と重なり、「人類は間違いなく水で滅びる」と、その手稿に断言的に書いたルネサンス期の巨人―レオナルド・ダ・ヴィンチをどうしても思い出してしまう。しかも彼はこの文章を書いている時に、人類への警鐘的なニュアンスでなく、あの『モナリザ』の不気味な微笑と同じく、醒めた冷笑的な眼差しで、人類の運命を突き放すように書いているのである。

 

……ダ・ヴィンチのその冷徹な屈折ともいうべき資質は、幼年の頃からの生来的なものであり、遺された記録に拠ると、殺した蜥蜴に蝙蝠の引きちぎった羽や別な動物の内蔵を張り合わせて奇怪な動物を作り、ヴィンチ村の大人達を驚かしていたという。…………死とは何なのか?何故鳥は飛べるのか?……生き物の中身の構造は一体どうなっているのか?etc.……尽きない好奇の眼は、その幼児期から早々と発芽していたのである。……もともと子供というものは少年も少女も残酷なものであるが、ダ・ヴィンチはその孤独癖と相まって、〈視たい〉というその視線の欲望は生涯徹底したものがあったようである。

 

 

さて話は変わって、……昨晩こんな夢を視た。……夢はどうやら私が小学生の頃らしい。光の眩しさからみるとどうやら夏休みの頃らしく、私は1人、木造の小学校の薄暗くて長い渡り廊下を歩いている。廊下からは花壇が見え、赤や黄の原色のカンナの花が実に眩しい。……しかし歩いても歩いても、広い校舎の中に全く人影は無く、ともかく私は自分の教室へと向かっていた。……どうやら私は夏休みの登校日を間違えて来たらしい。……教室が見えたその時、その一つ手前の教室に、じっと座っている少年らしき人影が見えた。……廊下から窓越しに見ると、正面の黒板を向いたまま、私に関心も見せず、まるで置人形のようであった。……その少年には見覚えがあった。しかし名前までは思い出せない。……私は他の少年達とは遊んだが、その少年は誰とも遊ばず、ずっと孤独なまま、たしか金沢の方に途中から引っ越していったらしい。……その少年はなおもじってしているままに、やがて夢は消えた。

 

……しかし夢とは不思議なもので、仲の良かった友達は全く夢に出て来ないのに、何故、付き合いのなかった、しかもとうに忘れている筈のその少年が、今時何故に夢に、まるで幽霊のように出て来たのであろうか。一体、そんな夢を視る私達の頭の中はどうなっているのであろうか。……そんな事を目覚めた後に思っていると、やはり小学生の時にいた、一人の、やはり孤独癖の強いもう一人の少年の事を思い出した。名前は、何故か出て来ないので、今からその少年の事を仮にTとしておこう……。

 

 

……Tは集団に馴染まず、いつも一人であったが、何故か私にだけは心を開いて話しかけて来る事があった。二人とも体が弱かったので、体育の時間は見学する事が多く、日蔭の涼しい藤棚の下で、時おり話し合うのであるが、ある時、Tは彼の下校後の密かな愉しみを私に打ち明け話のように話してくれた事があった。……その話とは、「自分の唯一の遊びは、蛇を殺す事なのだ」と言う。……僕は「蛙は面白半分で殺した事はあるが、蛇は怖くてとても近付けないよ」と言うと、Tは得意げに「そりゃあ、僕だって怖いさ。でもぞくぞくとした、あの恐怖感がいいのだよ。それにあの湿った場所の、何とも云えない気配、何だか葬式のような臭いがするんだよ。線香なんかないのに不思議なんだよ。傍に誰かが死んでいるようで……」。

 

……Tの話によると、蛇を殺す時の道具は、歪な角張った小石を10ケだけ持って、沼や小川にたった一人で行くのだと言う。私が「どうして、石が10ケなんだい?」と訊くと「そう決めているんだよ。僕はコントロ―ルだけは自信があるんだ。だから10ケの石を投げて蛇が死んだらぼくの勝ち、蛇が逃げきったら蛇の勝ち、そう決めているんだよ。しかも蛇は頭が良くて死んだふりをするけど、動きが止まったその時こそ狙い時、残っている石の連続放射だよ!」……Tは次第に興奮して来たらしく、目の前に蛇がいるような感じで話している。……更に訊くと、Tの愉しみは、その後にもあるのだという。……Tは蛇を殺した後で持参した針金で縛ってズルズルと引きずりながら家に帰るのだが、途中の道すがら、大人達が決まって青ざめた恐怖の顔をするのが面白いのだという。家に着くと家の前に収穫した蛇の死骸を置く為に、いつも母親からは「お前は狂っている」と叱られるのであるが、玩具より愉しいこの遊びに比べたら、そんな事はまったく平気なのだと言う。

 

……話してみると、Tは自分だけの王国があるらしく、人間は産まれた時から大人族と子供族がいて、だから自分は死ぬまで子供なので、子供としてずっと生きて行くのだと言う。…………………………………………昨晩視た夢から、私はTの事を思い出したのであるが、家の地区が違っていたので、私達は別々な中学に入り、いつしかTの事も忘れていった。……しかし昨晩視た夢のお陰でTの事を思い出したのは、奇妙と言えば奇妙ではある。……Tはあれからどういう人生を歩いていったのだろうか。……そう言えば数年前に小学校のクラスの同窓会があった。もちろんTは来る筈がない。……誰かが口火を切って話題が、あのTの話になった。……Tのその後の事を断片的に知る者がいて話をしてくれた事を思い出した。……その話によると、Tは高校を出た後に東京に行き、今は何だか奇妙なオブジェとかいう、得体の知れない物を作っているらしい。……オブジェが何なのか、私はとんとわからないが、今も王国の唯一の住人として、……彼は子供のままに生きているのであろうか?

