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『十二月の怪談夜話』

……昨今の世情があまりに喧しいので、最近の私は寝る時に「怪談本」を読みながら眠るようにしている。お好きな方は首肯されると思うが、怪談話には実に情緒豊かな空気が流れていて、懐かしい気配もあるので、眠りに落ちていくのに丁度良い。

 

 

……今、読んでいるのは河出文庫の『日本怪談実話〈全〉』田中貢太郎著。どれも短いので読みやすい。「戦死者の凱旋」「松井須磨子の写真」「手鏡」「死児の写真」「窓に腰をかけた女」……等々全234話。

 

 

 

 

怪談話は夏が相場と決まっているようだが、さにあらず、…… 冬に食べるアイスクリ―ムが意外と美味しいように、この師走、まぁ「ガリガリ君」(深谷の赤城乳業)をかじるようにお付き合い頂けたら有り難い。

 

 

……その怪談話234話の中から1話、先ずはここに書こう。タイトルは『画家の死』…………そう、他人事ではない。

 

……横井春野君が某日に神宮球場へ野球を見に往っての帰途、牛込納戸町まで来たところで、向うから友人の月岡耕漁画伯がやって来たので、「やあ、しばらく」と云って懐かしそうに寄って往くと、ふと月岡君の姿が見えなくなった。おやと思ってその辺りを見まわしたが、どこにも見えないので、不思議に思いながら帰って来た。するとまもなく月岡君の令息から、「チチシス」と云う電報が届いた。横井君は月岡君が病気していることも知らなかったので、驚いて月岡君の家へ往ってみた。耕漁画伯の死んだのは、横井君が納戸町の街路でその姿を見たのと同時刻であった。

 

……この話を読んだ時、これと酷似した話があったのを私は思い出した。……1985年に38歳の若さで肝臓癌で亡くなった画家・有元利夫さんの話である。話はたしか芸術新潮か何かの追悼号であったかと思う。……。有元さんの友人が銀座に在ったみゆき画廊に行こうとして、そのビルの階段を上がっていったら、上から有元さんが降りて来た。……その友人は有元さんが入院していたのを知っていたので快復したのだと思い「もう元気になったの!?」と声をかけた。すると有元さんはただ笑顔を浮かべたまま無言で階段を降りて行き、やがて消えていったという。……有元さんが亡くなった知らせがその友人に届いたのは、間もなくの事であった。みゆき画廊で友人が有元さんとすれ違った時、実際の有元さんは病院にいて危篤の状態であったという。……ちなみに、有元さんが初めての個展を開催したのが、そのみゆき画廊であった。亡くなる直前に、人の意識は自身の身体や病床を離れて、思い出の地をさすらうのであろうか。

 

 

……亡くなった、或いは亡くなる直前にその人が、なんらかの形で知らせに来る。そういう経験は何度か私にもある。……今から25年ばかり前の事、私はアトリエの籐椅子でうたた寝をしていた。すると、明らかに力強い現実の感触で私は肩をたたかれて、一瞬で目が覚めた。瞬間、何故か「松永さん!」だと思った。……果たして、その後すぐに松永伍一さん(詩人・文学.美術評論・作家) が心不全で亡くなられたという知らせが入った。……松永さんだ!と思った時、既に松永さんは亡くなられた直後であった事を後で私は葬儀の時に知人を経て知ったのであるが、不思議でならない事がある。……それは、人並みに様々な知人がいる中で、なぜ肩をたたかれた瞬間に、私の脳裏に松永さんの名前が浮かんだのだろうか……という事である。死者の最期の強い意識は、他者の脳の中の意識に自在に、或いは容易に侵入出来るのであろうか。……

 

もう1つの話は、やはりアトリエでの出来事である。今から5年前の夏。私は個展が近づいていたので、アトリエ内で制作の追い込みに没頭していた。部屋に無数にある引き出しの中には作品に使う様々な古い断片があり、その引き出しを開けて私はピタリとくる断片を探していた。……そして、その下の次の引き出しを開けた所に、場違いな、あまりに場違いな年賀状が1通入っていた。見ると、版画家の浜田知明さんから2年前に届いたものであった。裏を返すと浜田さんの直筆で「これからも良いお仕事を続けていって下さい。」と書いてあった。……意外に私は整理整頓するので、制作の材料はアトリエの1ヶ所にまとめてあり、手紙や年賀状等は全く離れた別な引き出しの中にまとめて入れてある。……熊本の浜田さんの地元で私が個展をした時は、2日続けて画廊に来られたりと、年長の先達の人でありながら、浜田さんとは懇意な関係であった。……私は直感した。間もなくその知らせが来る事を。そして直感通り、在る筈の無い引き出しから年賀状を見つけた時は、既に浜田さんは老衰のため病院で亡くなられていたのであった。

 

かなり以前のブログで書いたが、この『日本怪談実話〈全〉』に登場する「戦死者の凱旋」という話にある、日露戦争で死んだ軍人達が行進しながら麻布連隊の兵舎にザックザックと靴音を立てながら戻って来る不気味な靴音と、同じ音の体験を、私は芸大の写真センタ―で深夜二時頃に聞いていたり、書いていけばきりがない程に数多くの体験をして来た。……そして今思う事がある。それは死者と生者にはなんら境がなく、この世とは、そのあわいに在る多次元的でねじれた構造なのではあるまいか……と。

 

 

師走、……この月になると薄墨色の葉書が届くようになる。知人からの死去を報せる喪中の葉書である。以前はその知らせに哀しい感情が立ち上がっていたが、……今の私は静かに受け止めるようになっている。

 

 

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『2023年・晩秋を告げる四つの展覧会etc』

……来年秋の高島屋の個展のタイトルが早くも決まった。『YURAGI―レディ・パスカルの螺旋の庭へ』である。来年はつごう四つの展覧会が各地の画廊で予定されているので、各々に向けてスイッチが入るのが、いつもよりも早いようである。……さて今日は展覧会の話である。

 

①11月21日から12月27日まで、福島県立美術館で『現代版画の小宇宙』(金子コレクションから)展が開催中である。福島県の版画のコレクタ―の金子元久さんの膨大なコレクションが美術館に寄託されたので、それを基にした展覧会である。

 

 

金子さんは著名な精神科医である。何回かお会いした事があるが、ある時に真顔で「北川さんの脳を解剖して調べてみたい」と言われた事があった。どうしてですか?と訊くと、「……視覚表現(美術)などの感覚、直観を司る右脳と、言語表現(文芸)などの論理的思考を司る左脳の両方とも得意としている稀な例なので、医者の好奇心として興味があるのです」との事。

 

……「普通、ふつうですよ、開いてみてもグリコのオマケしか出てきませんよ」と話したが、それより、度々このブログでも書いている、かなりの頻度で視てしまう私の予知能力や、鋭すぎる異常な直観力は、自分に対しての客観的な興味として実はある。以前に、よく当たると評判の占い師の女性と、順番を待っている女性たちを視ていたら、その占い師が私に気づき、お互いに妙な緊張が走った事があった。そして占い師は手招きして私を招き寄せ、近づいた私の顔をじっと見据えながらこう言った。「あなた、……一体何者!?」……こうなるともはや陰陽師同士の対決である。

 

②前回のブログでご紹介した『禅と美』展を今一度観ておこうと思って、最終日の前日に、会場のスペイン大使館を訪れた。…凄い数の来観者に先ず驚いた。…会場におられた主催側の戸嶋靖昌記念館主席学芸員の安倍三崎さんから、ブログを読んで来られた方がけっこうおられますと言われたので、微力ながらもブログで紹介して良かったと思った。

 

 

 

2回目に観て、山口長男の黒い特徴的な額に絵具が数ヵ所僅かについているのを見つけて、山口長男は額を付けてからも、なお制作していた事が見えて来た。額とは何か!……山口長男の眼差しの一端がそこから見えて来る。(ちなみにこの制作法はパウル・クレ―と同じである。)

 

……さてこの『禅と美』展の妙味は、展覧会の企画の着想が比較文化論的な視点から立ち上がっている事である。今回は「禅」であるが、例えば「時間」「色」「黒」「詩」「寂」「無」……と様々な主題を立ち上げると、執行草舟さんの三千点以上ある膨大なコレクションから、たちどころに様々な作品が、あたかもそれに合わせて登場する役者のように選ばれて来る。……その企画構想の多層な幅を可能にしているのが執行さんのコレクションの多様な幅であり、美のカノンの横一線の高みなのである。

 

 

 

 

