月別アーカイブ: 5月 2012

『七里ケ浜の二つの幻影』

私がまだ20歳の頃、版画と並行して精進していたものがある。それは、クラシックバレエである。知人の奥様がバレエ教室を開いていて私と出会い、「絶対に才能がある筈」と見込まれて、学費免除で始めたのであった。ニジンスキーを体感したかったという理由もあり、自分でも意外であるが、熱心に練習をした。

 

その夫妻が私を連れて行きたい場所があるというので、江の電の『七里ケ浜』駅で待ち合わせ、或る場所へと向かった。しばらく行くと、まるでポーの奇譚小説にでも登場しそうな古い洋館へと着いた。中から品の良い老嬢が現れて私たちを招き入れてくれた。老嬢の名はナデジタ・パヴロヴァさん。ロシア貴族で革命によって国外退去となり、シベリアからハルピンを経て、母・姉と共に日本に逃れて来たのだという。大正9年の話である。しかしそれにしても古い洋館で、タイムスリップしたような不思議な趣きを館は呈していた。食事の後にお茶が出た。パヴロヴァさんは私を見て「神経が鋭すぎて、それでは身が持たない。人生は長いのだから・・・」と、繰り返し言った。後に池田満寿夫氏や、坂崎乙郎氏が私に云った言葉と同じ事を云われたのである。

 

その日は泊まる事になり、夫妻は一階に、そして私は二階の一室をあてがわれた。部屋に入ると、美しいバレリーナ姿の写真があった。その顔には見覚えがあった。日本にバレエを広めたエリノア・パヴロヴァ(1941年42歳で南京で急死)の遺影である。ナデジタさんはその妹であった。部屋の中には数々の遺品が在り、まるで、あの、バレエの世界を作品化したコーネルの箱の中に入ったような不思議な感覚に私は包まれていた。二階はバレエの稽古場で、大きな窓越しに見る風景は一面が海であった。「崩れる危険があるからバルコニーには絶対出ないように!!」ー そう念を押されたバルコニーに、私は何かに導かれるようにして出てしまった。夕暮れの中に、右手には遠く江ノ島が見え、沖には白い点描のように数隻の船が、まるで時間が止まったように、ゆっくりと航行していくのが見てとれた。・・・その時、私は、この全く同じ光景を既に見ていた事があるのに気がついた。

 

・・・既にセピア色と化した一枚の小さな写真がある。それは富士山と江ノ島を背景に七里ケ浜の砂浜を睦み合うように仲良く歩いている若い男女の写真である。その男女とは、既に鬼籍に入って久しい、私の父と母である。その二人を遠望したように高みから撮った、まるで映画のロングショットのような写真である。新婚当時、横須賀に住んでいた事があると言っていたから、おそらく昭和13年頃、阿部定事件の後に起きた津山30人殺しの頃の世情不安な頃であったかと思う。しかし、あまりに遠望の、やや高みから撮ったこの写真、以前より「誰が撮った」のかが不明でずっと気になっていた。・・・父と母がこの七里ケ浜を歩いた時、既にパヴロヴァ・バレエスクールのこの洋館は建っており、当時としては珍しいモダンな造りのこの建物を指差して、父母は「何か」を語った筈に違いない。まさか後に生まれる自分たちの子供が、時を経て、この洋館のバルコニーに立とうなどとは思っても見なかった筈である。その私が立っているこのバルコニー。・・・私はこのバルコニーから見る構図こそ、昔日に誰かが私の両親を撮った立ち位置と、ピタリと重なる事に記憶が結び着いたのであった。

 

それに気付いた時、・・・私は時間が交差するような不思議な感覚に包まれた。私の今見ているこの瞬間の視線が時間を逆行して、昭和13年にそこを歩いている若い頃の父母を写し撮った。そして、メビウスの輪のように時間が捩じれて、そのセピア色の写真を、父母の形見として私が愛蔵している。・・・そんなあり得ない二重時間の不思議な構造の中に入ってしまったような気分に包まれたのであった。・・・。しかし、その写真は紛れもなく今も私の手元に、・・・医療戸棚の硝子戸の中に今も在る。

 