 

 

 

……今アトリエにいて、壁に掛けた二点の蛇の作品を先ほどから眺めている。駒井哲郎の銅版画『蛇』と、ルドンの石版画『ヨハネの黙示録』」所収の「……これを千年の間繋ぎおき」である。……眺めながら森永チョコレ―トを食べている。……何故、そんな事をしているかと言うと、泉鏡花が「チョコレ―トは蛇の味がするから嫌いだ」と辰野隆に語った話を思い出したので、先ほどチョコレ―トを買って来て、鏡花が言ったその言葉を確かめているのである。……しかし、鏡花が言ったチョコレ―トとは果たしてどんな会社の味であったのか?今では明治、ロッテ、森永、グリコ……等々会社が沢山あってみな味が違う。しかし答えは簡単で、わが国で一番古いのが明治42年に板チョコを、そして大正7年(1918年)に国産ミルクチョコレ―トを出したのが森永であり、泉鏡花(1873~1939)の年代と符合し、しかもこの言葉を言ったのが晩年(1939年)だから、森永ミルクチョコレ―ト(1918)にほぼ絞られる。……しかし、泉鏡花の言った蛇の味が、今一つピンと来ない。鏡花は蛇は嫌いだと話しているが、その実、彼の小説の中で最も多く登場するのが「蛇」である。

 

「……アレ揺れる、女の指が細く長く、軽そうに尾を取って、柔らかにつまんで、しかも肩よりして脇、胴のまわり、腰、ふくら脛にずっしりと蛇体の冷たい重量が掛る、と、やや腰を捻って、斜めに庭に向いたと思うと、投げたか棄てたか、蛇が消えると斉しく、…………」(『紫障子』)

 

「胴は縄に縺れながら、草履穿いた足許へ這った影、うねうねと蠢いて、逆さにそのぽたりとする黒い鎌首をもたげた蝮……」(『尼ケ紅』)

 

 

先ほどのチョコレ―トの話であるが、蛇の味とチョコレ―トの味との乖離(離れている様)は、常人には量りがたい隔たりであるが、その距離を持って私は、泉鏡花の想像力の飛躍する、或いは振幅する距離と考えている。それを支えている基盤が、彼の豊富な語彙力なのである。……鏡花の事を「日本語のもっとも奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入った」と評したのは三島由紀夫であるが、この僅か数行で三島は泉鏡花について言い切っていると私は思うのである。

 

 

……さて今回の蛇の話であるが、最後にもう1つだけ書こう。……明治期の文豪を代表するのは森鴎外夏目漱石であるが、この双璧、いずれがより文才があるのか、私は以前から気になっていた。そしてふと、この二人が『蛇』という題名で短編を書いている事に気づき、ある日、読み比べてみた事があった。……どちらがより蛇のあの掴みがたいぬるりとした本質に迫り得ているか!?

 

……結果からみて私は漱石の方に高い軍配を上げた。それは勿論、私の主観的な判断であるが、私が漱石の方をより評価したのには理由があった。それは私が度々、蛇の至近まで行って蛇の生理と不気味さをよく知っていたからである。……子供の頃に度々行った、あの沼や小川が、漱石の文章からありありと甦って来たのであった。

 

 

 

 

 

 

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『どうしても見たい私―欧州編』

2日前に降った豪雨は凄かった。激しく雨が降る様をバケツをひっくり返したような……と言うが、これからはそんな生易しいものでは喩えが通用しなくなってくるであろう。いや兎に角凄まじかった。……それを報道するNHKはテレビの字幕で「10年に1度の、今までに体験した事のない豪雨……」と報じていた。…ん?……その言葉、変だろう!…壊れているのは気象だけではない。日本語もそうとう荒れている。気象変動、収束が見えないコロナ、……そこに来て、グリ―ンランドでは異常な熱波により氷が溶けて来て、毎日60~125億トンの氷が流れ出している。(その溶け方は、90年代の実に7倍の早さであるという)。……こうなってくると、現実から逃げるように、例えば、かつての面白かった旅の思い出がどうしても頭をよぎって来てしまう。

 

 

先日、テレビで世界遺産の番組をやっていて、スペイン、バルセロナのサグラダファミリア贖罪聖堂が映っていた。私が行った時には、まだガゥディが建てたファサ―ドがその霊性を放っていて荘厳にして重厚なアニマさえあったが、今はかなり上部が作られ(はしたが)、何か一番大事なものが消えていった感があって無念である。やはり設計図を紛失したという事が致命的なのであろう。……私はその画面から、30年前にこの地に滞在していた時の事を思い出し懐かしかった。

 

 

……その頃、私はバルセロナに来て、ガゥディにかなりのめり込んでいた。最初にサグラダファミリア聖堂に行った時、一番見たかったのは地下聖堂とガゥディの墓であった。しかし、その地下は非公開である為に、観る事が出来なかった。……3回目に聖堂に来た時、様子が変であった。見ると、観光客が遠巻きで華やかな結婚式の行列を眺めているのであった。……どうやらカタロニアの田舎の人らしい、痩せた新郎と凄まじく太った花嫁、それに両家の親族が長い列を作って、これから聖堂の中に入っていくらしい。みんな笑顔である。……私はこれこそ、またとない好機と閃き、観光客をかき分けて、その列の中に入って行き「Hola!」を連発しながら親族のふりをして列に並んだ。半年ばかりスペイン語を幼時レベルではあるが習っていたのが良かった。「結婚おめでとう!」は、たしか……確か「Felicidades!」だったかな?と思いながら、私への視線を感じた時は、嬉しくてたまらんという表情で、それを連発した。聖堂の中に入り、地下へと下りて行く時に私は高揚した。読みは当たった。はたして、結婚式はこれから一般には非公開の地下聖堂で荘厳に行われるのであった。

 

まるで宇宙の深い神秘の森のような幾つもの反った支柱で作られた地下聖堂の天井(バロックの荘厳、モデルニスモとは違うガゥディ独自の美の結晶、サグラダファミリア聖堂は先ずここからガゥディが作り始めたのであった!)そして私の真横には、大理石のガゥディの墓。……葬式と違って結婚式にやぼは無用である。こいつちょっと変だな?……うちらにアジア人の親戚がいたっけ?……そう連中が思っても、今日は目出度い結婚式!……ヒスパニックもラテンも細かい人はそういない。……式が終わって新郎新婦は、これから車で出発するのである。花吹雪が舞う中、束の間の親戚達と別れの握手をして、私は実に清々しい気分であった。…………以前にもブログで書いたが、ゲイで空手五段の福井さんという謎の人物に連れられて深夜にチ―ノ地区(中国人街で殺人の多い危険地区)にある売春窟(ピカソが通い、「アビニョンの娘たち」の構想を得た場所)に見学に行き、直後、警察の一斉摘発に巻き込まれて脱出するのは、その数日後の事であった。