③竹橋の東京国立近代美術館で12月3日まで開催中の棟方志功展に行く。……前回のガゥディ展と同じくたくさんの観客である。会場内には初期の油彩画から晩年迄の作品がうまく展示してあり、また棟方さんの記録映像や肉声が流れていて懐かしかった。……21才の学生時に棟方さんは私の版画『Diary』 を視て絶賛してくれた事が以後のぶれない自信となった契機であるが、私に賞をくれた審査員としての棟方さんの口からスピ―チで私の名前が出る度に、私は自分がこれからの版画史に関わっていくであろう事を予感したのであった。……授賞式が終わり私がエレベ―タ―に乗ると、棟方さんと夫人、そして当時の神奈川県立近代美術館館長の土方定一氏が入って来て、その時に握手を交わした時の手の大きさと温もりを私は今も覚えている。

……かつては民藝運動の域で語られていた棟方さんの作品は、近年は次第に自立した極めて強度な現在形のモダンな作品として、その冴えを増している。衰弱した昨今の美術界の状況をすり抜けて、加速的に評価はますます高まっていくであろう事は間違いない事である。

 

……多くの人が棟方志功展を観て引き上げる中、私は4階までテ―マを変えて展示してある収蔵作品を観るのを常なる愉しみにしている。ベ―コン藤田劉生北脇、……そして、このブログで度々登場する藤牧義夫……などたくさんの作品が展示してあり、いろいろと考える切っ掛けや閃きのヒントを与えてくれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

④昨日(24日)は、美術本出版の老舗で知られる求龍堂の「100周年記念展」の内覧会がある日であるが、私はその前に時間があったので、久しぶりに上野公園に行き、西洋美術館ブ―ルデルの彫刻作品『弓を引くヘラクレス』の写真を二枚(内一枚は股間下から)撮り、

 

次に、気分転換する為に行きたかった上野動物園に立ち寄り、念願のハシビロコウ、ゴリラ、サイ等を観てから根津駅から代々木公園駅で降り、会場の『ARKESTRA』に行った。

 

 

 

 

 

 

 

会場内には100年間の出版活動の歴史から選んだ刊行物が展示してあり、私の作品集『危うさの角度』も並んでいる。……この会場には求龍堂発足後間もなく刊行された『ドラクロアの日記』が展示してあるが、それは私の蔵書から、この展覧会の為にお貸しした本で、戦前に三島由紀夫が座右の書としていた名著である。

……私は以前に求龍堂の会長であった故・石原龍一さんに三島由紀夫の文を帯にして『ドラクロアの日記』の再版を提案した事があった。……近年、パリで再版をした時にベストセラ―となったのである。再版ならば文庫サイズが良い。しかし、求龍堂は文庫本は出版していない。ならば、このブログは出版業界の人も読まれているので、例えば、ちくま文庫、或は河出書房新社辺りが出版するのが妥当かもしれない。

 

 

……ドラクロアの日記に在る一文「今日、ショパンが死んだ。……」や、孤独で在る事の如何に豊かな事であるかが、随所にちりばめられている。誰か鋭い眼力と実行力のある人材は出版の世界にはいないのか!?……いれば、この『ドラクロアの日記』を私は喜んでお貸ししよう。

……さて、会場では私の作品集『危うさの角度』(普及版・特装本)、また『美の侵犯―蕪村×西洋美術』も販売されている。ご購入を希望される方は本会場、又はお近くの書店、或は直接、求龍堂(営業TEL03-3239-3381)までご連絡を、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

『求龍堂100周年記念展』
日時11月25日(土)~12月3日―11時~18時(最終日は15時まで)
会場・ARKESTRA 東京都渋谷区上原1-7-20
TEL―090-8946-0541

 

 

 

 

 

 

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『必見「禅と美」展が素晴らしい!!』

①個展が終わり、11日は、戦場の後のようだったアトリエを一日かけて片づけた。室内が整理されて、まるで上野広小路のような広さへと一新した。新たな表現に向けての気持ちが自ずと高まって来る。12日は、勅使川原三郎、佐東利穂子、ハビエル・アラサウコ三氏による『素晴らしい日曜日』のダンス公演を観る。

 

13日は、松竹の関係者の方からご招待を頂き『吉例顔見世大歌舞伎』・夜の部『松浦の太鼓』他を観る。今回の座席は前から5列目、念願だった花道のすぐ真横である。間近に見上げて観る役者の顔の表情やその存在がありありと迫って来て、まるで喋る写楽の大首絵、或いは血まみれの芳年の残酷絵の生けるが如しの迫力があり、舞台という正面性を孕んだ平面的な虚構空間から、花道に入った瞬間、三次元に飛び出して来た、活人画のような不思議な生々しさを体感して一興である。

 

勅使川原氏の薄暗い舞台照明が放つ、限りない詩情性を孕んだ闇の透層……。一方の歌舞伎の過剰なまでに強い照明が放って綾なす原色のバロキスム!!……いずれも自分の作品展示の際の善き充電である。

 

 

②パリの出版社FVW・EDITION社から2007年に刊行されたアルチュ―ル・ランボ―の肖像を集めた美術作品のアンソロジ―集には、エルンストクレ―ピカソジャコメッテイミロ……等の作品と共に私のランボ―の肖像をモチ―フとした版画が二点掲載されている。

 

ジャコメッティ

 

 

エルンスト

 

 

クレー

 

 

 

企画編集したCLAUDE.JEANCOLAS氏はランボ―研究の第一人者であるが、その画集に書いた各美術家へのテクストの中で、私の作品について氏は以下のような出だしから始まるテクストを書いている。すなわち「長い間、詩人のランボ―を理解出来るのは我々西洋人だけだと思っていたが、北川健次のランボ―を表現した版画は見事にそれを覆した。」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は氏のテクストを読んで確かに強い手応えを覚えたが、同時に西洋人が抱いている東洋人へのそれまでの根強かった偏見が在った事を知って唖然とした記憶がある。この偏見を飛び越えて私の版画の秘めた髄に直で理解を示したのがジム・ダインであった事は思わぬ嬉しい体験であった。…………ランボ―を作品化する事はこの二点の版画で終わりと思っていたが、西洋人の偏見を更に払拭するに足る文句無しの強烈な作品を作りたいと思ったのは、或いはこの時の体験が導火線になっていたのかも知れないと今にして思う。

 

 

 

ジム・ダイン

 

 

③……今年の7月のある日、高島屋の個展に向けてオブジェを作っていた時、正にその作品の閃きが垂直的に下りて来た。……(天才詩人ランボ―の、十代半ばの未だ早熟過ぎる脳内を透かし視て、あの幻視を紡ぐ言葉の数々が発生した正にその瞬間を可視化した作品は出来ないだろうか!……それをオブジェという立体作品で!!)と正に啓示として、その閃きは直下的に下りて来たのであった。

 

……私はランボ―の仏語の原詩(『地獄の季節』『イリュミナシオン』各々)を黒字でガラスに刷り、それを砕いてアクリルの透明な箱に入れ、『〈地獄の季節〉―詩人アルチュ―ル・ランボ―の36の脳髄』、『〈イリュミナシオン〉―詩人アルチュル・ランボ―の36の脳髄』と題したオブジェ二点を一気に作り上げた。…………完成した作品を視て、私はこれらの作品に強い手応えを覚えたが、その反応を他者の眼を通して早く知りたくなった。……ならばランボ―を直感的に理解している人、執行草舟さんをおいて他にはいない。そう思って、個展の数日前の昼前に半蔵門に在る執行さんの会社『バイオテック』内の美術館「執行草舟コレクション・戸嶋靖昌記念館」の主席学芸員の安倍三崎さんを尋ね、ランボ―のオブジェ二点を預けて、執行さんの感想を待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……私はその後すぐアトリエに戻らねばならず、執行さんは毎夜徹夜で執筆した後に夕方から会社に来られるので、作品を預けるという形をとったのであった。……安倍さんからすぐに連絡が入り、ランボ―のオブジェを二点とも美術館のコレクションに入れたいという執行さんの批評兼答えが返って来た。……コレクションするという行為、何よりも作品に対する最大の評価が返って来たのであった。……よって個展が始まる前に例外的に購入が決まった為に、会期中に来られたたくさんのコレクタ―の方から残念がる声が返って来たが、今回は致し方のない事であった。

 

 

④執行草舟さんとの出会いは強烈なものであった。きっかけを作って頂いたのはNHKエデュケ―ショナルの山本修平さんであった。

山本さんが拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)の事を執行さんに話された事に依る。……あれは何年前の事であったか。……高島屋の個展会場に突然、正に突然来られた執行さんは、広い会場内に展示している75点以上の作品を張りつめた気配で順に観ながら、瞬間的にコレクションする作品を次々に決めていき、この時は15点くらいの作品を購入されたのであるが、それを全て決めるのに要した時間は僅かに1分!!。恐るべき直感力を持った人だと、私は一瞬で理解した。執行さんの中の美の絶対的なカノン、直観という羅針盤が既に確固として在り、それに激しく揺れた作品のみがコレクションされていくのである。若冠十代半ばにして三島由紀夫の知遇を得たという驚くべき逸話も氏の鋭い唯美的な感性を物語っていると思う。

