私がまだ20歳の頃、版画と並行して精進していたものがある。それは、クラシックバレエである。知人の奥様がバレエ教室を開いていて私と出会い、「絶対に才能がある筈」と見込まれて、学費免除で始めたのであった。ニジンスキーを体感したかったという理由もあり、自分でも意外であるが、熱心に練習をした。
その夫妻が私を連れて行きたい場所があるというので、江の電の『七里ケ浜』駅で待ち合わせ、或る場所へと向かった。しばらく行くと、まるでポーの奇譚小説にでも登場しそうな古い洋館へと着いた。中から品の良い老嬢が現れて私たちを招き入れてくれた。老嬢の名はナデジタ・パヴロヴァさん。ロシア貴族で革命によって国外退去となり、シベリアからハルピンを経て、母・姉と共に日本に逃れて来たのだという。大正9年の話である。しかしそれにしても古い洋館で、タイムスリップしたような不思議な趣きを館は呈していた。食事の後にお茶が出た。パヴロヴァさんは私を見て「神経が鋭すぎて、それでは身が持たない。人生は長いのだから・・・」と、繰り返し言った。後に池田満寿夫氏や、坂崎乙郎氏が私に云った言葉と同じ事を云われたのである。
その日は泊まる事になり、夫妻は一階に、そして私は二階の一室をあてがわれた。部屋に入ると、美しいバレリーナ姿の写真があった。その顔には見覚えがあった。日本にバレエを広めたエリノア・パヴロヴァ(1941年42歳で南京で急死)の遺影である。ナデジタさんはその妹であった。部屋の中には数々の遺品が在り、まるで、あの、バレエの世界を作品化したコーネルの箱の中に入ったような不思議な感覚に私は包まれていた。二階はバレエの稽古場で、大きな窓越しに見る風景は一面が海であった。「崩れる危険があるからバルコニーには絶対出ないように!!」ー そう念を押されたバルコニーに、私は何かに導かれるようにして出てしまった。夕暮れの中に、右手には遠く江ノ島が見え、沖には白い点描のように数隻の船が、まるで時間が止まったように、ゆっくりと航行していくのが見てとれた。・・・その時、私は、この全く同じ光景を既に見ていた事があるのに気がついた。
・・・既にセピア色と化した一枚の小さな写真がある。それは富士山と江ノ島を背景に七里ケ浜の砂浜を睦み合うように仲良く歩いている若い男女の写真である。その男女とは、既に鬼籍に入って久しい、私の父と母である。その二人を遠望したように高みから撮った、まるで映画のロングショットのような写真である。新婚当時、横須賀に住んでいた事があると言っていたから、おそらく昭和13年頃、阿部定事件の後に起きた津山30人殺しの頃の世情不安な頃であったかと思う。しかし、あまりに遠望の、やや高みから撮ったこの写真、以前より「誰が撮った」のかが不明でずっと気になっていた。・・・父と母がこの七里ケ浜を歩いた時、既にパヴロヴァ・バレエスクールのこの洋館は建っており、当時としては珍しいモダンな造りのこの建物を指差して、父母は「何か」を語った筈に違いない。まさか後に生まれる自分たちの子供が、時を経て、この洋館のバルコニーに立とうなどとは思っても見なかった筈である。その私が立っているこのバルコニー。・・・私はこのバルコニーから見る構図こそ、昔日に誰かが私の両親を撮った立ち位置と、ピタリと重なる事に記憶が結び着いたのであった。
それに気付いた時、・・・私は時間が交差するような不思議な感覚に包まれた。私の今見ているこの瞬間の視線が時間を逆行して、昭和13年にそこを歩いている若い頃の父母を写し撮った。そして、メビウスの輪のように時間が捩じれて、そのセピア色の写真を、父母の形見として私が愛蔵している。・・・そんなあり得ない二重時間の不思議な構造の中に入ってしまったような気分に包まれたのであった。・・・。しかし、その写真は紛れもなく今も私の手元に、・・・医療戸棚の硝子戸の中に今も在る。
12年後にパヴロヴァさんは亡くなり、母姉と共に山手の外人墓地に眠っている。後に七里ケ浜の洋館は取り壊され、パヴロヴァ記念館になった。私が記念館を訪れた時、かつて私が一夜を過ごした時に部屋に在った数々の遺品はガラスケースの中に展示されていた。唯、二階の窓から見る一面の海景だけが、当時のままに、鮮烈でまぶしい青の広がりを映していた。・・・その記念館も後に取り壊され、今は唯、幻のように私の記憶の中にそれが在るだけである。
それから時を経て、私はその時の体験を元に一点の版画『サン・ミケーレの計測される翼』を作り上げた。体験という私小説は変容し、不穏なニジンスキーの妖しい肖像へと一変する。主題の場所はヴェネツィア。何故ヴェネツィアにニジンスキーが登場するのか。・・・実は、ヴェネツィアのサン・ミケーレ島(墓地の島)には、バレエ・リユス(ロシア・バレエ団)を主宰した興行師で、ニジンスキーと深い関わりを持った人物 – ディアギレフが眠っている。厳寒の冬にヴェネツィアを訪れた折り、私はその作品の想を得た。ニジンスキーを縛ったディアギレフの呪縛こそが、その主題なのであり、私は自身の肖像をそこに重ねている。自分とニジンスキーを重ねるという発想は大胆不遜かもしれないが、キリストに自分をなぞらえて肖像を描いたデューラーの例もある。私の作品には、各々に秘めた記憶が潜んでおり、いつもイメージは、その体験から立ち上がっているのである。