月別アーカイブ: 1月 2022

『怪異談二話 京都・Venezia』

……制作が終わり、眠る前には本を読む習慣であるが、最近は座談集を読むことが多い。なんとも深い眠りに入っていけるのである。……先日読んで面白かったのは、哲学者の『和辻哲郎座談』(中公文庫)。役者が揃っていて実に内容が濃い。座談相手は谷崎潤一郎志賀直哉斎藤茂吉寺田寅彦幸田露伴柳田國男……他。

 

また江戸川乱歩の『乱歩怪異小品集』に所収されている座談「狐狗狸の夕べ」も面白かった。乱歩の相手は三島由紀夫芥川比呂志杉村春子……他。ちなみに三島由紀夫は狐狗狸やUFOの存在を信じており、自宅屋上にUFO観察の為の天体望遠鏡まで設置し、小説『美しい星』ではそれを主題に異色作も書いている。もっとも私ども表現に関わる者は、不可思議、視えない「気」との対話、此処ではない何処か彼方への希求、理屈や常識では捕らえられない物との交感をもって、表現、更には美が成り立っていくのであるから、この好奇心は表現者たるものの前提に在るべき資質ではあろう。

 

……また泉鏡花の『鏡花百物語集』中の座談「怪談会」は、相手が芥川龍之介菊池寛久保田万太郎……他。「幽霊と怪談の座談会」では鏡花と柳田國男、小村雪岱……達と、向島百花園や吉原の茶屋で、柳橋、赤坂、芳町の芸者や帝劇の女優、そして名だたる作家達を集めて徹夜での納涼怪談話が頻繁に行われた、その記録である。……昨今の虚しい程に明るい、無機質で不毛な時代と違い、闇が闇として豊かな気配を発していた時代の、何とも不気味で、しかし郷愁さえそそられる話が満載で、しつこいオミクロンの話など屁のように小さく思われて来て、メンタルに実に良い。…………さてこのように書いてくると、昔、私にもあった不思議な話が幾つか甦って来たので、今回のブログは少しそれを書いてみようと思う。

 

 

 

 

……昔、哲学者の梅原猛や先代の三代目市川猿之助などが贔屓にしていた京都・祇園で名花と謳われていた芸妓がいた。私は妙なご縁があって、その方の白川河畔のご自宅で深夜まで話し込んでいた事があった。祇園……と云っても残念ながら粋で艶めいた話ではない。私達が熱心に話していたのは「怪談話」なのである。祇園一力や甲部歌舞練場の秘話、四条南座の廻り舞台裏に現れる怨霊と化した歌舞伎役者の話、耳塚、一条戻橋……の話などなど。昔から京都の暗い夜に現れる百鬼夜行の尽きない話。……そして彼女が自分の体験として語ったのが次の話。

 

 

…………彼女がまだ舞妓の頃であったと記憶する。お座敷を終えて置屋に帰り、階段をとんとん……とんと上がって部屋に入ったその瞬間、「お疲れさんどしたなぁ」というくぐもった老婆の低い声がした。「姐さん、おおきにどす」……いつもの調子で返事を返したが、その瞬間ぞぞっとするものが背筋を走った。……その老婆は置屋で長年、身の回りの世話をする仕事をしていたが、半年前に体調を崩し、故郷の小浜に帰っていた筈で、その部屋は他に誰もいないのである。最初は習慣から聴こえた唯の空耳かと思ったが、見回した部屋が無人である事にあらためて気づいた瞬間、少し開いていた目の前の窓の向こうの暗闇で、何かが、ザザァ―とずり堕ちていく冷たい気配がしたという。……そして数分して階下の電話が鳴った。下りて受話器を取ると、はたして聴こえて来たのは、小浜からかかって来たその老婆の息子の聲であった。「…先ほど母が亡くなりました。今まで長い間、本当にお世話になりました。ずっと床についていましたが、母は………」と話す言葉が、ずいぶん遠くからひんやりと小さく聴こえたという。

 

 

 

 

 

 

