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『「人形の家」奇潭』

その①……

春三月・早いもので、いよいよ桜が満開を迎える頃になった。昼の制作時の集中のせいなのか、夜は床に就くのがかなり早い。寝床ではいつも読書三昧であり、これが実に愉しい。最近読んだ本は坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)。……夏目漱石正岡子規に、著者の坪内氏が加わりながら、初期の漱石が作った俳句百句について各々が自由に意見を述べるという、夢の机上対談である。

 

周知のように、漱石(1867~1916)は森鴎外と共に日本近代文学の頂点に立つ文豪であるが、小説家としてのスタ―トは実は遅く、そのデビュ―作『吾輩は猫である』を書いたのは1905年、実に漱石38歳の時であった。……では、その前は何をしていたかと云うと、親友の正岡子規に作った俳句の添削を仰ぐ熱心な俳人であった。その詠んだ句数はおよそ2000句。しかし子規と比べてみると、漱石の俳句は詰めと捻りに今一つの冴えが無い。

 

子規は一生懸命に添削をして鍛えるが、子規の死後に俳誌「ホトトギス」を継承した高浜虚子などに言わせると、「俳句においては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いてなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった」と書いている。

 

 

〈余談であるが、この高浜虚子という名前。以前から実にいい名前であり、構えに隙が無い城郭のようなものとして私には映っていた。しかしこの度の坪内氏の本を読んで、高浜虚子の本名を知って驚いた。驚きのあまり寝床で読んでいる本が顔に当たりそうになった。その本名とは…………高浜清(きよし)。……禅の悟りの境地のような響きを帯びた虚子(きょし)でなく、身近にもよくいそうな、やさしい響きのきよしなのである。それを知って、文藝の山脈の高みから一気に下りて来て、前川清(ク―ルファイブ)、西川きよし……の列に近づいて来た時は何故か嬉しくなってしまった。(察するに少年時の呼び名はキー坊ででもあったのか?)……この人も頑張って来たんだなぁ、そんな感じである。ちなみに虚子と命名したのは正岡子規。〉

 
しかしこの高浜虚子の存在が、俳人から文豪夏目漱石へと変貌する切っ掛けを作ったのだから、その功績は大きい。……虚子は自らが主宰する俳誌「ホトトギス」に何か書くように漱石に薦めた。そして書いたのが国民的小説『吾輩は猫である』であった。……漱石は以後、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『門』『こころ』『明暗』へ……と一気に文豪への階段を駆け上がっていった事は周知の通り。……そこで私は考えてみた。漱石はなぜ完成度の高い小説を次々と、まるで堰を切ったように書きえたのか?と。…………そしてその才能の開花の伏線に、23歳の時に正岡子規との交友が始まり、以後、子規の死まで2000句にも及ぶ句作の訓練をした事が膨大なイメ―ジの充電に繋がったに違いないと私は思い至ったのである。

 
漱石の最高傑作は『草枕』であるが、それは俳人・与謝蕪村が俳諧で描いて見せた理想郷を小説化したものである。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を書くにあたり蕪村の俳句2000句を詰めて分析し、そのイメ―ジの多彩さ、絢爛さ、その人工美の引き出しの多さに目眩すら覚えた。……漱石がその初期から最も心酔し、影響を受けたのがこの蕪村であった。……俳句とは五七五の17文字の中にイメ―ジを凝縮し、爆発的に放射させる力業の分野である。……漱石は、小説家としての出発以前から既にして、〈夏目漱石〉が準備されていたのであり、その才能の開花に大きく寄与したのが、もう一人の天才正岡子規の存在であった事は言うまでもない。

 

 

 

その② ……

昔、銀座七丁目に『銀巴里』という名の日本初のシャンソン喫茶があった(今はそれが在った事を示す小さな石碑のみが建っている)。……私も美大の学生時に知人に誘われて何度か訪れた事があった。三島由紀夫川端康成等も度々訪れた伝説のシャンソン喫茶である。若き日の美輪明宏金子由香利戸川昌子岸洋子……達が専属歌手として歌っていた。……そのシャンソン喫茶にピアフグレコアズナブ―ル……等のシャンソンの訳詞を書いて現れては、なにがしかの翻訳代を受け取って生活している若者がいた。後年、私も2回ばかり銀座で間近で見かけた事があるが、その若者は、獲物を確実に仕留めるような切れ長の、獣のような鋭い眼をしていた。……後の作詞家、なかにし礼である。……以前から私はこの人が書く詩が放つ〈艶〉に興味があった。そして、その詩法なるものに興味があった。……例えば、この人の初期にあたる作詞に『人形の家』という、弘田三枝子が唄ったヒット曲がある。……

 

 

顔もみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/とても信じられない

愛が消えたいまも/ほこりにまみれた人形みたい

愛されて捨てられて/忘れられた部屋のかたすみ

私はあなたに命をあずけた

 

 

……詩は一見、哀しくも耐える女のそれと映るが、異例の大ヒットのこの曲に、何か直感的に引っ掛かるものがあった。もっとこの詩には底に秘めた何かがあるに違いない、そうずっと思っていた或る日、なかにし礼本人がその底にあるもう一つの意味を、たまたま観ていたテレビで語った時には驚いた。……この詩に登場するのは、天皇と、召集令状が来て南方へと行き戦死した日本兵士だと、氏は告白したのであった。中国の牡丹江から命からがらに逃げて来た僅か10才の少年、なかにし礼の視た人間が獣と化す地獄絵図。………はたして直感は当たっていた。……なかにし礼における作詞のメソッドには、強かな二元論が入っていたのである。

 

それを知ってから、更にその詩法が知りたくなった。指紋のように付いてくるその艶の正体が知りたくなった。……私が出版編集者であったら、その詩法を書いて本にすれば面白い本になる筈、そう思っていた。……先日、制作の合間を縫って横浜の図書館に川本三郎氏の著書『白秋望景』(新書館刊行)を借りに行った。係の人から文芸・詩・俳句のコ―ナにある筈です、と言われ探したがなかなか見つからない。……すると2冊、目に入る本があった。一冊は先述した拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』。この図書館の美術書のコ―ナ―には拙著『モナリザミステリ―』(新潮社刊行)があるが、この本が文芸の俳句の欄に在る事は作者の執筆意図が反映されていて嬉しいものがある。

 

……そして、その本の近くに、願っていた本が川本三郎氏のすぐ横の詩の欄に『作詩の技法』(河出書房新社刊行)―なかにし礼というタイトルで見つかった。氏が亡くなる直前、2020年に刊行した遺作本である。作詞でなく、作詩と書いてあるのが氏の矜持と視た。

早速借りて来て読むと、一作が出来る迄の膨大な迷い、閃き、更なる言葉の変換が書いてあり、美術家としてでなく、私も詩を書く表現者として実に興味があった。……そして、なかにし礼氏の艶なるものが次第に見えて来た。……それはプロの作詞家になる以前の膨大な、およそ2000曲は翻訳して書いたというシャンソンの翻訳作業時代に培われて来た感性の構築が大きく関わっていると私は視た。……シャンソンの詞が孕んでいる愛憎、哀愁、そして洗練された優雅なるエスプリ。氏はそこから多彩な艶を吸収し、掌中に収めていったと私は視たのであった。

 

 

…………最初に書いた夏目漱石の俳句の修行時代に作った俳句、およそ2000句。そしてなかにし礼氏が食べて生きていく為に書いたシャンソンの訳詞数、およそ2000曲。……不思議な数字の符合である。

 

 

……以前に、ダンスの勅使川原三郎氏と公演の後だったか忘れたが、楽屋で雑談をしていた時、氏はこう語った事がある。「我々は10代から20代の半ば頃迄に何を吸収し、自分の糧としたかで、その後の人生は決まって来る。ひたすら吸収した後は、その放射だけである」と。全く同感である事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

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『……それは拷問の話から始まった』

①…………今から思えば、…あれはその場所の「残酷な土地の記憶」というものが多少なりとも響いていたように思われる。……あれ、あの時、つまり前々回のブログで書いた、大寒波の夜に京都.先斗町で、京都精華大教授の生駒泰充さん、そして京都高島屋美術部の福田朋秋さんと一緒におばんざい屋の酒席で語り合っている時に、どういう弾みであったか、話は美術から離れて次第に血の気の多い世界史上における残酷な様々な拷問の話へと移っていった。……その話題へと突き動かしたのは、やはり、私達がその時、語り合っていた場所の土地の記憶の成せる業であったのか?

