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『晩秋に書くエトセトラ』

……11月中旬はコロナ感染者の急増に加え、寒暖が入れ変わる日が続き、人はみな心身ともに疲れる毎日であったが、下旬になってそれらが少し落ち着いてきたようである。

……家路へと続く石畳や、庭の光が障子を通して白壁に映す綾な模様には風情さえ感じられ、今、季節はひとときの寂聴の韻に充ちている。

 

……内覧会のご招待状を頂いていたが、自分の個展と重なったために行けなかった展覧会が二つあった。DIC川村記念美術館の『マン・レイのオブジェ』展と、ア―ティゾン美術館の『パリ・オペラ座―響き合う芸術の殿堂』である。……個展が終わり、ようやく時間が取れたので出掛ける事にした。今回のマン・レイ展は、オブジェをメインにした展示である。マン・レイは写真、絵画、オブジェ…と表現者として幅が広いが、写真が圧倒的に評価が高いのに比べ、オブジェの評価はいささか落ちるものがある。数少ない友人の一人であったマルセル・デュシャンはマン・レイの機知に富んだ諧謔精神の良き理解者であったが、それを直に映した彼のオブジェはいわゆる美のカノン的なものから逸脱するものが多分にあり、故に難しい。私見であるが、マン・レイのオブジェの中で最も優れている作品は何か?と訊かれたら、私はア―ティゾン美術館が収蔵している天球儀をモチ―フとしたオブジェであると即答するが、はたしてそのオブジェも展示されていて、展示会場で群を抜いた光彩を放っていた。

 

 

 

 

マン・レイの会場を出ると、別室でジョゼフ・コ―ネルの作品が一点新たに収蔵されたのを記念した特別展が開催されていた。……拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊行)の中で書いたコ―ネルの章を読まれた方の多くは、私の書いた内容に戦慄と更なるコ―ネルへの興味を懐いた方が多いと聞くが、確かにコ―ネルは唯のノスタルジアの角度だけでは捕らえられない危うい謎を多分に秘めた人物である。……あれは何年前になるであろうか、ある日、川村美術館の学芸課長の鈴木尊志さんから連絡があり、コ―ネルと私の二人展が企画された事があった。その展覧会の主題が芸術における危うい領域への照射というものであり、打ち合わせの時に私が発した言葉「危うさの角度」に鈴木さんが着目し、展覧会のタイトルに決まった。直後に鈴木さんの勤務先美術館の移動(現・諸橋美術館理事)が俄に決まった為に展覧会は企画の時点で止まったが、実現しておれば別相の角度からのコ―ネルのオブジェや私のオブジェが放つ、ノスタルジアの裏の危うさの相が浮かび上がって、面白い切り口の展覧会になっていた事は間違いない。

 

 

……コ―ネルに関してはもう1つ話がある。今から30年以上前になるが、竹芝の「横田茂ギャラリ―」でジョゼフ・コ―ネル展が開催された事があった。……横田茂氏は日本にコ―ネルを紹介した第一人者で、当時、多くの美術館に入る前のコ―ネルの秀作が数多く展示されていた。私はコラ―ジュ作家の野中ユリさんと連れだってギャラリ―に行き作品を観ていた。……会場の中の一点、カシオペアを主題にした、実にマチエ―ルの美しい作品を観ていた時、ふと(この作品、実にいいなぁ)と思った瞬間があった。すると気が伝わったのか、画廊主の横田さんが現れて、私にその作品の購入を勧められたのであった。価格は確か500万円であったと記憶する。横にいる野中さんは(500万なんて安いわよ!北川君、買いなさいよ)と高い声で気軽に言う。私の知人でコ―ネルのコラ―ジュを300万円で購入した人がいたが、それから比べたら、というよりも、遥かに今、目の前に在るカシオペアの作品はコ―ネルの作品中でも秀作である。…500万円……、清水の舞台からもう少しで飛び降りる気持ちになったが、やはりやめる事にした。……私はルドンジャコメッティヴォルス……といった作品は数多くコレクションしているが、コ―ネルは何故か持つべき作家ではないと直感したのであった。……その後で、コ―ネルの評価は天井知らずに上がり、今、メディチ家の少年をモチ―フにした代表作のオブジェは6億円以上に高騰しており、察するに私が500万円での購入を断念した、あのカシオペアの作品は1億以上はなっていると思われる。しかし、それで善かったのである。

 

 

……ア―ティゾン美術館の展覧会はオペラ座の豪奢な歴史を表・裏の両面から体感できる凝った展示であった。しかし私が特に惹かれたのはマルセル・プル―ストの『失われた時を求めて』の第三篇「ゲルマントのほう」の直筆原稿が観れた事であった。……銅版画で私はプル―ストのイメ―ジが紡がれる過程を視覚化した作品を作っているので、その原稿に修正の線が引かれた箇所を視た時はむしょうに嬉しかった。

……ドガのバレエを主題にした油彩画の筆さばきにはその才をあらためて確認したが、マティスの風景画『コリウ―ル』に視る色彩の魔術的な様は、特に私の気を惹いた。「豪奢.静謐.逸楽」はマティスの美に対する信条であるが、私がマティスから受けた影響の最たるものは、この言葉であり、私はその言葉を自分が作品を作る際に課している。……それに常なる完成度の高さと、微量の毒を帯びた危うさ、……これが私が自身の作品に注いでいる全てである。……更に加えれば、表現者たる者としての精神の貴族性、それが加わるであろうか。美術館の別なコ―ナ―では、デュシャンのグリーンボックスやコ―ネルの函の作品が展示されていて、密度の濃い展覧会になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、まもなく12月である。高島屋の個展が終わってまだ間もないが、早くも私は次なる表現に向けて加速的に動き出している。オブジェの制作に加えて、新たな鉄の表現、全く別な文脈から立ち上がった新たなオブジェの表現、……加えて、第二詩集の執筆、……等々。今年の冬はいつもよりも熱くなりそうである。

 

 

 

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『冬のいそぎ/…個展を終えて』

個展が終わった翌日の夜、見事な皆既月食と天王星食を視た。この二つの現象が同時に起こるのは442年ぶりというから1580年・天正8年の安土桃山時代(本能寺の変の2年前)。この年の信長は、石山本願寺、加賀、能登攻略戦の真っ最中。しかし知的好奇心が強い信長の事、間違いなく安土城の天守閣か戦場の野にいて、この天上の月が消えて赤く染まるという異変に強い興味を示したであろう事は、想像に難くない。……太陽と地球と月が一直線に列び、地球の影が投影して月が翳るという事を知る、今日の夢なき知識だけの時代と違い、何を想うてか、ともかく鋭い眼をぎらぎらさせて刺すように確かに視ていたように思われる。その信長の肖像画は20近くあるが、その中で最も似ているといわれる、宣教師ジョバンニ・ニコラオが画いた写実的な肖像画(織田家の菩提寺・三宝寺所蔵)を掲載しておこう。……次にこの現象が起きるのは322年後の2344年との事。……かつて無かった規模の自然界の崩壊と、人類による大惨事の嵐が去った後の全くの静寂の夜に、天上を観る人の姿などはこの地球には存在せず、僅かに咲く野の花に、朧な月影は何かを落としてでもいるのであろうか。

 

 

 

 

 

 

……個展の間は懸念していた台風もなく、連日晴天の3週間が無事に過ぎた。昨年もそうであったが、個展が始まる1ヶ月前辺りからコロナの感染者が次第に減り始め、故に来廊される方は多く、個展は盛況の内に終わったのであるが、今回も個展が終わるや正にその翌日から、感染者の数が急上昇を見せ始め、今月の20日頃はかなりの数に達しているように思われる。……個展が無事に終わった今想うのは、確かに私の運気は強く、何かのバリアにいつも守られているように思われて仕方がない。……思い出すのは3年前の3月初旬の事。……1月にこの国にも最初のコロナ感染者が出て以来、もの凄い勢いで全国的に感染が拡がって来た時に、富山のぎゃらり―図南で私の個展が開催された事があった。ほとんどの県は感染者が続々と出ていたが、何故か富山や山形はその時はまだ感染者がゼロであった。しかし、全国的に感染の包囲網が加速的に拡がり、富山にも明日か明後日に……と迫っているように思われた。私は初日に画廊を訪れ、画廊のオ―ナ―である川端さんご夫妻と再会し、翌日の夕方に横浜に戻った。その日、富山駅で列車に乗る前に私は強く「2週間の会期中は絶体に富山に感染者は出るな!!」と念じて、富山を去った。……連日、全国的に感染者が更に続出しているという危機の中、しかし富山はゼロの日が続き、私の念は効いているように思われた。……そして、2週間の個展の会期中は感染者ゼロが続き、会期が終わったまさに翌日、「会期中は出るな!」という私の念の有効力が閉じるように、富山に最初の感染者が出た時は、さすがに自分の念の強さは正に「陰陽師」並みだと思ったのであった。……川端さんには私が富山を去る時に「個展開催中は絶体に出るな!」と念じていた事をメールで伝えてあったので、それが叶った事を電話でお話したら、興味深く笑っておられたのを、今も懐かしく覚えている。

