月別アーカイブ: 12月 2016

『……そは何者!?』

画狂人・葛飾北斎は、生涯に60回以上も引っ越しを繰り返したという。とはいっても隅田川近く、本所堀割辺りに限っての、わずかに数軒の移動で済み、荷物も絵筆と紙だけだったから気楽なものである。……引っ越しの理由は、部屋が描き散らかした紙屑の山でいっぱいになり、さすがに身動きがとれなくなると引っ越しと相成ったらしい。同居人の娘の応為(おうい)も、父親の遺伝子を受け継いで描画三昧没頭の生活であったので、片付けは無頓着で全く出来なかったというから面白い。…………さてさて、その引っ越しであるが、私も来年の1月末にアトリエを引っ越す事になり、急に慌ただしい片付けの日々が続いている。北斎と違い、何と19年ぶりの引っ越しなのである。

 

……片付けをしていると、まるで地層のように書類の下や、山積みの本の下から珍しい物や、探しても見つからなかった物が時間を遡るように急に出てきて懐かしくなり、、過去の日記帳を開くようについ手に取って見てしまう。そして次第に読み耽ってしまうから効率が悪いこと甚だしい。先日は快晴だったので、片付け時に出て来た三島由紀夫の対談集『源泉の感情』と、学生時の文学のゼミのテクストであったバシュラ―ルの本が出て来たので、庭の芝生に寝転んで、つい読み耽ってしまった。……しかし、この手の物は良いが、ふと何かの弾みのようにドキリとするものが出てくる事があり、ヒンヤリとした寒いものを覚える事がある。……先日出てきたのがそれであった。……それは、新聞の小さな切り抜きであった。

 

新聞の小さな切り抜き、……それは2010年5月17日の日付のある朝日新聞の「朝日歌壇・俳壇」の一面の切り抜きであった。その上段には入選に選ばれた短歌や俳句の素人の愛好家の苦心作が掲載されており、、その欄の下段の方には、あまり目にする事のない「入選取り消し」という不穏の文字が書いてあり、私の興味を映すように、二重の丸で短文のその箇所を、読んだ直後に私は囲っているのである。その記事を初めて目にした当時の私は、たぶん短編のミステリ―を着想したらしく、後日時間のある時に書こうと思っていたのを、私は思い出した。……しかし、大事に取っておいた筈のこの切り抜きを私は迂闊にも紛失してしまい、また後日に1冊の本として求龍堂から刊行された拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の前身となる連載を毎月書いていたので慌ただしく、いつしかそれらの資料の中に、その切り抜き記事が埋もれていってしまったように思われる。その記事とは以下のような短い文である。

 

「入選取り消し 3日付の金子兜太選の句 〈蝶に手をのばすな兵士撃たれるぞ〉 は、別の作者による同じ句がすでに発表されていましたので、入選を取り消します。」

……記事は以上だけである。しかし、この句は平成のモチーフとしては明らかに時代を異にしており、例えば支那事変の頃の南方の密林の中で起きた凶事の直前の光景、或いは〈蝶〉という言葉を何かの暗喩にして託した暗号、或いは、何かの凶凶しい秘密を握った者が、時を経て、その秘密を知る今一人の人物に発した、俳句の隠語に託したメッセージ……のようにも思われ、激しい興味を覚えた私はその記事に書いてあった5月3日付けの新聞を取り寄せて、盗作したとされる人物の名前(おそらくは偽名であろうが)を追った。……果たしてそこに、その俳句と名前が載っており、私はそれも併せて蔵っておいたのであったが、その3日付の記事だけがどうしても見あたらない。……それにしてもこの句 〈蝶に手をのばすな兵士撃たれるぞ〉 は、いかにも不穏に充ちており、私の想像力を煽ってなお魅力的である。……盗作の元となったのは果たして何なのか!?しかし、この先を敢えて追わずにこのままにしておいて、この句を読む人各々の想像力の翼に自在に託すのが、或いは一番面白いようにも思われる。私が持論としている、表現物とは作者の元を離れて、他者の想像力を揺さぶるイメ―ジの〈装置〉として在るべきなのであるから。………………唯思うに、これは私の想像であるが、この句を読んだもう一人の人物は、おもむろに新聞を閉じ、何者かに1本の電話をかけ、その数日後の雨季の気配がする日の午後に、日比谷公園内の奥にひっそりと建つ松本楼の一室の予め部屋をとっておいたその中で、40数年ぶりの再会を果たしている姿が、想像の内にうっすらと透かし見えるのである。そして、その男の手には、ぼろぼろに朽ちた蝶の羽の一片が生暖かく握られているようにもまた思われるのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『オブジェとしての写真集』