 

 

…………先斗町、その場所の残酷な土地の記憶。……それは今から158年前の「池田屋事件」に遡る。……河原町四条上ル東(先斗町近く)で古道具屋を商っていた尊皇攘夷の志士、古高俊太郎宅を急襲した新撰組に踏み込まれ、武器弾薬を押収され、諸藩志士と交わした手紙や血判書が押収され、屯所に連行された古高は過酷な拷問を受け、遂にその痛みに耐えきれず口を割り、御所に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうという計画を自白、それが池田屋事件へと発展した事は周知の話であるが、その時の自白へと至らしめる為の拷問が凄かった。新撰組副長・土方歳三の指示で、古高は屯所の二階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられたのである。日本拷問史に残る特筆すべき一例であるといえよう。

 

 

 

 

……また、この先斗町近くは、桂小五郎の愛人・後の妻の幾松寓居(ここにも新撰組が踏み込んでいる)跡があり、佐久間象山大村益次郎、そして坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺現場も近いという血飛沫が飛び交った場所柄、私達の話が自ずと熱くなってしまったのは仕方がない。……拷問の話は西洋の方へと拡がっていったが、突然「北川さん、こんな話は知ってますか?」と生駒さんが面白い中国の拷問の話を切り出してくれた。……拷問と云えば、痛みが伴うものだが、生駒さんが語ってくれた話は違っていた。全く痛みが伴わない「ジワジワ」の話なのである。……生駒さんは語る。「狭い部屋の中に人間を閉じ込める、ただそれだけの話です。しかしこの部屋にはちょっと変わった仕掛けがあって、部屋の四面の壁面に一本に繋がった平行線が引かれています。しかし、その1ヵ所の平行線だけが〈ちょっとだけ〉歪んでいる。……ただそれだけですが、部屋に閉じ込められた人間は、日々の中でその歪みがどうしても眼に入ってしまい、やがて次第に精神に歪みが生じ、常軌を逸して来るという、そういう話です」。

 

……その場では、確かに面白い話の1つを教えてもらったというだけで、話題は別な方に移っていき、やがてお開きとなったのであるが、祇園の宿に帰ってから、先ほど生駒さんが語ってくれた、その歪んだ平行線の話が妙に気になり出し、今やその話は、鉄による立体作品の構想へと発展して来ているのである。元来、私の作品には垂直性と正面性がオブセッションのように食い込んで来ている事もあり、垂直線と平行線の交差した絡みがそこに入り込んで来て私の感性を揺さぶり、日々、時間の合間をみては、狭い部屋に見立てた立方体や直方体を描いて、その一辺に歪みを入れた図面を作っているのであるが、なかなかにこれが面白く、私は今、のめり込んでいるのである。

 

 

②2月最終の1週間は特に慌ただしかった。4月から5月に、私の親しい人達三人の方が続けざまに個展を開催するので、個展案内状に載せる序文の詩や、画廊で展示する為のテクストを頼まれていて、その作品を拝見し、各々の方の作品に寄せる想いを伺ってから文章にしていくという作業をしていたのである。その中の一人、私の後輩としても永いお付き合いをしてもらっている彫刻家の川越三郎君のアトリエに行く為に千葉へと向かった。電車で横浜から二時間で千葉の茂原駅に行き、そこから川越君の車でアトリエに向かうのである。……アトリエといっても彼は石を彫る彫刻家なので、仕事場は外である。このあたりはミケランジェロの時代と何ら変わらない。……広いスペ―スの中に石彫りの未だ途中の作品も幾つか在り、私はこういう生の現場を視るのが好きである。最初訪れたのは昨年の春であった。気軽に訪れたのであったが、なかなか重厚にして深い作品が何点かあるのを視て、私は彼に個展の開催を薦め、それがこの5月に実現の運びとなったのである。……何点か撮影したので、その画像と、私が彼の作品から触発されて書いた詩をここに掲載しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光のプリズムを浴びて
石の豊穣の中に神話学が走る。
打つ、削る、弾く、磨く……………………、

そこに生まれる
メビウスの曲線、スピノザの直線、
或いはカッラ―ラの石化する感情よ。
………………………………

幾何学の深奥にイメ―ジが宿り、
石の表が官能の華と化す。
物語の最終行が
遂には伝説に変わるように。

 

 

 

 

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『歌舞伎とダンス―光と闇の叙述』

今月は2日続けて力の入った公演を観た。先ず11日は、歌舞伎座の二月大歌舞伎.第二部の『女車引』と『船弁慶』。翌12日は荻窪の「アパラタス」での勅使川原三郎佐東利穂子両氏による『月に憑かれたピエロ』である。

 

 

歌舞伎の『女車引』は、七之助雀右衛門魁春による艶やかな舞である。幕が開いた瞬間から目映い光に照らされた花道から三様態の女房たちが舞出て来るのであるが、その次に観た『船弁慶』共々、非現実的な過剰な照明の光が綾なす効果は、舞台を、またその演目の世界を極めて平面的に見せ、「表こそが全て」の、虚構が現実を凌駕する表象のみの人工的、活人画的な芸の空間である。奥行きは約束事としての想像に託され、ひたすら艶やかな華と、一皮剥いだ奥にある狂気が入れ替わりながら一幕、或いは数幕の作話が展開するのである。

 

……過剰な光…と云えば、元々は出雲大社の巫女であった出雲阿国の「かぶき踊り」を祖とするこの芸の照明は、夜は蝋燭の細い光であった。昼は自然光を借り、夜は束ねた蝋燭の光が作話を演出し、それに合った演目が作られていった。……今日のような人工の目映い光に次第に移行したのは明治以降からと聞くが、背景画に描かれた書割(かきわり)のあえてリアルな写実性を排した表現と同じく、嘘っぽさと、その光の過剰さはリンクして、観者の脳内の想像力の中でようやくの実と美が活性を帯びるという、考えてみれば歌舞伎とは、構造の危うさに支えられた特異な芸道と、言えるのかもしれない。

 

 

 

翌日に観た『月に憑かれたピエロ』(シェ―ンベルク作曲・元来の歌詞はフランス語であるが、勅使川原氏はあえて語調の強いドイツ語を採用し、それに佐東さんの柔かな翻訳の語りを加え、聴覚による二重の揺さぶりを演出)は、過剰な光に拠る歌舞伎とは真反対の、計算し尽くされた薄暗い闇の深度が物理的な遠近感を越えて、私達の記憶の遠近法までも揺さぶり、ノスタルジア的な感慨までも立ち上げた魔術的な舞台であった。

 

……私事で恐縮であるが、以前に、詩や批評を扱う『ユリイカ』の編集長から「久生十蘭」の特集号に載せたいので詩を書いてほしいという依頼があり、私はその詩の中に久生十蘭の本質を表す意味で「ダンボ―ルで作られた月」という言葉を入れた事があった。今回の舞台装置で勅使川原氏が作った薄い金属板の月が見せた効果は、久生十蘭のその特異な文学空間を超えるア―ティフィシャルな冴えを呈した巧みな造形性があり、歌舞伎の書割以上の妙味に、私をして歓喜させたのであった。

 

私がその日に観ていたのは表現の形としてはダンスであるが、途中から、この舞台の構造は能のシテ方とワキ方をも取り入れているのでないかと直感した。……デュオを踊り、最終に近い場面で横たわっている佐東利穂子さんがもしワキを演じているならば、最後は立ち上がって去って行くであろう。……そう思って観ていると、はたして最後に佐東さんは立ち上がり奥の暗部へと静かに姿を消し、舞台に一人残って座したシテ方のピエロ、勅使川原氏の指先が虚ろなままに何かを暗示して舞台は完全な闇と化す。……そこで全てが終わりとなる。……この、もしかすると能の構造までも取り入れているのではあるまいか!、という直感は私の唯の独断なのであろうか?……しかし、勅使川原氏の愛する枕頭の書が世阿弥『花伝書』である事を私は思い出していた。……これは私の制作におけるメソッドとも云える持論であるが、表現に際し異なる二元論を導入すると、より重奏的な膨らみが表現に増すという事を私は体験的に知っている。……この場合、『月に憑かれたピエロ』という海外の原典に、日本の夢幻能の構造が二重螺旋のように入り込み、表現空間に量りがたい深みが呈している、と私は視たのであった。

 

このダンスの舞台であるアパラタスが出来てから早くも十年になるという。ご縁があって、私がここに通いはじめてから早八年になる。……その途中から気づいた事があった。氏の舞台を観ていると、その途中からふと、自分の幼年期の記憶が、この巧みに演出された闇の透層の中で突然(しかも毎回、それは場面を変えて)よみがえって来るのである。……懐かしい感情がわき上がるや、それが舞台のその日の演目に加乗して表現空間がいよいよ膨らみを増して来るのである。

 

……幼年期の仕舞われた記憶が突然蘇るのは何も視覚だけとは限らない。聴覚、嗅覚、触覚、更にはふと覚えた微かな気配からも記憶が蘇る時がある。……ボルヘスの言葉に「一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ」というのがあるが、勅使川原氏のダンスとは、それが身体表現として完成して閉じたものではなく、人々の記憶を揺さぶり、ノスタルジアを立ち上げる詩的な装置として、毎回、放射されたものであると考えた方が或いは近いのかもしれない。

