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『八月の夜に蛇の影を踏んではいけない』

……先日、青森や秋田を襲った線状降水帯の猛烈な雨は、各地に甚大な被害をもたらした。濁流が人家を呑み込んで無惨に流れていく様を観ていると、グリ―ンランドで毎日60億トンの氷が溶けて濁流となって流れ続けている現状と重なり、「人類は間違いなく水で滅びる」と、その手稿に断言的に書いたルネサンス期の巨人―レオナルド・ダ・ヴィンチをどうしても思い出してしまう。しかも彼はこの文章を書いている時に、人類への警鐘的なニュアンスでなく、あの『モナリザ』の不気味な微笑と同じく、醒めた冷笑的な眼差しで、人類の運命を突き放すように書いているのである。

 

……ダ・ヴィンチのその冷徹な屈折ともいうべき資質は、幼年の頃からの生来的なものであり、遺された記録に拠ると、殺した蜥蜴に蝙蝠の引きちぎった羽や別な動物の内蔵を張り合わせて奇怪な動物を作り、ヴィンチ村の大人達を驚かしていたという。…………死とは何なのか?何故鳥は飛べるのか?……生き物の中身の構造は一体どうなっているのか?etc.……尽きない好奇の眼は、その幼児期から早々と発芽していたのである。……もともと子供というものは少年も少女も残酷なものであるが、ダ・ヴィンチはその孤独癖と相まって、〈視たい〉というその視線の欲望は生涯徹底したものがあったようである。

 

 

さて話は変わって、……昨晩こんな夢を視た。……夢はどうやら私が小学生の頃らしい。光の眩しさからみるとどうやら夏休みの頃らしく、私は1人、木造の小学校の薄暗くて長い渡り廊下を歩いている。廊下からは花壇が見え、赤や黄の原色のカンナの花が実に眩しい。……しかし歩いても歩いても、広い校舎の中に全く人影は無く、ともかく私は自分の教室へと向かっていた。……どうやら私は夏休みの登校日を間違えて来たらしい。……教室が見えたその時、その一つ手前の教室に、じっと座っている少年らしき人影が見えた。……廊下から窓越しに見ると、正面の黒板を向いたまま、私に関心も見せず、まるで置人形のようであった。……その少年には見覚えがあった。しかし名前までは思い出せない。……私は他の少年達とは遊んだが、その少年は誰とも遊ばず、ずっと孤独なまま、たしか金沢の方に途中から引っ越していったらしい。……その少年はなおもじってしているままに、やがて夢は消えた。

 

……しかし夢とは不思議なもので、仲の良かった友達は全く夢に出て来ないのに、何故、付き合いのなかった、しかもとうに忘れている筈のその少年が、今時何故に夢に、まるで幽霊のように出て来たのであろうか。一体、そんな夢を視る私達の頭の中はどうなっているのであろうか。……そんな事を目覚めた後に思っていると、やはり小学生の時にいた、一人の、やはり孤独癖の強いもう一人の少年の事を思い出した。名前は、何故か出て来ないので、今からその少年の事を仮にTとしておこう……。

 

 

……Tは集団に馴染まず、いつも一人であったが、何故か私にだけは心を開いて話しかけて来る事があった。二人とも体が弱かったので、体育の時間は見学する事が多く、日蔭の涼しい藤棚の下で、時おり話し合うのであるが、ある時、Tは彼の下校後の密かな愉しみを私に打ち明け話のように話してくれた事があった。……その話とは、「自分の唯一の遊びは、蛇を殺す事なのだ」と言う。……僕は「蛙は面白半分で殺した事はあるが、蛇は怖くてとても近付けないよ」と言うと、Tは得意げに「そりゃあ、僕だって怖いさ。でもぞくぞくとした、あの恐怖感がいいのだよ。それにあの湿った場所の、何とも云えない気配、何だか葬式のような臭いがするんだよ。線香なんかないのに不思議なんだよ。傍に誰かが死んでいるようで……」。

 

……Tの話によると、蛇を殺す時の道具は、歪な角張った小石を10ケだけ持って、沼や小川にたった一人で行くのだと言う。私が「どうして、石が10ケなんだい?」と訊くと「そう決めているんだよ。僕はコントロ―ルだけは自信があるんだ。だから10ケの石を投げて蛇が死んだらぼくの勝ち、蛇が逃げきったら蛇の勝ち、そう決めているんだよ。しかも蛇は頭が良くて死んだふりをするけど、動きが止まったその時こそ狙い時、残っている石の連続放射だよ!」……Tは次第に興奮して来たらしく、目の前に蛇がいるような感じで話している。……更に訊くと、Tの愉しみは、その後にもあるのだという。……Tは蛇を殺した後で持参した針金で縛ってズルズルと引きずりながら家に帰るのだが、途中の道すがら、大人達が決まって青ざめた恐怖の顔をするのが面白いのだという。家に着くと家の前に収穫した蛇の死骸を置く為に、いつも母親からは「お前は狂っている」と叱られるのであるが、玩具より愉しいこの遊びに比べたら、そんな事はまったく平気なのだと言う。

 

……話してみると、Tは自分だけの王国があるらしく、人間は産まれた時から大人族と子供族がいて、だから自分は死ぬまで子供なので、子供としてずっと生きて行くのだと言う。…………………………………………昨晩視た夢から、私はTの事を思い出したのであるが、家の地区が違っていたので、私達は別々な中学に入り、いつしかTの事も忘れていった。……しかし昨晩視た夢のお陰でTの事を思い出したのは、奇妙と言えば奇妙ではある。……Tはあれからどういう人生を歩いていったのだろうか。……そう言えば数年前に小学校のクラスの同窓会があった。もちろんTは来る筈がない。……誰かが口火を切って話題が、あのTの話になった。……Tのその後の事を断片的に知る者がいて話をしてくれた事を思い出した。……その話によると、Tは高校を出た後に東京に行き、今は何だか奇妙なオブジェとかいう、得体の知れない物を作っているらしい。……オブジェが何なのか、私はとんとわからないが、今も王国の唯一の住人として、……彼は子供のままに生きているのであろうか?

 

 

 

……今アトリエにいて、壁に掛けた二点の蛇の作品を先ほどから眺めている。駒井哲郎の銅版画『蛇』と、ルドンの石版画『ヨハネの黙示録』」所収の「……これを千年の間繋ぎおき」である。……眺めながら森永チョコレ―トを食べている。……何故、そんな事をしているかと言うと、泉鏡花が「チョコレ―トは蛇の味がするから嫌いだ」と辰野隆に語った話を思い出したので、先ほどチョコレ―トを買って来て、鏡花が言ったその言葉を確かめているのである。……しかし、鏡花が言ったチョコレ―トとは果たしてどんな会社の味であったのか?今では明治、ロッテ、森永、グリコ……等々会社が沢山あってみな味が違う。しかし答えは簡単で、わが国で一番古いのが明治42年に板チョコを、そして大正7年(1918年)に国産ミルクチョコレ―トを出したのが森永であり、泉鏡花(1873~1939)の年代と符合し、しかもこの言葉を言ったのが晩年(1939年)だから、森永ミルクチョコレ―ト(1918)にほぼ絞られる。……しかし、泉鏡花の言った蛇の味が、今一つピンと来ない。鏡花は蛇は嫌いだと話しているが、その実、彼の小説の中で最も多く登場するのが「蛇」である。

 

「……アレ揺れる、女の指が細く長く、軽そうに尾を取って、柔らかにつまんで、しかも肩よりして脇、胴のまわり、腰、ふくら脛にずっしりと蛇体の冷たい重量が掛る、と、やや腰を捻って、斜めに庭に向いたと思うと、投げたか棄てたか、蛇が消えると斉しく、…………」(『紫障子』)

 

「胴は縄に縺れながら、草履穿いた足許へ這った影、うねうねと蠢いて、逆さにそのぽたりとする黒い鎌首をもたげた蝮……」(『尼ケ紅』)

 

 

先ほどのチョコレ―トの話であるが、蛇の味とチョコレ―トの味との乖離(離れている様)は、常人には量りがたい隔たりであるが、その距離を持って私は、泉鏡花の想像力の飛躍する、或いは振幅する距離と考えている。それを支えている基盤が、彼の豊富な語彙力なのである。……鏡花の事を「日本語のもっとも奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入った」と評したのは三島由紀夫であるが、この僅か数行で三島は泉鏡花について言い切っていると私は思うのである。

 

 

……さて今回の蛇の話であるが、最後にもう1つだけ書こう。……明治期の文豪を代表するのは森鴎外夏目漱石であるが、この双璧、いずれがより文才があるのか、私は以前から気になっていた。そしてふと、この二人が『蛇』という題名で短編を書いている事に気づき、ある日、読み比べてみた事があった。……どちらがより蛇のあの掴みがたいぬるりとした本質に迫り得ているか!?