…………坂本龍馬も京都・河原町の近江屋で斬殺された正にその直後、長州にいた妻のお龍、そして越前藩の三岡八郎(後の由利公正)の遠く離れた二人の前に、お龍の場合は血まみれになった龍馬が血刀を下げてうっすらと立ち、三岡の場合は足羽川という川の橋を渡っている途中で突然の物凄い突風が吹き荒れ、三岡の懐に入れてあった、5日前に京都に戻る際に、渡された龍馬の写真が一瞬で何処かに消え、直後に何事も無かったかのように突風が消えた……というのは、史実に遺っているあまりにも有名な話である。……自分がいなければ勝ち気なお龍は生きていくのが難しい。また、維新後の政府には金が全く無いが、それを作れる才は三岡八郎にしか無い。……愛する女性と、新政府樹立後の屋台骨である経済の舵取り。……この場合は同時に2ヶ所に現れた何とも忙しい話であるが、一番気になっている所に霊魂が翔ぶ、これ等はその実例である。……これに似た体験談は私にもあるが、それはまたいつか語ろうと思う。

 

 

…………さてここに至ってふと気がついた。今回のブログを一生懸命に書いた為に、前々回と同じくまたしても紙面が尽きてしまったのである。なので、タイトルにも書いたVeneziaに今も実在するダリオ館(館の主人が次々に自殺するので有名な館)の詳しい話は、残念ながら次回になってしまった。(伏してお詫びいたします。) ……次回は一転して、コロナ収束後に貴方にも体験ツア―が可能な怪奇譚の話を冒頭から書きます。……乞うご期待。

 

 

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『Pensione Accademia―Venezia』

①オミクロンの猛威で人心が暗く鬱々としている昨今であるが、それを払うようなニュ―スが先日、海外から飛び込んで来た。樋口一葉、三島由紀夫、浅草十二階、永井荷風……等と並んで、このブログでも度々登場して頂いているダンスの勅使川原三郎氏が、ヴェネツィア・ビエンナ―レ・ダンス部門2022で金獅子賞を受賞という知らせが入って来たのである。氏の今までの実績や実力を考えれば当然と云えるが、やはりこれは快挙であろう。生前に親しくさせて頂いた池田満寿夫氏や棟方志功氏はヴェネツィア・ビエンナ―レ版画部門の国際大賞を受賞しているが、またそのお二人とは違った印象が、勅使川原氏のこの度の受賞にはある。たぶん、空間芸術のみの美術の領域と、勅使川原氏のように空間と時間軸を併せ持った表現との、それは違いであろうか。それとも同時代を生きている事の、それは違いででもあろうか。私はご縁があって、8年前から荻窪の『カラスアパラタス』で、氏と佐東利穂子さんによる絶妙な、そして毎回異なった実験性を追求した身体による美の顕在化、美の驚異的な詩的叙述を目撃して来たが、氏の、そして佐東さんとのデュオが如何なる高みまで登り詰めて行くのか、興味が尽きないものがある。

 

 

……勅使川原氏の金獅子賞受賞の知らせが入って来た時、まさに偶然であるが、アトリエの奥にしまってあった、初めてのヴェネツィア行の時、私が厳寒の冬のヴェネツィアで二週間ばかり滞在していたホテル―Pensione Accademiaのパンフが出て来たので、往時をまさに想いだし、次回の撮影の時はまた泊まろう!……と思っていた時であったのは面白い偶然である。運河に面したこのホテルは、もとロシア領事館だった建物で、庭に古雅を漂わせた彫刻が在り、何より部屋が広く、静かで、しかも安いという穴場のホテルなので、このブログの読者には、機会がある時はぜひにとお薦めしたい宿である。アカデミア橋近くに在る、須賀敦子さんが常宿にされていた『ホテル・アリ・アルボレッティ』も瀟洒で良いが、私がお薦めする宿は更に静かである。念のために住所を書いておこう。

 

 

1―30123 VENEZIA-Dorsoduro 1058-ITALIA

 

 

