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『裏番・中原中也』

敗戦記念日の8月15日になると、毎年その頃に大戦時の悲惨な映像が流れ、幾つかの特集番組がテレビで流される。先日たまたま観たNHKの朝の番組もその1つであった。(観られた方はかなり多いと思われる)……先ず映し出されたのは、レイテ戦で日本兵が突撃し、銃火や火炎放射器で焼かれて次々と戦死していく映像であった。

 

……次に作家・大岡昇平『レイテ戦記』の一節が朗読で流された。……それは、ある上官の事を書いた文章であるが、その上官の事を実に卑怯な男で、部下からの信頼もなく、いかに惨めな姿で死んでいったかを、その上官の実名を挙げて書いたものであった。……(ちなみに、この『レイテ戦記』は詳細な資料調査に基づいたものと評価され、反戦文学の代表作と評されている)。当然多くの読者は、実名で書かれたこの上官の事を事実とし、卑怯で惨めな男と記憶してしまう。……しかし大岡昇平の『レイテ戦記』が発表(1967年から連載開始)されていらい、この事で、実に50年以上もの間、屈辱に耐えて来た人達がいた。大岡に卑怯な男と実名で書かれた上官の遺族の人達である。

 

……番組では、当時5歳くらいであった上官のお嬢さん(現在は90歳くらい)が登場し、「記憶の中の父は絶対にそのような卑怯な人ではなかった。戦地での父の真実の姿を知りたい」と話す映像が映し出された。…………しかし番組製作時に、お嬢さんの長年の無念を晴らす奇跡が起きる。……お嬢さんは、偶然或る番組でレイテ戦の生存者(現在100歳くらい)が未だ生きている事を知り、テレビ局のスタッフとその人の住居へと赴いた。……「ひょっとして、その方は父と接点があった方かもしれない」……藁をもすがる想いで、その人と面会した。(画面に映るその人は100歳に達しているとは言え、矍鑠としていて、記憶の冴えがしっかりとした人であった)。

 

……レイテ島には当時84000人の兵隊がおり(その内80000人が戦死)、配属された部隊の数もたくさん在り、両者に接点がある方が難しい。……しかし驚いた事に、その人と上官は同じ部隊であり、上官の人となりは未だしっかりと記憶に焼き付いているという。そして画面は、上官とその人、そして部隊の全員が写っている集合写真のアップとなった。(写真から、上官の温厚さの中に秘めた信念の芯の強さが伝わって来る)。……その人は語り始めた。……「上官は実に立派な方で部隊の部下からも慕われていました」「私が生きて帰れたのも上官のおかげです。上官は(私はここで死ぬが、お前は生きろ!生きて日本に帰れ!!)そう言って亡くなられました。この本の中に書かれているような卑怯な人ではありません」と、はっきりと断言したのであった。

 

……私はここに2つの奇跡を観て感動した。1つは、この生存者にまるで導きのように上官の遺族が存命中にギリギリで会えた事、もう1つは、上官がこの一兵卒の部下を日本に帰した事で、80年後に自分の汚名を晴らす事が出来、お嬢さんに、自分の戦地での実像を伝えられようとは想像していなかったに違いない、何という運命の、しかし不思議な糸の結び付きかと、私は感動したのであった。

 

……「これで長年の辛かった思いが晴れました。有難うございました」とそのお嬢さんは語ったが、最後に「死人に口はありませんからね」とも静かに語った。……それは大岡昇平に、「卑怯者で惨めな姿で死んでいった」と書かれた事に、既に死者となってしまった父は何も言い返せない事への無念を語る言葉であり、悔しさであった。この遺族の方の秘めた本心には、明らかにされたこの部下の証言を大岡に見せて、何故あのような根拠のない、悪意とも取れる文章を書いたのかを抗議文か何かをしたためるか、或いは直接会って問う事にあった事は想像に難くない。……しかし大岡は35年前の1988年に亡くなっており、この無念はもはや届かない。

 

 

……しかしここに、大岡昇平が未だ存命中に、手紙で強烈な抗議文を書いて大岡に送った当時26才の若僧がいた。……誰あろう、私である。

 