 

……結果からみて私は漱石の方に高い軍配を上げた。それは勿論、私の主観的な判断であるが、私が漱石の方をより評価したのには理由があった。それは私が度々、蛇の至近まで行って蛇の生理と不気味さをよく知っていたからである。……子供の頃に度々行った、あの沼や小川が、漱石の文章からありありと甦って来たのであった。

 

 

 

 

 

 

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『どうしても見たい私―欧州編』

2日前に降った豪雨は凄かった。激しく雨が降る様をバケツをひっくり返したような……と言うが、これからはそんな生易しいものでは喩えが通用しなくなってくるであろう。いや兎に角凄まじかった。……それを報道するNHKはテレビの字幕で「10年に1度の、今までに体験した事のない豪雨……」と報じていた。…ん?……その言葉、変だろう!…壊れているのは気象だけではない。日本語もそうとう荒れている。気象変動、収束が見えないコロナ、……そこに来て、グリ―ンランドでは異常な熱波により氷が溶けて来て、毎日60~125億トンの氷が流れ出している。(その溶け方は、90年代の実に7倍の早さであるという)。……こうなってくると、現実から逃げるように、例えば、かつての面白かった旅の思い出がどうしても頭をよぎって来てしまう。

 

 

先日、テレビで世界遺産の番組をやっていて、スペイン、バルセロナのサグラダファミリア贖罪聖堂が映っていた。私が行った時には、まだガゥディが建てたファサ―ドがその霊性を放っていて荘厳にして重厚なアニマさえあったが、今はかなり上部が作られ(はしたが)、何か一番大事なものが消えていった感があって無念である。やはり設計図を紛失したという事が致命的なのであろう。……私はその画面から、30年前にこの地に滞在していた時の事を思い出し懐かしかった。

 

 

……その頃、私はバルセロナに来て、ガゥディにかなりのめり込んでいた。最初にサグラダファミリア聖堂に行った時、一番見たかったのは地下聖堂とガゥディの墓であった。しかし、その地下は非公開である為に、観る事が出来なかった。……3回目に聖堂に来た時、様子が変であった。見ると、観光客が遠巻きで華やかな結婚式の行列を眺めているのであった。……どうやらカタロニアの田舎の人らしい、痩せた新郎と凄まじく太った花嫁、それに両家の親族が長い列を作って、これから聖堂の中に入っていくらしい。みんな笑顔である。……私はこれこそ、またとない好機と閃き、観光客をかき分けて、その列の中に入って行き「Hola!」を連発しながら親族のふりをして列に並んだ。半年ばかりスペイン語を幼時レベルではあるが習っていたのが良かった。「結婚おめでとう!」は、たしか……確か「Felicidades!」だったかな?と思いながら、私への視線を感じた時は、嬉しくてたまらんという表情で、それを連発した。聖堂の中に入り、地下へと下りて行く時に私は高揚した。読みは当たった。はたして、結婚式はこれから一般には非公開の地下聖堂で荘厳に行われるのであった。

 

まるで宇宙の深い神秘の森のような幾つもの反った支柱で作られた地下聖堂の天井(バロックの荘厳、モデルニスモとは違うガゥディ独自の美の結晶、サグラダファミリア聖堂は先ずここからガゥディが作り始めたのであった!)そして私の真横には、大理石のガゥディの墓。……葬式と違って結婚式にやぼは無用である。こいつちょっと変だな?……うちらにアジア人の親戚がいたっけ?……そう連中が思っても、今日は目出度い結婚式!……ヒスパニックもラテンも細かい人はそういない。……式が終わって新郎新婦は、これから車で出発するのである。花吹雪が舞う中、束の間の親戚達と別れの握手をして、私は実に清々しい気分であった。…………以前にもブログで書いたが、ゲイで空手五段の福井さんという謎の人物に連れられて深夜にチ―ノ地区(中国人街で殺人の多い危険地区)にある売春窟(ピカソが通い、「アビニョンの娘たち」の構想を得た場所)に見学に行き、直後、警察の一斉摘発に巻き込まれて脱出するのは、その数日後の事であった。

 

 

……ガゥディと共にスペイン滞在中にのめり込んでいた相手は、怪物にして天才的な画家、フランシスコ・デ・ゴヤであった。プラド美術館に通い、『黒い絵』の名作に共振し

ながらマチエ―ルの妙にひたすら感心する日々が続いた。……そして、ある日、いよいよマドリ―ドの郊外にあるサン・アントニオ・デラ・フロリダ教会にあるゴヤの墓と、以前から観たかった天井画(聖アントニオの奇跡)をまるで聖地巡礼のような高揚した気分で訪れたのであった。しかし、郊外にあるその教会に近づくと、やはりゴヤの聖地を訪れた大勢のファンらしき人達が、なにやらガッカリしたような表情を浮かべながら戻ってくるのが見えた。……その中の一人に訊いてみると、どうやら工事中で今は誰も観れないとの事。……遙々来たのに嘘だろ!!!?……と思ったが、旅立ちの前にスペイン語の先生が言った或る話を思い出した。先生いわく「スペインは滅茶苦茶よ。撮影の依頼で金さえ払えば、プラド美術館の館長は、非公開の絵やデッサンに強烈な照明ライトを当てても見て見ないふり。つまり私腹を肥やしているわけよ」と、詩人のガルシア・ロルカに心酔するあまり、グラナダに一年の半分は住んでいるその先生は言った。

 

 

……………………〈よし、ならば行くか!!〉と意を決して教会の作業員に近づき、伝家の宝刀である、またしてもの明るい「Hola!!」を発し、ソイ.ウン.ピント―ル.デ.ハポン(日本から遙々来た画家だよ)と言って、男の肩を気安く叩きながら、手に握っていた当時のスペイン貨幣である数ペセタ(だいたい500円くらいであったか―微妙な金額!)を、越後屋よろしく握らせた。……はっきり言って、やり方はあざといが私は真剣であった。……しかし、これが通じたのであるからスペインは面白い。……作業員の男はにっこりと軽く頷き、「いいよ中に入っても」と言ってくれたのであった。私は礼を言って中に入り、長い間ずっと牽恋の地であったゴヤの墓を観る事が出来た。

 

しかし工事中の為か中はかなり暗い。……そう思っていると急に照明のライトが強く灯り、ゴヤの墓と、天井のゴヤが描いたフレスコ画の2ヶ所に鮮やかに当てられた。見ると、先ほどの男が天井近くの手摺から私に「どうだい!?」というゼスチャ―をするので、私も親指を高々と突きだして頷いた。……私は観たいのである。どうしても観たかったのである。だから簡単に私は引き返さないのである。

……最後の話イタリア版へと、話は続きます。

 

 

 

仏文学者の故澁澤龍彦氏はその名著『滞欧日記』の中で、フィレンツェにあるメディチ家の別荘、〈プラトニ―ノ荘〉の事についてふれ、休日であった為に中に入れず、観たかったアぺニンの巨人像(16mの高さで、ミケランジェロに大きな影響を与えた像)が遂に観れなかった事を実に無念そうに書いている。……ウフィツィ美術館の2倍の経費を要して建てたこの別荘はフィレンツェ郊外に12荘在るという中で、敷地面積の広大さでも群を抜いている)。かつて、最初にこの別荘を訪れた日本人は、……あの天正遣欧少年使節の四人の少年達である。

 

 

 

 

 

 

 

……私はフィレンツェ市内からバスで行き、40分ほどしてそこに着いた。門は開かれていて、中にはたくさんの観光客がいた。……別荘の中は往時の豪奢をそのままに遺して優雅であったが、やはり一番の目当てはアベニンの巨人像である。……しかし、池の上に立つその像は確かに巨大で人々を圧しているが、柵があってその近くにさえ近づく事が出来ないのは、いかにも残念である。私は来る前に、勝手にイメ―ジを紡ぎ、巨人が見下ろす真下から眺める事を夢想していた。……しかし、現実は管理が厳しく、遠くから遠望するしか叶わないのであった。大勢の観光客も無念そうに眺めているだけである。……しかも、別荘中を警備して回っているパトカ―が今まさに、私達観光客の前を通過している最中で、威圧的なぴりぴりした緊張感が漂っていた。

 

………………私はふと考えた。というよりも閃いた。「待てよ、今、目の前にパトカ―がいるという事は、しかもそのゆっくりした速度では、次にここに廻って来るにはそうとう経ってからに違いない。」……「よし、今が絶好のタイミングである!」……そう読んだ私は突然、群集の中から歩き出し、巨人像を目指して進んで行った。背後から大勢の観光客のオ~!!という感嘆の声が響いて来る。しかし、私の後に続くような人はいなかった。巨人像に近づくと、遠くの観光客の声は聞こえなくなり、見ると、彼らは私の行動を見守っているだけである。……私はミケランジェロもここを訪れたに違いないという確信のもと、下から、遥か上の高みから私を見下ろしている巨人像に見入り、ルネサンス前の表現の強度を浴びるように体感した。更に池に入って行く暗い洞窟を抜けて、かつてこの池で舟遊びに興じた貴婦人達の声を幻聴のように体感した。

 

 



 

 

 

…………やがて私は巨人像から離れて別荘内を散策した。……すると芝生の上で鮮やかな朱色で印刷されたA1の文字の紙を拾った。「何故ここにこれが!?」……私は作品の構想がその時卒然と閃き、帰国後に、この時の体験した事をオブジェで作ろうと思った。それが今、福井県立美術館が収蔵している作品『プラトニ―ノの計測される幼年』である。幼年とは、この別荘を訪れた四人の少年使節達をも意味し、また作品には、その時に拾ったA1の紙も貼ってある。……私は観たかったのである。強く見たいというこの気持ちは、時として作品への不思議な導きをもしてくれる事がある。……私の作り出すオブジェは、このようにして旅の経験や体感が原点となって立ち上がっている事が実に多い。


 

プラトニ―ノの計測される幼年

 

 

……10月19日から開催される予定の日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの大きな個展を前にして、毎日、アトリエにこもって制作の日々が続いている。3月から開始した作品制作は順調に進み、現在60点近くが完成した。……世界は今まさに混迷の中に在る。しかしアトリエに入ると一切の現実は遠退き、ひたすら虚構の中に美を咲かせる営みのみが在るだけである。

 

 

 

 

