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『潜在光景―私の中に誰かがいる』

……午前早くにアトリエに向かう道で、死にかけているアゲハ蝶を見た。車の往来があるので不憫に思い、手に取って近くの涼しげな木立の緑陰に行き、静かに放した。……指先に蝶の羽の感触が微かに残っていて、幼年時代の夏を思い出した。

 

……私は蝶が好きで、時々オブジェの中にもそのイメ―ジを取り込んでいる。……蝶と云えば、安西冬衛の詩に『春』という題で「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」という美しい一行詩がある。……韃靼(だったん)海峡が効いている。これが津軽海峡やマゼラン……では、渡っていく蝶が見えて来ない。韃靼海峡を見た事が無くても見えて来る風景が在るから、人の想像力とは不思議なものである。色彩と同じく、言葉の様々な響きにも様々な物語が潜んでいるのである。安西冬衛のその一行詩を思い出したので、そうだ、一行の詩を自分も作ろうと思い、歩きながら考えた。詩はたちまち出来た。……「1991年4月12日、パリの空が落ちて、バルザックの像が欠けた夜に……」。…さて題をどうするかと考えて、三つの題が続けざまに浮かんだ。『オダリスク』.『クレオの不信』.『近代劇場』……。題を何れにするかで、この一行詩の中のイメ―ジが全く違って来るから、言葉とは実に面白い。まるでイメ―ジを紡ぐ装置である。……だからこそ、私は作品に付けるタイトルにはこだわりを持っている。

 

……そんな事を思いながら歩いていると、やがてアトリエが見えて来た。郵便受けを開けると、大きな封筒が届いていた。差出人は、世田谷美術館の学芸員の矢野進さんからである。先日お会いした時に、1986年に美術館が開館した当初に開催されたロバ―ト・ラウシェンバ―グ展を私は観ていなかったので、その図録をいつか拝見したいとお願いしていたところ、その図版とテクストのコピ―を送って来られたのである。矢野さんは「ラウシェンバ―グは何故か日本ではあまり語られていない」と言う。私も同感である。

 

 

……テクストは、ロバ―ト・ヒュ―ズの長文の論考と、美術評論家の東野芳明とラウシェンバ―グの対談で構成されていて実に面白かった。そして懐かしかった。……私は大学では奥野健男の文学ゼミでバシュラ―ルをやり、東野のゼミでは20世紀のアメリカ美術を代表する、ラウシェンバ―グと双璧的な存在であったジャスパ―・ジョーンズをやった。ゼミを掛け持ちでやっていたのだから私もいい加減なものである。……ジャスパ―・ジョーンズについて、その思うところを書くという課題で、私は「ジョーンズの作品の前に立つと、いつも何故か決まって、犯人の遺留品があまりに多く残された殺人現場に立ち会っているような戸惑いにも似た印象を覚える。そこには解釈を迷宮の方へと誘ってやまない、作者の意図的な仕掛けが息づいている。……」という、ミステリアスな書き出しから始まる40枚ばかりの論考を書いた事があった。……他の学生は生真面目な硬い文章で始まっていたが、東野は私の論点を面白がり、君と同じような視点でジョーンズについて書いた、アメリカの美術評論家がいたよ、と教えてくれた。へぇ~そうなのか、と私は思ったものである。

 

 

……このゼミは最初は、ジョン・レノンの詞の翻訳から始まって面白かったが、東野と学生、更に詩人の瀧口修造氏が組んで、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称ー大ガラス』の日本版を作るという段になって、私はゼミをやめた。……あの『大ガラス』という作品は、後日のアクシデントで偶然入った時に出来た美しい亀裂があってこそで、亀裂が無い以上、作っても無意味である。それが何故わからないのか!という醒めた分析が私にはあった。簡単に云えば、韃靼海峡と書くべきところを、解釈の歪み、或いはセンスの無さで「てふてふが一匹マゼラン海峡を渡っていった」になってしまうのである。

 

