月別アーカイブ: 10月 2015

『個展 — 美術画廊Xにて』

28日から日本橋高島屋での個展が始まり、連日たくさんの方々が会場に見に来られている。あの暑い夏の日々をはさんだ4ヶ月間の制作の日々。今、想い起こせば夢の中にいたような気分である。現実を離れて「虚構」と「美」を紡いでいたそれらの日々、私は自分の幼年期の遠い時間の中に存在していた、実在した森の中に分け入って作品を作り出してきたように思われる。今回の個展では通常の4倍以上のオブジェを制作し、来場された方々から「美術館レベルの内容」あるいは「圧巻」といった評を頂き、今ようやく、作り終えた事の手応えを覚えている。

 

アトリエの中に先日まで在った数々のオブジェやコラージュ作品は全て個展会場へと移り、室内の空気がようやく軽くなった。……ふと思うのだが、私が長年作り出して来た版画・諸作(その数七千点以上)、そして三百点以上のオブジェ、また八百点以上のコラージュはもはや全てアトリエには無く、コレクターの人達のコレクションに入ってしまっている。手元に作品が全く残っていないという事は、作り出して来た作品への最大の批評であり、その意味でも私は作り手として、充分に幸福な表現者であるといえるであろう。確かな眼を持っているコレクターの人達に支えられながら、今、私の新たな個展は始まったばかりである。

 

 

 

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『個展近づく!!』

今月の28日(水)から11月16日(月)まで、日本橋高島屋の美術画廊Xで開催される個展が近づき、今制作は最後の追い込み段階に入っている。今年で連続七回目になる。

 

今回の個展は今までと違い、オブジェが中心となっている。オブジェの出品数は今までの個展の約3倍以上の数、40点以上の出品となるが、これだけのオブジェ作品を一堂に展示するのは、画廊の個展としては初めてである。

 

このオブジェに、さらにコラージュの新作38点と版画が加わるので、80点以上の出品数となる。しかし美術画廊Xの空間は通常の画廊のゆうに4倍以上の広さがあるので、これくらいの数は必要であり、ゆえに今、私が立ち上げたいイメージ空間とテーマが、かなりしっかりとした形で立ち上る、理想的な展示空間である。画廊空間は云わば劇場、そして個展は解体する劇なのである。

 

今回の個展の案内状(A4大)にオブジェ作品を見開き二面にわたって載せる為に画像の精度の高さが要求されるので、今回初めて麻布・飯倉にある写真スタヂオで本格的な撮影を行ない、かなりインパクトのあるものが出来上がった。コレクターの方々への実際の案内状の発送は、個展の数日前に届くようにしているが、毎回、案内状は工夫をこらしているので楽しみにされている方が多い。個展は、案内状が届いた瞬間から始まるという考えがあるので、毎回案内状も重要な創作のうちだと私は考えている。個展の詳しい情報はひき続き次回のメッセージに掲載の予定である。

 

午睡の庭-繁茂する蕁麻の緑陰の下で

 

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『ギロチン台』

他人の死に対して「逝去」という文字を使うが、あまり好きな言葉ではない。逝の字の中の、折れるという字がいかにも無念さを代弁しているようで、あまりにも悲しいのである。確かに多くの人々は不本意に死んでいくが、前向きに堂々と死んでいった人物は、では、いないのかと思い考えてみたら一人の名が浮かんだ。勝海舟・高橋泥舟と並んで幕末の三舟と云われた山岡鉄舟である。

 

鉄舟はその死に臨んで、床の上で座禅を組みながら天界と自らの合一を計り、悠悠として死に臨み、そして死んでいったという。亡くなる数刻前に勝海舟が訪れたが、二言三言交わしただけのあっさりとした別れだったという。勝も禅で鍛えた人物だけに、お互いに既に〈わかり合った〉最後の訪問だったと思われる。

 

話は少し変わるが、或る年に私の友人・知人が4人も続けざまに亡くなったが、あろう事か、全員が自殺だったのには驚いた。何か自分のせいではないかと思ったほどである。その中の一人は鉄道自殺であった。・・・・ 飛び込む時の気持ちとは ・・・・果たしてどんなものなのか!? 一瞬後に肉体はズタズタになるが、それへの怖れはないのだろうか ・・・・? 私はその友人の死の動機らしき話をいろいろと聞き集め、だいたいの心理らしきものが見えて来たところで、最後のその友人の気持ちに自分を重ねようという想いが強くなって来た。そして飛び込んだという場所に立ち、その人に極力なりきるごとく気分を集中し、やって来る列車を待った。まさに役者がその人になりきるように私は極力その人になり、・・・・やって来る列車を待った。そして、まさに飛び込むというこの一瞬という時に不思議な感覚に私は包まれた。自分であった肉体への未練は全く無く、ゆえに痛さへの恐怖も全く無く、唯ひたすら、自分の肉体から抜け出したいというその想いだけが自分を領した瞬間、不思議な現象が起きた。列車の最前部の上をまるで蛍火のような幽けき私の「気」と思われるものが、スウーッと肉体から離脱して飛び、フッと消え去るのを、もう一人の私の醒めた部分が目撃したのであった。「これか!!」何となく私は、わかったような感覚を掴んでいた。ともかく一刻も早く肉体から抜け出したいという「気」。これこそが自分の本体なのだと思ったのであった。しかし、それにしても、側で見ていた人達は、私を見て、ちょっと要注意すべき気配を感じ取っていたのかもしれないが。

 

何でも体験してみたいという好奇心は強い方と思われるが、今から思うと、かなり危ない体験をした事があった。・・・・それはベルギーの古都ブルージュにおいてであった。画家のクノップフの世界を求めて、この北のヴェネツィアと云われた水都に一週間ばかり滞在していた折、或る日、私は博物館を訪れた。この都市の歴史を表す陳列室を次々と巡り、或る部屋に本物のギロチンが展示してあるのに目が止まった。汚れたヒモをピンと張ったままに、重いズッシリとした刃は、まさにストンと落ちる状態である。それを見ていた私は次第に興奮し、もはや好奇心は抑え難いものとなっていった。今のように監視カメラなど無く、館内はその時、私以外は無人であった。「・・・・ 今しかない!!」私は台の上によじ登って、多くの処刑人が散った板の丸みに首をくぐらせ、体をひねって上を見た。何人もの血を吸ってきた巨大な鉄の刃が、上からじっと私を見据えている。もし何かの振動で、この古いヒモが切れれば、私の首は、今まさにここに落ちる。好奇心の結果の「ブルージュに死す!!」である。しばらくの間、マリー・アントワネットの気分でいたが、幸か不幸かヒモは切れず、私は今も生きている。いろんな体験をした人はいるだろうが、ギロチン台に上った馬鹿な人間は、あまりいないのではあるまいか。もしブルージュに行かれて博物館を訪れられたら、ぜひそのギロチン台を見て、思い出して頂ければ何となくありがたいのである。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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