9月初旬の10日間ばかり、撮影を兼ねてパリに滞在していた折りに、パリの画廊で友人の写真家が個展を開催するタイミングと重なったので、そのオ―プニングに行った事があった。その時にいろいろな人と話す機会があり気づいた事であるが、最近の写真の分野では、写真と併せてその作者のコンセプトなるものが重視されており、差別化されたそのコンセプトの独自性(?)なるものを持って販売アピ―ルの具としているという傾向がある事を知った。ちなみにその友人の写真家の作品は〈寡黙〉を持って十分に主張している作品なので、殊更な言葉を必要とするほど軟弱ではない強さがあったが、その会場で私は、パリの写真界に限らず、それがこの分野における現在の主たる傾向である事を痛感したのであった。……当然な事であるが、表現された作品は元来が〈匿名〉であり、そこに取って付けたような作者の言葉は必要ない筈である。優れた作品ならば、それ自体が十分に饒舌な筈である。……売らんかなの為に、この作者の世界観、この作者の視点の在所はこんなに独自的云々…………といったコンセプトなるものの販促めいたものがセットで必要とされているところに、この分野の今日の苦戦と立ち位置の覚束無さを私は覚えたのであった。この傾向の行き先は、つまりは、作者とその作品を細いものにしていき、観る事のアニマから随分と程遠いものにしていくに相違ない。

 

また別な傾向としては、50、60年代に写真家として盛りを過ごした人達がいるが、昨今の「あの熱かった時代を回顧して意味を照射する」という流れに乗って価値付けされているものの、つまりは表現者として現在形の活動、新たな表現領域の開拓といった活動からは遠い安穏の人達である事に、私は表現者の生き方として、些かの疑問符を持って見ているのであるが、先述した、いたずらなコンセプトを一切必要とせず、またこの国における写真集の金字塔ともいえる作品を60年代に早々と発表しながらも、その事に安住する事なく、自らの突き上げるデ―モンに煽られるようにして、果敢に次なる可能性に挑み続けている写真家(写真術師)が、この国に唯一人存在する。……川田喜久治氏である。

 

9・10月に日本橋高島屋で開催した私の個展に川田喜久治氏が来られた折りに、最近刊行されたという写真集の事を話されたのであるが、その写真集が先日、我がアトリエに送られて来た。……写真集のタイトルは『遠い場所の記憶: 1951 ―1966』。1951年、高校卒業の時に川田氏が撮った写真をカメラ雑誌のコンテストに応募して、たちまちその写真が特選となるが、その際の審査は木村伊兵衛と土門拳であったという話には、1つの真実が潜んでいる。……時代の常として、どの分野においても後に突出した人物となっていく逸材は、初めから或る種の完成度の高さと、潜んでいる胚種の多層さを持っているのであり、木村伊兵衛、土門拳といった強度な慧眼の持ち主は、そこに次代の新たな才能をたちまち見抜いた事は間違いない。……この写真集は川田氏の初期から1966年までに撮った数多の写真から厳選して構成されたアンソロジーであり、その存在感と、内容の濃密さからは、「オブジェとしての写真集」という形容が相応しい。

 