……私が最初にヴェネツィアを訪れた時(今から30年前)は、今のようなネット通信のない時だったので、住んでいたパリの部屋から電話で直に滞在の予約が簡単に出来、こちらの希望する条件も詳しく話せ、何より彼方のヴェネツィアからの肉声や空気感が伝わって来て、まさに旅の始まりといった趣があったものであるが…………。ヴェネツィアを訪れるならば、ぜひ冬の季節をお薦めしたい。……私はかつて『滞欧日記』なるものを書いているが、そこには次のようないささか古文調で書いた記述がある。「……1991年2月5日、薄雪の舞う中、夜半に巴里リヨン駅を立ち、一路ヴェネツィアへと向かう。深夜、雪その降る様いよいよ盛んなり。スイスの国境を越え、アドリア海へと至り、早朝にヴェネツィア・サンタルチア駅に着く。眼前に視る。薄雪を冠した正に現実が虚構の優位へと転じ、妖なるも白の劇場と化している様を。」

 

……またこうも書いている。「冬のヴェネツィアの荘厳さは、正にリラダン伯爵のダンディズムを想わせるものがあって実に良い。それに比べ、夏の真盛りのヴェネツィアは、腐敗を露にし、全身で媚びた娼婦のそれである」と。……これは今から想うに、私の好きな高柳重信の短詩「月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵」……から連想して書いたものであろう。とまれ、次回のヴェネツィア行は、冬のカルナヴァレの時に撮影に行き、フェルメ―ルが使用した暗箱を再現した器材を使って、原色の内に息づく狂気を引き出そうと思う。写真家の川田喜久治さんは、「ヴェネツィアでは、作品とするに足る写真を撮る事は実に難しい」と言われた事があるが、その至難の切り裂ける角度のまさぐりを、私は次回の撮影行の課題としているのである。

 

 

 

 

②昨日、東京都庭園美術館に行き、開催中の『奇想のモ―ド・装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』展を観た。……庭園美術館学芸員の神保京子さんからお年賀と一緒に展覧会のご招待状が届いたので、この日を愉しみにしていたのである。

 

 

 

 

 

神保さんは特にシュルレアリスムと写真の領域に深く通じ、東京都写真美術館の学芸員の時に企画された『川田喜久治―世界劇場』展はあくまでも唯美的で、かつ危ういまでの毒があり圧巻であった。今まで観た展覧会の中でも特筆すべき完成度の高さであったと記憶する。……その時に私は初めて川田さんと神保さんにお会いして以来であるから、思えばお二人とは永いお付き合いになる。川田さんの写真は、以前に北鎌倉の澁澤龍彦さんのお宅で写真集『聖なる世界』(1971年刊行)を拝見した時に端を発しているが、その重厚な深みある川田さんの表現世界を、神保さんは見事に展覧会としてプロデュ―スされ、その手腕とセンスの冴えは正に〈人物〉である。そして、今回の庭園美術館での切り口も、シュルレアリスムとモ―ドを融合し、そこに「狂気」「奇想」という芸術表現に元来必須なものを絡ませ、この展覧会を、最近稀に視る内容へと鮮やかに演出したものであった。

 

ダリ、マン・レイ、デュシャン、コ―ネル、エルンスト……など既に歴史に入って久しい彼らの作品が、モ―ドを切り口とする事で鮮やかに別相へと転じ、むしろその本質が浮かび上がって来ることに私は唸った。ある意味、それらは今日現在形の新作となるのである。……以前から私は、展覧会の企画の妙は比較文化的な視点で着想するか否かで決まると度々このブログでも書いているが、その事が正解である事を、この展覧会は見事に証しているのである。その事を示すように会場はたくさんの来館者で埋まり、盛況であった。

 

 

 

 