……ちなみにアパラタスとは「装置」という意味である。歌舞伎の表の平面性を強調した美学に対し、勅使川原氏のそれは、闇の暗部の彼方に限りない記憶の遠近法を孕んだ詩学であると、或いは言っていいものではないだろうか。

 

 

 

 

…………さぁ、充電の後は自分の制作に向かわねばならない。ダンス公演の翌日は名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんと共に、競作の主題について語り合った。そして、馬場さんと私が共に惹かれ、気になっているヴェネツィアを舞台に、馬場さんは俳句で、そして私は様々な方法を駆使して、追えば逃げ去る「逃げ水」のごとき魔性と謎を帯びたヴェネツィアに迫る事で決まった。……その他にも詩集の執筆、オブジェの制作、画廊での個展、……鉄の表現、他にもやるべき事が春からは山積している。……もうこの辺りで長かったコロナの圧迫感とも意識的に訣別しなければならない。……人生は本当に短いのだから。

 

 

 

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『巴里に命を刻む二人の話』

前回のブログの舞台は京都であったが、今回は一転してパリである。……年末、そして先日に歌人の水原紫苑さんから、パリでの現地詠を含んだ歌集『快楽Keraku』(短歌研究社刊行)と、昨年過ごしたパリ滞在の日々を短歌、写真と共に綴ったエッセイ集『巴里うたものがたり』(春陽堂書店刊行)が送られて来た。……最近、私は森有正の『遠ざかるノ―トル・ダム』を読んだばかりで、今はモンマルトルの坂道を主題にした鉄の立体も作っている折であり、正にパリづくしである。

 

水原さんはわが国の現代短歌の紛れもない第一人者である。30年以上前に比較文化学者で評論家の四方田犬彦氏宅の何かの集まりの時にお会いしたのが始まりと記憶しているので、お付き合いはかなり古い。自宅が近いという事もあり、才ある表現者として身近に感じる存在である。ご本人は柔にして自然体の人であるが、次々と刊行される短歌に綴られた表現世界は、美しい日本語で開示された幻視の領土が拡がり、光と底無しの闇が交差する危うさがある。そして何れの作品もその完成度はきわめて高い。

 

 

「シャルトルの/薔薇窓母と/見まほしを/共に狂女と/なりてかへらむ」

「彫刻と/オブジェのあはひ/ゆく蝶を/ひたにおそれき/ことのは以前」……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何れの作品にも、鋭く研がれたナイフの切っ先のような鋭さと、時に美しい狂気すらある。新刊『巴里うたものがたり』のエッセイの本は、私がかつて1年近く住んでいたパリが舞台なので、実に愉しく懐かしく一気に読んでしまった。水原さんが滞在したホテル・カルチェラタンは、私がいたサン・ジェルマン・デ・プレ界隈にも近く、記憶が重なって、自分が旅人であるような錯覚すら覚えてしまった。……文中、オペラ座に和装で行くのを願うが、狙われる事は必至なので友人に忠告されて断念する下りは、与謝野晶子のパリ滞在(明治45年)、林芙美子がパリに滞在した(昭和六年)時とは隔世の感がある。しかし晶子や芙美子にとってパリが一過性の街であったのと違い、この人は、また3月からパリに行くが、パリでの客死すら厭わない覚悟が透かし見えて来て引き込まれる。……滞在中はソルボンヌに学び、日々のエッセイを書きながら、写真家が被写体を狩るように、又は鋭く呼吸するようにして集中して一気に短歌を詠んでいく。……なるほど、この人はこのようにして歌を詠んでいるのかというのが垣間見えて面白い。

 

先日、私はヴェネツィア行もお薦めしたが、既にそれもこの春からの予定に入っているという。……限り無く美しい日本の言の葉によって紡がれる、西洋の硬く乾いた硬質なマチエ―ルとの対峙がどのようなイメ―ジの化学反応を産んで、更なる深化へと、この人を導いて行くのか見届けたいものである。……以前からの私の願望であるが、ヴェネツィアを舞台にした壮麗な歌集の出現を、水原紫苑女史に期待しているのである。……そして、この度刊行されたこの二冊をぜひ読まれる事を、このブログの読者諸氏にお薦めする次第である。……さて次は、パリで客死した画家・佐伯祐三の話。

 

 

 

……先日、東京ステ―ションギャラリ―で開催中の佐伯祐三展を観た。10代の中学生の時に画集で出会って以来、佐伯祐三は今もって一番好きな画家である。……佐伯の集中力(一点を仕上げるのに要した時間は僅かに30分から2時間)は神憑り的で、しかも完成度も高い。パリに行き、佐伯がフォ―ヴィスムの画家ヴラマンクに油絵の作品を見せた時に、「このアカデミック!」と一蹴され、強いショックを受けたという逸話は有名であるが、実はこの逸話には先に続きがあって、ヴラマンクは「しかし、色彩感覚は良いものを持っている!」と佐伯を誉めているのである。……佐伯の作品を観ると、確かに優れた色彩感覚がそこに視てとれるのと同時に、彼の作品の骨となっているのは、作品の奥に透かし見える幾何学的な秩序感覚の先鋭な才気であり、また硬質さに対するオブセッションとフェティシズムである。

 

佐伯はゴッホに傾倒していた事もあって、その死もゴッホと重ね合わせるように、神経衰弱、肺炎の悪化による自殺未遂、そして狂死という事で、何れの佐伯祐三伝説も同じように書かれているが、しかし、私には以前から引っ掛かっている〈或る事〉があった。それは現存する数葉の写真の中にある。……寒風の中、街頭に出てひたむきに描く佐伯祐三の姿。しかし、その横に佐伯の幼い娘(彌智子)が写っているのであるが、ずいぶん以前から私はそこに違和感を覚えていたのである。……集中して挑むように画布に向かう佐伯祐三。……何故その真剣勝負の時に、気が散る存在の幼い娘がいるのか?

 

 

 

 

……常識的に視て、佐伯が絵に集中する時には常に妻の米子が娘の面倒を見る筈である。……佐伯は午前早くから写生に出て、暗くなるまで描く事に没頭していた筈。……その長い時間、では米子は何処で何をしていたのであろうか……。佐伯祐三の死因については諸説ある。……中には事件性すら思わせる説もあるが、私の推理は、……佐伯がある時を契機にして何かに憑かれたように作画に集中して神経を磨り減らして行くのであるが、それは何もゴッホへの傾斜、自己の完成度への焦り……といった伝説的なものではなく、原因は、もっと身近なパリの日常生活の〈或る時〉にあったと私は視ている。……或る事実を知ってしまった佐伯が、その怒りを他者でなく、自らへ向けた自傷行為の果てに墜ちていった、詰まりは緩慢なる自殺行為の果ての客死であったと私は推理しているのである。……この推理と近いものを、例えば美術史の裏面までも詳しい山田五郎氏(評論家・編集者・コラムニスト)なども考えているように思われる。

 

 

 

荻須高徳

 

 

 

薩摩治郎八

 

薩摩千代

 

里見勝蔵

 

藤田嗣治

 

 

 

……とまれ、これは推理するに足るドラマ性を多分に含んでいるのであるが、そこに登場する人物達の画像をここに掲載するに留めて、ひとまず今回のブログの筆を置く事にしよう。……年表の表に書かれた物語はあくまでも表皮に過ぎない。「事実は小説よりも奇なり」という言葉をここに残して。

 

 

 

佐伯祐三「カフェのテラス」

 

 

佐伯祐三「ガス灯と広告」

 

 

佐伯祐三「広告貼り」

 

 

 

……さて、今月は11日に歌舞伎座の二月大歌舞伎『女車引』と『船弁慶』を観劇予定。……翌12日は荻窪のカラスアパラタスで、勅使川原三郎佐東利穂子両氏による今年初のアップデイトダンス公演『月に憑かれたピエロ』(2月14日迄、公演開催中)、……そして翌13日は、先月の寒波で延期されていた名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんとの打ち合わせで、俳句と私の作品との接点の可能性について語り合って来る予定。……異なる優れたジャンルに積極的に触れる事が、自身の表現に善き展開をもたらして来る。……絶え間無い充電と、制作の日々が今月も続くのである。

 

 

 