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『潜在光景―私の中に誰かがいる』

……午前早くにアトリエに向かう道で、死にかけているアゲハ蝶を見た。車の往来があるので不憫に思い、手に取って近くの涼しげな木立の緑陰に行き、静かに放した。……指先に蝶の羽の感触が微かに残っていて、幼年時代の夏を思い出した。

 

……私は蝶が好きで、時々オブジェの中にもそのイメ―ジを取り込んでいる。……蝶と云えば、安西冬衛の詩に『春』という題で「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」という美しい一行詩がある。……韃靼(だったん)海峡が効いている。これが津軽海峡やマゼラン……では、渡っていく蝶が見えて来ない。韃靼海峡を見た事が無くても見えて来る風景が在るから、人の想像力とは不思議なものである。色彩と同じく、言葉の様々な響きにも様々な物語が潜んでいるのである。安西冬衛のその一行詩を思い出したので、そうだ、一行の詩を自分も作ろうと思い、歩きながら考えた。詩はたちまち出来た。……「1991年4月12日、パリの空が落ちて、バルザックの像が欠けた夜に……」。…さて題をどうするかと考えて、三つの題が続けざまに浮かんだ。『オダリスク』.『クレオの不信』.『近代劇場』……。題を何れにするかで、この一行詩の中のイメ―ジが全く違って来るから、言葉とは実に面白い。まるでイメ―ジを紡ぐ装置である。……だからこそ、私は作品に付けるタイトルにはこだわりを持っている。

 

……そんな事を思いながら歩いていると、やがてアトリエが見えて来た。郵便受けを開けると、大きな封筒が届いていた。差出人は、世田谷美術館の学芸員の矢野進さんからである。先日お会いした時に、1986年に美術館が開館した当初に開催されたロバ―ト・ラウシェンバ―グ展を私は観ていなかったので、その図録をいつか拝見したいとお願いしていたところ、その図版とテクストのコピ―を送って来られたのである。矢野さんは「ラウシェンバ―グは何故か日本ではあまり語られていない」と言う。私も同感である。

 

 

……テクストは、ロバ―ト・ヒュ―ズの長文の論考と、美術評論家の東野芳明とラウシェンバ―グの対談で構成されていて実に面白かった。そして懐かしかった。……私は大学では奥野健男の文学ゼミでバシュラ―ルをやり、東野のゼミでは20世紀のアメリカ美術を代表する、ラウシェンバ―グと双璧的な存在であったジャスパ―・ジョーンズをやった。ゼミを掛け持ちでやっていたのだから私もいい加減なものである。……ジャスパ―・ジョーンズについて、その思うところを書くという課題で、私は「ジョーンズの作品の前に立つと、いつも何故か決まって、犯人の遺留品があまりに多く残された殺人現場に立ち会っているような戸惑いにも似た印象を覚える。そこには解釈を迷宮の方へと誘ってやまない、作者の意図的な仕掛けが息づいている。……」という、ミステリアスな書き出しから始まる40枚ばかりの論考を書いた事があった。……他の学生は生真面目な硬い文章で始まっていたが、東野は私の論点を面白がり、君と同じような視点でジョーンズについて書いた、アメリカの美術評論家がいたよ、と教えてくれた。へぇ~そうなのか、と私は思ったものである。

 

 

……このゼミは最初は、ジョン・レノンの詞の翻訳から始まって面白かったが、東野と学生、更に詩人の瀧口修造氏が組んで、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称ー大ガラス』の日本版を作るという段になって、私はゼミをやめた。……あの『大ガラス』という作品は、後日のアクシデントで偶然入った時に出来た美しい亀裂があってこそで、亀裂が無い以上、作っても無意味である。それが何故わからないのか!という醒めた分析が私にはあった。簡単に云えば、韃靼海峡と書くべきところを、解釈の歪み、或いはセンスの無さで「てふてふが一匹マゼラン海峡を渡っていった」になってしまうのである。

 

…………その二年後、竹橋の近代美術館で開催された『東京国際版画ビエンナ―レ展』で私は招待作家として出品し、パ―ティの席で東野芳明と再会したが、それが最期の別れであった。しかし時が経ち、東野もラウシェンバ―グも亡くなった今、対談を読むと、あの70年代が甦って来て先ずは何より懐かしいものがあった。今の時代には無いラウシェンバ―グの真摯で熱い語りがそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回のブログ、これ迄は伏線で、これからが本題である。……ある日、神田神保町の古書店街を歩いていた時に『ナショナルジオグラフィック』の本が、山積みで店頭に出ていた。その内の何冊めかにアメリカ先住民の『インディアン』を特集したのがあったので開いて見た。すると!?という感覚に私はなった。……見ている本がロバ―ト・ラウシェンバ―グの作品特集かと思うようなオブジェの幾つかが、インディアンのテントの脇に、日常と同化して転がっていたのである。廃物―古いブリキ缶から自転車の車輪、石……それらの組み合わせのセンス、土の匂いの漂う色彩感覚、ノスタルジアetc……何だか似ているなぁ……、普通はそう思って流してしまうかもしれないが、!?から!!へと閃きが移るように、或る仮説を立ててしまうのが私の良いところなのである。仮説とはすなわち「ひょっとして、ラウシェンバ―グにはインディアンの血が入っているのではないか!!」…… そう閃いたのである。

 

……すぐに私は家に帰って、仮説の裏付けを取るべく、ラウシェンバ―グの英語版の画集を出して来て、真面目に訳を進めていった。……私の閃きは当たっていた。彼のル―ツにはインディアンもいればオランダの血も流れていた。……世界で起きたあらゆる事柄を、彼は時代や国を越えて一つの画面に共存して現すコンバイン(結合)という主題で現していったが、何の事はない、彼自身がコンバインそのものであり、彼の内なる先祖 をして、彼を突き上げ作らしている感が、彼の作品からは濃密に伝わって来るのである。彼のモダニズムは、遠いノスタルジアと直結している、そうも云えるのである。……矢野さんから送って頂いたテクストにも、「……父ア―ネスト・ラウシェンバ―グは、ベルリンから移住して来た医者の息子だったが、この祖父に当る人物はテキサス南部まで流れて来て、チェロキ―・インディアンの娘と結婚したのだった」とある。

 

……東野芳明との対談で、「そういう世界というものの表層の曖昧な多様性を、君の画面は反映していると思うんだ。そのとき君は、画面にコンバインするイメ―ジやオブジェをどうやって選ぶのか、ということ。視覚的な面白さか、言語的な基準か、或いは本能的になのか」と質問する東野に、ラウシェンバ―グは「それは本能的にだな。しかし同時に、選択はまた、事実や物から逆襲されもする。曖昧さというのはいい言葉だ。……」と語っている。ラウシェンバ―グが即答で答えた「それは本能的にだな」……この本能的に、という言葉が孕む意味は、或いは「遠くからの呼び声」「波動して来る遠い記憶」と何処かで繋がっているとも読めるのである。

 

 

でも、それはたまたまだよ!……そうおっしゃる方の為に次の例はどうであろう。登場するのは20世紀前半の絵画史をキュビズムという視覚実験的な試みで席巻したパブロ・ピカソである。ある日、私は思うところがあってピカソの顔写真をじっくりと眺めていて、こう想った。「この男の異様な顔相、邪視的な鋭い眼……、彼の生地のスペイン・マラガの先、ジブラルタル海峡を渡ればすぐにアフリカ大陸……、……ひょっとして彼(ピカソ)のル―ツには、アフリカの黒人の血が入っているのではないか!?」……そういう仮説を立てた事があった。……しかし、先のラウシェンバ―グと違い、ピカソの遥かに遠い先祖を次々に遡って辿る事は、そこまで詳しい研究書が無い日本では不可能な事。……しかし、それから何年かを経て、私は新聞(確か読売新聞の文化欄だったか)の或る記事を見て驚いた。……アメリカの美術館の学芸員の女性が、私と同じ着想を立てて、彼の生地のマラガに行き、親戚も尋ね歩いて調査した結果、遂にピカソの遠い先祖にアフリカ人がいた事を突き止めたのである。

 

つまり、こうである。……20世紀の美術史の革新的な幕開けは、1907年の『アヴィニョンの娘たち』から始まる。……それはキュビスム絵画の代表作である。キュビスムとは、一つの対象一方向の視点だけでなく、上下左右裏表斜めと様々な視点を同時的に描く手法
である。……しかし、アフリカの子供たちが、例えばみんなで1頭の馬の絵を描く時に、ある子供は真横の姿を描くが、他の子は自分が好きな頭部を正面から描き、また他の子は真上から、或いは真後ろから描くという。つまりキュビスムと同じく「多焦点」で描くのが、ごく普通なのである。キュビスム以前からアフリカではキュビスム的な絵が普通に描かれていたのである。

 

 

 

 

 

 

……ピカソと共にキュビスム絵画を追求したのはブラック(フランスの画家)であり、この二人のキュビスム絵画は見分けがつかないという。しかし私はその判別法を掴んでいる。画面が洗練されていて構図にエスプリが在るのがブラックで、画面が御し難く不調和で、例えて云えば、摘み草や土の匂いがするのがピカソである。これは間違いのない判別法である。……ひょっとするとピカソ自身、アフリカの子供達の描き方がキュビスムと繋がっている事に気がついてなかったかも知れないが、本当の史実は作者の胸の中に封印されたままである。

 

