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「狂った空の下で書く徒然日記-2024年・狂夏」

災害級の猛暑に、ゲリラ雷雨…。そんな中を先日、馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長・俳人・美術評論家)と11月29日-12月14日まで開催予定の二人展の打ち合わせの為に、名古屋画廊に行って来た。ヴェネツィアを主題に、馬場さんの俳句と私のビジュアルで切り結ぶ迷宮の幻視行の為の打ち合わせである。馬場さん、画廊の中山真一さんとの久しぶりの再会。打ち合わせは皆さんプロなので、短時間でほぼ形が見えて来た。…後は、私のヴェネツィアを主題にした作品制作が待っている。

 

その前の10月2日-21日まで、日本橋高島屋の美術画廊Xで私の個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」を開催する予定。今年の2月から新作オブジェの制作を開始して7月末でほぼ70点以上が完成した。6ケ月で70点以上という数は、1ヶ月で約12点作って来た計算になるが、その実感はまるで無い。私は作り出すと一気に集中し、没頭してしまうのである。…2.5日で1点作った計算だが、しかし上には上がいる。ゴッホは2日で1点、佐伯祐三は1日で2点から3点描いていたという証言がある。…二人とも狂死に近いが、私の場合はさて何だろう。

 

 
…そんな慌ただしい中を先日、月刊美術の編集部から電話があり、横須賀美術館で9月から開催する画家・瑛九展があるので、この機会に瑛九について書いてほしいという原稿依頼があった。…さすがに忙しくてとても無理である。…何故、瑛九論を私に依頼したのか?と訊いたら、私と同じく、画家、写真家、詩人、美術評論…と多面的に彼が先駆者として生きた事、そして瑛九と関係が深かった池田満寿夫さんと、私との関係からであるという。

 

…以前に私の写真集刊行の時に、版元の沖積舎の社主・沖山隆久さんが、印刷に入る3日前に、写真80点に各々80点の詩を入れる事を閃いたので、急きょ書いて欲しいという注文依頼があった。時間的に普通なら無理な話であるが、私は不可能といわれると燃える質である。3日で80点の詩を書き上げた。…その詩を沖山さんが気にいって私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の刊行へと続き、また詩の分野の歴程特別賞まで受賞したのだから人生は面白い。

 

………(とても無理ですね)と最初はお断りしたのだが、今回も瑛九に関して次第に興味が湧いて来て、結局原稿を引き受ける事になり、一気に書き上げた。短い枚数なので逆に難しいのだが、誰も書き得なかった瑛九小論になったという自信はある。

 

 

…しかしそう多忙、多忙と言っていても人生はつまらない。忙中閑ありを信条とする私は、先日久しぶりに骨董市に行って来た。…今回はスコ-プ少年の異名を持つ、細密な作品を作り、このブログでも時々登場する桑原弘明君の為に行って来たのである。

 

…明治23年に建てられた異形の塔・浅草十二階の内部の部屋を、彼は細密な細工で作品として作りたいらしいのだが、外観の浅草十二階の写真は余多あるのに何故か、その塔の内部を撮した写真が一枚も存在しないのである。…先日は、その幻の写真を私が彼の為に見つけんとして出掛けていったのである。(彼とは今月末に、その浅草十二階について語り合う予定)。

 

 

………昔の家族や無名の人物写真、出征前に撮した、間もなくそれが遺影となったであろう、頭が丸刈りの青年の写真などが段ボールの中に何百、何千枚と入っている。…しかし、件の浅草十二階の内部を撮した写真など、見つかりそうな気配は全くない。

 

 

 

 

…私は、次から次と現れる知らない人達の写真を見ていて(…考えてみると、これは全部死者の肖像なのだな)…という自明の事に気づくと、炎天下ながら、背中にひんやりと来るものがあった。……そしてふと想った。…もしこの中に、紛れもない私の母親の、未だ見たことのない若い頃の写真が二枚続きで突然出て来たら、どうだろう。…そしてその横に私の全く知らない男性が仲好く笑顔で、…そしてもう1枚は、二人とも生真面目な顔で写っていたとしたら、さぁどうだろう⁉…と、まるで松本清張の小説のような事を想像したのであった。

 

 

…考えてみると、両親の歩んで来た物語りなど、実は殆んど知らないままに両親は逝き、今の私が連面と続く先祖達のあまたの物語りの偶然の一滴としてたまたま存在しているにすぎないのである。

 

 

 

 

 

 

…ここまで書いて、初めてアトリエの外で油蝉がかまびすしい声で鳴いているのに気がついた。………今は外は炎天下であるが、やがて日が落ちる頃に俄に空が暗転し、また容赦の無い雨が激しく降って来るのであろう。…

 

 

 

 

 

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『占星術vs信長xダ・ヴィンチ』

…かつての春夏秋冬の気象体系はもはや壊れ、抒情的な夏のイメ-ジさえももはや失せ、激しい熱波が支配する、異常な気候となって既に久しい。狂いは加速的に増して来て、今月の後半からは40度越えも視野に入って来る可能性もあるだろう。……さて、今回は前回の後編である。前回は占星術師のSさんが登場したが、今回は安倍晴明、そして次に私が登場する。

 

 

………陰陽師の安倍晴明は幼い時から既にして非凡であったという。未だ少年であった晴明が、陰陽道の師・賀茂忠行の夜行に供をしている時、前方の夜道に鬼の姿を見て忠行に異変を言うと、師は(…お前にも視えるのか‼)と言って驚き、以後は少年の晴明を特訓して天文道を伝授したという。

 

 

…ことほど左様に視え過ぎる、或いは視えてしまう人間の例として、次に私自身について話そう。

 

 

 

 

…天才舞踏家の土方巽が亡くなって数年後の話。…土方巽の夫人で舞踏家の元藤燁子さんが『土方巽とともに』という本を筑摩書房から出す事になり、その装丁者に、種村季弘さんの推薦で私が担当する事になり、土方の遺品や資料を見に宇佐美にある別宅に元藤さんと一緒に訪れた事があった。…その時の事である。

 

元藤さんが玄関を開けて薄暗い中に入った瞬間、私の頭上高く、つまりは天井の暗がりに足を掛けて平蜘蛛のように這いつくばるような姿勢で鋭く突き刺すように私を見ている男の視線を私は敏感に感じ取ったのであった。男は間違いなく土方巽だと直感した。…直後、土方に心酔してこの家の遺品を守っている弟子の青年が奥から現れた。…元藤さんが私を紹介した時に私は青年にこう言った。「ここ、出るでしょ!!」と。…青年はよくぞ訊いてくれたとばかりにこう言った。「毎晩です。夜半になると決まって、この長い廊下を、もの凄い奇声をあげながら一瞬で駆け抜けていくのです‼」と。元藤さんはと見ると、この動じない人は既にこの現象を青年から聞いているようであった。

 

…その日の私は特に視えすぎるようであった。…奥の部屋で、土方巽の為に書いた三島由紀夫寺山修司たちの直筆の原稿を見せてもらっていると、ふと机の下に厚紙で包んであった分厚い物が見えた。私にはそれが何であるかが直感的にすぐ視えた。「鎌鼬(かまいたち)ですね」と私が一言言うと、元藤さんは低い声で(良かったら1冊持っていっていいわよ)と言ったので、遠慮なく頂いた。

 

 

 

 

 

…「鎌鼬」…土方巽を被写体とした、写真家・細江英公の代表的な写真集であり、三島由紀夫を被写体とした『薔薇刑』と共に、この国の写真集を代表する名作である。私が頂いた初版本は当時250万円くらいの評価があった。

 

…後日、細江英公さんにお会いした時に、金のサインペンで署名をして頂いたその写真集はアトリエの中に今もある。…これに絡めて面白い話があった。…澁澤龍彦三周忌の際に挨拶に立った詩人の吉岡実さんがこう言った。「澁澤の魂(霊)は見事に昇天しました。…しかし土方巽の霊は今もこの地上をさ迷っています」と。…また別な時に、美術家の加納光於さんと、横浜山手のカフェで話をしている時に、私が体験する、あまりにもたくさんの、もはや超常現象としか言えない話をすると、加納さんは静かにこう言った。「あなたが、そういう人である事は、最初にお会いした時から私は気づいていました」と。

 

 

…占星術、陰陽道、易学、果ては人相学に手相学と、人類の発展と共に、その道もまた歴史の変遷を歩んで来たかと思われる。…しかし知性の高い合理主義者、実証主義者達の中で名だたる人物達がこれに異義を唱えるように反論しているというのも面白い事実。先ずはダ・ヴィンチから。…彼は自筆の手稿の中で手相学についてこう反論している。「船が難破して砂浜に打ち上げられた死者達の手相を観るが良い、死者達の手相がみな違っていることを知るであろう」と。…私はダ・ヴィンチのこの短い文章を読んだ時、「確かに、実に説得力のある簡潔な喩え」だと感心したものであった。

 

