月別アーカイブ: 4月 2021

『二つの暗い池の話』

4月の初旬に、久しぶりに福井に帰郷した。個展のためであったが、今回はもう1つの目的があった。それは私が小さい時にたびたび父に連れられて行っていた、親戚のいる小さな村にある池を見に行く事であった。……2年前に兄の納骨の時に従妹と会った際、私が小さい頃によく遊んでいた池に連れて行きたいという話になり、私は一緒に車でその村に行き、その池を見た。見て、疑問が湧いて来た。……全く私には見覚えがなかったからである。しかし従妹たちは私がその池をとても気にいっていて、村に来た時には真っ先にその池に行き、いつも暗くなるまで遊んでいたのを、今でもよく覚えているという。……過去という消え行く時間に対しては異常に執着があり、それは私の作品の主題の一つにさえなっており、過去の記憶に関しては、全てが繋がるくらいに視覚的に覚えているだけに、全く幼年時代の記憶から、まるでその池の事を書いた記述のある頁だけが引き裂かれたように抜け落ちている事が、その後ずっと気になっていた。だから、個展が開かれるのを機に、もう一度その池を見に行きたくなったのである。……4月初旬。福井駅に着くと従妹達が迎えに来てくれて、先ずはその池へと車で向かったのであった。しかし、池の近くにある神社や、遥かに見る山河の眺めは記憶のままに私を迎えてくれたのであったが、その池だけは2年前と同じく、記憶から抜け落ちたままにあくまで静かであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……しかし、池の事を除けば、幼年時代の記憶のままに見るこの静かな村の眺めは、21世紀の今の殺伐とした騒音を離れて、タイムスリップしたようにその豊かな抒情を湛えており、たちまち私は夭折の詩人、立原道造の代表作『のちのおもひに』の冒頭の一節を思い出した。

 

 

 

夢はいつもかへって行った/ 山の麓のさびしい村に/ 水引草に風が立ち/ 草ひばりのうたひやまない/ しづまりかへった午さがりの林道を/……………………………………………………………………………………

 

 

 

私は、立原の詩を思い出しながら、私が今ここにいる意味に気づいた。それは表現者の私の無意識の内に棲まう、創造への衝動を立ち上がらせている事に気づいたのであった。……私は記憶から欠落しているこの池を、次の詩集に書き加えようと本能的に計っている事に気づいたのである。……記憶からの欠落・水・水底、時間が停まったままの風景、時空間の歪み……。かつて読んだレイ・ブラッドベリ(アメリカの幻想文学の第一人者)の代表作『みずうみ』は、SFと抒情詩を絡めた最高傑作であるが、私はそれに挑むかのように、眼前に静まり返っている池を何物かに見立てて書こうと思っている自分自身に、ようやく気づいたのであった。第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』に続く次の詩集のタイトルは、既に決めてある。……眼前の池が如何なる風に変容するのか、そして果たして、その水底から暗く秘められた「何」が浮かび上がって来るのかは、私自身まだわからない。とまれ、池の光景を今度はしっかりと記憶に留めて、私はアトリエに戻って来たのであった。

 

 

……続いて、フランス北西部、ブルタ―ニュ地方にある池、……通称『洗濯女のいる池』と、パリのパサ―ジュの話を書く予定であったが、この実際に現存する池の話は不思議さと不気味さを存分に含んでおり、立原道造のあまりに美しい詩が、それは今回でなく次回にぜひ書けと言うので、気合いを入れてちかじかの続きとして挑もうと思う。よって、読者諸兄には乞うご期待なのである。

 

 

 

〈追記〉……ブラッドベリの『みずうみ』のあらすじは、以下のような内容である。

……結婚したばかりの一人の青年が妻を連れて故郷に帰って来る。そして村のはずれにある湖に連れて来る。妻はその美しい眺めに感動するが、しかし主人公の青年には、この湖への辛い過去の記憶があった。

 