 

 

……ガゥディと共にスペイン滞在中にのめり込んでいた相手は、怪物にして天才的な画家、フランシスコ・デ・ゴヤであった。プラド美術館に通い、『黒い絵』の名作に共振し

ながらマチエ―ルの妙にひたすら感心する日々が続いた。……そして、ある日、いよいよマドリ―ドの郊外にあるサン・アントニオ・デラ・フロリダ教会にあるゴヤの墓と、以前から観たかった天井画(聖アントニオの奇跡)をまるで聖地巡礼のような高揚した気分で訪れたのであった。しかし、郊外にあるその教会に近づくと、やはりゴヤの聖地を訪れた大勢のファンらしき人達が、なにやらガッカリしたような表情を浮かべながら戻ってくるのが見えた。……その中の一人に訊いてみると、どうやら工事中で今は誰も観れないとの事。……遙々来たのに嘘だろ!!!?……と思ったが、旅立ちの前にスペイン語の先生が言った或る話を思い出した。先生いわく「スペインは滅茶苦茶よ。撮影の依頼で金さえ払えば、プラド美術館の館長は、非公開の絵やデッサンに強烈な照明ライトを当てても見て見ないふり。つまり私腹を肥やしているわけよ」と、詩人のガルシア・ロルカに心酔するあまり、グラナダに一年の半分は住んでいるその先生は言った。

 

 

……………………〈よし、ならば行くか!!〉と意を決して教会の作業員に近づき、伝家の宝刀である、またしてもの明るい「Hola!!」を発し、ソイ.ウン.ピント―ル.デ.ハポン(日本から遙々来た画家だよ)と言って、男の肩を気安く叩きながら、手に握っていた当時のスペイン貨幣である数ペセタ(だいたい500円くらいであったか―微妙な金額!)を、越後屋よろしく握らせた。……はっきり言って、やり方はあざといが私は真剣であった。……しかし、これが通じたのであるからスペインは面白い。……作業員の男はにっこりと軽く頷き、「いいよ中に入っても」と言ってくれたのであった。私は礼を言って中に入り、長い間ずっと牽恋の地であったゴヤの墓を観る事が出来た。

 

しかし工事中の為か中はかなり暗い。……そう思っていると急に照明のライトが強く灯り、ゴヤの墓と、天井のゴヤが描いたフレスコ画の2ヶ所に鮮やかに当てられた。見ると、先ほどの男が天井近くの手摺から私に「どうだい!?」というゼスチャ―をするので、私も親指を高々と突きだして頷いた。……私は観たいのである。どうしても観たかったのである。だから簡単に私は引き返さないのである。

……最後の話イタリア版へと、話は続きます。

 

 

 

仏文学者の故澁澤龍彦氏はその名著『滞欧日記』の中で、フィレンツェにあるメディチ家の別荘、〈プラトニ―ノ荘〉の事についてふれ、休日であった為に中に入れず、観たかったアぺニンの巨人像(16mの高さで、ミケランジェロに大きな影響を与えた像)が遂に観れなかった事を実に無念そうに書いている。……ウフィツィ美術館の2倍の経費を要して建てたこの別荘はフィレンツェ郊外に12荘在るという中で、敷地面積の広大さでも群を抜いている)。かつて、最初にこの別荘を訪れた日本人は、……あの天正遣欧少年使節の四人の少年達である。

 

 

 

 

 

 

 

……私はフィレンツェ市内からバスで行き、40分ほどしてそこに着いた。門は開かれていて、中にはたくさんの観光客がいた。……別荘の中は往時の豪奢をそのままに遺して優雅であったが、やはり一番の目当てはアベニンの巨人像である。……しかし、池の上に立つその像は確かに巨大で人々を圧しているが、柵があってその近くにさえ近づく事が出来ないのは、いかにも残念である。私は来る前に、勝手にイメ―ジを紡ぎ、巨人が見下ろす真下から眺める事を夢想していた。……しかし、現実は管理が厳しく、遠くから遠望するしか叶わないのであった。大勢の観光客も無念そうに眺めているだけである。……しかも、別荘中を警備して回っているパトカ―が今まさに、私達観光客の前を通過している最中で、威圧的なぴりぴりした緊張感が漂っていた。

 

………………私はふと考えた。というよりも閃いた。「待てよ、今、目の前にパトカ―がいるという事は、しかもそのゆっくりした速度では、次にここに廻って来るにはそうとう経ってからに違いない。」……「よし、今が絶好のタイミングである!」……そう読んだ私は突然、群集の中から歩き出し、巨人像を目指して進んで行った。背後から大勢の観光客のオ~!!という感嘆の声が響いて来る。しかし、私の後に続くような人はいなかった。巨人像に近づくと、遠くの観光客の声は聞こえなくなり、見ると、彼らは私の行動を見守っているだけである。……私はミケランジェロもここを訪れたに違いないという確信のもと、下から、遥か上の高みから私を見下ろしている巨人像に見入り、ルネサンス前の表現の強度を浴びるように体感した。更に池に入って行く暗い洞窟を抜けて、かつてこの池で舟遊びに興じた貴婦人達の声を幻聴のように体感した。

 

 



 

 

 

…………やがて私は巨人像から離れて別荘内を散策した。……すると芝生の上で鮮やかな朱色で印刷されたA1の文字の紙を拾った。「何故ここにこれが!?」……私は作品の構想がその時卒然と閃き、帰国後に、この時の体験した事をオブジェで作ろうと思った。それが今、福井県立美術館が収蔵している作品『プラトニ―ノの計測される幼年』である。幼年とは、この別荘を訪れた四人の少年使節達をも意味し、また作品には、その時に拾ったA1の紙も貼ってある。……私は観たかったのである。強く見たいというこの気持ちは、時として作品への不思議な導きをもしてくれる事がある。……私の作り出すオブジェは、このようにして旅の経験や体感が原点となって立ち上がっている事が実に多い。