…しかし、今の私は少しく違う。「この喩えは確かに巧い。しかしダ・ヴィンチは言葉だけの比喩で、本当の実証はしていない筈であるし、そこまで遭難者の死体をチェックした者は他にいない筈である。あくまでも机上の論で、現場百回を旨とする刑事の如く、手相のチェックを目的として、砂浜の死体全てをチェックして、まさかまさかの、死者達全員がほぼ似たような手相であったとしたら、…さぁどうであろう。…ダ・ヴィンチの話から一転して、これはけっこうゾッとする話にはなるまいか。

 

 

 

さて次は、中世の常識や慣例を打ち破って近代への扉を押し開いた男…織田信長である。…当時、彼ら武将は己の生年月日を敵方に知られるのを最も警戒していたという。…敵方が行う呪詛への恐怖があったからである。しかし、徹底した知的合理主義者であった信長だけは違っていた。

 

…彼はそれより、産まれた年月日、更には産まれた時間によって運命が決まってしまうという、いわゆる占星学や易学に異義を唱えたばかりか、実際に自分と同じ年月日に産まれた人間が、自分とどれくらい重なるのか、或いは全く重ならないのかを見極めるべく、兵士を総動員して安土城の城下に住まう、その人物を探しだして、城に連れて来て、実際に検分したという。…唯一無比、己を神と思っている信長の事、或いは、城に連れて来られたその男を斬殺した可能性すら、この検分した話からは見えてくる。「信長公記」にはその顛末が記されてないが、ともかく信長という男は徹底した実証主義者であった事は間違いない。

 

 

……さて、ここからは私の物書きとしての想像力が紡ぐ話であるが、これはどうだろうか。……もし…安土城下に信長と同じ年月日産まれの男が他にもう一人いて、兵士達の捜索から逃げ切り、暗夜に安土を離れて、例えば堺に行き、そのセンスの良さ、人柄の順にして忠なるを気に入られ、茶人の嶋井宗室の弟子になったとしよう。…そして…天正10年6月1日、その男は師の宗室と一緒に本能寺へと行く。…翌2日に信長主催の茶会(別名・信長の名物狩り)が開催されるのである。

 

 

…2日の早朝、本能寺の周りに水色桔梗の家紋が突如たなびき、一万以上の明智光秀の兵士が取り囲む。…師匠の嶋井宗室はその動乱の中を空海筆の「千字文」を持ち出して素早く遁走。火柱がもうもうと立つ中を光秀の兵から逃れるようにして、男は奥深い一室へと逃げ込んだ。

 

…そしてそこに視たのは、正に自刃する直前の信長の姿。…一瞬見合う、信長と男。…同年月日、同じ時間に産まれた二人の男達が磁力に引かれるようにして、そこで遭遇する…という、本能寺異聞は如何であろうか。

 

 

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『占星術vs実証主義的人間』

…横浜山手の根岸の坂を上がった所に、相模湾を眺望できるレストランがある。荒井由美(松任谷)の初期の代表曲『海を見ていた午後』の舞台となったレストラン『ドルフィン』である。その眺めのいい坂を少し下がった所に山下清澄さんという銅版画家の友人が住んでいたことがあった。ロマネスク趣味のその作品は三島由紀夫マンディアルグ寺山修司らが評価していた。

 

…ある日、彼の自宅で話をしていると山下さんがこう言った。(僕の知人で女性の占星術師がいてね、実によく当たる。なかなかの美人で確かミス慶応だったと思うけど、裕次郎から映画界入りなどの話があっても彼女は全く関心がなく、ひたすら占星術の技を究める事だけに生きているような女性でね。この世の万象に起きる事や人間各人の運命が、その人間が産まれた時の星の配列と何らかの因果関係があると確信するようになり、ひたすらその技の研鑽のみに専心して生きている不思議な女性だよ。彼女は最近、元町(横浜)の裏通りに店を出しているけど、どう?…よかったら紹介するけど、今から行かないかい?)……私は2つの日本語で返事をした。…ぜひ…と。

 

…その当時、私は横浜山下町の海岸通に住んでいたので、歩いて中華街を越えれば元町はすぐである。…(こんな近くにこんな店があったのか)…そう思って薄暗い店内に入ると件の女性(仮にSさんにする)はいた。確かにSさんは美しい人だと思ったが、それよりは一見して直感力の鋭さを内に秘めたものを私は強く感じた。その時に未だ小学生だったお嬢さんも一緒だった。Sさんはゴヤが好きだというので話が盛り上がり、やがて山下さんと私は店を出た。…後でSさんから聞いた話であるが、お嬢さんは勘が鋭いらしく私達が帰っていった後でこう言ったという。(さっき来た二人で、ママとずっとお付き合いしていくのは、あの北川さんの方よ)と。…そして事実そうなった。またSさんも、私が店内に入って来た瞬間に、普通と明らかに違う鋭い気を放っているのを感じとったという。

 

…その頃は版画をあまり作っておらず、またオブジェの妙に目覚める前だったのでかなり暇な時であった。だから日々の散歩がてらに元町のその店に度々行き、私の中学生時代に体験した(著名な俳優夫妻の幼児が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された事件があった時に、私は夢の中で正にその殺されていく瞬間を生々しくリアルタイムでカメラを回すように透かし視てしまった)話や、その後も思った事が現実になる予知夢を頻繁に視てしまう話などをたくさん語った。…Sさんいわく、占星術の店といっても実際に来る客は、浮気の話や相手を代わりに呪い殺してほしいという俗な依頼ばかりで全く面白くない。…だから、私が話す体験談は、本当の占星術の深みに絡んで来るので実際に面白く、具体的に勉強になるのだと話してくれた。誤解がないように云うが、占星術師といっても、皆がみな万能的に当たるのではない。医者と同じで、ほとんどの者は素人に毛が生えた程度と見て間違いないだろう。

 

…元来、直感力の鋭い人間が古代から伝えられて来た、例えば占星術の場合、カ-ドを介した透視術を更に研鑽する事で漸くその内の何人かだけが本物になっていくのである。…だから依存性の強い人間が客になった場合、占星術を商いにしている似非占星術師にとっては待ってました!の大事な客であるが、Sさんのような人はそういう客は煩わしいので殆ど避けている。……Sさんの場合、資産は潤沢にあるので、食べていく為にやっているのではなく、あくまでも稀人のような手応えのある人物の出現を期して店を開いているようである。

 

私の知人・友人は各々に独自の道を究めている個性的な人が多いので何人かを連れて行きSさんに紹介した事があった。…例えば、この国を代表する詩人の一人であるTさんを連れていった時は特に面白かった。…生年月日をTさんが言うとSさんが机上にカ-ドを並べてこう言った。(ごく最近、とても親しい人を亡くされましたね)と。…Tさんは私に小さく耳打ちし(…吉岡実さんの事だね)と言った。…西脇順三郎以後のこの国を代表する詩人の一人、吉岡実さんはつい数日前に逝去したばかりなのである。……Sさんは続けてカ-ドを読み解きながら、Tさんにこう断言した。(近いうちに大きな賞を取りますね)と。…果たして、二週間ばかりして、Tさんは賞としては一番評価の高い読売文学賞を、故・澁澤龍彦さんと共に同時受賞したのであった。

 

…私はいつも無料で視てもらうのであるが、海外に留学する文化庁の在外研修員の試験の前に開催した個展の時には、このような事があった。…個展が始まる1週間前にSさんは私に次のように助言してくれた。(作品をプリントした紙やきの写真を二枚と、作家としての詳しい履歴書を一枚用意しておいた方がいい)と。…何故なのかは訊かなかったが、ともかく私は用意して個展初日を迎えた。…初日の午後に築地の朝日新聞本社の学芸部長で美術評論家の小川正隆さん(後の富山県立近代美術館館長)が画廊にふらりと来られた。…小川さんは池田満寿夫さんを介して面識はあったが、個展の案内状は出しておらず、また画廊側も出していなかった。…何かに引かれるようにして個展に来られた小川さんはこう言った。(とてもいい個展なので文化欄で紹介したいのですが、作品を撮した紙やきはありますか?)と。私は用意していた作品の紙やきの写真を渡すと、(あぁ助かります。これがあれば直ぐに載せられます)と。…会期の後半直ぐに新聞に写真入りで大きく紹介されたので、人がたくさん来てくれて個展は盛況であった。

 

…小川さんが画廊に来られた時に(そうだ!)と思い、私はこう言った。(実は文化庁の試験に応募したいのですが、小川さんに推薦状を書いて頂く事は可能ですか?)と。…私は群れるのが嫌なので団体展の組織に入っておらず、もう一つの美術評論家連盟は、面識のあった土方定一さんや坂崎乙郎さんは既に故人の為、知己は無かったので、他に推薦状を書いてくれる人が浮かばず困っていた時に、小川さんが現れたのであった。(推薦状、もちろん書きますよ。そうだ、北川さんの経歴を書いた書類のようなものはありますか?)と。…小川さんに履歴書を渡して、間もなく推薦状が送られて来た。…画廊から去っていく小川さんを見送りながら(…そうか、Sさんが用意しておくようにと言ったのは、この事だったのか…と私は思った。

 