 

…その後、私の作品は個展の度にコレクションされていき、今までで50点以上は執行草舟コレクション・戸嶋靖昌記念館に収蔵されているのであるが、執行さんが有している膨大なコレクション総数は既に三千点以上はあるという。……その中から禅の世界に結びついている作品を集めた展覧会『禅と美』スペインからのまなざし展(協力・臨済宗円覚寺、サラマンカ大学)が11月24日(金曜)まで、六本木一丁目の駐日スペイン大使館で開催中である。

 

……先日、私は会場を訪れ、見事な作品選択とその構成によって立ち上がって来る禅と美の融合を体感したのであった。……この展覧会は美の観賞という従来の対の関係の域を越えた、己自身との対話の場、すなわち「観照」の場で在るという事が、一線を画して他の美術展とは大いに異なる点であり、またそれ故の鋭い緊張に充ちた豊かな展覧会になっている。……この展覧会を記念して作られた図録の編纂も密度の濃い内容になっているので併せてお薦めする次第である。

また半蔵門の執行草舟さんの会社に在る「執行草舟コレクション・戸嶋靖昌記念館」では、主題を変えながら展覧会を開催しているので、そちらもぜひご覧になられる事をお薦めしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『禅と美―スペインからのまなざし』展

◾️会場・駐日スペイン大使館   (入場無料)

11月24日(金曜)まで

月~木 /10時~17時/金10時~16時/土10時~14時

日曜閉館  (11/23は開館・10時~17時)

東京都港区六本木一丁目3―29

(東京メトロ南北線 六本木一丁目駅・中央改札・徒歩3分)

 

◾️お問い合わせ先・戸嶋靖昌記念館事務局 03-3511-8162

 

 

 

 

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『晩秋の光の下の…胸騒ぎ』

熊がたくさん山から下りて来て、人里や民家に出没している今は晩秋、11月の始め。光が少し眩しい。…………三週間の長きにわたって開催していた、日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの個展が盛況のうちに終了した。遠方も含めて、今回もたくさんの方が会場に来られ、新作のオブジェと真剣に対峙され、多くの作品が、購入されたその人達のもとへと旅だって行った。私は作品をこの世に立ち上げたが、これからはその作品と深い対話を交わし、永い物語を紡いで行く人、すなわちその人達がもう一人の作者となっていくのである。……ともあれ、個展に来られた沢山の方々に、この場を借りて御礼申し上げます。本当に有難うございました。

 

…………個展会場では懐かしい人との嬉しい再会、また新しい人達との縁のようなものを感じる出会いがたくさんあった。……そして出版社の人とは、遅れている第二詩集の執筆を促されたり、また来年の11月28日から開催が予定されている名古屋画廊での馬場駿吉さん(元.名古屋ボストン美術館館長・俳人・美術評論家)との二人展の為に、名古屋画廊の中山真一さん、そして馬場さんが名古屋から各々会場に来られ、実のある打合せを行った。……来年は4月に金沢の玄羅ア―ト、6月に西千葉の山口画廊で個展が企画されており、また10月には高島屋美術画廊Xでの個展、11月には名古屋画廊での馬場駿吉さんとのヴェネツィアを主題とした俳句と私の作品との実験的な二人展と、……既に予定が入っている。個展の疲れを早く癒して、先ずは、第二詩集の執筆から一気に始めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

個展の時に、会場で何人かの人から、山田五郎さん(評論家・編集者、コラムニスト他)の事が話題に出た。山田さんがYouTubeの『山田五郎オトナの教養講座』で、以前に私のブログで2020年の2月1日から21日迄の4回に渡り、『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男』と題して連載して書いた、版画家・藤牧義夫が忽然と消えた謎と、…………それに絡んでちらほら、そして次第に頻繁に登場する版画家・小野忠重という人物をめぐっての真相に迫っていますよ!!というお知らせを頂いたのである。

 

山田五郎さんは、私は以前から高く評価している人で、この国の凡たる数多の美術評論家より遥かにすぐれた知識と推理力を持ち、かつわかりやすい言葉で深い内容に言及出来る人である。……私は興味を持ってその番組を観た。面白かった。……実に語りが上手く、事件の真相の闇に迫っている。また番組の公共性故に語らない部分では、その言葉の行間にしっかりと闇を封じ込め、暗示の内に視聴者に、この事件の不可解さと不気味さを暗示的に伝えている。……先ずは私が、藤牧義夫が消えた、或いは消された謎について以前に書いたブログ(2020年2月1日から21日迄の4回にわたってミステリ―を解くように書いた文章)をお読み頂き、それから山田五郎さんの番組をご覧頂ければ、この近代美術史における最大の事件の不可解な全容と、真相が伝わるかと思う。

 

 

 

 

山田さんの番組を観た視聴者の人から(面白い、ぜひ映画化を!!)と希望する人がいたと聞くが、3年前に私は既に動いている。旧知の友人、『ヌ―ドの夜』『櫻の園』等の名作で知られる映画のプロデュ―サ―・企画者である成田尚哉さんと本郷で会い、この事件の映画化を薦めた事があった。構成は松本清張の名作『天城越え』と同じで、事件時効後の昭和55年頃に、一人の老刑事が、不気味な影を帯びた老人宅をふらりと訪れ、巧みな言葉の網によって次第に真相を突いていくという設定から映画は、……始まるのである。私はこの時は樋口一葉の映画化との二本立てで成田さんと語り、成田さんはじわじわと興味を覚えたのであったが、その後間もなくして成田さんは逝去された為に、この企画は水泡と化したのが、いかにも残念で仕方がない。……とまれ、2020年2月からの私のブログと、山田五郎さんの番組を併せてご覧頂ければ、あなたも「事実は小説よりも奇なり」を体感される事、間違いなしである。

 

 

 

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「哀しくて、やがて嬉しき神保町の巻」

……JRお茶の水駅から明治大学のある坂を下って行くと、世界最大の古書の街、神保町古本屋街である。その最初に在る古書店の名を「三茶書房」という。今もこの店の前に立つと来し方を思い出す。……昔、未だ美大の学生だった20才の頃、この店の二階にあるガラスケ―スの中に、版画家の池田満寿夫さんと、わが国を代表する詩人・西脇順三郎氏による詩と銅版画のオリジナル作品14点が入った詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本)を見つけたのである。〈その頃で定価は確か40万円前後であったか。〉興奮した私は「これを見せてくれませんか?」と言うと、年老いた店主が一言「駄目です、だってあなたには買えないでしょ!」との冷たい突き放し。……悔しかった、しかし「買えなくても、見せるくらいどうなんだ、次代の若者を育むのも、本屋の勤め、それが文化じゃないのか」と言いたかったが、言えなかった。……どうみても、長髪の着たきり雀の貧乏学生、口をつぐんで、私は店を出た。震える程に悔しかった。

 

……… しかし人生はわからない。それから僅か4年後に、私は池田満寿夫さんと出逢い、大学院を出てそのままプロの版画家としてスタ―トしていた。そんなある日、池田さんに人生初めてのエスカルゴを食べる体験とワインのご馳走をしてもらっていた時に、学生時代の三茶書房での悔しかった話をした。池田さんは笑って聞いていたが、数日後にニュ―ヨ―クへと戻って行った。……その数日後に私の当時の契約画廊であった番町画廊の青木宏さんから「画廊に来るように」との連絡が入り、私は銀座の画廊に行った。……そこで私が青木さんから渡されたのは、池田満寿夫さんから私への置き土産だという厚い紙包みであった。……開けてみるとあろう事か、件の『トラベラ―ズ・ジョイ』(特装本・しかも私への献呈署名入り)であった。……私は震えた。しかし今度は感謝の気持ちとしての嬉しい震えであった。

 

 

…………学生時代、店主に嫌な事を言われながらも、三茶書房はしかしめげずに度々行っていた。そのガラスケ―スの中に、今度は江戸川乱歩直筆の書、有名な言葉「うつし世はゆめ夜の夢こそまこと」(現世は夢、夜の夢こそ真実の意)が展示されていたからである。……乱歩の熱心な読者であった私は、またしても欲しくなった。しかし、その書はあまりにも高価であって、店主に訊けば、またあの言葉が返ってくるのは必至であった。

