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『12月のミステリー』 

〈今までの怨み、覚えたか!!〉…………まるで、吉良に刃を向けた浅野内匠頭か、はたまた横溝正史のどす黒い怨念因果小説を想わせるような凄惨な殺傷事件が冨岡八幡宮内で起きた。……この八幡宮、以前にも、誘拐された幼児が八幡宮境内の古井戸(現場は、たしか現在はセメントで埋めてある筈)に犯人に投げ込まれて亡くなっているが、その因縁話よりも、江戸時代に今の相撲興行のもととなった勧進相撲が行われて以来、冨岡八幡宮は相撲協会と互助なる密月関係を続けて来ただけに、昨今の貴ノ岩の事件と絡めて、なにやら一層の不気味さがある。昔、二十代の頃に、版画に使うリスフィルムというのを発注しに、江東区冬木にある工場に行く際に冨岡八幡宮の境内を通り、また帰りには度々、今回の殺人現場のすぐ真横にある赤い鉄製の橋上に佇んだり、境内にある歴代横綱の巨大な石に彫られた手形を度々見ていただけに、今回の凄惨な事件の報道画像を見て、同時になにやら懐かしくもあったのである。

 

……少年時を想い返せば、昭和30年代の頃はたいした娯楽もなく、経済の復興途上にリンクしてテレビ中継の大相撲の人気は熱狂的な渦中にあった。私の故郷の福井にも相撲巡業が来て、出来たばかりの体育館で興行相撲が行われた。相撲の黄金期―柏鵬時代がまさに始まった頃である。当時まだ小学3年生の頃であったが、興行相撲が体育館であった日の遅い午後、館内から聴こえて来るどよめくような喚声に突き動かされるようにして、私は体育館の周りを回りながら、何とかタダで相撲を観れる手段はないかと思案していた。……今でもそうであるが、どのような窮地でも必ずや突破口はある!!と考える前向きなたちなのである。そして遂に私は見つけたのであった。体育館のかなり上部に換気の窓が僅かに開いており、そのすぐ側に雨水が流れる排水筒が地上まで延びている。……「あれだ!……あれを伝って換気窓まで上がっていけば、まぁ後はなんとかなるだろう!」……少年の観たいという無垢な欲求は、恐怖に勝る。意を決した私は必死で登っていき、遂に窓の間近まで辿り着いた。……中を見ると、席の最上段にいる観客の後頭部がズラリと見えた。「……おじちゃん、お願いだから…中に入れて……」。掠れた子供の声に一人の男性が気づき振り向いた。まさかいる筈のない空中から小さな手を伸ばす私を見て驚くや、「―おぉ小僧、よく上がって来たなぁ!!」と言って、引っ張り上げて中に入れてくれ、私はご満悦の観客の一人と化したのであった。取組は関脇あたりから観れたので、お目当ての柏鵬の勝負はたっぷりと楽しめたのであった。…………昨今の白鵬などの唯の力任せの荒い相撲と違い、特に大鵬は、相手を余裕でふわりと受けながら懐の大きな器で次第に絞りこみ、ゆらりと倒していくという、正に横綱としての格の違いを見せてくれたが、何よりも相撲に華があり、頂点に立つ者としてのプライドと気品があった。白鵬も、かつては貴乃花を先達の目標として敬い、大鵬も自分を継ぐ力士として白鵬に目をかけていた感があった。……その白鵬の相撲が次第に変わってきたのは、大鵬が亡くなり、彼の優勝記録の32回を越えた辺りからかと思われる。……超然とした禅の境地を表す「木鶏(もっけい)」という言葉を引用して、70連勝のかかった大一番に敗れた名横綱の双葉山が打った有名な電報の一文、「未だ木鶏たりえず」という、神技への孤高な探求心からも遠く、今や相撲は、ガチンコ(本気の勝負)を欠いた、プロレスと変わらない唯の格闘技興行となった感があるのは、時代の流れとは云え、いかにも残念な事である。

 

ここに1冊の本がある。『泥水のみのみ浮き沈み』(文藝春秋刊)と題した勝新太郎対談集である。森繁久彌・瀬戸内寂聴・ビ―トたけし・三國連太郎……といった個性的な対談者が揃っていて、けっこう面白い。その中の三國連太郎との対談(1993年時)の中にオヤ?……と気を引く会話が載っていた。音に対する感性の話を三國連太郎が話している時に、勝新太郎が急に話題を変えて、隣室の相撲中継が気になり、勝(突然、付き人に)貴花田どうした? あっ、まだか。連ちゃん、相撲好き? 三國(好き好き。 勝(今、若花田だって。三國(やっぱり八百長ってあるんでしょ? 勝(ま、精神的にはね。勝ち越しちゃうと、ちょっとあると思いますね。三國(藤島部屋〈注-貴乃花の父親―元大関・貴ノ花が82年に設立した部屋〉はやらないんでしょ。勝(だから叩かれるね。三國さんにしても本当に映画を作ろうという人は叩かれる。だって困るもん、そんな人いたら、目をギラギラさせてだね、「この役はちょっと今日は中止にします。掴めませんから」なんて言ったら、みんなが嫌がるもの。俺なんかが出ても、みんな困るよね。〈勝―別室に相撲を見に行く。戻ってきて〉もうすぐ、貴花田〈注・今の貴乃花〉ですよ。三國(そりゃ、見なきゃ。(二人とも別室で相撲観戦) 勝(貴花田が出る直前に、ソファでいびきをかいて眠り始める) 三國(あれ、寝ちゃってる。……………… 今から20年前に出た八百長の話と、貴乃花のいた藤島部屋の相撲協会内での孤立化を匂わせる話。勝新太郎、三國連太郎、……社会の裏面を熟知しているこの二人の会話には、今にして読むと相撲界の今日に至る構図がうっすらと透けてくるものがある。今回の貴ノ岩の殴打事件、察するにガチンコ(本気の相撲)で白鵬を負かしてしまった貴ノ岩に対する、というよりも、その師匠・貴乃花への、これはどのみち起こるべくしていつかは起きた事件かと思われる。……結局一番、損な割を食ったのは、引退に追い込まれた日馬冨士と貴ノ岩であろう。モンゴル出身の貴ノ岩が、ガチンコにこだわる狂信的なまでにストイックな貴乃花部屋に入門してしまった事が、後の事件の伏線になった事は想像に難くない。……しかし、それにしてもパックリと開いた貴ノ岩(と思われる人物)の頭の傷口。私も撮影用の巨大なスクリ―ンの芯の鉄骨が落ちて来て頭部を激しく打ち、かなりの出血をした事があるが、自らの体験を話せば、頭部の肉は裂けやすく、意外に脆く、かつ出血が激しい。……さて、その貴ノ岩と云われる人物の顔を伏して頭部の傷口のみを撮した画像。その頭をゆらりと後ろにずらして顔をおもむろに上げれば、まさかの別人であったりすれば、これは、これで年末のミステリ―。ともあれ、12月という月は、本当に慌ただしく、かつ過ぎるのが速いのである。

