月別アーカイブ: 3月 2021

『濡れ羽色をした恐怖』

先日、90歳近いご高齢の方と話をしていた時に、その方は、「震災や戦時中の空襲の時と比べて、今のコロナは形が目に見えないから、その分、かえって怖い」と話された。しかし、田山花袋の『東京震災記』に書かれた、運よく生き残った人達でさえ、その日の不気味に揺らぎながら沈んでいく落日の様を見て「この世の終わり」を実感したという物凄い惨状を読み、また戦時中の空襲の連夜に続く猛火の様を、記録からとは言え知っている私は、そんな筈はないだろうと思い詳しく聞くと、そのご高齢の方は、果たして東京の下町の惨状の現場にはおらず、彼方の安全な横浜の高台から真っ赤に燃える東京を遠望していたにすぎないのであった。

 

……震災の猛火から逃げて、墨田区にあった広大な空き地(旧陸軍被服厰跡)に辿り着いた人達およそ4万人が安堵したのも束の間、突然四方八方から飛んで来た烈火の炎を浴びて一瞬で死に絶えた話。また、沖縄のひめゆり部隊で生き残った人達が語った証言、……先ほどまで談笑していた一瞬後に横にいた部隊の女子の顔が半分、銃撃を浴びて吹き飛んでいた……という壮絶な話などと比較すると、まだまだこの度のコロナ禍は、比較にならない程に甘いものがあると私は思う。

 

ただただ目に見えない事から来る、実感なき相手への漠然とした不安と妙な疲れが……ストレスとなっているのである。……さらには、とりあえずワクチンが出来た事から来る気の弛みが、第4波のリバウンドを迎えても、昨年の4月頃の緊張感はもはや失せてしまっているように私には映る。……上野公園や目黒川沿いの桜の花見客の浮かれた様などを観ると、彼らには、見えない敵コロナなるものと、その感染者の現状は、対岸の火事のように見えているのではないだろうか?

 

 

 

 

 

つまりは、コロナウィルスの姿が見えないから気が弛む。緊張の持続が続かない。……ならば、とふと想像してみる。……このウィルスの不気味な存在を、何らかの形で可視化するには、どういう可視化があるのであろうか……と、いささかホラ―映画のコンペティションのお題的に考えてみた。そして1つの光景がすぐに浮かんだ。……その光景とは、じわじわと空から烏(カラス)の姿を消す事である。……では消えた烏は何処にいるのか?……烏は空ではなく、私達の足下に死体となって何羽も其処彼処に横たわっているのである。ウィルスは人以外には感染しないという定説を嘲笑うように、最初はあまり目立たずにパラ…パラと、そして、日を追って、さすがにニュ―スでもこの異変の報道が始まり、……郊外や山中でなく、例えば、浮かれた若者達が交差する渋谷のスクランブル交差点、新橋のJR改札口辺り、新宿歌舞伎町辺りに始まり…京都の祇園・宮川町辺り、福島の四倉町辺り、………にボトボト……と、しかも外傷なく横たわっている烏の死骸から、直感的にコロナウィルスのいよいよの不気味な侵犯の気配をそこに見て、今やウィルスを撒き散らしている若者達もひんやりして、さすがに沈黙するのではあるまいか。(いや、そこまでの感受性は期待出来ないので、やはり無理か!!)。

 

 

 

 

 

……とまれ「濡れ羽色をした恐怖」と、ひとまずは書いて、今日のブログでの妄想は仕舞う事にしよう。

 

 

 

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『物語りの発生する瞬間、……そして〈孔雀〉』

……先日、歌人の笹原玉子さんから、塚本邦雄創刊歌誌『玲瓏』を頂いた。その中に笹原さんの短歌が載っていて、そのイメ―ジの強い喚起力に惹かれた。それは、「氷売りが/扇売りとすれちがふ橋/たったそれだけの/推理小説」という作品である。

 