 

 

個展会期中の10月29日に韓国・ソウルの繁華街、梨泰院で156人が圧死したというニュ―スはリアルな事故として伝わって来た。なぜリアルかというと、あの事故と似た経験を昔、私も体験しているからである。……中学時代、学校の講堂で全校生徒が集まって何かの式典をやっていた時と記憶する。……式典が終わり、1つの狭い出口から生徒が次々と出る時に、前方と後ろから生徒が倒れでもしたのか、突然ねじれた人のうねる波が一斉に襲って来て、何層にも重なった耐えられない程の重さの生徒の山が出来、息が詰まる苦しさと痛さと叫び声の中、正に阿鼻叫喚と化したのであった。他人の体が予期しない凶器となり、叫びがいっそうのパニックと化すのである。……私が体験したそれは、韓国の事故の規模からすれば人数は遥かに少ないが、それでもその時の「死」を一瞬垣間見た恐怖は、今もトラウマとして残っているから、韓国のその現場の地獄絵図と化した様はリアルに想像出来るのである。……事故後、兎の長い耳を付けた数人が「押せ」「押せ」と言っていたのを聞いたという目撃談らしき話が出たが、政府と警察が事故の責任を散らす為の作られた談話とも思われる。ともあれ日常の中に「死」は、影を隠して潜んでいるのである。

 

 

……73点の新作オブジェの個展が終了した翌朝、私の頭の中は早くも切り替わって、次なる言葉による美の顕在化、……すなわち詩集の制作へと向かっているようである。……個展の最終日に画廊から戻った夜は、たまっていた疲れもあり、さすがに早く寝た。しかし、その翌朝、目覚めの時に、頭の中はひんやりとしていて、いつの間にか寝ている間に「水を包む話―ブル―ジュ」という言葉が立ち上がっていて、起きた時に、自分が既に詩集へと意識が向かっているのを実感した。……個展の会期中に出版者の人と画廊で詩集の打ち合わせをしたが、今はそこに集中する時である。第二詩集『自動人形の夜に』、言葉による新しい試みと挑戦が待っているのである。

 

 

 

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『個展、最終週に入る』

10月19日から始まった今回の個展も、11月7日(月曜)迄の、いよいよ最終の週に入った。……毎日、個展会場である日本橋高島屋の美術画廊Xに出ているが、私の作品を愛してくれる熱心なコレクタ―の人達、親しい友人、……そして新しく出逢えた縁ある人達が次々と来られ、貴重な日々が続いている。

 

昨日は夕方から俳人の馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長)が名古屋から来られ、ヴェネツィアのお話しなどがたくさん話題に上った。馬場さんは瀧口修造さん、加納光於さんをはじめとして50年代後半からの美術界を知る最も重要な目撃者、証人でもあり、ヴェネツィアを主題にした馬場さんの句集『海馬の夢』などで、私はヴィジュアルで加わったりもして、最も永いお付き合いをさせて頂いている先達の方である。……私の交流は美術よりもむしろ文藝や他の分野の方が多いので、今回もその方面の方が特に目立つ。今回の個展は、今までで最も完成度の高い作品が一堂に揃っているという評価を多くの方がされており、作品をコレクションされる方は、どの作品に決めるかの自問自答を永い時間をかけて考えておられ、正に個展会場が真剣勝負の場所になっている。

 

画廊を一周して即断で決める方、2時間くらいじっくり熟考される方、数日考えて決める方、……「コレクションという行為もまた創造行為である」という言葉があるが、その現場の真剣勝負を私は毎日、作者として視ているのであり、作り手として最も手応えを覚える場面でもある。(……先日、30代の男性の方であるが、画廊に午前早くに来られて作品と出逢い、昼食でいったん画廊を離れてからまた戻って来られ、実に6時間という熟考の後で作品を2点購入された方がいるが、この方が最長記録かと思う。昔、私はスペインのプラド美術館でゴヤを、そしてオランダでフェルメ―ルを長時間観続けた事があったが、この男性の方には脱帽する。) ただ、作品は版画と違いオリジナルが一点しかこの世に存在しないので、迷って決まらず、いったん帰られた方と入れ違いに、その作品と本当に縁のあった方が来られて決める場面が度々あり、数日考えてからコレクションを決めた方が再び画廊に来られた時に、作品が既に他の方のコレクションになっているのを知って落胆されるという場面が、今回も数回あるが、それは仕方がない事かと思う。作品もまた、真に作品を永く愛してくれる「その人」の到来を待っているのである。

 

……作品を選ばれる方は、今回は大学生の方から八十代の方までとやはり幅が広い。世代を問わず、各々の作品の中から自在にイメ―ジを紡いでおられるのであろう。或る女性の詩人の方は『Cadaquesの眠る少年』というタイトルのオブジェ作品を選ばれたが、この一点で新しい詩の世界が一気に拡がり、数点の詩が書き下ろせると喜んでおられた。その詩が出来上がるのが私も楽しみである。…………かくして今回の個展でも、多くの作品がわがアトリエから旅立って行き、作品との永い対話を交わしていく人達が、各々の作品から様々なイメ―ジを紡いでいく、次なるもう一人の作者になっていくのであろう。(……話は少し変わるが、前回のブログで第二詩集刊行予定の事を書いた事で私の詩集の存在を知った方から、私の第一詩集について詳しく知りたいという問い合わせを画廊に来られて訊かれる事があるので、このサイトの別な所に詳しく書いてある事を申し添えておこう。……今も詩集購読の申し込みがアトリエに届き、第一詩集も根強い人気が続いているのは作者として嬉しい事である。)

 

 

……さて、今回の個展、いよいよ最終週に入った。天候に恵まれ、懸念していた台風も去った。……残る七日間、また不思議なご縁のある方との出逢いや、親しい人達との再会が待っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『美の速度』

……2週間ばかり前の事であるが、アトリエの前の桜の樹の上で蝉が鳴いていた。まさかの空耳かと思い外に出て樹上を仰ぐと、高みの色づいた葉群のところで確かに蝉が見えた。雌の蝉も仲間も死に絶え、蝉はたいそう寂しそうであった。……また先日は、上野公園のソメイヨシノが狂い咲き、観光客が不気味がっている光景を報道で観た。……明らかに狂っている。ここ数年来、加速的に世界の全てが異常の様を呈して来て、底無しの奈落へと堕ちていく観が見えて来るようである。若者達は灰色の閉塞感の中に在り、AIだけが先へと向かって優位の様を見せている。若者達は便利極まるスマホに追随し、自らの脳に知の刺激を入れて高めようという気概は失せ、皆が不気味なまでに同じ顔になっている。……薄く、あくまでも軽く。……

 

芸術は、人間が人間で在る事の意味や尊厳を示す最期の砦であるが、昨今は、芸術、美という言葉に拘る表現者も少なくなり、ア―トという雲のように軽く薄い言葉が往来を歩いている。元来、美は、そして芸術は強度なものであり、人がそれと対峙する時の頑強な観照として、私達の心奥に突き刺さって来る存在でなくてはならない、というのは私の強固な考えであり、この考えに揺らぎはない。……だから、私の眼差しは近代前の名作に自ずと向かい、その中から美の雫、エッセンスを吸いとろうと眼を光らせている。……美は、視覚を通して私達の精神を揺さぶって来る劇薬のようなものであると私は思っている。

 

 

 

 

 

……さて、いま日本橋高島屋の美術画廊Xで開催中の個展であるが、ようやく1週間が過ぎ、会期終了の11月7日まで、まだ12日が残っている。

 

