月別アーカイブ: 2月 2016

『抒情のかたち—恩地孝四郎』

3月5日から富山のぎゃらり-図南で開催される個展のために制作に入っていた先日、福井のコレクターの荒井由泰さんからメールが入った。「東京国立近代美術館で開催中の恩地孝四郎展(2月28日まで)を、ぜひ見に行かれたし」、という促しである。…おぉ、そうであった。恩地はぜひとも見なければと思っていたのであるが、制作に入ってしまうと、それに集中するあまり、うっかり見逃すところであった。私は荒井さんに御礼の返信をして、翌日さっそく見に行く事にした。…荒井さんは、その質と量に於て日本でも有数の、版画を主とする大コレクターである。画家のバルテュスとも親交が深く、スイスのアトリエにも行き、また福井の勝山のご自宅にもバルテュスが訪れている事からも、芸術に抱いている感性の確かさが伺える。…その荒井さんのコレクションの中心に恩地孝四郎の膨大な作品があり、世の恩地への評価が高まる遥か以前から早々と、その眼差しは、恩地作品の本質にある馥郁とした詩情性と、造型の先鋭性に注がれていた。

 

さてその恩地孝四郎展であるが、会場には予想を越えた作品数が計算された配置で巧みに展示されており、直にして、恩地の作品と対峙出来る構成になっていた。…会場で先ず目に入る『月映』は、その初期に於て、恩地、田中恭吉(結核で夭折)、藤森たち3人によって作られたオリジナル版画を入れた同人誌であるが、私は最初は田中恭吉に特に関心を寄せていた。彼の尖鋭な感受性と迫りくる死の影の気配に、当時影響を受けていた梶井基次郎を重ね見ていたのである。また池田満寿夫さんが田中を強く推していた事もあり、池田さんとは田中の作品について度々話し合った事を、私は会場で思い出していた。恩地孝四郎に学ぶべき事が多々ある事を教わったのは、駒井哲郎氏からである。…しかし、会場の或る作品を見て、私は駒井宅でその作品について解釈が異なり、駒井氏と意見が対立した事を思い出した。私達はお互い一歩も譲らなかった。…この時には、親友の濱口行雄君も一緒であった。早熟な濱口君は、既に土方巽の弟子であったが、恩地の作品からも強い影響を受けていたと思われる。…今から思えば、まだ20才を過ぎたばかりの頃であったが、この駒井氏や池田さんとの語らいの時間は、言い換えれば正統なる版画史の、貴重な時間を享受していた至福の時間でもあったとも言えようか。そして、その版画史を築いて来た正統なる核の先に、版画の黎明期を生きた抒情詩人—恩地孝四郎の存在があった。

 

私は一人の表現者として、時に、黎明期を生きた表現者たちに羨望の感を抱く時がある。… 例えば、この恩地孝四郎にしても、キュビスムの出現から僅か8年後に早々とそれを取り入れているのであるが、今日と違い、綺麗で詳しい画集すら無い時代、…情報不足による解釈の誤謬が逆に豊かな内面の開示をもたらして、更なる可能性への展開を生み出していっている。…対象への距離の乖離が密なモメントとなり、表現者としての生を豊かなものにしているのである。これは岸田劉生のデュ-ラ−からの影響、あるいは古賀春江のクレ−の場合も然りである。…黎明期には何より実験性の自由があり、不足感の飢餓は表現の深化へと繋がり、ともかくも黎明期には、イメージの新たな胚種が鮮やかに芽吹くのである。

 

ポロックやドスタ-ル、そしてロスコやサムフランシスを語るまでもなく、優れた抽象作品には濃密なる詩情性が具体性を帯びて透かし見えるものである。…恩地孝四郎もまた然りである。恩地は具象と抽象の両極をアクロバティックに生きたが、やはり私は、抽象の方に指を折る。…彼に於ては、具象は遠景に在り、抽象は内面の感情や詩情を立ち上がらせるのに有効である事を、彼の天才は気付いている。しかし、表現は本質的に〈抽象〉であるという言を挟めば、恩地の抽象の作品に在るのは、私たちが既知としてありありと知っている領域に咲く草花であり、裏庭や子供部屋で覚えたノスタルジックな感覚の映しである事が、朝霧が晴れるように瞭然となってくる。…クレ−が幼年期が持つ普遍を詩情に高めたように、恩地もまた既知を突いて、観者のイメージの多層を揺さぶって来るのである。つまり、夭折した田中恭吉は美しく鋭い一人称を生きたが、恩地は表現の本質が虚構に咲く華である事をいつからか知り、覚めた複眼の視点から恩地固有の詩を紡いで来たように思われる。そこから、[飛行官能]や[人体考察]といったエロチックなモダニズム的視点が、漸くにして生まれてくるのである。…ともあれ、この展覧会では、その階上に展示されている岸田劉生・三岸好太郎・松本俊介などの作品と共に、今日私達が失ってきたものの多くが静かに息づいているのである。その意味でも、芸術と共に多くの示唆を含んだ、見応えのある展覧会であった。

 

 

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『今夜はフラゴナ−ル』

部屋の改造をしていると、思わぬ物が現れる事がある。先日はパリ滞在時に書いていた日記が出てきたのでアトリエの庭に出て、久しぶりに読んでみた。すると次なる記述が目に止まった。「3月24日、米田君よりTELあり。解剖学者フラゴナ-ルの人体標本を見る許可が下りた由。極めて吉報なり」と。

 