写真集の最初(序章)は、戦後の世相をひんやりと切り開く描写から始まっているが、次第に多層的な表現の放射へと拡がり、この世の内実が魔的なものに満ち充ちていることを、まるで千の暗い仏壇の闔を開いていくように、この写真集は次々と展開していく。そのいずれもが象徴性と多弁性を持って此方に挑みかかってくるのであるが、……わけても私の興味を引いたのは、「Mのトルソ」と題された、身に付いた筋肉を誇示している男の顔無しの写真であった。……顎から上の顔面が撮されていない〈三島由紀夫〉の腕組む胸部を写した何とも不穏なトルソであるが、後の自刃を暗示しているようでもあり、ある意味で、三島の魔的な肖像を欠落故により饒舌に表してもおり、私は禁裏を垣間見るような一種の戦慄を持って、この特異な写真に見入ったのであった。三島は若き日の細江英公を指名して写真集『薔薇刑』なる美の伽藍を築いたのであるが、川田氏のこの写真を前にすると、『薔薇刑』が装いの表象、いとも脆い表側の顔にさえ見えてくるのであるから、真に川田喜久治氏は恐ろしい。……私はこの写真集に接して漸く気づいたのであるが、光とは、闇を照らす陽的な存在ではなく、闇に蠢く万象の不気味なる実相を覆い隠す為の嘘のフィルタ―のごとき存在として在るのだと思い知らされたのであった。以前に私は川田喜久治氏を評して、ゴヤの魔的なる遺伝子を継ぐ正統と断じた事があるが、私は更に上田秋成の名前を借りて、この写真集を現代版『雨月物語』とでも言い表したい衝動に駆られているのである。

 

 

 

 

川田喜久治写真集『遠い場所の記憶: 1951 ―1966』に関するお問い合わせは、PGIにて受け付けております。―是非のご高覧をお薦めしたい、写真による暗黒奇譚を紡いだアンソロジー、後世に間違いなく残る、オブジェとしての写真集です。

 

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『突如、前原伊助が!』

鹿児島の個展開催中の六日間、私の頭の中には139年前にこの地で起きた西南戦争と、はたして西郷隆盛とは何者であったのか……という問いがあり、その最終舞台となった城山の現場を歩く日々が続いた。……そして個展が終わり、東京に戻って来たと思いきや、その二日後の夜には、314年前に両国橋近く、本所松坂町で起きた赤穂浪士による吉良邸の討ち入り現場跡にいた。日はくしくも同じ12月14日。……この日は昔日の夜に吉良の首を求めて吉良邸の中で47人の浪士が血眼で乱闘を演じた、まさにその同じ空間にあるシアタ―Xで、314年後のこの日に、勅使川原三郎氏のダンス公演「白痴」が演じられるのである。両国に早く来た私は北斎美術館、関東大震災最大の悲劇の現場となった4万人が焼死した現場跡に建つ震災記念館と死者が眠る納骨堂を訪れてから、会場に来たのであるが、少し早かったので、吉良邸跡に行き、その後で、既に夜の帳がおりて闇が支配する付近を散策したのであった。

 

……この付近は、勝海舟、芥川龍之介、小林一茶、葛飾北斎たちの生誕や住居跡が多く、江戸の空間にタイムスリップしたような不思議な時間感覚を覚えるゾ―ンであるが、人気の絶えた暗い通りを歩いていて、彼方の暗闇に何かの碑が朧気に見えたので近づいて見て驚いた。……赤穂浪士の一人で、大胆にも吉良邸の近くで米屋に成りすまして吉良邸にも浸入し内偵していたという、前原伊助のその米屋跡を示す碑が、それなのであった。

 

 

最近の研究で、この「赤穂事件」に関する実際の史実がよりわかって来ており、先日のTVでもそこに言及していたが、この前原伊助宅で大石内蔵助はじめ47士は、隠してあった討ち入りの衣装に変え、武器を手にして、僅かに100メ―トルもない吉良邸に速攻で討ち入ったのであった。(……話しには聞いていたが、こんな間近から出発したのか!)……私たちのイメ―ジに刷り込まれている忠臣蔵の服装、雪、炭倉などの話しは、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵(1748年初演)や、それを模した、後の映画やTVに拠るものがあるが、……では、本当は、真実はどうであったか!?を徹底的に知りたい私にとって、この私の〈知りたい願望〉に答えてくれる、遠い彼方からの恩寵のように、闇夜に見る前原伊助の碑は私を高ぶらせてくれたのであった。

 