今回発表している73点の新作は、ほぼ5ケ月で全ての完成を見た。換算すると150日で73点となり、約2日でオブジェ1作を作り終えた計算になる。頭で考えながら作るのではなく、直感、直感のインスピレ―ションの綱渡りで、ポエジ―の深みを瞬時に刈り込んでいくのである。……この話を個展会場で話すと、人はその速さと集中力に驚くが、まだまだ先達にはもっと速い人がいる。

 

例えばゴッホは2日に1点の速度で油彩画を描き、私が最も好きな画家の佐伯祐三は1日で2点を描き、卓上の蟹を画いた小品の名作は30分で描いたという。またル―ヴル美術館に展示されているフラゴナ―ルの肖像画は2時間で完成したという伝説が残っている。……話を美術から転じれば、宮沢賢治は1晩で原稿250枚を書き、ランボ―モ―ツァルトの速さは周知の通り。先日、画廊で出版社の編集者の人と、次の第二詩集について打ち合わせをしたが、私の詩を書く速度も速く、編集者の人に個展の後、1ケ月で全部仕上げますと宣言した。ただし、ゴッホ、佐伯祐三、宮沢賢治……皆さんその死が壮絶であったことは周知の通り。私にこの先どんな運命が待ち受けているのか愉しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

……ダンスの勅使川原三郎さんと話をしていた時に、私の制作の速度を訊かれた事があった。私は「あみだクジの中を、時速300kmの速さで車を運転している感じ」と話すと、勅使川原さんは「あっ、わかるわかる!!」と即座に了解した。この稀人の感性の速度もまたそうである事を知っている私は、「確かに伝わった」事を直感した。この人はまたダンス制作の間に日々たくさんのドゥロ―イングを描くが、先日の『日曜美術館』でその素描をしている場面を観たが、もはや憑依、自動記述のように速いのを観て、非常に面白かった。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語ったが、かく言う池田さん自身も、版画史に遺る名作『スフィンクスシリ―ズ』の7点の連作を僅か3週間で完成しているから面白い。

 

 

……私が今回の個展で発表している73点の新作のオブジェ。不思議な感覚であるが、作っていた時の記憶が全く無いのである。7月の終わりになって完成した作品を数えたら73点になっていた、という感じである。……また、夢はもう1つの覚醒でもあるのか、こんな事があった。……夕方、作品を作っていて、どうしても最後の詰めが出来ないまま、その部分を空白に空けたまま眠った事があった。……すると明け方、半覚醒の時の朧な感覚の中で、作品の空白だった部分に小さな時計の歯車が詰められていて、作品が完璧な形となって出来上がっているのであった。(……あぁ、この歯車は確かに何処かの引き出しの中に仕舞ってあったなぁ……)と想いながら目覚め、朝、アトリエに行った。しかし、なかなかその歯車が簡単には見つからない。様々な歯車があって、みな形状が違うのである。アトリエに在る沢山の引き出しの中を探して、ようやく、その夢に出てきたのと同じ歯車を引き出しの奥で見つけ出し、取り出して空いた箇所に入れて固定すると、作品は夢に出てきた形の完璧なものとして完成を見たのであった。

 

……また、夢の目覚めの朧な時に、10行くらいの短い詩であるが、完全な完成形となって、その詩が出来上がっていた時があった。……私は目覚めた後に、夢見の時に出来上がっていたその詩の言葉の連なりを覚えているままに書き写すと、それは1篇の完成形を帯びた詩となって出来上がったのである。…………たぶん夢の中で、交感神経か何かが入れ代わった事で、作りたいと思っている、もう一人の私が目覚めて、夢の中で創るという作業を無意識の内にしているのであろうか。……とまれ、眠りから目覚めのあわいの時間帯に、オブジェが出来上っている、或いは言葉が出来上がっている……という経験は度々あるのである。………

 

私が自分に課しているのは、1点づつ必ず完成度の高みを入れるという事であるが、今回の個展に来られた方の多くが、作品の完成度の高さを評価しているので、先ずは達成したという確かな手応えはある。……今回の作品もまた多くの方のコレクションに入っていくのであろう。私は作品を立ち上げた作者であるが、それをコレクションされて、自室で作品と、これからの永い対話を交わしていくその人達が、各々の作品の、もう1人の作者になっていくのである。……個展はまだ始まったばかりであり、これから、沢山の人達との出会いや嬉しい再会が待っているのである。

 

 

 

 

 

 

 

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個展「射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋」、……始まる。』

10月19日(水)から11月7日(月)迄の3週間、東京日本橋・高島屋本店6階の美術画廊Xで、新作オブジェ73点を一堂に発表する個展『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』がいよいよ始まる。……今年の3月から集中的に制作して来た成果が、世に問われるのである。……個展案内状は私と画廊から、コレクタ―の人達を中心に既に送られており、受け取った人達から案内状に掲載されている作品についての問い合わせが、早くも画廊に届いているようである。18日が作品の展示作業であるが、オブジェは版画と違い、全て一点しか存在しないので、気に入った作品との出会いを求めて、展示作業時に早くも画廊に来られる方がおられるのが最近の傾向である。

 

今回のブログでは、その作品中から八点ばかりを取り上げて掲載する事にしよう。…………しかし、やはり作品は各々のオリジナルが持っているマチエ―ルを通して、そのアニマを実際に享受して頂くのが一番醍醐味があるので、ぜひ会場に来られて作品を直で体験して頂きたいと思う。……一点、一点が各々に全く違うイメ―ジで、これが73点、関東では最も広い画廊空間に並ぶのである。……不思議な感覚であるが、作品もいよいよ緊張するのか、画廊に展示された瞬間から急にその息をはっきりと呼吸し始める。そして、静かなその息が全体に拡がって、画廊空間にえも言われぬ緊張感を漂わせ、それが現実を凌ぐ虚構の華となって輪舞を開始するのである。

 

 

「Jeanne-Marieの七つのリング」

 

 

「左を向いたVirginia Woolfの肖像」

 

 

「Opera Garnierの盗まれた時間」

 

 

「Anna Pavlovaの肖像Ⅰ」

 

 

「Nijinsky―頭文字「N」のある肖像」

 

 

「Veneziaの視えない扇」

 

 

「水晶譚―分割されたNijinskyの肖像」

 

 

「SCHONBRUNNの停止する時間」

 

 

 

…………かつて、1890年から1923年の33年間、この世に、えも言われぬ不思議な引力を持った十二階から成る高塔が建っていた。……あたかもそれは究極にして完璧なる一つの巨大なオブジェのようであった。……その妖かしの塔は、数多くの文学者や詩人達の想像力を刺激して、数多くの名作が生まれていった。……そして或る日、それは夢の中に視る逃げ水のように倒壊し、忽然と消えていった。

 

この十二階の塔の設計者の名はwk.Burton(ウィリアム.k.バルトン)。今回の個展のタイトルに登場する実在した人物である。バルトンは、シャ―ロック・ホ―ムズの著者として知られるコナン・ドイルと幼児期から親交が深く、ドイルは彼に『ガ―ドルスト―ン商会』という一篇の謎めいた小説を献呈している。…………この十二階の高塔への私の思い(執着)は、時々このブログでも書いているが異常なまでに強く、それを特集した本にも、その熱い思いを記している程である。云わばこの高塔は、私自身の存在と重なった分身、或いは自身の映し姿のようにも思われてならないのである。

 

 

……ともあれ、私は今回の個展に際し、とっておきの禁忌領域を遂に登場させる事にした。……その十二階の高塔の螺旋階段をもの凄い速度で駆け上がった時に垣間見た様々な幻視(73の場面から成る様々な無言劇、或いは寸秒夢)を透かし視て、各々の作品の中に封印したのである。……………………

 

 

 

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『十月・神無し月の五つの夜話―澁澤龍彦から勅使川原三郎まで』

①……今や四面楚歌に窮したプ―チンが新たに発令した100万人規模の兵士追加動員令。しかし死んでたまるかと、この愚かな兵役命令を嫌って国外に脱出するロシア人達の車列の長さ。……ロシア各地方の役場が慌てて発行したずさんな召集令状には、年寄りや病人も入っていたというが、あろうことか既に亡くなって久しい死者にまで発行されたという杜撰さ。……それを知った私は想像した。旧式の銃を担いで村役場前に集合した、蒼白くうっすら透けてさえ視えるその死者達の不気味な群れを。そして私は昔読んだ或る実話を思い出した。