青年がまだ幼い頃、仲がよく、いつも一緒に遊んでいた美しい少女がいた。二人はよくこの湖に来て遊んでいたが、或る日、二人を悲劇が襲った。湖で少女が溺れ、遂に死体は浮かんで来なかったのである。……時が経ち青年は都会に出て、やがて結婚した。……そして新婚の妻に自分が育った懐かしい故郷を見せたくなりはるばる列車に乗って帰郷する。……そして、件の湖を妻に見せる。妻は美しい眺めに驚嘆するが、青年は今まで記憶から封印していた過去の悲しい思い出を、いつしか思い出していた。……………… その時であった。湖の対岸で何人かの人が湖面を指して騒ぎ始めたのであった。子供の水死体が浮かんだのである。幼い死体は岸辺に運ばれる。青年はその岸辺に駈けて行き、その水死体を見て愕然とする。死体は、青年が幼い時にこの湖に沈んだまま遂に浮かんで来なかった、あの美しい少女なのであった。しかも不思議な事に、死体は全く腐乱しておらず、正につい先ほど水死したかのように、あの時の少女そのままの美しい姿なのであった。…………遠くから妻が近付いて来て、夫である青年に声をかけた。青年は振り返り妻の顔を見る。しかし青年の目に映ったのは、全く見覚えなどない、知らない女性の顔なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

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『企画の冴え―電線絵画展を観る』

今年の2月初旬に刊行した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が引き続き好評で、サイトのトップ頁の購入方法を読まれた方から、詩集購入の申し込みがアトリエに届き、署名を書いてお送りする日々が続いている。一冊の詩集を仲立ちとして、それまで未知であった人と感性、美意識を共有して知り合える事の不思議な人生の縁。そして、読まれた方から感想が届き、次なる制作、執筆への大きな自信、励みとなっている。

 

先日も新聞の文化欄に私のオブジェへの的確で明晰な批評文が載り、併せて詩集に関しても核心を突いた批評文が書いてあった。……その部分を引用しよう。「2月に第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』を出した。擬人法やレトリック(修辞)を駆使。すべてを語らない微妙な狭間(はざま)で表現し、読み手の自由な感性に委ねている。」また文化部の別な方からは「時空を越えて豊かなイメ―ジが膨らむ珠玉の詩篇」という讚を頂いた。……私はイメ―ジの発芽を立ち上げるが、芽から息吹いた花を愛で、その意味を読み、その人の感性に則して豊かな対話を続けていくのが鑑賞者や読者であり、その人がもう一人の作者になっていく。……というのは私の持論であるが、今回の詩集刊行の経験を経て、いよいよその考えは強い確信へとなっていっているのである。

 

 

3月のはじめに、日本橋高島屋美術部の福田朋秋さんから、練馬区立美術館で開催が始まった『電線絵画展』が面白い!!というお話しを頂いていたが、オブジェの制作が始まっていたので、なかなか時間が取れないままずっと、その事が気になっていた。そんな折りに、この展覧会の図録編集を担当されている求龍堂の深谷路子さんから、展覧会の図録と招待状が送られて来た。(深谷さんは私の『美の侵犯―蕪村×西洋美術』や作品集『危うさの角度』なども編集担当された方で、既に長いお付き合いをして頂いている。)……送られて来た図録を開き、パラパラと頁を捲った瞬間、早くも熱い戦慄が走った。私が偏愛してやまない浅草十二階関連の写真や絵画(三点)、他に岸田劉生佐伯祐三松本竣介月岡芳年川瀬巴水坂本繁二郎…etc などが載っており、何より響いたのは、「電線」を切り口として、小林清親以来の近・現代の絵画を視点を変えて観てみよう、というその企画力の妙に先ず打たれた。この展覧会はぜひ観ておかなくては悔いが残る、……そう思ったのである。

 

会期がまもなく終わろうとしている或る日、練馬の美術館を訪れた。美術館というのは、たいてい各室に一人か二人の観客がポツンといるくらいが常であるが、私の予想を越えて各室には沢山の観客がいて驚いた。……そして思った。優れた企画の展覧会を人々は待ち望んでいるのだと。つまり、人々は企画の妙に揺さぶられたいのである。ただ、たいていの美術館の企画は学芸員の独り善がりの、社会学的な凡な企画、既に通史としての評価が定まった作品をただ並べ展示しただけの安易な展覧会が多い。……しかし私が常々このブログでも書いているように、企画とは、…企画の妙とは、比較文化論的な切り口から立ち上げねば意味が無いのである。……色の違った2枚の透明な薄いガラス板の部分を重ねると、その部分が全く違った色の変幻を見せてくる。……AとBという各々の色が転じて、AはZという思いもかけない色彩の綾を魅せてくる。つまりは既存の固定したイメ―ジが崩され、作品の眼差しの偏角から、意外な未知の相貌が現れてくるのである。