……そう、私は乱歩の熱心な読者であった。……そればかりか、ここに掲載した一時代を作った平凡社の月刊誌『太陽』の江戸川乱歩特集では、乱歩の代表作『押絵と旅する男』に絡めたエッセイも、編集部からの依頼を受けて執筆しているのである。……この企画では、久世光彦種村季弘谷川渥団鬼六荒俣宏石内都鹿島茂、更には俳優の佐野史郎など分野を超えて、執筆者各人を探偵に見立て、様々な視点から乱歩の多面体の謎に斬り込んでいてなかなか面白い企画であった。ちなみに私が書いたテ―マは「蜃気楼」であった。

 

……時が流れていった。……前々回(9月8日付け)のブログで、私は神保町の出版社.沖積舎の沖山隆久さんが李朝の掛軸展を開催中に会社に行き、沖山さんから李朝の掛軸を一点プレゼントされた話を書いた。その際にその展示の場所で、30年以上欲しくて探し続けていた月岡芳年の最高傑作と評される残酷絵『美男水滸傳』(今回、画像掲載)を偶然見つけ、沖山さんに私の旧作の版画一点との交換トレ―ドを申し出て快諾して頂き、念願が叶った話は書いた。(芳年は代表作の英名二十八衆句の内二点も持っている。)……以前にも書いたが、江戸川乱歩、三島由紀夫芥川龍之介谷崎潤一郎諸氏も芳年の作品の熱心な収集家であった。

 

……その沖山さんの出版社・沖積舎で、李朝の掛軸展の次に開催されたのは文人画の展覧会であった。泉鏡花.谷崎潤一郎.永井荷風.西脇順三郎.……等の書が展示されているというので、個展の出品作品の制作の合間を見て、神保町へと赴いた。……沖積舎の中に入ると、西脇順三郎のというより、西脇以後の詩人達がいまだに超える事が出来ない美しい詩「天気」の「(覆された宝石)のような朝 何人か戸口にて誰かとささやく それは神の生誕の日」の直筆の原稿が表装されていて私の眼をとらえた。

 

 

……しかし、その奥に入って私は我が目を疑った。……あの学生時代以来、ずっと意識し続けていた江戸川乱歩の件の書「うつし世はゆめ……」が奥の方で泉鏡花、谷崎潤一郎の書と並んで静かに展示されていたのであった。

「沖山さん、沖山さん、……!!」と言ってから、私は前回に芳年を入手して直ぐにというのに、またしても旧作の版画との交換トレ―ドを申し出てしまったのであった。……しかし、さすがに今回は沖山さんも難色を示され、私は冷静になり、自分が無理を言っている事を自覚した。……しかも、その乱歩の書はあまりにも高価であり、もうなかなか出ない貴重な書なのである。「さすがに私は無理を言っていますね」と言って、しばらく話をしてアトリエへと戻った。……その日の夕方、作品の仕上げをしていると突然、電話が鳴った。出ると沖山さんからであった。「北川さん、先ほどの乱歩の書の話、OKですよ!」。……私は声高く御礼を伝え、翌日の昼すぎには、長年熱望していた江戸川乱歩の書「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」がしっかりとアトリエの壁面に掛かっているのであった。

 

……月岡芳年の絵もさりながら、思い返せば、あの学生時代に、三茶書房のガラスケ―スの中で展示されていて熱い眼差しを注いでいた、池田満寿夫さん、西脇順三郎氏の詩画集『トラベラ―ズ・ジョイ』と、江戸川乱歩の書のいずれもが私のもとに在る事の不思議。……そして私は今にしてふと想うのである。これはまるで芝居のラストの大団円のようではないかと……。つまり、人生の終章に今、……いやいやまさか……と、私は揺れているのである。

 

……さて、今月11日から30日まで、東京日本橋・高島屋6Fの美術画廊Xで個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』がいよいよ始まる。作品が完成してリストを見ていてつくづく思うのだが、不思議と作って来たという実感がないのである。私は作品を作るというよりも、閃きが先ずあり、啓示のようにしてなにものかの力が私と平行して共に作品が次第に立ち上がって来るのである。……この傾向は年々強くなり、次々とイメ―ジが前方あるいは背後から押し寄せて来て、作品が形を成していくのである。……豪奢、静謐、逸樂、……そして豊かな詩情とノスタルジア。更には実験性と完成度の高さとのスリリングな共存。

 

……今回の個展案内状を受け取った何人かの方から、今回の個展の今までにも増して質の高い予感を指摘された。それは個展を前にしての嬉しい手応えである。……10日は展示、そして11日が個展の初日。……次第に緊張が高まって来ているのである。

 

 

個展『幻の廻廊 Saint-Michelの幾何学の夜に』

 

 

 

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『蝉が消えた晩夏、詩人ランボ―について書こう。』

このブログを始めてから早いもので17年以上が経った。内容はともかくとして文量的には『源氏物語』をとうに抜き、ひょっとするとプル―ストの大長編『失われた時を求めて』も抜いているのではあるまいか。……気楽に始めたブログであったが、今や生きた事の証し・痕跡を書いているような感がある。

 

……さて、今回は天才詩人アルチュ―ル・ランボ―の登場である。ランボ―との出逢いは私が16才の頃であったかと思う。…………自分とは果たして何者なのか、自分は将来何者になり得るのか、……等と自分にしか出来ないと思われる可能性を探りながら悶々と考えていた時に、「私とは他者である」という正に直球の言葉が16才の若僧アルチュ―ル・ランボ―(既に完成している早熟の天才詩人・20才で詩と縁を切り放浪、武器商人の後に37才で死去)から豪速球で投げられたのだから、これは一種の事故のようなものである。

 

……以来、ランボ―とは永い付き合いになってしまった。……19才の頃に始めた銅版画では、ランボ―の詩をモチ―フに銅板の硬い表面に荒々しく線描を刻み込み、やがてその表象はランボ―の顔をモチ―フに、その顔に穴を開けて抹殺するような表現へと成るに至った。(版画作品画像二点掲載)……その作品は、現代の最も優れた美術家であり、個人的にも影響を受けていたジム・ダインの評価する事となり、彼は私の肩に手をかけながら「俺も君と同じく、この生意気な若僧の面を抹殺する意図で版画の連作を作ったのだよ。この若僧が詩人のランボ―である事はその後で知った!」と、その制作意図をリアルに語ってくれたのであった。(……ちなみに彼のその版画は、ランボ―をモチ―フとした連作の版画集で、版画史に残る名作として高く評価されている。)

 

……ランボ―を標的として表現に取り込んでいる表現者は、しかし私だけではない。詩人の野村喜和夫氏やダンスの勅使川原三郎氏も然りである。その野村氏は、今年、氏が刊行した対談集『ディアロゴスの12の楕円』中で、ランボ―との永い関わりを私との対談の中で語っているが、私のようなビジュアルではなく、言葉という角度からのランボ―について言及しているのが面白い。……私はその対談の中で、版画でのランボ―との訣別を語っているのであるが、しかし、意識下の自分とは本当にわからない。……先日、10月11日から日本橋高島屋の美術画廊Xで始まる個展の為の制作が大詰めに来た、正に最期の作品で、アルチュ―ル・ランボ―の詩が立ち上がる直前の彼の異形な脳内を可視化したようなオブジェのイメ―ジが二点、正に突然閃いたのであった。

 

……私は一気にその二点を作り上げ、一点に『地獄の季節―詩人アルチュ―ル・ランボ―の36の脳髄』、次の一点に『イリュミナシオン―詩人アルチュ―ル・ランボ―の36の脳髄』というタイトルを付けた。…………作ろうと思って出来たのではない。……『グラナダの落ちる壺』という作品を作っていた時に、突然、光る春雷のように正しく瞬間的に閃いたのであった(作品画像掲載)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ランボ―の詩編、『地獄の季節』と『イルュミナシオン』各々の仏文の原詩を、厚さ2ミリのガラスに黒で刷ったのを粉々に叩き割り、脳髄に見立てた『地獄の季節』『イリュミナシオン』各々のガラスのケ―スに詰めて、詩が立ち上がる直前のランボ―の脳内のカオス的な状態を可視化したのである。

 

……今夏の8月に東京芸術劇場で開催された勅使川原三郎新作ダンス公演『ランボ―詩集―「地獄の季節」から「イリュミナシオン」へ』は、ここ八年近く拝見して来た氏のダンス公演の中でも、生涯忘れ難い作品になるであろう。……ヴェネツィアビエンナ―レでの金獅子賞受賞以来、特に海外の公演が多くあったので、久しぶりの日本での公演である。……佐東利穂子アレクサンドル・リアブコハンブルク・バレエ団」、ハビエル・アラ・サウコ(ダンス)の都合四人から成る「ランボ―詩集」の、身体を通した開示的表現である。

 