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『京七条・油小路に雪が降る』

……あれは今から何年前であったか、パリで知り合った、国際芸術祭BIWAKOビエンナ―レの主催者の中田洋子さんという人から招待作家として出品を依頼された事があったので「いいですよ」と快諾し、その打ち合わせで会場予定の近江八幡に行く事になった。東京の作家4人が新宿で合流し1台の車で向かうわけであるが、その日の夜は、西から数年に1度という大型の台風が直に襲ってくるという最悪の日であった。かなり強い台風なので気にはなったが、「面白いではないか」という事で夜の9時過ぎに出発した。……浜松に近づいた辺りから車が揺れるくらいに嵐が激しく吹き荒れて来た。高速道路の脇から海水の飛沫が飛び散り、なおも行くと、何台かの車が横転したまま打ち捨ててあり、不思議な事に前も後にも先ほどまで見えていた車の姿が全く消え去り、ただ私達を乗せた車だけが、暗闇の中を不気味なくらい静かに走り続けている。あれほど吹き荒れていた風もいつしか止み、外に視る闇は全く静か、車内の4人もみな息を詰めたように無言である。……口火を切ったのは私であった。「ひょっとすると、我々はもう死んでいるのかも知れないね。……さっきの何処かで車が衝突し、今、冥土に向かって我々を乗せた車が静かに走っているのかも知れないねぇ」……その言葉にホッと安堵したのか、皆が一斉に笑った。

 

 

……先日の25、26日は名古屋~京都に行く事で予定が入っていた。25日のお昼に馬場駿吉さん(元名古屋ボストン美術館館長・俳人)と名古屋画廊で待ち合わせをして、画廊の中山真一さんと三人でお話しをしてから夕方に京都に行く予定であった。しかし、24日の夜半に中山さんから連絡があり、10年に1度という豪雪と寒波が明日来るので2月13日に延期しましょうというご提案があった。了解し、私は25日午前に直行で京都に入った。途中の米原辺りから新幹線の外はホワイトアウトで何も見えない。まるで映画「八甲田山」のようであり、京都もさぞやと思ったが、駅に着くと吹雪が去った後で雪は止んでいた。

 

 

 

京都では4人の人に会う予定で約束済みであった。その中のお一人が京都精華大学で教授をしている生駒泰充さん(画家)。生駒さんは旧知の友で、以前に私が『モナリザミステリ―』(新潮社)を刊行した際に、精華大で講演を企画してくれて喋った事がある。ドイツ在住の造形作家.塩田千春など沢山の人材を育てているが、生駒さんの感性と直感力は私と何故か重なるので話題が尽きないのが嬉しい。……10年ぶりに到来した寒波で大学が休校になった為に生駒さんの授業がなくなり、京都駅で私達は早く待ち合わせが叶い、先ずは三十三間堂に一緒に行く事になった。

 

……生駒さんが面白い話を切り出した。アンディ・ウォ―ホルの代表作のマリリン・モンロ―のあの作品の着想は、彼が1956年に来日した際に京都に来て三十三間堂の1001体の千手観音仏像を視たときに閃いたのでは!?という興味深い仮説を語ってくれた時に、私の直感が激しく揺れた

そして頭の中で1001体の(顔の表情が各々微妙に異なる)仏像と、マリリンの顔(しかし意図的な刷りの変化で顔の表情は各々に異なる)が、例えるならば完璧だったアリバイが一気に崩れるようにそれらはピタリと重なった。

 

 

……以前に私が拙著『美の侵犯―蕪村x西洋美術』(求龍堂)の中で見破ったキリコが隠している、あのキリコ絵画の特徴である異なった多焦点が、実は後期ルネサンスの建築家パラディオの作品『オリンピコ劇場』の多焦点の効果と遠近法の崩しから着想している!という着眼法と正に重なったのである。……机上で考えている評論家にはおよそ閃かない、私たち実作者だけに視えて来る舞台裏、現場主義の視線があるのである。私が前回のブログの最後に書いた「過去は常に今よりも新しい」という言葉の真意が正にそこにあるのである。

 

……私達の様々な話題は尽きなく、次に四条木屋町の老舗喫茶「フランソワ」でも熱く語り合い、次にお会いする約束の京都高島屋美術画廊の福田朋秋さん(福田さんは、このブログでも度々登場されている)に生駒さんをご紹介した後、3人で一緒に先斗町のおばんざい老舗『うしのほね』本店に席を移し、福田さんも交えて更に尽きない話の井戸の底へと私達は落ちていった。……先斗町のその店の窓外に見える夜の鴨川がいかにも情緒的であった。……恋人同士ならば柔らかな話の間もあるのだろうが、私達は、今話しておかねば後悔するという感じで様々な話に耽ったのであった。……なので、お二人と別れた後で、祗園一力の隣に予約していた宿に帰った時は、喉が乾いて水ばかり呑んでいた。

 

 

翌26日は3つの目的があった。……先ずは、美術.写真集などを数々出版している青幻舎の編集長、田中壮介さんに久しぶりにお会いする約束が午前10時からあるので、祗園から河原町を歩いて会社のある三条烏丸御池へと向かった。……途中で老舗旅館の俵屋、柊家が目に入ったので、柊家の方の古風な造りを眺めていた。文政元年(1818年)からの老舗であり、文豪川端康成の常宿としても知られている。……ここは文人墨客の店。……逆光で映った私の姿風情にオ―ラでも感じ取ったのか、中から「もしよろしかったら、中へお入りになりませんか?」という柔らかい声が。……では、と言って中へ入り、宿の人と暫く川端康成の逸話などをお聞きしながら時が過ぎていった。…………おっ、こうしてはいけない、田中さんとの約束の時間が……と思い、青幻舎の場所を訊くと、ご丁寧に詳しく書いた地図を渡してくれたのには更に感謝であった。「次回、京都に来た時はお世話になります」と言って旅館を出、目的地へと向かった。

 

 

青幻舎の中で田中さんとお話しをした後で席を移し、近くにある趣のあるカフェで続きのお話しを交わした。田中さんとの会話はいつも話が弾んで面白い。……しかし、私は予定を詰め過ぎていた。……次に会う約束をしている平尾和洋さん(立命館大学教授・建築家)と12時に近くの烏丸御池のカフェで待ち合わせなのである。田中さんとお別れした後で、カフェで平尾さんと10年ぶりくらいの再会。以前は立命館大学の工学部で私がダ・ヴィンチの建築家としての視点から講演をして以来かと思うが、気の合う同士なので、すぐに話は本題に。……しかし、私の京都行の目的がもう1つ残っていた。……京都七条.油小路にある、新撰組伊東甲子太郎ほか数名が暗殺された現場を訪ねる事が残っていたのである。……平尾さんにその話をすると好奇心の強い平尾さん、では一緒に行きますよ!との事。二人でタクシ―に乗り、現場である本光寺へと向かった。

 

現場に着いてみると既に先客の幕末史ファンがいた。若い男性、外人の二人組。……以前は赤穂浪士の忠臣蔵は海外で知られていたが、新撰組もそこそこ知られ始めているのであろうか。とまれ皆さん熱心である。……男性が持っているタブレットを見せてもらうと、伊東暗殺直後に駆けつけた伊東の門下生(かつては新撰組)達が惨殺された詳しい現場跡がわかって、私の興奮はしきりである。

 

伊東甲子太郎は容姿端麗、人望が高く、既にして名士。……元治元年(1864年)に新撰組に加盟する。参謀としていきなり要職に就くが、佐幕派の新撰組と伊東の倒幕の異なる方針をめぐって次第に対立、やがて脱隊して、薩摩藩の支援で東山高台寺の月真院に「御陵衛士」として本拠を置く。この時に新撰組発足以来の藤堂平助ほか多くの隊士が伊東を慕って新撰組から去った。

 

慶応3年(1867年12月13日―旧暦で坂本龍馬が暗殺された3日後。ちなみに伊東は近江屋に潜伏していた龍馬と、同席していた中岡慎太郎に、暗殺の動きがあることを告げて警告をしている)の夜に、伊東は新撰組局長の近藤勇から呼ばれ、近藤の妾宅で接待を受ける。酔った伊東はその帰途は上機嫌であったらしい。伊東は思ったであろう(…そういえば、先ほどの席に近藤はいたが、副長の土方(歳三)はいなかった。…おそらくあの男は私に臆したのであろう。新撰組の屋台も私によってほぼ分裂し瓦解した。…土方、…新撰組を作り上げたあの策士も、もう終わりだな……)

 

……その時、はたして土方は何処にいたか。……伊東甲子太郎が歩いて来る先の暗闇、七条油小路の民家の暗闇にいて、その切れ長の鋭い目を光らせていた。……そして数十名の新撰組もまた民家の陰で息を潜めながら、その時を待っていたのである。……一瞬、闇に光が走り、鋭い槍の切っ先が伊東の首を貫いた瞬間、北辰一刀流の剣客であった伊東の体はくるりと一閃し、自分を突き刺した男を切り下げて、絶命した。「奸賊ばら!」……闇に響いたこれが、伊東の最期の言葉であったという。

 