12年後にパヴロヴァさんは亡くなり、母姉と共に山手の外人墓地に眠っている。後に七里ケ浜の洋館は取り壊され、パヴロヴァ記念館になった。私が記念館を訪れた時、かつて私が一夜を過ごした時に部屋に在った数々の遺品はガラスケースの中に展示されていた。唯、二階の窓から見る一面の海景だけが、当時のままに、鮮烈でまぶしい青の広がりを映していた。・・・その記念館も後に取り壊され、今は唯、幻のように私の記憶の中にそれが在るだけである。

 

それから時を経て、私はその時の体験を元に一点の版画『サン・ミケーレの計測される翼』を作り上げた。体験という私小説は変容し、不穏なニジンスキーの妖しい肖像へと一変する。主題の場所はヴェネツィア。何故ヴェネツィアにニジンスキーが登場するのか。・・・実は、ヴェネツィアのサン・ミケーレ島(墓地の島)には、バレエ・リユス(ロシア・バレエ団)を主宰した興行師で、ニジンスキーと深い関わりを持った人物 – ディアギレフが眠っている。厳寒の冬にヴェネツィアを訪れた折り、私はその作品の想を得た。ニジンスキーを縛ったディアギレフの呪縛こそが、その主題なのであり、私は自身の肖像をそこに重ねている。自分とニジンスキーを重ねるという発想は大胆不遜かもしれないが、キリストに自分をなぞらえて肖像を描いたデューラーの例もある。私の作品には、各々に秘めた記憶が潜んでおり、いつもイメージは、その体験から立ち上がっているのである。

 

 

サン・ミケーレの計測される翼

 

 

Nizinskii - あるいは水の鳥籠

 

 

〈ミクストメディアによる作品(部分)〉

 

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異界からの参入

制作に疲れた時は読書に限る。そういうわけで、最近読んでいるのは主に、岡本綺堂や内田百閒といった作家たちの怪談物である。岡本の「影を踏まれた女」「一本足の女」等々、そして内田の「冥途」「件」「サラサーテの盤」等々。彼ら名人の筆で立ち上がった異界の様はリアルで、私たちの感覚の琴線を揺さぶり、底無しの恐怖に包んだ後に名状し難い郷愁へと運び去ってくれる。

 

先日は、内田百閒の「蜥蜴(とかげ)」を読んだ。「・・・私は時々女の手を握って見た。女の手はつるつるしていて、手触りが冷たくて、握って見ると底の方が温かかった。・・・」という描写があるこの小説は、蜥蜴が妖しい女に化身した話である。私はイメージ過多の人間なのか、小説の中に入ってしまい、その中に登場するものが、異界から現実に虚構の皮膜を破って参入してくる事がある。「蜥蜴」を読んだ翌日、アトリエへと続く坂道を上がって行くと、その途中で奇妙な光景を見た。二匹の蜥蜴が死闘している最中なのである。しかし、近寄った私を見て二匹は共に仮死を装ったまま全く動こうとしない。面白いと思った私はアトリエから定規を持って来て、ズシリと重い二匹の蜥蜴をひっくり返した。生白い腹部が熱い陽光を浴びて、妙に官能的で艶っぽい。

 

見ると、一匹の蜥蜴は尾の先端を自らが寸断し、その弱い方の腹部を、対の蜥蜴の口が深々と噛んでいる。すると瞬間に連想が立ち、何故かそれが、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝の性愛図に見えて来た。葉山の日陰茶屋で大杉を刺した神近市子ではなく、伊藤であるのは勿論、私の趣味に拠る。私の視線は、トンボの羽を無邪気にむしり取る少年の残酷なイノセントへと移って行く。しかし少年は転じて、一人の憲兵大尉、甘粕正彦の冷酷な視線へと変わる。このあたりの目まぐるしい連想は、まるで丸尾末広のそれである。・・・・・私がいつまでも見つめていると、二匹の蜥蜴はさすがに飽きたのか仮死の演技を止め、新橋演舞場の楽屋から帰宅を急ぐ役者のように、西と東へと各々が去って行ったのであった。− そういう訳で、以下にお見せするのは、その時に撮った蜥蜴の死闘図である。めったに見られないこの姿、「待ち受け画面」として使っていただければなお嬉しい。

 

 

 

 

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『まるで・・・ミステリーの現場』

 