このラウシェンバ―グ、ピカソの例に見るように、近代の産物であるモダニズムというものも、作者自身が無自覚のままに、遠い先祖の記憶からそれは産まれ、それこそ、ラウシェンバ―グが即答したように「それは本能的にだな」という言葉の中に、創造の秘密が潜んでいるようにも想われる。私達の体内には遠い先祖からの遺伝子が脈々と流れており、それは本人が死んで肉体が滅んでも、船を乗り換えるようにその子孫へと繋がっていて、遺伝子が滅びる事はけっして無い。そこには様々な物語りの記憶も濃密に入っていると想われる。……私達の過去を辿れば、共通したノスタルジアの源郷、記憶の原器があると私は思っている。そして、…………それは私の作品を作る際に通奏低音として在る主題でもあるのである。

 

 

 

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『魂の行方―明治26年の時空間の方へ』

毎日人々がたくさん行き交う東京駅には、総理大臣の暗殺現場を示すプレ―トが2つあるが、今ではそれを知る人は少ない。……1つは、大正10年に東京駅丸の内南口改札付近で刺殺(即死)された原敬。もう1つは、昭和5年に東海道本線10番線乗り場ホ―ムで銃撃(後日死去)された濱口雄幸である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日の白昼に起きた安倍元総理大臣の暗殺現場の映像は悲惨なものであった。そして仰向けに横たわる安倍氏の姿は生々しいものであった。その様には、もはや誰も介入出来ない、取り返しのつかない、私達誰もがやがて各々に迎える死の瞬間を代弁して実況しているかのような、絶対の孤独な姿があった。……必死で甦生のマッサ―ジをする人、大声で救急車や近くに医者を求める人々。プロとは言い難い迂闊な失策をやってしまったSPと警官が抑え込んでいる犯人の姿。……その中で、画面に映る安倍氏の姿を観ていて、ふと、正に今、死に瀕したこの人の脳裡には果たして、何が浮かんでいるのかを想像した。(……自分の経験を基にして。)』

 

…………以前にブログでも書いたが、私は2回死にかけている。1回目は2才の時だからもちろん記憶にないが、病弱だった上に流行りの百日咳が悪化して危篤状態になった。(この世に縁が無かった私を憐れんで、棺桶の中に何を入れるかを両親が涙を流しながら相談したという。)しかし、運が良かったのかどうか、当時たまたま承認されたばかりの薬を注射して、奇跡的に死の淵から生還した事を後に母から聞かされた。……2回目は高1の時に体験した溺死に瀕した時である。突然、堰を切ったように水が口の中に大量に入って来た時の、かつて体験した事の無い苦しみの後は、一転して母の胎内に守られて羊水に浸っているかのような幸福感に充ちた感覚の中、天上から実に美しい光が射しはじめ、私は、あぁ何て幸せなんだろう、このままでいい……このままで、もういい……そう、ぎりぎりの意識が感じていた時、……突然救助の手に引き上げられ、先ほどの苦しみを今一度体験した後に、私は感覚が割れるように甦生した。これは、立花隆氏の著書『臨死体験』で、死の淵から生還した人々が語る、柔らかで至福感に充ちた光が射して来たという多くの証言と一致する体験である。

 

 

……人が亡くなる直前、最後まで機能しているのは〈聴覚〉であるという。だから、救急車や医者を求めて叫ぶ声は、彼の脳裡には、おそらく遠くの意味知らぬノイズとして、或いは別な世界のものとして聴こえていたのではあるまいか……。それを聴いているのは、もはや安倍晋三という直前迄の俗名を持った存在でなく、また憲政史上最長の総理職を勤めたという事も既に意味を持たない、ただの素に還元された無垢な魂、例えるならば産まれたばかりの素の意識として最期に聴いたようにも想われる。……或いは、銃弾の破片が心臓を直撃して、心肺停止の自力呼吸が出来ない為のショックにより、コンセントを急に抜くように、感覚も硬直して何もない無と化してしまったか。ともかくそこには絶対の孤独が透かし見えたのであった。

 

 

 

……話は変わるが、以前に井上ひさし氏の本を読んでいて興味深い箇所に出会った。……井上氏は学生時に上智大学で教えている神父に「先生、人は死ぬと天国に行くと言いますが、天国なんて本当にあるのでしょうか?」と質問した。すると神父いわく「天国があるかどうかは、死んだ人が生き返っていないので誰にもわかりません。しかし、天国があると思った方が愉しいではありませんか!!」と。私は神父のこの言葉に膝を打って食いついた。なるほどと!!…信ずる者は救われる、である。しかし、こうも考えた。天国、もしそれがあるとしても、そのイメ―ジとしてある世界はあまりに事も無く、ただけだるすぎて退屈の極みである。何より一番気に馴染まないのは、それが他者の考えた概念にすぎない事である。……信ずる者は救われるならば、私は自分だけの独自な考えで、死を現世からの別れとしてでなく、次なる新生が、その先に在ると考えよう!……そう考えるようになった。

 

……そして考えたのが、死ぬ瞬間に素と帰した魂を翔ばして、私が最も行きたいと熱望している明治26年の、東京は浅草の時空間に行く事である。……何故、明治26年に拘るかというと、度々私のブログに登場する浅草凌雲閣(通称浅草十二階)が、その少し前の明治23年に完成し、またこのブログに、これもまた頻繁に登場する天才女流作家の樋口一葉(本名.樋口奈津、時に夏子)が、『奇跡の14ケ月』と云われる『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』等の文学史に残る名作を書く前の、正に極貧の時に在り(明治29年に24才で肺結核で死去)、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いていて、朝靄の中で浅草花川戸、今戸橋近辺を仕入れに歩いている、正にその時空間に魂を翔ばして、朝靄の中を歩く樋口一葉の、その謎に充ちた顔を一瞬掠め視てから、次なる浅草凌雲閣へと魂を翔ばし、谷崎潤一郎江戸川乱歩達、数多くの文藝家がその異形なる塔にイメ―ジを触発されて小説にも度々登場した、その姿を仰ぎ見て、魂はその中の螺旋階段を一気に駆け抜け、屋上の展望階から明治26年の東京に魂を放射したいと、ひたすらそう考えているのである。

 

 
……先日、制作の合間を縫って、私の魂の帰すべき場所、明治の面影が僅かに透かし見える浅草の今戸橋、また待乳山聖天辺りを散策した。広重の描いた風情が残る、私の最も好きな場所である。浅草寺や仲見世は人で喧しいが、この場所はたいそう静かで涼やかであった。新生の時は先ずはここから始めよう。私はそう思った。

 

………………「新しい出発だ。窓をもう少しお開け、新生だ、ああ素晴らしい!」と臨終時に話して逝ったのは北原白秋である。白秋の魂もまた新生に向けて至福感の中で逝ったのか。

 

…………とまれ、私もまた死に臨して、白秋のようでありたいと考えているのである。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『オ―ラは存在しない!…の巻』

……俳聖の松尾芭蕉と、俳人にして優れた画家でもあった与謝蕪村。この両者の違いをわかりやすく喩えると、蕪村は宝くじ(当時は富くじ)を買うが、芭蕉はおよそ買いそうにない、……そんなイメ―ジの別け方もざっくりだが出来るかと思う。

蕪村の弟子の記録によると、実際、蕪村は富くじを度々買っていたようである。別に蕪村のひそみに倣うわけではないが、私も時々宝くじを買っている。昔のブログに書いたが、ある時は10万円が当たって喜んだが、その後は晩秋に吹く木枯しの如し。まぁ遊び半分であったが、ある時、どうにも切羽詰まって買わざるをえない時があった。……美術作品の制作を止めて、10ケ月近くをモナリザに関する原稿執筆に専念した為に、収入がゼロ。背水の陣で書いていた時に、「JR浅草橋駅」高架下の宝くじ売り場(実際の画像掲載)、あすこの老人夫婦が販売している売り場が何故かよく当たる!と友人に勧められ、半信半疑ながら何かを託すような気持ちでわざわざ買いに行った事があった。

 

 

その宝くじ売り場の前に立って、私は自分の目を疑った。中にいる福々しい笑顔をした老人夫婦から、いわゆるオ―ラのような放射する光が出ており、あたかも恵比寿天と弁財天の化身のようにも見え、私は「どうしてもっと早くこの売り場に来なかったのか」と悔いたのであった。そして宝くじを買った。

 

……この段で、読者諸兄が予想された通り、宝くじはしばらくして只の紙屑と消えた。……数ヵ月が経ったある日、たまたま浅草橋に用事があり、件の宝くじ売り場の前を通った。すると、見覚えのある、あの時の老夫婦が夕暮れの中を帰っていくところに出くわしたのであった。……見て驚いた。かつて覚えた七福神の如き華やいだ面影はまるでなく、喩えると、サ―カスの老いた道化師、いや、酒場を渡りいく売れない流しの老夫婦のような哀愁を帯びてさえ見えたのであった。

 

 

……その瞬間、私は気がついた。……あの時に見たオ―ラは、彼等が現象として放っていたのではなく、私の願望や欲、強い想いが彼等をして、眩しいばかりの光となって見えたにすぎないのだと。もし彼等がオ―ラなる艶々しい光を現象的に、蛍火のように放っていたならば、あの浅草橋の高架下にいた人々全員にそう見えた筈である。しかし、あの時に覚えた七福神の如きオ―ラは、私以外誰にも見えなかったに違いない、完全なる私の主観の一人称的な映り、私の期待が放って反って来た、脳内にしか映らない光(要するに高揚感)だったのだと。………………

 

 