パリ市の郊外に、18世紀に始まる獣医学校−メゾン・アルフォ-ルがある。映画『存在の耐えられない軽さ』に登場する異形な建物である。…この舘の中に解剖学者フラゴナ-ルが作った何体ものエコルシェ(人体剥皮標本)が封印されて在る事はあまり知られていない。…様々な動物の標本、人の片腕、片脚、羚羊、猿、男の頭、…三人の胎児の死体を立たせて作った『踊る胎児』や『ヘラクレス』のポ-ズを模して作った巨大な長身の男の標本、…しかし分けても注目すべき物は、ロジェ・グルニエの小説『フラゴナ-ルの婚約者』に登場する、馬に跨がった一人の女の標本である。その解剖学者の婚約者であった10代後半の女性は、結婚を両親に反対されて自殺したが、彼はその遺体を掘り出して、標本にした。「……両者とも皮膚はすっかり剥ぎとられている。鋭く切り込まれた筋肉の下から、静脈は青く、動脈は赤く浮かびあがり、色鮮やかな網の目を作りだす。馬は脚を曲げ、ギャロップのかたちを示していた。女は頭を僅かに後ろにのけぞらせ、乾いた唇から歯をのぞかせて、言い知れぬ恐怖に大きく見開いた琺瑯製の眼は極度の不安を叫んでいるようだった。…」(『フラゴナ-ルの婚約者』より)。

 

この驚くべき標本がパリに在る事を知ったのは、私宅に毎月送られてくる月刊誌『太陽』の「パリ-光の都市」の特集であった。不気味極まる写真がその中に在った。ある日、拙宅にその雑誌の編集長をしているS氏が遊びに来たので、話題はその話しになった。…しかし、その標本は非公開の為に取材許可が下りるまでにそうとうな時間と手間を労したという。…近く1年間の留学を控えていた私は、「僕も見たいなぁ、それを!」と言うと、「北川さん、個人で見れるほど甘くないですよ。…絶対に無理です!!」と言われた。「絶対に無理!!」と言われると、絶対に突破してみせるという異常なエネルギーが湧いてくるのが私の常なる癖である。…そしてバルセロナから、滞在をパリに移した私は、その突破に向けて、パリの部屋で獣医学校の校長宛てに手紙を書いた。…今までに私が書いた文章の中でも突出した内容であったと思う。学士論文的な品を保ちつつ、わかりやすく、かつ深い。…それを、知人で東北大学から派遣されていたA氏に仏語に翻訳してもらい、パリに詳しい知人の米田君に渡して、後は結果を待ったのであった。

 

私がパリの友人達に、そのフラゴナ-ルの話しをすると、誰も聞いた事がないという。完全な非公開ゆえに当然であろう。…しかし、私に取材許可が下りたと知るや、ぜひ見たいという人が続き、待ち合わせ駅改札口に集合した時には、つごう6人になっていた。しかも全員が手にカメラを持って来ている。… 折しも雨がぱらつき始め、舘に着いた時は、激しい豪雨になっていた。校長とはお会いした瞬間から波長が合い、私は持参したボルドーのワインを、A氏の手から渡させた。A氏が一番真面目な顔をしていたからであり、私があらかじめ打ち合わせておいた通りに、ワインを校長が喜んで手にした瞬間に、A氏は流暢な仏語で、写真撮影の希望を申し出た。校長は、勿論と言って快諾してくれた。(ちなみに、この半年後にロンドンで、私はエレファントマンの骨格標本…あのマイケルジャクソンが巨額の金を出してでも欲しいと、ロンドン病院に購入を申し出た、その非公開の標本を見る為に私は再び策を練るのであるが、その話しはまたいつか。)…そして私達は案内されて、舘の奥深くにある重い鉄の扉の前に着いた。校長が鍵を取り出して、ギシギシと擦った音を立てながら扉が開かれ、私達は世にも恐ろしい死体標本が夥しく林立する中を通って、目的とするフラゴナルの婚約者(別名—花嫁)の前に立ったのであった。その背景の巨大な硝子窓に激しい雨が吹き付けており、時折、不意の侵入者である私達を怒るかのように、春雷の青白い光がバリバリと、その窓を強く揺らした。私達は三脚を立て、夢中でシャッターを押した。…圧倒されたのか、誰もが無言であった。

 

…それから数年後、本郷の東大医学部の解剖学標本室の中に私はいた。ここも一般人は入れないのであるが、何故か私は自由に出入りを許されている。「…………と、いうわけで私はフラゴナ-ルのエコルシェ(剥皮標本)を見たわけですよ。」と語る私の言葉に、教授M氏の手がピタリと止まり、その目が一瞬光った。…M教授の膝には死んだオランウ-タンが在り、先ほどから教授は剥皮標本を作りながら、私の話に聞き入っていたのである。「君は本当にあのフラゴナ-ルの標本をみれたのか!?」教授の話によれば彼が留学時に見学申請をしたが、どうしても許可は下りなかったのだという。…「君、あのフラゴナ-ルという男は、…天才というようもむしろ…怪物だよ」と言葉が続く。ちなみに今、この膝の上にいるオランウ-タンの標本を、ここまで作るのに半年がかかっているという。…それを、あの男はたった3日間で仕上げてしまうのである。私はパリで、校長から見学の帰りがけに頂いたフラゴナ-ルの研究書を訳したのであるが、生涯に作った標本は2万体、しかしその多くがパリ革命の際に破壊されてしまったのである。
…それから数年後に東大のM教授が急死したという報を受け取った。私達が話しをしていた、あの研究室での急死であったという。…………パリでのこの非日常的な体験は、帰国後に「イメージを皮膚化する試み」という主題へと変容し、『DE SPECULO-或いはスピノザの皮膚の破れ』、『Study of skin—Rimbaud』などの作品の生まれる源になった。 ……… 暖かかった午後の日差しがいつしか薄れて来て、冷たい風が、このアトリエの庭に吹いてきた。…私は日記を閉じて、部屋へと入った。

 

フラゴナール

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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