…………たかが碑を見つけたくらいで、かくも高ぶる私のこの文章を読みながら、読者は或いは何がそんなに面白いのかと、疑問に思われているかもしれない。かくいう私自身も我が身をかえりみて時々自分でも可笑しく映る時があるのだから当然であろう。………………私は、美術評論めいた本(『モナリザミステリ―』も書いているが、その執筆の際に自分に課した事があった。それは、学者のような机上の空論はやめて現場主義に徹する事であった。刑事が信条としている現場百回を範としたリアリティ―のある文章を書く事に徹したのである。結果、拙著を読まれた方々から頂いた感想で最も多かったものが、私がモナリザの多面的な謎に迫る為に、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアに飛び、また京都大学大学院の発達心理学の教授に、哲学者の木田元氏を介してお会いし、私の持論と推論の裏付けを確認したり、光明寺に赴いて、秘仏の法然像を見せてもらい、モナリザとの類似、そしてダヴィンチと法然の内面にある母子合体の願望の共通点に迫るなど……およそかつての美術論になかった現場主義の徹底とその醍醐味に共鳴されたという方々が多かった。私の中に蓄積している様々な知識の点の散らばりが、現場に行く事で点と点が繋がり、それが瞬時にして一本の線になり、結果、絡み合っていた紐がほどけて、そこに好奇心と知のカタルシスがどっと流れる瞬間の恍惚が、書く事のアニマとなって伝わってくるのである。それは、制作の悦びとも繋がっていて、強度な美を立ち上げる為に私は徹底的に虚構性を詰めていく。そしてその果てに立ち上がるリアリティ―の顕在化に、表現者としての創る事のアニマを覚えるのである。……要するに私はしつこいのであろう。そして思うのだが、私は消え去った時間と、それが孕んでいる物語に、あまりに遅く生まれてしまった者としての悔恨と羨望を覚えているのであろう。

 

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『鹿児島にて想う事』

鹿児島の画廊「レトロフト」での個展初日は、朝日新聞、南日本新聞の取材があり、またテレビ局からも取材と撮影があったりして、喋ることに追われた1日から始まった。……しかし、画廊の始まりが11時からなので、二日目からは、画廊のオ―ナ―の永井明弘さんにご案内いただいて、西南の役の最期の激戦の地となった、西郷たち60名が籠った洞窟、そして西郷が2発の弾を被弾した場所、……最期に自刃した場所や、砲弾の痕が生々しく残る私学校の石垣、……また、歴代の島津家の墓所、西郷、大久保利通らの生誕地などを連日見て廻っている。……今から7年ばかり前に、私は津山30人殺し〈昭和13年勃発〉の現場に行った事があるが、その時と同じく、例えば司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んでも見えてこない、城山の規模、被弾した場所から自刃までの距離(実際に歩くと180メ―トルくらいであった。)が、現場に行ってみると、その規模や距離感がわかって、当事の激戦の様(政府軍4万対、西郷軍は最期の時は僅かに60数名!)がありありと見えてくるのである。

 

……連日ご案内いただいている永井さんは、幕末史に関しても実に詳しく、同行していただくのに、これ以上の人はいない。しかも永井さんのかつてのご実家は、何と西郷が被弾した場所の、まさにその場所に在って、かつては大きな旅館を経営されていて、画家の梅原龍三郎や海老原喜之助をはじめとして多くの画家や文人が訪れて桜島などを描いたという逸話が残っている。……自刃の後に西郷の首はいったんは河原の地中に埋めて隠されたが、折からの激しい雨に流されて頭部が出てきた為に、政府軍によって発見されたという、その場所について私たちは推理しながら、当事の面影を僅かにとどめている、その城山のエリアを廻った。……西郷を中心に2400名以上が整然と眠る南州墓地に行き、その側に建つ顕彰館を訪れた時は、以前から見たかった物が展示してあって、私は興奮した。……それは、西南の役最大の激戦地だった熊本の田原坂〈たばるざか〉で見つかった物であるが、政府軍と西郷軍が撃ち合った銃撃戦で、お互いの弾が空中でぶつかって1つの塊に変形したその現物が展示されていたのである。この事からも激戦の凄さが生々しくリアルに伝わってくるというものである。

 

西郷隆盛がもし西南の役を起こさずに生きていたならば〈事実は政府の仕掛けた挑発にはまってしまったのであるが……〉、或いは日本は大久保利通によって牽引された欧化主義の稚拙な模倣、そしてその後の資本主義による今日的な疲弊はなく、或いは農本主義を中心に置いた別なこの国の姿があったかもしれない……と考える事には、取り返しのつかない苦い感慨が付きまとう。海軍卿であった勝海舟、そして後の夏目漱石といった真の知識人のみが、この国が辿っていく末路を冷静に見透していたように思われる。…………さて、その想像を信長に広げれば、或いはこの国は合理主義的な海洋国家として、私たち日本人の想像を遥かに越えた可能性の姿があったわけであるが、その意味でも、信長と西郷隆盛の悲劇は、一個人の死を越えた、この国のタ―ニングポイントであったように思われるのであるが、果たして皆さんはどのように思われるであろうか!?