 

……それは、今から118年前の日露戦争時の話である。日露併せて22万人以上の死者が出たこの戦争が終った後に、日本軍の戦史記録者が記した記録書にはロシア兵の捕虜が語った興味深い言葉が残っている。

 

「日本軍が突撃して来る時の凄さは本当に怖かった。屍を踏みつけて来るその様は怒濤のようであった。中でも一番怖かったのは白い軍服を着た一団であった。撃っても撃っても倒れないので、遂に我々は恐怖で狂ったようにその前線から逃げ出した。……」という記述。これは一人の証言でなく、何人もの捕虜達が語っている記録である。……もうおわかりであろう。日露戦争時の日本の軍服は茶褐色(カ―キ色)で統一されており、白い軍服を着た一団などは存在しない。……そう、彼らは戦死した死者達が一団となって突っ込んでくる幻影を視たのである。しかし、一人でなく沢山の捕虜達が同時にその白い軍服の兵士達を視たという事は、……幻でありながら、実在もしていた……という事である。

 

 

②先日、10月2日から鎌倉文学館で開催される『澁澤龍彦展』のご案内状が奥様の龍子さんから届いたので、初日の2日に観に行った。しかし先ずは久しぶりに澁澤龍彦さんの墓参をと思い、菩提寺の浄智寺が在る北鎌倉駅で下車した。

 

……駅前の広場に出た瞬間に、30年以上前の或る日の光景が甦って来た。それは澁澤さんの三周忌の法要の日で、その広場には沢山の人が集まっていた。俗な組織や団体とは無縁の、つまりは群れない個性的な一匹狼の面々ばかりなので愉しくなって来る。私はその時、確か最年少であったかと思う。……顔ぶれを思い出すままに書くと、種村季弘出口裕弘巌谷國士高槁睦郎吉岡実四谷シモン金子国義池田満寿夫野中ユリ……それに舞踏、写真、文芸編集の各関係者etc.……その中に中西夏之さんの姿が見えたので「中西さん、一緒に行きましょうか」と声をかけ、浄智寺を目指して歩き出した。折しも小雨だったので、この先達の美術家との相合傘であった。

 

中西さんに声をかけたのには訳があった。……最近刊行された中西さんの銅版画集の作品について思うところがあったので、いい機会なので訊いてみようと思ったのである。その時に語った言葉は今も覚えている。「この前、銅版画の作品集を拝見して思ったのですが、銅版画家が発想しがちな積算的な制作法でなく、真逆の引き算的な描法で現した事は試みとして画期的だったと思いましたが、版を腐蝕する時にどうして強い硝酸でなく、正確だが表情が大人しい塩化第二鉄液を選んで制作してしまったのですか?……中西さん、もしあれを薄めた硝酸液で時間をかけて腐蝕していたら、あのような乾いた無表情なマチエ―ルでなく、計算以上の余情と存在感が強く出て、間違いなく版画史に残る名品になっていましたよ。」と。

 

…………中西さんは暫く考えた後で「あなたの言わんとする事はよくわかります。実は作り終えた後に直ぐにその事に気がついていました」と語った。……やはり気づいていたのか、……私は自分の表現の為にも、その是非を確かめたかったのである。……私達が話している内容は中西夏之研究家や評論家には全くわからない話であろう。……私達は今、結果としての表象についてではなく、そのプロセスの技術批評、つまりは表現の舞台裏、云わば現場の楽屋内の表現に関わる事を確認していたのである。……その後、私達は作る際に立ち上がって来る、計算外の美の恩寵のような物が確かに存在する事などについて話し合いながら鬱蒼とした木々に囲まれた寺の中へと入って行った。

 

しかし奥に入っても、誰もいないので、不思議な気分になった。神隠しのように皆は消えたのか?蝉時雨だけが鳴いている。…………そう思っていると、中西さんがゆっくりした静かな声で「……どうやら私達は寺を間違えてしまったようですね」と言った。話に没頭するあまり、澁澤さんの法要が行われる浄智寺でなく、その手前にある女駆け込み寺で知られる東慶寺の中にずんずん入って行ってしまったのである。浄智寺に入って行くと既に法要が始まっていて、座の中から私達を見つけた野中ユリさんが甲高い声で「あなた達、何処に行ってたの!?」が読経に交じって響いた。…………想えば、あの日から三十年以上の時が経ち、中西さんをはじめ、この日に集っていた多くの人も鬼籍に入ってしまい、既に久しい。

 

……澁澤さんの墓参を終えた後に、三島由紀夫さん達が作っていた『鉢の木会』の集まりの場所であった懐石料理の『鉢の木』で軽い昼食を済ませて、由比ヶ浜の鎌倉文学館に行った。

三島の『春の雪』にも登場する、旧前田侯爵家別邸である。

 

澁澤龍彦展は絶筆『高丘親王航海記』の原稿の展示が主で、作者の脳内の文章の軌跡が伺えて面白かった。先日観た芥川龍之介の文章がふと重なった。

 

……この日の鎌倉は、海からの反射を受けて実に暑かった。永く記憶に残っていきそうな1日であった。

 

 

 

 

③……話は少し遡って、先月の半ば頃に、線状降水帯が関東に停滞した為に夕方から土砂降りの時があった。……このままでは先が読めないし危険だと思い、アトリエを出て家路を急いでいた。雨は更に傘が役にたたない程の物凄い土砂降りになって来た。……帰途の途中にある細い路地裏を急いでいると、先の道が雨で霞んだその手前に、何やら奇妙な物が激しく動いているのが見えた。……まるで跳ねるゴムの管のように見えた1m以上のそれは、激しい雨脚に叩かれて激昂して跳ねている一匹の蛇であった。雨を避ける為に移動するその途中で蛇もまた私に出逢ったのである。

 

……細い道なので、蛇が道を挟んでいて通れない。尻尾の後ろ側を通過しようとすれば、蛇の鎌首がV字形になって跳ぶように襲って来る事は知っている。私の存在に気づいた蛇が、次は私の方に向きを変えて寄って来はじめた。……私は開いた傘の先で蛇の鎌首を攻めながら、まるで蛇と私とのデュオを踊っているようである。……やがて、蛇は前方に向きを変えて動きだし、一軒の無人の廃屋の中へと滑るようにして入っていった。暗い廃屋の中にチョロチョロと消えて行く蛇の尻尾が最後に見え、やがて蛇の姿が消え、無人の廃屋の隙間から不気味な暗い闇が洞のように見えた。

 

 

 

 

 

④…3の続き。

蛇に遭遇した日から数日が経ったある日、自宅の門扉を開けてアトリエ(画像掲載)に行こうとすると、隣家からIさんが丁度出て来て、これから散歩に行くと言うので、並んで途中まで歩く事にした。

 

 

 

 

 

Iさんは私と違い、近所の事について実に詳しい。……そう思って「Iさん、先日の土砂降りの日に蛇に出会いましたよ。暫く雨の中でのたうち回っていましたが、やがて、ほら、あの廃屋の中に消えて行きましたよ」と私。すると事情通のIさんから意外な返事が返って来た。「いや、あすこは廃屋じゃなくて人が住んでいますよ」。私は「でも暗くなった夕方も電気は点いていないですよ」と言うと、「電気が止められた家の中に女性が一人で住んでいて、時々、狂ったような大声で絶叫したり、また別な日にそばを歩くと、ブツブツと何かに怒ったような呪文のような独り言をずっと喋っていて、年齢はわかりませんが、まぁ狂ってますね。」と話してくれた。

 

私は、あの土砂降りの雨の中、その廃屋の中に入っていった一匹の蛇と、昼なお真っ暗な中に住んでいる一人の狂女の姿を想像した。……あの蛇が、その女の化身であったら、アニメ『千と千尋の神隠し』のようにファンタジックであるが、事は現実であり、その関係はいっそうの不気味を孕んでなお暗い。芥川龍之介の母親の顔を写真で見た事があるが、母親は既に狂っていて、その眼は刺すように鋭くヒステリックであった。……与謝蕪村に『岩倉の/狂女恋せよ/ほととぎす』という俳句がある。蕪村の母親は芥川龍之介の母親と同じく、蕪村が幼い時に既に狂っていて、最後は入水自殺であった。

 