東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで6月10日まで開催中の、『レオナルド・ダ・ヴィンチ – 美の理想』展を見に行った。目玉作品は日本初公開の《ほつれ髪の女》である。会場に入ると、先ずデューラーの木版画による「レオナルド・アカデミア」の幾何学紋章があり、私をふるわせた。デューラーはイタリア訪問でミケランジェロラファエロには会った事を記しているが、ダ・ヴィンチの名前だけは全く記していない。しかし日記の中で「私はイタリアに行き、遠近法を巧みに操って描く人に会いに行くのだ」と記している。この文は(自然・人工)の二つの遠近法を駆使出来た唯一の人物ダ・ヴィンチを指す。そしてデューラーの素描帖には、ダ・ヴィンチに直接会わなければ出来ない素描の写しが存在する。しかし、デューラーは意図的にそれを伏せている。何故か・・・!? 高階秀爾氏は、二人は会っていないとし、坂崎乙郎氏は間違いなく二人は密かに会っていたと推理している。私は坂崎氏と同じ考えである。

 

会場には《レダと白鳥》の写しや、《岩窟の聖母》、そしてダ・ヴィンチの《衣紋の素描》など数多くの作品が展示されているが、やはり圧巻は《ほつれ髪の女》である。霊妙深遠、まさに円熟期の至高点と云えよう。これは私見であるが、この作品は《モナ・リザ》を描いた次にダ・ヴィンチが着手した作品であると推察している。この作品は《レダと白鳥》の下絵である。《レダと白鳥》のオリジナル作品は行方不明であるが、弟子が描いたコピーの写し(本展に展示)が存在する。そこから推察するに、その表現世界は、官能を越えて妖しいまでに淫蕩的であり、ダ・ヴィンチの精神の暗部を映していて興味が尽きない。会場内には想像以上に貴重な作品が多く展示されており、美術史を越えて人類史上最大の謎めいた人物といえるダ・ヴィンチの創造の舞台裏に踏み入った感興があり、まるで上質なミステリーの現場として私には映った。会場出口のショップでは、拙著『絵画の迷宮』も多くのレオナルド本に混じって平積みで販売されている。係の方から拙著が好評で売れ行きがかなり良く、追加の注文をしているという話を伺った。作者としては嬉しい話である。

 

・・・会場を出て、一階のカフェに行く。待ち合わせをしていた毎日新聞学芸部のK氏と会う。この展覧会は毎日新聞社も主催に関わっていて、K氏は私の話を聞いて、それを新聞に掲載するのである。これは連載のため、何人かが登場する企画との由。私はK氏に一時間ばかり感想を話した。私の思いつくままの意見をK氏が素早く速記していく。そのK氏の指先を見ていて、・・・ふと、私の中で、今まで誰も気付いていない、故に誰も書いていない、ダ・ヴィンチの最後のパトロンであったフランソワ一世、そして彼が仕掛けて誕生した〈フォンテーヌブロー派〉という、短期で消えた危うい表現世界について、たちまち幾つかの推論と仮説が立ち上がってくるのであった。これは今考えている書き下ろしの本の最終章に使える。その為には、フランソワ一世という人物の仮面を剥ぐために、彼についての文献を漁る必要があるであろう。ダ・ヴィンチとフランソワ一世。その結び付きには、今一つの知られざる面があったに相違ない。ともあれ、本展はダ・ヴィンチの内面が透かし見える、ミステリアスな展覧会である。未だ御覧になっておられない方にはぜひお勧めしたい内容である。

 

 

追記:

6月2日(土)まで東京都中央区・八重洲にあるSHINOBAZU  GALLERYて『モノクロームの夢〜駒井哲郎を中心に』展を開催中。作家は駒井哲郎池田満寿夫加納光於・北川健次・浜口陽三ヴォルス他。黒の版画に拘った作家たちのなかなか見られない珍しい作品を数多く展示。又、東京・恵比寿にあるLIBRAIRIE6(シス書店)は、《動物》を主題にした不思議な切り口の展覧会を開催中。野中ユリ・合田佐和子他。私の作品は、《ヘレネの馬》の頭部彫像をミクストメディアで表現した作品が展示されています。詳しくは各ギャラリーのサイトを御覧ください。