…………その二年後、竹橋の近代美術館で開催された『東京国際版画ビエンナ―レ展』で私は招待作家として出品し、パ―ティの席で東野芳明と再会したが、それが最期の別れであった。しかし時が経ち、東野もラウシェンバ―グも亡くなった今、対談を読むと、あの70年代が甦って来て先ずは何より懐かしいものがあった。今の時代には無いラウシェンバ―グの真摯で熱い語りがそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回のブログ、これ迄は伏線で、これからが本題である。……ある日、神田神保町の古書店街を歩いていた時に『ナショナルジオグラフィック』の本が、山積みで店頭に出ていた。その内の何冊めかにアメリカ先住民の『インディアン』を特集したのがあったので開いて見た。すると!?という感覚に私はなった。……見ている本がロバ―ト・ラウシェンバ―グの作品特集かと思うようなオブジェの幾つかが、インディアンのテントの脇に、日常と同化して転がっていたのである。廃物―古いブリキ缶から自転車の車輪、石……それらの組み合わせのセンス、土の匂いの漂う色彩感覚、ノスタルジアetc……何だか似ているなぁ……、普通はそう思って流してしまうかもしれないが、!?から!!へと閃きが移るように、或る仮説を立ててしまうのが私の良いところなのである。仮説とはすなわち「ひょっとして、ラウシェンバ―グにはインディアンの血が入っているのではないか!!」…… そう閃いたのである。

 

……すぐに私は家に帰って、仮説の裏付けを取るべく、ラウシェンバ―グの英語版の画集を出して来て、真面目に訳を進めていった。……私の閃きは当たっていた。彼のル―ツにはインディアンもいればオランダの血も流れていた。……世界で起きたあらゆる事柄を、彼は時代や国を越えて一つの画面に共存して現すコンバイン(結合)という主題で現していったが、何の事はない、彼自身がコンバインそのものであり、彼の内なる先祖 をして、彼を突き上げ作らしている感が、彼の作品からは濃密に伝わって来るのである。彼のモダニズムは、遠いノスタルジアと直結している、そうも云えるのである。……矢野さんから送って頂いたテクストにも、「……父ア―ネスト・ラウシェンバ―グは、ベルリンから移住して来た医者の息子だったが、この祖父に当る人物はテキサス南部まで流れて来て、チェロキ―・インディアンの娘と結婚したのだった」とある。

 

……東野芳明との対談で、「そういう世界というものの表層の曖昧な多様性を、君の画面は反映していると思うんだ。そのとき君は、画面にコンバインするイメ―ジやオブジェをどうやって選ぶのか、ということ。視覚的な面白さか、言語的な基準か、或いは本能的になのか」と質問する東野に、ラウシェンバ―グは「それは本能的にだな。しかし同時に、選択はまた、事実や物から逆襲されもする。曖昧さというのはいい言葉だ。……」と語っている。ラウシェンバ―グが即答で答えた「それは本能的にだな」……この本能的に、という言葉が孕む意味は、或いは「遠くからの呼び声」「波動して来る遠い記憶」と何処かで繋がっているとも読めるのである。

 

 

でも、それはたまたまだよ!……そうおっしゃる方の為に次の例はどうであろう。登場するのは20世紀前半の絵画史をキュビズムという視覚実験的な試みで席巻したパブロ・ピカソである。ある日、私は思うところがあってピカソの顔写真をじっくりと眺めていて、こう想った。「この男の異様な顔相、邪視的な鋭い眼……、彼の生地のスペイン・マラガの先、ジブラルタル海峡を渡ればすぐにアフリカ大陸……、……ひょっとして彼(ピカソ)のル―ツには、アフリカの黒人の血が入っているのではないか!?」……そういう仮説を立てた事があった。……しかし、先のラウシェンバ―グと違い、ピカソの遥かに遠い先祖を次々に遡って辿る事は、そこまで詳しい研究書が無い日本では不可能な事。……しかし、それから何年かを経て、私は新聞(確か読売新聞の文化欄だったか)の或る記事を見て驚いた。……アメリカの美術館の学芸員の女性が、私と同じ着想を立てて、彼の生地のマラガに行き、親戚も尋ね歩いて調査した結果、遂にピカソの遠い先祖にアフリカ人がいた事を突き止めたのである。