 

 

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『強烈な火花―棟方志功』

どうやら記憶にも遠近法というのがあるらしく、出会った順番ではなく、その人の放つ個性の強度や印象の強弱で、記憶の中に存在の韻を各々に放っているようである。その遠近感でいくと、私の場合最も鮮やかな最前列にいる人物が二人いる。……勝新太郎棟方志功である。勝新太郎との面白い出会いについては以前のブログで書いたので、今回は棟方志功さんとの出会いについて書こうと思う。

 

私が銅版画を独学で作り始めたのは、美大の二年生の19才の時であった。『Diary-Ⅱ』という表現主義的な作品を作ったのは翌年の20才の時である。作り始めて二作目の版画『微笑む家族』という作品を私が住む神奈川の美術展に出して、神奈川県立近代美術館館長の土方定一氏の眼に止まり、美術館に収蔵されたという流れもあって、翌年、再びこの美術展にその『Diary-Ⅱ』を出品したところ、今度は版画部門で受賞した。賞金は当時の十万円。貧乏な美大生にとっては救いの神の賞金である。授賞式は展覧会の会場の神奈川県民ホ―ルであった。会場に着くと、受付の人から仰々しく私の名前を書いた名札を渡されたのであるが、その人が私を見て「あなたが北川さんですか!いや、もう審査の時が大変だったんですから!」と言って、審査時の事を詳しく話してくれた。版画部門の審査員は三人で、その中に板画家の棟方志功さんがおられたのであるが、私の版画が審査員達の前に現れた瞬間、棟方さんは急に席を立って私の作品の所にやって来て、係員から額に入った版画を奪い取るようにして床の上に置き、額のガラスの上から私の作品を掌で撫でまわし、「凄いなぁ、凄いなぁ……」と、あの特徴的なだみ声で呟きながら延々とその動作を続けた為に、審査が30分近く完全に止まってしまったのだという。…………棟方志功。この20世紀の日本美術を代表する巨人の名前はもちろん知っていたが、私はこの美術展の審査員に棟方さんが入っている事など全く知らなかった。しかも、その棟方さんが私の作品を見るや、そういう行動に出た事など、係員から言われるまで私が知るはずがない。……私は話を聞きながら、あの棟方志功の顔が浮かんで来たが、私の作品とその顔が今一つ、どうも結び付かないでいた。式の会場の中に行こうとすると、その係員の人が「今日、棟方さんが来られますので」と告げてくれた。

 

……授賞式が進んでいったが、しかし棟方さんの姿は会場に無かった。「まぁ、そういうものだろう」、私がそう思ったまさにその瞬間、会場にざわめきが走り、紋付き袴姿の棟方志功さんが、頭のてっぺんにかんざしをグサリと突き刺した奥様と同伴で突然現れ、そのまま壇上に上がった。確かにもの凄いオ―ラをこの人は放っていた。……挨拶の第一声は、今でもありありと覚えているが、「夫婦の枕は長まくら!!」であった。……つまり、式に遅刻した言い訳を、先ほどまで夫婦の愛の営みをしていたのだから、まぁ、そこは……と天衣無縫の表情で笑いながら話して、会場の雰囲気を一瞬で自分の話術に引き込んでいく。棟方さんは最初は上機嫌で笑顔であったが、版画部門の審査の話になるや表情が一変して鋭い口調になり、激しい怒りの表情へとそれは変わった。会場は一変して静かになり、ただ棟方さんの言葉だけが響いてくる。棟方さんの話でわかったのであるが、今回の審査で絶対に納得いかない不正があり、それを糾弾し始めたのである。棟方さんは私の作品を版画部門の受賞だけでなく、大賞に値する作品として強く推したのであるが、大賞は既に審査の事前に内々で決まっていたらしく、その受賞者は県の教育委員会関係の御曹司らしい事が、棟方さんの口からズバズバと明らかになっていく。最近よく話題に上がる「忖度(そんたく)」である。「北川さんのあの作品が、どうして大賞にならずに、そんな作品が大賞に決まるわけですか!!……そんな馬鹿な話がありますか。私はこんな馬鹿げた美術展の審査はもう絶対に今後やりません!!」。……棟方さんの怒りを込めた熱い語りはさらに続いたが、私の名前が何度も棟方さんから出てくる事に、私は自信へと繋がる熱いものが湧いてくるのを覚えていた。大賞の賞金は当時の100万円とパリ一年間の留学であるが、私は大賞よりも、遥かにもっと大きな、作家としての今後に繋がる大切な物をこの時に棟方さんから貰ったのであった。駒井哲郎氏からは既に評価を受けており、その後に出会う池田満寿夫氏や浜田知明氏、そして、パリで一緒に展示された、国際的な作家のジム・ダイン氏から受けた評価とはまた別なものが、棟方志功という人にはあるのである。当時まだ20才そこそこであった私に、しかし、この出会いと作品への評価はあまりに大きく、いま思い出しても貴重なものがあった。……式場の帰りに、私は棟方さんと握手を交わし、一緒にエレベーターに乗ったのであるが、この時に棟方さんの本領が発揮された。……棟方さんは、突然このエレベーターが欲しい!!、どうしても家に持って帰りたい!!と子供のような駄々を本気でこね始めたのであった。私は笑いながら、同乗している棟方さんの奥様を見ると、(またいつもの癖が始まった!)と呆れ顔であり、横にいた土方定一氏も爆笑されていた。……棟方さんは、その二年後に亡くなられたのであるが、私の作家への過程における巨きな恩人であり、今もその特異な存在の記憶は昨日の事のように煌めいて在る。……あの日、棟方さんと別れた数日後に、土方定一氏から一通の葉書が届いた。その手紙には、君はもうあのようなレベルの美術展ではなく、もっと高みの上を目指せ!!……という内容の文面が綴られていた。土方氏は、死後もまだ無名だった松本俊介を世に出す契機を作るなど、信じられる慧眼の人である。私はそれに従い、立体や大きな平面に混じって版画は画面が小さいので審査の上で不利である事は承知の上で、当時最大の難関であった現代日本美術展に応募し、ブリヂストン美術館賞を受賞したが、その時の審査委員長であった土方定一氏の強力な推薦があったときく。……とまれ、私は折に触れて、棟方志功という稀代の才能が産み出した作品を観る度に、あの日の貴重な、そして不思議な導きに充ちた〈一期一会〉という人生の妙を覚えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『鏡の皮膚』 