土方の作戦はこれに止まらず、伊東一派の粛清にあった。寒さで忽ち凍てついた伊東の遺体を路上に放置し、番所の役人を月真院に走らせて、これから遺体を収容しに来る伊東一派を誘い出す囮としたのであった。そして土方の読みどうりの乱闘となって三名が戦死。他は逃げ去り明治まで生き残る。……その乱戦の現場を、その場にいた幕末史ファンの男性のタブレットで知り、私と平尾さんは移動してその場所に立った。……その乱闘の様子を民家の中で秘かに目撃していた老婆の証言が資料として残っていて、私はそれを想いながら、京都行最後の目的を果たしたのであった。……ふと平尾さんを見ると、先ほどから寺の庭に出来ている大きな蜜柑に関心が移っているようである。……冷たい風が吹いて来た。小雪がその風に乗って京都がまた白くなって来た。京七条・油小路に今し雪が舞っている。…………平尾さんと再会を約しながら京都駅前で別れ、私は帰途についたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『兎は何処に跳ねるのか―2023年初春』

……大晦日の夜は、永井荷風の『日和下駄』を読みながら夜の9時半頃に寝床に入り、いつしか眠ってしまった。だから除夜の鐘を聴く事もなく、翌朝に目を醒ましたら、世間が2023年になっていたので、どうも年を越して新年を迎えたという感じが今一つない。むしろ何時もと同じく、地球がただ一回りしたというだけの自然な感じである。……

 

作品の制作は、次の展開に向けて常に始まっているので、年末も新年もない。12月末は、オブジェに使う硝子瓶の上辺を正確に平らにする為に、浅草の吾妻橋を渡った先にある硝子工房の八木原製作所に行き、八木原敏夫さんにお願いして1000度以上の高熱の火で硝子瓶を加工して頂いた。その熱する為の機械(装置)がまた面白く、感心する事しきりである。……八木原さんは医大の医療器具などの精密な硝子製品も含めて幅広く作っておられる超絶な技術の持ち主なので、その仕上がりは見事なものである。……6年前に知人の硝子作家の方から八木原さんをご紹介されて以来、私の中に眠っていた硝子への想いが一気に開いて、今はオブジェの中に、硝子がイメ―ジの変容の為に参入してくる事が多くなって来た。錬金術師の家のような工房の中で毎回交わす八木原さんとの会話から、次のイメ―ジへの閃きが出てくる事も多く、幸運な導きに充ちた八木原さんとの出会いは本当に有り難いものがある。

 

 

昨日(1月10日)は、鉄の作品の打ち合わせの為に、金属加工の超絶な技術を持っておられる田代富蔵さんと日暮里でお会いして二時間ばかりお話をした。田代さんはご自身がオブジェの作品を作って発表しておられファンも多く、私とはイメ―ジで交差する点もあるので、話がいつも具体的である。富蔵さんは昨年の秋からパリの坂道を主題にした連作を制作中で、話を伺っていて煽られたらしく、今、私の頭の中はモンマルトルの坂道を上がり下りしている次第である。

 

……荷風は名作『日和下駄』の中で、「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と書いているが、誠に坂という作りはミステリアスな物語性を多分に秘めて静かに沈黙しているのである。

富蔵さんと、日暮里の御殿坂で別れた後、私はタモリの書いた『タモリのtokyo坂道美学入門』にも登場する富士見坂に行くべく、先ずはその手前にある諏方神社に立ち寄った。

 

 

……この辺りは高村光太郎古今亭しん生靉光幸田露伴北原白秋長谷川利行……等々、文人墨客が数多く住んだエリアで昔日の風情がまだ残っている。諏方神社に入って行くと、ふと気になる物があり、私の目はそこに注がれた。……神霊が依り憑く対象物として神社の至る所に下がっている、白い和紙で出来たあの物である。……今までさほど気にならなかった、あの白い和紙の作り物に何故か目がいったのである。

 

ご存じの方もおありかと思うが、この物は依代(よりしろ)と言い、神道に関する用語で、神霊がそこに寄り着く物を意味するらしい。日本では古代からあらゆる物に神や精霊、魂が宿ると考えられており、依代の最古のものは縄文時代の土偶に始まり、人々はその依代の形(かたしろとも云う)から、信仰と畏怖の念を直感するという。……「様々な物象に神が宿るという点では、以前に私が書いたフェルメ―ル論『デルフトの暗い部屋』(単行本『モナリザミステリ―』に所収』)に登場したスピノザの『エチカ』における汎神論(神は世界に偏在しており、神と自然は一体であるという考え)に或いは近いかと思う。」

 

 

 

私は既存の宗教とは一切無縁の人間であるが、その私をして、この依代なる物の一瞬にして崇高さ、さらには畏怖の念さえ立ち上がらせるこの造形センスの完成度の高さは凄いものが在る!と、その時につくづく感心したのであった。……この造形センスの上手さに比べたら、例えば70年代に流行り病のように美術界を席巻し消え去っていった、あの「コンセプチュアルア―ト」なるものの作家達の造形センスの無さ、更には、その自分の作品の意味付けを(表現力不足を補うかのように)喉を枯らしながら必死で喋っている往時の姿が一瞬過って、忽ち去っていったのであった。……彼らは必死で喋って、なおも何も立ち上がっては来なかった。意味を計り知ろうと真面目に絞る人もいたが、その姿には苦しいものが見てとれた。

 

……しかし、眼前に視る依代は無言にして神聖感を伝えて来る。……この明らかな差。私たち人間の内部に沈潜している、それはアニミズム的な原初性との共振なのか。……縄文時代に既にその造形の原形が出来ていたという話を知って、私は想像した。遥かに遠いその昔、ある人物が依代なる物を作るべく、その形象作りに挑戦している、その姿を。

 

…………現代の美術では、作品に意味付けをせんとして関係項、関係項(意味を解放し、人ともの、もの同士の相互関係を重要視する)とかまびすしいが、例えば、竜安寺の石庭は、遥か昔にそれを無言で現してなおも気品に充ちている。白砂に15個の石を置いて、洋々たる海原に浮かぶ小島を象徴したと云うが、その意味を越えて、私たちの内心と静かに観照し合う力がそこには在る。……何よりも先ずは、視た瞬間に観者の心を鷲掴みにしてしまう超越的な力がそこには在るのである。そして芸術表現とは、そのようなものであらねばならないと私は思っている。……「過去は常に今よりも新しい」…… 私は今、この言葉が一番気に入っているのである。

 

 

 

 

 

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『年末だから石川啄木について語ろうの巻』

①今から7年ばかり前の事、坂道を歩いていたら、一瞬パチッという音がして右膝に痛みが走った。どうやら一瞬捻ったらしい。しまった!と思ったがもう遅い。……運悪く明日は成田を発ち、ベルギ―とパリに、写真撮影とオブジェの材料探しを兼ねた旅に行くという、その前日のアクシデントであった。……ご存知のようにブルュッセルは坂の多い街である。痛みを堪えて歩くのは難儀したが、それなりに収穫の手応えはあった。

 

……以来、膝の痛みを我慢していたが、先日急に痛みが酷くなったので整形外科に行きMRIで膝の断層撮影をおこなった。……診断の結果、3ヶ所に異常が見つかり、〈膝蓋骨軟骨損傷〉〈骨挫傷〉〈内側半月板断裂〉が見つかった。3つの字面を視て、壊れたピノキオになった気分であった。……そして思った。病名や身体の部位というのは、どうしてこんなに痛々しい名前なのであろうかと。半月板などは、まるで老舗の煎餅屋で売っている京風の薄い煎餅のようで、いかにも割れそうではないか。そこで自分なりに楽しい病名を考えた。……〈膝わるさ〉〈骨のおむずがり〉〈骨ぐずり〉……そういう診断が出たら、「まぁ、しょうがないなぁ……」と、よほどメンタルに良いと思ってしまう、この年末である。

 

 

②前回のブログで、世田谷美術館で開催中の藤原新也展の事を書いたらすぐに反響があり、「観て来ました。良かったです」「実にタイムリ―な企画展で写真と言葉の力に圧倒されました」といった意見が多かったが、中にこんな問いのメールがあった。「あの時代、学生運動の騒乱と挫折の反動を受けてインドに行った人の多くが、ブログに登場したTさんのように、無気力な姿となって帰国したのに、なぜ藤原新也さんはそうならなかったのでしょうか?」という問いのメールである。……私はなにも藤原新也氏本人ではないので、そんな事はわからないが、1つだけ、自分も写真を撮っているという経験を踏まえて、ふと想い至る事はあった。

 