……そして、文化庁の留学試験日がやって来た。…版画部門のその年の倍率は確か800倍くらいであったと記憶する。…もちろん自信はあるが、受かる為に事前に裏工作とか必死で仕掛けて来る者がいるらしい。…一次、二次の書類選考を突破して最終選考は面接である。…残った40名ばかりの作家が控え室で自分の名前が順に呼ばれるのを待っている。…私は官庁内の古くて薄暗い天井をぼんやりと見ながら(まるで処刑前の赤穂浪士みたいだなぁ…)と思った。……面接員は左右に役人20名づつ。正面に審査委員長、美術評論家ほか数名の書記官がいた。…この時の美術評論家はよりによって私が最も評価していない人物であった。…よほど私はこの相手が嫌いなのであろうか、喋っている途中から怒りに似た妙な感情が沸いて来て、私は止せばいいのに、この評論家にグイグイと逆に迫った。

 

審査が終わった後で、(あぁ、やり過ぎてしまったなぁ、)と思ったが後の祭。………2週間ばかりして元町のお店に行くとSさんが含み笑いをしながら、面白そうにこう言った。(この前の面接の時、もの凄く強気で攻めていたでしょ)と。…(確かにバンバン攻めましたが、どうしてわかるのですか!?)と訊くと、その面接の時間に私の事が気になってカ-ドで視ていたのだという。……そして、Sさんは笑いながらこう言った。(来年は、北川君は日本にいないと出ているから、大丈夫、受かっているわよ)と。…半信半疑の妙に浮わついた気分のまま家に帰ると、留守電がチカチカと点いていた。…受話器を取ると、録音の声で文化庁からであった。…在外研修員に内定した事を知らせる電話であった。

 

…占星術を信じる人、信じない人、各々にいて当然である。…信じない人、そこに確とした論拠は実は無い。何故なら体験していないから(だけ)である。また依存するように過信、盲信するのも気持ちが悪い。…というより他力本願になり、その実人生に拠って立つ足場が弱くなってしまう。…ただ私のように度々不可思議な事を実体験すると、占星術、またその他にある占い云々といった概念的なものを超えて、何か不可思議な交感の法則めいた絶対律のようなものが、私達の人智や想像力を越えて存在する事は否定できないように思われるのであるが、読者諸兄はどう思われるであろうか?…想えば、無から美という有を引き出す営みとしての芸術も然り、また詩の発生する瞬間に立ち上がる瞬発力もまた何物かとの交感する発火行為に他ならない。…不可思議。…ただそれだけが残るのである。

 

…さて次回は、この占星術に真っ向から挑んだ二人の人物、織田信長とレオナルド・ダ・ヴィンチの知られざる逸話を紹介する予定。引き続きの乞うご期待である。

 

 

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『死にかけていた私』

…前回のブログをアップした後、数日して突然喉が腫れ上がり、声も全く出なくなり、みるみる体調がおちていった。近くのクリニックでインフル、コロナ、風邪…を検査したが何れも陰性。制作の過労で免疫力が落ちているところに何かのウィルスが忍び込んで来たのか。…困ったのは夜中の咳である。一晩中止まらず咳こみ、肺が、そして心臓が白旗を用意しているのが直感でわかる。脈拍がもはや弱い。…2才の時に百日咳をこじらせて危篤で死にかけて以来、気管支が弱く、いわばこれが慢性の私の基礎疾患のようなもの。

 

…深夜に咳き込んでいた時に、ふと思い出した事があった。今から30年ばかり前に占星術師の女性の友人に「私の死ぬ時と死因が何か、前もって知っておきたいので教えてほしい」と興味津々で訊いた事があった。…彼女は既にそこまで独り占いで視ていたのであろう、「北川君が亡くなるのは2024年、死因は気管支の急変」と即答してくれたのを思い出した。…最初に聞いた時は「まだ30年先かぁ、まだまだだな」と思ったのだが、…ふと気がつくと、正に今がその2024年。…そう思った瞬間、天井の上から大きな黒い布のようなものがサァ~っと落ちてくるようで何かに捕まえられているような感覚が…。……ちなみに彼女には、私が気管支が弱い事などは一切教えてはいない。

 

…(そうか、いよいよ今夜…私は逝くのか!?)…そう思うと、最近亡くなった何人かの友人が傍にいつからかやって来ていて、静かに座って私を視ているようで何だかひんやりと静かである。……最後の手段として、熱い首回りに、まるで冷凍庫のようにアイスノンをどっさりと載せると、咳が収まり、いつしか眠りに入って、やがて朝が来た。

 

 

 

 

…私は生きていた。…とりあえずの生還ではあったが、しかし私は覚えている。……占星術を専門にしているその女性は、幽霊船が漂着するように横浜港に、感染者を乗せて寄港したあの時の不気味な日より遥か数ヵ月も前に、私にちかじか世界が大変な事になると予見していたし、またコロナが不気味な拡がりを見せ始めた初期の段階で、このパンデミックのいちおうの終息には最短でも4年はかかると断言していた事を。

 

それらがみな当たっていた事を思えば、この度の生還に安堵するのは未だ早い。…あと半年、2024年は残っているので、心の準備だけはしておこう。

 

 

 

 

 

 

 

…そういうわけで、今日もブログ愛読者の方々に面白がって読んでもらい、気分転換になれば…と、思っていざ机の前に座ったのであるが、10日間以上床についていた為に、かなり体力がおちているらしく、普段のあの集中力の冴えが無い。気分は『風立ちぬ』の堀辰雄のようなものである。

 

 

 

 

 

……次回、体力気力が復活しての第一弾は、その占星術の人との数奇な出逢い、またビシバシと次々に当たっていったその実例に対して、占星術や手相占いに真っ向から否を掲げて挑んだ織田信長レオナルド・ダ・ヴィンチの知られざる逸話をご紹介する予定です。題して『占星術vs実証主義的人間』。…乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

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『昔日の撮影所・あの日あの時』

…ある日、福井県立美術館の当時の学芸員だった野田訓生さんから電話が入った。(…ちかじか世田谷美術館のYさんから連絡が行くと思いますので、よろしくお願いします)との事。…はて?何だろうと思って野田さんに訊くと(世田谷美術館の仕事で世田谷区の文化に関する資料を作っているので、その件だと思いますよ。…北川さんは、昔学生の頃に世田谷の砧にある東宝撮影所でバイトしていたでしょ?)…(やってましたが、どうして知っているのですか?)。… (いろいろと伝わってくるものです)と野田さんが笑いながら言う。…(話して参考になる事など全く無いと思いますが、まぁ、その時はその時で)…数日してYさんから連絡が入り、ともかくもアトリエから近い田園調布駅で待ち合わせの約束をした。…………… (砧の東宝撮影所かぁ、懐かしいなぁ… 。)思い出していくと走馬灯のようにその時の事が蘇って来た。

 

… 20歳の頃は、バイトに明け暮れる毎日であった。昼、バイトをして夕方から世田谷の多摩美大に行き、銅版画を夜半まで制作する日々。…しかし撮影所のバイトはなかなか面白く、テレビや映画の虚構の裏側が生に直で視れて、日々がワンダーランドであった。版画の前は、以前にも書いたが三島由紀夫に熱い気持ちの手紙を出す程に舞台美術を志向していただけに、ア-ティフィシャル(虚構美・人工美)な空間への傾きが私は強いのである。(これは現在のオブジェの人工美を強調した表現へと繋がっているようである)

 

…最初の仕事は『ウルトラマンタロウ』のセットのビルを造る仕事。しかし後日に定食屋などでその放送を観ていると、一生懸命に造ったビルが怪獣に一瞬で壊されていくのである。…(これではたまらん、私に適した仕事をぜひ)と責任者に話して、ウルトラマンタロウの撮影現場に栄転した。(美大の友人何人かが一緒であった。) …ある日、現場に行くと監督が困った顔をしている。…最終回の大事な撮影だというのに怪獣役の男性が無断欠勤との事。…スタッフ連中が、ふと私の友人の安部ちゃんに目を止めた。長身の彼はその代役にピッタリだったのである。

 

(安部ちゃん、凄いじゃないか、故郷の母さんや親戚に自慢出来るぞ)と私が言うと、安部ちゃんもまんざらではない表情。…重くて汗臭い怪獣のぬいぐるみを被った安部ちゃんはうまく動けない。…点滴した患者に連れ添った看護師のように私が怪獣役の安部ちゃんを連れてスタジオの扉を開いた瞬間、私も怪獣になった安部ちゃんにも同時に走ったのは戦慄であった。

 

…今日は最終回。セットの薄暗い平野に自衛隊の戦車が10台ばかり半円状に整然と並び、怪獣は一斉射撃を浴びて今日は瀕死でのたうち回る場面撮りなのであった。(勿論その内容の説明など全く聞かされてはいなかった。)「本番スタート!!」。監督の声に呼応して戦車砲が一斉に火を吹き、リアルなロケット弾が何発も怪獣にぶち当たっていく。…安部ちゃんは、なかなかの迫真の演技。…「素晴らしい!実にいい!」監督の喜声が響くと同時に助監督が「監督!変ですよ‼」との声が。

 