およそ1年を要して書いたモナリザに関する原稿は、以前に文芸誌の『新潮』に掲載された2編と共に1冊の本になり、新潮社から刊行された。美術書としては異例の増刷となり、私は墜落を免れて再び離陸する想いで美術の制作に戻っていった。……このような事は、そう云えば以前にもあった事を私は今、このブログを書いていて思い出した。……あれはまだ私が美大の学生の頃であった。東京・自由が丘の中華飯店で食事をしている時、背後から聴いた事のあるかん高い声が聞こえて来た。「ひょっとして……長嶋か!?」そう思って振り向くと、果たして長嶋、王、張本……といった巨人軍の主力メンバ―が会食の最中であった。……かつて野球少年であった私の募った想いが蘇りのように映されて、長嶋、王の二人がありありと光って見えたのを今、思い出した。

 

 

……かくして私は思う。私達が見ている三次元のこの空間に映る万象も、誰にとっても絶対的に同じ映りではなく、私達の主観、資質、その時の心情……といった内面の相違によって、実は様々に違って見えているのだと。それがある人には高揚して映り、関心のない人には褪せた凡庸な物として映る。……観劇もしかり、映画鑑賞、絵画鑑賞もまたしかり。ゴッホの絵を例に引けば、ゴッホの作品と人生に関心のある人には『向日葵』に様々な深い見立てさえ映り、ゴッホに関心のない人には、強すぎる主張の強い絵として辟易として映り、また絵画を投資の対象、マネ―ゲ―ムにしか見えない連中には、変動する株価のように金の代替物にしか見えないのと同じ理窟である。

 

 

……私達が共有感覚として持っていると思っている世界とは、つまりは各々が紡いだ異なる映しであり、結論を急げば、私達は遂には、内なる感性から一歩も皮膚の外に出る事は出来ないのである。……万象は幻の如しと書いて、次回は、浅草凌雲閣へと舞台が移ります。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』

6月に入ると梅雨があるのでアトリエに籠りがちになるせいか、制作の速度が一気に加速するようだ。『サディの薔薇』、『NANCYの小さな矢印のある二つの門』……といったふうにタイトルが次々に浮かび、イメ―ジが日々新たに浮かんでくるのに、その実作の物理的な速度がそれに追いつかない…といった感じで、ともかく新しいオブジェが次々に誕生している。……しかしそんな中、では出歩かないかというと、けっこう出掛けてもいる。最近は毎週、多摩美大に行って喋っている。

 

喋りといえば、美術大学や美術館でけっこう連続的に喋っていた時期があった。……思い出すままに書くと、多摩美大・武蔵野美大・女子美大・名古屋芸大・立命館大学・京都精華大・國學院大・玉川大・北海道教育大・福島大……、美術館では横浜市美術館・福井県立美術館・宮城県立美術館・福山美術館・高崎市美術館……etc。また与謝蕪村の研究セミナ―から喚ばれて宇都宮で研究者達を相手に講演をした事もあった。……作品から作者もまた寡黙に思われがちらしいが、本人は真逆で、常々考えている事を確認する意味もあってか、よく喋る方だと思う。

 

今、喋っているのは多摩美大の演劇舞踊デザイン学科。……数年前に話が来た時は遠くの八王子校舎だと思い断っていたが、よく訊いてみると世田谷の上野毛校舎だという。上野毛ならアトリエから近いので引き受けた次第。……特別講義の題が必要だというので『二次元における身体論』という題にした。二次元における身体論、……いささか捻っているみたいだが、要は文芸に力点を置いた、イメ―ジの装置としての「言葉」の効用の事である。……学生相手に喋る面白さもあるが、「当世書生気質」ならぬ「当世若年者気質」、つまりネット社会の落とし子達の実態が肌でわかるので、近未来の姿がうっすらと、いや、ありありと見えて来て、その縮図がリアルに視えてくる。……喋る前日に講義の事前準備は一切しない。また参考書や資料なども持っていかず、いつも手ぶらの軽装で行く。講義時間は約三時間半。

 

私の話は学生に「未だ足らざる」を実感で伝える事。だから、例えば先日やった内容は、短歌の春日井建、寺山修司、石川啄木、そして源実朝の和歌から実作を選び出し、その文中の一番要の言葉を○○○にして隠し、学生達に作者になったつもりで言葉を捻り出させるという内容である。かくして、その日の講義のタイトルは題して『なぜツルゲ―ネフでなければならないのか』。美大の助手の方から、その時の問題用紙をサイトに送って頂いたので、参考までに以下に掲載しよう。

 

 

 

令和4年5月19日 北川健次先生 特別講義

『第一回『なぜツルゲーネフでなければならないのか』

 

●春日井建 歌集『未青年』より

・大空の斬首ののちの静もりか没ちし〇〇がのこすむらさき

・われよりも熱き血の子は許しがたく〇〇〇を妬みて見おり

・両の眼に針刺して◯を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

 

 

●寺山修司 歌集『田園に死す』より

・新しき〇〇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

・売りにゆく〇〇〇がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

・たった一つの嫁入道具の仏壇を〇〇のうつるまで磨くなり

 

 

●石川啄木の歌集より

・そのむかし秀才の名の高かりし友◯にあり秋風の吹く

・死にたくはないかと言へばこれ見よと〇〇の◯を見せし女かな

・〇〇の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

 

 

●源実朝の和歌より

・大海の磯もとどろに寄する波わけてくだけて〇〇〇〇〇〇〇

 

 

読者諸氏は、空白の○○○にどういう言葉を入れられたであろうか。
とりあえず正解は…………………………↓

 

 

春日井建

1.大空の/斬首ののちの/静もりか/没ちし日輪が/のこすむらさき

2.われよりも/熱き血の子は/許しがたく/少年院を/妬みて見おり

3.両の眼に/針刺して/魚を放ちやる/きみを受刑に/送るかたみに

 

寺山修司

1. 新しき/仏壇買ひに/行きしまま/行方不明の/おとうとと鳥

2.売りにゆく/柱時計が/ふいに鳴る/横抱きにして/枯野ゆくとき

3. たった一つの/嫁入道具の/仏壇を/義眼のうつるまで/磨くなり

 

石川啄木

1.そのむかし/秀才の名の/高かりし/友牢にあり/秋風の吹く

2.死にたくは/ないかと言へば/これ見よと/喉の疵を/見せし女かな

3.浅草の/夜のにぎはひに/まぎれ入り/まぎれ出で来し/さびしき心

 

源実朝

1.大海の/磯もとどろに/寄する波/わけてくだけて/さけて散るかも

 

 

 

…………………………以上である。
時代を越えて、名作とは、単に言葉が美しいだけでなく、実にイマジネ―ションに毒があり、危うさがあり、一言で言えば美とは形而上的犯罪と言っていいものがある事に、あらためて気づかされる。想像が紡いだ犯罪遺文、そう言ってもいいかもしれない。……俳句は、禅的な視点で世界を、宇宙を凝縮してつかみとって詠む為に、もっと大きいものがあるが、短歌や和歌の31文字は凝縮と拡散の相反するベクトルがミステリアスなまでに重なってあるので、そのままに二次元の身体学という話に使いやすいのである。

 

……しかし、最近つくづく思う事は、スマホなどの出現で、年々、若い世代の人達の語彙が少なくなって来ている事である。言葉を知らない事を恥じるでもなく、スマホがそこにあれば、彼、彼女達の脳もまた頭を離れてそこ➡スマホの中に在るので心配はご無用、そういった傾向(もはや症状)が加速的に蔓延している感がある。……言葉を知らない、故に思いを伝えられない。喋れない、……だから黙る、だから未熟なままに年を経る。

 

 

……言葉を知らない人間が増えている原因は幾つかあるが、辞書や教科書からルビ(振り仮名)が消えた事は大きい。……芥川龍之介三島由紀夫には一つの面白い共通点があった。それは幼い時の愛読書が辞書であった事である。しかもルビ付きの善き時代。もともと知能が研ぎ澄ましたように高いところに、辞書で毎日のように語彙が増えていき、悪魔的なまでに彼らは言葉の魔術師となっていった。……言葉だけに限らず、昨今の世の便利さはますます退化を促し、情緒は言霊から離れてカサカサの空無と化し、そのとどまるところを知らない。…………アトリエを出て時々外で喋っていると、その事を強く感じる事が本当に多くなった。

 

 

 

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『梅雨入り前の良き日に記す事』

前回のブログでご紹介した千葉の山口画廊での個展『二十の謎―レディ・エリオットの20のオブジェ』が好評の中、6月13日(月)まで開催されている。私は初日にお伺いしたが、画廊に入るや、画廊のオ―ナ―の山口雄一郎さんによって構成された展示空間の緊張感漂う気配が直に伝わって来て思わず唸ってしまった。……作品の展示の高さ、作品の構成、照明、タイトルを書いたキャプションの作りの巧さ。……いずれをとっても神経の細やかさ、美意識が作品と共鳴し、自分の作品でありながら思わず見入ってしまったのであった。私には珍しい事である。

 

 

 

 

 

 

……画廊にいると、次々と来廊者が来られる。千葉での個展は初めてであるが、皆さん、山口さんとは旧知であることが伝わって来て、たちまち今回の個展に私は手応えを覚えたのであった。机の上を見るとプリントがある。手にとって読むと、それは前回の『画廊通信』とはまた別に山口さんが書かれた拙作についてのテクストであった。山口さんが本展に懐いている熱意が伝わって来て嬉しかった。全文が一気に書かれたと思われる、私の作品の核に言及した文章なので、今回のブログでご紹介しよう。

 

 

《北川 健次   Kitagawa Kenji 》

 