 

……さて、鹿児島での個展は、いよいよ11日で終了する。今回の個展は11時から19時まで毎日ずっと会場に詰めていたので、初めての様々な方とお会いする事が出来、予想していた以上に充実した日々であった。作品を通して多くの人達と巡り会う事の多い、表現者としての私の人生。……ふと想うのであるが、それはあたかも定宿のない旅人の人生と重なって見えてくる時がある。圧倒的に出逢いの多い人生であるかと思うが、この大切な出逢いを、人生は一度限りの思いを強くして、いよいよ形あるものにしていきたいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『いざ鹿児島へ……』  

先日、名古屋のSHUMOKU GALLERYで開催されていた個展「危うさの角度」が盛況のうちに終了した。オ―ナ―の居松篤彦さんとは初めての個展の試みであったが、実際に数日間滞在した事で、予想以上の閃きがあり、次の個展に向けての様々な手掛かりを覚える事が出来た。私は、個展の会場となる各々の画廊の空間の特質を重要視しているが、居松さんの画廊は1階と2階で構成されるという特異な構造から出来ている。この特質性を生かした個展のテ―マを創造的に立ち上げる事が、今の私の緊急の課題なのである。ただ単に作品を分けて展示するのでなく、何かそこに艶やかな着想に基づいた、意表を突くような驚きを孕ませたいのである。………………さて、今年もあと1ヶ月で2016年が終わろうとしている。今年は、3月のぎゃらり―図南(富山)での個展から始まり、次に慌ただしい中での撮影の旅があり、4月にギャラリ―香月(東京)、そして9月に今度は長期のブリュッセルとパリの撮影の旅を断行し、帰国してすぐの9月末から10月中旬までは高島屋の美術画廊Xでの個展、そして休む間もなく11月初旬から名古屋、SHUMOKU GALLERYでの個展と続いたが、今年の最後に、今月の6日から11日まで、鹿児島での初の個展が開催されるのである。

 

会場となる画廊の名は「レトロフトMuseo」。築70年以上の文化遺産的なビルで、まさしくレトロにしてモダンな趣のある鉄筋建ての建物の2階にある画廊。……空間がかなり広く、オブジェ、版画、コラ―ジュ、写真をゆったりと展示する事が出来た。オ―ナ―の永井明弘さん・友美恵さんご夫妻は、不思議なご縁でミラノで出会われたという経緯があり、ご主人はそのミラノで造園デザインを学ばれているので、今回の個展のタイトル『狂った方位―エステ荘の南の庭で』は実に相応しい。しかもご夫妻は実際にロ―マにあるエステ荘を訪れられているので今回の個展は虚構と現実が錯綜している。……今年の2月にはヴェネツィアへの旅に行かれたが、宿に選んだペンショ―ネ・アカデミア(19世紀の旧ロシア領事館の遺構)は、25年前に私も長期で泊まった思い出の宿であったが、展示作業の間に話された、そこで体験された興味深い話は、私の次なる作品のイメ―ジに直結してくるものがあった。…………私の作品の背後にある画廊の窓からは、昭和初期に建てられた銀行の趣のある姿が重なって、まるで1930年代の上海か大連にいるような観があり、作品が呼吸をしているような生気を帯びて見えてくる。……私の作品は九州では、熊本市現代美術館大分県立美術館に収蔵されているが、この鹿児島のレトロフトMuseoでの個展を契機にして、もっと多くの九州の方々に私の作品を観て頂ける事を願っている。

 

 

 

 

 

レトロフトMuseo

鹿児島市名山町2―1 レトロフト千歳ビル2F

TEL099―223―5066

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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