……このブログでも度々書いているように、私は氏のダンス公演は何回も拝見(目撃)しているが、私をしてその公演へと熱心に向かわせるのは、ひとえに氏の表現がダンスを通して芸術の高みへの域を志向し、またそれを達成実現しているからである。…………例えば文学者というのは数多いるが、その文学を、更なる高みにおける芸術の表現達成域にまで至っているのは僅かに三人、泉鏡花谷崎潤一郎川端康成のみであると断じたのは、慧眼の三島由紀夫であるが、つまりはそういう意味である。

 

つまり、鴎外も漱石も、その他、数多の作家達の表現は文学ではあっても芸術の域には達していないと三島の鋭い批評眼は分析しているのである。……芸術へと到る為の、毒と艶のある危うさと、詩情、そして未知への領域へと読者を引き込む不気味な深度が、この三人以外には無いと三島は断じているのである。……………………舞台は正面に開かれたランボ―詩集の本を想わせる装置の巨大さで先ずは一瞬にして観客の髄を掴み、その詩集の頁の間から、飛び出す詩の言葉のように複数の演者が現れ、或はその頁の奥へと消え去り、詩人ランボ―の脳髄の中の迷宮が可視化され、次第にランボ―自身の短い生涯がそこに重なって来て、表現の空間が拡がりを見せて、最期のカタルシスへと見事な構成を呈してくる。…………満席の会場の中で、旧知の友である詩人の阿部日奈子さん、舞踊評論家の國吉和子さんと久しぶりにお会いする事が出来た。勅使川原氏の公演の時は、懐かしい友人との再会が度々あるのが嬉しい。

 

…………ランボ―、ニジンスキ―宮沢賢治中原中也、泉鏡花、サミュエル・ベケットブル―ノ・シュルツ、更には音楽領域のバッハモ―ツァルトシュ―マン、…………と彼のイメ―ジの引出しは無尽蔵であるが、しかし、彼におけるランボ―の存在はまた格別の観が私にはある。……ランボ―がそうであったように、御し難く突き上げてやまない、あたかも勅使川原氏自身の感性を映す鋭い鏡面のようにして、ランボ―の存在があるように、私には思われるのである。

 

 

…………さて、10月11日からの個展の出品作は75点に達した。今年の3月から9月迄の7ケ月間に集中して作り上げた全て新作である。校正を重ねた案内状も既に完成し、後は個展の初日を待つばかりである。

 

 

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『10月からの個展を前に……』

……先日、竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『ガゥディとサグラダ・ファミリア展』を観に行った。行って驚いた。まるで祇園祭かと想う程の人、人、人の入場者数である。その中をぬってガゥディの脳髄の中に入るようにして、彼の奇想にして、表現の原質とも言えるものに再会する。……再会というのは、以前30年前にバルセロナに一時住んでいた時に、ガゥディの数々の作品に直に触れていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………そのガゥディについては、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)に、私の体験談も含めて詳しく書いているので未読の方はご一読頂ければ有り難い。その中でガゥディと、当時未だ幼かったダリが実際に出逢っていたという、ほとんど知られていない奇跡的な逸話が入っていて、読まれた方はかなり衝撃を覚えられたようである。

………(閑話休題)、…………私がバルセロナにいた時には未だ建設途中であった(当時の画像掲載)が、そのサグラダ・ファミリア贖罪聖堂がまもなく完成との事。…………かなり以前のブログでも書いたが、ガゥディ亡き後、日本人の主導者によって建設は進められたが、彼が語ったという「故人の意志を継ぐ」という一見美しい響きを持った言葉には、しかし絶対的な無理がある。言葉を変えて、故人➡ガゥディ➡天才に言葉を入れ換えてみると、天才にあらざる者が「天才の意志(つまり才も含めて)を継ぐ」になる。

 

……ダ・ヴィンチの作品は未完成の作品が何点かあるが、例えばダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』の未完成の部分に「故人の意志を継ぐ」と言って、誰が筆を入れる事など可能であろうか。理屈はそれと同じである。

 

……だからガゥディの凄さを体感したいならば、私はお薦めしたいのだが、真正面(ガゥディの手になったファサ―ド部分)の下から仰ぎ視るに限る。すると頭上からは魔的にして荘厳な雫がアニマのように容赦なく降り注いで来るのを体感出来るのであるが、間違っても聖堂の裏側には廻って視ない事をお勧めしたい。……残酷なまでの生な現実を目にしてしまうからである。

 

……しかし、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂はまもなく完成するという。……ダ・ヴィンチの未完成の絵と同じく、未完成のままで良いと私は思っている。……「完成」……!?……相手が突出した天才である場合、そこにいかほどの意味があるのであろうか。

 

 

……ガゥディ展を観ながら、私は30年前のその街で過ごした時間を思い出していた。オリンピック前の未だ善きバルセロナ、最期のバルセロナの暗き闇と、眩い地中海を映した光との深い明暗が未だそこにあったと思う。…………さて、そのバルセロナという地名であるが、その語源についての洒落た面白い解釈があるのをご存知であろうか?

 

……バルセロナは三つの言葉で出来ているという。すなわち、①bar(酒場)②Cielo (空)③mar(海)……この三つを繋げると、Un bar flotande entre el cielo y el marとなり、訳すと「空と海の間に浮かぶ酒場」になり、それがバルセロナという地名の語源なのだという説があるが、私はそれを洒落た発想ゆえにたいそう気にいっているのである。(……一説にはカルタゴの名家バルカ家の領土であった事から来ているという説が有力であるが)。……「空と海の間に浮かぶ酒場」、……人生まことに一酔の夢と視れば、生きる事と酩酊は同義語とも映るのである。……さてこのガゥディ展は、しかし充実した展示で見応えがあり、私は多くの友人達に観る事を勧めたのであった。これは私にはめずらしい事である。

 

 

……私の最初の銅版画集、写真集、そして第一詩集を出版社側の企画で刊行して頂いた、沖積舎の沖山隆久さんから先日、突然お電話があり、沖山さん所有の二十点以上の李朝の掛け軸の中から、私が一番気にいったのを一点プレゼントして頂けるという願ってもないお話を頂いた。……こういう時は動くのが私は早い。さっそく神田神保町にある沖積舎に行き、深みと品格のある、鳥と古園を画いた一点を速決で選んだ。

 

 

 

……その後で、沖山さん所有のコレクション(三島由紀夫、西脇順三郎、江戸川乱歩などの書、ルオ―の名品ミゼレ―レ他無数)を次々に視ていたら、あまりの驚きでアッ!!という声を出してしまった。……私が30年も前から探していた月岡芳年の有名な残虐絵(版画)を見つけてしまったのである。

 

……私は前に、芳年の代表作―『英名二十八衆句』をシリ―ズの内から二点持っているが、その内容の残虐性、そのエロティシズムの深さ故に、さすがに画像を未だ今はブログでお伝え出来ないのは残念であるが、その作品は三島由紀夫、江戸川乱歩、芥川龍之介他も入手出来なかった名品であり、私はずっとその作品を探していたのであった。

 

……その事を話し、芳年の作品中でも名品中の名品で市場に全く出て来ないその一点(もし市場に出れば、40万円以上はするであろう)を、私の旧作の銅版画一点と交換トレ―ドを申し込むと、あっさりと了解されたのには驚いた。感謝の一語しかなく、有り難い話である。今、その芳年は我がアトリエに在り、その必然とも云える、想いの一念は岩をも砕くの言葉を噛み締めているのである。

 

 

日本橋高島屋本店6階のギャラリ―Xで、今秋10月11日から10月末日迄開催予定の個展(『幻の廻廊―Saint.Michelの幾何学の夜に』)の為の制作が大詰めであるが、以前から法政大学出版局から依頼されていた原稿(主題は『記憶と芸術』)執筆の締切日が八月末なので、大急ぎで30枚近くを書いて、私の作品画像と一緒に編集部の人に渡した。この本は年末に刊行予定であるが、共著なので、美学の谷川渥さん、前橋文学館館長の萩原朔美さん他15名から成る本である。

 

 

私が書いた原稿のタイトルは『記憶と芸術―二重螺旋の詩学』である。……ただ、この本の企画が面白いと言われ、途中から執筆者に加わられた海野弘さん(幅広い執筆活動で知られる評論家で作家)が4月に虚血性心不全で急逝されたのは本当に残念である。………………果たしていつが自分の最期になるのか、誠に人生とは一酔の夢、……せめて能う限り美しい幻を紡いでいたいものだと思う、昨今である。

 

 

 

 

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『裏番・中原中也』

敗戦記念日の8月15日になると、毎年その頃に大戦時の悲惨な映像が流れ、幾つかの特集番組がテレビで流される。先日たまたま観たNHKの朝の番組もその1つであった。(観られた方はかなり多いと思われる)……先ず映し出されたのは、レイテ戦で日本兵が突撃し、銃火や火炎放射器で焼かれて次々と戦死していく映像であった。