撮影を中断してスタッフが怪獣に駆け寄り、背中のジッパーを外すと、もの凄い黒煙と、くすぶった火の粉が…スタッフがぐったりした安部ちゃんを引っ張り出すと、目を閉じたかなり危険な状態であった。…何発かのロケット弾がもろに突き刺さり、中でまさかの火災が始まっていたのである。…怪獣役の男が無断欠勤した理由が、その時に漸くわかった。…そして安部ちゃんはスタッフに抱えられて保健室へと消えていったのであった。

 

…撮影所の中は実に広い。俳優達も役に扮した姿で自転車で移動する。…撮影所の果てに学校の校舎風の建物があり、窓から覗くと、中にはゴジラモスラカネゴン…等のぬいぐるみがズラリと勢揃いしていて懐かしい。小さなプ-ルは、それが特撮カメラの魔術を受けると一変して『日本海海戦』の広大な太平洋に。…食堂に行くと、映画やテレビで馴染みの俳優、女優が鯖の味噌煮定食やパスタを食べている光景が。…(正に笑って動く一種のマダムタッソ-の館なのかここは。)………次に来た仕事は映画のセットに付く事。コロコロ変わる私の仕事。…果たして栄転なのか左遷なのかはわからない。

 

…仕事は原田芳雄の当たり役『無宿人御子神の丈吉』の撮影現場。しかしその日は、確か女郎役の宮下順子との濡れ場シ-ンで、監督ほか数人以外は外で待機するようにとの事。…ならばと思って撮影所の中をふらふらしていると、「これから大物の俳優が来られるので、手透きの人は全員集合して下さい」との連絡が入った。「大物?…関係者一堂がやけに緊張しているが、はて誰だろう」

 

…暫く待っていると、黒塗りのばかでかい外車が停まり、中から座頭市などで聴いた事のあるドスの効いた低い声で、パナマ帽、全身白のス-ツ姿の勝新太郎が出て来た。次に中村玉緒が…。一斉に歓迎の拍手が鳴り響く。…勝新は沢山の出迎えを受けて上機嫌で若い付き人(後の松平健)らと共に何処かへと消えていった。…なる程、大物俳優への対応はさすがに違うな…と思い、その風習の面白さに感心した。勝新か、なかなか見れない俳優を観たな、そう思った私は次の面白い現場はないかと、またふらふらと歩き、と或るスタジオの扉を開いて中へ入った。

 

… 奥で鮮やかな照明に照らされて、一人の未だ若い女優が何かのセリフを明るい笑顔で喋っている。… よく見るとその女優は吉永小百合であった。確かハウス食品のCM撮りだったと記憶する。…  (原田芳雄、吉永小百合、勝新太郎…か) … 今日は何故か盛り沢山だなと思って、ベンチに腰掛け、図々しくもその撮影を見続けた。しかし誰も私を注意しない。……私の特技の1つは、擬態ではないがどんな場面でも、その空間に溶け込んでしまう事である。突然セットの照明が消え、件の吉永小百合がこちらに歩いて来るのが見えた。(ん?…何か私に話したいのかな…)いや違うようだ。ベンチで座っている私の横に座り、読書を始めたのであった。…そうか、このベンチは吉永小百合の為の休憩ベンチだと暫くして気づいた。…申し訳ないなと思いながらも、そのまま私は座って、昭和を代表する美女の一人と云われたその美しい横顔を、後学の勉強の為に見入ったのであった。

 

…そのスタジオを出ると、同じ美大生で流行りのコンセプチュアルア-トにかぶれている慎ちゃん(苗字が思い出せない)に出会った。慎ちゃんは未だ特撮の現場でバイトをしているが、私と同じで隙をみてサボタ-ジュとの由。…ならば一緒に歩こう!…そういって暫く行くと、大きなスタジオが目に入った。…興味が湧き中へ入ると、私達は幻かと思って唖然とした。…まるで大正時代の関西風の豪奢な料亭の和室がそこにタイムスリップしたように現れたのであった。(ここは何だろう!?)…何かの大きなセットらしいが、不思議だったのは、まるで神隠しのように辺りは全くの無人。…見ると、私達の眼前には見事な将棋盤と立派な駒が。……(こんな好機はない、慎ちゃん将棋やろうぜ!)…そう言って私達は、重い将棋盤と駒を抱えて、セットの奥へ、人に気づかれない奥へと行き、まるで名人戦のような高揚した気分で、へぼ将棋を指し始めたのであった。

 

… よほど高価な将棋盤なのかパチンパチンという響きはまるで風格が違う。4.6の角、2.7の銀 … パチンパチンとなおも指す。… すると遠くの板囲いの向こうから、何やらビルマの密林をさ迷い歩く飢えた虎のような地響きのする低い響きで(何処だぁ、何処にあるんだぁ-‼)という声が伝わって来た。耳の錯覚か?… 私は気にせず(慎ちゃんは詰めが甘いですなぁ)と言うと、慎ちゃんの反応が無い。ん?…と思って慎ちゃんを見ると、血の気が引いて恐怖に歪んだ顔が。…その顔が、私でなく私の背後を見て真っ青に硬直しているのである。… 私はゆっくり振り返った。そしてそこに見たのは、これ以上はない怒りに怒髪天を衝くと化した、勝新太郎の怒りに狂い殺気を帯びたもの凄い形相であった。しかも私の顔面の僅か10センチ先にその顔が‼  私はその時の言葉を今もありありと覚えている。

 

……… (てめぇかぁ!この若僧、ふざけた真似をしやがって‼ … 俺にとって一番大事な将棋盤を持ってずらかるとはとんでもねぇふてぇ野郎だ‼ …) … 怒りで勝新の肩が震えている。… 思えば、最初に見たのは撮影所に入って来た上機嫌の勝新であったが、いま眼前にいるのは、兄貴の若山富三郎と並んで、映画界で最も凄みのある恐ろしい男と云われた勝新の一変した姿であった。…勢いよく喋べる為か勝新の唾が私の顔に容赦なくかかってくる …しかし不思議と殴っては来ない。…それどころか、途中から私に(いいかぁ、覚えておけよ、てめぇも役者を考えているんだったら、役者っつうのはな、一瞬一秒に命を賭けているんだ!わかったか若僧‼)と調子が説教調に変化している。…この撮影所の世界でバイトしているのは役者志望が多い。私は、この人はなんか勘違いしているなと思ったが、心底申し訳なかったと反省もした。

 

……眼前にいる勝新の顔を見た私は、勝新の顔左奥に、この成り行きに血の雨が降るのではないかと心配顔で見ている、もう一人の俳優がいる事を知った。…やはり切れ味のある演技で知られる名優の仲代達矢であった。…何故ここに?…と思ったが、心配顔の仲代達矢は緊張しながらこの成り行きを見守っている。そして思った。勝新太郎、仲代達矢、この二人の芯の素顔は実に優しい人達なのだなと私は思った。

 


……ともかく漸く事が納まり、役者達が撮影に戻るべく去って行くと、監督とおぼしき人とスタッフがやって来て、私と慎ちゃんに(お前たち、本当殺されなくてよかったな。勝さんは、神経を集中して仲代さんと現場に入って直ぐに本番一発撮りだが、座った瞬間に大事な将棋盤と駒が無いとわかり、もの凄い怒りで現場は荒れたんだぞ、今日は『王将』の一番大事な名人戦の撮影。役に成りきって集中して本番の撮影に入ったのに、大事な小道具が無いとわかり、そりゃあ、荒れるのはわかるよ‼…しかしまぁ無事でよかった。)

 

……『王将』…と云えば、勝新のあのメ-クは坂田三吉、仲代達矢の役は名人の関根金次郎か。私は未だその映画『王将』を観ていないが、機会をみて観ようと思っている。最後のクライマックスの名人戦の勝負の場面が出て来たら、(あぁ、あれから気を取り直して撮影したのだな、)と思うであろう。………………………………………  野田さんからかかって来た1本の電話から、砧の東宝撮影所のあの日、あの時の事を走馬灯のように思い出したのであった。

 

 

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『一から三へと拡がっていく話』

…まずは近況から。…先だって、法政大学出版局から『記憶と芸術』(共著)と題する本が出版され、その中の執筆者の一人として『記憶と芸術/二重螺旋の詩学』と題した文章(原稿用紙約30枚)を寄せている。

 

執筆者は13名。敬称を略して掲載順に書くと、私・小針由紀隆・谷川渥・水沢勉・宮下規久朗・海野弘・秋丸知貴・進藤幸代・萩原朔美・高遠弘美・虎岩直子・中村高朗・丸川哲史の諸氏。…執筆依頼が来た時は個展の作品制作で一番忙しい時であり、お断りしようと思ったが、送られて来た執筆者の名前を見て、美術作品の実作者は私と萩原朔美さんだけで、皆さんほとんどが美術評論家ばかりだったので、(これは読者の人に比較してもらうのに絶好の機会‼)と思って引き受けた。

 

…執筆者で私が面識があるのは、谷川さん中村さん萩原さんだけで他の方は全く存じあげない人ばかりで勿論その著書も知らない。しかし出来上がるであろう本の大体の予想はつく。ただ、海野弘さんだけは別格で、私はその著書を読んでおりひそかに尊敬もしている人。海野さんが参加されるならば…というのも引き受けたもう1つの理由。先月、駿河台の明治大学で出版記念会が開かれ、盛況であった。ただ、お会いしたかった海野さんはその途中で急逝され、掲載予定であった「プル-ストに関する未発表の文章」ではなく、『生の織物』という文章がご遺族の方からの意向で掲載されている。…実作者と評論家との視点や文章の違いにもしご興味がある方は、ぜひのご購読をお勧めする次第である。