 

プラトニ―ノの計測される幼年

 

 

……10月19日から開催される予定の日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの大きな個展を前にして、毎日、アトリエにこもって制作の日々が続いている。3月から開始した作品制作は順調に進み、現在60点近くが完成した。……世界は今まさに混迷の中に在る。しかしアトリエに入ると一切の現実は遠退き、ひたすら虚構の中に美を咲かせる営みのみが在るだけである。

 

 

 

 

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『潜在光景―私の中に誰かがいる』

……午前早くにアトリエに向かう道で、死にかけているアゲハ蝶を見た。車の往来があるので不憫に思い、手に取って近くの涼しげな木立の緑陰に行き、静かに放した。……指先に蝶の羽の感触が微かに残っていて、幼年時代の夏を思い出した。

 

……私は蝶が好きで、時々オブジェの中にもそのイメ―ジを取り込んでいる。……蝶と云えば、安西冬衛の詩に『春』という題で「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」という美しい一行詩がある。……韃靼(だったん)海峡が効いている。これが津軽海峡やマゼラン……では、渡っていく蝶が見えて来ない。韃靼海峡を見た事が無くても見えて来る風景が在るから、人の想像力とは不思議なものである。色彩と同じく、言葉の様々な響きにも様々な物語が潜んでいるのである。安西冬衛のその一行詩を思い出したので、そうだ、一行の詩を自分も作ろうと思い、歩きながら考えた。詩はたちまち出来た。……「1991年4月12日、パリの空が落ちて、バルザックの像が欠けた夜に……」。…さて題をどうするかと考えて、三つの題が続けざまに浮かんだ。『オダリスク』.『クレオの不信』.『近代劇場』……。題を何れにするかで、この一行詩の中のイメ―ジが全く違って来るから、言葉とは実に面白い。まるでイメ―ジを紡ぐ装置である。……だからこそ、私は作品に付けるタイトルにはこだわりを持っている。

 

……そんな事を思いながら歩いていると、やがてアトリエが見えて来た。郵便受けを開けると、大きな封筒が届いていた。差出人は、世田谷美術館の学芸員の矢野進さんからである。先日お会いした時に、1986年に美術館が開館した当初に開催されたロバ―ト・ラウシェンバ―グ展を私は観ていなかったので、その図録をいつか拝見したいとお願いしていたところ、その図版とテクストのコピ―を送って来られたのである。矢野さんは「ラウシェンバ―グは何故か日本ではあまり語られていない」と言う。私も同感である。

 

 

……テクストは、ロバ―ト・ヒュ―ズの長文の論考と、美術評論家の東野芳明とラウシェンバ―グの対談で構成されていて実に面白かった。そして懐かしかった。……私は大学では奥野健男の文学ゼミでバシュラ―ルをやり、東野のゼミでは20世紀のアメリカ美術を代表する、ラウシェンバ―グと双璧的な存在であったジャスパ―・ジョーンズをやった。ゼミを掛け持ちでやっていたのだから私もいい加減なものである。……ジャスパ―・ジョーンズについて、その思うところを書くという課題で、私は「ジョーンズの作品の前に立つと、いつも何故か決まって、犯人の遺留品があまりに多く残された殺人現場に立ち会っているような戸惑いにも似た印象を覚える。そこには解釈を迷宮の方へと誘ってやまない、作者の意図的な仕掛けが息づいている。……」という、ミステリアスな書き出しから始まる40枚ばかりの論考を書いた事があった。……他の学生は生真面目な硬い文章で始まっていたが、東野は私の論点を面白がり、君と同じような視点でジョーンズについて書いた、アメリカの美術評論家がいたよ、と教えてくれた。へぇ~そうなのか、と私は思ったものである。

 

 

……このゼミは最初は、ジョン・レノンの詞の翻訳から始まって面白かったが、東野と学生、更に詩人の瀧口修造氏が組んで、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称ー大ガラス』の日本版を作るという段になって、私はゼミをやめた。……あの『大ガラス』という作品は、後日のアクシデントで偶然入った時に出来た美しい亀裂があってこそで、亀裂が無い以上、作っても無意味である。それが何故わからないのか!という醒めた分析が私にはあった。簡単に云えば、韃靼海峡と書くべきところを、解釈の歪み、或いはセンスの無さで「てふてふが一匹マゼラン海峡を渡っていった」になってしまうのである。

 

…………その二年後、竹橋の近代美術館で開催された『東京国際版画ビエンナ―レ展』で私は招待作家として出品し、パ―ティの席で東野芳明と再会したが、それが最期の別れであった。しかし時が経ち、東野もラウシェンバ―グも亡くなった今、対談を読むと、あの70年代が甦って来て先ずは何より懐かしいものがあった。今の時代には無いラウシェンバ―グの真摯で熱い語りがそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回のブログ、これ迄は伏線で、これからが本題である。……ある日、神田神保町の古書店街を歩いていた時に『ナショナルジオグラフィック』の本が、山積みで店頭に出ていた。その内の何冊めかにアメリカ先住民の『インディアン』を特集したのがあったので開いて見た。すると!?という感覚に私はなった。……見ている本がロバ―ト・ラウシェンバ―グの作品特集かと思うようなオブジェの幾つかが、インディアンのテントの脇に、日常と同化して転がっていたのである。廃物―古いブリキ缶から自転車の車輪、石……それらの組み合わせのセンス、土の匂いの漂う色彩感覚、ノスタルジアetc……何だか似ているなぁ……、普通はそう思って流してしまうかもしれないが、!?から!!へと閃きが移るように、或る仮説を立ててしまうのが私の良いところなのである。仮説とはすなわち「ひょっとして、ラウシェンバ―グにはインディアンの血が入っているのではないか!!」…… そう閃いたのである。

 