 

 

 

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『彼方に光る物—— あれは!?』

①先日、友人のTから電話があり、話の流れでTの伯父にあたる人が早朝に亡くなられたという事を知った。私はすかさず、「今日あたり、家の電気系統に何らかの異常が必ず起きる筈だから注意しておくように」と促した。しかしTは「伯父は現世に執着するような性格ではないから・・・」と笑って、本気にとりあおうとしなかった。

 

果たしてその翌日、Tからメールが入った。「居間のテレビが突然映らなくなってしまった。・・・原因は不明で、こんな事は初めてである」と。私はやはりと思った。というのは、このような現象は私の友人間で度々起きており、事実、父が亡くなった時も、家のブレーカーが突然切れて停電になった。ご存知のとおり、ブレーカーを切るには多少の人為的な力がなければ切れるものではない。それが無人の場所で起きたのである。察するに、私たちの意識の核にあるエクトプラズムと称される電気エネルギーを帯びた臨体が呈する何らかの交換作用と思われるが、私はこの現象を、死者が生者に見せる最後の感情 – 想いの変容だと分析している。だから私たちは身近に死者が出た場合には注視して、この現象を受容し、それをもって最後の決別とすべきだと思っている。この現象に対して、恐怖や嘲笑ではなく、静かなる意識と慈愛をもって、この「不思議」に応えることこそが、生者が死者に対して見せるやさしさではないかと思っている。

 

②中公文庫から刊行されている、地球物理学者の寺田寅彦著『地震雑感/津波と人間』と題する随筆選集の中に、「震災日記より」という章があり、そこに興味深い記述がある。「八月二十六日 雲、夕方雷雨。月蝕雨で見えず。夕方珍しい電光(Rocket lighting)が西から天頂へかけての空に見えた。丁度紙テープを投げるように西から東へ延びて行くのであった。一同で見物する。この歳になるまでこんなお光は見たことがないと母上が云う。」

 

それから六日後の九月一日、あの関東大震災が起きている。寺田氏は別章の「地震に伴う光の現象」と題する中で、徹底してこの予知的現象の実見録を古今東西の文献の中に求め、その多なるを詳細に記述している。資料の追求は日本だけにとどまらず、紀元前373年のギリシャの都市ヘリケで起きた大地震に、この現象の最も古い記述があった事、又、ドイツの哲学者のカント(1724〜1804)が執筆した「地震論」の中に、1755年に起きたリスボンの大地震(マグニチュード8,5)を実見したカントが、「大地の揺れ始める数時間前に空が赤く光った」と、大気の異変を表す徴候を記している事などを報告している。寺田氏は「地震の第一原因については、まだ少しも確かなことが言われないと言ってもいいかと思う。従って、原因の方から理論的に地震の予報の出来るようになるのは未だいつのことだか見込みが立たない」と記しているが、それは今日もなお同様かと思う。東大と京大が各々に発表した地震発生の確率の数字の全くの異なりを見るにつけ、私たちは、もはや学者たちに見切りをつけ、確たる予兆のひとつである、この発光現象に注視を向け、自衛を考えることの方がよほど現実的かと思う。今日ではツィッターなどがあり、(悪質な風聞には留意しつつも)一瞬にして、この情報の伝播は可能なのである。数日前から数時間前に現れる、この現象を重視する方が、直前に出るあの忌まわしい警告よりも、よほど生存の確率が高いかと思われる。

 

寺田氏の文は最後に、「地震がして空が光るという事が考えられるか、と云えば、それは考えられる事で、地上50メートルの辺りに真空放電のありやすい処があるし、これは空中の放電である、空が光るということである、と言う方が簡単に説明が出来るかとも思われる。どうも古今東西の記録を比較して見ると、その中には今度の実見者の云う事から推定される現象と、符節を合わせるようなものが多く、私はこの現象は、地震の研究上、かなり注目すべき現象で、これを研究してみたいと思っている。」と、結んでいる。これは80年以上前の記述であるが、日本人として初のノーベル賞候補にさえ挙った寺田寅彦氏の遺訓を継ぐような、開明的な真の知的な人材は果たして今日存在するのであろうか。残念ながら私は、寡聞にしてそれを知らない。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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