 

 

…さて、では本題に入ろう。……昨年の末くらい頃であったか、私は友人の人たちと会って話をしている度に、決まってこの話を話題にしたものであった。すなわち「この世には決まって何らかの二元論的な摂理のようなものがあって、例えば善があれば悪がある。光があればその傍には決まってそれに相当するだけの闇が在り、そのバランスの絶妙な調和によって世界(特に人間関係)は成り立っていると思うわけですよ。しかし、あの二人にはそれが見えない。一見したところ明る過ぎるし破調が無い。その事がどうも不自然でならない。…その裏にもう一つの何かがある筈、きっと何かが動いているに違いない!」と。………途中でピンときた方もおありかと思うが、そうあの二人とは、大谷選手と通訳の水原一平の事である。…私がそう話すと決まって、皆さんお笑いになる。そして考え過ぎと言わんばかりに次の話題へと移ってしまわれるのであった。…しかし、見えない先に不穏を感受してしまう私のセンサ-は、話題が変わっても尚もピコピコと揺れるのであった。…ちょうど、雲一つ無い晴天の空の彼方に、遠雷の不穏な音を早々と聴きとってしまうように。

 

…はたして、年が明け、3ヶ月が過ぎた頃にその事件が明るみになった事は周知の通り。…私はやはりこの世には二元論的な摂理がある事を確認して得心のいくものがあった。…水原一平。…大谷選手の光の余波を受けて世間は、この人までも、実はよく知らないながらも自然と善いイメ-ジを抱いてしまっていたように思われる。…古い例で恐縮であるが、「何処の誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている」という『月光仮面』のあの歌詞のように。

 

…想えば、水原一平という軽みある名前がそもそも、善い人と思ってしまう響きがありはしないだろうか。…(一平~ちょいと一平やぁ、何処にいるんだぁい)と、おかみさんが呼ぶと舞台の袖で(へぇ~い)とかん高い少年の声が返ってでも来るような。…これが水原一平でなく、例えば速水龍蔵、古鬼塚昌也、パンチ吉村…といった名前なら少しは警戒をしようものを。………桁外れの札束が動くギャンブル賭博、その重度の依存症であると本人は事件が発覚時に動機の理由に自ら挙げて来た。…そう話せば、多くの人間に有りがちな脳の病という普遍性に視点が転嫁して、賭博以前の犯行へと至る個的な闇が薄らいでいく事を、追い詰められた中で考えたのでもあろうか。

 

……信頼していた相手から裏切られる事を「飼い犬に手を咬まれる」というが、この事件にピッタリとすることわざは「吉凶禍福は糾える縄の如し」よりも、単純に「好事魔多し」の方が近いかもしれない。…江利チエミ島倉千代子の場合は信じていた身内に金銭を根こそぎ取られたが、要は、このような事件の犯人は自分の実力を勘違いし、自分が尽くした事は大きい筈、故にその見返りがあって然るべきという、見当違いの歪みを抱いてしまうのであろうか。…「七年目の浮気」というタイトルがあったが、その逆で「信じたい相手(雇い始めた人間)が七年間、何も事件を起こさなければ、漸くその相手を信用して大事を任せる事が出来る」という、商人の道の知恵があるという事を聞いた事があるが、ちなみに水原一平は、大谷選手とこのサポ-ト関係を築くにあたり、何年前にそれが成立したのか、ふと知りたいと思った。

 

 

…一平の事を話したのなら、三平についても何か話さないと片手落ちだよ、という読者の方からの声がいま一瞬聴こえたので、では三平についても少し書こう。先日の夜半にテレビで六代目桂文枝(昔の桂三枝)が大学で学生を相手に講義をしている姿が出たので、その話芸を観たくなり、話に聞き入っていた。…その講義の最後に林家三平の臨終時の話になった。

 

…三平がまさに今、逝くというその時に、主治医が三平の耳元で大声で叫んだ。(しっかりして下さい!…ご自分の名前が言えますか!!)と。…すると三平は切れ切れのかすれた声で、自分の名前をこう言ったという。…(……カヤ マ…ユウゾウ)と。…学生達は爆笑したが、私は三平という芸人の性(さが)を垣間見た思いがしてゾッとした。…人は亡くなる時はさすがに自分というものを留めおく事に固執するものだと思うが、この恐るべき自己放棄を知ってその笑いの底に暗澹たる不気味ささえも思ったのであった。

 

 

……この三平のように、最期の瞬間まで、虚構という芸の凄みに徹した俳優の例として、…正に死ぬ直前に、自分がデビューした時に演じた弁慶が、死んでもなお目を見開いたまま死んでいたという伝説を自らが演じて目を見開いたまま死んでいった名優の緒形拳がおり、また森繁久彌のライバルだった俳優の山茶花究が、末期の時に枕元に森繁久彌を手招きして呼び、森繁の肩に最期の力をかけて逃げられないようにして、掠れる声で森繁の耳元でこう言ったという(……なぁ繁ちゃん、……一緒に逝こう‼)と。瞬間、森繁は恐怖におの退いて真顔で腰を抜かすと、それを見届けた山茶花究は、してやったりとばかりに、にゃっと笑って息絶えたという。

 

…昔、学生の頃にベルクソンの名著『笑い』を読んだ事がある。笑いの底にある複雑な底無しの闇を知って驚いた事があるが、ブログを今書いていて、久しぶりにこの名著を再読したくなって来た。……今回のブログのタイトル『一から三へと拡がっていく話』は、そのまま拡がって、いつしかバラバラになってしまったようである。……次回のブログはゴジラや勝新太郎、丹波哲郎といった濃いキャラクターが続々と登場する予定。…乞うご期待である。

 

 

 

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『日暮里に流れている不思議な時間…』

…今年は展覧会が5ヵ所で予定されている。…5月は金沢のアート幻羅(5月9日~6月2日)と千葉の山口画廊(5月22日~6月10日)での個展。金沢は初めてなので、私の今迄の全仕事総覧。千葉の山口画廊は全く新しい試みと挑戦による鉄の新作オブジェを中心とした展示。10月9日~14日は横浜の高島屋で、これは個展でなく、宮沢賢治の世界を主題としたグル-プ展。…10月2日~21日は日本橋高島屋ギャラリーXでの大きな個展。11月29日~12月14日は名古屋画廊で、ヴェネツィアを主題とした、俳人の馬場駿吉さんとの二人展である…。今はアトリエで制作の日々であるが、それでも忙中閑ありで、時間を見つけては度々の外出の日々であり、数多くの人と会っている。

 

…その中でも一番多くお会いしているのは、このブログでも度々登場して頂いている、真鍮細工などの超絶技巧の持ち主である富蔵さん(本名、田代冨夫さん)である。富蔵さんは、パリで昔建っていて今は無い建物とその一郭をアジェの古写真を元に精密に真鍮で再現し、その時に流れていた時間や気配までもそこに立ち上げるという、不思議なオブジェを最近は集中的に作っていて、作品のファンが多い。…富蔵さんとは初めてお会いした時から波長が合い、前世からのお付き合いが現世でもなお続いているような、懐かしの人である。昨年からは特に制作の具体的な話から、文芸の話、幼年時代の記憶までも含めて幅広い内容でお会いする事があり、私には気分転換と充電を兼ねた密にして大切な時間がそこに流れているのである。…待ち合わせ場所は決まって日暮里の御殿坂の上、谷中墓地の前にある老舗の蕎麦屋『川むら』であり、その前にあるカフェでさまざまな事を語り合っているのである。

 

3月のある日、その日も富蔵さんとの約束の日で、私は日暮里駅を降りて、御殿坂を上がっていったが、未だ約束の時間には早すぎたので、坂の途中にある古刹・本行寺の境内に入った。…この寺は江戸時代からの風光明媚な寺として知られ、小林一茶種田山頭火も俳句を詠んでいる。また寺の奥には徳川幕府きっての切れ者、永井尚志の墓があるので、それを見に行った。…坂本龍馬が暗殺の危機にあり、周りから土佐藩邸に入るように勧められた時に、龍馬が「自分は永井と会津に面会して、命の保障をされているんだ」と言った、その永井である。結局、龍馬は中岡慎太郎と共に見廻り組によって斬殺されてしまったのは周知の通り。……ちなみに文豪の永井荷風三島由紀夫の先祖である。

 

…墓参して引き返す時に、面白い光景が目に入った。…寺の塀に沿って夥しい数の卒塔婆がズラリと立ち並んでいるのである。その向かい側にはすぐに家々が建っていて、明らかに、その部屋から見える朝からの光景は、障子や窓越しに並んで立っている、卒塔婆、卒塔婆…のシルエットなのである。私はそれを見て思った。「…こういう眺めが平気で住んでいる人というのは、一体どういう人たちなのだろうか?」と。映画『眺めのいい部屋』の裏ヴァ-ジョンである。

 

 