 

図録によると、企画・編集した人は練馬区立美術館加藤陽介氏とある。私は未だこの方とは面識がないが、ネットで視ると、『月岡芳年展』『坂本繁二郎展』も企画されている由で、実は私はこれらの展覧会も訪れている。……美術館の面白さ、魅力とは、つまりはその美術館に企画の才のある人がいるか否かで決まってくる。……このコロナ禍で海外からの美術作品の借り入れは不可能になっているが、企画の妙を持ってすれば、国内にある作品だけでも鮮やかな、私達を煽ってやまない展覧会は十分に可能なのである。……今回の展覧会でも明らかなように、「美術館に人が訪れない」のではなく、「行きたくなる展覧会」の企画力があれば人々は行くのである。……ただ、そのような刺激的な展覧会が、この国はあまりに少ないだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………次回は、一転して『二つの不気味な池』の話を書く予定。ゴ―ギャンが生まれ、また坂本繁二郎が愛したフランス北西部・ブルタ―ニュ地方に現存する奇怪な池と、私の幼年期の記憶の淵にある池をめぐる話。乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『世界は、イメ―ジという幻で出来ている』

……1年を過ぎてもなお、コロナ禍は収束の気配を見せず、更にはより強力な変異種が現れて、拡大の様相さえ見せている。ネットやメディアの様々な情報が飛び交い、錯綜し、世界はまさに混乱した疑心暗鬼の坩堝と化している。……そんな閉塞感漂う4月のある日、イギリスではワクチン接種が効を奏し始め、新規感染者がピ―ク時から実に9割以上も減少し、死者数も減少に転じているというニュ―スを聴いた。とりあえずは1条の光のごとき朗報ではあるが、しかし、まだ先はわからない。もう少し様子を見なければ、真相はまだわからない。

 

さて今日はイメ―ジの話である。…………少し前になるが、女優の柴咲コウ主演のCMで新歯みがき&洗口液の宣伝に『女優の息』というキャッチコピ―を使っていたのを面白いと思い、ふと目に止まった事がある。……面白い、このコピ―で勝負に出て来たな!……そう思った。女優というイメ―ジも人によっていろいろあるが、その平均値に誰がいるかで、女優の柴咲コウが決まるまでは、幾人もの候補が上がったかと思う。あまり一般人とかけ離れすぎていてもいけない。……しかし、庶民的すぎるイメ―ジの女優はインパクトが足りない。下手をすれば逆効果である。このコピ―にある「息」という言葉に、清楚さと気品がなくなるのである。……かくして、デビュ―当時の突っ張った頃のイメ―ジでなく、少し円くなった今の柴咲コウが、『女優の息』という言葉から放たれる幻想に最も相応しい、……つまり、そう決まったのだと思われる。……「女優」と「息」、この二つの言葉の間に消費者は自らを重ね、イメ―ジが立ち上がって、その商品に手が伸びる。……女優、この言葉のイメ―ジが効果的に一人歩きしていくのである。「女優」……、この言葉から人々が懐くイメ―ジはいろいろあると思うが、共通して、日常性から遊離したある種の華やかさがそこに幻想味を帯びて備わっている事は、間違いのないようである。

 

 

……ある日、私が住んでいる「妙蓮寺」という駅の近くを、昼食を終えた私が散歩がてら歩いていると、いつもと違い、駅前の商店街がざわついていて、人だかりも多い。その人だかりの中から、「女優!」「女優よ!」「女優さん!!」……という声が方々で上がっている。その声が煽る風となって華やぎが増したのか、皆つま先立ちで人だかりの先に熱心に目を注いでいる。見ると、何かのテレビドラマの撮影らしい。……こんなありふれた場所が、撮影の現場になるのかなぁ……。そう思いながら、人だかりの横を通ると、確かに背を向けた女優が一人、公衆電話(おぉ、懐かしい言葉!)を手に、熱心に話している演技の最中であった。(女優?……誰だろう)。「ハイ、カットォ!」監督の声がかかり、その人がこちらをはじめて振り返った。…… その振り返った人は、女優も女優!大女優の……「菅井きんさん」、その人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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