月別アーカイブ: 8月 2022

『あの坂を下りてくる影、あれは……』

友人の中村恵一さん達が主宰している季刊の文芸冊子『がいこつ亭』がアトリエに届いた。いつも切り口が面白いので毎回愉しみにしているのであるが、今回の号は特に私の気を惹いた。……三神さんという方が書いた『眼球が最後に映すもの』(元総理銃撃事件と高橋和己「わが解体」)というタイトルを見て、7月10日付けで書いた私のブログ『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』と重なる視点で、銃撃され倒れこんだ元総理の最期の視覚に何が映っているかに言及しているのであるが、この三神さんの文章の特に面白い点は、高橋和己の『わが解体』所収の「死者の視野にあるもの」からの引用部分であった。高橋和己のその一文を少しく引用してみよう。

 

「……かつてイタリアの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が惨殺される寸前、この世で最後に見た恐怖の映像を復元するのに成功したという記事を読んだことがある。……(中略)…私はその紙面の一部に紹介されていた写真を奇妙な鮮明さで覚えている。全体が魚眼レンズのように同心円的にひずんだ面に、鼻が奇妙に大きく、眼鏡の奥に邪悪な目を光らせた男の顔がおぼろげに映っていた。(中略)……被害者が、無念の思いを込めて相手を見、そこで一切の時間が停止し、最後の映像がそのまま残存する―それは充分ありそうなことに思われた。」

 

……あの銃撃事件の時の映像を思い出してみよう。集まった眼前の聴衆を前にして喋っている元総理の顔。……その直後、ボンという第1発目の乾いた発射音に2.7秒遅れて振り返った後ろ向きの姿が一瞬映るが、次に地に崩れていく瞬間の姿は人影に隠れて見えなかった。……しかし、映像は確かに捕らえていた。その直前、確かに彼が振り返って射撃犯の顔を直視した事を。三神さんの文章は、そこからどんどん鋭くなっていくのであるが、……私は読みながら、30年以上前に体験した或る事を思い出したのであった。私は高橋和己の良き読者ではないので『わが解体』のこの文章は知らなかったが、ずいぶん前に読んだイギリスのミステリ―雑誌で、死ぬ直前の眼球の水晶体には最後に映った光景がそのまま残存する、という興味深い説がある事は知っていた。……そしてそれを私が実際に試みる時がやって来たのであった。

 

 

 

……30代の10年間ばかり、横浜・中区山下町の海岸通りに面したマンションに住んでいた時があった。…ある日の昼過ぎ、中華街でランチを食べた私は自宅に戻るべく歩いていた。……するとマンション側にたくさんの人だかりがして、明らかに異様な気配であった。大量の血が地面に筋を引いて流れているのが目に入った。……私はひょっとしてと思い、人だかりを掻き分けて一番前に出た。……すると地面には果たして、今マンションから飛び降りたばかりの青年の姿があった。顔は蒼白というよりは既に土気色。目は乾いた感じであったが僅かに艶の名残が見てとれた。……それを見た瞬間、私は件の事を思い出し、死にいくその人の目に己が姿を映そうとしたのであった。……私は真っ赤な血は苦手だが、凶事への視覚的な好奇心がそれを上回っているらしい。遠くから響いて来る救急車のサイレンの音。それが着く前に、マンション向かいの警察病院から数名の看護婦が一目散に走って来た。そして先頭の看護婦が青年の脈を計り、後ろの看護婦達に両手でバツの合図を送った。(……ずいぶん事務的で寒いものを見たと、私は思った。)後で知ったのだが、マンション前にある病院で末期の癌を宣告されたその青年はパニックになり、病院から走り出て、私の住んでいるマンション3階から投身したのであった。

 

 