……昔、角川書店から電話が入り、大岡昇平の『中原中也』を文庫で出すので、その挿画を表紙に描いて欲しいという依頼があった。私はその本の事は知っていた。先達の、銅版画の詩人と言われた駒井哲郎さんの版画『笑う赤ん坊』を大岡の『中原中也』の単行本の表紙にしたのを覚えていたのである。中原中也の無垢さの内の御しがたい突き上げを、この版画の選択は実にピタリと合っており、表紙の挿画として突出した素晴らしい出来だと記憶していた。だから、その駒井さんと勝負しようと思い、編集者との打ち合わせを楽しみにしていたのであった。

 

……後日担当の編集者に会うと、浮かぬ顔で「実は大岡先生が、文庫の時にはこの写真を使って欲しいと言って、これを指定してきたのです」と言う。……それは中原中也が確か就職活動の必要を覚えて撮った書類に貼る為の写真で、よく知られたあの写真と違い凡庸な面相で写っている。

 

……私は「人は表紙のセンスの妙で購買を決める場合が多いので、これじゃ売れませんよ」と言った。そして「既存の写真をただ印刷するだけなら、何もあえて私がやる必要はないでしょ」とも言った。実はこの配慮は大岡自身の為でもある。どれだけ売れるか、内実、印税は大岡に限らずどの作家にとっても生命線なのである。これではすぐに絶版は必至と見た。話してみると、……編集者も本音は、この中原ではなく、あの写真を使いたいらしい。

 

まぁしかし私も生活がある。……その頃に芥川賞をとった池田満寿夫さんが、当時20代の私が画廊契約でも大変なのを心配してくれて、角川書店での挿画の仕事を前から私に紹介してくれていたのであった。だから、まぁやるしかない。

 

 

 

……とまれ大岡昇平の指定した写真を採用せず、私は、あのよく知られた写真を製版屋にまわして写真製版で作らせ、濃いセピアのインクを刷ってレイアウトをし、編集者に渡して文庫本が出来上がった(画像掲載)。……この仕事において、当然、私の中原中也への私的解釈など何も入らず、既存のままの昔からの中原中也の顔がそこに刷りあがっていた。

 

 

………それから半年くらい経った頃であったか。雑誌の『太陽』の中原中也特集号が出た。本屋で立ち読みをしていると末尾辺りに、大岡昇平の『中原中也像の変遷』と題する一文が載っていた。中也像の変遷?とは何だ?意味がピンと来ないまま、一読して私は大岡昇平に失望した。そして、大岡、呆けたか!!?とも思った。

 

その文章は実に馬鹿げた論旨で、一言で言えば、私(大岡)が身近にいてよく知っている中原中也の実像と違い、中原を知らぬ次々の世代の読者は、彼のイメ―ジを女性的な弱い像として捕らえている傾向がある。具体的な例を挙げれば、以前に私の『中原中也』の表紙画を担当した北川健次がそれである。実像を知らない甘いイメ―ジで中原中也像を作り上げた北川はまがい物である!と断じているのであった。

 

……先述した通り、私はこの中原中也の写真を全く私的解釈などで変化せず、角川の編集者に用意してもらった写真をそのまま製版屋に回し、編集者がせめてセピアの古色でと言うので、そのまま刷っただけの、昔と何ら変わらない中原中也のままである。……自分の言う事を無視した若僧と私の事が映ったのか、とにかく久しぶりに来た原稿依頼で高ぶったのか、あろう事か、昨今の誰も抱いていない女性的な中原中也のイメ―ジに変化した幻をそこに見て、私が作った表紙に、大岡は怒りのままに長いまつ毛を生えさせてしまったらしい。

 

……私は、この文章を書くに至った大岡の内面を透かし見た。……誰もが平伏する私に対し、この北川という生意気な若僧は……という想いと同時に、中原中也をよく知っているのは身近にいた私だけであるという念が日増しに増して来ており、それをこの駄文に込めたのであろう、そう思った。しかし、まがい物と活字でしっかりと書かれた事は、さすがに許しがたいものがある。呆けた相手とは言え、売られた喧嘩は、矜持として買うのが私の流儀である。さっそく私は抗議文を書く事にした。編集者から大岡の住所を訊き、便箋5枚ばかり書いて、「くらえ!!」とばかりに投函した。