……あれは8年ばかり前であるが、1週間ばかり厳寒の冬のヴェネツィアで写真撮影に没頭していた時があった。そして日程をこなして、マルコポ―ロ空港から飛び立った。……すると、遠ざかる眼下のヴェネツィアの街を視ていて、ふと妙な感慨が立ち上がった。「自分は本当に眼下に視るヴェネツィアに、この1週間いたのだろうか?」という妙な感慨が沸き上がったのである。……1週間、ヴェネツィアで過ごしたという実感がまるで無いのである。……そしてその理由がすぐにわかった。普通の旅と違い、撮影が目的の時はカメラが媒体となって被写体を追い求める為に、自分の眼と合わせて、カメラレンズの単眼をも併せ視る為に写真家は自ずと「複眼」となり、被写体という獲物を狩る為の醒めた客観性が入って来るのである。……その点、撮影を目的としない所謂普通の旅は、云わば裸形の剥き出しの感性となり、衝撃も無防備な迄に諸に受けるのである。つまり、写真家は、あくまで攻めの姿勢を持った、視覚における狩人と化すのである。……それに加えて藤原新也氏は海峡ゆずりの太い気質が加味して、六道めぐりのような凄惨な場面をも、経文の声でなぞるようにフィルムに収め得たのではあるまいか、時に阿修羅界の眼で、時に餓鬼界の眼で、……と私は思うのである。

 

 

 

③……12月の冬枯れになると、毎年、神田神保町には救世軍の数人の吹奏楽者が奏でるサ―カスのジンタのような哀愁ある響きが流れ、まるで中原中也が急に背後から現れそうで面白い。「昔と変わってないなぁ」と想い美大の学生だった頃を思い出す。…………その頃は大学よりも、神保町の古本屋巡りに通っていた方が多かった。書店で買った本を持って決まって入るのは趣のある老舗の喫茶店『ラドリオ』であった。……ふと本を読むのをやめて、壁の薄暗い一隅を視ると、そこに額に入った色紙書きの短歌があり、私はそこにいつも眼をやって、二十歳頃の未だ定かではない自分のこの先を思いやった。

 

……「不来方の/お城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心」……作者は石川啄木である。不来方はこずかたと読む。意味は盛岡の事であるが、不来方と書くのが啄木の上手さ。……「盛岡のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」では抒情性もなにも立ち上がっては来ない。不来方の字面と響きから遠い浪漫性が立ち上がり、最後の〈十五の心〉へと体言止めの一気読みが貫いて、私達の内心が揺れるのである。

 

……………啄木の短歌はずっと惹かれているが、今、何故か気になっているのはこの一首、「函館の/青柳町こそ/かなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」である。……安定した職を求めて盛岡から北海道へと流離する啄木を函館に迎えたのはこの地の短歌のグル―プであり、彼らは青柳町に住む場所さえも啄木に与えたのであった。……そのグル―プ達が歓迎の場で興に乗り、啄木に恋歌を披露する者までいた。矢車草は夏の季語。「かなしけれ」は、この場合、「心を強く惹かれる」として使われている。……だから意味は、函館の青柳町にこそ私は今、強く心惹かれている。恋歌まで披露する友もいるではないか。季節は夏、夏の真盛りなのである。……となるが、心惹かれるを〈かなしけれ〉と詠む事で、啄木の個人的体験を離れて、読む私達の内にある切なさを覚える感情が揺らいで、またしても一気に普遍へと一変するのである。

 

……この場合、活きているのが「函館」そしてそれに続く「青柳町」という響き(音・韻)である。函館で、何かが立ち上がり、青柳町という響きで、イメ―ジの舞台が読み手である私達の想像力を動員して鮮やかに、そして哀しく現れるのである。……つまり作品は私達の内で初めて完成するのであり、言葉の効用は、その為の装置なのである。この〈作品は観者や読み手の想像力を揺さぶって人々のイメ―ジを立ち上げる装置である〉という考えは、私自身の創作における考えと重なってくる。……試しに別な言葉を入れ換えてみよう。……「青森の五所川原こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花」。……青森より函館、五所川原より青柳町の響きが格段に佳く、哀しみも立ち上がって来るのである。

 

 

今、私はドナルド・キ―ン氏の『石川啄木』を読んでいるのであるが、この日本語が奏でる響きの美がもたらす効果が、果たして英訳すると、どれくらい伝わるのか、もっと云えば、本当に伝わっているのか?という疑問がどうしても湧いて来てしまうのである。

……特に翻訳が難しいと思うのは、言葉の前後がバッサリと無い俳句や短歌において、外国語という全く改変された音や響きで、意味や抒情の深度は本当に伝わるのであろうか……という疑問が、この年末の私を捕らえているのである。……逆に言えば、例えばランボ―の詩の翻訳が、小林秀雄中原中也堀口大學鈴村和成、……諸氏によって全く違うのも同様である。…………外国語の翻訳が上手い人は、つまりは日本語が上手いということになるが、……そのような事をつらつら思いながら、ドナルド・キ―ン氏の『石川啄木』を読んでいる、年の暮れの私なのである。

 

 

 

 

 

 

④……12月24日のイブの夕方に、実に美麗で重厚な嬉しい献呈本が送られて来た。……この国の短歌の分野を代表する歌人、水原紫苑さんの歌集『快楽Keraku』である。

 

本の表紙はご自身の撮影したパリのサントシャペル教会のステンドグラス。表紙全体から、タイトルの快楽に通じる薔薇の香りが放射するように漂って来るようである。

 

……水原さんは三年前にパリに行く予定であったが、コロナ感染の拡大の為に断念していたのが、ついにパリ行きを決行し、現地で詠んだ短歌を含めた第十歌集の刊行である。この水原さんの歌集については新年の最初のブログで詳しく書こうと思うが、幻視者にして魂の交感を綴る言霊の歌人による歌集を、これから読みこんで行くのが愉しみである。

 

……右に石川啄木歌集、左に水原紫苑歌集を抱えて、どうやら今年の暮れは、除夜の鐘を聴く事になりそうである。

 

 

 

 

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『レンズを持って旅をする男の話 (前回のつづき)』

……線状降水帯が、正に世田谷美術館の真上を通過しているという激しい豪雨の中、館内に入ると、『祈り・藤原新也』展は沢山の観客が詰めかけていたが、観る者をして沈黙へと促すような作品の為か、息をのんだように静かであった。

会場は作者の初期から現在に至る迄の写真作品が、まるで大河の流れのように巧みに構成されており、実に観やすかった。しかし初期の『メメント・モリ』の、記録性を越えた凄惨な写真と、作品中に配された文章の妙が持つ相乗したインパクトは、わけても圧巻であり、藤原新也はここに極まれりという感は、やはり強い。

 

 

 

 

 

ガンジス川の岸辺に転がる、膨らんだ白い死体の硬直した足先を喰らう黒犬、その左に立って虚ろな目を放つ茶色い犬、その足元に立っている烏の姿……。そこに添えられた一行のコピ―文。……「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」。……これを視た瞬間、人々の背筋に走るのは間違いなく冷たい戦慄であろう。しかし、意味を理解してのそれは戦慄ではない。……藤原新也が書いた文章の、意味がわかるようで掴み切れない謎かけの不可解さ故の戦慄であり、ここで使われた「自由」という言葉のあまりの多義性故に、人は戸惑いを覚え、自分の見えない背中の暗い部位を慌てて覗くように揺らぐのである。「自由」そして「正義」という言葉ほど多面性、多義性を帯びた言葉はないであろう。……また、文章の出だしを人間と書かず片仮名のニンゲンにする事によって、次に漢字で書かれた犬の字面がニンゲンより優位に立ち、そこから一気に「食われるほど」と来て、「自由だ。」で、読む人の背筋に揺らぎと戦慄を作り出す。写真と文章が相乗して実に上手い。藤原新也は殺し文句を知っている。…………いま私は、藤原新也の文章の実存的なくぐもった低い呟きと、その体温に近い人物が、確かもう一人いたな……とふと思い、しばらく考えてから、そうだ、自由律俳句の俳人・種田山頭火があるいは近いのではと、閃いたのであった。

 

山頭火の俳句、……「沈み行く夜の底へ底へ時雨落つ」・「いさかえる夫婦に夜蜘蛛さがりけり」・「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」・「松はみな枝垂れて南無観世音」…………は、藤原新也が写真集『メメント・モリ』の作品中に入れた文章とかなり近似値的ではあるまいか。……藤原新也の「ありがたや、一皮残さず、骨の髓まで」・「契り一秒、離別一生。この世は誰もが不如帰(ほととぎす)。」・「人体はあらかじめ仏の象を内包している。」……。藤原新也の写真に、山頭火の俳句をそっとまぎれこませても面白い相乗が立ち上がる、……そんな事をふと想ったりもしたのであった。

 

 

 

とまれ、今回の世田谷美術館の『祈り・藤原新也展』は、ぜひご覧になる事をお薦めしたい必見の展覧会である。写真展であると同時に、視覚による現代の経文に触れるような、深い暗示性と示唆に充ちた内容である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……藤原新也の写真集『メメント・モリ』の中に、私が最も好きな頁がある。全編、死の気配と記録性に充ちた重い内容の中で、その頁だけがフッと息がつけそうな安らぎに充ちたその頁には、車窓から写した山河と農村の建物と畑と光の煌めき……が写っていて、左頁の端に「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過ることがある。」という文章が添えられている。

 

 

 

 