 

つまり、こうである。……20世紀の美術史の革新的な幕開けは、1907年の『アヴィニョンの娘たち』から始まる。……それはキュビスム絵画の代表作である。キュビスムとは、一つの対象一方向の視点だけでなく、上下左右裏表斜めと様々な視点を同時的に描く手法
である。……しかし、アフリカの子供たちが、例えばみんなで1頭の馬の絵を描く時に、ある子供は真横の姿を描くが、他の子は自分が好きな頭部を正面から描き、また他の子は真上から、或いは真後ろから描くという。つまりキュビスムと同じく「多焦点」で描くのが、ごく普通なのである。キュビスム以前からアフリカではキュビスム的な絵が普通に描かれていたのである。

 

 

 

 

 

 

……ピカソと共にキュビスム絵画を追求したのはブラック(フランスの画家)であり、この二人のキュビスム絵画は見分けがつかないという。しかし私はその判別法を掴んでいる。画面が洗練されていて構図にエスプリが在るのがブラックで、画面が御し難く不調和で、例えて云えば、摘み草や土の匂いがするのがピカソである。これは間違いのない判別法である。……ひょっとするとピカソ自身、アフリカの子供達の描き方がキュビスムと繋がっている事に気がついてなかったかも知れないが、本当の史実は作者の胸の中に封印されたままである。

 

このラウシェンバ―グ、ピカソの例に見るように、近代の産物であるモダニズムというものも、作者自身が無自覚のままに、遠い先祖の記憶からそれは産まれ、それこそ、ラウシェンバ―グが即答したように「それは本能的にだな」という言葉の中に、創造の秘密が潜んでいるようにも想われる。私達の体内には遠い先祖からの遺伝子が脈々と流れており、それは本人が死んで肉体が滅んでも、船を乗り換えるようにその子孫へと繋がっていて、遺伝子が滅びる事はけっして無い。そこには様々な物語りの記憶も濃密に入っていると想われる。……私達の過去を辿れば、共通したノスタルジアの源郷、記憶の原器があると私は思っている。そして、…………それは私の作品を作る際に通奏低音として在る主題でもあるのである。

 

 

 

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『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』

毎日人々がたくさん行き交う東京駅には、総理大臣の暗殺現場を示すプレ―トが2つあるが、今ではそれを知る人は少ない。……1つは、大正10年に東京駅丸の内南口改札付近で刺殺(即死)された原敬。もう1つは、昭和5年に東海道本線10番線乗り場ホ―ムで銃撃(後日死去)された濱口雄幸である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日の白昼に起きた安倍元総理大臣の暗殺現場の映像は悲惨なものであった。そして仰向けに横たわる安倍氏の姿は生々しいものであった。その様には、もはや誰も介入出来ない、取り返しのつかない、私達誰もがやがて各々に迎える死の瞬間を代弁して実況しているかのような、絶対の孤独な姿があった。……必死で甦生のマッサ―ジをする人、大声で救急車や近くに医者を求める人々。プロとは言い難い迂闊な失策をやってしまったSPと警官が抑え込んでいる犯人の姿。……その中で、画面に映る安倍氏の姿を観ていて、ふと、正に今、死に瀕したこの人の脳裡には果たして、何が浮かんでいるのかを想像した。(……自分の経験を基にして。)』

 