……すぐに私は家に帰って、仮説の裏付けを取るべく、ラウシェンバ―グの英語版の画集を出して来て、真面目に訳を進めていった。……私の閃きは当たっていた。彼のル―ツにはインディアンもいればオランダの血も流れていた。……世界で起きたあらゆる事柄を、彼は時代や国を越えて一つの画面に共存して現すコンバイン(結合)という主題で現していったが、何の事はない、彼自身がコンバインそのものであり、彼の内なる先祖 をして、彼を突き上げ作らしている感が、彼の作品からは濃密に伝わって来るのである。彼のモダニズムは、遠いノスタルジアと直結している、そうも云えるのである。……矢野さんから送って頂いたテクストにも、「……父ア―ネスト・ラウシェンバ―グは、ベルリンから移住して来た医者の息子だったが、この祖父に当る人物はテキサス南部まで流れて来て、チェロキ―・インディアンの娘と結婚したのだった」とある。

 

……東野芳明との対談で、「そういう世界というものの表層の曖昧な多様性を、君の画面は反映していると思うんだ。そのとき君は、画面にコンバインするイメ―ジやオブジェをどうやって選ぶのか、ということ。視覚的な面白さか、言語的な基準か、或いは本能的になのか」と質問する東野に、ラウシェンバ―グは「それは本能的にだな。しかし同時に、選択はまた、事実や物から逆襲されもする。曖昧さというのはいい言葉だ。……」と語っている。ラウシェンバ―グが即答で答えた「それは本能的にだな」……この本能的に、という言葉が孕む意味は、或いは「遠くからの呼び声」「波動して来る遠い記憶」と何処かで繋がっているとも読めるのである。

 

 

でも、それはたまたまだよ!……そうおっしゃる方の為に次の例はどうであろう。登場するのは20世紀前半の絵画史をキュビズムという視覚実験的な試みで席巻したパブロ・ピカソである。ある日、私は思うところがあってピカソの顔写真をじっくりと眺めていて、こう想った。「この男の異様な顔相、邪視的な鋭い眼……、彼の生地のスペイン・マラガの先、ジブラルタル海峡を渡ればすぐにアフリカ大陸……、……ひょっとして彼(ピカソ)のル―ツには、アフリカの黒人の血が入っているのではないか!?」……そういう仮説を立てた事があった。……しかし、先のラウシェンバ―グと違い、ピカソの遥かに遠い先祖を次々に遡って辿る事は、そこまで詳しい研究書が無い日本では不可能な事。……しかし、それから何年かを経て、私は新聞(確か読売新聞の文化欄だったか)の或る記事を見て驚いた。……アメリカの美術館の学芸員の女性が、私と同じ着想を立てて、彼の生地のマラガに行き、親戚も尋ね歩いて調査した結果、遂にピカソの遠い先祖にアフリカ人がいた事を突き止めたのである。

 

つまり、こうである。……20世紀の美術史の革新的な幕開けは、1907年の『アヴィニョンの娘たち』から始まる。……それはキュビスム絵画の代表作である。キュビスムとは、一つの対象一方向の視点だけでなく、上下左右裏表斜めと様々な視点を同時的に描く手法
である。……しかし、アフリカの子供たちが、例えばみんなで1頭の馬の絵を描く時に、ある子供は真横の姿を描くが、他の子は自分が好きな頭部を正面から描き、また他の子は真上から、或いは真後ろから描くという。つまりキュビスムと同じく「多焦点」で描くのが、ごく普通なのである。キュビスム以前からアフリカではキュビスム的な絵が普通に描かれていたのである。

 

 

 

 

 

 

……ピカソと共にキュビスム絵画を追求したのはブラック(フランスの画家)であり、この二人のキュビスム絵画は見分けがつかないという。しかし私はその判別法を掴んでいる。画面が洗練されていて構図にエスプリが在るのがブラックで、画面が御し難く不調和で、例えて云えば、摘み草や土の匂いがするのがピカソである。これは間違いのない判別法である。……ひょっとするとピカソ自身、アフリカの子供達の描き方がキュビスムと繋がっている事に気がついてなかったかも知れないが、本当の史実は作者の胸の中に封印されたままである。

 

このラウシェンバ―グ、ピカソの例に見るように、近代の産物であるモダニズムというものも、作者自身が無自覚のままに、遠い先祖の記憶からそれは産まれ、それこそ、ラウシェンバ―グが即答したように「それは本能的にだな」という言葉の中に、創造の秘密が潜んでいるようにも想われる。私達の体内には遠い先祖からの遺伝子が脈々と流れており、それは本人が死んで肉体が滅んでも、船を乗り換えるようにその子孫へと繋がっていて、遺伝子が滅びる事はけっして無い。そこには様々な物語りの記憶も濃密に入っていると想われる。……私達の過去を辿れば、共通したノスタルジアの源郷、記憶の原器があると私は思っている。そして、…………それは私の作品を作る際に通奏低音として在る主題でもあるのである。

 

 

 

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『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』

毎日人々がたくさん行き交う東京駅には、総理大臣の暗殺現場を示すプレ―トが2つあるが、今ではそれを知る人は少ない。……1つは、大正10年に東京駅丸の内南口改札付近で刺殺(即死)された原敬。もう1つは、昭和5年に東海道本線10番線乗り場ホ―ムで銃撃(後日死去)された濱口雄幸である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日の白昼に起きた安倍元総理大臣の暗殺現場の映像は悲惨なものであった。そして仰向けに横たわる安倍氏の姿は生々しいものであった。その様には、もはや誰も介入出来ない、取り返しのつかない、私達誰もがやがて各々に迎える死の瞬間を代弁して実況しているかのような、絶対の孤独な姿があった。……必死で甦生のマッサ―ジをする人、大声で救急車や近くに医者を求める人々。プロとは言い難い迂闊な失策をやってしまったSPと警官が抑え込んでいる犯人の姿。……その中で、画面に映る安倍氏の姿を観ていて、ふと、正に今、死に瀕したこの人の脳裡には果たして、何が浮かんでいるのかを想像した。(……自分の経験を基にして。)』

 