この頁の写真と文章を読んだ時に、すぐに想い浮かんだのは「確かに自分にもそう思う瞬間があった!」という同じ感慨であった。……バルセロナからグラナダへと向かう12時間の長い列車の旅の車窓から視た、或る瞬間の風景、……或いは、ヴェネツィアのジュデッカ運河で視た真夏の花火、または夜半のアドリア海で視た銀色に光る春雷、…………。想いは尽きないが、そのような永遠を想わせる絶体風景を暗箱の中に封印した魔術師のような人物が、今、京橋のギャラリ―椿で個展(12月24日まで)を開催中である。

 

……その人物の名は桑原弘明君。私が最もその才能を高く評価している、超絶技巧の持ち主にして視覚の錬金術師と評していい人物である。……桑原君の作品の緻密さの芯を画像でお見せする事は不可能に近い。0.2㍉、0.5㍉……大きくても僅か数㍉のサイズで作られた室内の木馬や、窓、中世オランダの室内、螺旋階段……といった物が、絶体静寂の韻を帯びて、永遠に停止したままに、精緻に作られた暗箱の中で謎めいた呼吸をし、それを視る人の内心の孤独と豊かな対峙をしているのである。

 

 

 

 

 

 

桑原君が今までで作った作品(scoPe)総数はおよそ160点、最初に作った2点以外は、全てコレクタ―諸氏の所有するところとなっている。その1点の制作に要する時間はおよそ2ヶ月以上。毎日、視神経を酷使する苦行にも似た制作スタイルのそれは、驚異の一語に尽きるものがある。……私も同じく、版画作品の刷った総数はおよそ5000枚以上になるが、全てコレクタ―諸氏や美術館の所有に入り、またオブジェも既に1000点以上を作ったが、アトリエに残っている僅かのオブジェ以外は全てコレクタ―諸氏や美術館の所有するところとなっている。

 

……先日、個展開催中の画廊を訪れ、久しぶりに桑原君と話をしたのであるが、手元に作品がほとんど残っていない事、そして作品が、それを愛してくれる熱心なコレクタ―の人達に大事にされ、その人達の夢想を紡ぐ人生の何物かになっているという事は、表現者として一番幸せな事なのではないか、……そして、私達が亡くなった後の遠い遥かな先において、もはや匿名と化した私達の作品の各々の有り様、そしてそれを視る全く私達の知らない人達の事を考える時、その時が最も夢想の高まる時であるという点で、私達は意見の一致をみたのであった。……桑原君の仕事は凄まじい迄の緻密さであるが、只の細密に堕する事なく、彼はリアリティというものが私達の脳内において初めて結晶化するという事を熟知している点が、彼の作品を他と差別する質の高さに繋がっているのであろうと思われる。

 

……藤原新也という、あくまでも現実に起きる万象に対象を絞りながら、レンズを持って旅をする男。……かたや、桑原弘明君のように錬金術師のごとく密室に隠って、視る事の逸楽や至福をスコ―プ内のレンズを通して立ち上げんとする、あたかも玩具考の如く空想の地を旅する男。……対照的な二人のレンズを持った旅人達の各々の個展であるが、いずれも見応えのある内容ゆえに、このブログでお薦めしたく筆をとった次第である。

 

 

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『12月のMemento-Mori』

①……最近、以前にも増して老人によるアクセルとブレ―キの踏み間違いによる悲惨な事故(年間で約3800件!)が起きていて後を絶たない。私は運転免許が無いので詳しくはわからないが知人に訊くと、アクセルとブレ―キのペダルの形が似ていて位置が近いのだという。それを聞いた時、〈それではまるで、…こまどり姉妹ではないか!!〉私はそう思ったものであった。双子の姉妹のように瓜二つでは駄目だろう。

……せめて、「早春賦」を唄う安田シスタ―ズ(由紀さおり・安田祥子)くらいに見分けがつかないと駄目だろう。……そう思ったものであった。最近、その構造の見直しや改良が行われているというが、本末転倒、車社会になる以前にもっと早くから改良すべき、これは自明の問題であろう。とまれ、私達はいつ暴走車の被害者になるかわからない。毎日がメメント・モリ(死を想え)の時代なのである。

 

 

 

②12月に入り、いきなりの寒波到来であるが、ふと、先月に開催していた個展の事を早くも幻のように思い出すことがある。たくさんの方が来られたので、毎日いろんな話が飛び交った。今日は、その中のある日の事を思い出しながら書いてみよう。

 

……その日の午後に来廊した最初の人は、友人の画家・彌月風太朗君であった。(みつきふたろう)と呼ぶらしいが、些か読みにくい。私は名前を訊いた時に、勝手に(やみつきふうたろう)君と覚えてしまったので、もうなおらない。茫洋とした雰囲気、話し方なので、話していて実にリラックス出来る人(画家)である。彼は、このブログに度々登場する、関東大震災で消滅した謎の高塔「浅草12階―通称・凌雲閣」が縁で、お付き合いが始まった人である。ちなみに彼は私が安価でお分けした凌雲閣の赤煉瓦の貴重な欠片(文化財クラス)を今も大切に持っている。

 

 

(……ふうたろう君は、今、どんな絵を描いていますか?)と訊くと、(今は松旭齊天勝の肖像を描いています)との返事。私も天勝が好きなので嬉しくなって来る。松旭齊天勝、……読者諸兄はご存じだと思うが、明治後~昭和前を生きた稀代の奇術師・魔術の女王。小説『仮面の告白』の中で、三島由紀夫は幼い時に観た天勝の事を書いている。実は個展の前の初夏の頃に、私はプロマイドの老舗・浅草のマルベル堂に行って、松井須磨子と松旭齊天勝のプロマイドを求め店の古い在庫ファイルを開いたが、(お客さん、すみませんが今は栗島すみ子からしかありません)といわれた事があった。…ふうたろう君は(天勝の肖像は来年に完成します)と言い残して帰っていった。

 

 

 

③彌月君の次に来られたのは美学の谷川渥さん。この国における美学の第一人者で、海外でもその評価は高く、私もお付き合いはかなり古い。拙作に関しても、優れたテクストの執筆があり、拙作への鋭い理解者の人である。昨年もロ―マの学会から招聘されてバロックと三島由紀夫についての講演を行い、今回はロ―マで三島由紀夫に関しての彼のテクストが出版されるので、まもなく出発との由。……常に考えているので、突然に何を切り出しても即答で返って来る手応えのある人である。

 

……さっそく、(三島由紀夫のあの事件と自刃の謎について、いろんな人が書いているが、結局一番読むに値するのは澁澤(龍彦)じゃないですか)と私。(いや、もちろん澁澤ですね。澁澤のが一番いい)と谷川氏。(他の人のは、自分の側に引き付けすぎて三島の事を書いている。つまりあえて言えば、自分のレンズで視た三島を卑小な色で染めているだけ)と私。(全く同感、つまり対象との距離の取り方でしょ、そこに尽きますよ)と谷川氏。……今回はこの種の会話が画廊の中で暫く続いた。……そう、澁澤龍彦の才能の最も優れた点は、各々の書く対象に応じた距離の取り方の明晰さに指を折る。……そして谷川さんも私も、三島由紀夫の存在が魔的なまでに、〈視え過ぎる人の謎〉として、ますます大きくなって来ているのである。

 

 

④……その日の夕方に、東京国立近代美術館副館長の大谷省吾さんが画廊に来られた。……以前に書いたが、澁澤龍彦の盟友であった独文学者の種村季弘さんは、私に「60年代について皆が騒ぐが、考える上で本当に面白く、また大事な事は、60年代前の黎明期の闇について考える事、その視点こそが一番大事だよ」と話してくれたが、大谷さんは正にそれを実践している人で、著作『激動期のアヴァンギャルド・シュルレアリスムと日本の絵画―一九二八―一九五三』(国書刊行会)は、その具体的な証しである。昨年に私は大谷さんと画家・靉光の代表作『眼のある風景』(私が密かに近代の呪縛と呼んでいる)について話をし、それまで懐いていたいろいろな疑問や推測について、実証的に教わる事が大きかった。…画廊から帰られる時に、今、近代美術館で開催中の大竹伸朗展の招待券を頂いた。……以前にこのブログで、三岸好太郎の雲の上を翔ぶ蝶の絵と、詩人安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」との関係についての推理を書いたが、収蔵品の質の高さとその数で群を抜いている東京国立近代美術館に行って、また何らかの発見があるのでは……と思い、個展が終了した後に行く事にした。

 

