ふと、振り返ってみると、今年はいつになく多忙な1年、怒濤のような1年であった。……2月初旬に、決して目にする事の出来ない筈の遠い過去(明治~大正)の遺構・浅草十二階の煉瓦(想えばタイムスリップのような不思議な時空間の捻れの中に入って)を入手出来た事が、何かの暗示のように今年の幕開けにあり、初春に、ぎゃらり―図南(富山)、画廊香月(東京)と個展が続き、次いで福島の美術館「CCGA現代グラフィックア―トセンタ―」での個展『黒の装置―記憶のディスタンス』展が6月から9月の長期に渡って開催され、重なるようにして、作品集『危うさの角度』が求龍堂から出版され、続いて日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの連続10回目となる大規模な個展『吊り下げられた衣裳哲学』があり、次いで、歴程特別賞の授賞があり、次に本郷の画廊・ギャラリ―884での個展……と続いて、あっという間に12月に入ってしまった。特に5月からは、作品集の校正の日々と、個展の為の制作が重なり、神経の休む間もない集中する日々が続いた。しかし、こだわりに徹した成果として、個展はいづれも反響が大きく、また作品集も好評で、最近では、台湾の美術書を商う書店でも販売されている由。……美術は容易に国を越境する力があるので、美術書の老舗・求龍堂の更なる奮起を、引き続き願うのみである。
……さて来年は、3年ぶりに鹿児島の画廊レトロフトでの個展開催も決まったので、都合5回の個展が既に2019年内に予定されており、加えて、ギャラリ―サンカイビの企画で、イタリアの写真家―セルジオ・マリア・カラト―ニさんとの二人展の話もあり、イメ―ジと体力のかなりな放射の年になるかと思われる。……そのためには今は暫しの刺激的な充電の時であるが、それに最高に相応しいものとして、以前から楽しみにしていた勅使川原三郎氏のダンス公演『黒旗 中原中也』を観に荻窪のカラス・アパラタスへと向かった。拝見した結論から云えば、私は酩酊、感嘆の興に強度に酔ったのであった。勅使川原氏は今月初旬に東京芸術劇場で佐東利穂子さんとのデュオを含めた2作構成で、シェ―ンベルク作曲、アルベ―ル・ジロ―の詩に基づく『月に憑かれたピエロ』を、そして『ロスト・イン・ダンス―抒情組曲』(これは佐東さんのソロ)を、音楽と歌唱と対峙するようにして熱演したばかりであるが、日を置かずして、もう新たなる作品創作に取り組み、一転して中原中也のかつてない像を鮮やかに立ち上げたのである。「人間である以前に、先ず何よりも詩人であった中原中也」、ささくれたように挑発的であった中原の、御しがたい言行ばかりが周囲の関わった人によって殊更に伝わっているが、中原の詩の見事な構成力と、その幻視者としての眼差しが産んだ表現の高みを第一に評価して創作された、今回の新作。……闇の中にありありと浮かぶ中原中也の幻像のリアルさ。玄妙な域に達した照明と音楽、そして勅使川原氏自身の朗読という肉声の生々しい相乗が産んだ、1時間という時の器の中に刻印された中原の幻像は、二重写しと化した勅使川原氏自身の肖像のようにも思われる。私は拙著『美の侵犯』の中のMAX-ERNSTについて記した章の中で、勅使川原三郎氏の事を「……私はこの天才が紡ぎ出す巧みな作劇法……」と書き、天才という言葉をなんら躊躇なく使っているが、この断定に狂いはなく、今は更に確信を深めている。美という感性の危険水域、その美の近似値に息を潜めてうずくまっているのは華麗なる毒と狂気であり、それを刈り込む事が出来るのは、過剰な才能を持った選ばれし人だけであり、天才とは、その過剰な才能をもって生きる事を宿命付けられた者の謂であると、ひとまず定義付ければ、勅使川原氏も中原中也もそこに重なって来よう。
……想えば、中原中也の詩は、私の若年時の神経の高ぶりと苛立ちと焦り……を冷やす鎮静剤のようなものであったかも知れないと、今にして漸く思う事がある。プロの表現者としてスタ―トする前は、私もまた一匹のささくれた獣のようなものであった。後に自死を選ばれた美術評論家の坂崎乙郎氏は23才時の私の版画を評して「神経が鋭すぎて、このままではあなた自身が到底持たない」と諭すように語り、坂崎氏を評価していた私は、坂崎氏に会った日の帰途の新宿の雑踏の中で、自分の感性を「短距離」から「長距離ランナー」へと自らの意志で強引に切り換えた。また、池田満寿夫氏は「君は生な神経が表に出過ぎている」と、危ぶんだ。……そのような時に読んだ中也の詩は、前回のメッセ―ジで記したランボ―と同じく、私の苛立つ神経をとりあえずは鎮め、結局は更に揺さぶる、そのような存在、詰まりは自身を映す鏡であった。……その頃、『文藝読本』に載っていた中原中也晩年(享年30才)の家が見たくて、北鎌倉の寿福寺を訪れた事があったが、境内の奥深く、鎌倉扇ヶ谷に、まだそのままに残って建っていたのには驚いた。……今は壊されて現存しないが、その家は小暗いまま、巨大な岩陰に押し潰されそうなままに小さく建っていたのが消えない遠い記憶の中にありありと今も在る。
……最近の私の関心は、先月に開催した本郷の画廊での個展の事もあってか、本郷の菊坂から西片町辺りに住んで明治を生きた人物……樋口一葉、石川啄木、そして、場所は少し外れるが、森鴎外に集中している。日がな、一葉の日記を丹念に読み、御しがたい衝動に吠える啄木の短歌を読み、そこに登場する、例えば浅草十二階の事などに想いが馳せていく、この12月の年の瀬の日々である。その一葉関連の研究書の中に、森鴎外が作った「東京方眼図」(春陽堂から明治40年に刊行)なる、妙な物が出ていて、ふと私の気を引いた。……ずいぶん以前になるが、逗子で流し素麺を一緒に食べた事がある、作家の森まゆみさんの著書『鴎外の坂』の冒頭は、この「東京方眼図」なる物の記述から始まるのであるが、それを見たいと思っていたら、またしても私の神通力が通じたらしく、先日、横浜の古書市で300円という安値で見つける事が出来た。……今の地形と違い、明治40年時の、まだ浅草十二階が、関東大震災で崩れる前の地図であり、十二階の場所とその近くに在った「十二階下」と隠語で呼ばれた、谷崎潤一郎、永井荷風、石川啄木、室生犀星、竹久夢二……等が通い詰めた性の妖しき巣窟の詳しいエリア、また一葉や啄木、宮沢賢治などが、世代を少し隔てて住んでいた具体的な場所、また現在は東京ド―ムであった場所が当時は、陸軍の兵器を保管する巨大な軍事施設であった事などが次々とわかり、地図を眺めていて興味が尽きないのである。そして、この興味の最終の行き先は「森鴎外」という強度にして高次な矛盾を生きた人物へと行き着くのであるが、今は、この強靭な手強い難物に入っていく為の云わば、外堀を埋めている段階なのである。鴎外を通して、現代の我々が見落とし、遂には失って来た物の多々の姿を、透かし視てみたいと思うのである。