日本橋高島屋・美術画廊Xで開催される個展が少しずつ近づいてきた。今回の会期は11月8日(水)から27日(月)迄であるが、新しいアトリエでの制作はいま正に佳境に入っている。今年で連続9回目、高島屋のこの個展だけで制作した作品数は、延べおよそ600点以上。それ以外の画廊で発表した個展の新作を合わせればかなりの数になる。……そして、作り出して来た全ての作品がコレクタ―の人達の収蔵に入っている事を思えば、間違いなく私は表現者として幸運な人生を歩いていると思う。……24歳で作家としてデビュ―した時に、私の個展の総指揮を担当された池田満寿夫さんは、「これからはコレクタ―の人達と共に歩む事、作品は今後も発表する際には若い人にも購入可能な価格にする事、作品が優れていれば間違いなく自ずから評価され上がっていくから。」というアドバイスを頂き、私は池田さんを信じて先達としての言葉に従った。そして24歳時の第1回目の個展で発表した版画は1点2万円で発表されたが、出品点数25点、エディションは各20部、計500点が1週間の会期中にすべて完売となった。この記録は今も破られていないという。……ニュヨ―クの池田さんからは祝電が届き、私はプロでやっていく自信を固めたが、はたして池田さんの予言どおり、その時に発表した作品の評価価格は、現在は10倍から20倍以上となり、今もコレクタ―の人達の愛蔵するところとなって大切にされている。作品は私の手元を離れて、その人達の各々の人生の中に深く関わっていっているのである。……後年もこの池田さんのアドバイスを私は守り続け、自分が版元となって版画集を8年間で七作次々と精力的に刊行したが、いずれも刊行して3ヶ月間くらいで全作が完売となった。……何より一番大事な事は、作品がコレクタ―の人達にコレクションされる事。……そして、自らを模倣せずに次々と新たな可能性に挑戦していく事。……版画からオブジェに制作の主点は変わったが、先達が遺し伝えてくれたこの言葉を、今も私は金科玉条のごとく守り続けているのである。

 

さて、高島屋の個展であるが、今回の展覧会タイトルは『鏡の皮膚―サラ・ベルナ―ルの捕らわれた七月の感情』である。……私はいつも個展の制作に入る前に、先ずは展覧会のタイトルを決める事から入っていく。言葉とそれらが孕むイメ―ジのあれこれをまさぐりながら、現在形の自分が、今、何処に在り、未生の新たな「語り得ぬ」もののアニマと姿が何であるかを、あたかも気象観測のような視点で、あたかも稲妻捕りのような素早さで絡め捕る事から始まるのである。……そして、タイトルが決まるや、私の視線は集中し、一気に制作に入っていくのである。高島屋の個展案内状は制作の着手が早いので、8月の後半にはもう形が出来上がっているが、私は案内状のデザインにも深く関わっている。……展覧会の案内状とは、その展示内容の表象であり、また象徴性をも孕んでいる伝達交感の大事な関係だと思うからである。……天才舞踏家の土方巽が、「新作の案内状を送った時から舞踏はもう始まっている。」と何かに書いていたのを読んで、確かに!!……と私は蒙を拓かれたのであったが、以来、私は案内状にはこだわりを持ち続けている。……高島屋美術部も同じ理念を持っているので、レイアウト、印刷の校正は徹底して臨んでおり、今度10月3日は、その三回目のチェックが予定されている。……ただ、案内状を発送するのは、私は会期初日の4日ばかり前に届くように送っている。会期が三週間と長いので、そこを考えての事である。だから、このメッセージでの早い時点でのお知らせは、とても大切な意味を持っているのである。…………アトリエで出来上がっていく新作のオブジェを見ながら、私はそこに自分の新たな現在形の姿を、ある種の驚きを持って見つめている。………………さて、次回のメッセージは、強烈なインパクトを持った棟方志功さんが初登場する予定。乞うご期待。

 

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『白黒はハッキリと!!』 

今から27年前の1990年の晩秋のある日、私はスペイン・カタロ―ニャ自治区の北東部にあるフィゲラスのダリ劇場美術館にいた。前日にダリのアトリエ(通称―卵の家)のあるカダケスで過ごし、早朝のバスで、ダリの生地であるここフィゲラスに着いたのである。……奇想の画家・サルバド―ル・ダリの作品が数多く収蔵展示されているこの美術館は、元は朽ちた劇場であったのをダリ自らが設計改造して美術館に作り替えたものである。……部屋ごとに集められた数々の作品を観て行くと、突然、何も展示されていない全くの白くて広い部屋に行き当たった。(……ん、何だろう!?)。見ると、他の観客達はただの通路だと思ってみな足早に取り過ぎて行く。私はふと足下から強い気が来るのを感じて下を見た。……その床面には、「Salvador Dali 1904―1989』と銘が彫られており、私はそれが白い墓石であり、昨年亡くなったばかりのダリの遺体が、この足下の更に深くに眠っている事を知ったのであった。