……それからずいぶんの時が流れたある日、私は自分の個展会場にいた。夕方、和服姿の60代くらいの上品そうな女性が画廊に来られた。(初めてお会いする方である。)そして、展示してあるオブジェと版画が気にいって購入を決められた。先ほどまで来客で賑わっていた会場であったが、人の流れが落ち着いたので、その方との寛いだ談話になった。話を伺うと、その方は今は和服を作って販売しているが、その前の職業は全くの畑違いで20年ばかり病院で看護婦をしていたという。そして、私は「病院は不思議な話が多いと思いますが、何か面白い話はありませんか?」と訊くと、「今、病室で危篤状態になっている老婆が、あろう事か、その同じ時に、正装した姿で宿直中の看護婦たちがいる部屋に御礼を言いに静かに入って来た事があり、その時が最も怖かったという。」……そういう事が特に夜の病院内では度々あり、それがやがて普通になってしまうのだという。そういえば、患者を死へと連れ去っていく、病院内をさすらう黒い影の話(実際に日本画家の鏑木清方夫人が体験した話)を、夫人から聴いた泉鏡花が怪談『浅茅生』に書いているのを思い出した。「では、病院に勤めている間で一番怖かった体験はどんな話ですか?」と更に話を向けると、その人は徐に話始めたのであった。

 

 

「私が看護婦で働いていたのは、横浜の山下町にある警察病院でした」という。……そして「一番怖かったのは、今話した幽霊でなく現実の話で、末期癌を宣告され、病院から飛び出した若い男性が通りの向かいにあったマンションから飛び降りた、その時の男性の姿が一番怖かった」という。」私はまさかの偶然に唖然とした。そして訊いた。……「実は、私もあの時の現場にいたのですが、血相を変えて病院から走って来た看護婦が三人いたのをありありと覚えています。ひょっとして貴女は、その先頭にいて、男性の脈を計りませんでしたか!?」と訊くと、「……そうです。」と云う。

 

 

「事実は小説よりも奇なり」というが、年月を経て、何かの捻れのように再会した、その人と私。……話はこれで終わるのだろうか? それとも不思議な宿縁のように、これは何かのプロロ―グなのだろうか。……そういえば、帰られる時に、この方が渡してくれた名刺の住所を見て驚いた。……私のアトリエから僅かに15分の近い距離。その間には小高い坂がある。……坂は怖い。永井荷風は坂について「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と書いているが、岸田劉生の坂のある風景『道路と土手と塀〈切通之写生〉』は凶事の予感を孕んであくまでも暗い。……残暑のある日、その方は逆光の影となって、果たして現れるのであろうか。そして私は「あの坂を下りてくる影、あれは……」と小さく呟くのであろうか。

 

 

 

 

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『八月の夜に蛇の影を踏んではいけない』

……先日、青森や秋田を襲った線状降水帯の猛烈な雨は、各地に甚大な被害をもたらした。濁流が人家を呑み込んで無惨に流れていく様を観ていると、グリ―ンランドで毎日60億トンの氷が溶けて濁流となって流れ続けている現状と重なり、「人類は間違いなく水で滅びる」と、その手稿に断言的に書いたルネサンス期の巨人―レオナルド・ダ・ヴィンチをどうしても思い出してしまう。しかも彼はこの文章を書いている時に、人類への警鐘的なニュアンスでなく、あの『モナリザ』の不気味な微笑と同じく、醒めた冷笑的な眼差しで、人類の運命を突き放すように書いているのである。

 

……ダ・ヴィンチのその冷徹な屈折ともいうべき資質は、幼年の頃からの生来的なものであり、遺された記録に拠ると、殺した蜥蜴に蝙蝠の引きちぎった羽や別な動物の内蔵を張り合わせて奇怪な動物を作り、ヴィンチ村の大人達を驚かしていたという。…………死とは何なのか?何故鳥は飛べるのか?……生き物の中身の構造は一体どうなっているのか?etc.……尽きない好奇の眼は、その幼児期から早々と発芽していたのである。……もともと子供というものは少年も少女も残酷なものであるが、ダ・ヴィンチはその孤独癖と相まって、〈視たい〉というその視線の欲望は生涯徹底したものがあったようである。

 

 

さて話は変わって、……昨晩こんな夢を視た。……夢はどうやら私が小学生の頃らしい。光の眩しさからみるとどうやら夏休みの頃らしく、私は1人、木造の小学校の薄暗くて長い渡り廊下を歩いている。廊下からは花壇が見え、赤や黄の原色のカンナの花が実に眩しい。……しかし歩いても歩いても、広い校舎の中に全く人影は無く、ともかく私は自分の教室へと向かっていた。……どうやら私は夏休みの登校日を間違えて来たらしい。……教室が見えたその時、その一つ手前の教室に、じっと座っている少年らしき人影が見えた。……廊下から窓越しに見ると、正面の黒板を向いたまま、私に関心も見せず、まるで置人形のようであった。……その少年には見覚えがあった。しかし名前までは思い出せない。……私は他の少年達とは遊んだが、その少年は誰とも遊ばず、ずっと孤独なまま、たしか金沢の方に途中から引っ越していったらしい。……その少年はなおもじってしているままに、やがて夢は消えた。