…………以前にブログでも書いたが、私は2回死にかけている。1回目は2才の時だからもちろん記憶にないが、病弱だった上に流行りの百日咳が悪化して危篤状態になった。(この世に縁が無かった私を憐れんで、棺桶の中に何を入れるかを両親が涙を流しながら相談したという。)しかし、運が良かったのかどうか、当時たまたま承認されたばかりの薬を注射して、奇跡的に死の淵から生還した事を後に母から聞かされた。……2回目は高1の時に体験した溺死に瀕した時である。突然、堰を切ったように水が口の中に大量に入って来た時の、かつて体験した事の無い苦しみの後は、一転して母の胎内に守られて羊水に浸っているかのような幸福感に充ちた感覚の中、天上から実に美しい光が射しはじめ、私は、あぁ何て幸せなんだろう、このままでいい……このままで、もういい……そう、ぎりぎりの意識が感じていた時、……突然救助の手に引き上げられ、先ほどの苦しみを今一度体験した後に、私は感覚が割れるように甦生した。これは、立花隆氏の著書『臨死体験』で、死の淵から生還した人々が語る、柔らかで至福感に充ちた光が射して来たという多くの証言と一致する体験である。

 

 

……人が亡くなる直前、最後まで機能しているのは〈聴覚〉であるという。だから、救急車や医者を求めて叫ぶ声は、彼の脳裡には、おそらく遠くの意味知らぬノイズとして、或いは別な世界のものとして聴こえていたのではあるまいか……。それを聴いているのは、もはや安倍晋三という直前迄の俗名を持った存在でなく、また憲政史上最長の総理職を勤めたという事も既に意味を持たない、ただの素に還元された無垢な魂、例えるならば産まれたばかりの素の意識として最期に聴いたようにも想われる。……或いは、銃弾の破片が心臓を直撃して、心肺停止の自力呼吸が出来ない為のショックにより、コンセントを急に抜くように、感覚も硬直して何もない無と化してしまったか。ともかくそこには絶対の孤独が透かし見えたのであった。

 

 

 

……話は変わるが、以前に井上ひさし氏の本を読んでいて興味深い箇所に出会った。……井上氏は学生時に上智大学で教えている神父に「先生、人は死ぬと天国に行くと言いますが、天国なんて本当にあるのでしょうか?」と質問した。すると神父いわく「天国があるかどうかは、死んだ人が生き返っていないので誰にもわかりません。しかし、天国があると思った方が愉しいではありませんか!!」と。私は神父のこの言葉に膝を打って食いついた。なるほどと!!…信ずる者は救われる、である。しかし、こうも考えた。天国、もしそれがあるとしても、そのイメ―ジとしてある世界はあまりに事も無く、ただけだるすぎて退屈の極みである。何より一番気に馴染まないのは、それが他者の考えた概念にすぎない事である。……信ずる者は救われるならば、私は自分だけの独自な考えで、死を現世からの別れとしてでなく、次なる新生が、その先に在ると考えよう!……そう考えるようになった。

 

……そして考えたのが、死ぬ瞬間に素と帰した魂を翔ばして、私が最も行きたいと熱望している明治26年の、東京は浅草の時空間に行く事である。……何故、明治26年に拘るかというと、度々私のブログに登場する浅草凌雲閣(通称浅草十二階)が、その少し前の明治23年に完成し、またこのブログに、これもまた頻繁に登場する天才女流作家の樋口一葉(本名.樋口奈津、時に夏子)が、『奇跡の14ケ月』と云われる『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』等の文学史に残る名作を書く前の、正に極貧の時に在り(明治29年に24才で肺結核で死去)、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いていて、朝靄の中で浅草花川戸、今戸橋近辺を仕入れに歩いている、正にその時空間に魂を翔ばして、朝靄の中を歩く樋口一葉の、その謎に充ちた顔を一瞬掠め視てから、次なる浅草凌雲閣へと魂を翔ばし、谷崎潤一郎江戸川乱歩達、数多くの文藝家がその異形なる塔にイメ―ジを触発されて小説にも度々登場した、その姿を仰ぎ見て、魂はその中の螺旋階段を一気に駆け抜け、屋上の展望階から明治26年の東京に魂を放射したいと、ひたすらそう考えているのである。

 

 
……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。

 

………………「新しい出発だ。窓をもう少しお開け、新生だ、ああ素晴らしい!」と臨終時に話して逝ったのは北原白秋である。白秋の魂もまた新生に向けて至福感の中で逝ったのか。

 

…………とまれ、私もまた死に臨して、白秋のようでありたいと考えているのである。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『オ―ラは存在しない!…の巻』

……俳聖の松尾芭蕉と、俳人にして優れた画家でもあった与謝蕪村。この両者の違いをわかりやすく喩えると、蕪村は宝くじ(当時は富くじ)を買うが、芭蕉はおよそ買いそうにない、……そんなイメ―ジの別け方もざっくりだが出来るかと思う。

蕪村の弟子の記録によると、実際、蕪村は富くじを度々買っていたようである。別に蕪村のひそみに倣うわけではないが、私も時々宝くじを買っている。昔のブログに書いたが、ある時は10万円が当たって喜んだが、その後は晩秋に吹く木枯しの如し。まぁ遊び半分であったが、ある時、どうにも切羽詰まって買わざるをえない時があった。……美術作品の制作を止めて、10ケ月近くをモナリザに関する原稿執筆に専念した為に、収入がゼロ。背水の陣で書いていた時に、「JR浅草橋駅」高架下の宝くじ売り場(実際の画像掲載)、あすこの老人夫婦が販売している売り場が何故かよく当たる!と友人に勧められ、半信半疑ながら何かを託すような気持ちでわざわざ買いに行った事があった。

 

 

その宝くじ売り場の前に立って、私は自分の目を疑った。中にいる福々しい笑顔をした老人夫婦から、いわゆるオ―ラのような放射する光が出ており、あたかも恵比寿天と弁財天の化身のようにも見え、私は「どうしてもっと早くこの売り場に来なかったのか」と悔いたのであった。そして宝くじを買った。

 

……この段で、読者諸兄が予想された通り、宝くじはしばらくして只の紙屑と消えた。……数ヵ月が経ったある日、たまたま浅草橋に用事があり、件の宝くじ売り場の前を通った。すると、見覚えのある、あの時の老夫婦が夕暮れの中を帰っていくところに出くわしたのであった。……見て驚いた。かつて覚えた七福神の如き華やいだ面影はまるでなく、喩えると、サ―カスの老いた道化師、いや、酒場を渡りいく売れない流しの老夫婦のような哀愁を帯びてさえ見えたのであった。

 

 