以前に練馬区立美術館で開催された『電線絵画展』の企画をされた学芸員の加藤陽介さんと、昨年末に美術館でお会いして、開催中の『小林清親展』(1月30日迄開催中)を拝見する前にお話ししたのであるが、「むしろ美術愛好者や来館者の方が、美術館の企画者よりも先をよんでいる」という、加藤さんの言葉には、企画者としての鋭い分析があると私は思った。……昨今、ネットによる情報化が進み、美術館不要論なるものまで出ているが、それはあまりに不毛なものがある。要は、馥郁とした、そして先を仕掛けるセンスを持った学芸員のいる美術館にはたくさんの人が訪れるのである。……人は、やはり現物が展示してある善き展覧会を、間近で観たいのである。……今回の図録に神保さんが興味深い論考を執筆されていて、私はそれも勉強になり、多くの示唆を頂いた。

 

……それにしても、今回の展覧会図録は実に造本が美しい。そう思って見ると、やはり青幻舎が作ったものであった。青幻舎の代表取締役へと、すっかり偉くなってしまった田中壮介氏は、私が編集人の第一人者として推す人であるが、京都に行かれてからもお元気なのであろうか?東京時代は青山にあった青幻舎に遊びに行き、お仕事の邪魔をしたものであったが、……氏とは何故か無性に話したくなる時がある不思議な人である。今度、京都に行く機会があるときは、ぜひ深夜まで話そうと思う。とっておきの怪談話などをしてみたいのである。……というわけで次回のブログは、泉鏡花の怪談夜話、祗園の芸妓が深夜に語ってくれた怪談実話、ヴェネツィアの今も現存する謎の舘の話などを……書く予定。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『私にとって今、なぜ恩地孝四郎であるのか。』

最近のブログで度々書いているが、つくづく思うに、今日の文化で美術の分野が最も堕落しているという観がある。堕落というよりは腐敗しているという方が、より正しいか。先の贋作事件などはそのほんの一例にすぎず、作品の価値の俄製造と大衆への巧みな仕掛けで、作品は仕手株と化し、金はあっても真贋を見分ける眼識を全く持たない多くの連中が、易々と引っ掛かって拝金主義にひれ伏し、もはやマネ―ゲ―ムのうす汚れた現場と化している。不毛という言葉の具体的なこれは実例であろう。

 

……作品それ自体は、まるで地方の高校の文化祭のポスタ―程度にすぎないバンクシ―という画家が演ずる、神出鬼没という戦略と、とって付けたような意味付けが、あたかも現代を突くかのごとく巧みに効を奏して、何でもいいから面白い話題が欲しいメディアがそれに乗り、作品の実質とは別な付加価値で、作品は信じがたい価格に化けていく。……以前に観たテレビの漫才で、お笑い芸人が、オ―クションの時に額に仕掛けたシュレッタ―でバンクシ―自らの仕掛けで自分の作品を切り裂く(低迷しているオ―クション会社と作者によるあざとい戦略)という、ネタがバレバレのその行為を冷笑的に茶化し、客も爆笑していたが、この爆笑した感覚は、まだ理性的と云っていい。……有り体に言えば、賽銭箱を担いで三途の川を渡れると本気で信じている連中が百鬼夜行する、この美術という分野は、ある意味で、もはや焦土と化していると断じていいものがある。実はこの現象の歴史は古く、1920年辺りから始まった雪崩れ現象で、今やそれが極まったという感じである。……それを醒めた眼で冷静に見ていたのは、実にデュシャンくらいであろうか。

 

 

……だから、そんな中で年明けに読んだ池内紀氏の著書『恩地孝四郎一つの伝記』は、表現者たるものが、その生を燃焼するには如何に黎明期(注・夜明けにあたる時期。新しい文化・時代などが始まろうとする時期。)こそが実は豊かな時代であり、その不足感や精神の飢餓こそが、実は表現に豊饒をもたらすかという真実が伝わって来て、夢中で読むと共に、最後に出たのは「あぁ、遅く生まれすぎた!」という溜め息であった。