 

……しかし夢とは不思議なもので、仲の良かった友達は全く夢に出て来ないのに、何故、付き合いのなかった、しかもとうに忘れている筈のその少年が、今時何故に夢に、まるで幽霊のように出て来たのであろうか。一体、そんな夢を視る私達の頭の中はどうなっているのであろうか。……そんな事を目覚めた後に思っていると、やはり小学生の時にいた、一人の、やはり孤独癖の強いもう一人の少年の事を思い出した。名前は、何故か出て来ないので、今からその少年の事を仮にTとしておこう……。

 

 

……Tは集団に馴染まず、いつも一人であったが、何故か私にだけは心を開いて話しかけて来る事があった。二人とも体が弱かったので、体育の時間は見学する事が多く、日蔭の涼しい藤棚の下で、時おり話し合うのであるが、ある時、Tは彼の下校後の密かな愉しみを私に打ち明け話のように話してくれた事があった。……その話とは、「自分の唯一の遊びは、蛇を殺す事なのだ」と言う。……僕は「蛙は面白半分で殺した事はあるが、蛇は怖くてとても近付けないよ」と言うと、Tは得意げに「そりゃあ、僕だって怖いさ。でもぞくぞくとした、あの恐怖感がいいのだよ。それにあの湿った場所の、何とも云えない気配、何だか葬式のような臭いがするんだよ。線香なんかないのに不思議なんだよ。傍に誰かが死んでいるようで……」。

 

……Tの話によると、蛇を殺す時の道具は、歪な角張った小石を10ケだけ持って、沼や小川にたった一人で行くのだと言う。私が「どうして、石が10ケなんだい?」と訊くと「そう決めているんだよ。僕はコントロ―ルだけは自信があるんだ。だから10ケの石を投げて蛇が死んだらぼくの勝ち、蛇が逃げきったら蛇の勝ち、そう決めているんだよ。しかも蛇は頭が良くて死んだふりをするけど、動きが止まったその時こそ狙い時、残っている石の連続放射だよ!」……Tは次第に興奮して来たらしく、目の前に蛇がいるような感じで話している。……更に訊くと、Tの愉しみは、その後にもあるのだという。……Tは蛇を殺した後で持参した針金で縛ってズルズルと引きずりながら家に帰るのだが、途中の道すがら、大人達が決まって青ざめた恐怖の顔をするのが面白いのだという。家に着くと家の前に収穫した蛇の死骸を置く為に、いつも母親からは「お前は狂っている」と叱られるのであるが、玩具より愉しいこの遊びに比べたら、そんな事はまったく平気なのだと言う。

 

……話してみると、Tは自分だけの王国があるらしく、人間は産まれた時から大人族と子供族がいて、だから自分は死ぬまで子供なので、子供としてずっと生きて行くのだと言う。…………………………………………昨晩視た夢から、私はTの事を思い出したのであるが、家の地区が違っていたので、私達は別々な中学に入り、いつしかTの事も忘れていった。……しかし昨晩視た夢のお陰でTの事を思い出したのは、奇妙と言えば奇妙ではある。……Tはあれからどういう人生を歩いていったのだろうか。……そう言えば数年前に小学校のクラスの同窓会があった。もちろんTは来る筈がない。……誰かが口火を切って話題が、あのTの話になった。……Tのその後の事を断片的に知る者がいて話をしてくれた事を思い出した。……その話によると、Tは高校を出た後に東京に行き、今は何だか奇妙なオブジェとかいう、得体の知れない物を作っているらしい。……オブジェが何なのか、私はとんとわからないが、今も王国の唯一の住人として、……彼は子供のままに生きているのであろうか?