……ともあれ、その廃屋の中に一匹の蛇と一人の狂女が住んでいるのは確かのようである。……昔、子供の頃に、アセチレンガスが扇情的に匂う縁日で『蛇を食べる女』の芸を観た記憶がある。芸といっても手品のように隠しネタがあるのでなく、女は実際に細い蛇を食べるのである。だからその天幕の中には生臭い蛇の匂いが充ちていた。……周知のように、蛇の交尾は長く、お互いが絡み合って24時間以上、ほとんど動かないままであるという。……ならば、もしあの蛇が雄ならば、狂女もずっと動かないままなのか?……。文芸的な方向に想像は傾きながらも、その後日譚は綴られないままに、私は今日も、その暗い家の前を通っているのである。

 

 

 

⑤先日放送された『日曜美術館』の勅使川原三郎さんの特集は、この稀人の多面的に突出した才能を映してなかなかに面白かった。番組は今年のヴェネツィアビエンナ―レ2022の金獅子賞受賞の記念公演『ペトル―シュカ』(会場はヴェネツィア・マリブラン劇場)の様子や、勅使川原さんの振り付けや照明の深度を探る、普段は視れない映像、また彼がダンス活動と共に近年その重要度を増している線描の表現世界などを構成よくまとめた作りになっていて観ていて尽きない興味があった。

 

……その線描の作品は、荻窪のダンスカンパニ―『アパラタス』で開催される毎回の公演の度に新作が展示されているのであるが、1階の奥のコ―ナ―に秘かに展示されている為に意外と気付く観客が少ないが、私は早々とその妙に気付き、毎回の展示を、或る戦慄を覚えながら拝見している一人である。……踊るように〈滑りやすい〉トレペ紙上に鉛筆やコンテで描かれたそれは、一見「蜘蛛の糸のデッサン」と瀧口修造が評したハンス・ベルメ―ルを連想させるが、内実は全く違っている。ベルメ―ルが最後に到達したのは、幾何学的な直線が綴る倒錯したエロティシズムの犯意的な世界であったが、勅使川原さんのそれは、ダンス表現の追求で体内に培養された彼独自の臓物が生んだような曲線性が、描かれる時は線状の吐露となって溢れ出し、御し難いまでの強度な狂いを帯びて、一応は「素描」という形での収まりを見せているが、この表現への衝動は、何か不穏な物の更なる噴出を辛うじて抑えている感があり、私には限りなく危ういものとして映っているのである。(もっとも美や芸術やポエジ―が立ち上がるのも、そのような危うさを帯びた危険水域からなのであるが)。……想うに、今や世界最高水準域に達した観のある彼のダンス表現、……そして突き上げる線描の表現世界を持ってしてもなお収まらない極めて強度な「何か原初のアニマ的な物」が彼の内には棲んでいるようにも思われて私には仕方がないのである。

 

……三島由紀夫は「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と評したが、あえて例えれば、彼の内面には、ニジンスキ―とジャンジュネのそれを併せたものと、私が彼のダンス表現を評して「アルカイック」と読んでいる中空的な聖性が拮抗しあったまま、宙吊りの相を呈しているように私には映る時がある。……以前に松永伍一さん(詩人・評論家)とミケランジェロについて話していた時に、松永さんは「完璧ということは、それ自体異端の臭いを放つ」と語った事があるが、けだし名言であると私は思ったものである。そして私は、松永さんのその言葉がそのまま彼には当てはまると思うのである。……異端は、稀人、貴種流謫のイメ―ジにも連なり、その先に浮かぶのは、プラトン主義を異端的に継承したミケランジェロではなく、むしろ世阿弥の存在に近いものをそこに視るのである。

 

……さて、その勅使川原さんであるが、東京・両国のシアタ―Xで、今月の7日.8日.9日の3日間、『ドロ―イングダンス「失われた線を求めて」』の公演を開催する。私は9日に拝見する事になっていて今からそれを愉しみにしているのである。また荻窪の彼の拠点であるダンスカンパニ―『アパラタス』では、勅使川原さんとのデュオや独演で、繊細さと鋭い刃の切っ先のような見事な表現を見せる佐東利穂子さんによる新作公演『告白の森』が、今月の21日から30日まで開催される予定である。そして11月から12月は1ヶ月以上、イタリア6都市を上演する欧州公演が始まる由。……私は最近はヴェネツィアやパリなどになかなか撮影に行く機会が無いが、一度もし機会が合えば、彼の地での公演を、正に水を得た観のある彼の地での公演を、ぜひ観たいと思っているのである。

 

 

 

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『10月―新作オブジェの大きな個展、近づく』

……今日は9月24日。彼岸も過ぎて、日本橋高島屋本店6階の美術画廊Xで10月19日から始まる個展が少しずつ近づいて来た。……毎年連続して開催されて来たこの個展も、今年で14回目になる。今までに制作して来たオブジェの作品数は既に1,000点を越えているが、そのほとんどがコレクタ―の人達の所有するところとなり、今、アトリエに残っているのは僅かに30点くらいである。オブジェの前に制作していた銅版画も刷った枚数は5000点以上になるが、全てエディションは完売となっていて、手元には作者が保有するAP版の版画が少しあるだけで、これは表現者として実に幸せな事だと思う。感性の優れたコレクタ―の人達との豊かな出逢い、そして、手元に旧作が残っていないという事の自信が、次なる新たなイメ―ジの領土への挑戦の促しとなり、それらが相乗して、制作への集中力をさらに鋭く高めてくれるのである。

 

…………毎回、主題を変えて開催して来た今までの個展図録を通しで見ていると、自作に懐いているオブジェへの視点や構造、ひいては、この「語り得ぬ、物語りを立ち上げる装置」への想いが、次第に変わって来ている事に気付かされ、様々な感慨がよみがえって来る。……そして今回新たに制作した作品を見ていると、以前にもまして、象徴性や暗示性が増して来ているように思われる。

 

 

今回の個展のタイトルは『射影幾何学―wk.Burtonの十二階の螺旋』。新作オブジェ72点は全て完成し、今は、求龍堂から刊行される個展案内状の校正刷りのチェック段階に入っている。案内状作りは個展を象徴的に表す大事な仕事。まだまだ神経の張った日々が続くのである。

 

今回の個展に向けての制作が始まったのは3月の初旬であった。作品全てが完成したのは8月の末。……計算すると6ケ月で72点、1ヶ月で12点の計算になる。しかも1点づつに完成度の高みを自分に課して作って来たわけだが、不可思議な事に作って来たという実感がない。オブジェ、この限りない客体性を持った、不思議なる詩的装置を作るという事は、一種の憑依的な感覚によって集中的に成されているのかもしれない、……と振り返ってみてあらためて思うのである。

 

私が未だ20代前半の学生であった頃、私が信頼している美術評論家の坂崎乙郎さんや、池田満寿夫さんは、私の作品が放つものを直感的に読み取って、感性が鋭すぎて身が持たないのではないかと危ぶんだ事があるが、大丈夫、私はまだ生きている。……集中力と速度、これは私の表現者としての生来の資質なのであろう。だから制作のペ―スはコントロ―ルしていて、時折は興味ある場所に出掛け、気分転換を図っている。

 

 

……その気分転換を兼ねて、9月のある日、田端に在った芥川龍之介の家跡を訪れた。…高校生の頃から芥川龍之介は好きでよく読んでいて、昭和2年に自殺した芥川のその場所をいつか訪れてみたいと思っていたのが、漸く実現したのであった。折しも田端にある田端文士村記念館では、詩人の吉増剛造企画による芥川龍之介展が開催されていて、なかなか見応えのある展示内容であった。会場には芥川関連の貴重な写真や資料が展示されていたが、私が興味を持った写真は、出版記念会の席で向かい合って写っていた、芥川と谷崎潤一郎の姿であった。小説における筋の是非をめぐっての芥川vs谷崎の大論争は、近代文学史上で最も興味深い論争であったが、今、この二人の天才は仲良く、巣鴨の染井墓地横の慈眼寺に並ぶように眠っている。

 

私は昔、コロタイプで精巧に印刷された芥川龍之介の河童の墨絵(確か2mくらいの原寸大)を持っていた事があった。……芥川が自殺したその部屋に、死の直前に描いて放り投げてあった河童(自画像)の絵と自讚の言葉である。その言葉は今でも覚えている。「橋の上ゆ/きうり投げれば水ひびき/すなわち見ゆる/禿のあたま」である。……上ゆの「ゆ」は、からの意味。……橋の上から……である。その現物がないかと探したが会場になかったのは残念であった。