……その瞬間、私は気がついた。……あの時に見たオ―ラは、彼等が現象として放っていたのではなく、私の願望や欲、強い想いが彼等をして、眩しいばかりの光となって見えたにすぎないのだと。もし彼等がオ―ラなる艶々しい光を現象的に、蛍火のように放っていたならば、あの浅草橋の高架下にいた人々全員にそう見えた筈である。しかし、あの時に覚えた七福神の如きオ―ラは、私以外誰にも見えなかったに違いない、完全なる私の主観の一人称的な映り、私の期待が放って反って来た、脳内にしか映らない光(要するに高揚感)だったのだと。………………

 

 

およそ1年を要して書いたモナリザに関する原稿は、以前に文芸誌の『新潮』に掲載された2編と共に1冊の本になり、新潮社から刊行された。美術書としては異例の増刷となり、私は墜落を免れて再び離陸する想いで美術の制作に戻っていった。……このような事は、そう云えば以前にもあった事を私は今、このブログを書いていて思い出した。……あれはまだ私が美大の学生の頃であった。東京・自由が丘の中華飯店で食事をしている時、背後から聴いた事のあるかん高い声が聞こえて来た。「ひょっとして……長嶋か!?」そう思って振り向くと、果たして長嶋、王、張本……といった巨人軍の主力メンバ―が会食の最中であった。……かつて野球少年であった私の募った想いが蘇りのように映されて、長嶋、王の二人がありありと光って見えたのを今、思い出した。

 

 

……かくして私は思う。私達が見ている三次元のこの空間に映る万象も、誰にとっても絶対的に同じ映りではなく、私達の主観、資質、その時の心情……といった内面の相違によって、実は様々に違って見えているのだと。それがある人には高揚して映り、関心のない人には褪せた凡庸な物として映る。……観劇もしかり、映画鑑賞、絵画鑑賞もまたしかり。ゴッホの絵を例に引けば、ゴッホの作品と人生に関心のある人には『向日葵』に様々な深い見立てさえ映り、ゴッホに関心のない人には、強すぎる主張の強い絵として辟易として映り、また絵画を投資の対象、マネ―ゲ―ムにしか見えない連中には、変動する株価のように金の代替物にしか見えないのと同じ理窟である。

 

 

……私達が共有感覚として持っていると思っている世界とは、つまりは各々が紡いだ異なる映しであり、結論を急げば、私達は遂には、内なる感性から一歩も皮膚の外に出る事は出来ないのである。……万象は幻の如しと書いて、次回は、浅草凌雲閣へと舞台が移ります。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』

6月に入ると梅雨があるのでアトリエに籠りがちになるせいか、制作の速度が一気に加速するようだ。『サディの薔薇』、『NANCYの小さな矢印のある二つの門』……といったふうにタイトルが次々に浮かび、イメ―ジが日々新たに浮かんでくるのに、その実作の物理的な速度がそれに追いつかない…といった感じで、ともかく新しいオブジェが次々に誕生している。……しかしそんな中、では出歩かないかというと、けっこう出掛けてもいる。最近は毎週、多摩美大に行って喋っている。

 

喋りといえば、美術大学や美術館でけっこう連続的に喋っていた時期があった。……思い出すままに書くと、多摩美大・武蔵野美大・女子美大・名古屋芸大・立命館大学・京都精華大・國學院大・玉川大・北海道教育大・福島大……、美術館では横浜市美術館・福井県立美術館・宮城県立美術館・福山美術館・高崎市美術館……etc。また与謝蕪村の研究セミナ―から喚ばれて宇都宮で研究者達を相手に講演をした事もあった。……作品から作者もまた寡黙に思われがちらしいが、本人は真逆で、常々考えている事を確認する意味もあってか、よく喋る方だと思う。

 

今、喋っているのは多摩美大の演劇舞踊デザイン学科。……数年前に話が来た時は遠くの八王子校舎だと思い断っていたが、よく訊いてみると世田谷の上野毛校舎だという。上野毛ならアトリエから近いので引き受けた次第。……特別講義の題が必要だというので『二次元における身体論』という題にした。二次元における身体論、……いささか捻っているみたいだが、要は文芸に力点を置いた、イメ―ジの装置としての「言葉」の効用の事である。……学生相手に喋る面白さもあるが、「当世書生気質」ならぬ「当世若年者気質」、つまりネット社会の落とし子達の実態が肌でわかるので、近未来の姿がうっすらと、いや、ありありと見えて来て、その縮図がリアルに視えてくる。……喋る前日に講義の事前準備は一切しない。また参考書や資料なども持っていかず、いつも手ぶらの軽装で行く。講義時間は約三時間半。

 

私の話は学生に「未だ足らざる」を実感で伝える事。だから、例えば先日やった内容は、短歌の春日井建、寺山修司、石川啄木、そして源実朝の和歌から実作を選び出し、その文中の一番要の言葉を○○○にして隠し、学生達に作者になったつもりで言葉を捻り出させるという内容である。かくして、その日の講義のタイトルは題して『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』。美大の助手の方から、その時の問題用紙をサイトに送って頂いたので、参考までに以下に掲載しよう。

 

 

 

令和4年5月19日 北川健次先生 特別講義

『第一回『なぜツルゲーネフでなければならないのか』

 

●春日井建 歌集『未青年』より

・大空の斬首ののちの静もりか没ちし〇〇がのこすむらさき

・われよりも熱き血の子は許しがたく〇〇〇を妬みて見おり

・両の眼に針刺して◯を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

 

 

●寺山修司 歌集『田園に死す』より

・新しき〇〇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

・売りにゆく〇〇〇がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

・たった一つの嫁入道具の仏壇を〇〇のうつるまで磨くなり

 

 

●石川啄木の歌集より

・そのむかし秀才の名の高かりし友◯にあり秋風の吹く

・死にたくはないかと言へばこれ見よと〇〇の◯を見せし女かな

・〇〇の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

 

 

●源実朝の和歌より

・大海の磯もとどろに寄する波わけてくだけて〇〇〇〇〇〇〇

 

 

読者諸氏は、空白の○○○にどういう言葉を入れられたであろうか。
とりあえず正解は…………………………↓

 

 