 

 

 

……今アトリエにいて、壁に掛けた二点の蛇の作品を先ほどから眺めている。駒井哲郎の銅版画『蛇』と、ルドンの石版画『ヨハネの黙示録』」所収の「……これを千年の間繋ぎおき」である。……眺めながら森永チョコレ―トを食べている。……何故、そんな事をしているかと言うと、泉鏡花が「チョコレ―トは蛇の味がするから嫌いだ」と辰野隆に語った話を思い出したので、先ほどチョコレ―トを買って来て、鏡花が言ったその言葉を確かめているのである。……しかし、鏡花が言ったチョコレ―トとは果たしてどんな会社の味であったのか?今では明治、ロッテ、森永、グリコ……等々会社が沢山あってみな味が違う。しかし答えは簡単で、わが国で一番古いのが明治42年に板チョコを、そして大正7年(1918年)に国産ミルクチョコレ―トを出したのが森永であり、泉鏡花(1873~1939)の年代と符合し、しかもこの言葉を言ったのが晩年(1939年)だから、森永ミルクチョコレ―ト(1918)にほぼ絞られる。……しかし、泉鏡花の言った蛇の味が、今一つピンと来ない。鏡花は蛇は嫌いだと話しているが、その実、彼の小説の中で最も多く登場するのが「蛇」である。

 

「……アレ揺れる、女の指が細く長く、軽そうに尾を取って、柔らかにつまんで、しかも肩よりして脇、胴のまわり、腰、ふくら脛にずっしりと蛇体の冷たい重量が掛る、と、やや腰を捻って、斜めに庭に向いたと思うと、投げたか棄てたか、蛇が消えると斉しく、…………」(『紫障子』)

 

「胴は縄に縺れながら、草履穿いた足許へ這った影、うねうねと蠢いて、逆さにそのぽたりとする黒い鎌首をもたげた蝮……」(『尼ケ紅』)

 

 

先ほどのチョコレ―トの話であるが、蛇の味とチョコレ―トの味との乖離(離れている様)は、常人には量りがたい隔たりであるが、その距離を持って私は、泉鏡花の想像力の飛躍する、或いは振幅する距離と考えている。それを支えている基盤が、彼の豊富な語彙力なのである。……鏡花の事を「日本語のもっとも奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入った」と評したのは三島由紀夫であるが、この僅か数行で三島は泉鏡花について言い切っていると私は思うのである。

 

 

……さて今回の蛇の話であるが、最後にもう1つだけ書こう。……明治期の文豪を代表するのは森鴎外夏目漱石であるが、この双璧、いずれがより文才があるのか、私は以前から気になっていた。そしてふと、この二人が『蛇』という題名で短編を書いている事に気づき、ある日、読み比べてみた事があった。……どちらがより蛇のあの掴みがたいぬるりとした本質に迫り得ているか!?

 

……結果からみて私は漱石の方に高い軍配を上げた。それは勿論、私の主観的な判断であるが、私が漱石の方をより評価したのには理由があった。それは私が度々、蛇の至近まで行って蛇の生理と不気味さをよく知っていたからである。……子供の頃に度々行った、あの沼や小川が、漱石の文章からありありと甦って来たのであった。

 

 

 

 

 

 

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『どうしても見たい私―欧州編』

2日前に降った豪雨は凄かった。激しく雨が降る様をバケツをひっくり返したような……と言うが、これからはそんな生易しいものでは喩えが通用しなくなってくるであろう。いや兎に角凄まじかった。……それを報道するNHKはテレビの字幕で「10年に1度の、今までに体験した事のない豪雨……」と報じていた。…ん?……その言葉、変だろう!…壊れているのは気象だけではない。日本語もそうとう荒れている。気象変動、収束が見えないコロナ、……そこに来て、グリ―ンランドでは異常な熱波により氷が溶けて来て、毎日60~125億トンの氷が流れ出している。(その溶け方は、90年代の実に7倍の早さであるという)。……こうなってくると、現実から逃げるように、例えば、かつての面白かった旅の思い出がどうしても頭をよぎって来てしまう。

 

 

先日、テレビで世界遺産の番組をやっていて、スペイン、バルセロナのサグラダファミリア贖罪聖堂が映っていた。私が行った時には、まだガゥディが建てたファサ―ドがその霊性を放っていて荘厳にして重厚なアニマさえあったが、今はかなり上部が作られ(はしたが)、何か一番大事なものが消えていった感があって無念である。やはり設計図を紛失したという事が致命的なのであろう。……私はその画面から、30年前にこの地に滞在していた時の事を思い出し懐かしかった。

 

 