 

「貴殿が小心者でないならば、また自分の書いた文章にプロの作家として自責を負う自覚があるならば、この手紙を途中で破る事なく最後まで読まれたし。この手紙文は先日書いた中原中也に関する貴殿の明らかな間違いを理路整然と正す文章である。…………」から始まる文は、最後に「私は中原中也の詩や文章の熱心な読者の一人であるが、その彼の文章の中に貴殿について書かれた文章は、小林秀雄と違い僅かしか無い事もまた事実です。最後になりますが、貴殿の小説について何か書く事は礼儀かもしれません。しかし、多くの読者がそうであるように、私は三島由紀夫松本清張の熱心な読者であり、彼らの作品や生き方から多大な影響を受けています。しかし、多くの人達がそうであるように、貴殿の小説は全く読んでいないので、何も書く事はありません。……定家卿曰く、芸道の極意は身養生に極まれりと。御身お大事に。北川健次」………………今、記憶の限りに書いているが、まぁこんな内容であった。

 

…………しばらくして、反応があったが、それは私の予期した通りの事であった。私でなく角川の編集者に怒りの矛先が行き、以来、私の挿画の仕事は無くなった。しかし良くしたものでその後に他の出版社から挿画の依頼が来た。またまがい物と書かれた雑誌『太陽』ともその後で何故か縁があり、エッセイを書いたり、また編集長から企画の相談を依頼されるようになるから、人生はわからない。

 

……さて、抗議文の中で松本清張の名前が出て来たが、これには理由がある。……大岡昇平は松本清張の文学を否定し、「彼の作品は純文学でないから認めない」と発言しているのであるが、彼はいつから純文学の裁き手になったのであろうか?……文壇では小林秀雄を我が身の借景としている事から来る、この増長とも取れる発言は、如何にも不可解であり、如何にも小さい。

 

……松本清張は『或る小倉日記伝』で芥川賞を授賞した後、周知の通り、社会派推理小説という新分野を切り開き、その分野の越境の様は拡がりを見せながらとどまる事を知らない生涯であった。純文学などという狭い意識にこだわっていては果たせないスケ―ルの幅であり、私は20代から大きな影響を受けている。……「純文学ではないから認めない」という大岡の発言を嫉妬だと断ずる人もいるが、底辺から這い上がって、一気に小説家の水準を超える作家へと上がっていった松本清張への蔑視もあるように思われる。『神聖喜劇』などの著作で知られる小説家の大西巨人氏は、大岡の発言の中に矛盾や屈折を早々と看破しているが、やはりと思わせるものがある。

 

……最後に、『レイテ戦記』に戻るが、詳細な調査として評価された面があるこの作品。実は正確な戦史でなく、実質は小説であるが、この点にそもそもの構造的な無理がある。戦史で言うなら、吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』の方が遥かに正確さと密度において優れており、吉村昭氏の『関東大震災』の方がその詳細な調査の深さにおいて群を抜いている。この度の番組で明らかになった『レイテ戦記』の虚実のほころび。……今、もし大岡昇平の研究家なる者が存在するとしたならば、このレイテ戦記の虚の部分を徹底調査して洗い直す必要があると、私は汚名を受けた遺族の方々に代わって考えるのである。

 

 

……今回のブログはマチスについて書く予定でいたが、思いがけずテレビ番組で、著者の無責任さを知ってしまい、このブログを書く事になってしまった。……さぁ次は何を書こうか、ともかくご期待頂けると有り難いです。

 

 

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『暗いトンネルを抜けると、そこは……』

①……最近まで使われていた「地球温暖化」という言葉が終わり、新たに「地球灼熱化」という言葉に変わった事をご存じだろうか?……灼熱、この言葉は凄い。もはや万事休すである。この言葉による警告を発したのは国連総長との由。……まぁ言葉がどう変わろうと、人類自滅のカウントダウンはとうに進んでいる事に変わりはない。数年前のブログに書いたが、それは人々の楽観的な予測を越えて加速的に、かつ容赦なく早まっているという事である。