…私は卒塔婆の傍に立って、様々な人物像や、その生活の様を、オムニバスの短編小説を書くようにして想像(妄想)した。…すると、何よりも好奇を好む私のセンサ-が強く反応して「いや、きっと面白い人物が住んでいるに違いない」、そう思い、私は待ち合わせ場所の『川むら』の横にある露地へと入っていった。

 

…昭和然とした家々がひっそりと建っている、その先に、はたして一軒の家が目に入った。

 

 

『湿板冩眞館』と書かれた白い看板。そして見ると、この家を訪れて撮影したとおぼしき、女優の杏さんや北野武、草彅剛の写真がその下にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そして、坂本龍馬を撮影した幕末期の写真機を使って、現在も活動中である由が書かれた看板も目に入った。…入ってみたい衝動に駈られたが富蔵さんとの約束の時間である。いったん戻り、再び私達はその家の前に立って、呼び鈴を押した。

 

 

 

中から出て来られたのは、写真家(写真術師の方が相応しい)の和田高広さん。…玄関壁には今まで撮影された人達の硝子湿板写真(その誰もが現代と昔日のあわいの不思議な時間の中で生きているようだ)。

そして、和田さんに案内されてスタジオの中に入るや、そこは、現代の喧騒とは無縁の、まるで時間を自在に操る光の錬金術師の秘密の部屋に入ったような感慨を覚えた。

 

 

…それから、和田さん、富蔵さん、そして私の、表現創造の世界に人生の生き甲斐を見いだしてしまった、云わば尽きない物狂いに突き動かされている私達三人の熱い話が、堰を切ったように、およそ二時間始まった。…話を伺うほど、和田さんが独学で究めてきた、写真術が未だ魔法の領域に属していた頃の世界に私達は引き込まれていった。

 

 

…私は以前のブログで書いた或る疑問を和田さんに問うてみた。…幕末の頃は写真機の前でポ-ズする時間がおよそ30分位は必要と言われているが、私には1つの疑問がある、それは龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎が笑って写っている写真があるが、…30分くらい、人は可笑しくもないのに笑っていられるのか?…という疑問であった。…長年懐いていたこの疑問を和田さんは一言で解決してくれた。…(30分くらい必要というのは間違いで、実際は20秒あれば写ります!と。

 

 

…また樋口一葉が手を袖の中に入れて写っているが、その訳は何故か?…その答えは樋口一葉研究者達を一蹴するような、古写真撮影の現場を実際に知っている人にしかわからない話で、私は長年の疑問の幾つかが、忽ち氷解して勉強になったのであった。

 

…富蔵さんの話も面白かった。話が進んでいくと、富蔵さんと和田さんに共通の知人がいる事がわかってくる。私達はアンテナが何処かで間違いなくつながっている、そう思った。…二時間ばかりがすぎて私たちは写真館を出てカフェに行き、余韻の中で更なる会話がなおも続いたのであった。

 

 

2日後の22日に、東京国立近代美術館で4月7日まで開催中の写真展-『中平卓馬 火/氾濫』展を観る前に、私は今少し和田さんにお訊きしたい事があったので、事前に連絡を入れて、再び日暮里の写真館を訪れた。…すると嬉しい事が待っていた。午後から写真を撮られに来る人がいるので、その撮影の為に感光液を新たに作ったので、(その液の試験に)と、私を撮影する準備が出来ていたのであった。いつか私も生きた証しとなるような記念写真を和田さんに撮影してもらいたいと考えていたのであるが、まさか今日!とは嬉しい限りである。…しかも坂本龍馬を撮したのと同じ写真機で。

 

 

 

……思えばつい先日、本行寺に寄って龍馬と関わりがあった永井尚志の墓を見た帰りに、ふと見た卒塔婆に導かれて、細い露地へと入っていったその先に、このような出会いが待っていようとは、だから人生は面白い。…和田さんの二階から見えた本行寺の墓地は実に明るい眺めで、彼岸の陽射しを浴びて墓参に来られた人達もまた穏やかな会話を交わしている。…最初に予想していた逆で、この部屋こそ正に『眺めのいい部屋』なのであった。…ちなみに、私が撮ってもらった写真の仕上がりは、龍馬というよりは、高杉晋作、或いは石川啄木の姿に近いものであった。

 

 

 

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『人魂に魂を入れてしまった男の話』

…東京の大井町線とJR南武線が交わる所に「溝の口」という駅がある。今ではすっかり様変わりして駅前通りが綺麗になってしまったが、昔は溝(どぶ)の口とよばれた、実にロ-カルな渋い場所であった。…この駅から線路沿いにしばらく歩いた所に、多摩美術大学の男子寮があり、私は18才の一年時からそこに入っていた。(…余談だが、寮に行く途中に地味な布団屋があった。後で知ったのだが、私が来るしばらく前に一人の青年がその店でバイトをしていた。…後のタモリである。私はタモリは頭がいいと思って感心した。…布団屋は暇であり、たまに仕事が入って布団を運んでも軽い楽な仕事、しかし時給は他とあまり変わらない。バイトをするなら、忙しいスタバでなく、布団屋に限る。)ま、それはともかくとして、大学に入ってすぐに私は二つの大きな挫折をあじわった。

 

一つは、日本の美術の分野を代表する作家の斎籐義重氏が多摩美で教えていたので習おうと思って勇んで入ったものの、斎籐氏は学園紛争で外部に出てしまい、目標とする人物が大学にはいなくなってしまったのである。…二つ目は、三島由紀夫の『近代能楽集』に強く感化された私は、三島に長文の手紙を書き、その最後に「貴方の美意識を舞台美術で具現化出来るのは、間違いなく私しかいないと思っています」と熱く書いて投函した。…根拠はなくても強烈な自信だけは満々とあったのである。…出してから数日して丁度届いたと思った頃、ふとテレビをひねると、三島由紀夫が決起して市ヶ谷の自衛隊駐屯基地で演説をしている、まさかの姿が中継で入って来た。そして自決。…上京して半年で、前途の目標を失ってしまったのである。(斎籐氏には後に会う機会があり、私のオブジェを高く評価してもらったが、やはり18才の生な時に語り合いたかったと思う。)……、当面の目標が断たれはしたが、しかし私は未だ18才。生きていかなくてはならない。

 

…二年生の夏に、偶然の導きで池田満寿夫氏の版画と出会い、一気に版画表現にのめり込んで行くのであるが、私はもちろんその運命を未だ知る由もない。…文芸評論、映像作家、或いは悪の道。…しかしどの道に進むとしても先ずは充電と思って、映画はフィルムセンタ-に通い、文芸はかなり読み耽った。…金が無いのでバイトは数々したが一番日当が佳かったのは、桜田門や大手町の地下鉄の送風機を取り付ける仕事で、日当5000円(今に換算すると毎日3万円くらいか)であった。…このバイトは力仕事なのに何故か多摩美と芸大の学生だけが独占し、各々の大学から30名づつくらいが、いつも組んで場所を移動しながら稼いでいた。…昨年亡くなった坂本龍一氏の本を本屋で立読みしていたら、彼もそのバイトをしていた事を知って驚いた。…(そうか、あの学生達の中に彼もいたのか…)と思うと共に、彼もその本の中で書いていたが、どの大学も紛争直後で荒廃し、何か空無な気だるい無力感が漂っていた、そんな時代であった。

 

…多摩美の男子寮は、多摩芸術学園と洗足学園音楽大学(寮も含む)の間に在った。…寮の庭から、洗足学園の女子寮の食堂が見えた。華やかな笑い声が時折聞こえても来た。…この大学は、古くは歌手の渡辺真知子や、近くは平原綾香等が出た、いわゆるお嬢様学校。…私どもの寮の食事はほとんど茶色一色。冷えたご飯に生卵を割れば、先ずは白身が沈んで次に黄身も消えるような粗食。先方の寮の食事はカラフルの一語に尽きる、…同じ人間として生まれて来た筈なのに…いささかの理不尽がそこにあった。一言で言えば、晩飯とディナーの響きの違いか。だから寮の先輩からは、こう言われたものである。(洗足女子寮の食事は見るな!…見れば自分たちが辛くなる)と。

 

…私の部屋の隣室に中村敬造さんという2年上の先輩がいた。…デビュー当時の武田鉄矢を講釈師にしたような飄々とした、何とも味のある人であった。…私達は、そして寮の誰もが、真昼時の太陽が沈むのを忘れたかのように……暇であった。…敬造さんの部屋で、(……しかし暇ですなぁ…)と私。(…まったく、何か面白い事が無いかねぇ…)と敬造さん。……私は言った。(いっそ、人魂でも出しますか!?)と。敬造さんは(人魂かぁ、それは面白いかもなぁ。しかしどうやって作るんだ?)と訊くので、(まぁ任せて下さい!)と言って、私は寮の黴びた物置小屋から細い竿を出して来てピアノ線を結んで艶消しの黒を塗り、綿に油画に使う画材のオイルを染み込ませて、アッという間に作り上げた。

 