短歌は、僅か三十一音の定型の器の中に、イメ―ジを喚起する為の言葉が強い暗示性を持って仕掛けられているのであるが、私はこの作品の妙味を感じながら、…なぜ惹かれたのかを分析し、この短歌の構造に重なる別な作品が在る事に行き着いた。……それは、歌川広重の『東海道五十三次』中の、雪の日の場景を描いた『蒲原』と、激しい雨降りの中の場景を描いた『庄野白雨』という作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……『蒲原』と『庄野白雨』の二点は、『東海道五十三次』の作品中でも出色の完成度を持つ作品で、広重の全作品の中でも名作の評価が群を抜いて高い。そこに異論は無い。……ではなぜ、そうなのかを分析すると、他の作品と違い、この二点には共通した或る構造が見えてくる。それは、画中で、人物がすれ違い交差している点である。このすれ違いの〈一瞬〉に、観る人は何か不穏な気配さえも読み取り、イメ―ジが喚起されるのである。……はたして、事件の前なのか!?……それとも事件は既に起きてしまっているのか!?……とまれそこに、湿潤な日本固有の抒情が雪や雨となって奏でられ、作品が想像力を喚起する見事な装置となっているのである。つまり、〈交差する事〉からミステリアスな物語りが発生するのである。この構造に於いて、笹原さんの短歌も広重の浮世絵も、共通した想像力の煽りを私たちに呈してくるのである。先月に刊行した私の詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』所収の最後の作品『フロ―レンスの遠い記憶』の中に、〈直線を引くことから物語が始まる〉というフレ―ズがある。次はその直線を二本、斜めに交差させる事から一切の物語りは求心的に動き始めるのである。

 

……私がこの世で唯一人、先生と心中で呼んでいる寺田寅彦先生は、優れた地球物理学者であるが、また夏目漱石が愛した門下生でもある。ある日、寺田先生が師の漱石に「先生、俳句とは一体どんなものですか?」と問うと漱石は「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」と断じて言った。名言である。……レトリック、すなわち巧みな表現をする技法―修辞学。私は自分の作品(版画、オブジェ他)に対し、このレトリックの意識を第一に注いで来ただけに、この漱石の言葉は気に入っている。

 

さて、十七音の俳句、三十一音の短歌、次なる膨らみを見せる詩、……そして小説へと言葉の量は拡がりを見せはするが、各々がイメ―ジを捕らえ封印する為の異なる構造を持った器―容器と考えればいい。さて、俳句から小説までのその暗示性の違いをわかりやすくする為に、今回は〈孔雀〉という言葉を共通の主題にして、各々のジャンルで、如何に孔雀が変容するか、それを具体的に挙げてみたいと思う。その列挙で今回のブログは終わるが、後はその感想を読者各々の方々の感性に委ねたいと思うのである。

 

 

 

 

 

 

①俳句

「春風に/尾をひろげたる/孔雀哉」 正岡子規

 

「天暑し/孔雀が啼いて/オペラめく」 西東三鬼

 

 

②短歌

「死ぬまへに/孔雀を食はむと/言ひ出でし/大雪の夜の/父を恐るる」  小池光

 

「形見なる/扇ひらけば/いつしかに/孔雀なりけり/愛を求むる」   水原紫苑

 

 

③詩

「忘れてはいつか捉へん、胸の上を過ぐる孔雀の群。/午睡の夢のまにしろき月 音なくのぼり、また沈みゆきぬ。……」

西条八十

 

「イゾラ・ベッラの白い孔雀は、その羽を真夜中に広げる。/マジョ―レの湖面に 幻の満月を映すように。」

 

北川健次

 

④小説

「『それは一体どういう存在形態だろう。生きることにもまして、殺されることが豪奢であり、そのように生と死に一貫した論理を持つふしぎな生物とは?昼の光輝と、夜の光輝とが同一であるような鳥とは?』富岡はさまざまに考えたが、そうして得た結論は、孔雀は殺されることによってしか完成されぬということだった。その豪奢はその殺戮の一点にむかって、弓のように引きしぼられて、孔雀の生涯を支えている。………………」