 

……その墓が掘り起こされて、ダリの遺体がDNA鑑定されるという。……何とも穏やかでない話であるが、事の発端はダリの隠し子だと名乗る女性(マリア・ピラル・アベル・マルティアというタロットの占い師)が現れた事で、ダリの財産(約500億円……意外に安いのは、晩年に近親者たちが勝手に使い込んでいた為)を管理しているダリ財団と、この占い師をめぐって、遺産の相続に絡んだ権利問題に発展しかねない情況が出てきたからである。遺体をDNA鑑定する事を命じたのはマドリ―ドの裁判所である由。そして今年の7月に調査が始まり、先日、結果が出て白と判定され、この占い師には調査に要した多額の費用の賠償請求が近々に課せられるという。………………実は、結果が白である事は、私は当初から既に読んでいた。私事になるが、2004年に刊行した拙著『「モナリザ」ミステリ―』(新潮社刊)所収の「停止する永遠の正午―カダケス」で、ピカソ・ダリ・デュシャンを登場させたが、私はその執筆に際し、多くの資料や逸話までも動員して彼らの下半身事情―いわゆる性癖までも徹底して調べあげていた。その結果、確信を持ったのであるが、ダリは自らを蟷螂(雌に食べられる雄のカマキリに自身を同化する、男性性における性的な不能者)に見立て、ダリの頭上に君臨するガラの横暴に耐える事にのみ性的な恍惚を覚えるという、徹底した受動体であったのである。ダリの「隠し子」と名乗るその占い師が、ダリと自分の母親が関係したと主張する時期は、既にダリはガラの徹底した管理下にあったカダケス時代であり、精神的にも肉体的にもダリの実体の近似値を他に求めれば、浮かんでくるのは、あの谷崎潤一郎の『春琴抄』に登場する丁稚のマゾヒスト・佐助に限りなく近い。……ひたすら堪え忍ぶという忍従の徹底から放射する、独自で特異な美の結晶。谷崎は、マゾヒズムを極める事で、それを超越した耽美主義の誰にも真似の出来ない絢爛たる隱花を咲かせたが、ダリもまた独自な偏執抂の月下の美を顕した。ダリが美の規範(カノン)とした基準は〈可食的であるか否か〉であったが、自身の徹底した受動体の価値を、そこに合わせ見ていたように私には思われる。…………それはそうと、今回の、墓を掘り出してダリの遺体を調査するという話から思い出したのであるが、フランスでは数年前に、ジャンヌ・ダルクを火刑にしたその遺灰からDNA を調査する試みが実施されたというが、15世紀初頭の人物にまで調査する対象が向かうという、その白か黒かの徹底には、痒い所に手が届くという観があって私は好きである。……話を日本に変えれば、「坂本龍馬暗殺の真相」をめぐって何百冊もの本が書かれてきたが、その詰めになると皆一様ですっきりとしない。中岡慎太郎が最後に語り遺したという、死客達の斬り込み状況のみを信じて、それを鵜呑みにしているが、ズタズタに斬られて断末魔にある中岡慎太郎に、定番として語られているような暗殺時の状況を冷静に振り返って語れる筈がない。真相は、薩摩あるいは土佐の政治的な理由に拠って周到に隠蔽された観が強いのである。……いっそ、東山霊山に埋葬された龍馬、慎太郎、そしてその後に埋葬してある藤吉の遺骸(三人とも樽の中に座ったままの土葬)を掘り出して、その頭蓋骨や肩、背骨に残る刃傷痕の強弱、深浅を調べれば、より確実で具体的な惨事の状況と、新たなる真相が見えてくるのになぁ……と、京都に行って墓参の度に焦れったく思う私なのである。もっとも、調査を実践した場合、翌日の朝刊の一面を飾るトップニュ―スになる事は間違いないであろうが。……そして、その龍馬の墓の同じ場所から、三人以外の、(伏せられている)もう一人の人物の少量の骨が出てくる事は間違いない、云わば知る人ぞ知る……の真相であるが。その小さな骨が、龍馬の妻―明治39年に亡くなって、その遺言により、妹の光枝によって横須賀の信楽寺の墓以外に分骨されたお龍その人である事を知って、……これもまた話題になる事は間違いない事ではあるが。………………

 

 

 

 

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『狂った夏の終わりに』 

8月25日、東京芸術劇場に勅使川原三郎氏のダンス公演「月に吠える」を観に行く。以前に私はこのブログで、彼の表現に於ける実験性と完成度の高さが共存する事の稀有な素晴らしさについて言及したが、それに加えて、知的洗練と原初的な獣性が同居する事の凄みにもまた触れるべきかと思う。月に吠える―萩原朔太郎。このイメ―ジのネクロフィリアの詩は、梶井基次郎、川端康成に通ずるものがあり、その湿った鈍い光は、私の初期の銅版画のマチエ―ルに深く吸収されていったように思われる。……この日に観た勅使川原氏の多彩多層な変幻と対を成すかのように、佐東利穗子さんの綾なす〈イノセント〉が、この舞台に不思議な艶を醸し出していた。無垢から無限まで、佐東さんの表現領域もまた無尽へと射程の拡がりを見せている。……公演終了後、私は興奮の汗の生々しく残る楽屋に行き、氏に「芸術というものは、虚構が紡ぎ出す砂上楼閣―水晶伽藍だと思っていたが、こと勅使川原氏のダンスに於いては、それだけでは言い切れない別なものがあるように思う」と語った。別なもの、……全ての概念を捨て去った身体の、更なる否定と懐疑の後に初めて立ち上がる、それは特異な未だ名付けえぬ領域に棲まうものなのかもしれない。

 

9月1日。昨年の今日、私は撮影のために、パリとブリュッセルに向けて出発した日である。……その時の成果は、今年の5月、日本橋濱町のギャラリ―・サンカイビでの写真展「暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように」で発表した。……パリでは、ISが次にテロをやるとしたら何処を狙うか……という話を友人として、私は、「ル―ヴル美術館かノ―トルダム寺院が危ないな」と話をしていた、まさにその時、直前に未遂で捕まったものの四人の女性テロ集団が、私が正に言ったノートルダム寺院に向けて、爆弾を積んだ車で突進するという事件があった事を、深夜のニュースで知った時には驚いた。