…(で、何処に人魂を出す?)と敬造さんが言った瞬間、私達は同じ事が閃いた。…やがて夜になった。…私達は寮の塀を乗り越え、一路、隣の女子寮へと向かった。…ある部屋の前に来たものの意外と窓が高い。敬造さんが踏み台になり、私が部屋の中を見た。…しかしそこに見たのは紫煙けむる中、あぐらにコップ酒、花札の中にいる女子達の姿であった。…(北川、何が見える?)と下にいる敬造さんが小声で訊くので、私は応えた。(見ない方がいいですよ、まるで女囚、ここでは人魂を出しても意味が無い)と話して、静かに下りた。…その時であった。ボロンボロンというピアノの音が近くの窓から流れて来たのであった。…見ると、先程とは一転して真面目風な感じの女子2名が熱心にレッスンの最中であった。…(人魂はここがいい!)…私達は綿にライターで火を入れて、ゆるやかに、かつ怨めしく人魂を闇夜にゆらゆらと浮かべ、そしてさ迷わせた。

 

敬造さんが小声で言った。(しかし北川は上手いね!…まるでプロの文楽の人形師のようにリアルだなぁ!)と。(人魂の中に魂を深々と入れるんですよ。悲しく、あくまでも悲しく!)……自分たちでも感心するような哀しい人魂の揺れ具合である。(これで食べていけるのでは)私はふとそう思った。

 

……、その瞬間であった。突然バタンという、ピアノの蓋を激しく閉じる音が響いたと同時に、部屋の中から複数の叫び声がキャ~からギャ~へとけたたましく響いた。その時であった。「こら~!!」という警備員の鋭い声が響き、私どもの方へ走って来るのが見えた。…私達は咄嗟に逃げて、先ずはバタンバタンと転がる人魂を矢投げのように塀の向こうに投げ、続いて私どもの姿も瞬時に多摩美の寮がある暗闇の中へと消えた。

 

問題が起きたのは、その翌日であった。洗足学園の寮から抗議があり、放火魔らしき二人組が出没して多摩美の寮に消えたので、調べて欲しいという内容であった。寮生全員が集められたが、結局名乗り出る者はいなかった。…洗足学園側は、美大の連中はらちが明かないと見て、浸入を防ぐ為の鋭い有刺鉄線が、まるで収容所の塀のようにして、延々100メ-トル近くも張り巡らされたのであった。…敬造さんと私は反省会議を開いた。…あのようにリアルな人魂をもっと人々にあまねく見せたいが、ではそれを何処に出すか…という会議であった。…そして寮の最屋上の給水設備の所から、第三京浜へと向かう車列に向けて、人魂を出す事になり、それはその夜に決行された。

 

…私達は黒服に身を包み、人魂を闇夜に再び揺らしたのであった。効果は予想以上であった。(北川、見ろ!…車が渋滞し、車から出てきたみんながこっちを指差しているぞ!)と。方々のクラクションが鳴り響き、…私達は想像したのであった。…人魂を見たあの人達は、後々までずっと信じるかもしれない。…人魂は本当にいる!何故なら私は、あの夜に溝の口で見たのだから……と。……しかし、その時、私はまだ知らないでいた。…僅か六年後に本当の人魂を見てしまうという事を。

 

…多摩美の大学院を修了した私は、寮を出て、2つの住所を転々と移り、横浜山手の丘の上に在った「茜荘」というアパ-トに移った。…この建物は以前は連れ込み宿であったのを作り直したのであるが、玄関に料金所の名残りがあって、それとわかるのであった。出て右に行くとすぐに真っ赤に塗られた打越橋というのがあるが、そこは飛び込み自殺の名所。…茜荘を出てすぐ左には牛坂と呼ばれる暗い坂道があるが、引っ越して来てすぐに読んだ、『昭和の猟奇事件-ノンフィクション』という中に突然、その坂の事が出てきて驚いた。…なんとその坂道の途中に在った人家で、狂った若い女が家族を皆殺しに殺すという事件が起きたのであった。その話の出だしは「…食っちゃったぁ」と、その狂女がへらへらと笑いながら、踏み込んだ二人組の刑事に話す場面から書いてあった。…救いは山手へと向かう先にあるミッション系の共立女学園の存在。…しかし、ここだってわかったものではない。

 

池田満寿夫さんのプロデュ-スで初めての個展を開催したのが、私が24才の時。…その個展が始まって、確か3日目の夜、銀座の画廊から帰途につき、石川町という駅を出て、地蔵坂という坂道を上がり、途中から石段を登って家路に着くのであるが、その夜は小雨が降っていた。石段の途中の右側がロシア正教の小さな教会、左が江戸時代からの小さな墓石がたくさん立っている、その墓石の私のすぐ近い所に、ポッと鈍く光るものが突然、出現した。「…人魂か!!?」一瞬そう思った私は、その人魂の走る先を凝視した。…人魂は燐が燃えたものと俗に言うが、燐ならば無機質な物質なので林立して立っている墓石の何れかに直ぐにぶつかって消える筈。私がぞっとしたのは、その小さな人魂が、まるで意識があるように、ランダムに立っている墓石を次々と避けるように薄く光りながら流れていき、やがて墓場の先の暗闇に消えていったのであった。

 

……私が人魂を見たのは、それ1回きりであったが、学生の時に作った人魂とは全く違う、静かな不気味さがあり、今も記憶に焼き付いて離れない。…昔作った人魂は、歌舞伎の怪談で、離れた客席まで見せる為の大きな作りであり、人々はそのイメ-ジのままに今日まで到っている。……私の残りの人生の中で、今一度、あのような薄火の、しかしそれ故に芯から恐怖が伝わって来る人魂を見る機会が果たしてあるのであろうか?…ここまで書いて来て、俳句で人魂を詠んだのがないかとふと考えた。…意外になく、只一作だけあったのを私は思い出した。…「ひと魂でゆく気散じや夏の原」である。気散じとは気晴らしの意味。…ひとだまになって、それでは夏の原っぱをぶらりとゆこうかという、風狂達観の意味がこめられた作である。…作者はいかにもの人。葛飾北斎の辞世の句である。

 

 

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『実は、…私はよく知らないんですと、その男は言った!』

先日、知り合いの女性から(横浜の催場で、函館から来た画商という人が閉店セ-ルで3日間だけ西洋版画を商っていて、レンブラントの風景版画が45万円で売っているので、その版画を買おうかと思っているのですが、すみませんが、もし出来たら見に行ってもらえますか?催日は明後日迄です…)という連絡が入った。…打てば響くを信条としている私は、興味もあって直ぐ見に行った。…催場で一目見て思った。「こりゃあいけない、贋作だ!」と。…一見、誰もが知るレンブラントである。インクも強弱があるし、古色も帯びている。…しかし間違いなく贋作である、そう確信して見ていると、店の中から紳士然とした風格のある男が微笑を浮かべながら近づいて来て、こう言った。(このレンブラント、なかなかの掘り出し物だと思いますよ、如何ですか?)と。

 

…私は男に問うてみた。…(版画の左下にエディション(限定)番号48/100と書いてありますが、これは誰が書いたのですか?)と訊くと、男は平然と(レンブラントの当時の画商です)と答え、意味不明なまばたきを2回した。(……その時の心理を映すこの男の癖なのか?)………確かに画商の始まりはレンブラントが亡くなった頃のオランダを祖とする17世紀後半からであるが、しかし私はこう言った。(あれですよね。このエディションという制度は、確かピカソの画商だったヴォラ-ルあたりが始めた制度で、間違いなく20世紀初頭が始まりですよね)と。…一瞬、男の目が泳いだ。私は続けて(昔、オランダのレンブラントの家を美術館にした所で、本物の版画から撮影してカ-ボンティッシュというドイツの写真製版技法で完全に再現した版画を、確か1枚5000円くらいで売店で売っていて、私も数点買って持っていますよ!)と言うと、男は静かに(……実は私は、よく知らないんですよ)と言って、静かに店の奥へと消えていった。

 

………版画に古い年月を感じさせる古色であるが、以前に澁澤龍彦のエッセイを読んでいて感心した事があった。…それは浮世絵の贋作に古色をつけるテクニックであるが、何と、昔の汲み取り式トイレ、通称「ぼっとんトイレ」の真上の天井に吊るしておくと、自然な古色を次第に帯びてくるのだという。…しかも、年中湿気の多い北陸地方(おぉ私の故郷!)が、実にリアルな古色を出してくるのだという。…ここまで追究して贋作を作っている連中は、ある意味たいしたものだと、思ってしまう。

 

昔、ロンドンに住んでいた時に、テムズ川に架かるタワ-ブリッジ傍で朝早くから開催している骨董市(通称、泥棒市)に出掛けた事があった。…そして朝未だ来の薄暗い中で、手紙の束と一緒に在ったレンブラントの風景を画いた銅版画を4000円で入手した事があった。店主はレンブラントの事など知らないらしく(兄さん、これ昔のペン画だよ!)と言う。…後でサザビ-ズの知人に無料で鑑定してもらったら、初刷りの掘り出し物であり、今もアトリエの中に大切に仕舞ってある。

 