 

……次に作家・大岡昇平『レイテ戦記』の一節が朗読で流された。……それは、ある上官の事を書いた文章であるが、その上官の事を実に卑怯な男で、部下からの信頼もなく、いかに惨めな姿で死んでいったかを、その上官の実名を挙げて書いたものであった。……(ちなみに、この『レイテ戦記』は詳細な資料調査に基づいたものと評価され、反戦文学の代表作と評されている)。当然多くの読者は、実名で書かれたこの上官の事を事実とし、卑怯で惨めな男と記憶してしまう。……しかし大岡昇平の『レイテ戦記』が発表(1967年から連載開始)されていらい、この事で、実に50年以上もの間、屈辱に耐えて来た人達がいた。大岡に卑怯な男と実名で書かれた上官の遺族の人達である。

 

……番組では、当時5歳くらいであった上官のお嬢さん(現在は90歳くらい)が登場し、「記憶の中の父は絶対にそのような卑怯な人ではなかった。戦地での父の真実の姿を知りたい」と話す映像が映し出された。…………しかし番組製作時に、お嬢さんの長年の無念を晴らす奇跡が起きる。……お嬢さんは、偶然或る番組でレイテ戦の生存者(現在100歳くらい)が未だ生きている事を知り、テレビ局のスタッフとその人の住居へと赴いた。……「ひょっとして、その方は父と接点があった方かもしれない」……藁をもすがる想いで、その人と面会した。(画面に映るその人は100歳に達しているとは言え、矍鑠としていて、記憶の冴えがしっかりとした人であった)。

 

……レイテ島には当時84000人の兵隊がおり(その内80000人が戦死)、配属された部隊の数もたくさん在り、両者に接点がある方が難しい。……しかし驚いた事に、その人と上官は同じ部隊であり、上官の人となりは未だしっかりと記憶に焼き付いているという。そして画面は、上官とその人、そして部隊の全員が写っている集合写真のアップとなった。(写真から、上官の温厚さの中に秘めた信念の芯の強さが伝わって来る)。……その人は語り始めた。……「上官は実に立派な方で部隊の部下からも慕われていました」「私が生きて帰れたのも上官のおかげです。上官は(私はここで死ぬが、お前は生きろ!生きて日本に帰れ!!)そう言って亡くなられました。この本の中に書かれているような卑怯な人ではありません」と、はっきりと断言したのであった。

 

……私はここに2つの奇跡を観て感動した。1つは、この生存者にまるで導きのように上官の遺族が存命中にギリギリで会えた事、もう1つは、上官がこの一兵卒の部下を日本に帰した事で、80年後に自分の汚名を晴らす事が出来、お嬢さんに、自分の戦地での実像を伝えられようとは想像していなかったに違いない、何という運命の、しかし不思議な糸の結び付きかと、私は感動したのであった。

 

……「これで長年の辛かった思いが晴れました。有難うございました」とそのお嬢さんは語ったが、最後に「死人に口はありませんからね」とも静かに語った。……それは大岡昇平に、「卑怯者で惨めな姿で死んでいった」と書かれた事に、既に死者となってしまった父は何も言い返せない事への無念を語る言葉であり、悔しさであった。この遺族の方の秘めた本心には、明らかにされたこの部下の証言を大岡に見せて、何故あのような根拠のない、悪意とも取れる文章を書いたのかを抗議文か何かをしたためるか、或いは直接会って問う事にあった事は想像に難くない。……しかし大岡は35年前の1988年に亡くなっており、この無念はもはや届かない。

 

 

……しかしここに、大岡昇平が未だ存命中に、手紙で強烈な抗議文を書いて大岡に送った当時26才の若僧がいた。……誰あろう、私である。

 

……昔、角川書店から電話が入り、大岡昇平の『中原中也』を文庫で出すので、その挿画を表紙に描いて欲しいという依頼があった。私はその本の事は知っていた。先達の、銅版画の詩人と言われた駒井哲郎さんの版画『笑う赤ん坊』を大岡の『中原中也』の単行本の表紙にしたのを覚えていたのである。中原中也の無垢さの内の御しがたい突き上げを、この版画の選択は実にピタリと合っており、表紙の挿画として突出した素晴らしい出来だと記憶していた。だから、その駒井さんと勝負しようと思い、編集者との打ち合わせを楽しみにしていたのであった。

 

……後日担当の編集者に会うと、浮かぬ顔で「実は大岡先生が、文庫の時にはこの写真を使って欲しいと言って、これを指定してきたのです」と言う。……それは中原中也が確か就職活動の必要を覚えて撮った書類に貼る為の写真で、よく知られたあの写真と違い凡庸な面相で写っている。

 

……私は「人は表紙のセンスの妙で購買を決める場合が多いので、これじゃ売れませんよ」と言った。そして「既存の写真をただ印刷するだけなら、何もあえて私がやる必要はないでしょ」とも言った。実はこの配慮は大岡自身の為でもある。どれだけ売れるか、内実、印税は大岡に限らずどの作家にとっても生命線なのである。これではすぐに絶版は必至と見た。話してみると、……編集者も本音は、この中原ではなく、あの写真を使いたいらしい。

 

まぁしかし私も生活がある。……その頃に芥川賞をとった池田満寿夫さんが、当時20代の私が画廊契約でも大変なのを心配してくれて、角川書店での挿画の仕事を前から私に紹介してくれていたのであった。だから、まぁやるしかない。

 

 

 

……とまれ大岡昇平の指定した写真を採用せず、私は、あのよく知られた写真を製版屋にまわして写真製版で作らせ、濃いセピアのインクを刷ってレイアウトをし、編集者に渡して文庫本が出来上がった(画像掲載)。……この仕事において、当然、私の中原中也への私的解釈など何も入らず、既存のままの昔からの中原中也の顔がそこに刷りあがっていた。

 

 

………それから半年くらい経った頃であったか。雑誌の『太陽』の中原中也特集号が出た。本屋で立ち読みをしていると末尾辺りに、大岡昇平の『中原中也像の変遷』と題する一文が載っていた。中也像の変遷?とは何だ?意味がピンと来ないまま、一読して私は大岡昇平に失望した。そして、大岡、呆けたか!!?とも思った。

 

その文章は実に馬鹿げた論旨で、一言で言えば、私(大岡)が身近にいてよく知っている中原中也の実像と違い、中原を知らぬ次々の世代の読者は、彼のイメ―ジを女性的な弱い像として捕らえている傾向がある。具体的な例を挙げれば、以前に私の『中原中也』の表紙画を担当した北川健次がそれである。実像を知らない甘いイメ―ジで中原中也像を作り上げた北川はまがい物である!と断じているのであった。

 

……先述した通り、私はこの中原中也の写真を全く私的解釈などで変化せず、角川の編集者に用意してもらった写真をそのまま製版屋に回し、編集者がせめてセピアの古色でと言うので、そのまま刷っただけの、昔と何ら変わらない中原中也のままである。……自分の言う事を無視した若僧と私の事が映ったのか、とにかく久しぶりに来た原稿依頼で高ぶったのか、あろう事か、昨今の誰も抱いていない女性的な中原中也のイメ―ジに変化した幻をそこに見て、私が作った表紙に、大岡は怒りのままに長いまつ毛を生えさせてしまったらしい。

 

……私は、この文章を書くに至った大岡の内面を透かし見た。……誰もが平伏する私に対し、この北川という生意気な若僧は……という想いと同時に、中原中也をよく知っているのは身近にいた私だけであるという念が日増しに増して来ており、それをこの駄文に込めたのであろう、そう思った。しかし、まがい物と活字でしっかりと書かれた事は、さすがに許しがたいものがある。呆けた相手とは言え、売られた喧嘩は、矜持として買うのが私の流儀である。さっそく私は抗議文を書く事にした。編集者から大岡の住所を訊き、便箋5枚ばかり書いて、「くらえ!!」とばかりに投函した。

 

「貴殿が小心者でないならば、また自分の書いた文章にプロの作家として自責を負う自覚があるならば、この手紙を途中で破る事なく最後まで読まれたし。この手紙文は先日書いた中原中也に関する貴殿の明らかな間違いを理路整然と正す文章である。…………」から始まる文は、最後に「私は中原中也の詩や文章の熱心な読者の一人であるが、その彼の文章の中に貴殿について書かれた文章は、小林秀雄と違い僅かしか無い事もまた事実です。最後になりますが、貴殿の小説について何か書く事は礼儀かもしれません。しかし、多くの読者がそうであるように、私は三島由紀夫松本清張の熱心な読者であり、彼らの作品や生き方から多大な影響を受けています。しかし、多くの人達がそうであるように、貴殿の小説は全く読んでいないので、何も書く事はありません。……定家卿曰く、芸道の極意は身養生に極まれりと。御身お大事に。北川健次」………………今、記憶の限りに書いているが、まぁこんな内容であった。