……1階の大竹伸朗展は圧倒的な作品の量に観客達は驚いたようである。描く事、造る事においては、我々表現者に始まりも無ければ終わりも無いのは当たり前(注・ピカソは七割の段階で止める事と言い残している)であるが、こと大竹伸朗においては、日々に直に実感している感覚の覚えかと思われる。……ジェ―ムス・ジョイスから青江三奈、果てはエノケンまで作者の攻めどころは際限がないが、同時代に生まれた私には、ホックニ―ラウシェンバ―グティンゲリー他の様々な表現者のスタイルがリアルに透かし見え、当時の受容の有り様が、今は懐かしささえも帯びて映ったのであった。しかしこの感想は、例えば観客で来ている修学旅行中の中学生達には、また違ったもの、……見た事がない表象、聴いた事がないノイズとしてどう映るのか、その感想を知りたいと思った。

 

……階上に行くと、件の靉光の『眼のある風景』と松本竣介の風景画が並んで展示してあり、また別な壁面には、親交があった浜田知明さんの『初年兵哀歌』があり懐かしかった。……私が今回、興味を持ったのは、ひっそりとした薄暗い壁面のガラスケ―スに展示してあった菱田春草の『四季山水』と題した閑静の気を究めたような見事な絵巻であった。咄嗟に、ライバルであった横山大観の『生々流転』、更には雪舟の『四季山水図』との関係を推理してみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⑤……昔、美大にいた時に、私と同じ剣道部にTがいた。Tは確か染織の専攻だったと記憶するが、演劇の活動もするなど、社交的な明るい人物であった。剣道部でも度々私はTと打ち合ったが、Tの剣さばきには強い力があった。……そのTが夏休みにインドに行くと言って私達の前から姿を消した。……しかし、夏休みが終わり後期が始まってもTは大学に現れなかった。……秋が終る頃に、大学にようやくTの姿があった。私達はTの姿、その顔相、その喋りを視て驚いた。Tは魂が抜けたように一変していたのであった。……ただ喋る言葉は「……虚しい、空しい……」の繰返しで、その眼はまるで生気を失い、虚ろであった。……Tがインドに行って一変した事は間違いないが、そこで何を視て人が変わってしまったのかは、当時の私達には無論わかろう筈がなかった。

 

……Tはまもなく大学を去り、故郷の高松でなく、京都に行った事だけが風の便りに伝わって来た。清水で陶芸をやるらしい……という噂が流れたが、それも根拠がなく、Tは結局、私達の前から姿を消し、今もその行方は誰も知らない。……Tがインドで視たもの、それは、この世と彼の世が地続きである事、つまり地獄とは現世に他ならない事の証を視てしまったのだと私達は推理した。……そして、インドという響きは、あたかも禁忌的な響きを帯びて私達は語るようになった。未だ視ていない国、しかし、そこに行っては危うい国、私達の生の果てまでも視てしまう国……として。

 

…………1983年に写真家・藤原新也の写真集『メメント・モリ』が刊行された時は、大きな衝撃であった。そして、その写真を通して、私はTが一変したその背景をようやく、そして生々しく知る事になった。………………個展が終わって間もない或る日、世田谷美術館から招待状が届いた。『祈り・藤原新也』展である。……私が美術館に行ったその日は、まもなく激しい豪雨になりそうな、そんな不穏な日であった。……(次回に続く)

 

 

 

 

 

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『晩秋に書くエトセトラ』

……11月中旬はコロナ感染者の急増に加え、寒暖が入れ変わる日が続き、人はみな心身ともに疲れる毎日であったが、下旬になってそれらが少し落ち着いてきたようである。

……家路へと続く石畳や、庭の光が障子を通して白壁に映す綾な模様には風情さえ感じられ、今、季節はひとときの寂聴の韻に充ちている。

 

……内覧会のご招待状を頂いていたが、自分の個展と重なったために行けなかった展覧会が二つあった。DIC川村記念美術館の『マン・レイのオブジェ』展と、ア―ティゾン美術館の『パリ・オペラ座―響き合う芸術の殿堂』である。……個展が終わり、ようやく時間が取れたので出掛ける事にした。今回のマン・レイ展は、オブジェをメインにした展示である。マン・レイは写真、絵画、オブジェ…と表現者として幅が広いが、写真が圧倒的に評価が高いのに比べ、オブジェの評価はいささか落ちるものがある。数少ない友人の一人であったマルセル・デュシャンはマン・レイの機知に富んだ諧謔精神の良き理解者であったが、それを直に映した彼のオブジェはいわゆる美のカノン的なものから逸脱するものが多分にあり、故に難しい。私見であるが、マン・レイのオブジェの中で最も優れている作品は何か?と訊かれたら、私はア―ティゾン美術館が収蔵している天球儀をモチ―フとしたオブジェであると即答するが、はたしてそのオブジェも展示されていて、展示会場で群を抜いた光彩を放っていた。

 

 

 

 

マン・レイの会場を出ると、別室でジョゼフ・コ―ネルの作品が一点新たに収蔵されたのを記念した特別展が開催されていた。……拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊行)の中で書いたコ―ネルの章を読まれた方の多くは、私の書いた内容に戦慄と更なるコ―ネルへの興味を懐いた方が多いと聞くが、確かにコ―ネルは唯のノスタルジアの角度だけでは捕らえられない危うい謎を多分に秘めた人物である。……あれは何年前になるであろうか、ある日、川村美術館の学芸課長の鈴木尊志さんから連絡があり、コ―ネルと私の二人展が企画された事があった。その展覧会の主題が芸術における危うい領域への照射というものであり、打ち合わせの時に私が発した言葉「危うさの角度」に鈴木さんが着目し、展覧会のタイトルに決まった。直後に鈴木さんの勤務先美術館の移動(現・諸橋美術館理事)が俄に決まった為に展覧会は企画の時点で止まったが、実現しておれば別相の角度からのコ―ネルのオブジェや私のオブジェが放つ、ノスタルジアの裏の危うさの相が浮かび上がって、面白い切り口の展覧会になっていた事は間違いない。

 

 

……コ―ネルに関してはもう1つ話がある。今から30年以上前になるが、竹芝の「横田茂ギャラリ―」でジョゼフ・コ―ネル展が開催された事があった。……横田茂氏は日本にコ―ネルを紹介した第一人者で、当時、多くの美術館に入る前のコ―ネルの秀作が数多く展示されていた。私はコラ―ジュ作家の野中ユリさんと連れだってギャラリ―に行き作品を観ていた。……会場の中の一点、カシオペアを主題にした、実にマチエ―ルの美しい作品を観ていた時、ふと(この作品、実にいいなぁ)と思った瞬間があった。すると気が伝わったのか、画廊主の横田さんが現れて、私にその作品の購入を勧められたのであった。価格は確か500万円であったと記憶する。横にいる野中さんは(500万なんて安いわよ!北川君、買いなさいよ)と高い声で気軽に言う。私の知人でコ―ネルのコラ―ジュを300万円で購入した人がいたが、それから比べたら、というよりも、遥かに今、目の前に在るカシオペアの作品はコ―ネルの作品中でも秀作である。…500万円……、清水の舞台からもう少しで飛び降りる気持ちになったが、やはりやめる事にした。……私はルドンジャコメッティヴォルス……といった作品は数多くコレクションしているが、コ―ネルは何故か持つべき作家ではないと直感したのであった。……その後で、コ―ネルの評価は天井知らずに上がり、今、メディチ家の少年をモチ―フにした代表作のオブジェは6億円以上に高騰しており、察するに私が500万円での購入を断念した、あのカシオペアの作品は1億以上はなっていると思われる。しかし、それで善かったのである。

 

 

……ア―ティゾン美術館の展覧会はオペラ座の豪奢な歴史を表・裏の両面から体感できる凝った展示であった。しかし私が特に惹かれたのはマルセル・プル―ストの『失われた時を求めて』の第三篇「ゲルマントのほう」の直筆原稿が観れた事であった。……銅版画で私はプル―ストのイメ―ジが紡がれる過程を視覚化した作品を作っているので、その原稿に修正の線が引かれた箇所を視た時はむしょうに嬉しかった。

……ドガのバレエを主題にした油彩画の筆さばきにはその才をあらためて確認したが、マティスの風景画『コリウ―ル』に視る色彩の魔術的な様は、特に私の気を惹いた。「豪奢.静謐.逸楽」はマティスの美に対する信条であるが、私がマティスから受けた影響の最たるものは、この言葉であり、私はその言葉を自分が作品を作る際に課している。……それに常なる完成度の高さと、微量の毒を帯びた危うさ、……これが私が自身の作品に注いでいる全てである。……更に加えれば、表現者たる者としての精神の貴族性、それが加わるであろうか。美術館の別なコ―ナ―では、デュシャンのグリーンボックスやコ―ネルの函の作品が展示されていて、密度の濃い展覧会になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、まもなく12月である。高島屋の個展が終わってまだ間もないが、早くも私は次なる表現に向けて加速的に動き出している。オブジェの制作に加えて、新たな鉄の表現、全く別な文脈から立ち上がった新たなオブジェの表現、……加えて、第二詩集の執筆、……等々。今年の冬はいつもよりも熱くなりそうである。

 

 

 

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