…日本の骨董市も玉石混交の現場である。…以前に三島由紀夫の直筆原稿という触れ込みで店頭にそれが堂々と出してあった。一目見て三島のあの流麗な筆致から遠い贋作であるが、先のレンブラントの時と同じくリアルさを出す為に、この時は編集者が書き直しで入れた朱の文字が何ヵ所かに入っていた。これで贋作者は墓穴を掘っているのであるが、知らない人は、その朱色に興奮してしまうのであろう。…断言するが、完璧な三島由紀夫の文章に、朱の文字で編集者が文字を入れる事などあり得ない。…その贋の原稿は確か28万円(考えぬかれた数字!)だったが、その次に来たら無かったので、どなたかが買ってしまったのであろう。(…合掌)  昨日画いたばかりの、色が綺麗な、しかし高価なアニメ-ションフィルムも要注意である。…店頭に出る事は稀であるが、フィルムの裏を見て、彩色された絵に亀裂が入っていないのはかなり怪しい。

 

 

ワンランク上になると高価な書画骨董の類である。人気のある西郷隆盛の書は、特に贋作が多い。…見分け方の一つであるが、西郷の癖でチョンと跳ねる箇所を、西郷は決まってボトンと野太く書く。しかし、そこが危ない。

…贋作者は、西郷のファンがそこを注視するのを熟知しているので、あえて目立つようにボットンと太い点を黒々と置く。こうなると、生半可な知識と悪知恵の化かし合いである。

 

 

……30年ばかり前の話であるが、パリで一番大きな骨董市で知られる「クリニャンク-ルの蚤の市」を歩いていた時の事。20世紀後半の代表的な美術家で、妖しい球体関節の人形の作者でも知られるハンス・ベルメ-ルの版画の明らかな贋作が、その日はやたらと随所の店で目立ち、不審に思った事があった。…しかも何より不可解なのは、そのサインが明らかに本物だったからである。…私のアトリエにもベルメ-ルの代表的な銅版画が何点か在るので、その特徴的なサインの筆跡は記憶に入っており、間違いのない本物のサインだと私は断定出来る確信があるのである。…贋の版画に記された、しかしサインだけは本物とは…?その正体や如何にである。

 

 

……こういう時には、パリの裏も表も熟知している友人の到津伸子女史に訊くにしくはない。彼女は30年以上パリに住み、様々な人物との交流が深い。…その日の夕刻にサンミッシェルのカフェに呼び出して、真相を知っているか?と訊いてみた。…彼女は即答で知っている!と答えた。…それかあらぬか、生前(晩年)のベルメ-ルの家も彼女は訪れていたのであった。

 

(まるで彼は逃亡者のように荒んでいたわ。麻薬の中毒で廃人に近くなっていた彼につけこんで、悪い画商がベルメ-ルの贋作を量産し、金と引き換えに、ベルメ-ルに本物のサインを書かせていたわけよ)。…なるほど、それで昼見た謎がたちまち解けたのであった。……その真相を知った後に感じたのは、しかし苦い感慨であった。…ベルメ-ルは好きな作家だっただけに、やりきれないものが残ったのであった。……………次回は、『人魂に魂を入れてしまった男の話』を書く予定です。乞うご期待。

 

 

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『日本…実は毎日が揺れている』

………ずいぶん前のブログでも書いた事があるが、私は2才の時に百日咳が悪化して危篤になった事に始まり、水死、…落下した鉄棒が頭を直撃して大量の出血、城の高い生垣からの墜落、ガス中毒、またブログではさすがに書けない事までも含めて、…つごう7回、死の間際まで行った事があった。

 

…また、これとは別に今まで3回、重度の食中毒にかかった事があった。…最初は19才の学生時、多摩美大の寮にいた時に、金がなく、寮の近くにあった八百屋が見切り品として箱ごと外に棄ててあった腐ったイチゴを持って来て、夜半に食べてから断末魔に苦しんだ事。…次は大井町駅前広場で車販売で売っていた、安すぎる、いやぁな赤い色をした毛蟹を食べて悪寒の後の失神。そして、猛暑の真夏日に食べた、時間が経ち過ぎたおにぎり……。3回もやれば懲り懲りする筈なのに、つい先日は悪い食べ合わせによる、激しい悪寒、嘔吐、下痢による衰弱で、数日前から無気力な倦怠感に襲われてしまった。作品制作はかなり集中力を使うので、この数日間は自主的に休んでいる。…せっかく入って来た歌舞伎座観劇のお誘いも断腸の思いで断ってしまった。

 

………しかし、今日は少し体調が戻ったので、新木場の倉庫に行き、以前から懇意にして頂いているアンティ-ク店「宮脇モダン」のオ-ナ-の宮脇誠さんに、オランダで入手したという、巨大な球体の硝子の中に水を入れてレンズと化した面白い骨董品を見せて頂いた。直径30センチ大の丸い硝子の球体の中に水を入れて、巨大な拡大レンズになるという代物である。……フェルメ-ルの時代以降、レ-スを編む人は、微細な部分をそこに拡大しながら映して仕上げ、…また蝋燭の火をその巨大な硝子の前に置けば、光が多角的に放射して室内を明るく照らすという、一種魔法のごとき代物である。…私は宮脇さんから話を伺っている内に、数作の新たな詩文がたちまち浮かんで来たのであった。

 

 

……この数年間は、コロナが私達の前にリアルな「死」の恐怖を突き付けていたが、それが薄れると、次は役者が変わったように地震の恐怖がそこに入れ換わっての登場とあいなった。……この度発生した巨大な能登半島地震は、それを予告するかのように、2018年頃から地震回数が目立って増加しはじめ、2023年には震度6強の地震が発生し、その時に能登半島の地殻構造の脆さは指摘されていた事は記憶に新しい。なので、想定外ではなく、やはり遂に来たか‼の感がある事は歪めない。

 

…ふと思いたって、幕末の安政の大地震から今回の地震までで、主要なものの大きさを順に整理してみた。……最大は①東日本大震災(マグニチュード9.0)→②関東大震災(マグニチュード7.9)→③能登半島地震(マグニチュード7.6)→④阪神淡路大震災(マグニチュード7.3)→⑤安政の大地震(マグニチュード6.9)…の順になった。震度はいずれもだいたい最大で7強で、震度における大差はない。……マグニチュードとは地震のエネルギー(規模)、震度とは地震の揺れの強弱で別物である。

 

……東京(江戸も含めて)の場合は、いつの場合も下町低地エリアの被害が甚大である。約半数ちかい死因が圧死で次が焼死。…圧死を避けるのに一番強く安全度が高い家の構造は、「かまぼこ型」である事を何かの本で読んだ事があった。かまぼこ型とは、かつての進駐軍の簡易兵舎や、倉庫を想像してもらえればわかりやすい。……日本は世界で最も地震が多い国であり、体感しない微弱を含めると、実は毎日この国の何処かで揺れているのである。その数、1年間で1000~2000回程度、つまり1日あたり3~6回。日本は毎日がバイブレーションの日々なのである。…その危険な実態を知ると、湾岸沿いに埋め立てたパサパサの盛り土の上に次々と建てられていく巨大な高層マンションの光景は、林立して立つもう一つの卒塔婆の群れか。高い階ほどステ-タスが増すと思っている心理を巧みについて業者は、より上に行くほどもはや億単位で推移高騰しているマンション価格。正に(何とかと煙は高いところが好き)という言葉通りの「天国への階段」がそこにある。

 

 

 

 

…先日、書店で面白い本を見つけたので買って来た。…ラジオ第2放送のNHKテキスト『文豪たちが書いた関東大震災』である。芥川龍之介室生犀星泉鏡花北原白秋谷崎潤一郎柳田国男萩原朔太郎…他44名の作家達が、その瞬間にどう遭遇し、どう生き延びたかを記した本で、これが実に面白い。

 

例えば芥川龍之介は、茶の間でパンと牛乳を食べ終わった正にその瞬間に地震が発生。早々と一人で屋外に逃げたが、妻の文夫人は、二階に寝ていた次男の多加志(後に戦死)を救ってから脱出、父と長男の比呂志(後の名俳優)は下女が救出して屋外に脱出。文夫人が「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」と怒ると、芥川は「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」と当然のように言った。

さりげない一言の中に、芥川の利己主義がはっきりと窺える。…話はこの後で芥川の行動の内に、異様な内面性が浮き彫りになっていく。

 

…また野上弥生子は三人の子供と日暮公園に避難、この場所は現在の西日暮里公園という私も度々訪れる場所なので、(あすこにいたのか!)と、その時の弥生子の姿が透かし見えてくる。…与謝野晶子は、10年以上書きためた「新訳源氏物語」の更なる現代語訳原稿を全て焼失。恐怖を感じて避難するその近くで、泉鏡花が裸足で逃げ出す姿が。

 

また鏡花と同じく怪異や幻想を怪しく綴った岡本綺堂は、家財蔵書を全て焼失。綺堂は、明治27年の地震に続いて二度目の被災。…その被災の様はしかし綺堂の美文によって、悲惨の内に幻想味も併せて描写していてさすがである。……この本、時代背景が違うので、今日の実際時に活きるかどうかはわからないが、私は今はこの本の中から先人の知恵をもらうべく読んでいる最中なのである。………しかし、私はなおも生きるつもりなのであろうか?…とも、ふと思う。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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