『恩地孝四郎 一つの伝記』……著者の池内紀さんはカフカの名訳で知られるが、その執筆範囲の幅は実に広く、かつ深い。……私事になるが、以前に開催した個展に池内さんが私の不在時に来られ、版画『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』を求めて購入され、書斎に掛けてカフカ他の多岐にわたる執筆をされておられたと聞くが、生前、残念ながら私はお会いする機会がなかった。しかし、その著書からは実に沢山の教わるものがあり、お会いしたかった人である。

 

その池内さんの視点は一言で言えば性善説である。だから、本の中で書かれた恩地孝四郎像は内面の生々しい暗部には安易に斬り込んでいない。それでも、この国における創作版画の立ち上げと、日本人で初めて抽象絵画を表現した人、この恩地孝四郎という人が、何よりも先ず優れた詩人であったという事、そして、萩原朔太郎、北原白秋等の詩人達との交流など、大正前から昭和三十年の死去までの多岐な歩みが実にしっかりと描かれているので、私は現代前の近代版画の歩みがこの本によって整理された思いである。

 

……また才能豊かな田中恭吉(結核)や谷中安規(餓死)などの壮絶な非業の死、たくさんの文芸や音楽家との交流など黎明期にしかあり得ない豊かな日々の生きざまが伝わって来て、その交感、ぶつかり合いの熱い様が肌を通して伝わって来た。そして恩地作品の底に流れる鮮やかな感性の映りの背景が見えて来たのであった。整理してみると、恩地孝四郎に端を発した創作版画は、その後で数多登場した版画家の中から才能ある突出した人材を池内さんは絞っていき、棟方志功、駒井哲郎、……そして、池田満寿夫の三人に指を折り、彼らの表現を持ってこの国に認知、定着を見たと観ている。……

 

 

 

 

 

 

 

最近の私は、その近代から現代に至る、数多いる群像の十字路に、では誰を置くかと自問した結果が、この恩地孝四郎なのである。駒井さんから直で度々聴いた名前が恩地孝四郎であったが、今、駒井さんが恩地孝四郎に見ていたものもまた漸くにして見えて来たのである。……言葉で書く詩人だけが詩人ではない。むしろ美術の分野にこそ実質的な詩人がいた!という分析から見ると、近代詩における天才・萩原朔太郎と詩のありようと意味においてぶつかった恩地孝四郎(彼は実にたくさんの詩を書き残している)の詩を読むと、抑制された幾何学的とも云える感性の内に、萩原より先んじて近代を呼吸し、それを多岐にわたる版画の実作においても表しているのが見てとれる。……そして、その遺伝子とも云える駒井や池田の感性の内にもリリックなるものが豊かに息づいているのである。(勿論彼らにおいても、その作品は絞られていくが)

 

しかし、昨今の版画の分野に眼をやると、このリリックが消え失せ、批評眼、果敢な実験への意志……も消え失せ、個々人の表現が閉ざされた内向的なものや、いたずらにささくれた流行りのものに変わり、一言で言えば、一点が孕む自立性、象徴性、強度、……が消え失せ、名作と自他共に認めるような作品が出て来なくなった事は問題であろう。私個人を言えば、版画集を七作刊行し終えた後、ピタリと版画をやめてオブジェ、写真、詩、執筆へと転換したのが13年前の事。分析すると丁度その頃から、版画の傾向が変わり、舞台が動くように版画は内向的な、一人称の呟きのようなものへと転じて来たのであるが、私が視るその映りは、今の版画家達にはおそらく見えていない分析の視点かと思われる。……次第に死に体へと変わりつつある昨今の版画の傾向を見て、恩地孝四郎ならば如何に叱咤するであろうか。それとも……時代だよ、仕方がないと少し笑うか、はたまた別な表情を見せるのかは私は知らない。

 

彼らの生きた時代は、版画で食べられる事など想像外の事であった。ただひたすらに版画を通して自分の存在の意味を模索し、自分の存在した何か刻印のような物を、時代に向けて突き刺すような熱意で、その1回きりの生を生き急ぐように駆け抜けたのであった。その足りないという飢餓感覚の中からしか実験は生まれ出ないのである。……版画だけでなく、私が常に引かれている佐伯祐三松本竣介靉光、……達もまた、今のマネーゲ―ムと化した不毛な美術の分野とは別な豊かな次元で、その一回だけの人生を生ききって逝ったのである。