 

……会場を出て、2つ鉄橋を越えて、崖の石段を上がるとそこが芥川龍之介のいた家の跡である。……以前に池田満寿夫さんは、「芥川龍之介とビアズレ―は似ている。共に若い時期にはまるが、その後は熱病が引いたように関心が薄れていく。」と何かの折りに語っていて、上手い事を言うなと感心した事がある。……この二人は、若い時期の先鋭な感性に直で響いてくるものがあるのかもしれない。……夏目漱石はその逆。

 

 

 

 

 

……田端は、芥川龍之介以外にも室生犀星菊池寛野口雨情堀辰雄……などの文士が住み、大龍寺という古刹には正岡子規の墓がある。その墓の前に立ち、かつては漱石が、そして私が唯一、先生とひそかに呼んでいる寺田寅彦氏がこの墓の前に立った事を想い、時間の不思議な流れを思った。……そして、寺のすぐ前に、女優の佐々木愛さんが代表をしている劇団文化座(80年以上の歴史を持つ)があり、その劇団の人としばらく言葉を交わした。いつか機会を作って、是非この劇団の芝居を観てみたくなった。

 

 

 

 

……田端駅裏には田端操作場があり、かつては、佐伯祐三長谷川利行が、その生を刻むように画布に向かって筆を走らせた場所であった。…………半日ばかりの探訪であったが、この日は、過去へと往還出来た貴重な時間と体験になった。……しかし、開発は加速的に進み、風景はますます不毛と化している。……このような過去の豊かだった時代を偲び、体感できるのも、今後はもう不可能になって来るに違いない。……いにしえを訪ね、気分転換を兼ねて充電を図る事は、日本ではもう最後の時かとも思ったのであった。

 

 

 

……10月19日から始まる個展に関しては、順次このブログでも書いていく予定でおります。……さて次回は一転して、最近私の身近に起きた怪奇譚を書こうと思っています。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

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『……最近、妙に気になる三岸好太郎の話』

少し前になるが、二つの展覧会を観に行った。ア―ティゾン美術館の『生誕140年ふたつの旅  青木繁X坂本繁二郎』と、東京国立近代美術館の『ゲルハルト・リヒタ―展』である。

 

先ずはア―ティゾン美術館であるが、ここに来ると18才の頃の高校生であった自分の姿を思い出す事がある。(当時、この美術館の名前はブリヂストン美術館であった。)……美大の受験で上京したその足で、私が先ず行ったのは、このブリヂストン美術館であった。目当ては、中学時代から佐伯祐三と共に好きだった画家・青木繁の代表作『海の幸』を観る為である。薄暗い館内を入って行くと、目指す『海の幸』が強い存在感のアニマを放ちながら見えて来た。たくさんの熱心な観客がこの絵の前にいた。それを夢中で掻き分けて最前列に立った時の感動は今もありありと覚えている。「芸術の世界で自分はアレキサンダ―大王になる」と豪語していた青木の覇気が好きであったが、この御しがたい才気と、僅か29歳で死が訪れるという、早すぎる落日の悲劇にも強く惹かれていた

 

私は明日に控えている受験の事などすっかり忘れて、この美術館に展示されている数々の泰西名画に感動しながら、結局また戻って来て熱く観るのは、青木繁のこの『海の幸』であった。「ここに青木の短かった生の全てが凝縮されている」……そう思いながら、自分もそのような作品をいつか遺したい、そう思ったのである。……時間があっという間に経ち、やがて立ち去り難い想いでこの館を出たのであったが、いつしか頭の中に芽生えていたのは或る夢想であった。「……いつか、今観た美術館に自分の作品が収蔵され、昼も夜も、あの〈海の幸〉の傍で共に在りたい!」という、青年時にありがちな非現実的な夢想であった。「まぁしかし夢、夢だな!…」その夢想をかき消すように現実の雑踏の中に消えて行った、未だ高校の学生服姿の青い18才の私を、この美術館に来ると時おり思い出すのである。

 

……それから数年が経ち、23才の時に、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞して、この美術館に銅版画作品三点が収蔵された時は嬉しかった。収蔵されるに至った審査経過は、当時、この美術館の館長であった嘉門安雄氏から詳しく伺ったが、審査委員長だった土方定一氏の即決で私に美術館賞が決まり、嘉門氏が、この作品は自分の美術館で頂きたいという流れで決まったのだという。…その前の20才の時に銅版画の処女作が既に他の美術館には収蔵されており、その後も20以上の美術館に作品が収蔵されているが、この時に覚えた感慨以上のものはない。むしろ今は、作品が直接コレクタ―の人達に所蔵され、日々大事にされている事の方が意味は大きいと思うようになっている。しかし、その時にはまだ美大の学生であったが、プロの作家一本で自分は生きていけるのではないか!……希望が確信に変わっていく転機となった事は確かである。

 

 

……さて私事が長くなってしまったので、展覧会に話を戻すが、この展覧会は、青木と運命的としか云えない盟友の画家・坂本繁二郎との対照的な個性のぶつかり合いと、実に稀な友情をその初期から実に丁寧に立ち上げ、最終展示コ―ナ―では、各々の絶筆(遺作)を並べて、実に感慨深い展覧会になっている。青木、坂本、ともに私はたくさんの作品を観て来たつもりではあったが、それでも青木の能面の素描は実見した事がなく私はずいぶんと観入ってしまったのであった。余談であるが、松本清張『私論/青木繁と坂本繁二郎』は全く別な角度からの論考であり、なかなかに面白くお薦めの書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……一心不乱に表現と対峙するという、ある意味、作家にとって幸福な熱い時代は去り、1968年頃から、表現は、醒めた〈分析の時代〉に入ったというのは私の持論であるが、例えば東京国立近代美術館で10月2日まで開催中のリヒタ―展などを観ると、改めてその感を強くしたのであった。……リヒタ―の作品からは、デュシャンやフェルメ―ル他、写真に至るまでの今日的な解釈が、巧みなグラフィック的処理感覚で作品化され、視覚芸術の権能が、発展でなく一つの終止符にも似たものをそこに私などは視てしまうのである。私は迂闊にも知らなかったのだが、ドスタ―ルまでも分析の対象として作品化されていたのには驚き、かつ唸ってしまった。……リヒタ―の色彩感覚は抑えた色彩の中にその冴えを静かに見せて、実にテクニシャンだと痛感した次第である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドスタ―ルについては、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でも1章をこの画家について書いているが、一言で云えば、彼(ドスタ―ル)は〈視え過ぎる男〉であり、その感性には鋭い狂気までが息づいている。そのドスタ―ルの視線に重なるようにリヒタ―のそれは追随して、僅かに余裕さえもその画韻に漂わせているのであった。……リヒタ―展、それは〈分析の時代〉に入ったという私の持論を、あらためて裏付ける展覧会であり、その意味で実に興味深い展覧会であった。

 

 

 

リヒタ―展を観た後で、他の階に展示されている常設展を観るのも、この館での愉しみであるが、その日、私が興味を持ったのは、やはり青木繁と同じく夭折の画家・三岸好太郎晩年の作品で『雲の上を飛ぶ蝶』であった。

 

 

……この絵を観た瞬間、以前のブログで書いた詩人・安西冬衛の代表的な詩〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった〉の事が閃き、画家はおそらく安西冬衛のこの詩から着想したと直感した。安西の詩が刊行されたのは1929年、三岸好太郎のこの作は晩年の1934年の作。……三岸好太郎自身も詩を書く人であったから、安西のこの詩を読んでいる可能性は高い。

 

……そう思って、絵のそばに展示されている解説を読むと、作者は昆虫学者から、海を渡る蝶の話を聴いたとある。しかし、次の行の解説では、雲の上の高さまで蝶が飛ぶ事は不可能であるとも書いてある。確かにそうである。私はこの解説文に興味を持ち、帰ってから図書館に行き結論を見つけるべく、三岸好太郎、安西冬衛に関する何冊かの本を読んでみた。……私の直感は当たり、三岸好太郎の妻であった三岸節子さんが、あの作品は安西冬衛のあの詩から着想したという記述がある事を知った。……三岸好太郎はなぜ嘘をついたのか?。三岸節子さんの話によると三岸好太郎は何より嘘をつく人であったという。しかし、この話は三岸の男女関係に関してであり、もう少し事情があると私は思った。