 

三島由紀夫



 

 

 

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『かくもグロテスクなる二つの深淵 ― ゴヤ×川田喜久治』

ゴヤ

……ここ最近の私のブログは、イタリアやパリを舞台にした内容だったので、このコロナ禍で海外に行けないために、良い気分転換になって面白かった!というメールを何通か頂いた。とは言え私が書く旅の話は、善き人々にお薦め出来るような明るいガイドブックではなく、不思議な話や奇怪な話を扱った実体験、云わば『エウロ―ペの黒い地図』といったものであろうか (※エウロ―ペは「ヨ―ロッパ」の語源)。しかし、だからこそ面白いと人は言ってくれる。まぁ、それに気をよくした訳ではないが、今回はスペインからこのブログは始まる。

 

 

………………………………………………その時、私が乗った飛行機は南仏の上空を飛び、ピレネ―山脈を越え、一気にスペインへと入った。今まで緑の豊饒に充ちていた大地の色が、突然、荒涼とした赤へと一変する。「ピレネ―を越えたら、そこはもうヨ―ロッパではない」という言葉が頭を過る。眼下はもはやバルセロナである。

 

バルセロナ、……ここに来るには、1つの旅の主題というものを私は持っていた。この地に古くから伝わる呪文のような言葉「……バルセロナには今もなお、一匹の夢魔が逃れ潜んでいる。」という言葉の真意を掴む為に、ともかく現場を訪れなくては!という想いで、私はこの地に来たのであった。……ちなみに夢魔という特異な怪物は、深夜に女性の寝室に忍び入り関係を持つが、その女性が宿した子供は天才になる」という伝承がある。……参考までに『夢魔』という絵を描いた画家ヘンリー・フュ―スリ―の作品をあげておこう。

 

 

 

 

 

 

……美術史を俯瞰して観ると、スペインは特異な立ち位置にある。ルネサンスの影響やそれ以後の繋がりを絶って、謂わば単性生殖的にこの国からは、特異な美の表現者が輩出しているのである。ピカソダリミロガウディ ……。私は特異なその現象と、この呪文めいた言葉に何らかの関連を覚え、地勢学、地霊との絡みも合わせて、この現場の地で考えてみたかったのである。そして、その中心にガウディを配し、夢魔の潜み息づいている場所を暗いサグラダ・ファミリア贖罪聖堂に見立て、1ヶ月ばかりの時をバルセロナで過ごした。……結論はそれなりに出し、幾つかの文藝誌や自著の中にそれを書いた。しかし、私はあまりに近代から現代に焦点を絞り過ぎていた観があったようである。……アンドレ・マルロ―の秀逸な『ゴヤ論―サチュルヌ』の最終行「……かくして近代はここから始まる。」という暗示に充ちた一文を加えるべきであった。……それをマドリッドのプラド美術館に行き、ゴヤの『黒い絵』…画家が晩年に描いた14点からなる怪異と不条理と謎に充ちた連作を目の当たりにして、それを痛感したのであった。1つの極論を書くならば、ピカソ、ダリ、ミロ、ガウディ……といった画家のイマジネ―ションの原質は、ゴヤのそれから放射された様々な種子に過ぎなかったと、今にして私は思うのである。一例を挙げればピカソの『ゲルニカ』をゴヤの『黒い絵』の横に配せば、私の言わんとする事が瞭然とするであろう。その深度において『ゲルニカ』は、『黒い絵』に遠く及ばない。ダリ然り、ミロ然り、ガウディ然り……である。極論に響くかも知れないが、しかしゴヤの『黒い絵』の前に実際に立った人ならば、私の言わんとする事に首肯されるであろう。ゴヤを評して「……かくして、近代はここから始まる。」と書いたマルロ―の視座がプラドに到ってようやく実感出来たのである。ことほどさようにゴヤは重く、何より強度であり、そのメッセ―ジに込めた、この世の万象を「グロテスク」「妄」「不条理」とするその冷徹な眼差しは、近・現代を越えて遥か先、つまりこの世の終末までも透かし視ているのである。……私は、このプラドでの体験を経て、ゴヤが晩年の『黒い絵』と同時期に描いた、その主題が最も謎とされている銅版画集『妄―ロス・ディスパラ―ティス』のシリ―ズを欲しいと思った。しかし、他の版画はスペインにあっても、『妄』のシリ―ズは無かった。……そして先のブログで書いたパリのサンジェルマン・デ・プレに移って間もなく、私は近くにある版画商の店で、まるで導きのようにして『妄』の連作版画の内の七点を購入したのであった。私はゴヤの凄さと、その深度を知ってからは、数年間は熱に浮かされたようなものであった。……しかし、現代の表現者の中に、しかもこの日本で、その遺伝子と言おうか、ゴヤに通じる存在を知ったのは、これもまた導きであろうか。……その存在こそが、写真術師―川田喜久治氏なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川田喜久治