 

……「永久凍土」と云われたシベリアやアラスカの広大なツンドラ気候地帯では、今、ボトボトと溶けた大量の水が流れだし、もはや停める術はない。……ダ・ヴィンチが、最初は「人類は火で全滅する」と手稿に書き、後に火を水に修正して大洪水の素描をとり憑かれたように描いたが、火を灼熱と解せば「人類は火と水によって間違いなく全滅する」と終にはなるのであろうか。核の外圧やAIによる人間の内面の家畜化を視るより早く、大洪水と灼熱の一気襲来は早晩に来る具体的なものがある。

 

 

②先月末に不覚にもコロナに感染し、陽性がわかった夜には、熱が40度近くに上がり危なかったが、二年前に開発されたラゲブリオカプセルという重症化を防ぐ新薬を処方されたお陰で、翌日は一気に平熱に下がり、喉の炎症も忽ち治まった。しかし四日間は静養して外出を自粛したので、本(主に怪談話)ばかり読んでいた。その時は泉鏡花、小泉八雲ではなく、岡本綺堂の『影を踏まれた女』、内田百閒『サラサ―テの盤』『東京日記』、そして川端康成の短篇集等を読んで過ごした。拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)でも書いたが、『サラサ―テの盤』を原作にした映画が鈴木清順監督の名作『ツィゴイネルワイゼン』である。直接的な怪奇物語でなく、鎌倉の夜の闇から派生した妖しい気配が通奏低音のように流れる不思議な映画で、この世とかの世が交わる怪異譚である。

 

撮影場所は八幡宮、小町に在るミルクホ―ル、切通し、暗い谷戸などを上手く取り込んでいた。映画を観て数ヵ月後に、映画の中で病院として使われていた実在の建物(湘南サナトリウム)が老朽化で解体されるという報を新聞で知り、その翌日は、私は早々と、鎌倉と逗子の間の小坪に在るそのサナトリウムの建物の中にいた。……サナトリウムは閉鎖されていたが、まだ一部は外来患者の往診を行っていた。……アポ無しで訪れた私は「○○大学の建築科の助手ですが、この建物が解体される事を新聞で知り、拝見させて頂きたくやって来ました」と言うと、北杜夫風の温厚そうな院長が「いいですよ。ゆっくりご覧下さい」と許可がおり、私は廃校になった小学校のような広大な建物の中を観て廻った。かつては多くの結核患者で埋まっていた建物の中は今は無人で、渡り廊下を歩くと鎌倉と逗子から吹いてくる海風が涼しかった。

 

私はこのサナトリウムで、今でも信じがたい光景を見て唖然とした事があった。……或る病室の真ん中で蝶の死骸を見たのであるが、蝶の死骸は十羽ばかり(種類は大小様々)、それが実に綺麗な一直線に並んで死んでいたのであった。……正に、このサナトリウムでロケをした『ツィゴイネルワイゼン』の映画の画面そのままに、眼前に耽美極まる幻のような光景が、あたかも私を待ち受けるようにして在ったのである。…………「死者も夢を見るのか?」「腐りかけがいいのよ。なんでも腐って……」……記憶に残っているその映画の幾つかの台詞が甦って来た。……そしてその時、私は思ったのであった。「はっきりと見える幻もまた在るのである」と。

 

 

……次に読んだのは『川端康成異相短編集』(高原英理編・中公文庫)。本中の『死体紹介人』『蛇』『赤い喪服』……等は再読であるが、その中の『無言』という短篇は初めてであった。……ノ―ベル賞受賞後の川端は全く小説が書けなくなってしまったが、その後の自分を予言するような小説の出だしはこうである。

……「大宮明房はもう一語も言わないそうである。六十六歳の小説家だが、もはや一字も書かないそうである。……」からの出だしを読み進めていくと「!?」と驚いて、本を落としそうになった。……先ほどの湘南サナトリウムの話の続きを思わせる事が書いてあったのである。