 

……そして私は、この作品が、三岸の迫って来る死の予感の中で描かれた事を思い、これは三岸好太郎における言わば自身の為に描いたレクイエム〈鎮魂曲〉である事を思った。昆虫学者から聴いたという、その話はそれを飾る、言わばやむをえない〈作り〉なのだと私は結論づけたのであった。……本の中に、面白い箇所を見つけた。三岸好太郎のその遺作を観た安西冬衛が書いている文である。……「四月二十三日。独立展に三岸好太郎の遺作、『海洋を渡る蝶』を観る。博愛なる海洋。この世のものでない鱗翅類。マチエ―ルとメチエの比類なき親和力が私を奪った。これだけの美事な仕事を惜しげもなく抛って就いたのである。死というものは悪くないに相違ない」。……実に清々しい一文である。……そう、死というものは悪くないに相違ない。

 

……そう思ったら、関東大震災の猛火の中で、僅か26才で焼死した私の好きな俳人・富田木歩が詠んだ、これもまた私が一番好きな俳句「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が卒然と立ち上がって来たのであった。

 

 

 

 

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『あの坂を下りてくる影、あれは……』

友人の中村恵一さん達が主宰している季刊の文芸冊子『がいこつ亭』がアトリエに届いた。いつも切り口が面白いので毎回愉しみにしているのであるが、今回の号は特に私の気を惹いた。……三神さんという方が書いた『眼球が最後に映すもの』(元総理銃撃事件と高橋和己「わが解体」)というタイトルを見て、7月10日付けで書いた私のブログ『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』と重なる視点で、銃撃され倒れこんだ元総理の最期の視覚に何が映っているかに言及しているのであるが、この三神さんの文章の特に面白い点は、高橋和己の『わが解体』所収の「死者の視野にあるもの」からの引用部分であった。高橋和己のその一文を少しく引用してみよう。

 

「……かつてイタリアの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が惨殺される寸前、この世で最後に見た恐怖の映像を復元するのに成功したという記事を読んだことがある。……(中略)…私はその紙面の一部に紹介されていた写真を奇妙な鮮明さで覚えている。全体が魚眼レンズのように同心円的にひずんだ面に、鼻が奇妙に大きく、眼鏡の奥に邪悪な目を光らせた男の顔がおぼろげに映っていた。(中略)……被害者が、無念の思いを込めて相手を見、そこで一切の時間が停止し、最後の映像がそのまま残存する―それは充分ありそうなことに思われた。」

 

……あの銃撃事件の時の映像を思い出してみよう。集まった眼前の聴衆を前にして喋っている元総理の顔。……その直後、ボンという第1発目の乾いた発射音に2.7秒遅れて振り返った後ろ向きの姿が一瞬映るが、次に地に崩れていく瞬間の姿は人影に隠れて見えなかった。……しかし、映像は確かに捕らえていた。その直前、確かに彼が振り返って射撃犯の顔を直視した事を。三神さんの文章は、そこからどんどん鋭くなっていくのであるが、……私は読みながら、30年以上前に体験した或る事を思い出したのであった。私は高橋和己の良き読者ではないので『わが解体』のこの文章は知らなかったが、ずいぶん前に読んだイギリスのミステリ―雑誌で、死ぬ直前の眼球の水晶体には最後に映った光景がそのまま残存する、という興味深い説がある事は知っていた。……そしてそれを私が実際に試みる時がやって来たのであった。

 

 

 

……30代の10年間ばかり、横浜・中区山下町の海岸通りに面したマンションに住んでいた時があった。…ある日の昼過ぎ、中華街でランチを食べた私は自宅に戻るべく歩いていた。……するとマンション側にたくさんの人だかりがして、明らかに異様な気配であった。大量の血が地面に筋を引いて流れているのが目に入った。……私はひょっとしてと思い、人だかりを掻き分けて一番前に出た。……すると地面には果たして、今マンションから飛び降りたばかりの青年の姿があった。顔は蒼白というよりは既に土気色。目は乾いた感じであったが僅かに艶の名残が見てとれた。……それを見た瞬間、私は件の事を思い出し、死にいくその人の目に己が姿を映そうとしたのであった。……私は真っ赤な血は苦手だが、凶事への視覚的な好奇心がそれを上回っているらしい。遠くから響いて来る救急車のサイレンの音。それが着く前に、マンション向かいの警察病院から数名の看護婦が一目散に走って来た。そして先頭の看護婦が青年の脈を計り、後ろの看護婦達に両手でバツの合図を送った。(……ずいぶん事務的で寒いものを見たと、私は思った。)後で知ったのだが、マンション前にある病院で末期の癌を宣告されたその青年はパニックになり、病院から走り出て、私の住んでいるマンション3階から投身したのであった。

 

 

……それからずいぶんの時が流れたある日、私は自分の個展会場にいた。夕方、和服姿の60代くらいの上品そうな女性が画廊に来られた。(初めてお会いする方である。)そして、展示してあるオブジェと版画が気にいって購入を決められた。先ほどまで来客で賑わっていた会場であったが、人の流れが落ち着いたので、その方との寛いだ談話になった。話を伺うと、その方は今は和服を作って販売しているが、その前の職業は全くの畑違いで20年ばかり病院で看護婦をしていたという。そして、私は「病院は不思議な話が多いと思いますが、何か面白い話はありませんか?」と訊くと、「今、病室で危篤状態になっている老婆が、あろう事か、その同じ時に、正装した姿で宿直中の看護婦たちがいる部屋に御礼を言いに静かに入って来た事があり、その時が最も怖かったという。」……そういう事が特に夜の病院内では度々あり、それがやがて普通になってしまうのだという。そういえば、患者を死へと連れ去っていく、病院内をさすらう黒い影の話(実際に日本画家の鏑木清方夫人が体験した話)を、夫人から聴いた泉鏡花が怪談『浅茅生』に書いているのを思い出した。「では、病院に勤めている間で一番怖かった体験はどんな話ですか?」と更に話を向けると、その人は徐に話始めたのであった。

 

 

「私が看護婦で働いていたのは、横浜の山下町にある警察病院でした」という。……そして「一番怖かったのは、今話した幽霊でなく現実の話で、末期癌を宣告され、病院から飛び出した若い男性が通りの向かいにあったマンションから飛び降りた、その時の男性の姿が一番怖かった」という。」私はまさかの偶然に唖然とした。そして訊いた。……「実は、私もあの時の現場にいたのですが、血相を変えて病院から走って来た看護婦が三人いたのをありありと覚えています。ひょっとして貴女は、その先頭にいて、男性の脈を計りませんでしたか!?」と訊くと、「……そうです。」と云う。

 

 

「事実は小説よりも奇なり」というが、年月を経て、何かの捻れのように再会した、その人と私。……話はこれで終わるのだろうか? それとも不思議な宿縁のように、これは何かのプロロ―グなのだろうか。……そういえば、帰られる時に、この方が渡してくれた名刺の住所を見て驚いた。……私のアトリエから僅かに15分の近い距離。その間には小高い坂がある。……坂は怖い。永井荷風は坂について「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と書いているが、岸田劉生の坂のある風景『道路と土手と塀〈切通之写生〉』は凶事の予感を孕んであくまでも暗い。……残暑のある日、その方は逆光の影となって、果たして現れるのであろうか。そして私は「あの坂を下りてくる影、あれは……」と小さく呟くのであろうか。

 

 

 

 

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『八月の夜に蛇の影を踏んではいけない』

……先日、青森や秋田を襲った線状降水帯の猛烈な雨は、各地に甚大な被害をもたらした。濁流が人家を呑み込んで無惨に流れていく様を観ていると、グリ―ンランドで毎日60億トンの氷が溶けて濁流となって流れ続けている現状と重なり、「人類は間違いなく水で滅びる」と、その手稿に断言的に書いたルネサンス期の巨人―レオナルド・ダ・ヴィンチをどうしても思い出してしまう。しかも彼はこの文章を書いている時に、人類への警鐘的なニュアンスでなく、あの『モナリザ』の不気味な微笑と同じく、醒めた冷笑的な眼差しで、人類の運命を突き放すように書いているのである。

 