……写真術師・川田喜久治氏の事を知ったのは、北鎌倉にある澁澤龍彦氏の書斎であった。私は氏の写真集『聖なる世界』に初めて接し、その深い黒のマチエ―ルに驚嘆し、かつて私も訪れた事のある、ボマルツォの怪異な庭園や、このブログでも書いたイゾラ・ベッラの奇想なバロックの世界の危うさと妖しさ、それらが深部に精神の歪んだグロテスクの相を帯びて、写真集の中に見事に封印されているその様に、言葉を失った。そして、写真という妖かしの術が持つ可能性の一つの極をそこに視たと直観した。

 

それ以前には、暗黒舞踏の創始者―土方巽を被写体にした細江英公氏の写真集『鎌鼬』を第一に推していた私であったが、川田氏の『聖なる世界』は、それを揺るがすに十分な強度と艶を持って現れたのである。……写真集『鎌鼬』は、種村季弘氏の紹介で面識のあった土方巽夫人の元藤燁子さんから初版本を頂いており、私は帰宅してから『鎌鼬』を開き、その日に目撃した川田喜久治氏の作品との異なる黒について想い、幾つかの考えが去来した。

 

……川田喜久治氏の写真作品を強引ではあるが一言で言えば、ポジ(陽画)にして、その内実に孕んでいるのはネガ(陰画)で立ち上がる世界であると言えようか。誰しも経験があるかと思うが、白黒が反転したネガフィルムに映っている世界は何故あのように不気味なのであろうか。見知っている親しい筈の家族も不気味、風景も、群像もみな不気味である。ある日、私は川田氏にその話をした事があった。……想うに、世界の実相とはあの不気味さに充ちた世界(まさに異界)であり、光は、世界のその実相を隠す為に実は在るのではないか?……という話である。

 

……さて、その川田喜久治氏の個展が今、東麻布の写真ギャラリー『PGI』で、まさに開催中(4月10日迄)である。タイトルは『エンドレスマップ』。……先日、私は拝見したのであるが、このコロナ禍の時期を背景にして観る氏の作品は、正に光によって刻まれた黙示録、しかも、様々なプリント法を試みた実験の現場としても画廊は化している。個展のパンフに記された川田氏の文章「………それぞれのプリントから表情や話法のちがいを感じながら、魂の震えに立ち止まることがあった。寓話になろうとする光も時も、共鳴する心と増殖を始めていたのだ。いま、寓話の中の幻影は、顔のない謎へと移ってゆく。」

 

……この自作への鋭い認識を直に映した、今、唯一お薦めしたい貴重な展覧会である。

 

 

 

川田喜久治作品展『エンドレスマップ』

会期2021年1月20日(木)―4月10日(土)

日・祝休館 入場無料

11時~18時

会場・『PGI』東京都港区東麻布2―3―4 TKBビル3F

TEL 03―5114―7935

 

日比谷線・神谷町駅2番出口から徒歩10分

大江戸線・赤羽橋駅から徒歩5分

南北線・麻布十番駅からも可能。

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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