 

……鎌倉と逗子の間の名越切通しの傍に小坪トンネル(名越隧道)という、多くの人々が霊を視てしまうという、あまりにも有名な、いわゆる心霊スポットなるものがある。実は鎌倉の長谷に住んでいる川端康成が興味を持ち、深夜にタクシ―をその場所に停め馴染みの運転手と共に数時間、霊の出現を待った事があった。長時間待った後に「やっぱり出ないね……」と川端が話すと、運転手が震えながら「先生、先生の横に……います!!」と語ったという話は有名である。川端には見えなかったが、運転手は女が川端の真横に座っているのがありありと見えたのだという。

 

この話を聴いた私は、早速、小坪トンネルへと赴いた。以前に行った湘南サナトリウム(結核患者が数多く亡くなったという)は既に無くなっていたが、そこから近い所に、そのトンネルはあった。

訪れたのは夏の午後である。トンネルは二つ並んで在るが、その向かって左側が件のトンネルである。中に入り端を歩いて行くと、背後に強い「気」を感じたので振り向くと、何とまさかの黒塗りの霊柩車と遺族を乗せた車が2台、静かに私の横を抜けて行くのであった。

 

そして先方出口の陽射しの明るい所を抜けると、霊柩車は左上へと上がるのが見えた。(……坂が在るのか?)……霊柩車がこのトンネルの上に何ゆえにと思っていると「後に付いて来い!」という、誰かが私を喚ぶような気がして、私は好奇心のままに霊柩車の後から坂を登って行くと、そこは古びた暗い火葬場であった。川端の小説には、こう書いてある。

 

「……鎌倉から逗子へ車でゆくには、トンネルを抜けるが、あまり気持のいい道ではない。トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂もある。夜中に火葬場の下を通る車に、若い女の幽霊が乗って来るというのだ。」

 

……小説ではトンネルの手前に火葬場がとあるが、実際はトンネルの真上、名越切通しの近くにそれは在る。……川端は小説の中で馴染みの運転手に幽霊の実体験をいろいろ訊く語りが続き、「どのへん?」「このへんでしょう。逗子からの帰りで、空車ですね」「人が乗ってると、出ないの?」「さあ、私の聞いたのは、帰りの空車ですね。焼き場の下あたりから、ふうっと乗るんですか。車をとめて乗せるわけじゃないんだそうです。いつ乗るかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです。そのくせ、バック・ミラアにはうつってないんですよ。」

 

…………二人の会話はなおも続くのであるが、運転手の話によると、見たのは一人二人ではないという。そして女の霊は決まって逗子方面から現れ、鎌倉の町へ入って、ほっとするといなくなるのだという。

 

さて、私は先にこの小説の冒頭で、後の川端自身、つまり小説を書けなくなった自身の姿を暗示・予言していると書いたが、もう1つ、暗示している事がある。……この『無言』という小説が書かれたのは昭和二十八年の『中央公論』。川端54歳の時であり、19年後に73歳で逗子マリ―ナの自室でガス管をくわえたまま自殺するのであるが、その川端を焼いた斎場が、このトンネルの真上に在った、件の火葬場なのであった。今では綺麗でモダンな斎場に変わっているらしいが、私が見た時は、昼なお暗くて哀しい感じがする、惨めな感の漂う、つまりは川端康成の孤独な生涯にあまりにも相応しい火葬場であった。

 

……この小坪トンネルの幽霊が出るという話。川端が書いた時から逆算すると少なくとも80年以上も前から目撃者がおり、語り続けられていた事になる。……このトンネルの近くには古い墓地や史蹟が多く、また私が探訪した、死の病と云われた結核患者も数多くいた湘南サナトリウムからも近い。……こう書いていると、秋の寂しい時にまた行きたくなってしまうから、困ったものである。……コロナ感染後の静養には、もっと力が入ってメンタルに良い、例えば司馬遼太郎あたりが良いのであるが、つい手がそちらの方向の小説へと向かってしまう私なのであった。

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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