……その頃、私はバルセロナに来て、ガゥディにかなりのめり込んでいた。最初にサグラダファミリア聖堂に行った時、一番見たかったのは地下聖堂とガゥディの墓であった。しかし、その地下は非公開である為に、観る事が出来なかった。……3回目に聖堂に来た時、様子が変であった。見ると、観光客が遠巻きで華やかな結婚式の行列を眺めているのであった。……どうやらカタロニアの田舎の人らしい、痩せた新郎と凄まじく太った花嫁、それに両家の親族が長い列を作って、これから聖堂の中に入っていくらしい。みんな笑顔である。……私はこれこそ、またとない好機と閃き、観光客をかき分けて、その列の中に入って行き「Hola!」を連発しながら親族のふりをして列に並んだ。半年ばかりスペイン語を幼時レベルではあるが習っていたのが良かった。「結婚おめでとう!」は、たしか……確か「Felicidades!」だったかな?と思いながら、私への視線を感じた時は、嬉しくてたまらんという表情で、それを連発した。聖堂の中に入り、地下へと下りて行く時に私は高揚した。読みは当たった。はたして、結婚式はこれから一般には非公開の地下聖堂で荘厳に行われるのであった。

 

まるで宇宙の深い神秘の森のような幾つもの反った支柱で作られた地下聖堂の天井(バロックの荘厳、モデルニスモとは違うガゥディ独自の美の結晶、サグラダファミリア聖堂は先ずここからガゥディが作り始めたのであった!)そして私の真横には、大理石のガゥディの墓。……葬式と違って結婚式にやぼは無用である。こいつちょっと変だな?……うちらにアジア人の親戚がいたっけ?……そう連中が思っても、今日は目出度い結婚式!……ヒスパニックもラテンも細かい人はそういない。……式が終わって新郎新婦は、これから車で出発するのである。花吹雪が舞う中、束の間の親戚達と別れの握手をして、私は実に清々しい気分であった。…………以前にもブログで書いたが、ゲイで空手五段の福井さんという謎の人物に連れられて深夜にチ―ノ地区(中国人街で殺人の多い危険地区)にある売春窟(ピカソが通い、「アビニョンの娘たち」の構想を得た場所)に見学に行き、直後、警察の一斉摘発に巻き込まれて脱出するのは、その数日後の事であった。

 

 

……ガゥディと共にスペイン滞在中にのめり込んでいた相手は、怪物にして天才的な画家、フランシスコ・デ・ゴヤであった。プラド美術館に通い、『黒い絵』の名作に共振し

ながらマチエ―ルの妙にひたすら感心する日々が続いた。……そして、ある日、いよいよマドリ―ドの郊外にあるサン・アントニオ・デラ・フロリダ教会にあるゴヤの墓と、以前から観たかった天井画(聖アントニオの奇跡)をまるで聖地巡礼のような高揚した気分で訪れたのであった。しかし、郊外にあるその教会に近づくと、やはりゴヤの聖地を訪れた大勢のファンらしき人達が、なにやらガッカリしたような表情を浮かべながら戻ってくるのが見えた。……その中の一人に訊いてみると、どうやら工事中で今は誰も観れないとの事。……遙々来たのに嘘だろ!!!?……と思ったが、旅立ちの前にスペイン語の先生が言った或る話を思い出した。先生いわく「スペインは滅茶苦茶よ。撮影の依頼で金さえ払えば、プラド美術館の館長は、非公開の絵やデッサンに強烈な照明ライトを当てても見て見ないふり。つまり私腹を肥やしているわけよ」と、詩人のガルシア・ロルカに心酔するあまり、グラナダに一年の半分は住んでいるその先生は言った。

 

 

……………………〈よし、ならば行くか!!〉と意を決して教会の作業員に近づき、伝家の宝刀である、またしてもの明るい「Hola!!」を発し、ソイ.ウン.ピント―ル.デ.ハポン(日本から遙々来た画家だよ)と言って、男の肩を気安く叩きながら、手に握っていた当時のスペイン貨幣である数ペセタ(だいたい500円くらいであったか―微妙な金額!)を、越後屋よろしく握らせた。……はっきり言って、やり方はあざといが私は真剣であった。……しかし、これが通じたのであるからスペインは面白い。……作業員の男はにっこりと軽く頷き、「いいよ中に入っても」と言ってくれたのであった。私は礼を言って中に入り、長い間ずっと牽恋の地であったゴヤの墓を観る事が出来た。