春日井建

1.大空の/斬首ののちの/静もりか/没ちし日輪が/のこすむらさき

2.われよりも/熱き血の子は/許しがたく/少年院を/妬みて見おり

3.両の眼に/針刺して/魚を放ちやる/きみを受刑に/送るかたみに

 

寺山修司

1. 新しき/仏壇買ひに/行きしまま/行方不明の/おとうとと鳥

2.売りにゆく/柱時計が/ふいに鳴る/横抱きにして/枯野ゆくとき

3. たった一つの/嫁入道具の/仏壇を/義眼のうつるまで/磨くなり

 

石川啄木

1.そのむかし/秀才の名の/高かりし/友牢にあり/秋風の吹く

2.死にたくは/ないかと言へば/これ見よと/喉の疵を/見せし女かな

3.浅草の/夜のにぎはひに/まぎれ入り/まぎれ出で来し/さびしき心

 

源実朝

1.大海の/磯もとどろに/寄する波/わけてくだけて/さけて散るかも

 

 

 

…………………………以上である。
時代を越えて、名作とは、単に言葉が美しいだけでなく、実にイマジネ―ションに毒があり、危うさがあり、一言で言えば美とは形而上的犯罪と言っていいものがある事に、あらためて気づかされる。想像が紡いだ犯罪遺文、そう言ってもいいかもしれない。……俳句は、禅的な視点で世界を、宇宙を凝縮してつかみとって詠む為に、もっと大きいものがあるが、短歌や和歌の31文字は凝縮と拡散の相反するベクトルがミステリアスなまでに重なってあるので、そのままに二次元の身体学という話に使いやすいのである。

 

……しかし、最近つくづく思う事は、スマホなどの出現で、年々、若い世代の人達の語彙が少なくなって来ている事である。言葉を知らない事を恥じるでもなく、スマホがそこにあれば、彼、彼女達の脳もまた頭を離れてそこ➡スマホの中に在るので心配はご無用、そういった傾向(もはや症状)が加速的に蔓延している感がある。……言葉を知らない、故に思いを伝えられない。喋れない、……だから黙る、だから未熟なままに年を経る。

 

 

……言葉を知らない人間が増えている原因は幾つかあるが、辞書や教科書からルビ(振り仮名)が消えた事は大きい。……芥川龍之介三島由紀夫には一つの面白い共通点があった。それは幼い時の愛読書が辞書であった事である。しかもルビ付きの善き時代。もともと知能が研ぎ澄ましたように高いところに、辞書で毎日のように語彙が増えていき、悪魔的なまでに彼らは言葉の魔術師となっていった。……言葉だけに限らず、昨今の世の便利さはますます退化を促し、情緒は言霊から離れてカサカサの空無と化し、そのとどまるところを知らない。…………アトリエを出て時々外で喋っていると、その事を強く感じる事が本当に多くなった。

 

 

 

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『梅雨入り前の良き日に記す事』

前回のブログでご紹介した千葉の山口画廊での個展『二十の謎―レディ・エリオットの20のオブジェ』が好評の中、6月13日(月)まで開催されている。私は初日にお伺いしたが、画廊に入るや、画廊のオ―ナ―の山口雄一郎さんによって構成された展示空間の緊張感漂う気配が直に伝わって来て思わず唸ってしまった。……作品の展示の高さ、作品の構成、照明、タイトルを書いたキャプションの作りの巧さ。……いずれをとっても神経の細やかさ、美意識が作品と共鳴し、自分の作品でありながら思わず見入ってしまったのであった。私には珍しい事である。

 

 

 

 

 

 

……画廊にいると、次々と来廊者が来られる。千葉での個展は初めてであるが、皆さん、山口さんとは旧知であることが伝わって来て、たちまち今回の個展に私は手応えを覚えたのであった。机の上を見るとプリントがある。手にとって読むと、それは前回の『画廊通信』とはまた別に山口さんが書かれた拙作についてのテクストであった。山口さんが本展に懐いている熱意が伝わって来て嬉しかった。全文が一気に書かれたと思われる、私の作品の核に言及した文章なので、今回のブログでご紹介しよう。

 

 

《北川 健次   Kitagawa Kenji 》

 

黒く塗られた密やかな箱の中で、絢爛と醸成される幻惑の浪漫、それは不穏に謎めくようなアトモスフィアをまといつつ、ミステリアスな異界を現出させる。鋭利な詩的直感をもとに、解体された無数のエレメントを再構成して創り出された、多様なイメージの錯綜する別次元の時空。このガラス越しに浮かび上がる鮮明な異境を見る時、私達はいつしか非日常の境界に、条理を超えて燦爛たる闇を彩なす、見も知らぬ魔術の領域へと踏み入るだろう。見る者を妖しく誘なって已まない、類例なき「装置」としてのオブジェ、それは巧みに添えられたタイトル=詩的言語のもたらす不可思議の暗示と相俟って、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない謎を生起する。

 

北川健次──駒井哲郎に銅版画を学び、棟方志功・池田満寿夫の強い推薦で活動を開始、フォトグラビュールを駆使した斬新な腐蝕銅版で、版画界に比類のない足跡を刻む。以降、その卓越した銅版表現を起点に、コラージュへ、オブジェへ、写真制作へ、更には詩作や美術評論へと、ボーダーを超えた自在な表現を展開しつつ、留まる事を知らない意欲的な活動を続けて現在に到る。その極めてユニークな制作は、ジム・ダインやクリスト等の著名な美術家にも賞讃され、アルチュール・ランボー・ ミュージアムやパリ市立歴史図書館等からも出品依頼を受けるなど、名実共に国際的な評価を獲得して来たが、 実は多彩な変容を見せる表現活動の根幹は、或る揺るぎない方法論に貫かれている。

 

コラージュ──前世紀の大戦間にエルンストの「コラージュ・ロマン」という言葉から始まったこの手法は、以降様々な派生形を生みながら、現代技法として定着するに到っているが、その原義を最も正統に継承する者として、のみならずその可能性を極限まで拓きゆく者として、北川健次という存在は他の追随を許さない。コラージュ・ロマンというエルンストの命名は、今や北川芸術の表徴として甦るのである。

山口雄一郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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