 

9月2日、恵比須のギャラリ―・LIBRAIRIE6で、澁澤龍彦没後30年展の第Ⅰ部「石の夢」に展示してあったパエジナ・通称―「風景大理石」を予約していたのを引き取りに行く。この石はイタリアの或る山でしか採れない石で、砕くとその断面に、不思議な支那の寺院や、カタストロフの光景、或いはタ―ナ―が描いたような落日の光景……が浮き出ていて、私達の想像力を煽ってやまない石なのである。ゲーテやミケランジェロもこの石に魅了され、そのコレクションをしていた事は、よく知られている。以前に英文学者の高山宏氏からの依頼で私は丸善で刊行している冊子に、この石について書いた事があるが、澁澤龍彦氏や、ロジェ・カイヨワの著書にも度々登場するのでご一読をお勧めしたい不思議な石である。……「絵のある石」パエジナは、わがアトリエに来て、ルドンやジャコメッティ、ゴヤ、川田喜久治、ホックニ―、ベルメ―ルといった秀作の中に混じって、壁面の一角に掛けられた。……そしてその不思議な波動を受けながら、私は秋に迫った個展、11月8日から11月27日まで日本橋高島屋本店・美術画廊Xで開催される個展に向けて、いま制作の真っ只中にいるのである。アトリエに設置した巨大なテ―ブルの上には、微温を帯びた不思議な漂流物のように、新作の未だ名付けえぬ物たちが次々と並べられており、その出番を待っているのである。

 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART③ 

前回の続き。……ロンドンのイ―ストエンド地区は、旅行ガイドブックには載っていない、今もなお不穏な気配のする危険区域である。ロンドン塔からさらに東に行ったその先が、5件の売春婦連続殺人事件の5つの現場がある地域―ホワイトチャペル界隈である。犯人の切り裂きジャックの事件と同時期に、デビット・リンチの映画『エレファントマン』の実際のモデルとなった人物―ジョゼフ・メリックもまた、このホワイトチャペルにある興行小屋で異形な見せ物として、観衆の好奇な視線に晒されていた。……つまり、そのエレファントマンを観る観衆の中に、切り裂きジャックが紛れ込んで観ていた可能性は充分にあるのである。……さて、事件から103年が経った1991年の夏の或る昼下がり、私は仁賀克雄氏の著書『ロンドンの恐怖・切り裂きジャックとその時代』(早川書房刊)1冊を持って、5件の現場全てを見て回っていた。最後の犠牲者となった売春婦メアリー・ジェ―ンは、「間違いなく次は私の番だわ!」と言い残してパブを出て数時間後に予言どおりに殺された。その彼女が最後に入ったパブに入り、私もまた喉を潤したが、出されたビ―ルは生温く、半分だけ飲んで、最後の現場―彼女の自宅跡のあるミラ―ズコ―トへと歩を進めたのであった。

 

〈切り裂きジャック〉という名前は、犯人が自らつけた名前である。びっくり箱の事をJack in the boxと言うが、深夜に闇の中からまさに突然ナイフを持って躍り出てくる犯人には、まさしくピッタリのネ―ミングかと思われる。……さて、ジャコメッティに話を戻すと、ここに、売春婦の喉を切り裂く犯人〈切り裂きジャック〉の行為と重なる異形なオブジェがジャコメッティに在るから面白い。『Woman with Her Throat Cut』(喉を切り裂かれた女)。画像を掲載したが、極めておぞましい戦慄きわまりない、この作品。見た瞬間に、喉を掻き切られたような触覚的な恐怖感覚に誰しもが襲われる。……このような加虐的なオブジェを作っていた前期は、父親の死を契機にピタリと終わり、一転して私達の知る、あの細く長い彫像へと一変する。……多くの論者は、ジャコメッティの前期と後期を分けて語る向きがあるが、私は前期、後期は表象の違いを越えて、その本質は変わらずに繋がっていると考えている。……その変わらない低奏音に流れているのは、彼に固有の呪われたオブセッション(固定された脅迫観念)とフェティシズム(性的倒錯・呪物崇拝)であろうかと思われる。その資質、感性の澱みの奥から突き上げて来る破壊衝動は、彼にあっては芸術という形而上学の衣裳を帯びた、しかし、その本質は犯罪者のそれ(破壊衝動)である。……今、私は自分がコレクションしているジャコメッティの銅版画『アトリエの光景』を前にして、この文章を書いている。アトリエの中の二点の彫像を表したその作品から静かに伝わってくるのは、3次元の空間への像(イマ―ジュ)の顕在化よりは、消し去りたいという、像の抹殺的な破壊衝動の方が、そのベクトルの引き合いに於て勝っているように思われる。

 

……オブセッションとフェティシズム。私はジャコメッティに沿って書いているが、しかしこの2つの云わば病める病巣は、突き詰めれば、実は芸術に関わる者には必須の資質であると思っている。……例を挙げれば、ゴッホ、ムンク、ベ―コン、ダリ、キリコ、ス―チン、クリムト、シ―レ……などと次々と浮かんで枚挙に暇がない。その過剰で強度な感性の突き上げの果てに、芸術という美の毒杯、ポエジ―という能う限りの危うい華が顕在化するのである。(この稿・終わり)

 

 

 

 

 

 

