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『10月―新作オブジェの大きな個展、近づく』

……今日は9月24日。彼岸も過ぎて、日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで10月19日から始まる個展が少しずつ近づいて来た。……毎年連続して開催されて来たこの個展も、今年で14回目になる。今までに制作して来たオブジェの作品数は既に1,000点を越えているが、そのほとんどがコレクタ―の人達の所有するところとなり、今、アトリエに残っているのは僅かに30点くらいである。オブジェの前に制作していた銅版画も刷った枚数は5000点以上になるが、全てエディションは完売となっていて、手元には作者が保有するAP版の版画が少しあるだけで、これは表現者として実に幸せな事だと思う。感性の優れたコレクタ―の人達との豊かな出逢い、そして、手元に旧作が残っていないという事の自信が、次なる新たなイメ―ジの領土への挑戦の促しとなり、それらが相乗して、制作への集中力をさらに鋭く高めてくれるのである。

 

…………毎回、主題を変えて開催して来た今までの個展図録を通しで見ていると、自作に懐いているオブジェへの視点や構造、ひいては、この「語り得ぬ、物語りを立ち上げる装置」への想いが、次第に変わって来ている事に気付かされ、様々な感慨がよみがえって来る。……そして今回新たに制作した作品を見ていると、以前にもまして、象徴性や暗示性が増して来ているように思われる。

 

 

今回の個展のタイトルは『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』。新作オブジェ72点は全て完成し、今は、求龍堂から刊行される個展案内状の校正刷りのチェック段階に入っている。案内状作りは個展を象徴的に表す大事な仕事。まだまだ神経の張った日々が続くのである。

 

今回の個展に向けての制作が始まったのは3月の初旬であった。作品全てが完成したのは8月の末。……計算すると6ケ月で72点、1ヶ月で12点の計算になる。しかも1点づつに完成度の高みを自分に課して作って来たわけだが、不可思議な事に作って来たという実感がない。オブジェ、この限りない客体性を持った、不思議なる詩的装置を作るという事は、一種の憑依的な感覚によって集中的に成されているのかもしれない、……と振り返ってみてあらためて思うのである。

 

私が未だ20代前半の学生であった頃、私が信頼している美術評論家の坂崎乙郎さんや、池田満寿夫さんは、私の作品が放つものを直感的に読み取って、感性が鋭すぎて身が持たないのではないかと危ぶんだ事があるが、大丈夫、私はまだ生きている。……集中力と速度、これは私の表現者としての生来の資質なのであろう。だから制作のペ―スはコントロ―ルしていて、時折は興味ある場所に出掛け、気分転換を図っている。

 

 

……その気分転換を兼ねて、9月のある日、田端に在った芥川龍之介の家跡を訪れた。…高校生の頃から芥川龍之介は好きでよく読んでいて、昭和2年に自殺した芥川のその場所をいつか訪れてみたいと思っていたのが、漸く実現したのであった。折しも田端にある田端文士村記念館では、詩人の吉増剛造企画による芥川龍之介展が開催されていて、なかなか見応えのある展示内容であった。会場には芥川関連の貴重な写真や資料が展示されていたが、私が興味を持った写真は、出版記念会の席で向かい合って写っていた、芥川と谷崎潤一郎の姿であった。小説における筋の是非をめぐっての芥川vs谷崎の大論争は、近代文学史上で最も興味深い論争であったが、今、この二人の天才は仲良く、巣鴨の染井墓地横の慈眼寺に並ぶように眠っている。

 

私は昔、コロタイプで精巧に印刷された芥川龍之介の河童の墨絵(確か2mくらいの原寸大)を持っていた事があった。……芥川が自殺したその部屋に、死の直前に描いて放り投げてあった河童(自画像)の絵と自讚の言葉である。その言葉は今でも覚えている。「橋の上ゆ/きうり投げれば水ひびき/すなわち見ゆる/禿のあたま」である。……上ゆの「ゆ」は、からの意味。……橋の上から……である。その現物がないかと探したが会場になかったのは残念であった。

 

……会場を出て、2つ鉄橋を越えて、崖の石段を上がるとそこが芥川龍之介のいた家の跡である。……以前に池田満寿夫さんは、「芥川龍之介とビアズレ―は似ている。共に若い時期にはまるが、その後は熱病が引いたように関心が薄れていく。」と何かの折りに語っていて、上手い事を言うなと感心した事がある。……この二人は、若い時期の先鋭な感性に直で響いてくるものがあるのかもしれない。……夏目漱石はその逆。

 

 

 

 

 

……田端は、芥川龍之介以外にも室生犀星菊池寛野口雨情堀辰雄……などの文士が住み、大龍寺という古刹には正岡子規の墓がある。その墓の前に立ち、かつては漱石が、そして私が唯一、先生とひそかに呼んでいる寺田寅彦氏がこの墓の前に立った事を想い、時間の不思議な流れを思った。……そして、寺のすぐ前に、女優の佐々木愛さんが代表をしている劇団文化座(80年以上の歴史を持つ)があり、その劇団の人としばらく言葉を交わした。いつか機会を作って、是非この劇団の芝居を観てみたくなった。

 

 

 

 

……田端駅裏には田端操作場があり、かつては、佐伯祐三長谷川利行が、その生を刻むように画布に向かって筆を走らせた場所であった。…………半日ばかりの探訪であったが、この日は、過去へと往還出来た貴重な時間と体験になった。……しかし、開発は加速的に進み、風景はますます不毛と化している。……このような過去の豊かだった時代を偲び、体感できるのも、今後はもう不可能になって来るに違いない。……いにしえを訪ね、気分転換を兼ねて充電を図る事は、日本ではもう最後の時かとも思ったのであった。

 

 

 

……10月19日から始まる個展に関しては、順次このブログでも書いていく予定でおります。……さて次回は一転して、最近私の身近に起きた怪奇譚を書こうと思っています。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

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