黒く塗られた密やかな箱の中で、絢爛と醸成される幻惑の浪漫、それは不穏に謎めくようなアトモスフィアをまといつつ、ミステリアスな異界を現出させる。鋭利な詩的直感をもとに、解体された無数のエレメントを再構成して創り出された、多様なイメージの錯綜する別次元の時空。このガラス越しに浮かび上がる鮮明な異境を見る時、私達はいつしか非日常の境界に、条理を超えて燦爛たる闇を彩なす、見も知らぬ魔術の領域へと踏み入るだろう。見る者を妖しく誘なって已まない、類例なき「装置」としてのオブジェ、それは巧みに添えられたタイトル=詩的言語のもたらす不可思議の暗示と相俟って、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない謎を生起する。

 

北川健次──駒井哲郎に銅版画を学び、棟方志功・池田満寿夫の強い推薦で活動を開始、フォトグラビュールを駆使した斬新な腐蝕銅版で、版画界に比類のない足跡を刻む。以降、その卓越した銅版表現を起点に、コラージュへ、オブジェへ、写真制作へ、更には詩作や美術評論へと、ボーダーを超えた自在な表現を展開しつつ、留まる事を知らない意欲的な活動を続けて現在に到る。その極めてユニークな制作は、ジム・ダインやクリスト等の著名な美術家にも賞讃され、アルチュール・ランボー・ ミュージアムやパリ市立歴史図書館等からも出品依頼を受けるなど、名実共に国際的な評価を獲得して来たが、 実は多彩な変容を見せる表現活動の根幹は、或る揺るぎない方法論に貫かれている。

 

コラージュ──前世紀の大戦間にエルンストの「コラージュ・ロマン」という言葉から始まったこの手法は、以降様々な派生形を生みながら、現代技法として定着するに到っているが、その原義を最も正統に継承する者として、のみならずその可能性を極限まで拓きゆく者として、北川健次という存在は他の追随を許さない。コラージュ・ロマンというエルンストの命名は、今や北川芸術の表徴として甦るのである。

山口雄一郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『山口画廊・山口雄一郎さん/私の個展に寄せて』

……美術の分野で、今では伝説的な人となった佐谷画廊の故.佐谷和彦さんは70年代の後半から90年代終わり迄、画商の立場から美術界を牽引した人である。その優れた企画力と実行力において他の追随を許さない突出した人物であった。企画したクレ―展は会期中に三万人以上が来廊し、ジャコメッティ矢内原伊作展、オマ―ジュ瀧口修造展など、その全ての展覧会が美術館クラスの質を誇り、本物を求める多くの人たちがそこに集まった。

 

 

……私がお付き合いをしたのは、80年代半ばからである。佐谷さんがコレクションされている私の巨大なオブジェ作品は、来日したクリストの眼に留まり賞賛を受けたが、またご自宅にも度々伺って様々な話をした思い出があり、それは私の大きな財産である。その佐谷さんが、他の画商と決定的に違うのは、毎回の展覧会で質の高いカタログを制作し、そこに佐谷さんの展覧会に寄せる意図が明瞭に書かれた文章が載っている事である。その文章も含めて幾冊もの著作があり、最期の本となった『佐谷画廊の三十年』(みすず書房)では、デュ―ラ―の『メレンコリアⅠ』の隠された謎をめぐって、佐谷さんと一緒に私も登場し、謎を推理する人物として書かれている。いろいろ思い出はあるが、…………思うに、この人は何よりも先ず矜持の人であった。画商という仕事にプライドを持ち、高い知的好奇心を持って、次々と挑むように企画を立ち上げ、その骨太の豊かな生涯を全うした。その生きざまは見事の一言に尽きる。……佐谷さんは画廊を閉じる際に私に「毎回の展覧会のカタログ作りは大変だったが、やっておいて本当に善かった。結局、画廊のやってきた仕事で生きた形で残るのは、そのカタログに書いた事だけだよ」と言われた事があった。確かにそうだと私は思った。そして、佐谷画廊の事を知りたい今の世代の人達が、その著作から多くを吸収しているという。…………佐谷さんの著作と、カタログを私は時々読みなおしてふと思うのだが、なぜ画商で、佐谷さんのように、自分が企画する展覧会について文章を書く人物がいないのか?それは自信であり、また一身に責任を負う事であり、ひいては画廊側からの具体的な発信の証しなのではないか?……これは最近特に思う素朴な疑問であった。

 

 

………………そんな折、昨年、一つの出逢いがあった。私が刊行した詩集を注文して来られた方の中に、その方がいた。……名前は山口雄一郎さん。……署名を書いてお送りした私の詩集に対し、なかなか鋭い感想が送られて来て、大いに興味がひかれるものがあった。「手応えのある面白い人」がいる!!……私は好奇心の強い人間なので、さっそく連絡を入れて、お会いする事にした。お会いして、その人が千葉で山口画廊というギャラリーを開いている事を知った。タイプは違うが、佐谷さんの事をふと思い出した。……「確かな言葉を持っている人」……私はそう思った。そして、2022年5月25日、つまり明日から私の個展『二十の謎―レディ・エリオットの20のオブジェ』が山口さんとの出逢いに端を発して開催される事になった。……. 誠に出逢いとは不思議なものである。

 

そして、展覧会の為に山口さんは長文(何と原稿用紙12枚!!)のテクストを書かれ、12頁から成るカタログ(冊子)、『画廊通信』が先日アトリエに届いた。……展覧会の案内状を掲載すると共に、このブログでは例外的であるが、山口さんが書かれたそのテクスト全文を以下に掲載する事にした。……私の無意識の部分をも鋭く書かれているので、ぜひお読み頂く事をお願いする次第である。

 

 

 

 

『画廊通信 Vol.229    コラージュ ── 異界への扉』

 

今回の案内状に載せた文中で、その極めてユニークな 作風を形容して「幻視のオブスクーラ」と記したが、これは字数の関係による無理な略語で、正確には「幻視の カメラ・オブスクーラ」と記すべきものである。邦語で は「暗箱」と訳されるカメラ・オブスクーラは、例のフェ ルメールが制作に用いたとされる事から、近年にわかに 人口に膾炙した感があるが、これに関連した作家自身の印象的な記述が有るので、ここにその一節を抜粋してみたい。以下は北川健次著「デルフトの暗い部屋」から。

 

あれはまだ私が小学校に入る前であったから、おそらく四、五歳の頃だったと思うが、今でも忘れられない 光景がある。それは雨戸の小さな節穴から午前の一条 の光が暗い室内にさしこみ、壁の一点に魔法のように 逆さまに映っていた庭の一隅の光景である。その小さ な楕円の形をした光の面には、濃緑色をした棕梠の葉 と薄黄色の小花、そして大小の淡い光の珠がぼんやりと映っていた。それを見た時、はじめは誰かが仕掛け た何やら遠い彼方の不可思議な映像を、透かし視てい るような気分であった。それが庭の光景であることに 気付いたのはしばらく経ってからのことである。しか しそれとわかっても、最初に覚えた不思議な感覚は消え去ることなく、むしろそれが既知のものであるがゆえに、虚と実のあわいを見るかのような捕えがたい謎 めいた印象となって、記憶の底に残っていった。その時の体験が、今日のカメラの原型となったカメラ・オ ブスクーラの原理であり、あのフェルメールが絵を描 く際に多用したといわれる装置の仕組みそのものであることを知ったのは、さらに時が経ってからである。

 

 

北川健次ーこの異能の美術家を知ったのはいつの事であったろう、今となっては最早定かではないのだが、一つ確かな事は知り得た当初から、既に北川さんは銅版画の急先鋒として、革新的な作品を次々と発表されていた事だ。フォトグラビュールを駆使したその斬新な腐蝕銅版は、比類なき独創性と高い完成度が相俟って、当時の版画界でも傑出したオリジナリティーを誇っていた。その卓越した銅版表現を起点として、コラージュへ、オブジェへ、写真制作へ、果ては詩作や美術評論へと、稀有の表現者は自らの領域を自在に広げつつ、八面六臂とも言える活動を展開されて現在に到る訳だが、そのボーダーを超えた幅広い表現の根底には、共通して或る特有の「匂い」が、まるで持続低音のように流れている。謎めいた不可解な幻妖とでも言おうか、見慣れた日常の裏 に潜むあの不条理の闇が、洗練された浪漫のあでやかな彩りの陰で、そこはかとない怪異を醸成する、それは言うなれば、不可思議な幻惑に満ちた「異界」の匂いなのだ。作家の体臭とも言えるそんな背理の匂いが、何処から来ているのかを推し量る時、考えるまでもなく上述の鮮烈な原体験が、ありありとその起端を語るだろう。或る朝に雨戸の節穴から、ゆくりなくも入り込んでいた小宇宙、それが薄闇に怪しく浮かぶ様を目撃した少年は、我知らず異界への扉を開いてしまったのだ。おそらくはそれから現在に到るまで、日常とは別次元としての異界は作家と共に在り、常に創作の源泉となって来たに違いない。それ故か、上に「怪異」と云う言葉を使いはしたけれど、それは決して邪悪な昏冥でもなければ、陰湿な妄念でもない、むしろ未知へのときめきに満ちた、めくるめくような魅惑を孕むものだ。

 

あの日少年の目覚めた「暗い部屋」は、そのまま「カメラ・オブスクーラ」の語源でもあるように、暗箱と云う魅惑の装置そのものであった。そして今、作家の手から作り出されたオブジェもまた、黒く塗られた箱の中の闇に、別次元の異界を映し出す。この鮮明に浮かび上がる沈黙の映像を見る時、私達はいつしか日常の裏側に広がる、見も知らぬ魔術の領域へと踏み入るだろう。言わば北川さんの仕掛けるオブジェとは、異界への扉を開く暗箱装置に他ならない。