 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART②

前回の続き。……さて、ジャコメッティ展の会場の中は、前期のシュルレアリスムに接点を持つと見ていいオブジェの展示から始まっていた。拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも言及しているが、殺意に充ちた白日夢のようなヴィジョンの開示に、会場の観客は息を潜めている感がある。更には僅か数センチの高さしかない女の全身像に観客は一瞬、息を呑む。人々はそこに実存主義的な概念を、或いはオブセッション(強迫観念)的な感覚の放射を絡め見るかもしれないが、これらの表現のオリジンは、顕かにエジプト美術に見る極小の呪詛的彫刻を範としたモダニスム的な変容である。…周知のように、ジャコメッティの着想の源は、フラ・アンジェリコやデュ―ラ―などの古典絵画から得ている事が多いが、そのオリジンを読み解く事もジャコメッティ展の1つの楽しみであろう。……さて、私は本展で気になる作品に出会った。それは折れたスプーンの先端を巨大化したブロンズの作品で、タイトルは女性の像とある。スプーンの反りが、見立てとして、つまりは女性の内臓を根こそぎえぐりとったイメ―ジと重ねているわけで、彼の内なる御し難い加虐的なサディズムの映しを、私は、前期のシュルレアリスム的傾向の強い時期のオブジェ群から変わらずに在るものとして、そこに見て取った。僅かな距離の絶対視、存在、出現、消滅……といった正面性(フロンタリティ―)からの論点のみジャコメッティは語られる観があるが、かつてピカソがジャコメッティ論の白眉として高く評価した、ジャン・ジュネの著した『ジャコメッティのアトリエ』の中の1節「ジャコメッティは同時代の人々のために仕事をするのでもなければ、来たるべき世代のためでもない。彼は死者たちをついに恍惚たらしめる立像を作るのだ。」という記述にもっと注視すべきであろう。……〈死者たちをついに恍惚たらしめる立像〉。この一行の中に、あまりに美しい表現としてのエロスとタナトスが孕まれているのである。……そう、彼の内なるエロスへの傾きは、顕かに至近的にタナトス(死神、死への誘惑)へと直結しており、その強度な濁りの内から、彼の特異なヴィジョンは立ち上がっているのである。……その知られざる一例として、彼は「売春婦」という言葉と存在に病的なまでの拘りと執着があり、そこに過剰な破壊的衝動、つまりは死に至らしめたいという、自身の闇のフェティシズムについて、密かに告白してもいるのである。逸話を話そう。……ジャコメッティの妻はアネットであるが、カロリ―ヌという名の愛人がいた。彼女の職業は高級娼婦である。ジャコメッティは、前回のブログでも記したが、自身は清貧に甘んじながら、愛人の娼婦には莫大な金を与え、その娼婦は真っ赤な巨大な外車を乗り回して、深夜のパリを絶叫しながら走り回っていたという。この話から私が連想するのは、パリを巨大な鳥籠に見立て、その中で羽ばたく下品な声を放つ真っ赤な鳥のイメ―ジである。その鳥は自由に放たれて見えるが、パリという巨大な鳥籠の檻から遂に逃れる事は出来ない、詰まりは飼い殺しの、ジャコメッティの視線の内に常に在る。……閑話休題、そのような事を想いながら、更に展示会場を進むと、ジャコメッティのアトリエを中心とした付近の地図が掲示してあった。……それを見て、私の中に推理の閃きが走った。ジャコメッティのアトリエの近くに娼婦街がある事を知ったのである。……ジャコメッティが、ここモンパルナスのその地にアトリエを構えた、もうひとつの秘めた意味が、夜のパリの闇のイメ―ジの内にうっすらと見えて来たのである。……誰も書かない、もうひとつのジャコメッティの病巣、そこからインスパイア(つまりはインスピレ―ションの動詞形)する強度なまでの彼の表現。……私はそんな事を想いながら再び地図を眺め見た。先ほど記したジャコメッティの娼婦への拘り、そして、内臓を根こそぎえぐり取ったその加虐的なイメ―ジの女の彫像。…………するとパリのその地図は一転して、ロンドン・イ―ストエンド地区、ホワイトチャペル界隈の地図と重なって見えて来た。…………1991年の7月の或る日、私は、そのホワイトチャペル・バックスロ―界隈の中にいて、ヴィクトリア時代の霧の中に消えた一人の男の影を追っていた。……1888年の春から晩秋にかけて、この界隈で一人の男が疾風の如く駆け抜けて五人の娼婦を殺害した。世にいう〈切り裂きジャック〉である。……そしてその被害者の内臓は鮮やかな刄の捌きによって、全てえぐり取られていた。……あろうことか、ジャコメッティと切り裂きジャックの二人の暗いシルエットが、私の内で最も近似的な存在として重なって来たのであった。 (……続く)

 

 

 

 

 

 

 


 


 

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『ジャコメッティVS切り裂きジャック』PART①

 

先日、制作の合間を縫って国立新美術館で開催中のジャコメッティ展を観に行った。……以前にパリに撮影で出向いた際に、たまたまポンピドゥ―センタ―で開催中の大規模なジャコメッティ展に出くわした事があったが、ここの展示は見事であった。キュレ―タ―の質が高く、知性とハイセンスが相乗して現在形の1つの優れたジャコメッティ論考の豊かな高みにまで達していたのである。興味深い展示資料も多く、実際に解体保存してあったアトリエまでも再現して会場で見せているのであるが、その徹底には感心させられた。やはり作者が生きていた本場ならではの強みなのであろう。……さて今回の会場には、ジャコメッティが通ったモンパルナスのカフェ・ドフロ―ルで寛ぐジャコメッティの珍しい映像が上映されており私の気を引いた。そして、私は面白い逸話があったのを思い出した。……ジャコメッティは早朝まで制作に没頭し、ようやく終わるや、近くのモンパルナスのカフェに来て、朝食のパンと茹で卵を食べるのが日課であるが、しかし制作の余熱が残っている時には、カフェの伝票や新聞に、先ほどまで取り組んでいた肖像の残余の面影をボ―ルペンで描くのである。会場には、その時に描いた作品が数点展示されていたが、これにはちょっとした挿話がある。……ジャコメッティは、その描いた紙を描き終えるや、テ―ブル下の床に執着なく次々と落としていく。……下世話な事を書くが、その価値や1枚が数千万円。……それが何枚も床に残されたままにジャコメッティはアトリエへと帰って行く、それが早朝の彼の日課なのである。…………さて、ここに一人のギャルソン(カフェの給仕)が登場する。この男は目敏く、床に落ちている作品を日々集め続け、相当な数に達していたという。またもや下世話な事を書くと、既にして数億の財産を彼は手にしているのである。誰が見ても優れた作品であり、それだけで明らかにジャコメッティ作とわかるのであるが、この男は価値の倍増を思いつき、ある日、あろうことかジャコメッティ宅を訪問し、ジャコメッティに各々の作品にサインを要望したのである。……当然な事であるが、持ち込んだそれらの作品は全てジャコメッティに没収され、それらの作品は契約先のマ―グ画廊の収蔵と化した。この話、私は大好きな話でたいそう気に入っている。……肩を落として去っていくギャルソンの後ろ姿に、晩秋に散るマロニエの葉が重なって、その日のパリはたいそう哀しいのである。……さてこの逸話と対照的な話が1つある。……それはダリとガラの話であるが、ダリは閃きの画家なので、ジャコメッティと同じく、カフェの伝票などに奇想的な絵を描き、また同じく床へと次々に落としていく。しかし、ダリのマネ―ジメントを(ダリの人格権までも!!)管理していたガラは徹底していた。ガラは、床に落ちるその作品をその場で徹底的に回収し、残す事なくその場から全て持ち帰っていたという。ダリの価値が下がる事に対する病的なまでの過剰な神経を注いでいたのである。…………逸話には、その人間像の知られざる側面がもうひとつ見えてくるものがあって、なかなかに面白いものがあるのである。(続く)