 

……松本竣介は絶筆「建物」(東京国立近代美術館蔵)を死の直前まで描いて逝ったが、幾つか遺された竣介の言葉に「たとえば空襲でやられた断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたい」というのがある。……この短い言葉は、しかし私ども表現者が常に作品に向けるべき緊張と美の理想を表して充分なものがあり、……けだし名言であると思う。

 

 

 

 

 

最後になるが、私は今回のタイトル『私にとって今、なぜ恩地孝四郎であるのか』について、危うく書き忘れるところであった。それを書こう。恩地孝四郎は版画を作ったが、同時に先駆的なオブジェを作り、写真も撮り、詩も書き、批評も書き、文芸の人達とも交流が深かった。……ふとそれを我が身に重ねると、私は版画を作り、美術家よりも寧ろ文芸の人達との交流が深く、オブジェを作り、写真も撮り、詩集を出し、評論の本も書き……と、恩地孝四郎の生き方と面白いまでに酷似している事に、最近ふと気付いたのである。

 

先達としては、池田満寿夫さんもいろいろな分野に多才さを発揮し、その身近に私はいたが、今の私の実感としては、恩地孝四郎の方により近い親近性を覚えるのは何故であろう。私の中で何かが変わったのであろうか?…………駒井哲郎さんから直に恩地孝四郎の事をいろいろと伺った時は、私はまだ美大の学生で、二十歳そこそこの若僧であった。正直、その頃は恩地孝四郎はまだ私の関心の外にあったと云えよう。しかし人生はどうなるかわからない。……長い時を経て、恩地孝四郎の生きざま、生き方が一つの強い範となって、私の前に、或る示唆的な意味を持って来ようとは……。だからこそ人生は面白い。……恩地孝四郎、……今、私の前に彼の存在が静かに、しかし確かな意味を持って佇んでいるのである。………………了。

 

 

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『年明けに「恩地孝四郎」を読む』

……オミクロン感染症の拡がりは、先日のブログで書いた通りの展開を見せている。昨年の8月頃に猛威を奮っていたデルタ株は僅か残り1割へとあっという間に減少し、主たる残は、オミクロン株へと置き替わった模様。BBCなどのニュ―スで知った限りを書けば、感染者の9割は軽症で感染後の後遺症もオミクロンの場合はほとんど無いという。後は1月後半から2月の終わりにかけて拡がっていくに違いない感染爆発者数と中等症の患者数をなんとか凌いで乗り越えていけば、あぁ野麦峠も近いのではあるまいか。……年末から年明けに急増したイギリスの感染者爆発も、ここに至って急変し、減少傾向を見せはじめている模様。過度に怖れず、されど油断せず!である。

 

……とはいえ、先日の夕方、暗がりを歩いていたら、彼方からサイレンを鳴らした救急車がやって来て、私の目の前で静かに停まった。!?と思ったその時、すぐ側の暗がりの家から年配の女性がさぁ~っと現れ、ぐったりした老人の男性を支えながら、すぐに救急車の中へと消えていった。一瞬の虚を突かれたようであったが、すぐにコロナの感染者の生の姿だと察した。瞬間、巨大な鎌を持ち、白衣に身を包んだ骸骨姿の死神が「メメント・モリ―汝、死を思え!」と冷やかな笑みを浮かべながら、オミクロン楽観説者の私に「次はお前だぞ!」と予告しているように思い、さすがに一瞬ゾッとした。まっ、そういった事があった。

 