 

…………しばらくして、反応があったが、それは私の予期した通りの事であった。私でなく角川の編集者に怒りの矛先が行き、以来、私の挿画の仕事は無くなった。しかし良くしたものでその後に他の出版社から挿画の依頼が来た。またまがい物と書かれた雑誌『太陽』ともその後で何故か縁があり、エッセイを書いたり、また編集長から企画の相談を依頼されるようになるから、人生はわからない。

 

……さて、抗議文の中で松本清張の名前が出て来たが、これには理由がある。……大岡昇平は松本清張の文学を否定し、「彼の作品は純文学でないから認めない」と発言しているのであるが、彼はいつから純文学の裁き手になったのであろうか?……文壇では小林秀雄を我が身の借景としている事から来る、この増長とも取れる発言は、如何にも不可解であり、如何にも小さい。

 

……松本清張は『或る小倉日記伝』で芥川賞を授賞した後、周知の通り、社会派推理小説という新分野を切り開き、その分野の越境の様は拡がりを見せながらとどまる事を知らない生涯であった。純文学などという狭い意識にこだわっていては果たせないスケ―ルの幅であり、私は20代から大きな影響を受けている。……「純文学ではないから認めない」という大岡の発言を嫉妬だと断ずる人もいるが、底辺から這い上がって、一気に小説家の水準を超える作家へと上がっていった松本清張への蔑視もあるように思われる。『神聖喜劇』などの著作で知られる小説家の大西巨人氏は、大岡の発言の中に矛盾や屈折を早々と看破しているが、やはりと思わせるものがある。

 

……最後に、『レイテ戦記』に戻るが、詳細な調査として評価された面があるこの作品。実は正確な戦史でなく、実質は小説であるが、この点にそもそもの構造的な無理がある。戦史で言うなら、吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』の方が遥かに正確さと密度において優れており、吉村昭氏の『関東大震災』の方がその詳細な調査の深さにおいて群を抜いている。この度の番組で明らかになった『レイテ戦記』の虚実のほころび。……今、もし大岡昇平の研究家なる者が存在するとしたならば、このレイテ戦記の虚の部分を徹底調査して洗い直す必要があると、私は汚名を受けた遺族の方々に代わって考えるのである。

 

 

……今回のブログはマチスについて書く予定でいたが、思いがけずテレビ番組で、著者の無責任さを知ってしまい、このブログを書く事になってしまった。……さぁ次は何を書こうか、ともかくご期待頂けると有り難いです。

 

 

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『暗いトンネルを抜けると、そこは……』

①……最近まで使われていた「地球温暖化」という言葉が終わり、新たに「地球灼熱化」という言葉に変わった事をご存じだろうか?……灼熱、この言葉は凄い。もはや万事休すである。この言葉による警告を発したのは国連総長との由。……まぁ言葉がどう変わろうと、人類自滅のカウントダウンはとうに進んでいる事に変わりはない。数年前のブログに書いたが、それは人々の楽観的な予測を越えて加速的に、かつ容赦なく早まっているという事である。

 

……「永久凍土」と云われたシベリアやアラスカの広大なツンドラ気候地帯では、今、ボトボトと溶けた大量の水が流れだし、もはや停める術はない。……ダ・ヴィンチが、最初は「人類は火で全滅する」と手稿に書き、後に火を水に修正して大洪水の素描をとり憑かれたように描いたが、火を灼熱と解せば「人類は火と水によって間違いなく全滅する」と終にはなるのであろうか。核の外圧やAIによる人間の内面の家畜化を視るより早く、大洪水と灼熱の一気襲来は早晩に来る具体的なものがある。

 

 

②先月末に不覚にもコロナに感染し、陽性がわかった夜には、熱が40度近くに上がり危なかったが、二年前に開発されたラゲブリオカプセルという重症化を防ぐ新薬を処方されたお陰で、翌日は一気に平熱に下がり、喉の炎症も忽ち治まった。しかし四日間は静養して外出を自粛したので、本(主に怪談話)ばかり読んでいた。その時は泉鏡花、小泉八雲ではなく、岡本綺堂の『影を踏まれた女』、内田百閒『サラサ―テの盤』『東京日記』、そして川端康成の短篇集等を読んで過ごした。拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)でも書いたが、『サラサ―テの盤』を原作にした映画が鈴木清順監督の名作『ツィゴイネルワイゼン』である。直接的な怪奇物語でなく、鎌倉の夜の闇から派生した妖しい気配が通奏低音のように流れる不思議な映画で、この世とかの世が交わる怪異譚である。

 

撮影場所は八幡宮、小町に在るミルクホ―ル、切通し、暗い谷戸などを上手く取り込んでいた。映画を観て数ヵ月後に、映画の中で病院として使われていた実在の建物(湘南サナトリウム)が老朽化で解体されるという報を新聞で知り、その翌日は、私は早々と、鎌倉と逗子の間の小坪に在るそのサナトリウムの建物の中にいた。……サナトリウムは閉鎖されていたが、まだ一部は外来患者の往診を行っていた。……アポ無しで訪れた私は「○○大学の建築科の助手ですが、この建物が解体される事を新聞で知り、拝見させて頂きたくやって来ました」と言うと、北杜夫風の温厚そうな院長が「いいですよ。ゆっくりご覧下さい」と許可がおり、私は廃校になった小学校のような広大な建物の中を観て廻った。かつては多くの結核患者で埋まっていた建物の中は今は無人で、渡り廊下を歩くと鎌倉と逗子から吹いてくる海風が涼しかった。

 

私はこのサナトリウムで、今でも信じがたい光景を見て唖然とした事があった。……或る病室の真ん中で蝶の死骸を見たのであるが、蝶の死骸は十羽ばかり(種類は大小様々)、それが実に綺麗な一直線に並んで死んでいたのであった。……正に、このサナトリウムでロケをした『ツィゴイネルワイゼン』の映画の画面そのままに、眼前に耽美極まる幻のような光景が、あたかも私を待ち受けるようにして在ったのである。…………「死者も夢を見るのか?」「腐りかけがいいのよ。なんでも腐って……」……記憶に残っているその映画の幾つかの台詞が甦って来た。……そしてその時、私は思ったのであった。「はっきりと見える幻もまた在るのである」と。

 

 

……次に読んだのは『川端康成異相短編集』(高原英理編・中公文庫)。本中の『死体紹介人』『蛇』『赤い喪服』……等は再読であるが、その中の『無言』という短篇は初めてであった。……ノ―ベル賞受賞後の川端は全く小説が書けなくなってしまったが、その後の自分を予言するような小説の出だしはこうである。

……「大宮明房はもう一語も言わないそうである。六十六歳の小説家だが、もはや一字も書かないそうである。……」からの出だしを読み進めていくと「!?」と驚いて、本を落としそうになった。……先ほどの湘南サナトリウムの話の続きを思わせる事が書いてあったのである。

 

……鎌倉と逗子の間の名越切通しの傍に小坪トンネル(名越隧道)という、多くの人々が霊を視てしまうという、あまりにも有名な、いわゆる心霊スポットなるものがある。実は鎌倉の長谷に住んでいる川端康成が興味を持ち、深夜にタクシ―をその場所に停め馴染みの運転手と共に数時間、霊の出現を待った事があった。長時間待った後に「やっぱり出ないね……」と川端が話すと、運転手が震えながら「先生、先生の横に……います!!」と語ったという話は有名である。川端には見えなかったが、運転手は女が川端の真横に座っているのがありありと見えたのだという。

 

この話を聴いた私は、早速、小坪トンネルへと赴いた。以前に行った湘南サナトリウム(結核患者が数多く亡くなったという)は既に無くなっていたが、そこから近い所に、そのトンネルはあった。

訪れたのは夏の午後である。トンネルは二つ並んで在るが、その向かって左側が件のトンネルである。中に入り端を歩いて行くと、背後に強い「気」を感じたので振り向くと、何とまさかの黒塗りの霊柩車と遺族を乗せた車が2台、静かに私の横を抜けて行くのであった。

 

そして先方出口の陽射しの明るい所を抜けると、霊柩車は左上へと上がるのが見えた。(……坂が在るのか?)……霊柩車がこのトンネルの上に何ゆえにと思っていると「後に付いて来い!」という、誰かが私を喚ぶような気がして、私は好奇心のままに霊柩車の後から坂を登って行くと、そこは古びた暗い火葬場であった。川端の小説には、こう書いてある。