 

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『Morisotに恋して』

……突然であるが「模写」というものはいい。頭ではなくて、手と眼を通した色彩や線のなぞりからは、模写の対象であるその画家の、描画の際に移行していく意識や逡巡さえも伝わってきて、実に豊かなエッセンスの吸収や、作品への理解が出来て、実作者にしか見えない様々なものが身に付いてくるのである。筆法は文体にも似て、作者の密なるものがそこから透かし見えてくるのである。……高校生の頃は、よくこの模写をした。日本では佐伯祐三、西洋絵画では主にモネ、ドガ、そしてセザンヌあたりを熱心に模写したものである。しかし、マネはやがて卒業して、むしろ前代のマネやタ―ナ―に私の関心は移っていった。特にマネはどうしても解けない知恵の輪のように平明でありながら、その実は不可解な謎に充ちている。その謎の最大なるものは、マネはモネ達の新しいイズム、つまりは印象派の価値を最大に認めて支援しながらも、何故マネは、近代のその先へと進まず、足踏みするように自らを前代の中に押し込んでしまったかという謎である。

 

マネ(1832~1883)のその意識の深部に迫るべく、同時代を生きた、例えばボ―ドレ―ル(1821~1867)と比較して検証がなされる事が多いが、視点が社会学の域を出ていない為に、検証はきまって尻切れ蜻蛉に終わっている事が多い。……しかし、社会学ではなくて比較文化論的に絞って考えると意外に見えてくるものがある。つまり、西洋の謎を東洋の地―日本に移してみると、似たケ―スに辿り着くのである。その対象とは、マネとほぼ同時代を生きた明治の時代の人、夏目漱石(1867~1916)や森鴎外(1862~1922)と、モネ(1840~1926)とはやや遅れるが大正時代の人、芥川龍之介(1892~1927)や志賀直哉(1883~1971)を比較してみると面白い事が見えてくる。その検証の切り口として、乃木将軍の殉死(明治45年―1912年)の例を考えてみるとわかりやすい。乃木将軍の死に際し明治の人はこぞってショックを覚え、、漱石は『こころ』を、そして鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いているのに対し、芥川は乃木将軍の死に突き放した違和感を覚え、志賀は日記に「下女かなにかが無考えに何かした時と同じような感じがした」と素っ気ない。つまりは成長と共に形づいてくる個人の意識よりも、いつ生まれたかという時代の衣装、さらには意匠に、先ずもって決定的に我々の感受性は括られているという事が、このケ―スから見えてくるのである。マネがモネの才能や次代のモ―ドに理解を示したのと同じく、漱石は芥川の新時代の才能や更なる文学空間の拡がりを理解して芥川を文壇へと導いたが、自身の理念は生涯、明治の人であり続けたのと重なって来よう。私事になるが、私が美大の学生時に最初に出会って意識した表現者としては、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎がいた。影響力のある人だけに、学生達は教祖を慕う信者のように、駒井の世界こそが銅版画の範であるかのごとく染まっていったが、二十歳の私はかなり醒めていた。駒井の感性のリアリティ―をいたずらに模倣する事に危険を覚え、何よりも、自分の表現空間の有り様を未知の方に見て、自分のリアリティは駒井哲郎とは違う、まだ先の地平に待っていると確信していたのである。……そして結果は正しかったと私は今、断言出来るのである。……これは表現者の場合だけでなく、普遍的に、人は誰もが、その生まれた次代軸の座標によって、感性を揺らしながら宿命的に生きていくのである。

 

……さて話をマネに戻すと、最近私はマネが描いた不気味な「ベルトモリゾ」の肖像が存在する事を知って驚いた。近代絵画の中で最も美しく描かれた一人に、マネの弟子であった画家のベルトモリゾがいる。美形のモリゾをマネはよほど気に入っていたらしく、およそ10点ちかいベルトモリゾの肖像が残っている。……美しかりしベルトモリゾ。しかし、もう一点のグロテスクな婦人像もまたベルトモリゾである事は、最近まで知られていなかった。……モリゾと親交があったルノア―ルでさえ「ヴェ―ルを被ったとても醜い婦人像」と記して気付いていない。またベルトモリゾ自身が「私は醜いというか、奇妙な姿をしています。詮索好きな人たちの間では妖婦と呼ばれているようです」と、姉に宛てた手紙に書き送っているが、確かにこのグロテスクな肖像は、ゾラの小説『ナナ』の娼婦像の悲惨を越えて、私がかつてロンドンで追い求めた『エレファントマン』の骨格標本(ロンドン病院所蔵)に似て、あくまでも怪異である。しかし、この二点は共に同年の作というから、そこから否応なしに画家とモデルとの私小説的なドラマが見えて来よう。さらには日記の秘められた叙述のようなものが……。ちなみにベルトモリゾは、マネの弟のウジェ―ヌと1874年に結婚しているが、この二点が共に描かれたのはその2年前である。……ピカソの主題は常に私小説的であり日記のようなものであったと云われるが、ピカソに限らず、表現者の創造のアニマとヴェクトル、そして表現の衝動はみな、日常の実人生の中から立ち上がってくる。日常性から形而上への性急なる昇華。その現場に立ち入れないところに、或いは評論の限界なるものも、あるように思われるのである。