…………以前にブログでも書いたが、私は2回死にかけている。1回目は2才の時だからもちろん記憶にないが、病弱だった上に流行りの百日咳が悪化して危篤状態になった。(この世に縁が無かった私を憐れんで、棺桶の中に何を入れるかを両親が涙を流しながら相談したという。)しかし、運が良かったのかどうか、当時たまたま承認されたばかりの薬を注射して、奇跡的に死の淵から生還した事を後に母から聞かされた。……2回目は高1の時に体験した溺死に瀕した時である。突然、堰を切ったように水が口の中に大量に入って来た時の、かつて体験した事の無い苦しみの後は、一転して母の胎内に守られて羊水に浸っているかのような幸福感に充ちた感覚の中、天上から実に美しい光が射しはじめ、私は、あぁ何て幸せなんだろう、このままでいい……このままで、もういい……そう、ぎりぎりの意識が感じていた時、……突然救助の手に引き上げられ、先ほどの苦しみを今一度体験した後に、私は感覚が割れるように甦生した。これは、立花隆氏の著書『臨死体験』で、死の淵から生還した人々が語る、柔らかで至福感に充ちた光が射して来たという多くの証言と一致する体験である。

 

 

……人が亡くなる直前、最後まで機能しているのは〈聴覚〉であるという。だから、救急車や医者を求めて叫ぶ声は、彼の脳裡には、おそらく遠くの意味知らぬノイズとして、或いは別な世界のものとして聴こえていたのではあるまいか……。それを聴いているのは、もはや安倍晋三という直前迄の俗名を持った存在でなく、また憲政史上最長の総理職を勤めたという事も既に意味を持たない、ただの素に還元された無垢な魂、例えるならば産まれたばかりの素の意識として最期に聴いたようにも想われる。……或いは、銃弾の破片が心臓を直撃して、心肺停止の自力呼吸が出来ない為のショックにより、コンセントを急に抜くように、感覚も硬直して何もない無と化してしまったか。ともかくそこには絶対の孤独が透かし見えたのであった。

 

 

 

……話は変わるが、以前に井上ひさし氏の本を読んでいて興味深い箇所に出会った。……井上氏は学生時に上智大学で教えている神父に「先生、人は死ぬと天国に行くと言いますが、天国なんて本当にあるのでしょうか?」と質問した。すると神父いわく「天国があるかどうかは、死んだ人が生き返っていないので誰にもわかりません。しかし、天国があると思った方が愉しいではありませんか!!」と。私は神父のこの言葉に膝を打って食いついた。なるほどと!!…信ずる者は救われる、である。しかし、こうも考えた。天国、もしそれがあるとしても、そのイメ―ジとしてある世界はあまりに事も無く、ただけだるすぎて退屈の極みである。何より一番気に馴染まないのは、それが他者の考えた概念にすぎない事である。……信ずる者は救われるならば、私は自分だけの独自な考えで、死を現世からの別れとしてでなく、次なる新生が、その先に在ると考えよう!……そう考えるようになった。

 

……そして考えたのが、死ぬ瞬間に素と帰した魂を翔ばして、私が最も行きたいと熱望している明治26年の、東京は浅草の時空間に行く事である。……何故、明治26年に拘るかというと、度々私のブログに登場する浅草凌雲閣(通称浅草十二階)が、その少し前の明治23年に完成し、またこのブログに、これもまた頻繁に登場する天才女流作家の樋口一葉(本名.樋口奈津、時に夏子)が、『奇跡の14ケ月』と云われる『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』等の文学史に残る名作を書く前の、正に極貧の時に在り(明治29年に24才で肺結核で死去)、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いていて、朝靄の中で浅草花川戸、今戸橋近辺を仕入れに歩いている、正にその時空間に魂を翔ばして、朝靄の中を歩く樋口一葉の、その謎に充ちた顔を一瞬掠め視てから、次なる浅草凌雲閣へと魂を翔ばし、谷崎潤一郎江戸川乱歩達、数多くの文藝家がその異形なる塔にイメ―ジを触発されて小説にも度々登場した、その姿を仰ぎ見て、魂はその中の螺旋階段を一気に駆け抜け、屋上の展望階から明治26年の東京に魂を放射したいと、ひたすらそう考えているのである。

 

 
……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。

 

………………「新しい出発だ。窓をもう少しお開け、新生だ、ああ素晴らしい!」と臨終時に話して逝ったのは北原白秋である。白秋の魂もまた新生に向けて至福感の中で逝ったのか。

 

…………とまれ、私もまた死に臨して、白秋のようでありたいと考えているのである。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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