 

「……鎌倉から逗子へ車でゆくには、トンネルを抜けるが、あまり気持のいい道ではない。トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂もある。夜中に火葬場の下を通る車に、若い女の幽霊が乗って来るというのだ。」

 

……小説ではトンネルの手前に火葬場がとあるが、実際はトンネルの真上、名越切通しの近くにそれは在る。……川端は小説の中で馴染みの運転手に幽霊の実体験をいろいろ訊く語りが続き、「どのへん?」「このへんでしょう。逗子からの帰りで、空車ですね」「人が乗ってると、出ないの?」「さあ、私の聞いたのは、帰りの空車ですね。焼き場の下あたりから、ふうっと乗るんですか。車をとめて乗せるわけじゃないんだそうです。いつ乗るかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです。そのくせ、バック・ミラアにはうつってないんですよ。」

 

…………二人の会話はなおも続くのであるが、運転手の話によると、見たのは一人二人ではないという。そして女の霊は決まって逗子方面から現れ、鎌倉の町へ入って、ほっとするといなくなるのだという。

 

さて、私は先にこの小説の冒頭で、後の川端自身、つまり小説を書けなくなった自身の姿を暗示・予言していると書いたが、もう1つ、暗示している事がある。……この『無言』という小説が書かれたのは昭和二十八年の『中央公論』。川端54歳の時であり、19年後に73歳で逗子マリ―ナの自室でガス管をくわえたまま自殺するのであるが、その川端を焼いた斎場が、このトンネルの真上に在った、件の火葬場なのであった。今では綺麗でモダンな斎場に変わっているらしいが、私が見た時は、昼なお暗くて哀しい感じがする、惨めな感の漂う、つまりは川端康成の孤独な生涯にあまりにも相応しい火葬場であった。

 

……この小坪トンネルの幽霊が出るという話。川端が書いた時から逆算すると少なくとも80年以上も前から目撃者がおり、語り続けられていた事になる。……このトンネルの近くには古い墓地や史蹟が多く、また私が探訪した、死の病と云われた結核患者も数多くいた湘南サナトリウムからも近い。……こう書いていると、秋の寂しい時にまた行きたくなってしまうから、困ったものである。……コロナ感染後の静養には、もっと力が入ってメンタルに良い、例えば司馬遼太郎あたりが良いのであるが、つい手がそちらの方向の小説へと向かってしまう私なのであった。

 

 

 

 

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『2023年夏―ホルマリンが少し揺れた話・後編』

①……前回のブログで、谷崎潤一郎が高橋お伝の陰部の標本と、横長の額に入ったお伝の全身に彫られた刺青の標本を観て、あの近代文学の金字塔『刺青』の構想が瞬時に閃いた!と断定して書いたが、それは私の直感が言わしめたものであり、どの研究書にもそのような大胆にして密な言及は書かれていない。しかし、オブセッション(妄想、強迫観念)とフェティシズム(物神崇拝)を資質の奥に持っていない人物は表現者たりえないと考えている私には、谷崎潤一郎のその時の昂りがリアルに見えてくるようなのである。

 

谷崎潤一郎は、高橋お伝という伝説の姉御肌の美女と遭遇した事で、泉鏡花が『高野聖』の中で登場させた、あの妖艶で煙るように薄い存在感の美女とは明らかに別種で存在感のある、想像力の原点に棲まう、残忍にして破滅的な女人の原形を獲得したように私には思われる。

 

……例えば周知のように、川端康成が永遠の処女性への不気味なまでの執着と、ネクロフィリア(死体性愛)的な本物の資質をもって日本の抒情を綴ったのに対し、谷崎潤一郎のマゾヒズム(被虐性愛)はその対極と考えられがちであるが、実は谷崎のそれは醒めた演技が根本にあった事に注意すべきであろう。

 

慧眼な洞察力を持った三島由紀夫は「……谷崎は大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変えてしまうのであり、俗世間をも、政治をも、いやこの世界全体をも、刺青を施した女の背中以上のものとは見なかったと語り、……… (今、三島の原文が見つからないので、この先は私の記憶だけで書くが、)……… 被虐的なマゾヒズム行為の深みに入れば入るほど、その対象者たるサディスティックな女性に対しての、冷徹なまでに醒めた蔑視の眼が氷のように注がれている事を見落としてはならない。……… 確かその意味の事を三島は書いているのである。

 

 

 

②……あれは何の雑誌であったか?…博物学者の荒俣宏が、「東京で一番怖い場所」と書いていた東京大学医学部解剖学標本室で、……あれはまた何年前であったか?…季節は確か初夏であったが、外の暑さに対して、その標本室の奥の部屋は、確か3階であったが、まるで地下室のようにひんやりとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オランウ―タンの死体標本を抱えながらT教授は私にこう語った。

「君はパリのあの学校で、本当に非公開のオノ―レ・フラゴナ―ルのエコルシェ(剥皮標本)を観れたのか!?」と。(ええ、観ましたよ、)と私。「たぶん君より数年前だったと思うが私は大学からの紹介状を持って学校に見学の許可を願い出たが、駄目だった。一体どういうやり方で君は入れたのかね」

 

…… (別に、秘策なんて無いですよ。従兄の画家のフラゴナ―ルとの共通点の、手技の早さの異常さへの私の関心、フランシス・ベ―コンの皮膚への破壊的な情動とオブセッションとの類似点への簡単な考察。その他を、便箋5枚ばかり書いて、私のオブジェ作品の写真画像数点を添えて、友人のパイプオルガニスト奏者に仏語に訳してもらい提出したら、暫くして許可されましたよ。

 

友人5人を連れて指定された日時に学校に行くと、校長は上機嫌で歓迎してくれて、エコルシェ全ての撮影も構わないと言って、貴重な図録と、畳くらいの大きさの『フラゴナ―ルの花嫁』のポスタ―もくれましたよ。私の人柄が通じたんでしょうかね)。

 

……するとT教授は真顔で「今、私はこのオランウ―タンの剥皮標本を作っているのだが、ここまでで3ヶ月もかかっている。それをあのフラゴナ―ルは、僅か3日で作り上げてしまうんだよ」……(ええ知っていますよ)と私。するとT教授は鋭い眼をしてこう言った。「…………奴(フラゴナ―ル)は、怪物だよ」。  ……. それからT教授が急死されたのは間もなくであった。私は思い出しながらふと思う。パリの学校も非公開だったが、この解剖学標本室も非公開。……そこにいる自分が可笑しかった。私はよほど非公開の場所に入るのが好きなのだなぁと。

 

 

 

③……そもそも、東京大学医学部内に、「解剖学標本室」なる物が存在する事を知ったきっかけは、推理小説家・高木彬光(1920~1995)のデビュ―作『刺青殺人事件』であった。

 

江戸川乱歩が絶賛したこの小説は実に面白く、夢中で読んでいると、件のその標本室の事が突然出て来て、一気に私を引き込んだ。

 

……その標本室には夏目漱石斎藤茂吉横山大観浜口雄幸円地文子…等の脳みそが傑出脳…として、ガラス陳列室の中に保管されている事を知ったのである。……以前にも書いたが、私は動くと光速よりも早い。……『刺青殺人事件』を置いて、私は読んでいたその場で東大に電話した。

 

 

「はい、東大五月祭本部です」。私は電話した主旨を述べ見学を申し入れた。……すると大学祭で浮かれている学生達がざわつき(何か変な人から、変な電話~)という声が聞こえて来たので、私は別な角度から後日電話する事にして切った。…………それから1か月後、見学を許された私は本郷の校舎内を歩いていたのであった。

 

高木彬光の小説の『刺青殺人事件』に、谷崎の『刺青』も登場し、導かれるように高橋お伝、また阿部定が切断した件の吉蔵のホルマリン漬けの局部標本までも偶然目撃する事になり、再び谷崎潤一郎の『刺青』のインスピレ―ションも、この薄暗い標本室から立ち上がった事も知った。……そして、この標本室での体験は、その後で作品にも生かされ、「イメ―ジを皮膚化する試み」として、数多くの作品が銅版画とオブジェの両面から産まれていったのであった。

 

 

④さて、実は4日前に不覚にもコロナに感染してしまい、今回のブログは初めて病床の中で書いている次第とあい成った。……シャ―ロック・ホ―ムズとワトスン両人に登場してもらい、阿部定が吉蔵を絞殺し、局部を切断して持って逃げた心理を、愛情の形と単に納める事なく、阿部定自身も気づかなかった潜在意識、無意識の領域へと掘り下げて彼らに推理してもらう予定でしたが、いかんせん書き手の私自身がもはや青息吐息。この辺りで筆を置きたいと思います。

 

 

 

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