 

 

近代の寓話 ── Tower of Babel

 

 

 

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』絶賛発売中──この文言を作家のサイト上に見つけたのが、北川さんと面識を得る端緒となった、ちょうど一年ほど前の事である。以前からブログ等を拝読して、美術家にあらざるような文才に、常々感銘を受けていた折りでもあり、遂に詩集が出たかと雀躍して、早速注文を入れたと云う訳だ。程なく届いたサイン入りの詩集(丁寧なお手紙も添えられていた)は、正に期待通り、昨今の詰まらない詩人など軽く凌駕する内容であったから、過分にも私はこんな感想をしたためて、作家宅へとお送りした。

 

「今回詩集を拝見して、言語表現においても、美術表現 と全く変わらない世界を展開されている事に、改めて目を瞠る思いでした。以前からブログのエッセイは時折読ませて頂いておりましたが、特有の謎めいた雰囲気と、確固とした論理の相俟った文章には、いつも魅せられております。絢爛たる語彙の響きと、不可解なアフォリズムの綾なす世界、そこから鮮やかに喚起される『謎』そのものの魅力に、北川さんの視覚表現と共通する美学を感じております。なお、遅ればせながら作品集も拝見致しました。解体された無数のエレメントを知的に(もち ろんその根底には鋭い詩的直観が有ると思いますが)再構成し、そこにタイトル=詩的言語をぶつける事によって生起する、濃厚な意味を帯びつつも決して解き得ない謎、ここにはコラージュの本質を成すデペイズマンの、磨き抜かれた究極の具現が在ると思いました。それが通常のコンセプチュアル・アートの陥りがちな、脆弱な知的遊戯に終わる事なく、常に豊潤な浪漫の香りを帯びて いる事に、美術表現としての尽きない魅力を感じます」

 

 

Muybridgeの背面の肖像

 

 

 

と云う具合で、顧みれば未だ作品の一つも持たざる身で、誠に僭越な物言いであったが、それから3 週間ほどを経た或る午後、一本の電話が入った。「北川健次です」と云う不意の一言を耳にした驚きは、きっとお分かり頂ける事と思うが、今度ぜひ話をしたい、と云う更なる一言は、私にとっては最早、事件とも言えた。但し、その時は折しも銀座の永井画廊における個展の最中で、直後にはお茶の水のギャラリーにおける個展、更 には日本橋高島屋・美術画廊Xの個展も控えられて、作家自身多忙を極めておられたので、実際にお会い出来たのは秋口に入った頃である。雨の中を軽装で現れた先鋭の美術家は、あの謎めいた作風からは意外とも思えるような、至って快活で飾らないお人柄であった。たぶん私と会って、買い被りを後悔された事と思うのだが、何せ私にとっては千載一遇のチャンス、是非ともお願いしたいと展示会を申し込んで、目出たく今回に到ると云うのが概ねの経緯である。以降も幾度かお会いする機会があり、当店までお越し頂いた事もあって、その度にお話をさせて頂きつつ驚嘆した事は、その広範に及ぶ比類なき博覧強記と、そこから導出される鋭利な推論の面白さである。言うまでもなくそれは「絵画の迷宮」や「美の侵犯」と云った著作に結晶されているのだが、その謦咳に直に触れ得た経験は、正に至福の感興に満ちたものであった。そしてそんな豊饒の土壌が有ってこそ、あの絢爛たるイメージの交錯を生み出す、コラージュの鮮やかな策略が可能になるのだと、密かに首肯したのであった。

 

初期の銅版画から近年のオブジェに到るまで、多岐に亘る表現を展開しつつも、一貫して作家が自らの手法として来たのが、即ち「コラージュ」である。換言すれば北川さんの創作とは、コラージュの多彩なヴァリエーシ ョンであると言っても過言ではない。現在は、画面に何かを貼り付ければ何でもコラージュと称しているが、これはむしろパピエ・コレに近いもので、本来のコラージュとは似て非なるものだ。その歴史を遡れば、90数年前に刊行された一冊の奇書に辿り着くのだが、これが当時としては実に奇妙な絵本で、古い挿絵本や博物図鑑から切り取った図版を、何の脈絡も無しに貼り合わせて作られたものであった。タイトルは「百頭女」、作者は気鋭のシュルレアリストとして名を馳せていたマックス・ エルンストである。この面妖な書物に付けられた「コラージュ・ロマン」と云う副題から、その魅惑に満ちた歴史が始まった訳だが、同様に前掲の手紙に記した「デペイズマン」と云う言葉も、アンドレ・ブルトン(『シュルレアリスム宣言』の著者)が同書に寄せた緒言で用いたことから、美術用語として定着したものだ。この発端から見ても、コラージュとデペイズマンは切り離せない概念である事が分かるのだが、試みにデペイズマンを定義すれば、このようになるだろうか──無関係な要素を自由に組み合わせる事によって、思いも寄らない意外性を生み出し、受け手に混乱・困惑を齎す方法。即ちコラージュとは、デペイズマンの実践に他ならない。

 

以降コラージュは「アッサンブラージュ」や「フォトモンタージュ」、更には「ボックスアート」へと派生してゆく事 になるのだが、北川さんは長年に亘る創作過程の中で、それら全てを自家薬籠中の物とされているので、ここでは「コラージュ」と云う言葉のみで統一したい。思えばこの「本来の」コラージュを、北川健次と云う作家ほど純粋に追求し、徹底してその可能性を拓き続けた人は居ないだろう。今一度繰り返せば、先の手紙に「ここにはコラージュの本質を成すデペイズマンの、磨き抜かれた究極の具現が在る」と記したのだけれど、これは決して大仰な物言いではなく、むしろ「磨き抜かれた」の前に「生涯を懸けて」と入れるべきだったと、今はそう考え ている。かつて偶然に作られた暗箱の闇で異界に遭遇した少年は、後年「コラージュ」と云う幻惑の魔術を駆使して、日常に慣れ親しんだイメージを大胆に錯乱し、あたかも金属を自在に変成させるあの錬金術のように、世界の要素をことごとく組み換えて、新たな奇想に満ちた異界を現出させる、類例なきカメラ・オブスクーラの製作者となった、この正に「生涯を懸けた」一人の美術家の足跡こそが、そのままコラージュの行き着いた究極の地を提示するのである。以下は北川さんのブログから。

 

それにしてもコラ―ジュという技法は、尽きない不思議に充ちた技法であると、あらためて実感している。ピカソやエルンスト達が多用したこのコラ―ジュは、20世紀美術が生んだ、エスプリと謎を孕んだミステリアスな技法である。異なったイメ―ジの断片を、同一空間に配置転換する事で立ち上がる、イメ―ジの化学反応。それは夜に視る夢のように、何処か懐かしいノスタルジアをも秘めている。(中略)……コラージュこそが私の紛れもない原点であり、これこそが表現における最深の秘法、イメ―ジの錬金術なのである。

 


イカロスになろうとした少年の話

 

 

 

まだまだ語りたい事はある。北川さんの詩や評論について、ボックスアートについて、錬金術について等々。しかし、もう紙面も尽きるようである。それに、意味の撹乱を第一義とするコラージュを前に、これ以上の長広舌も不用であろう。後は暗箱の中に仕掛けられた、絢爛たる魅惑の魔術に、存分に身を委ねて頂くのみである。

(22.05.08)    山口雄一郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『幻と共に―成田尚哉追悼展』

人と人との縁というのは、人生という舞台において最も不思議なものであり、時に運命とさえ思える事がある。……そして、それはある日、突然何気なくやって来る。成田尚哉さんとの出逢いもそうであった。

 

……今から25年ばかり前、渋谷でオブジェの講座が開設され、講師として喋っていた時があった。受講生は40人ばかりで女性が多い。ある日、そこへふらりと1人の男性が現れた。……成田尚哉さんである。一見寡黙な中に、意志の強さと、なんとも言えない優しさと懐かしさが伝わって来るその独特な気配から、何かをやっている人だなと直感した。訊くと映画のプロデュ―サ―との事。映画の仕事をしながら更に美術の世界に入ってきたその動機に興味が湧き、この日の講座は主に成田さんとの話に終始した。

 

…話題があちこちに飛び、……昔、私が学生の頃に横浜の大倉山にある「精神文化研究所」という建物が放つ怪しい気配に惹かれ見に行くと、白昼のその暗い建物内から、全裸の少年が突然逃げて来るように飛び出して来て私と目が合うと、少年は怯えたように踵を返して裏の梅園に消えて行った。あすこは怪しい……と言うと、成田さんは、強く共鳴し「その場所は僕も知っています」と言う。『1999年の夏休み』という映画を撮った時に、そこでロケをした事があり、連日、怪我人が何故か続出するので撮影を早く切り上げたという。……その映画は観た事があった。女優の深津絵理が「水原里絵」の名前でデビュ―した作品で、不思議な韻と透明さに充ちた記憶に残る映画だった。「そうか、あの作品は成田さんが作っていたのか」。……すぐに気が合い、講座の後で成田さんとお茶をして、それからの親しく永いお付き合いが始まった。

 

……キネマ旬報ベストワンを受賞した『櫻の園』をはじめとして、『海を感じる時』『ヌ―ドの夜』『遠雷』………、日活のロマンポルノから文芸まで、日本の映画史に遺したその実績は幅広く、確かな足跡を刻んで来た成田さんであったが、察するに、映画という集団による表現でなく、あくまでも成田尚哉個人の内に棲まう、もう1つの可能性の引き出しを、人生という一回性において出し切りたいのだという強い思いが伝わって来た。……果たして、講座で彼が作る作品はどれも完成度が高く、既に成田尚哉独自の美意識に充ちていた。

