今から30年ばかり前の或る夏の昼下がり、私は京都・清水の産寧坂の石段下の茶店で〈かき氷〉を食べていた。4泊ほどの小旅行の時である。食べていて、ふと何故か急に・・・(元治元年六月五日の池田屋事変の現場跡は今はどうなっているか)が急に知りたくなり店を後にした。八坂神社・祇園を抜けて北上し、三条小橋畔に至ると、池田屋事変の碑が在り、そこには小さなビルが建っていた。中に入り、階段を上ると、そこは古書店になっていた。名を『アスタルテ書房』という。入って一目見て驚いた。まるでリラダンの書斎のような趣のある中、幻想文学関連の、今では貴重な古書が整然と本棚に並んでいる。その間の高みに澁澤龍彦の書いた「魔」という一文字が額装して掛けてある。かつて近藤・土方・沖田・永倉たちが、長州や土佐の志士たちと死闘を演じた生々しい「血の空間」は、今は一転して「知の空間」と化していたのである。ふと気付くと文学青年風の長髪の店主が本を読みながら涼し気な目をして椅子に腰掛けている。(・・・この男、只者じゃないな)。そう思いながら数冊の本を買い求め、初めてこの店主と言葉を交わした。渡された名刺を見ると、「佐々木一彌」と書いてある。「池田屋・・・そして、・・・佐々木」。私はこの名字に心当たりがあり、こう切り出した。「池田屋事変の後、主の池田屋惣兵衛は六角の獄で亡くなり、その後は、新選組に切られた志士の幽霊が出ると云われ、池田屋は廃業し、その後に建った旅館の名が・・・確か、佐々木旅館。・・・という事は、あなたは子孫の方ではないですか!?」と。先祖の事をマニアックに知っている初めての人間に出会った事が嬉しかったのか、驚きながら、店主の佐々木さんははじめてニッコリと笑い「そうです。」と言った。私も自分の名を告げると、佐々木さんは再び驚いた。私の名前を知っているだけでなく、数点、私の作品も所有していたのであった。私たちはすぐに親しくなり、以来、京都へ行く度に、佐々木さんの店に行くのが楽しみとなっていたのである。店は、生前に澁澤龍彦がこの書店の質の高さに驚き、「絶対に一冊も本を売らないように!!」と無茶な願いを佐々木さんにした程に、いつ訪れても中身が充実していた。残念ながら、佐々木さんはやがてこの場所を離れて三条御池のマンションに古書店を移し、現場跡のビルは、不二屋から様々に店が変わり、今では当時の面影は全く無くなって既に久しい。
今年の四月頃に佐々木さんから病気回復の手紙を頂いて、その後の体調が気になっていたのではあるが、今月の15日に、急性骨髄性白血病で急逝されたとの報せが入ってきた。毎年頂く年賀状には、三月に急逝した金子國義氏の粋な絵が印刷されたのが入っていたが、奇しくも金子氏の後を追うように逝かれてしまったのであろうか。享年61歳。彼の蔵書は古書市に出て分散していくとの由。密かに、そのデカダンな生き方を注視していただけに実に惜しまれる、早い死である。
・・・それにしても、思い返せば私は何故あの時、急に池田屋の跡が見たくなって行ったのであろうか。何かに引き寄せられるようにして私たちは出会ったのであるが、もしあの時思い立たなかったならば・・・私たちは出会う事は無かったように思われる。・・・人生の出会いとは、不思議なものである。