……ダ・ヴィンチのその冷徹な屈折ともいうべき資質は、幼年の頃からの生来的なものであり、遺された記録に拠ると、殺した蜥蜴に蝙蝠の引きちぎった羽や別な動物の内蔵を張り合わせて奇怪な動物を作り、ヴィンチ村の大人達を驚かしていたという。…………死とは何なのか?何故鳥は飛べるのか?……生き物の中身の構造は一体どうなっているのか?etc.……尽きない好奇の眼は、その幼児期から早々と発芽していたのである。……もともと子供というものは少年も少女も残酷なものであるが、ダ・ヴィンチはその孤独癖と相まって、〈視たい〉というその視線の欲望は生涯徹底したものがあったようである。

 

 

さて話は変わって、……昨晩こんな夢を視た。……夢はどうやら私が小学生の頃らしい。光の眩しさからみるとどうやら夏休みの頃らしく、私は1人、木造の小学校の薄暗くて長い渡り廊下を歩いている。廊下からは花壇が見え、赤や黄の原色のカンナの花が実に眩しい。……しかし歩いても歩いても、広い校舎の中に全く人影は無く、ともかく私は自分の教室へと向かっていた。……どうやら私は夏休みの登校日を間違えて来たらしい。……教室が見えたその時、その一つ手前の教室に、じっと座っている少年らしき人影が見えた。……廊下から窓越しに見ると、正面の黒板を向いたまま、私に関心も見せず、まるで置人形のようであった。……その少年には見覚えがあった。しかし名前までは思い出せない。……私は他の少年達とは遊んだが、その少年は誰とも遊ばず、ずっと孤独なまま、たしか金沢の方に途中から引っ越していったらしい。……その少年はなおもじってしているままに、やがて夢は消えた。

 

……しかし夢とは不思議なもので、仲の良かった友達は全く夢に出て来ないのに、何故、付き合いのなかった、しかもとうに忘れている筈のその少年が、今時何故に夢に、まるで幽霊のように出て来たのであろうか。一体、そんな夢を視る私達の頭の中はどうなっているのであろうか。……そんな事を目覚めた後に思っていると、やはり小学生の時にいた、一人の、やはり孤独癖の強いもう一人の少年の事を思い出した。名前は、何故か出て来ないので、今からその少年の事を仮にTとしておこう……。

 

 

……Tは集団に馴染まず、いつも一人であったが、何故か私にだけは心を開いて話しかけて来る事があった。二人とも体が弱かったので、体育の時間は見学する事が多く、日蔭の涼しい藤棚の下で、時おり話し合うのであるが、ある時、Tは彼の下校後の密かな愉しみを私に打ち明け話のように話してくれた事があった。……その話とは、「自分の唯一の遊びは、蛇を殺す事なのだ」と言う。……僕は「蛙は面白半分で殺した事はあるが、蛇は怖くてとても近付けないよ」と言うと、Tは得意げに「そりゃあ、僕だって怖いさ。でもぞくぞくとした、あの恐怖感がいいのだよ。それにあの湿った場所の、何とも云えない気配、何だか葬式のような臭いがするんだよ。線香なんかないのに不思議なんだよ。傍に誰かが死んでいるようで……」。

 

……Tの話によると、蛇を殺す時の道具は、歪な角張った小石を10ケだけ持って、沼や小川にたった一人で行くのだと言う。私が「どうして、石が10ケなんだい?」と訊くと「そう決めているんだよ。僕はコントロ―ルだけは自信があるんだ。だから10ケの石を投げて蛇が死んだらぼくの勝ち、蛇が逃げきったら蛇の勝ち、そう決めているんだよ。しかも蛇は頭が良くて死んだふりをするけど、動きが止まったその時こそ狙い時、残っている石の連続放射だよ!」……Tは次第に興奮して来たらしく、目の前に蛇がいるような感じで話している。……更に訊くと、Tの愉しみは、その後にもあるのだという。……Tは蛇を殺した後で持参した針金で縛ってズルズルと引きずりながら家に帰るのだが、途中の道すがら、大人達が決まって青ざめた恐怖の顔をするのが面白いのだという。家に着くと家の前に収穫した蛇の死骸を置く為に、いつも母親からは「お前は狂っている」と叱られるのであるが、玩具より愉しいこの遊びに比べたら、そんな事はまったく平気なのだと言う。

 

……話してみると、Tは自分だけの王国があるらしく、人間は産まれた時から大人族と子供族がいて、だから自分は死ぬまで子供なので、子供としてずっと生きて行くのだと言う。…………………………………………昨晩視た夢から、私はTの事を思い出したのであるが、家の地区が違っていたので、私達は別々な中学に入り、いつしかTの事も忘れていった。……しかし昨晩視た夢のお陰でTの事を思い出したのは、奇妙と言えば奇妙ではある。……Tはあれからどういう人生を歩いていったのだろうか。……そう言えば数年前に小学校のクラスの同窓会があった。もちろんTは来る筈がない。……誰かが口火を切って話題が、あのTの話になった。……Tのその後の事を断片的に知る者がいて話をしてくれた事を思い出した。……その話によると、Tは高校を出た後に東京に行き、今は何だか奇妙なオブジェとかいう、得体の知れない物を作っているらしい。……オブジェが何なのか、私はとんとわからないが、今も王国の唯一の住人として、……彼は子供のままに生きているのであろうか?

 

 

 

……今アトリエにいて、壁に掛けた二点の蛇の作品を先ほどから眺めている。駒井哲郎の銅版画『蛇』と、ルドンの石版画『ヨハネの黙示録』」所収の「……これを千年の間繋ぎおき」である。……眺めながら森永チョコレ―トを食べている。……何故、そんな事をしているかと言うと、泉鏡花が「チョコレ―トは蛇の味がするから嫌いだ」と辰野隆に語った話を思い出したので、先ほどチョコレ―トを買って来て、鏡花が言ったその言葉を確かめているのである。……しかし、鏡花が言ったチョコレ―トとは果たしてどんな会社の味であったのか?今では明治、ロッテ、森永、グリコ……等々会社が沢山あってみな味が違う。しかし答えは簡単で、わが国で一番古いのが明治42年に板チョコを、そして大正7年(1918年)に国産ミルクチョコレ―トを出したのが森永であり、泉鏡花(1873~1939)の年代と符合し、しかもこの言葉を言ったのが晩年(1939年)だから、森永ミルクチョコレ―ト(1918)にほぼ絞られる。……しかし、泉鏡花の言った蛇の味が、今一つピンと来ない。鏡花は蛇は嫌いだと話しているが、その実、彼の小説の中で最も多く登場するのが「蛇」である。

 

「……アレ揺れる、女の指が細く長く、軽そうに尾を取って、柔らかにつまんで、しかも肩よりして脇、胴のまわり、腰、ふくら脛にずっしりと蛇体の冷たい重量が掛る、と、やや腰を捻って、斜めに庭に向いたと思うと、投げたか棄てたか、蛇が消えると斉しく、…………」(『紫障子』)

 

「胴は縄に縺れながら、草履穿いた足許へ這った影、うねうねと蠢いて、逆さにそのぽたりとする黒い鎌首をもたげた蝮……」(『尼ケ紅』)

 

 

先ほどのチョコレ―トの話であるが、蛇の味とチョコレ―トの味との乖離(離れている様)は、常人には量りがたい隔たりであるが、その距離を持って私は、泉鏡花の想像力の飛躍する、或いは振幅する距離と考えている。それを支えている基盤が、彼の豊富な語彙力なのである。……鏡花の事を「日本語のもっとも奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入った」と評したのは三島由紀夫であるが、この僅か数行で三島は泉鏡花について言い切っていると私は思うのである。

 

 

……さて今回の蛇の話であるが、最後にもう1つだけ書こう。……明治期の文豪を代表するのは森鴎外夏目漱石であるが、この双璧、いずれがより文才があるのか、私は以前から気になっていた。そしてふと、この二人が『蛇』という題名で短編を書いている事に気づき、ある日、読み比べてみた事があった。……どちらがより蛇のあの掴みがたいぬるりとした本質に迫り得ているか!?

 

……結果からみて私は漱石の方に高い軍配を上げた。それは勿論、私の主観的な判断であるが、私が漱石の方をより評価したのには理由があった。それは私が度々、蛇の至近まで行って蛇の生理と不気味さをよく知っていたからである。……子供の頃に度々行った、あの沼や小川が、漱石の文章からありありと甦って来たのであった。

 

 

 

 

 

 

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