…………………それはさておき、眼前の問題はむしろ地震の方である。地震の方が、今はリアルに潜んで、暗い真下の〈其処〉にいる。おそらくは誰もがうっすら感じている事だと思うが、マグマと化した真っ赤な地霊が、さて本番は何処にしようかと、今は全国の太平洋沿岸の各所で(あたかも試すように)散発的に地震を起こしている感がある。……以前のブログでも書いたが、山田新一という人の著書によれば、画家の佐伯祐三は、大正12年の関東大震災の前日の夜に、翌日の昼前に起きる大震災の光景を夢の中でありありと見て、その様を翌朝(つまり大震災の起きる直前―9月1日の早朝に)、親友の山田新一に生々しく、かつ予見したかのようにリアルに話している。私も度々そのような先取りの予知とも云える夢を見るので、この逸話、さもありなんと思われる。……思うに、佐伯のあの神経が突き刺さったような鋭すぎる絵は、そのような異常とも云える直感力から起因しているのであろう。

 

………さて、その地震、昨年秋から太平洋沖側に頻発しているが、先日ふと考えた事がある。……では具体的にどの県が、地震は確率的に最も安全なのか?と。……皆さんは何処だと思われるであろうか?私はたぶん山口県辺りかと思っていたが、タブレットで検索してみると、地震から最も安全な県は実は「富山県」なのであった。意外であったが、すぐになるほどと思い、あの屹立する立山連峰の屏風のような堅牢さを思い出し、すぐに富山県在住の親しい人達の顔が浮かんだ。ぎゃらりー図南で長年にわたり個展を開催して頂いている川端秀明さんご夫妻、お世話になっているコレクタ―の今村雅江さんはじめ沢山の人達の顔が浮かび、ふと、あぁ富山の人達はいいなぁ……と、そう素直に思った。出来れば難を逃れるように、半年ばかりは富山に疎開したいと思うのであるが、東京に戻ったその直後に「すわ!……地震だ!!」という事もあり得る。

 

実際、森鴎外の長女の森茉莉は、夫の山田珠樹(仏文学者)と1年間パリで贅沢三昧に暮らしていたが、ようやく帰国して船を降り、横浜港から車に乗って走り出したすぐ直後に、凄まじい関東大震災の直撃洗礼を受けたのである。だから、こればかりは神のみぞ知る、なのである。もっとも、1階にある私のアトリエは分厚い鉄筋コンクリ―トで作られており、地下が広い作陶室になっているので、掘削はかなり深く、ために地震の揺れは少ない。……もっとも、地震発生時に運よくアトリエに居ればの話なので、案外私のような者に限って、外出時にアクシデントに見舞われるのがオチなのであろう……。私が度々行く、上野の山続きの高台にある日暮里や谷中の墓地辺りは、関東大震災の時には地盤の層が堅かったのであろうか、揺れが少なく被害も少なかった。だから、地震が起きたら先ずは竹藪や墓地辺りに逃げろ!!という言葉があるが、昔の人は、今よりももっと賢く知恵があり、物がよく視えていたのだと思われる。

 

 

……と、ここまで書いて、私はふと気付いてしまった。今回のブログのタイトル『年明けに「恩地孝四郎」を読む』を書くには、あまりに前振りが長すぎて、もはや紙面(?)が足りないという事を。…………先日、平行して2冊の本を読んだ。1冊は池内紀『恩地孝四郎 一つの伝記』、もう1冊は長尾大という人が書いた『ジョルジョ・デ・キリコ 〈神の死・形而上絵画・シュルレアリスム〉』であるが、特に、近代から現代に至る創作版画の黎明期に、パイオニアとして革新的な表現を確立した恩地孝四郎について書くには、あまりに紙数が少なく、ここは断念して余力を貯め、次回に集中して書きたいと頭を切り替えた次第である。その分、次回は、読者諸兄の納得と満足を得るような名文を書かねばいけないのである。続く、……乞うご期待。

 

 

 

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『新春の仮説―オミクロンの登場は吉か凶か!?』

2022年初春―明けましておめでとうございます。今年も意識が正常にある間は、ブログ執筆に全力を注いで参りますので、読者諸兄の変わらぬご贔屓、ご愛読の程、よろしくお願いいたします。

 

 