 

 

 

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『突然、喉が……』 

先日、スパンア―トギャラリ―のオ―ナ―の種村品麻さんと話をしていたら、実に嬉しい逸話を話してくれた。品麻さんのお父上はドイツ文学者の種村季弘さんであるが、この人の眼力は三島由紀夫も絶賛したくらい、物の本質を見極める名人である。種村さんは、美術家から依頼されて個展の序文も書かれるので、その御礼や交遊の記念にと、美術家たちは自作をプレゼントするので、種村さんのコレクションの数たるや実に多い。この点は双璧と評された澁澤龍彦さんと似ている。北鎌倉の澁澤さん宅に今に残るコレクションもやはり多くの寄贈から成り立っているのである。……その種村品麻さんいわく、「親父が自分で購入したのは、北川さんとハンス・ベルメ―ルの作品だけですよ」と。……確かに拙作の『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』は、種村さんを特集した日曜美術館でも特別に愛蔵されている感じで映像に流れた事があったが、それよりも、私が高く評価しているベルメ―ルと対である点が実に嬉しく、私は素朴に喜んだ。そして私の作品について執筆する構想を抱いておられたが、果たせず亡くなられた事の具体的な詳細を私は品麻さんからお聞きした。確かにこれほど自信の裏付けとなる心強いものはない。……しかし、喜びのすぐ後で予期せぬ悲劇が私を襲った。突然声がかすれて来て、遂には言葉が出なくなってしまったのである。品麻さんも私の急な変調を心配されたが、また出直しますよとかすれ声で云って、私は画廊を出たのであった。……度々私を襲うこの奇妙な病気、しかし遂に咽頭癌の症状が出たかと私は焦ったのである。

 

過去に確か4回はあったと思われる、この奇病。さっそくクリニックで診てもらったところ、急性咽頭炎と診断された。全治2週間は要するとの事である。タブレットで調べてみると、美輪明宏さんも患い舞台をキャンセルした由。……歌は歌わないが、喋るのが存在の証しのようによく喋る私にとって、喋れないというのは1種の死刑宣告にも似た酷がある。更にタブレットで調べてみると恐ろしい事が記してあった。この病気が悪化した場合、最悪は喉から肺に至る気道が炎症によって塞がれる為に呼吸不全で死に至るとの由。……2週間経っても快復しないので、内科から耳鼻咽喉科のクリニックに変えてみたら、ようやく改善の兆しが見えてきた。……私はそこの看護婦さんから面白い事を聞いた。声がかすれている為にどうしてもヒソヒソ声で喋るようにしてしまうが、却って声帯の筋肉を弱くしてしまい、治った後もずっと小声になってしまうので、どうしても伝えたい時には、普通の喋りで簡潔に!と教わったのである。私がそれを聞いてすぐに連想したのは、瀧口修造さんの事であった。今では、その存在は伝説と化しているが、その瀧口さんが、全く聞き取れない感じで小声で喋るのは有名な話で、先日読んだ立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』の文中で武満さんも言及しており、かなり聴き逃した貴重な話があった由である。その小声の原因は、奥さんが小声で喋るので、それに瀧口さんが合わせている内に小声になってしまったのである。その瀧口さんの小声での囁きは、あたかも聖なる話の秘技的な伝達であるかのように今日では神話化されているが、事実は声帯の筋肉の衰弱にあったとは面白い話かと私は思う。……今では神話化して伝わっている、その瀧口修造さんが小声で話される現場に偶然遭遇した事がある。……私がまだ美大の学生であった時、銀座の西村画廊で開催中の草間彌生展に行った時に、会場に瀧口さんが座っておられて、その横に草間彌生が座って、小声で話す瀧口さんの言葉を聴き逃すまいとする真剣な姿があった。自分の存在を全く主張しない事によって逆にブラックホ―ルのような強度な存在感を放っている、その老人の姿を最初に見て、ただ者ではない事は察したが、近寄って、その老人が瀧口修造さんである事を知って私もまた緊張したのを今もありありと覚えている。瀧口さん亡き後、その周囲にいた美術家のほとんどが俗世の欲に自身を落としてしまったが、それを思うにつれ、ますます瀧口さんの存在だけがより美しく、より孤高化していく観を覚えるのは私だけではないであろう。……閑話休題、長かったこの病気も日に日に快復してきているので、オブジェの制作もまもなく加速していく事であろう。暫く休んだ分、いま猛烈な創作への意欲が湧いているのである。

 

追記:   先月、ギャラリ―・サンカイビでの個展の時に、私はコレクタ―の土手秀人さんから実に貴重で興味深い贈り物を頂いた。……生前に瀧口さんが愛蔵されていた古い皿である。瀧口さんが亡くなられた後に、瀧口さんのコレクションの整理に関わった骨董商から土手さんへと渡り、そして縁あって私のアトリエに漂着したという次第である。青い絵具で一気に描かれたとおぼしき植物の線が部分的に滲んで妙味があるが、日本の器とは絞りきれない情趣があって面白い。推測するに、その器を諒とした感性を想えば、小林秀雄、永井龍男、堀辰雄、中原中也達と関わりのあった「山繭」の時代に入手した器かと思われる。…………また、画廊の視点から現代の美術の分野を牽引し、今では伝説的な画廊となった佐谷画廊の佐谷和彦さんは長年『オマ―ジュ瀧口修造』展を企画して、タピエス、デュシャン、そして、武満徹さんや駒井哲郎さん達が関わった実験工房と瀧口さんとの関連を軸に展覧会を毎年開催して来られたが、そのオマ―ジュ瀧口修造展の最後の作家として考えていたのが私の個展であった。私は佐谷さんからその企画構想がある事を打ち明けられた時は、荷が重いです、と語ったが、佐谷さんがやって来られた展覧会の唯一無二なレベルの高さを思えば、私は佐谷さんが抱かれた私への評価を素直に受け取って、以後の表現活動に鞭打つ覚悟である。

 

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