 

しばらくして、私は成田さんはもはや個展をするべき時だと思い、自由が丘、渋谷、そして銀座の画廊を彼に紹介して個展が開催された。更に私は、もっと作品に適した画廊をと思い、下北沢の画廊『スマ―トシップ・ギャラリ―』を紹介した。この画廊の山王康成さんと成田さんは波長が合い、画廊企画での個展が始動した。作品が映える空間を得た成田さんは水を得た魚のように集中して制作するようになり、作品世界は加速的に深化して、もはや美術の分野においても一級のレベルと言っていい高みに達していった。……映画という虚構の世界で構築して来た裏付けが、彼が作り出すコラ―ジュやオブジェの作品に鮮やかに投影され、作品は過剰なバロックの鈍い光と、ロマネスクな透かし視る奇譚の妙味が合わさった独自な世界を立ち上げていった。……しかし、その達成の速度は異常なまでに早く、迫り来る何かを予感していたかのようであった。………………そして、2020年、9月11日、肝臓癌で成田さんは逝った。

 

成田さんの死は、朝日新聞の死去した人を報ずる一面でも写真入りで載り、右側に成田さん、左側にジュリエット・グレコの死去の記事が同じ文量で大きく扱われ、その喪失の重みが新たに浮かび上がった。また『映画芸術』では彼の死を惜しんで特集号「成田尚哉を送る」が組まれた。……「晋書」に「人は棺を蓋うて事定まる」という言葉があるが、それが本当である事をあらためて実感した。…………アトリエで制作をしている時、ふと「あぁ、いま成田さんが来てくれているなぁ」と感じる時がある。このアトリエの中で、私の作品に使う夥しい数の様々な断片や道具、また制作途中の作品を見ながら、「まるでプラハの錬金術師の工房ですね」と笑いながら語り、興味深く見ていた時の姿を今もありありと思い出す。

 

 

今日、私は下北沢で13日から開催される成田さんの遺作展の展示作業に行き、久しぶりに成田さんの作品の数々と再会した。……机の上に並べられた展示前の作品画像。追悼展の案内状に書いた私の成田さんへの思いを、このブログの最後に掲載しよう。……願わくば、このブログを読まれた方が、会期中に一人でも多く画廊に行かれて、作品をご覧になられる事を乞い願うばかりである。

 

 

 

 

永遠に消えない幻を求めて −成田尚哉のために

 

「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」と云ったのは江戸川乱歩であるが、一昨年の九月に逝去した成田尚哉ならば何と云うであろうか。あの含羞と憂いを含んだ優しい微笑を浮かべながら、さしずめ「うつし世も、夜の夢も共に幻・・・・」とでも云いそうな感じがする。しかし、この問いへの答は遂に返っては来ない。

 

映画の分野で数々のヒット作を企画・製作して確かな足跡を残した成田が、人生の後半に至って映画と共に没頭したのはオブジェとコラージュの制作であった。その集中の様は凄まじく、短期間のうちに完成度と深みは高みへと昇華していった。尽きない表現への衝動とイメージの蓄積は既にして濃密に仕込まれており、作品の数々はそのひたすらなる放射と結晶であった。その成田が最後に主題としたのが「天使」であった。天使とは神の使者を指すが、クレーが晩年に挑んだ天使像と同じく、成田にあっては、更なる飛翔への願望、或いは死の予感がそこに在ったかとも思われる。そして彼の天使は、無垢の装いの内にエロティックな煩悩、悪徳の埋み火の残余を残し、クレーがそうであったように堕天使の相を宿して、あたかもそれは成田自身の肖像のようにも想われる。

 

成田がオブジェと並行して挑んだのは、乳色の薄い皮膜に封印したイメージの重なりであった。それは美術の分野に於いて類の無いコラージュの技法で、彼が情熱を注いだ映画のスクリーンにむしろ通じている。リュミエール兄弟以来、映画の作り手は総じて夢想家であると私は思っている。世界が、物語が、目の前の闇にありありと見え、手を伸ばせば掴めそうな万象の映りがそこに在る。しかしそれに触れる事は出来ない。灯りを点ければ万象の映しは全て霧散し、残るのは薄く透けた乳白色の幕だけである。故にその幻は永遠に美しい。成田が生涯を賭して追い求めたのは、その幻の刻印ではなかっただろうか。

 

「うつし世も、夜の夢も共に幻・・・・」。含羞と憂いを含んだ成田尚哉の確かな声が一瞬立ち上がり、やがて幻のように・・・・静かに消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スマートシップ・ギャラリー

 

 

 

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『馬鹿が戦車でやって来る―張りぼてのロシア』

ウクライナに続々と侵攻して来るロシア軍の戦車、またそこに搭乗しているロシア兵の赤ら顔を見ていると、昔、1964年に公開された、ハナ肇主演の松竹映画の或るタイトルを思い出した。その名もズバリ、『馬鹿が戦車でやって来る』。……この映画の場合、戦車は(タンク)と呼ぶが、ロシア軍の戦車もその響きの方が合っている。……すなわち『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』。

 

そのロシア兵達のある映像を観た。……暴行・強姦・殺戮後に戦車の横で、強いウォッカ臭を吐きながら勝利のダンスに興じる兵士達の不気味な姿である。

 

 

 

「汝が母は汝に人を殺せと教えしや」、「汝が母は汝に人を切り裂けと教えしや」、

「汝が母は汝に鬼畜になれと教えしや」。

 

 

……その映像から私は直にゴヤが『聾者の家』と呼んだ自らの家の壁に描いた、『黒い絵』の連作を思い出した。ナポレオン戦争やスペイン内乱の後、人類に対する悲観的なヴィジョンを諦観、絶望の内に描いた普遍の絵画である。ゴヤは実際に悲惨な戦禍の様を目撃し、それを版画集『戦争の惨禍』に生々しく刻み、また最後の版画集『妄』では、人類のもはや処置なしの様を突き放した寓意性を持って表している。そこに表されている様は、しかしスペインだけでなく、日本における「西南の役」でも同様な残酷非道さは記録に残されており、戦争時に顕になるこの狂気は、人類全ての内面が抱える闇の普遍かとも思われる。

 

 

 

 

 

 

また、今のロシアの狂気は、かつての日本が大陸で行った侵略の様と重なっている事を忘れてはならない。満州という張りぼての傀儡国家を演出し、北へ、また南方へと進軍した際に行った侵略の際の惨殺、強姦の様は想像を絶して余りある。……その結果、戦地中国で快楽殺人に目覚めた流浪の男達、……小平事件の小平善雄、また731部隊で人体実験に加わった後の戦後間もなくに帝銀事件を起こした真犯人……等を野に放した。また、旧海軍が京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託した「F研究」には湯川秀樹達、日本精鋭の頭脳も参加していたのである。……そう、日本もアメリカに競るようにして原爆開発を行っていたのである。……歴史は結果論のみ年表の表に記載され、その過程の事実を封印するが、その封印を少しでも覗いてみれば生々しい腐臭がそこからは漂って来るに違いない。

 

中国では国民一人一人を表すのに使う言葉は「単位」であるという。また忠誠を誓わされている国民や兵士達の、個人の尊厳を越えた一律的に似通った顔や表情をする北朝鮮の人々の不気味さ、そして哀れさ。また、国営テレビのプロパガンダ放送のみで髄まで洗脳されてしまったロシアの年寄り達の、画一的なコピ―と化した姿は、かつてのナチスドイツのゲルマン国家主義に染められた様と変わらない。……プロパガンダ、そう、かつての日本もそうであった。

 

 

昨日、漫画家の丸尾末広の『トミノの地獄①』を読んでいたら、面白い頁に出くわした。日清戦争で戦死した陸軍兵士・木口小平(死んでも突撃ラッパを口から放さなかった)の忠誠心を教える為に書かれた戦前の文部省が児童用に出した「尋常小学修身書」の事が描かれていたのである。

 

「キグチコヘイハ/ テキノタマニアタリマシタガ、/シンデモ/ラッパヲ/クチカラ/ハナシマセンデシタ」。子供も読めるカタカナ文字の下には勇敢な木口小平の戦死した姿。……間違いなく弾で射ぬかれ即死した木口小平。その後の死後硬直現象を、死してもなお!に転ずる、このあざといまでのプロパガンダによって、軍国少年達の血潮は、おぉ!とたぎったに違いない。昔の単純さに比べ、今はリアルなフェイク画像が氾濫し、観てばかりいると、こちらのアイデンティティも危険なまでに揺らいで来よう。

 

 

大国が見せる強権は忠誠を誓わせてやまないが、やがてはそれに代わってAI(人工知能)が席巻して、人類から個の尊厳を喪失した無気力な人々が多数を占める時代が来るに違いない。もっともその前にプ―チンの狂いがいや増して、人類は遂に!……の瞬間が来る可能性も多分にある昨今である。……ならば、もっと私達のずっと後に来ると思っていた人類死滅の瞬間に立ち会える好機に自分がいる!!と腹をくくって、最悪の絶望、不条理の極みをも、プラス思考で迎えるに如くはない…か。

 

 

人類最大の叡知の持ち主と評されるダ・ヴィンチは、数多の人体解剖を行った後に手稿にこう記した。「結局、人間は死ぬように出来ている」と。ならば、その有機的な視点を拡めて次のように書く事も出来るであろう。すなわち……「結局、人類は滅びるように出来ている」と。

 

 

 

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