 

しかし工事中の為か中はかなり暗い。……そう思っていると急に照明のライトが強く灯り、ゴヤの墓と、天井のゴヤが描いたフレスコ画の2ヶ所に鮮やかに当てられた。見ると、先ほどの男が天井近くの手摺から私に「どうだい!?」というゼスチャ―をするので、私も親指を高々と突きだして頷いた。……私は観たいのである。どうしても観たかったのである。だから簡単に私は引き返さないのである。

……最後の話イタリア版へと、話は続きます。

 

 

 

仏文学者の故澁澤龍彦氏はその名著『滞欧日記』の中で、フィレンツェにあるメディチ家の別荘、〈プラトニ―ノ荘〉の事についてふれ、休日であった為に中に入れず、観たかったアぺニンの巨人像(16mの高さで、ミケランジェロに大きな影響を与えた像)が遂に観れなかった事を実に無念そうに書いている。……ウフィツィ美術館の2倍の経費を要して建てたこの別荘はフィレンツェ郊外に12荘在るという中で、敷地面積の広大さでも群を抜いている)。かつて、最初にこの別荘を訪れた日本人は、……あの天正遣欧少年使節の四人の少年達である。

 

 

 

 

 

 

 

……私はフィレンツェ市内からバスで行き、40分ほどしてそこに着いた。門は開かれていて、中にはたくさんの観光客がいた。……別荘の中は往時の豪奢をそのままに遺して優雅であったが、やはり一番の目当てはアベニンの巨人像である。……しかし、池の上に立つその像は確かに巨大で人々を圧しているが、柵があってその近くにさえ近づく事が出来ないのは、いかにも残念である。私は来る前に、勝手にイメ―ジを紡ぎ、巨人が見下ろす真下から眺める事を夢想していた。……しかし、現実は管理が厳しく、遠くから遠望するしか叶わないのであった。大勢の観光客も無念そうに眺めているだけである。……しかも、別荘中を警備して回っているパトカ―が今まさに、私達観光客の前を通過している最中で、威圧的なぴりぴりした緊張感が漂っていた。

 

………………私はふと考えた。というよりも閃いた。「待てよ、今、目の前にパトカ―がいるという事は、しかもそのゆっくりした速度では、次にここに廻って来るにはそうとう経ってからに違いない。」……「よし、今が絶好のタイミングである!」……そう読んだ私は突然、群集の中から歩き出し、巨人像を目指して進んで行った。背後から大勢の観光客のオ~!!という感嘆の声が響いて来る。しかし、私の後に続くような人はいなかった。巨人像に近づくと、遠くの観光客の声は聞こえなくなり、見ると、彼らは私の行動を見守っているだけである。……私はミケランジェロもここを訪れたに違いないという確信のもと、下から、遥か上の高みから私を見下ろしている巨人像に見入り、ルネサンス前の表現の強度を浴びるように体感した。更に池に入って行く暗い洞窟を抜けて、かつてこの池で舟遊びに興じた貴婦人達の声を幻聴のように体感した。

 

 



 

 

 

…………やがて私は巨人像から離れて別荘内を散策した。……すると芝生の上で鮮やかな朱色で印刷されたA1の文字の紙を拾った。「何故ここにこれが!?」……私は作品の構想がその時卒然と閃き、帰国後に、この時の体験した事をオブジェで作ろうと思った。それが今、福井県立美術館が収蔵している作品『プラトニ―ノの計測される幼年』である。幼年とは、この別荘を訪れた四人の少年使節達をも意味し、また作品には、その時に拾ったA1の紙も貼ってある。……私は観たかったのである。強く見たいというこの気持ちは、時として作品への不思議な導きをもしてくれる事がある。……私の作り出すオブジェは、このようにして旅の経験や体感が原点となって立ち上がっている事が実に多い。


 

プラトニ―ノの計測される幼年

 

 

……10月19日から開催される予定の日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの大きな個展を前にして、毎日、アトリエにこもって制作の日々が続いている。3月から開始した作品制作は順調に進み、現在60点近くが完成した。……世界は今まさに混迷の中に在る。しかしアトリエに入ると一切の現実は遠退き、ひたすら虚構の中に美を咲かせる営みのみが在るだけである。

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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