……さてブログである。新年の5日に浅草で新年会のお誘いを頂いたので、さっそく出かけてみた。浅草寺、仲見世はもの凄い人出で夢のような三密状態である。そう正に夢みるように。……浅草六区にある木馬館や浅草フランス座なども盛況で、昨今人出は少なくなったと云われる凌雲閣(浅草十二階)も、さすがに正月だけは人人々で賑わっている。……十二階上の展望台では、群衆の中に石川啄木とおぼしき青年が先ほどから腕組みをして、東京の街を睨むように俯瞰しながら「浅草の/凌雲閣にかけのぼり/息がきれしに/飛び下りかねき」などと詠んでいる。また十二階下の銘酒屋街(私娼窟)のひなびた一軒からは、面長の癖のある男が、舶来のカメラ「コダック」を大事そうに抱えながら上気顔で出て来たところである。その足で洋食屋「アリゾナ」に向かうところを視ると、察するにおそらく永井荷風であろう。……6日には東京に初雪が降り、暫しの抒情が立ち上がって、小林清親の世界とふと重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、次はオミクロンである。年明けを待っていたかのように、暴発の勢いで感染者が増しているオミクロンという新参のウィルス株。しかし、このウィルスは目立って重症化が少なく、感染しても自覚があまり無い、かなり軽度のものであるという。それがもの凄い感染力で拡がり、強度なデルタ株を席巻し、今やその移り変わりは、感染者の7割以上がオミクロン株の感染者であるという。しかし報道は、かつてのデルタ株感染者数とオミクロン株感染者数の具体的な比率を(手間がかかり過ぎるからとは云え)別けず十把一絡げに「今日のフランスの感染者は15万人に達した模様です云々……」「沖縄の感染者は……」と粗く報道しているせいで、必要以上の過度な切迫感が昨今の状況を領している。

 

私は言葉の遊びにして、オミクロンという言葉を「今日、毛が生えた人」と置き換えて聴いている。つまり「今日、パリでは12万人の人に毛が生えました。もの凄い数です!信じられません!!!」となって面白い。ふざけているのではない。もっと敵の実情を心を静めて知れば、過度な切迫感が薄れ、この先が少し視えて来ると、そう思っているのである。恐怖は敵の正確な実情を知らないから沸き上がるのであり、つまり「敵を知り己を知らば百戦危うからず」なのである。

 

デルタ株の強度に比べ、オミクロン株は、この数ヵ月間の実体を診た結果、今までのコロナウィルスで最も軽度であるが、そのオミクロン株が登場して、今までのさばっていた強度なデルタ株を席巻(つまり一掃している)しているという現象は、(今のところではあるが、と断った上であるが、)むしろ吉報とすべきではないかとさえ思うのである。更に言えば、極めて軽度で重症化リスクが低いオミクロン株ならば、いっそ皆がかかって軽度なままにオミクロン株からの抗体を造れば、現存してあるワクチンと同等、或いはそれ以上の一応の備えになるのではないか!……と思ってもいるのであるが、さて賢明な読者諸兄は如何思われるであろうか!?

 

……海外(国名、人名は忘れたが)の或る感染症研究者が、オミクロンの世界的な感染流行後に、コロナ感染が急速に減少へと向かう可能性があると報じているが、さて、誰も先はわからない。わからないが、少なくとも昨今の報道は、感染者の仕分けが手間がかかるとは云え、もう少し丁寧な報道を期すべきではないかと思う私なのである。

 

とまれ、2年前のコロナ感染初期には不明であった医療の処し方が、18000人以上の尊い犠牲者の死を経て、今では臨戦態勢は整って来ている。おそらくオミクロン株の感染者数は、月末には、今までに無かったとてつもない数字に達していると思われ、感染そのものも、今までで一番私達の至近に迫って来る事は必至であるが、問題はその先である。前述したような好転を見せるのか、今まで大人しかったオミクロン株が、まさか!!の裏に隠していた、もう一つの顔をあらわにするのか!?……少なくとも、その吉か凶かの顔の実相を明らかにするのは、間も無くかと思われるのである。

 

 

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